南太平洋、日本人観光客がウヨウヨいるグアム島とサイパン島の間にある小さな島・ロタ。きらびやかなナイトライフやショッピングを期待する観光客が訪問したとすれば、悪い冗談だと泣き出してしまうかもしれない。
何もないのだ。星空の煌めきには圧倒されるものの、夜は漆黒の闇。島はジャングルに覆われ、人影もまばらな小さな村には、レストランと称する食堂と雑貨屋が数軒。ホテルの外の世界は、これでおしまい。
炎天下の人工緑地徘徊、重い機材をからだに縛り付けた海中散歩に関心がなければ、この島が与えてくれる最大の楽しみは、ボーっとした時間をボーっとしたまま過ごすことだ。時間がびゅんびゅん飛んでいく東京から来てみると、これは悪くない。
そういうわけで、ホテルのプールサイドのデッキチェアに寝ころび、風に吹かれて揺れる椰子の葉が擦れる音と熱帯の小鳥の鳴き声をききながら、池澤夏樹の小説「マシアス・ギリの失脚」を読んでいた。(この小説、南太平洋のここら辺りのbanana republicを舞台にしていて、ロタ島にピッタリ)
昼下がり、時間がのったりと流れる。芝生の庭の掃除人が「ココナツ・ジュースを飲まないか?」と話しかけてきた。そして、長い棒で高いところに鈴なりになっている実のひとつを落して、ナタで切って飲み口を作ってくれた。
ふと見れば、この男、あご髭をはやした南アジアのイスラム教徒といった風情。南太平洋の島になぜ、と思って、こちらからも話しかけ、会話が始まった。
きけば、人口3000人余りのロタ島に住んでいるバングラデシュ出身者6人のうちの1人だという。「へぇー、なんでバングラ人がここに?」
「14年前に斡旋業者に騙された。ロタに行けばアメリカ本土に渡れると言われて喜んで来たが、認められないことがわかった」
ロタ島はサイパン、テニアン島などと共に、米国の自治領「北マリアナ諸島連邦」を構成している。だが、外国人労働者の本土への渡航は制限されているらしい。
彼の話によれば、サイパンには数百人、テニアンにも数十人のバングラ人がいる。
掃除人の収入は「時給4ドルちょっと、1か月に16日、128時間しか働けない。月収は、たった五百数十ドル。この中から家族に仕送りをしている」
なんてこった、のんびりとした楽園のひとときから、グローバル化した世界の現実に引き戻されてしまったではないか。
北マリアナ諸島の外国人労働者に対する過酷な処遇が、米国議会で問題にされ大スキャンダルに発展したことがある。米国本土の最低賃金よりはるかに低い賃金で衣料品工場などが外国人をこき使い、米国基準を満たしていないのに「made in USA」として輸出していたからだ。このほかに、中国人女性の人身売買も暴露された。
このスキャンダルの中心にいた人物が、米国議会の共和党系大物ロビイストであるジャック・アブラモフだ。北マリアナ政府に雇われ、1995年から2001年の間670万ドルの収入を得ていた。連邦法を北マリアナにも適用しようとする議会の動きを抑えようとしたのだ。
上院議員を費用丸抱えでサイパンに招待したことも明らかになった。ある議員は視察のはずが、サイパンでパラセーリングを楽しんでいたこともばらされてしまった。政治家なんて、太平洋の両岸で同じようなものだ。
アブラモフは本土の先住民(アメリカ・インディアン)への補助金詐取などの罪で2005年に逮捕され、現在は服役中だ。だが、北マリアナの最低賃金は今でも本土以下に抑えられている。
どうやら、椰子の木陰であろうと、21世紀の世界では外部と完全に隔絶した場所にはなりえないようだ。
旅行社が組織した「ナイト・フィエスタ」なる民族ダンスショー付きの野外ビュッフェ夕食会に行ってみた。これまた、「北マリアナ諸国連邦」の現実を見る良い機会になった。
地元少女たちの腰ミノを着けたフラダンス風のショー、南太平洋風の豚の丸焼。この国の土着の先住民は、ミクロネシア系のチャモロと呼ばれる人々だが、その文化に直接触れる機会は短期訪問の観光客にはめったに訪れるものではない。彼らにとって、「ナイト・フィエスタ」は忘れられない旅の思い出になったかもしれない。
それは、とても良いことだ。だが、観光客の思い込みと現実はやはり異なるのだ。
豚の丸焼を作った地元の主婦に料理を称賛したら、ニヤッと笑って言った。「これはチャモロ料理ではなくてフィリピン料理よ」
「ホント?」 「もちろん。だって、作った私がフィリピン人だし、フィリピンで作っていた料理を作っているんだもの。これ、他の観光客には秘密よ。みんなチャモロ料理と信じているんだから」
そうか、そういうことか。だが、このことは旅行社が意識しているにせよ、していないにせよ、客を騙したことにはならない。それが、この土地の複雑さだ。
現在の北マリアナの総人口は推定87,000人。人種構成を見ると、トップはフィリピン人で34%を占め、チャモロは29%で第2位に甘んじている。3位は中国人の12%。フィリピンは海をはさんだ隣りで、海外進出に積極的な人々の国だ。経済発展の足場を作ろうとする北マリアナにフィリピン人が押し寄せたことに不思議はなく、フィリピン人が最大民族になったのは必然の結果であろう。
そもそも、純粋な「チャモロ文化」なるものは存在するのだろうか。歴史資料によれば、ヨーロッパ人として初めてマゼランがマリアナに到達した1521年のマリアナにおけるチャモロ人口は75,000人とされる。それから約200年後の調査では、5%以下の、わずか3,500人に激減した。外界から持ち込まれた病気やスペイン植民者に強いられた過酷な労働が原因とみられる。
それ以前からあったチャモロの伝統社会や文化が崩壊してしまったのは明らかだ。その空白を埋めたのはスペインとカトリックであり、現在の”チャモロ文化”とは、ある種の混淆文化とされる。
そして、スペインのあとのドイツ、さらに日本の支配、太平洋戦争後は米国の影響下に入った。さらにフィリピン人や中国人を呼び込んだ経済開発。
旅行案内書にある「チャモロ文化」とは、ひとつのものではなく、ロシアのマトリョーシカ人形のように、胴体をねじって明けると、中から異なる顔が次々と現れる。どれが本当の顔かわからない文化なのだ。様々な意味で、「未開の土人文化」という概念は、大いなる誤解と美しき偏見に満ちている。
マゼランの到来から500年近くたった。世界の最先端を行っているつもりの先進国で「グローバル化」が広く意識されるようになったのは、冷戦終結以降のことであろう。せいぜい20年前。
だが、チャモロ人たちは500年前から「グローバル化」を目撃していた。彼らの網膜には、島々に溢れる日本人観光客の存在も、一過性の出来事と映っているのかもしれない。