2009年5月25日月曜日

忘れられた開発独裁


 5月25日付け読売新聞朝刊文化欄の 「ワールドスコープ」というコラムに、アメリカ政治外交を専門とする中山俊宏という学者が、世界のアイドル政治家となった米国大統領バラク・オバマの外交について書いている。

 「オバマ政権の国務長官ヒラリー・クリントンは、米国の安全保障は国防(defence)、外交(diplomacy)、開発(developement)という「三つのD」に支えられていると述べている。だが、そこからは重要なD、民主主義(democracy)が欠落していると批判されている。だが、そうではなく、オバマ外交において、民主主義は放棄されたのではなく、開発を中心に他のDに埋め込まれている」「ブッシュ政権は、独裁者の首をとり、選挙をすれば民主主義になると考えていたが、オバマは社会経済環境が整ったあとに民主主義が機能すると考えている」

 こんな趣旨だ。オバマは実は冷徹な現実主義者で、民主主義の実現などという理想を掲げず実利的外交を展開するのではないか、という見方がある。これに対する反論として、納得できる裏付けは示していないものの、一応理解はできる主張だ。

 問題は、これに続く論理展開だ。

 「民主主義は放棄されたのではなく、開発を中心に他のDに埋め込まれている」ことを、筆者は「オバマの開発/民主化の発想」と呼ぶ。

 そして、この発想は、「日本が戦後、アジアの国々で行ってきた開発援助への取り組みの発想と遠くはない」という。さらに、「日本は、性急な民主化ではなく、時間をかけてそれを支援してきた実績がある」と、日本を礼賛している。

 「津田塾大学準教授、日本国際問題研究所客員研究員」という肩書のこの筆者の日本礼賛を、過去20年間断続的に軍支配体制下で自宅軟禁されているビルマ民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーはどう受け取るだろうか。

 ビルマ軍政がスー・チーの軟禁を開始した1989年以降も、日本政府は欧米諸国政府による非難の大合唱に加わらず、反民主主義体制に「性急な民主化」を求めず、開発援助を継続した。以来20年。「性急ではない民主化」はいつ実現するのか。

 時代をもう少し遡ろう。1975年にベトナム戦争が米国の敗退で終わると、周辺の東南アジア独裁・非民主主義諸国は、共産化のドミノに怯えた。そういう国が結束して発足させたのが反共ブロック・東南アジア諸国連合(ASEAN)である。

 ASEANを政治的、軍事的に支えたのが米国であり、共産勢力の貧困地帯への浸透を防止するための経済開発を支援したのが日本である。1977年当時の日本の首相・福田赳夫が挙げた功績は、この構図を確固たるものにしたことだ。

 冷戦期のこうした地域構造は独裁者のパラダイスとなった。スハルトやマルコスは、この時代の申し子といえる。

 当時、日本の莫大な開発援助を、誰が民主化のためと思っただろうか。援助の目的はあくまでも現状維持であった。そして、そこに蔓延る利権。

 やがて、マルコス政権は1986年、スハルト政権は1998年に倒れ、民主化が曲りなりにも開始される。だが、日本の開発援助と民主化とは一切関係ない。貢献があったとすれば、日本の援助が政治腐敗に対する民衆の反感を増幅 し、政権打倒のエネルギー蓄積を助けたことであろう。
 
 日本の開発援助とは、むしろ、「民主化」の対極にあったものなのだ。

 読売コラムの筆者は、その論旨展開からすると、おそらくオバマの支持者であろう。そして、オバマが世界の民主化実現を長期的に目指していると信じている。そうであれば、そこに日本型開発援助との類似性を見るというのは、実に奇妙なことだ。

 きっと、コラム筆者にも、新聞社の担当者にも、スハルトやマルコスの開発独裁は、歴史に埋もれた遠い過去の出来事になってしまっているのだろう。だが、歴史の中には、忘れてはいけないことが沢山ある。

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