2011年10月30日日曜日

川端康成 vs RKナラヤン

 10月29日、心地よい秋の土曜日の午後、鎌倉で、米国の著名な日本文学研究者ドナルド・キーンの講演会が開かれ、顔を出してみた。 キーンの著作など読んだこともなし、関心はなかったが、先輩ジャーナリストの高木規矩郎がコーディネーターをやるというので行ってみる気になった。 話の内容は、場所が鎌倉ということで、鎌倉にまつわる話題が中心になった。

 その中で、ひとつ興味を引くエピソードがあった。

 いつのことかわからないが、川端康成が存命中のことだから、1972年より以前のことだ。 日本を訪問したインド人の作家が、キーンに日本の作家を紹介して会わせてほしいと頼んだ。 そこでキーンは日本の作家何人かに接触したが、「インドは嫌いだ」とか「インド人と共通の話題はない」といった理由で断られた。

 そして、やっと会えることになったのが、川端だった。 キーンは、さらに、そのインド人作家の名前は、ナラヤンだと言った。 ナラヤンといえば、世界的に有名でノーベル文学賞の呼び声もあったRKナラヤン(1906~2001)だ。
 
 人知れず、川端の自宅で、キーンの通訳によるノーベル賞作家vsノーベル賞候補作家という超豪華対談が行われたのだ。
 
 このエピソードに惹かれたのは、豪華な顔ぶれというだけではない。 川端以外の日本の作家たちが、ナラヤンに会おうとしなかったことが、当時の小説家ばかりでなく、日本人の精神的方向性を如実に示していると思ったからだ。

 作家たちは欧米からの訪問者だったら会ったに違いない。 彼らは”遅れた”アジアなどに、まったく関心がなかったのだと思う。 おそらく、大作家ナラヤンの存在すら知らなかったであろう。

 キーンは、このときの会合について、岡倉天心の名言「アジアはひとつ」は信じないが、二人は言葉が異なっても大いにわかりあうことができたと語った。

 「アジアはひとつ」は、大東亜共栄圏という妄想と野望の背後にあるアジア主義を象徴する言葉だ。 大東亜戦争の破滅的敗北でアジア主義は光を失ったが、それとともに、日本人はアジアへの関心そのものも無くしていった。(現在の韓流ブームやインド人ITエンジニアの急増からすれば大昔のことにも思える)

 キーンの言葉は、取りようによっては、当時の日本人作家の知的関心の偏りに対する大いなる皮肉だ。 いつもニコニコして日本人に口当たりのいい彼の言葉を、こんな風に解釈した聴衆が他にいたかどうかは知らない。
 
 ついでに加えれば、キーンがインド人だったら、日本人が彼を尊敬し、その言葉をありがたがったかどうか、確信は持てない。
 (写真はRKナラヤン)

2011年10月28日金曜日

深刻なのは本当だが、洪水報道は?

 この画像を見てもらおう。 ThaiTravelBlogos.com というサイトの画像。 タイの洪水は首都バンコクを包囲し、10月28日からは、市中心部をも水浸しにしようとしている。 その状況をタイ王国で最も神聖な場所、王宮近くで報じているタイのテレビ局クルーの姿を撮ったものだ。
 このブログによれば、テレビ・クルーたちは、道路が乾いている部分がいくらでもあるのに、その周辺で、最も水の多い場所で現場リポートをやっていた。 確かに、この画像の後ろの方には、乾いた路面の部分がみえる。 このブログが言いたいことは、メディア報道をまともに信じるなよ、ということだ。
 ニュースメディアというものは、状況をわかりやすく伝えるために、多少の誇張をすることを常とする。 それは必ずしも全面否定すべきものではない。 なぜなら、視聴者や読者がその報道を通じて、現状を理解できるなら許されていい(ヤラセ報道は別だ)と思うからだ。 無論、こうした誇張には限度があるべきだ。
 それにしても、このブログの問題提起には考えさせられる。 日本でも、タイの洪水は連日大きく報道され、大変な事態になっていると信じられている。 現地も見て、日本のテレビを見ると、そこにウソがあるわけではないと思う。 ただ、それでも多少の誇張があることは否定できない。
 まあ、情報というものは、昔から同じだったのかもしれない。 現代の問題は、日常生活では絶対に肉眼で見ることがない地球の裏側の出来事まで知っている必要があることだ。

2011年10月25日火曜日

真水の津波がひたひたと忍び寄る

               (多くの住民はまだ逃げていない=ドンムアン地区で)

               (土嚢を積んで洪水に備える=ドンムアン地区で)              
 タイの洪水は徐々に首都バンコクの包囲網を縮めている。 既に水に浸かったバンコク北方の古都アユタヤとパトゥムタニの工業団地では、数千の工場がダメージを受け、日系企業では少なくとも400工場が浸水の被害を受けたとされる。 


 水はゆっくりとだが確実にバンコクへ接近している。 「まるで真水の津波だ」と、あるタイ企業の経営者は言った。 チャオプラヤ川から溢れる水は、津波のような劇的な凶暴性はみせない。 だが、静かに、そっと忍び寄り、シロアリのように国家のインフラを食い尽くす。 結果的には、今年日本を襲った大津波並みの被害を残すのではないかと、タイのメディアや政治家、企業家、専門家は憂慮する。

 今、バンコク中心部でも、洪水の到来に備え、建物の入り口に土嚢が積まれている。 あと1か月もすれば乾季に入る。 果たして洪水はバンコク中心部にたどり着くのか、あるいは、乾季入りで水が引くのか。 まったく予断を許せない。 スーパーやコンビニの棚からは、日本の3・11直後と同じように、ペットボトルの飲料水やトイレットペーパーが消えた。

 とは言え、人々はごく普通に生活しているようにみえる。 中心部から北へ約20km。 旧国際空港のあるドンムアン地区には既に洪水が広がっている。 主要道路でも、深いところでは人の膝まで水に入る。 街にめぐらされた用水路の水位も、もちろん上がったが、多くの魚も入り込んできた。そのせいで、釣り糸を垂らしたり投網を構える人の姿があちこちで見られる。 あっけらかんと洪水を楽しんでいる。

 ゴム長が飛ぶように売れ、小商人はここぞとばかり金儲けをしている。 タイでは当局が土嚢を用意してくれるわけではないから、土嚢売りも今がチャンスだ。 タイの食文化の大きな部分を占める屋台は足が水で濡れるくらいでは、決してめげない。 いつも通りにトリや魚を焼き、バナナを揚げている。

 生活が多少不便になっても、彼らの「マイペンライ」つまり「どうにかなるさ」精神は、こういうときこそ、したたかさを発揮するのかもしれない。

 だが、本当に大丈夫なのだろうか。

 50年ぶりの大洪水というが、50年前のタイでは今回のような経済的打撃はありえなかった。 当時のタイには現在のような近代的工業生産はほとんど存在しなかったし、被害は農業にほぼ限られていたからだ。 タイの経済専門家は、今回の洪水がバンコクに達すれば、被害は少なくとも3000億バーツ(約7500億円)に達し、GNPを3%ほど引き下げると試算している。 

 急速な経済発展で産業構造が一変したタイは国家のかたちが50年前とまったく異なってしまった。 かつて降雨を吸収していた湿地は農耕地になり、森林は切り開かれ町になった。 インフラ整備なしの発展とは、まさに砂上の楼閣だった。 それを”真水の津波”が突き崩そうとしている。 タイが、過去に経験したことのない歴史的出来事に遭遇しているのは間違いない。

 だが、それも、とりあえずは天気次第だ。 タイの専門家たちは、タイの国際的信用を回復するには、長期的視野に立って、洪水に太刀打ちできるインフラ整備に着手すべきだと主張する。 まったく、その通りであろう。 ただ、短期的には、国王と国民が一丸となって乾季が早く到来するよう仏陀に祈るしかないようにもみえる。

 (The Yesterday's Paper タイ洪水取材チーム=バンコク)

2011年10月16日日曜日

笑えるミャンマー



 頑迷に民主化を拒否し、世界から孤立している軍政国家ミャンマー(ビルマ)が、突然、急激な変化の兆しをみせている。 民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーとの会話を深め、民意に反して建設していた中国向け電力供給のためのダム建設を中断し、さらに、10月12日には政治犯を含む6359人の釈放を開始した。 果たして、本気で民主化に着手したのか。 あまりに唐突な動きゆえに、世界は戸惑っている。 

 12日に釈放された政治犯の中で象徴的人物は、ビルマで絶大な人気のあるコメディアン、ザガナーだった。 ザガナーは2008年、ビルマを襲ったサイクロンの甚大な被害への支援活動をしていたときに逮捕され、獄中生活を送っていた。

 ザガナーの釈放は日本でも大きく報道された。 だが、釈放の事実以上のことは伝えられていない。 実は、彼は釈放されるや否や、コメディアンの本領を発揮し、自分の体験をしゃべりまくっているのだ。 その発言を通じて、われわれ外部世界の人間は、ビルマ軍政のなんたるか、呆れるほどの時代錯誤ぶりを、多少なりとも理解することができる。 以下は、ザガナー発言の一部である。

 「ビルマを襲ったサイクロンのビデオを検閲に出さなかったことを罪に問われた。 サイクロンの被害が拡大している真っ最中だ。 『ヘイ、嵐よ、ちょっと待ってくれ。 ビデオを検閲に出してくるから』なんて、言えるわけないだろ」

 「罪状には、インターネットの使用もある。 今や誰でもインターネットを使っている。 しかし、私に判決を下した裁判官はインターネットのことなんか、まるでわかっていなかった。 彼が、反政府側の人物とどこで会話(チャット)をしたのか訊いたので、Meebo(ビルマ語で台所、ウエブサイト名でもある)と答えた。 すると、彼は私がふざけていると思って怒りだした。 私は、Meeboのなんたるかを説明しなければならなかった。 コンピューターの使い方を知らない裁判官が、エレクトロニクス条例インターネット不正使用の罪で私に懲役刑を下した」

 「裁判では、検事がe-mailアドレスを質問したんで、私が、thura61@gmail.comと答えたら、なんと、その検事は、『質問したのはe-mailで、gmailではない !』と怒鳴りだした」

 (ニューデリーを拠点とするビルマ反軍政ウエブサイト<MIZZIMA>より)

2011年10月7日金曜日

”AKC” の提案



 「AKBって、ションベン臭い女の子が群れて、歌ったり踊ったりしているのがあるだろ」

 「オレだって、そのくらい知ってるさ」

 「じゃあ、AKBが何の頭文字がわかるか」

 「バカにすんなよ、アカンベーに決まってるだろ」

 「さすが! オマエは意外と物知りだな」

 「それじゃあ、AKCは知ってるか?」

 「初めて聞いた、赤ちゃん、A・Ka・Chan てのはどうだ?」

 「惜しいけど、違う! AKCってのは、A・ka・Chouchin、赤提灯の頭文字だが、それだけじゃない」

 「なんだよ?」

 「近ごろ、夜の巷ではAKCが新しい通貨単位になりつつあるんだぜ」

 「なんだそりゃ!」

 「1AKCは円換算で、だいたい4000円、つまりノンベエのオヤジが赤提灯で酔っ払ったときの平均的飲み代ってわけだ」

 「なるほど…」

 「例えば、この店はお手ごろでAKC以下だ、寿司屋で飲んで2AKCならまあまあ、っていう使い方だ。 最終電車を逃すとタクシー代は、あっという間に1AKCを超えてしまう」 

 「そうかあ、オレの月収は80万だから200AKC、つまり赤提灯200回分ということだ」

 「ノンベエにはわかりやすい単位だろ」

 「まあな、しかし、AKCなんてのがホントにはやっているのかね?」

 <東京のある赤提灯で耳にしたオヤジたちの会話>

2011年9月9日金曜日

格安ツアーの発見




 新聞に出ていた旅行社の広告で、山口県の萩温泉3泊4日3万円という格安ツアーをみつけた。 東京からの飛行機代も含まれるから、すごい安さだ。 山陰地方には行ったことがなかったので、躊躇なく申し込んだ。 

 羽田から島根県の萩・石見空港に飛び、空港からレンタカーで旅を始めた。 津和野、萩、秋芳洞といったところを4日間でまわった。 東京近辺にはない静かに落ち着いた地域の雰囲気を3万円で味わえたのは儲けものだった。

 ただ、この小旅行で最も印象的だったのは、日本のキリスト教弾圧史の一端を教えてもらったことだった。 こんなことも知らなかったのか、と惨めな気持ちにもさせられたといったところか。

 以下は、津和野の「津和野カトリック教会」に展示されていた資料を書き写したものだ。

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  1 キリスト教が禁止される

 フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリストの福音を伝えてから65年後、キリスト教徒の数は30万人に達していました。 ところが、1614年に徳川幕府初代将軍家康はキリスト教を禁止し、すべての宣教師を国外に追放しました。

 「おまえたちは間違った宗教を教えている。天照大神と天皇が神ではないと言っている。キリスト教は日本の宗教ではない。直ちに日本を去れ。日本人は皆、この邪教を捨てなければならない」

 しかし、神父の中には日本にとどまり、密かに宣教活動を続けた者もいたので、キリスト教はなおも広がり続けました。 「天と地の造り主とその御子イエス・キリストだけが神なのです。決して異国の神ではありません。世界中の人々の神なのです」

  2 恐ろしい迫害

 3代将軍徳川家光(1623~1651)は、キリスト教を日本から消し去ってしまおうと決心しました。 将軍は、ありとあらゆる残酷な拷問によって、何千人ものキリスト教徒を苦しめ、迫害しました。 拷問に耐え切れず、大勢のキリスト教徒が信仰を捨てました。 また、山奥や人里離れたところに身を隠した者もたくさんいました。

 日本はついに1639年に国を閉ざしてしまい、宣教師が入国できなくなりました。日本に入ることも日本から出ることもできなくなったのです。 こうして鎖国時代が始まり、250年間続きました。 日本中の村という村では、キリスト教禁止と、隠れキリシタンをみつけたものには褒美が与えられると書かれた高札が掲げられました。

  3 浦上の隠れキリシタン

 鎖国時代、現在の長崎県の浦上のような小さな村々では、隠れキリシタンたちが、キリストへの信仰を守りとおすために力のかぎりを尽くしました。 聖書も、教会も、ミサもなく、司祭もいないので、それは困難を極める歩みでした。 みつかれば、投獄、拷問、そして死さえ覚悟しなければなりません。

 「神父様がいてくれたら…。ミサにあずかりたい。キリスト様が今、ここに来てくださらないものか」 「神父様はきっとまた来てくださるとも」 「そうだ。最後に来てくださった神父様が約束なさったではないか。いつかまた神父様の来られる日が必ず来ると…」

  4 信仰を育む

 十字架や聖人の絵や像を家に持つことは禁じられました。 キリシタンたちは表向きは阿弥陀観音像を祭りましたが、それをマリア観音と称し、その像の裏に十字架を刻んだりしました。 また密かに集まって、一緒にロザリオの祈りを唱えたりしていました。

 それぞれの村では、信仰を伝えていくための組織ができあがりました。 張方(指導者)は教会暦を伝え、教え方(先生)は祈りや大切な教えを伝え、聞き方(伝令)は各家に教会の祝日や断食の日を伝え、水方は赤子に洗礼をさずけたり、また若い後継者に水方の仕事を伝えていきました。

  5 黒船の到来

 ロシアやアメリカの捕鯨船は、水や食料、燃料を補給するために北海道への寄港を望みましたが、許されていませんでした。 そこでアメリカのペリーは、1854年に海軍を率いて日本に開国を迫りました。 1858年7月にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが通商条約を結ぶためにやってきました。

 「ハリス領事様、幕府はアメリカ船が江戸、大阪、兵庫、新潟、神奈川の港に寄港することを認めます」 「それに加えて、わが国の外交官が江戸に滞在することも認めていただかねばなりません」 「承知しました」 「また外交官とその家族のために、神父が滞在することも認めていただきたい」 「よろしい。しかし日本人にキリスト教を宣教することはなりません」

  6 カトリック教会の建設

 まもなく、英国、ロシア、オランダ、フランスも日本と通商条約を結びました。 このようにして、鎖国時代は終わりを告げました。

 鎖国時代が解かれ、外国人が入国を許されるようになっても、キリスト教は相変わらず禁止され、みつかれば死罪になりました。 江戸時代末にフランスは幕府に、フランス人のために教会を建てることを願い出ました。 許可が下り、1862年横浜に初めてキリスト教の教会が建てられました。 物見高い民衆は、「フランス寺」が建つのを一目見ようと集まってきました。 だが一人として教会に近付こうとしませんでした。

  7 キリシタンの発見

 長崎には1865年、大浦に天主堂が完成し、献堂から1か月たった3月17日、浦上の隠れキリシタンの一団が天主堂を訪れました。 人目をしのぶようにそっとやって来ると、お祈りをしていたプチジャン神父に近付き、たずねました。 「サンタ・マリア様の像はどこ?」 プチジャン神父は、祭壇わきに安置されている聖母マリア像を指さしました。 彼らは互いに顔を見合わせ、あふれるほどの喜びを表しました。

 「本当にサンタ・マリア様じゃ、ほら幼子のイエス様を抱いておられる。 神父様、わたしどもはあなた様と同じ心でございます」 「わたしどもの村に住む者のほとんどもキリシタンでございます」

 これを聞いたプチジャン神父の心は感謝と喜びでいっぱいでした。 250年以上の間、みつかれば死罪になる危険を冒して、信仰を守りとおしたのです。 聖書も神父もミサもない状況の中で、イエス・キリストへの信仰が受け継がれていたのでした。

  8 待ち受ける迫害

 長い鎖国時代を通して、浦上のキリシタンは3度にわたり捜査、迫害を受けました。 1790年、1840年、1856年の3回です。 そのため、宣教師たちはきわめて慎重に行動しました。 しかし、あるキリシタンの女性が亡くなったとき、遺族は仏教による葬儀を拒否し、僧侶を呼びませんでした。 「わたしどもはこれからもお上に忠実に従いますが、今後お寺さんのお世話にはなりません」

 「今後、お寺と関わりたくない者をとりまとめ、名簿を差し出せ」 そこで700名の名簿を差し出したところ、役人の頭は大いに腹を立てましたが、そのときは何の処罰もありませんでした。

  9 浦上に手入れ

 1867年7月14日深夜、突然、300人ほどの警吏が浦上の谷一帯を手入れし、68人のキリシタンが逮捕されました。 結局、83人が投獄され、信仰を捨てさせる目的で厳しい拷問にかけられました。 その1人というのは、年老いた百姓の高木仙右衛門でした。

  「みんな転んだぞ。なぜおまえは意地を張るのだ」 「信心を捨てることは、神様からいただいた魂にとっても、神様に対しても、この上ない不幸を働くことですから、申し訳ありませんが改宗はできません。100人の仲間がいるから強いとか、1人になったから弱くなるということはありません。私1人になっても、本来の心は消えません」 「ならばもう改心せよとは言わぬ。おまえは、たとえ最後の1人となろうとも主人に仕えるという真の武士の魂を持っておる。帰ってもよろしい」

 仙右衛門が帰ると、他の者たちがたずねました。 「よくもあんな厳しい拷問に耐えられたものだな」 仙衛右門は答えました。 「私は自分がそれほど強くないことを知っています。だから聖霊に祈って助けを求めました」

 そこで他の者たちも祈ってから役人のところへ行きました。 「私どもは教えを捨てたことを取り消します。 私どもは今でもキリシタンです」

 「江戸の決定を待て」と言われました。

  10 東京における決定

 264年続いた徳川幕府は力を失い、とうとう1867年11月に最後の将軍が退位しました。 天皇が復権し、1868年1月1日、明治時代が正式に始まりました。 しかし、キリスト教は相変わらず死罪に当たる邪教として禁じられ、さらに多くのキリシタンがみつかりました。 その後は浦上だけでも3000人を超えました。

 「この邪教の信者をどのように扱えばよいのだろうか」 「法律に従って処分すべきだ。死刑にしてしまえ」 「たかが3000人だ。目をつぶってもよいではないか」

 そして、津和野の亀井藩は1つの妥協案を出しました。 「その3000人を少人数に分け、それぞれを各地に分散させてはどうだろうか」 「それは良い考えだ。少人数に分けられ、故郷から遠くへ流されたら、きっと異国の宗教を捨てるにちがいない」

 このようにして浦上の信者3000人は20組に分けられ、各地に送られたのでした。

  11 津和野へ

 高木仙右衛門と守山甚三郎を含む28人のキリシタンは、中国山地の奥深くにある津和野に流されました。 彼らは、使われなくなった寺に閉じ込められ、しつこく説得されました。 亀井藩士盛岡は甚三郎に言いました。

 「われわれは目に見える太陽を拝む。太陽は道を照らし世を明るくする。おまえたちは、なぜ目に見えない神を拝むのだ。そのようなばかげたことをやめ、神道を信じなさい」

 「お役人様、おわかりいただけるかどうかわかりませんが、たとえばあなた様が御用のため遠い田舎につかわされたとしましょう。用を終え帰路につきましたが、日はどっぷりと暮れ、あたりも暗くなってきました。田舎道で3歩先も見えません。1人の百姓があなたの困り果てている様子を見て、明かりをともして言いました。『どうぞこの明かりで道を照らしなさいませ』 明かりのおかげであなたは無事家にたどり着くことができました。さてあなたは明かりを台座に置き、明かりに感謝し、明かりを拝むでしょうか。むしろ明かりを貸してくれた百姓に感謝するのではないでしょうか。あなたは私に道を照らしてくれる太陽を拝めとおっしゃる。しかしわれわれキリスト教徒は太陽を造り、これを大空にすえて世を照らしてくださる神に感謝し、神を拝むのです」

 「牢屋に戻れ。この愚かな百姓め」

  12 水と火の試練

 牢屋がわりのお寺の裏には、深さが1mはある池がありました。 その年の冬は、1か月以上もの間雪が降り続いたので、池には氷が張り、雪が積もっていました。 そんな日に役人の盛岡は、信者の主要人物2人を丸裸にして、氷の張った池に投げ込みました。 寒さにふるえ、息もできずにあえぎながら、仙右衛門と甚三郎は主の祈りを唱え、「主よ、おささげします…」と祈り始めました。 役人たちは冷たい水を彼らに頭から浴びせました。 年長の仙右衛門がいよいよ力を失い、池に沈みそうになると、役人たちは竹の先につけたかぎで髪の毛を引っかけて、2人を池から引き上げました。 そして「おまえたち、さぞ寒かろう」とからかいながら、彼らを火であぶりました。 半死半生の状態で彼らは牢屋に戻されました。

 後に、甚三郎は「あの時の水と火で責められたことほど苦しかったことはない」と書いています。

   13 最初の殉教者、和三郎

  役人たちはキリシタンをいくら説得しても、信仰を捨てさせることができませんでした。 それで彼らはますます強硬な態度で信者たちを責めました。 食料を減らされ、秋が来て、冬が近付いても、夏用の薄手の着物のままでした。 そのため体がどんどん衰弱し、16人が信仰を捨てましたが、他の者は踏み止まりました。 役人たちはさらに残酷な三尺牢という拷問を考えつきました。

 この悪名高い牢屋は、たて横約1mで、正面に格子がはまっている頑丈な作りの箱です。 キリシタンはこの箱に1人ずつ閉じ込められ、雨ざらしのまま寒さと飢えと孤独に耐えなければなりません。 その中に閉じ込められているかぎり、横になることも立ち上がることもできません。 食事は1日におにぎりたった2つです。

 この三尺牢に最初に閉じ込められた1人が27歳の和三郎でした。 彼は20日間閉じ込められ、衰弱して1868年10月9日に亡くなりました。 最初の殉教者になったのです。

  14 安太郎と聖母

 キリシタンの中に30歳になる安太郎という青年がいました。 彼は物静かでしたが、明るく、心の広い人でした。 わずかな食物をほかの人と分かち合い、人のいちばん嫌がる仕事をひきうけたものでした。

 その年の冬、安太郎は三尺牢に入れられました。 2,3日たった日の夜に、仙右衛門と甚三郎はお寺の床を破り、こっそりと抜け出して安太郎の様子をうかがいにやってきました。 「寂しくないか」

 「いいやちっとも寂しくなんかありません。毎晩、真夜中になると美しい婦人が来て、すばらしい話をしてくださいます。青い服を身にまとい、まるで長崎の教会にあるサンタ・マリア様の像のようなおかたです。しかし、このことは私が生きている間は誰にも言わないでください」

 「もしおまえのお母様にお会いすることができれば、何と言えばよいだろうか」

 「この三尺牢は十字架だと思います。母に伝えてください。ここでイエス様のために、またイエス様とともに死ねるのは私にとってこの上ない幸せですと」

 2人は密かに寺に帰り、マリア様が安太郎に現れたことをすぐ皆に伝えました。 皆は、このことを聞いて勇気づけられました。 数日後、雪に埋もれた三尺牢の中で安太郎は死んでいました。

  15 流刑の仲間たち

 1870年、女性と子どもを含む浦上キリシタン最後の一行が各地に送られました。 津和野にはそのうちの125人が送られましたが、その中には甚三郎の父と姉のマツと2人の弟がいました。 後から来た者たちを収容するために仙右衛門と仲間たちは他の場所に移されました。 甚三郎は考えました。 「役人たちは新しく来た者たちに、われわれがキリストへの信仰を捨てたと言うに違いない。彼らが騙されないようにしておかないといけない」 そこで彼は炭を砕いて粉にし、さらに唾でこねて墨を作って書きました。 「われわれはキリストへの信仰を捨ててはいません。皆さんも踏み止まってください」 彼はそれを便所に隠しておきました。

 本当にその通りでした。役人たちは新たに連れてこられた者に言いました。「前に来た者は皆改心したぞ、おまえたちもそうする方が利口だぞ」 それを聞いて彼らは皆動揺しましたが、マツが弟甚三郎の残した書き付けをみつけて皆に告げると、動揺はいっぺんに喜びに変わりました。

  16 新しい作戦

 その年の冬の寒さはことのほか厳しく、飢えのために多くの人が亡くなりました。 3歳の清次郎が明くる1871年1月23日に亡くなり、この年の最初の犠牲者となりました。 11月24日までにはさらに多くの犠牲者が出ました。

 亀井藩士盛岡は、指導者の甚三郎さえ信仰を捨てさせることができれば、あとの者も彼に続くだろうと考えました。 水や火で責め立てても信仰を捨てさせられないとわかると、盛岡は新たな方法を思いつきました。 「彼には14歳の弟祐次郎がいる。弟思いの甚三郎が信仰を捨てるまで祐次郎を苦しめてやろう」

 そこで11月の初めに盛岡は祐次郎を裸にし、道端に立てた十字架にくくりつけました。 村人たちがやって来てからかい、竹の棒でつつきました。 「キリストを捨てろ。このキリシタンのばか者め」 しかし、祐次郎はいつもただ一言答えるだけでした。 「いやです」

  17 祐次郎の試練

 それから盛岡は祐次郎を十字架から降ろさせ、お寺の縁側に座らせました。 服をはぎ、柱に縛りつけ、容赦なく鞭で打ちました。 うめき声と泣き声が祐次郎の口からもれましたが、「キリストを捨てろ」と迫る役人たちに対しては、いつも「いや、捨てません」と答えました。

 まる2週間、祐次郎は飢えと寒さと容赦ない鞭打ちに耐えました。 体はあざだらけになり、死の近いことがわかりました。 盛岡は少年が死んでしまうのではないかと心配になり、後悔の念におそわれました。

 「自分は、はたしてこれで人間だろうか。武士だろうか。幼い子どもをこれほどまでの拷問にかけるとは」

 そこで彼は少年を解放し、姉マツのもとへ返しました。

  18 祐次郎の死

 姉の腕の中で目覚めた祐次郎は、わびて言いました。 「私は臆病者でした。 泣き声をあげるつもりはなかったのだけれど」 「いいんだよ。とてもつらかったんだね」

 「最初はとてもつらかった。でも、8日目に一心に祈っていると、小さなすずめが屋根の上にいるのが見えました。その小さなすずめも泣いていました。そのとき母鳥がやって来てえさを与えました。それを見て思いました。すずめでもわが子の世話をするのであれば、天の父が私の世話をしてくださらないわけがない。マリアさまはきっと私を天国に連れて行ってくださいます。そうとわかってからは、私は泣きませんでした」

 11月26日に祐次郎は亡くなりました。 幼い殉教者でした。

  19 モリちゃん

 子どもたちは外で遊ぶことが許されていました。 ある日のこと、モリちゃんという小さな女の子のお母さんが牢屋の窓からながめていると、体の大きな番人がモリちゃんに近付いて行きました。 番人は手においしそうなお菓子を持っています。

 「こんにちは、名前はなんて言うのかね。年はいくつ」「モリというの。5歳」「お腹がすいているだろう。モリちゃん。おいしいお菓子があるよ。イエス様なんて大嫌いと言えばこれをあげるよ」

 お母さんは、モリちゃんが何と答えるか、はらはらしながら様子をうかがっていました。

 「そんな悪いことは言えないわ。私はイエス様が大好きよ。私は天国へ行きたいの。天国のお菓子はずっとおいしいんだから」 モリちゃんはお菓子の誘惑にまけませんでした。 2,3週間後、飢えのために体が弱って熱を出し、モリちゃんは死んでしまいました。

  20 転んだ人々

 飢えと寒さは次第にキリシタンたちの力を奪っていきました。 まもなく54人が音を上げ、改宗すると申し出ました。 彼らは山から町に降りることを許され、暖かい服と十分な食べ物を与えられました。 しかし、決して心からキリスト教を捨てたわけではありませんでした。 自分の弱さを悔やみ、なんとか償いをしようと思って、たびたび仲間のいるお寺に夜こっそりとご飯を差し入れに行きました。

 迫害が終わるまでに36人が殉教し、54人が少なくとも形の上では教えを捨て、63人が信仰を守り抜きました。

  21 迫害の終わり

 諸外国に日本のキリシタン迫害の様子が広く知られるようになると、外国政府は日本政府に、文明の名において迫害をやめるように圧力をかけました。

 また、日本は鎖国によって250年も欧米に遅れをとっていたので、日本政府は伊藤博文、岩倉具視ら有力政治家をヨーロッパとアメリカに派遣しました。 彼らは行く先々で、キリシタン迫害のゆえに野蛮人とののしられました。 そこで彼らは、「日本の国際的評判は地に落ちています」と書き送り、日本政府に迫害を直ちにやめるように働きかけました。ついに政府は「迫害を中止し、キリシタンを故郷に帰すように」という指令を出しました。

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 東京に戻って、早速、図書館に行って、<日本史小百科「キリシタン」H・チースリク監修、太田淑子編(東京堂出版)>をみつけて読んだ。 浦上のキリシタンについても詳しかった。

2011年8月25日木曜日

カダフィがくれたテレビ


 中東の暴れん坊と呼ばれたリビアの独裁者カダフィの命運も尽きたようだ。 ”アラブの春”の嵐で、堅固と思われていた独裁者たちの政権が、面白いほどあっけなく次々と倒壊している。

 リビアが、まだ国連経済制裁下にあった1990年代前半、カダフィに招待されて30人ほどのエジプト人記者たちとトリポリに行ったことがある(2011年3月6日付け「カダフィは禿げている」参照)。 当時、制裁でリビアは航空機の運行を禁止されていたため、カイロから隣国チュニジアのジェルバ島に飛び、そこから陸路、バスでトリポリに向かった。

 帰路、チュニジアに向かう我々のバスの後ろを大型トラックがずっと追尾していた。 バスの車内では、「あれは一体なんだ」と、記者たちは薄気味悪がった。 トラックはチュニジア国境を越え、空港までついてきた。

 トラックは、我々が乗るチャーター機の横の滑走路に停まり、荷物を降ろし始め、大きなダンボール箱が山積みにされた。 なんと、驚いたことに、これらの荷物は、訪問した記者一人一人へのカダフィからのお土産だという。 そして、その中身に、我々全員があきれてしまった。 メイド・イン・リビアの大型テレビだったのだ(無論、当時のテレビはブラウン管)。

 エジプト人記者の自宅にだって、テレビくらいはある。こんなもの持って帰ったって、どうすりゃいいんだ、と文句を言いたくても、もう遅い。 荷物の機内積み込みは始まっていた。 そもそも、独裁者カダフィに「要らん」と突っ返すなんてことをできたわけもない。

 案の定、カイロ空港の税関では、突然持ち込まれた数十台のテレビでひと悶着になり、通関するのに数時間かかった。

 とはいえ、迷惑ではあったが、この土産には、遠路はるばる来てくれた客への田舎のオジサン風の精一杯の歓待の気持ちを感じた。 独裁者の素朴すぎる側面だ。 西欧的概念である国民国家の最高指導者になっても、それは名目だけで、自分の心意気は伝統的部族社会の長であり、我々にそう振る舞った好意の結果がテレビだったのだと思う。

 語弊を恐れず言えば、「古き良き独裁時代」だった。

 おそらく、これまで君臨してきた中東のたいていの独裁者たちは、自分が悪人などと想像したこともないだろう。 彼らは、慈悲深く国民を庇護する父として、確固たる自信を持って政権を運営し、逆らう人間を躊躇なく殺して秩序を保ってきた。 

 今、中東の民主化運動を支持する姿勢をとっている米国も西欧諸国も、つい最近、「アラブの春」が始まる前までは、こういった訳のわからない独裁者たちの形成する中東秩序を肯定していた。 そこから恩恵を受けていたからだ。

 恩恵の内容は、石油を筆頭とする経済的権益とともに、政治戦略的には、米欧が支えるイスラエルの存在を維持することだ。 中東の独裁者たちは、アラブの土地を略奪して作られたイスラエルという国家を敵とみなしながら、米国に宥めたり脅されたりされているうちに、手も足も出なくなっていた。 だから、秩序が維持されるかぎりは、西欧型民主主義のなんたるかを理解できない独裁者のおつむの中がどうなっていようと、どうでもよかった。

 それでは、民主化運動で独裁政権が倒されると、これまでの中東秩序はどうなるのか。 多分、ほっとけば無秩序になる。

 中東イスラム世界の民衆は、根深い反イスラエル感情を持っている。 そのイスラエルに何も出来ない、あるいは何もしようとしない独裁者への不信感が、民主化運動のひとつのエネルギー源にもなっている。 イラクのかつての独裁者サダム・フセインがアラブ民衆から一定の支持を受けたのは、イスラエルとイスラエルを支える米国と真っ向からぶつかったからだ。

 独裁の重しを取り除けば、剥き出しの反イスラエル感情が噴き出す恐れが現実のものになる。民主化で続々と誕生する新政権が反イスラエル姿勢を強めるのは当然のことだ。 そうなれば、イスラエルの生存そのものが危険に晒されるかもしれない。 

 民主化を支援する米国と西欧諸国が決して見たくない「民主化の悪夢」だ。
 それを目の当たりにすれば、米国も英国もフランスも、そしてムバラクもカダフィも、みんな揃って「古き良き独裁時代」を懐かしむだろう。