2017年8月18日金曜日

多摩川サイクリング


 膝痛でジョギングができない。 テニスもダメだ。 からだを動かさないでいると、どんどん太っていきそうだ。 仕方ない。 食べるのも飲むのも好きで、運動をしなくても飲み食いの量は減らないのだから。

 というわけで、久しぶりに自転車に乗り始めた。 膝に負担がかからない有酸素運動で体重増加を食い止める手近なスポーツは自転車しかない。 ホームグラウンドは多摩川土手のサイクリングコース。 羽田空港あたりの河口から、玉川上水の起点で知られる羽村までの多摩川両岸。 全コースを往復すれば100キロ以上になるが、通常は往復30~40キロ程度をのんびり走る。 ママチャリの通学高校生にすいすいと抜かれていく。 体重減に必死のデブおやじにもかなわない。

 多摩川のサイクリングコースは、「青少年サイクリングコース」という看板をずっと掲げていたが、近ごろは消えてしまった。 ひとつには、サイクリングをするのが青少年ばかりでなく中高年も多くなったためだろう。 昭和30年代に、サイクリングの歌謡曲があった。 その歌のイメージは、若者たちが颯爽と自転車に乗る姿だが、今では団塊世代ジジババの姿の方が多いかもしれない。

 もうひとつの理由は、そもそもサイクリングコースと呼ぶのは間違っていると役所の誰かが気付いたからだろう。 サイクリングコースといいながら、自転車専用道路ではなく、ウォーキングやジョギングの人もいるし、通勤通学にも使われている。 そして、この混在ぶりが、ちょっと怖い。

 土手のコースは幅3メートルほど。 自然にできたルールは人も自転車も左側通行。 だが、誰もがこれを守るわけではない。 右側を歩く腰の曲がったお年寄りもいるし、道幅いっぱいに横並びとなって、おしゃべりに夢中になっているオバサンたちもいる。 

 自転車に乗って、このコースを走っていると、人間の行動というのは実に予測不能だということがわかる。 真っすぐ一人で歩いているのに、突然止まったり、突然曲がったりする。 何か考えているのかもしれないし、道端に百円玉が落ちているのをみつけたのかもしれない。 自転車で歩行者を追い越すときは常に緊張を強いられる。 だから、かなり遠くからでも警告のベルをチリンチリンと鳴らすようにしている。 

 最近は、歩きスマホが危険を増幅している。 とくに怖いのはヘッドフォンを装着している歩きスマホだ。 歩行者ばかりでなく、ジョガーやサイクリストも要注意だ。 後ろからの警告がまったく聞こえない。これでは都心の交差点とさしたる違いがないではないか。

 のんびりサイクリングをしているときは、爽やかに風と戯れていたいものだが、気が付けば、世間の縮図みたいなところに入り込んでいたのだ。 大都会周辺では、自然と遊ぶサイクリングは、もはや不可能になっているのかもしれない。 最近、自転車事故の傷害保険などというものに入ってしまった。 年間保険額は1960円という安さだが、なんだか、自分がちまちまと生きている気がしてきた。


2017年8月16日水曜日

ブログ再開

1月戸狩温泉
2月富良野
5月オマーン
6月鳥取砂丘

6月出雲大社
6月広島
6月下蒲刈島
今年のブログは、1月にタンザニアに行ったあとに2本、3月に1本。 ひどく怠惰になっている。 たかだかブログ1本をまとめるだけの集中力、持久力がなくなっているのかもしれない。 このままでは、物事への関心、好奇心がどんどん薄れて、ぼんやり生きているだけの世捨て人になりかねない。

 そう思って、ブログ再開を試みてみることにした。 どこまでできるか。

7月石垣島。 
今年は、タンザニアのあとでも、1月には毎年恒例の戸狩温泉スキーツアー、2月にも富良野へスキーに行った。

 そして、5月には中東で唯一訪れたことのなかったオマーンへ行くという個人的イベントがあった。 政治的混乱が当たり前の中東で、オマーンは昔から落ち着いて平和な国だった。 海や山が美しいことは聞いていたが、ニュースのないオマーンをジャーナリストが訪れる機会はそうあるものではない。 日本からの観光客も非常に少ない。 格安航空券、格安ホテルを探してみると、なかなかいい旅行ができることに気付き行ってみたら、想像通り素敵な国だった。 自然の景観が美しいばかりでなく、人々の心が優しかった。


 6月には、日本国内でも”初めてツアー” をした。 鳥取からレンタカーで出雲大社、広島、瀬戸内海の下蒲刈島を回った。 どこも初めての土地で好奇心をそそられたが、この旅行は失敗だったかもしれない。 たった3日間だったので、土地の人たちと接する機会が十分なかったし、居酒屋探索も物足りなかった。 広島が大都会なのには驚いたが、広島人と戦争を語る時間はなかった。

 7月の石垣島は、妙な味わいのある旅行だった。 石垣の人たちはよそ者をすんなりと受け入れてくれる。 道端で会ったさとうきび畑の農民、田舎町で食堂を経営する女性、いろいろな人が初対面なのに自分の身の上話をしてくれた。 本州からの移住者が多い理由はこんなところにあるのかもしれない。

 こうして振り返ってみれば、旅に関してだけでもブログの材料は十分あった。 世の中の動きに目を向ければ、以前から先天性虚言症と疑っていた安倍晋三の政治基盤にやっとほころびが見えてきた。 米国には、とんでもない大統領が登場して世界に不安が広がっている。 中東ではシリアが注目されているが、独裁色を強めるトルコのエルドアンが気になる。 中国は間違いなく、21世紀の世界で揺るぎない地位を築くだろう。 この新現実を受け入れられない日本人はどうなるのだろう。

 ブログ再開の意欲がどこまで持続できるかわからないが、力まず、のんびりとブログを綴ってみよう。 

2017年3月16日木曜日

瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」

(瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」=ちくま新書)
1997年、「北海道旧土人保護法」が廃止され、アイヌは先住民族として、日本人としての当たり前の人権を認められた。 今、一般の日本人はアイヌをどう見ているだろうか。 旭川市博物館館長でアイヌ史研究者・瀬川拓郎の著書「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」(ちくま書房)は、人類史や考古学などの研究を通して、縄文人を同じ祖先としながら異なる歴史を辿ってきたアイヌと日本人の姿を描いている。 そればかりではない。 意図したものかどうかわからないが、偏屈な民族主義や差別意識は視野の狭さから生じるものだと問わず語らずに伝えている。 アイヌ史の入門書というジャンルに区分されるのだろうが、その枠を越え、こころざしとスケールの大きさを感じさせる名著だ。

 とりあえず、アイヌの出自に関する概略は以下を参照に(Wikipedia)。

 『アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
自然人類学から見たアイヌは、アイヌも大和民族も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる。』

 「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」は、以上の視点を踏まえ、「アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。 平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原卿の思想が明らかになるにちがいない」と、新たな日本人観のアプローチを提案している。

 最近の研究では、アイヌとは、日本人と異なる民族ではなく、非常に近くて縄文人の血を色濃く残した人々だ。 つまり、現代の日本人のほとんどは朝鮮半島からの渡来人の血と文化を受け入れ、縄文の血が薄くなって弥生人となったが、アイヌとは同じ祖先というわけだ。

 アイヌの文化に縄文文化の痕跡を見ることができるが、弥生文化に移行して異なる歴史を歩んだ本州でも、縄文時代に起源があると思われる風習があるという。 例えば、山岳信仰は、仏教渡来以前、さらに弥生、古墳時代より遡り、山と濃密にかかわっていた縄文時代に端を発している可能性がある。

 北海道の屋根、大雪山の小泉岳付近、標高2100メートルの高所で縄文時代の石器数十点が採集されている。 現代でも登るには本格的登山装備が必要だ。 このような高地の縄文遺跡は、本州でも山梨県の甲斐駒ケ岳、栃木県の男体山、長野県の八ヶ岳連峰の編笠山、蓼科山など2000メートルを超える高山で発見されている。

 だが、弥生時代から古墳時代には、本州の高山遺跡は確認できない。 農耕を主とする弥生文化を受け入れなかった縄文人は狩猟・採集の生活を維持して山に残った。 その直系がアイヌだ。 だが弥生人たちは山から下りた。

 本州の高山に再び登頂の痕跡があらわれるのは奈良時代以降で、山岳信仰の修験者たちだった。 弥生時代に入ったあとも、狩猟を生業にして山中に暮らす人々はみとめられた。 彼らが縄文人だった可能性がある。 山岳信仰は彼らを通じて脈々と受け継がれた縄文文化とも考えられる。 現代日本人の生活・風習にも縄文の痕跡があるにちがいない。

 著者が「もうひとつの日本の歴史」と言うのは、日本人が、アイヌは民族も習俗も異なる人々と感じるほど両者は違っておらず、2000年前のご先祖様の人生の決断次第で、あなたはアイヌになっていたかもしれないという意味でもあろう。

 煎じ詰めれば、人間の違いとは何か、という問いかけだ。 現生人類がアフリカを出発したときまで遡れば、ヒトはヒトでしかいなかったろう。 さらに遡れば、人類学伝説によれば、現生人類を生んだたった一人の母に辿り着く。 

 
  


                 






2017年2月2日木曜日

少年ケニアのアフリカ

少年ケニア(山川惣治)
 まわりの友人や知り合いに、タンザニアに行ってきたと言うと、たいていはキョトンとする。 アフリカの国ということくらいは気付くが、イメージがまったく湧かないからだ。 いまだに、普通の日本人にとって、アフリカは「暗黒大陸」、「危険地帯」という印象のようだ。 だが、タンザニアはケニアの隣りで、言葉は同じスワヒリ語だから似たような国だと、かなり大雑把な説明をすると、少しはわかった気がしてホッとするようだ。

 どうやら、サハラ以南のブラック・アフリカに興味も知識もない日本人でも、ケニアにはほんの少しだが近さを感じるようだ。 その理由は、友人の一言でわかった気がした。 「アフリカと言えば『少年ケニア』だなあ」。

 きっと、「団塊の世代」以上の年齢の日本人には懐かしいだろう。
 
 Wikipedia によると、「少年ケニア」は、「アフリカケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語。1951年10月7日から1955年10月4日まで「産業経済新聞」(現:産経新聞)に連載されていた。『少年ケニヤ』は大人気となり、映画化、テレビドラマ化、漫画化、アニメ映画化なども行われた。その人気ぶりに『少年ケニヤ』は週1回の掲載から毎日の連載になり、「産業経済新聞」が一時は「ケニヤ新聞」と言われたほどだったという。1984年角川書店がアニメ映画化した際には1983年から角川文庫でリバイバルされて、全20巻が復刊された。」

 ストーリーは、「1941年12月、日本は真珠湾を攻撃。米英と交戦状態に入った。日本の商社マンとして英国植民地のケニヤに駐在している村上大介と10歳になる息子のワタルは捕まるのを恐れ自動車で奥地へと逃れた。」というところから始まる。 (どうでもいいことだが、現在の産経新聞には「村上大介」と同姓同名の知り合いの記者がいる)

 ケニアと比べると、タンザニアで日本人に思い浮かぶものは、ほとんど何もない。 ネットでタンザニア出身タレントを検索しても聞いた名前はない。 1人だけ、イーダ・ヤングビストという素晴らしくカッコいいセクシーなモデルがいた。 タンザニア人の母、スウェーデン人の父、現在アメリカ在住。 2009年に、アフリカ出身で初めての Playmate of the year に選ばれたとか。ただし、国籍はスウェーデン。
 タンザニアと日本をつなぐものは、まったくないわけではない。 明治から大正にかけて、東南アジアへ渡った「からゆきさん」は有名だ。 この中には、さらに遠くアフリカまで渡っていった女性たちもいた。 比較的知られているのは、歴史的な国際貿易港ザンジバルだ。 かつては奴隷売買の拠点でもあった。 ザンジバルはタンガニーカと合併しタンザニアとなった。 ここに日本人売春婦が最盛期には28人いたという。  彼女たちが働いていた店のあった建物は今でも残っており、日本人旅行者がときおり物珍しげに訪れているそうだ。

 実は、日本人とタンザニア人は第2次大戦中に敵対して戦ったこともある。 英国領だった東アフリカからは28万人が兵士として動員され、このうち87,000人がタンガニーカ(現タンザニア)出身だった。 彼らはアスカリと呼ばれ、東アフリカ戦線ではイタリア軍と闘ったが、ビルマ戦線では日本軍との戦いに加わった。 

 日本人とタンザニア人。 地理的に遠すぎて、お互いに相手のことについて何も知らないのに殺し合いをしていた。 これが現代の戦争なのだろう。
 タンザニア人だって、日本のことを知らない。 街を走るクルマのほとんどが日本製でも日本を知ることにはならない。 クルマは所詮クルマだ。
 
 タンザニアのアル―シャで、泊まっていた小さなコテージの調理場に入り込み、タンザニアのおいしい地鶏を使って日本風の唐揚げを作ってみた。 タンザニア人たちにふるまったら、大喜びしてくれた。 こんなに美味しいフライドチキンは初めてだと。

 せがまれて、和風唐揚げのレシピも置いてきた。 これでタンザニア人は日本のことをひとつだけ知ったかな。 ちょっとだけ自慢してみよう。

2017年1月30日月曜日

タンザニアの野生動物たち

座るキリン(アル―シャ国立公園で)
睨みあうライオンとバッファロー(ンゴロンゴロ保護区で)

 タンザニアに行ったのは、静かな場所で、のんびりと何もしないで2週間ほど過ごしてみたかったからだが、アフリカの野生動物たちを間近に見ることができるサファリに行かない手はない。 というわけで、アル―シャ国立公園、タランギレ国立公園、それにンゴロンゴロ保護区の3か所のサファリ・ツアーに行った。

 アフリカでのサファリはケニアで経験したことがある。 有名なアンボセリとマサイマラに行った。 動物の種類と数が豊富なケニアと比べると、タンザニアの平原は、ちょっと寂しい。 われわれは幸運だったが、例えば、タランギレは象に会うチャンスのあるところだが、まったく会えないで失望して帰る観光客は珍しくない。 ンゴロンゴロはライオンが一番の見ものだが、やはりタイミングが外れると見ることができない。 一方、ケニアでは大物に会える確率はかなり高い。 象やキリン、シマウマなど集団を形成する動物の群れもタンザニアより、はるかに大きい。 初めてサファリを体験しようという人なら、ケニアの方が確実に楽しめるだろう。 

 タンザニアのサファリは、Big 5 と呼ばれる大物をがつがつと追い求めるより、大自然に身を置いて、動物の1種のヒトとして生きることの意味を静かに感じとってみるのがいい。 ここは、やがて地球全域へ旅立っていく現生人類が誕生した土地でもあるのだから。

 だが、タンザニアでは、ダイナミックな光景ではないが、とても珍しい場面に出会うことができた。 アフリカの野生動物に詳しい人には、どうということではないのかもしれない。 だが、素人目には驚きであった。

 ひとつは、アル―シャ国立公園で見たキリンが座っている姿だ。 キリンというのは決して座らない動物だと信じきっていた。 動物園のキリンだって、いつも立っている。 そもそもキリンの背が高いのは、広大な平原で遠くを見渡し、外敵をいち早くみつけられるように進化したからではないか。 眠るときも立ったままで、深い眠りに入るのはごく短時間と習ったはずだ。

 ガイドの説明によれば、アル―シャ国立公園に、キリンの唯一最大の外敵であるライオンはいない。 このため、キリンは警戒をする必要がないから、のんびりと座っている。 ここではキリンが座っている姿が普通に見られるという。 これは、ある種の退化ではないか。 文明のおかげで便利な生活ができる現代人のように。

 もうひとつは、ンゴロンゴロ保護区で遭遇したライオンとバッファローの緊張みなぎる睨みあいだ。

 われわれが草原に座る5頭のライオンをみつけたとき、彼らは150mほど離れたところに群れている約20頭のバッファローに狙いを定めていた。

 1頭の雌ライオンがバッファローににじり寄っていく。 やや遅れて、他のライオンもバッファローに迫っていく。 最初のライオンは1頭のバッファローまで10mほどのところまで接近しダッシュした。 だが、バッファローは素早く身をひるがえして逃げた。 ライオンの爪が到底届かない十分な余裕があった。 バッファローの群れは一斉に走り、ライオンから100mほどの安全な距離をとった。 ライオンの狩りは完全な失敗。

 だが、ドラマはこれで終わらなかった。 逃げたバッファローの群れがライオンに向かって戻りはじめたのだ。 先頭は、最初にライオンの標的になった1頭。 次第に距離を縮め、間隔はほんの10mになった。 ここでバッファローは立ち止まり、後続の群れも動きを停めた。 ライオンとバッファローの睨みあいが始まった。 バッファローの反撃だ。 

 ライオンたちも座ったまま動かなかった。 バッファローに襲いかかろうとはしない。 仕留める自信がないのだろう。

 双方がじっとしたまま30分はたっただろうか。 何頭かのライオンは腹を上にして、地べたに背中をこすり始めた。 明らかに戦意を喪失した動作。 バッファローたちは、それをみつめている。

 それから、さらに30分。 ライオンの群れはゆっくりとバッファローから離れ、遠くへ去っていった。 バッファローがライオンとの心理戦に勝ったのだ。 彼らはその場に動かず、何事もなかったように草をはみ始めた。 ライオンのメンツは丸潰れだ。

 「百獣の王ライオン」というイメージと常識が見事に崩れ落ちた。 ライオンがいつも勝てるわけではなかったのだ。 野生動物の世界は奥が深い。 自然界ではか弱い動物であるヒトが地球を支配できるのも、この奥深さのせいだろうなあ。

2017年1月28日土曜日

北海道からアフリカまで膝痛の脚を引きずる

(タンザニア・アル―シャのダウンタウンで)
北海道の夕張へ2泊3日でスキーに行って東京に戻ってきたのが12月19日。 その前に、スキーのために体の準備をしておこうと、膝痛があったのに1週間ほど頑張ってジョギングをしたのが失敗だった。 膝痛が悪化し、スキーをしてさらに痛くなった。 

 それから3日後の12月22日、以前から予定していた東アフリカのタンザニアへの旅行に出発した。 膝が痛いままだったので、登山用の折りたたみストックを突きながら、Ethihad 航空で25時間という気の遠くなるような長いエコノミークラスの旅だった。 なにしろ格安チケットなのだから仕方ない。 成田→アブダビ→ナイロビ →キリマンジャロというルートで、最終目的地はタンザニア北部、キリマンジャロ登山や野生動物サファリツアーの拠点として有名なアル―シャだ。

 近ごろ、飛行機に乗るには執拗なセキュリティ・チェックがあるから、登山用ストックを機内に持ち込めるか、ちょっと心配した。 ストックでも客室乗務員の頭を叩いてケガをさせるくらいはできる。 だが、ぜんぜん問題はなかった。 とにかくストックを持っていて良かった。 2度のトランジットで空港ターミナルの階段を昇り降りするとき、最後に到着したキリマンジャロ空港の急なタラップを降りるときも、とても助かった。

 とにかく、片足を引きずりながらアフリカに到着し、 夕方の空港から臨んだキリマンジャロの美しさに感動した。

 アル―シャは、日本や東南アジアの基準からすれば小さな田舎町だが、タンザニア独立の歴史が刻まれた由緒ある土地でもある。

 1964年に発足したタンガニーカとザンジバルによる2つの国家の連合が、同年「タンザニア連合共和国」になるのだが、この国家連合が宣言されたのはアル―シャだった。 その前に1961年、タンガニーカが宗主国イギリスからの独立を宣言したのもアル―シャだった。 そして1967年、初代大統領ジュリウス・ニエレレの社会主義化は「アル―シャ宣言」で始まった。

 人口約42万。 市の中心部には、ホテルやビジネスのビルが建っているが多くはない。 道路の交通量はそこそこにあるが、バンコクやジャカルタのようにクルマが身動きできなくなるような渋滞はない。 庶民の主たる交通機関は「ダラダラ」。 日本製の8人乗りワゴン車の座席を改造し、20人くらい詰め込む。 停留所はあるが、どこでも手を挙げれば止まってくれるし、降りたいところで降ろしてくれる。 1乗り400シリング、20-30円といったところ。 これは便利で、アル―シャ滞在中は毎日のように乗っていた。 

 道路を走っているクルマのほとんど、100%ではないが間違いなく95%以上は日本製で、かなりの数が日本から運ばれた中古車だ。 日本のどこかの介護老人ホームの名前と電話番号が車体に大く書かれたままのダラダラがとても目についた。

 ニエレレの社会主義化以来、中国との関係が深く、1人当たりGDPが1400ドル程度の貧しいタンザニアは、中国からかなりの経済支援を受けている。 キリマンジャロ空港とアル―シャを結ぶ主要道路はあちこちで大規模な改修工事が行われ、寸断されていた。 この工事も中国の支援によるもので、現場で大型重機を操縦しているのは中国人ばかりだった。 現状は、中国が日本車普及のために道路建設をしているようなものだ。

 アル―シャに道路交差点の交通信号は4か所しかない。 つまり、ないも同然。 歩行者はクルマの流れを見ながら、あいまを縫って道路を渡る。 これは日本を除けば、どこの国でも同じようなもので、とくに途上国では、クルマは歩行者がいようが止まってくれないので、渡るタイミングを習得しないと日常生活に支障をきたす。

 アル―シャに到着した翌日、早速、ダウンタウンの散歩にでかけた。 道路を歩いて渡るタイミングの計り方は、東南アジアや中東で習得し、お手のものだから困ることはない。 

 朝起きたら膝痛がかなり改善していたので、ストックは畳んでバッグにしまっていた。 だが、しばらくすると疲れのせいか、痛みが少しぶり返してきたので、ストックを出して使い始めた。 そのうちに、ふと気が付いた。 クルマがたくさん走っているのに、なんだか横断が簡単にできるようになったなあ、と。

 そう、ストックを突いて足を引きずっている歩行者を見て、たいていのクルマが徐行したり、停車してくれていたのだ。 途上国の弱肉強食の道路、「大きい」「高級」がクルマの中でも最強で、歩行者が最弱という交通ルールのもとで、おそらく初めての経験だった。

 歩行者を蹴散らすように走る高級車への反感がちょっと緩んできた。 金持ちだろうと優しい心は持っている、当たり前のことだが、新鮮な発見をした思い。

 そう言えば、アル―シャの街のデコボコの歩道を行く車いすのヨーロッパ人旅行者を見た。 不自由なからだでの旅行は苦労するに違いない。 だが、ハンディキャップがあっても健常者が想像する以上に、通りすがりの人々が助けてくれるのかもしれない。

 膝痛とストックでのほんのわずかな体験だけで、世の中をそこまで楽観的に見てはいけないのはわかっている。 だが、アル―シャの歩道より、もっと酷いカイロやバンコクでも、車いすの欧米人旅行者をみかけることはあった。 決して珍しくはない。

 からだの不自由さにおじけづかず行動する勇気、そういう彼らを見守る優しい人たち。 本当は、人間たちの心はとても美しい。 などと結論付けるほどロマンティストではない。 だが、埃っぽいアル―シャの通りを歩くのが、なんとなく気持ち良かった。    

 

2016年12月21日水曜日

4年ぶりの夕張



4年ぶりに北海道のかつての炭鉱町・夕張を訪れた。 財政破綻ですっかり有名になってしまった夕張の街は、4年前と同じように人の気配がほとんどなかった。 

 ネオンが点かない酒場や飲食店は物悲しい。 入口にさがっている<CLOSE>の札 は、営業時間前だからでも定休日だからでもない。 もしかしたら、いや、おそらく確実に永遠の<CLOSE>なのだ。 

 それでも、今回は行けなかったが、4年前に初めて訪れて、大好きになってしまった居酒屋「俺家(おれんち)」は、元気に営業を続けていると聞いたのは嬉しかった。

 しかし、よそ者の素人目には、昼間も夜も人通りのない街のどこに、「俺家」へ行く客が住んでいるのか不思議だ。 とにかく人がいないのだ。 

 夕張市ホームページによれば、1960年に116,775人だった人口は、4年前2012年に訪れたとき、既に11分の1の10,471人に減少していた。 そして今回2016年、さらに減って、ついに1万人を切り9025人になっていた。

 2011年には、11校の小中学校が小学校1、中学校1に統合され、廃止になって子どもたちの声が聞こえない校舎のたたずまいが哀れを誘う。

 どうすればいいのだろう。 人口減少が進む日本全体の未来図かもしれない。 夕張だけの問題ではないのはわかる。 だが、夕張の凍てついた通りに佇むと頭の中が真っ白になる。