2009年5月24日日曜日

挨拶


 「人間同士が何らかの目的で顔を合わせる場合、すぐにその目的に関する話題を始めることはまずない。最初に互いの姿を確認した際、言葉や身振り、あるいはその両方で互いに相手の存在を認めたとわかる行動をする(目を合わせ、手を挙げる、『やあ』と言うなど)。さらに接近して話し始める際も、特定の動作や言葉で互いに話し始める。これらの一連の行動が挨拶である。挨拶が素っ気ない人物は無愛想と呼ばれる。
 (挨拶は)多くの社会で、人間関係を円滑にする上で必須の手続きと見做されている。それ故、挨拶をしなければ、それはそのまま他者との摩擦に発展し兼ねない。
 無表情または無感情な挨拶や、そもそも挨拶さえしないという態度は、『この人は怒っている』『私を嫌っている』などと解釈され得る。『挨拶をしろ』と憤懣を向けられる事もある。初めて顔を合わせる人間に挨拶をしない場合も、相手は『この人は私と関わりを持つ事を望んでいない』『無礼な人間だ』などと考え、落ち込んだり気分を害したりする。
 挨拶という行為そのものに即時的な利益は期待できない。しかし長期的に見た場合、挨拶を一切しない生き方は他者からの好感が得られにくく、また他者との摩擦が生じやすい。その為、挨拶という習慣は、戦術的意義よりも戦略的意義が大きいと考えられている。特に挨拶のコスト(挨拶に使われる時間や労力)が挨拶の利益(摩擦回避や好意)より小さいと感じられる者にとって、挨拶は費用対効果が大きい経済的な投資である。」(ウィキペディア「挨拶」からの抜粋)

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 きのうの土曜日、東京近郊のハイキング登山でにぎわう大山にでかけた。一汗かいて下山後のビールを楽しむのが主目的である。相棒はいつもと同じC、そして目的もいつもと同じ。

 本格的な夏の前、天気は薄曇り、暑すぎず快適な山歩きであった。とは言え、うまいビールを味わうためには、汗の出し方が足りなかった点は反省すべきだった。

 ひとつの発見は、週末で人出が多いにもかかわらず、一見ズボラで無愛想なCが、山道ですれ違う人に、意外と律儀に「コンチワ」と挨拶を返していたことだった。長い山登りの経験が為せる技かな、と想像した。

 山の中では、見知らぬ同士の挨拶が習慣になっている。いつのことから、なぜ始まったのかはわからない。ウィキペディアの「挨拶」の定義で解釈すると、山での挨拶は、人けのない場所で見知らぬ人間と出会ったとき、とりあえず敵でないことを示し、相手の攻撃心を刺激しないことが得策というのが、本来の目的だったに違いない。

 「オレは山賊でも人さらいでもない」というメッセージの伝達だ。これに対し、相手も「心配するな。こっちも、あんたの身ぐるみ剥いで谷底に突き落としたりしないよ」と応じる。これを具体的行動に翻訳すると、ニコッと笑って「こんにちは」となる。それに、様々な危険の生じる可能性がある山中では、他人同士がいつ何時、助け合う関係になるかもわからない。つまり、利益への期待だ。

 東京近郊の大山や高尾山といった老若男女が溢れる安全な山々では、挨拶に、もはや実際的意味はないだろう。それでも知らない者同士が声を掛け合うという山の古き伝統は悪いものではない。むしろ、新鮮さを感じ、気持ちの良いものだ。

 しかし、なぜ、新鮮に感じるのだろう。

 おそらく、東京のような都会に住んでいると、まったくの他人に笑いかけて挨拶することなど通常はありえないからだ。早朝の散歩やジョギングのとき、ごくまれに「おはよう」と声を掛ける人がいる。だが、非常に例外的存在だ。

 東京では、身近にいる他人たちは皆、不機嫌で怒っているように見える。混んだ駅のホームで接触しても、「ごめんなさい」の声はない。黙って無視して去っていく。

 この無愛想さは、世界的にはむしろ日本が例外的であろう。どこの国でも、人通りの少ない早朝にジョガーがすれ違えば、「やあー」と挨拶を交わすし、他人のからだと不注意にぶつかれば「ごめんなさい」が常識だ。

 きっと、東京で他人に声を掛ける人間は、逆に変態ではないかと気味悪がられる。若い女だったら、そそくさと逃げていくに違いない。

 ところが、山では、そんな若い女まで、積極的に他人に挨拶をする。

 もしかしたら、東京近郊の山々で続いている「挨拶」は、形骸化した伝統ではなく、希薄な人間関係をひとときでも濃密にしてみたいと願う都会人の空しい気持ちの顕れなのだ。

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