2014年7月31日木曜日

喫煙率20%という時代


 1970年代、新宿あたりのバー。 若くてカネがなかったので、トリス・ウイスキーを飲んでいたころ、ちょっとくずれた感じの渋い中年男が一人で入ってきて、カウンターの止まり木に座る。 カバンから50本入りのピー缶を取り出し、テーブルに置いて1本引き抜き、ZIPPO のライターで火を点ける。 ピース独特の香しい煙がまわりにも広がるのをゆっくりと待つ。 バーテンダーに注文するのは、それからだ。 落ち着いた低い声で「いつものやつ」。

 若造には真似のできない男の重み。 あんな風になりたいなあと憧れながら、1箱20本70円のハイライトを吸っていたっけ。 

 あのころ、煙草を吸う男の姿にはセックス・アピールがあった。 石原裕次郎や小林旭が、眉と眉のあいだに皺を寄せ、たばこを咥えていれば、カッコいいポーズが決まったものだ。 女だって、そうだ。 たばこを吸っていれば、ただの”家事手伝い”とか”花嫁修行中”ではなくて、なにか深みのある経験を重ねてきた魅力を漂わせるドラマティックな女を演じることができた。

 たばこを吸うのは、夢の世界に入ることだった。 ドラッグとは違う。 自分がたばこを吸っているとき、男たちは、石原裕次郎、小林旭、ハンフリー・ボガード、ジョン・ウェインになっていたのだ。

 喫煙率がピークだった1966年には、日本人の男のなんと84%が、たばこを吸っていたそうだ。 そう、あのころの男たちは、みんな夢をみるために、自分自身の存在確認をするために、たばこを吸っていた。 手術直後の病人が寝ている病室だろうが、換気装置がまだ働いていなかった地下鉄駅のホームだろうが、偉いさんの前だろうが、とにかく誰もが、どこでも、たばこを吸っていた。 

 たばこというものは、無作法に、無遠慮に、無節操に、無法者のごとく吸う方が、なぜか旨く感じる。 そして、たばこを吸う誰もが無法者だった。 だから、あのころ、たばこの吸い殻はどこに、どれだけ散らばっていようが、街の光景の一部であって、誰もそれを汚いとは思わなかった。

 時代は変わった。 たばこは健康に悪い、街を汚す、これが世間の常識になってしまった。 たばこは、もはや、反体制的ではなく、反社会的な、大気汚染とか性病と同じように嫌悪される対象になってしまった。

 たばこを吸う気持ちの良さは、気に食わない世間に対し、”この野郎!”と吸い殻を思い切り投げつけるときの解放感にあった。 今、そんなことはできない。 携帯灰皿をポケットに入れて、ちまちまと火を消さなければならない。 こんな管理されたたばこの吸い方は、あまりにも、惨めではないか。

 2014年、喫煙率は20%を切り、男だけでも30%だそうだ。 これは頷ける数字だ。 無頼漢のごとく吸わなければ、たばこの本来の味は味わえないからだ。 まわりの目線を気にして、おとなしく礼儀正しくたばこを吸っても、たばこの味を感じられるはずはない。 

 もう、たばこはヤメにしよう。 時代が変わったのだ。 酒を飲もうじゃないか。   

0 件のコメント: