2014年8月30日土曜日
はしゃぐ右翼メディア
日本の右翼メディアがはしゃぎまくっている。 朝日新聞が、朝鮮人女性を慰安婦にするため日本軍が強制連行したとする特報記事の重要証言を誤報と認めたためだ。 右翼が目の敵にしている”左翼”、朝日新聞(それほど左翼とは思えないが‥)が、右翼的国家プライドを傷つけていた”誹謗中傷”をついに取り下げたと勝利を祝っているかのようだ。
朝日新聞の報道ぶりに問題があったのは確かだ。 朝日はよくできた質の高い新聞ではあるが、なんとなく上から目線で読者を説教するような態度がちらついて、どうも好きになれない。 そういう個人的好悪の感情があっても、近ごろの右翼メディアによる朝日バッシングの物凄さには、嫌悪感を覚える。
右翼は単に朝日批判をしているのではない。 「従軍慰安婦の強制連行はなかった」という主張の次はなんだろうか。 「日本軍は悪いことをしていない」→「日本軍は正しい」→「朝鮮、中国、東南アジアの侵略は正しい」→「太平洋戦争は正義の戦争だった」→「平和憲法は間違っている」。 従軍慰安婦否定のあとに続く主張は、こんなところであろう。 あるいは、彼らは、この→とは逆に、「平和憲法は間違っている」を出発点に演繹的に「慰安婦否定」へと論理展開していたかもしれない。
一新聞が誤報を認めたことを右翼の勝利と混同してはいけない。 あの悪魔的戦争へと突き進んでいった歴史を決して美化してはいけないのだ。
2014年8月17日日曜日
23年ぶりホーチミン感傷旅行
(夕方のサイゴン川) |
東欧諸国の変動をじっとみつめていたベトナム共産党は、開放政策は導入したものの経済面に限定し、政治の自由化へは踏み込まなかった。 共産党支配維持への脅威になると判断したからだ。 1990年のことだ。
当時のベトナムは世界の最貧国の範疇に入れられてもおかしくない、みすぼらしい経済状態だった。 下級公務員の月給は15ドル程度で、路上での物売りなどを副収入源にしないと生活が成り立たなかった。
ドイモイ政策による経済開放、つまり資本主義的経営の導入が打ち出されても、多くの人はまだ何をしたらいいのかわからなかった。
当時、かつての南ベトナムの首都サイゴン、ホーチミン市は暗い街だった。 灯りが少ないだけではない、人々の心も、うらびれたホテルや商店、市場の雰囲気も暗かった。 ベトナム戦争最後のクライマックス、1975年のサイゴン陥落で、米軍や外国人、共産主義を嫌う多くのベトナム人がこの国から脱出した。 人が去ったあとの物寂しさが、十数年たっても街に漂い、朽ち果てた空き家のような都市だった。
外国人の姿を見ることは、ほとんどなかった。 サイゴン時代、外交官や外国人ジャーナリストの巣だった、サイゴン川に面したマジェスティック・ホテルはクーロン・ホテルと名前を変えていた。 かつて外国人で賑わっていたホテルのバーはがらんとしていた。 カウンターで隣り合わせたドイツ人外交官と、ウイスキーを飲みながら、この国はどうなるのだろうかと、ぼそぼそと会話したのを覚えている。
この翌年、1991年にホーチミン市を訪れたとき、雰囲気がちょっと変化していた。 おそらくドイモイ政策が、ほんの少しだが機能し始めたのだろう。 小さいながらも小奇麗なバーやレストランが開店していて、日本料理屋もできていた。 それでも、古びてくすんだ街のごく一部の変化でしかなかった。
あれから23年たった2014年8月1日。 すっかり変わってしまったホーチミン市を訪れた。
かつて入国ビザ取得に手間取ったのがウソのようだった。 今ではビザなしで入国できる。 薄汚れた空港建物はなくなり、近代的なターミナル・ビルになっていた。 以前は、税関の入国審査があって、到着時にもスーツケースを開けなければならなかった。 ベトナム人たちはスーツケースを開いたところに、良く見えるように5ドル紙幣を置いていた。 税関職員が黙って、それを取ってポケットに入れる。 お目こぼし料だ。 貧しい者同士の憐れな贈収賄だった。
23年前に自転車があふれていた道路は今、バイクの大洪水になっていた。 この眺めはなかなか壮観だ。 しかも、かつて見たことがなかったヘルメットを必ず被っている。 タン・ソン・ニャット空港からホーチミン中心部までの道路は同じだったが、かつては渋滞などなかったのに、バイクとクルマが溢れかえっていた。 周辺の景色もまったく違っていた。 高いビルは皆無だったのに、新しい現代的なビルが並んでいた。
だが、あの優雅なアオザイを着た女たちの姿を見ることはほとんどなかった。たまに見かけるのは、外国人向け高級レストランのウェイトレス、あるいはレンタルのアオザイを着た観光客の女たち。 通りを歩く若い女のファッションに東京との違いはない。 だが、彼女たちには笑顔があった。まちがいなく、23年前にはなかった明るさだ。
中心部のドンコイ通りは、ホーチミンで最も洒落た通りになっていた。 23年前にも、そうなる兆候はあった。 だが、まだ素朴な食堂もあった。 「ハノイ」という名のフォー(ベトナムうどん)の店を覚えている。 フォーと言えばベトナム北部ハノイが有名だ。 日本だったら「讃岐」という名のうどん屋といったところだろう。 だが、そんな店は消えて、外国人や金持ちしか入らないようなレストラン、バー、ビアホール、土産物店が並び、夜も明るい歩道は別世界になっていた。
定宿にしていたレックス・ホテルは以前のままだった。 だが、それはコロニアル風の外観だけで、ドアを開けて踏み込むと広々とした高級ホテルに様変わりしていた。 ホテルの近くにあった中古カメラ街も消えていた。 ベトナム戦争中にジャーナリストたちが戦場で使っていたと思われるライカやニコンが、とんでもない安値で並んでいたものだ。 今では小奇麗なカメラ屋になって、店頭に並んでいるのは最新のデジカメばかり。 それでもショウウィンドウの端に置いてある数台の古いフィルム・カメラを目にした。
この街はすっかり変わってしまった。
昔の友人に会えるかもしれないと訪ねた狭い通りは消滅し、広い通りとビルになっていた。 クーロン・ホテルは昔のマジェスティックに名前を戻していたが、ホテルのバーは店内の配置を変え、昔の雰囲気はなかった。 バーテンダーに、いつ変えたのかと訊いたら、4,5年前から働いているが、ずっと同じだという。 「でも、23年前は違っていた」と言うと、「そんな昔のことを知っている者はいない」と答えた。 まあ、それはそうだろう。
スポーツジムのような建物の中から、激しいリズムの音楽と大きな歓声が聞こえたので入ってみると、若者たちがヒップホップ・ダンスのパフォーマンスに熱中していた。 盛り上がりぶりは、東京の若者たちと、なんら違いはない。 こんな光景を23年前は想像だにできなかった。 彼らの両親はベトナム戦争の戦火から逃げ惑い、祖父は米軍と戦った解放戦線のゲリラ世代なのだ。
旅行者として歩いているかぎり、共産党支配の国という臭いを感じることはない。 たまに国旗と共産党旗を掲げている政府建物を見るくらいだ。 両方とも赤い旗だ。 今のホーチミンは、経済発展が軌道に乗る前の他のASEAN諸国の貧しさと繁栄と猥雑が混じり合った雰囲気に似ていた。
23年前、ベトナム政府の顧問をしている経済学者が内緒話で言った。 ベトナムの経済発展モデルは、ASEANの独裁国家だ。 政治的自由を抑制して安定を維持しながら経済発展を図る。 「開発独裁」モデルである。 想定していたのはインドネシアのスハルト体制だった。 確かに、共産党政権の人間として、こんなことを公に言えるわけがない。
だが、ベトナムはきっと、彼の言った通りの発展をしてきたのだろう。 つまり、普通の国、世界のどこの国ともさして変わりのない国になりつつある。 20世紀の記憶に残る壮絶なドラマ、ベトナム戦争は、遠い遠いかなた。
朝、サイゴン川に面した公園。 若いとき、痩せて精悍な”ベトコン”兵士だったかもしれない60代とおぼしき腹の大きな男が、よたよたとジョギングをしていた。
サイクリングの途中で休んでいた同じような世代の男は、ぴかぴかのロードバイクを公園の樹木に立てかけていた。 英語で、これいくら? と聞いたら、「高くはない。 だいたい1000ドル」と答えた。 23年前、月給15ドルだった公務員の6年半分の値段の自転車に、気軽に乗っているようだった。
2014年7月31日木曜日
喫煙率20%という時代
1970年代、新宿あたりのバー。 若くてカネがなかったので、トリス・ウイスキーを飲んでいたころ、ちょっとくずれた感じの渋い中年男が一人で入ってきて、カウンターの止まり木に座る。 カバンから50本入りのピー缶を取り出し、テーブルに置いて1本引き抜き、ZIPPO のライターで火を点ける。 ピース独特の香しい煙がまわりにも広がるのをゆっくりと待つ。 バーテンダーに注文するのは、それからだ。 落ち着いた低い声で「いつものやつ」。
若造には真似のできない男の重み。 あんな風になりたいなあと憧れながら、1箱20本70円のハイライトを吸っていたっけ。
あのころ、煙草を吸う男の姿にはセックス・アピールがあった。 石原裕次郎や小林旭が、眉と眉のあいだに皺を寄せ、たばこを咥えていれば、カッコいいポーズが決まったものだ。 女だって、そうだ。 たばこを吸っていれば、ただの”家事手伝い”とか”花嫁修行中”ではなくて、なにか深みのある経験を重ねてきた魅力を漂わせるドラマティックな女を演じることができた。
たばこを吸うのは、夢の世界に入ることだった。 ドラッグとは違う。 自分がたばこを吸っているとき、男たちは、石原裕次郎、小林旭、ハンフリー・ボガード、ジョン・ウェインになっていたのだ。
喫煙率がピークだった1966年には、日本人の男のなんと84%が、たばこを吸っていたそうだ。 そう、あのころの男たちは、みんな夢をみるために、自分自身の存在確認をするために、たばこを吸っていた。 手術直後の病人が寝ている病室だろうが、換気装置がまだ働いていなかった地下鉄駅のホームだろうが、偉いさんの前だろうが、とにかく誰もが、どこでも、たばこを吸っていた。
たばこというものは、無作法に、無遠慮に、無節操に、無法者のごとく吸う方が、なぜか旨く感じる。 そして、たばこを吸う誰もが無法者だった。 だから、あのころ、たばこの吸い殻はどこに、どれだけ散らばっていようが、街の光景の一部であって、誰もそれを汚いとは思わなかった。
時代は変わった。 たばこは健康に悪い、街を汚す、これが世間の常識になってしまった。 たばこは、もはや、反体制的ではなく、反社会的な、大気汚染とか性病と同じように嫌悪される対象になってしまった。
たばこを吸う気持ちの良さは、気に食わない世間に対し、”この野郎!”と吸い殻を思い切り投げつけるときの解放感にあった。 今、そんなことはできない。 携帯灰皿をポケットに入れて、ちまちまと火を消さなければならない。 こんな管理されたたばこの吸い方は、あまりにも、惨めではないか。
2014年、喫煙率は20%を切り、男だけでも30%だそうだ。 これは頷ける数字だ。 無頼漢のごとく吸わなければ、たばこの本来の味は味わえないからだ。 まわりの目線を気にして、おとなしく礼儀正しくたばこを吸っても、たばこの味を感じられるはずはない。
もう、たばこはヤメにしよう。 時代が変わったのだ。 酒を飲もうじゃないか。
2014年7月24日木曜日
消費期限切れナゲットの味
経済発展の著しい最近のベトナムでは、日本料理レストランや日本食材を売っているスーパーは当たり前の存在らしい。 だが、ベトナムがよたよたと経済的離陸を開始したばかりの1990年ごろ、バンコクからハノイに行くときは、日本食を渇望している在住の知り合いに日本食の土産を必ず持っていったものだ。
土産と言ってもスーパーのレジ袋ひとつ分程度だったが、その当時、バンコクのドンムアン空港のハノイ行きフライトのチェックイン・カウンターで並んでいるときに見た日本人外交官の荷物は凄い大きさだった。 日本食の詰まった大きな段ボール箱がカートに山積みになっていた。 ハノイからバンコクへの”買い出し出張”の帰りだという。
こんなところで我々の税金が使われているのかと多少ムカッとしたが、不便な土地で頑張っているのだから許せるか、という気もしないではなかった。 それより、こんな大量の食料を傷まないうちに食い尽くせるのだろうか、と余計な心配をしてしまった。
それから何年もたって、エジプトのカイロに住んでいたとき、在留日本人が集中しているザマレク地区にある小さなスーパーによく買い物に行った。 当時のカイロで日本食の材料など、ほとんど売っていなかったが、この店にはあった。 あったと言っても、古びた包装で賞味期限切れの即席ラーメンといったものばかりだったが、それでも、日本の味に飢えた人たちには嬉しい店だった。
いったい、この日本食はどこから仕入れてくるのだろうか? あるとき、店員になにげなく訊いてみて、なるほど、と納得した。 出どころは日本大使館だった。 転勤でカイロを離れる大使館員が残った日本食を売り払っていくのだという。 (この店と大使館供給ルートが今も存在するかどうか知らない)
つまり、かつてバンコク・ドンムアン空港で感じた疑問は正しかった。 日本人外交官たちは、食べきれないほどの日本食を常備しているのだ。
我々民間人は彼らのおこぼれにあずかっていたようだ。 だが、おかげで、胃袋が鍛えられたことには感謝しなければいけない。 あの店で買った賞味期限切れの食品で腹を壊したことなど一度もなかった。 いや、鍛えられたのではなく、賞味期限切れの食品を食べても健康への影響はないと、身をもって学ぶことができたと言うべきだろう。
「賞味期限」を気にしなくなったのは、あの教訓以来だ。 日本のスーパーでは、賞味期限切れ間近で割引になっているものをわざわざ選ぶようになった。
というわけで、「賞味期限」は完全に無視して生活しているが、「消費期限」切れは怖いと思っていた。 「賞味期限」は、美味しさが維持できる期限で、期限が過ぎても味は実際にはほとんど変わらず、食べても問題はない。 だが「消費期限」は、お役所によれば、5日間程度過ぎると急速に品質が悪化する、つまり腐ってしまう食品に表示される。 だから、「消費期限」は無視するわけにはいかない。 とはいえ、自分自身の人体実験では、刺身や生肉は冷蔵庫に保存しておけば、「消費期限」から数日たっても問題はない。 誰にでも勧められるわけではないが。
だが、「消費期限」に関しても、もっと大胆に、もっといい加減に対応してもいいのかもしれないという気がしてきた。
例の、中国の食品加工会社が、日本の「消費期限」にあたる「品質保持期限」を過ぎたチキンナゲット用鶏肉を日本マクドナルド、ファミリーマートに納入していたことが暴露された騒ぎのせいだ。
報道によれば、厚生労働省の調べで、この会社から1年間に約6000トンの鶏肉製品が日本に輸入されたが、これまで健康被害の報告はない。
これは何を意味するのか。 6000トンのすべてが「消費期限」切れではなかったろうが、多少混ざっていたとすれば、多少なら問題はないということだろう。 マクドナルドやファミリーマートで売っているジャンクフードなど食わない方がいいに決まっている。 それとこれとは別問題だが、この騒ぎは、「消費期限」の定義を問い直しているのではないか。 実際、「消費期限」切れのチキンナゲットを食べて、なんともなかった人がたくさんいるのだから。
もしかしたら、中国の悪徳企業が、食料品価格の抑制、あるいは世界の食糧不足解消のヒントを与えてくれたのかもしれない。
個人の立場からすると、煎じ詰めれば、自分の健康維持基準を権力に頼りすぎるな、ということだと思う。
2014年7月22日火曜日
がんばれ大砂嵐
エジプトの首都カイロに住んでいたとき、友人たちと”月の砂漠”でピクニックをやってみようという話になった。 ある満月の夜、クルマに食べものと飲みものを積んで、カイロの西、ギザのピラミッドの向こうに広がる砂漠を目指した。 エジプトの「西方砂漠」と呼ばれる地域の一端だ。 そのずっと先は、アフリカ大陸の大西洋側まで伸びる広大なサハラ砂漠につながる。
夜の砂漠の道路は、時折り長距離トラックが通る以外は静まり返っている。 月明かりで砂漠をはるか彼方まで見渡せた。
とりあえず、道路わきの適当な場所にクルマを停め、みんなで荷物を持って、歩いて砂漠の中へ向かう。 砂漠といっても、このあたりは、中東のたいていの砂漠と同じで、サラサラした砂ではなく乾いた茶色い土だ。 「砂漠」ではなく、水が少ない土地という意味で「沙漠」と表現したい。
沙漠に向かって50メートルほど歩いていって、われわれは気付いた。 くさいのだ。 ウンコの臭いがあたり一面から漂ってくる。 そういえば、ここに来る途中、トラックを路肩に停めて、運転手が沙漠に向かって歩いている光景を見た。 そう、道路から数十メートルは、近からず遠からず、トラック運転手たちが尻を他人に見られずにしゃがみこむのに、ちょうど良い距離なのだ。
美しい「月の沙漠」の光景とはいえ、自然発生型公衆便所のど真ん中でピクニックをするわけにはいかない。 臭いの届かないところまで、われわれはさらに100メートルほど歩かねばならなかった。 ピクニックという目的は達したものの、なんとなく興醒めした夜になってしまった。
エジプトの冬は、3月中旬から下旬にかけ、1週間足らずの短い春が訪れると終わり、夏が突然やってくる。 このころから5月初めまで、カイロは、ハムシーンと呼ばれる凄まじい砂嵐に襲われる。 この嵐は、サハラ沙漠で生まれ、壮大なスケールで吹き渡る。
「サハラからは季節によって周辺地域に風が吹き込む。冬にギニア湾や大西洋岸に向けて吹き込む風はハルマッタンと呼ばれ、熱風ではなくむしろ涼しい風であるがきわめて乾燥しており、この地方に乾季をもたらす。夏に北のリビア方面に吹き込む風はギブリと呼ばれ、熱く乾いている。この風がイタリアにまで到達するとシロッコと呼ばれるようになるが、間の地中海で水分を吸収するため湿った風となる。春にサハラからリビアやエジプトに向けて吹き込む熱く乾いた風は<ハムシーン>と呼ばれる。いずれの風もボデレ低地を中心としたエルグから巻き上げられた砂塵を大量に含むため、周辺地域に大量の砂塵を降らせ、市民生活に多大な支障をもたらす。この砂塵はさらに海を越え、ヨーロッパや北アメリカ、南アメリカといったほかの大陸にまで到達する。巻き上げられる砂塵の量は年間20億から30億トンにもなり、2月から4月にかけてはカリブ海や南アメリカ大陸に、6月から10月にかけてはフロリダ州などに降り注ぐ。この砂塵は黄砂のようにさまざまな害をもたらす一方、アマゾン熱帯雨林に必要な栄養素を補給するなどの役目も果たしている」(Wikipedia より)
ハムシーンとは、アラビア語で数字の「50」のことだ。 通説では、砂嵐シーズンは3月から5月にかけて50日間にわたるので、この名が付いたという。
カイロでは、ハムシーンは常に、サハラのある西から吹いてくる。 砂嵐というが、砂ではなく茶色い沙漠の土を舞い上げ、空も街もセピア色に染まる。 ハムシーンが襲ってくる日は、窓を固く閉ざして家に籠っているいるしかない。 それでも土埃は家の中に入り込み、床はザラザラになる。
あの月夜のピクニックで学んだことは、家に入り込むハムシーンの土埃には、トラック運転手たちの干からびたウンコが確実に混ざっているということだ。
そればかりではない。 カイロの街のあちこちには、様々な汚物が無造作に捨てられている。 それら全てが乾燥し軽くなって、ハムシーンの土埃とともに宙に舞い、カイロの街の隅々に降りかかるのだ。
大相撲で初のエジプト出身力士、大砂嵐=ハムシーンの活躍が注目を集めている。 名古屋場所で初めて横綱と対戦し、白鵬には負けたものの、鶴竜と日馬富士を破った。 本名は、アブデルラハマン・シャーラン。 四股名の由来は「砂=シャ」「嵐=ラン」の当て字に大嶽親方(元十両大竜)の四股名「大」の字をもらったそうだ。
おそらく、ハムシーンとは、エジプト人にとって避けることのできない忌まわしい存在で、そんな名前を人に付けるとすれば、悪役プロレスラーくらいではないだろうか。 エジプトにプロレスがあるかどうか知らないが。
大砂嵐の表情が好きだ。 カイロの街でよく見かける人懐っこそうな若者を連想させる。 本人に会う機会があれば、自分の四股名をどう思っているか、是非聞きたいものだ。
2014年7月15日火曜日
泡盛に酔って
不覚にも、泡盛という沖縄の酒の原料が昔からタイ米だったということを、つい最近沖縄に行って泡盛で飲んだくれ、酔っ払ったノンベエに教えてもらうまで知らなかった。
言われてみれば納得できる。 ベトナムの農民たちが米で造る強い蒸留酒ルアモイは、泡盛に似ていた。 タイには、ルアモイや泡盛の味わいには敵わないがラオカーオという米の蒸留酒がある。
調べてみると、沖縄史の礎を築いた一人とされる那覇出身の歴史家・東恩納寛惇(ひがおんなかんじゅん)という人が、タイの国立醸造所まで行き酒造りの現場を見て、1941年の著書「泡盛雑考」の中で泡盛との類似性を初めて指摘したそうだ。 この権威の言葉で、泡盛の「タイ起源説」が定着したという。 アユタヤ王朝の時代に琉球へ伝わったらしい。 だが、たいていのノンベエなら、両方の酒を飲んで造り方を聞けば、歴史家でなくとも同じ結論に達するに違いない。
沖縄の雰囲気は、土地も気候も人も日本であって日本ではない。 かつて長く住んでいた東南アジアの強い匂いがする。日本各地を旅行していて、パスポートを持っていないとソワソワするのは沖縄だけだ。 異文化世界を感じるからだ。 泡盛のなりたちが、それを裏付けているように思えた。
沖縄に日本との異質性があるのなら、なぜ、琉球共和国は誕生しなかったのだろうか。 1972年、沖縄が米国占領から日本支配に戻ったころ、沖縄独立論の主張が注目されたことがあった。 あの独立論は、今どうなってしまったのだろうか。
沖縄には、泡盛で酔うときくらいは、独立の夢を叫ぶノンベエが、今もいるに違いない。
ただ、近ごろの人類学が駆使するDNA解析によれば、沖縄人と日本人は、われわれが感じるよりもはるかに近く、ほとんど同根だそうだ。 むしろ、異質性を説明する方が困難なようだ。 ロマンが消えたようで、なんとなく残念ではある。
妄想ついでに、泡盛から話がだいぶ飛躍したが、「沖縄独立」について、Wikipeia で勉強してみた。
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<琉球独立運動>
琉球独立運動は、1879年の琉球処分以降に始まった、かつてあった運動で、琉球王国の再興、または国家の独立を求める運動。沖縄独立運動ともいった。琉球王国は、1609年の琉球征伐や、1872年から1879年にかけての琉球処分などによって、日本に併合された歴史がある。現在は沖縄平和運動センター等による組織的な運動以外は、完全に終息している。
・明治時代
1879年、琉球処分で琉球王国は完全に消滅し、沖縄県が新たに設置された。これに不満を持つ旧支配層の一部に、旧宗主国の清国に亡命して清政府に「琉球王国の再興」を働きかける者まで現れた。このように清に脱出し、琉球王国の再興に奔走した人士を「脱清人」という。県内でも、琉球王国の再興を求める「頑固党」とそれに反対する「開化党」があり、1894年日清戦争が起こると、頑固党は清国戦勝祈願祭を行い、開化党は日本の戦勝祈願際を行うなど、対立を続けていた。八重山の石垣島では日清戦争の開戦が伝えられると、日本の戦争祝賀の運動会が開かれ、終戦後には凱旋祝賀会が開かれている。
日清戦争で清が敗北したことで、琉球王国の再興は絶望的な状況となった。頑固党はこれを期に急速に衰えて開化党による急速な内地化が図られていった。また、日本の主権は認めるものの、尚家による統治を求める公同会運動も起きたが、これも明治政府に却下され、終息に向かった。
これ以降、組織的な独立運動は絶えることになった。
・アメリカ統治下
1945年、太平洋戦争終結後、日本を占領したアメリカは、旧琉球王国領である沖縄県及び鹿児島県奄美群島を日本より分割、統治下に置いた。これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという第二次世界大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。
占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本(琉球)側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった。
そうした時代背景から誕生した琉球独立運動は、日琉同祖論に倣い琉球民族が日本民族の傍系であるとは認めつつも、琉球民族は歴史的に独自の発展を遂げて独立した民族になったと主張し、明治時代より強引に同化政策を施されはしたが、日本の敗戦により再び琉球人になり、アメリカ信託統治を経て独立国家になるだろう、との展望を持った。本土では、戦後沖縄人連盟などが結成され、一部の連盟加盟者から独立への主張もなされていた。また、戦後日本共産党や日本社会党は琉球民族が大日本帝国に抑圧されていたと規定し、表面上、沖縄独立支持を表明した。
一方、米軍統治下では、米影響下からの独立を企図して、非合法組織ではあるが、奄美共産党(合法組織として奄美大島社会民主党)、次いで沖縄共産党(合法組織として沖縄人民党)が結成された。奄美共産党の初期目標には「奄美人民共和国」の建国が掲げられていた。
しかし、住民の多くは日本への復帰を望んでいたため、その後これらの政党は独立から復帰へと活動目標を変更した。奄美共産党は、奄美群島での日本復帰運動の中心的役割を果たしている。沖縄・奄美の両共産党は、それぞれの地域の日本復帰後に日本共産党に合流した。
戦後初期の独立論は、米軍を「解放軍」と捉える風潮が広がったことと密接に絡んでいた。ところが1950年代以降になると、冷戦を背景にアメリカ国内で沖縄の戦略上の価値が認識され、アメリカの沖縄統治の性格は軍事拠点の維持優先へと偏重していった。米軍政下の厳しい言論統制や度重なる強圧的な軍用地接収、住民への米兵による加害行為の頻発により「米軍=解放軍」の考えは幻想だったという認識が県民の間に広まり、一転して「平和憲法下の日本への復帰」への期待が高まる。こうした流れの中で、独立論は本土復帰運動の中に飲み込まれていった。
いったんは沈静化した独立論であったが、1972年の沖縄返還が近づくにつれ、「反復帰論」として再び盛り上がりを見せる。復帰交渉において日本政府が在沖米軍基地の現状について米軍の要求をほぼ丸飲みしたと主張する者たちが現れ、「本土並み復帰」の希望が果たされないとして、日本政府への不満を持った。
1970年7月、「琉球独立党(現かりゆしクラブ)」が発足した。
・本土復帰の1972年(昭和47年)5月15日以後
1977年、当時の平良幸市知事が年頭記者会見で「沖縄の文化に対する認識を新たにしよう」と、反復帰論を意識した提唱を行った。
1979年、明治政府の琉球処分から100年目にあたることもあり、「琉球文化の独自性を見直そう」といった集会が沖縄県各地で活発に開かれた。 しかし1970年代の独立論は政治運動化せず、文化復興運動として落ち着いた。
1995年、沖縄県で米軍基地に対する反対運動が起こったときなどに、琉球独立論が取り上げられた。 独立を明確に表明して活動していたのはかりゆしクラブのみあったが、2013年5月15日に松島泰勝(龍谷大学教授)らの主導により、琉球民族独立総合研究学会が設立された。
・将来への展望
現在全国的に導入が論議されている道州制と結びつけ、沖縄県を単独の道州とすることで大幅な自治権を獲得する案も議論されている。内閣総理大臣の諮問機関である地方制度調査会が2006年に発表した答申に示された道州制区割り案では、いずれも沖縄を単独の道州としている。また民主党は「一国二制度」論を掲げ、沖縄県を地方分権のモデルとして、より強力に自治権と経済的競争力を強化することを提案している。ただし、そのことが独立論に直接に結びつく訳ではない。
これは琉球独立運動家による主張の実現可能性が低いことも関係している。たとえば、琉球独立の支持者や賛同する市民団体の中には、琉球共和国及び地域の名称として沖縄特別自治省、元首(首長)の役職として沖縄省主席を主張している。 もちろん、これらが実現不可能であると断ずることはできないが、決して実現可能性が高いとは受け止められていない。 かつて川満信一が発表した「琉球共和社会憲法「私(試)案」では、「軍備の廃止」のみならず、「司法機関(警察・検察・裁判所)の廃止」「私有財産の否定」「情報の統制」「商行為の禁止」も謳うなど、理念先行という印象を与え、現実を見据えた自立(独立)に向けた政策の研究が見られないことも独立論の実現可能性に疑問符がつく原因となっている。
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2011年11月、琉球新報が行った県民意識調査で「今後の日本における沖縄の立場(状況)について」という質問に対し、以下の回答があった。
現行通り日本の一地域(県) 61.8%
特別区(自治州など) 15.3%
独立 4.7%
2014年7月14日月曜日
滋賀県知事選の伝えられ方
7月13日に行われた滋賀県知事選挙で、自民・公明両党が推薦する候補が破れた。 翌14日、自民党・安倍政権を全面的に支持する右翼紙、読売新聞と産経新聞が、なんとも苦し気に報じているのが面白い。
「知事選は本来、候補者の資質や県政の問題を問うものだ。石破幹事長が『候補者、県政に直接、影響があること以外で影響が出ている』と指摘したような展開になったのは残念である」。
これは負けた自民党候補の談話ではない。 14日付け読売の社説だ。 自民党と一体になった読売の口惜しさが滲み出ているではないか。
ここで言っているのは、環境相・石原伸晃が福島第1原発事故に伴う汚染土の中間貯蔵施設建設に関し、候補地の住民説得は「最後は金目でしょ」と記者たちに語った暴言問題、東京都議会と衆議院総務委員会での自民党議員によるセクハラ野次など、自民党議員の品格の欠如が暴露されてしまった出来事が選挙結果を決めてしまったということだ。 つまり、「あんなドジさせなければ…」という、なんとも立派な”社説”である。
さらに、こう主張する。 「疑問なのは、(当選した)三日月氏が、嘉田知事(任期満了で退職する現知事)と同様、段階的に原子力発電から脱却する『卒原発』を唱えたことだ。 原発政策は、政府が大局的観点から判断すべきものだ。 原発の再稼働などには、知事の法的権限は及ばない」。
これは凄い! 原発に関して法的権限のない者は余計な口出しをするな、と叫んでいるのだ。 われわれ一般市民にも黙っていろと命じているも同然ではないか。
同様に、集団的自衛権を限定的に容認する新政府見解の閣議決定を三日月候補が批判したことも受け入れられないようだ。 「政権批判の一環で新見解に反対し、『場外戦』に持ち込んだと言える」というのだ。
新政府見解への反発で安倍政権への支持率が下がったタイミングで滋賀県知事選は行われ、それが自民・公明側の敗因のひとつと指摘されている。 だが、それはプロレスの場外乱闘と同じで、正々堂々の勝負だったら負けなかったと強がっている。 なんとも、わけのわからない”if”だ。
産経新聞の「主張」は、自公連立政権の性格を非常に正直に表現している。 負けた自公推薦の候補を「自民党の候補」と呼び、公明党を無視している。 見出しも「知事選自民敗北」だ。 公明党は連立のオマケみたいな存在なのだ。
産経が言っていることは、読売と似たようなもの。 敗因は、「出遅れによる知名度不足に加え、選挙の直前に東京都議会でセクハラやじ問題が生じて、自民党への逆風が強まったこと」。 負けたのは、戦術とタイミングの問題で本質的なことではない、自民党は浮足立つことはないと励ましている。
集団的自衛権に関しても楽観的だ。 「集団的自衛権の行使容認を決めたことの是非が、直接、知事選で問われたとは考えにくい。 だが、国民の十分な理解をまだ得られていないことは否定できない」。
一方、原発については、「『卒原発』など再稼働に極めて慎重な姿勢を打ち出したのは、嘉田氏(現知事)の支援を受ける上でやむを得ない面もあったのだろう」と、希望的観測にしがみついていた。 こういうのを”主張”というのか、疑問ではあるが。
なお、朝日新聞は、従来からの社論に沿った選挙結果だったせいか、慌てず冷静に報道していた。 別に褒めているわけではない。 この日の紙面は、読売と産経の方がはるかに面白かった。
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