2011年1月16日日曜日

チュニジアで何が起きたのだ?


 1月14日、23年間にわたってチュニジアに君臨していた独裁大統領ベンアリが、急速に勢いをつけた反政府デモの拡大に耐え切れず、サウジアラビアへ脱出し、政権が崩壊した。 強権支配の海・中東イスラム世界で起きた唐突ともいえる驚きの政治ドラマをどうとらえるべきか。

 希望的観測をするなら、長いこと停滞していたこの世界で地殻変動が起きつつある前兆、歴史的転換点が表面化した出来事である。

 チュニジアは政治的、経済的に安定し、治安も良く、ヨーロッパ人など外国人で賑わう地中海の観光立国だった。 イスラム教国の中では宗教色は薄い方で、宗教理解が貧弱な日本人にはイスラム世界の入門に最も適した国でもあった。

 おそらく、外国人の目には見えない社会の水面下で、経済的格差、支配層の腐敗などに対する国民の不満が次第に蓄積されていたのであろう。 それにしても、独裁政権崩壊は突然だった。

 きっかけは、大学を卒業しても職のない26歳の若者の焼身自殺だった。中部の町シディブジの市場で野菜を売っていたが、警察官に無許可販売ととがめられた。自殺はそのあとだった。 これをきっかけに抗議行動に火が付いた。 すぐに全土に広がり、当局との衝突で数十人が死亡したとされる。 それによってベンアリ政権への憎悪はさらに深まった。

 ただ、その前に、いわば序曲があった。 あの世界的に注目されたWikileaksの大暴露の中に、ベンアリ政権の腐敗に関する情報があったのだ。 独裁への不平不満は、この暴露によって、まるで可燃性の油のように、ひたひたと社会の底辺に広がっていた。 若者の自殺はマッチのひと擦りだった。

 アルジャジーラなどの中東メディアは、もうひとつの要因に注目した。 インターネットである。 ブログ、ツイッター、facebookなどが、当局のサイバー攻撃、妨害にもかかわらず、政府批判運動の拡大と継続に大きな役割を果たしたというのだ。

 まさに、サイバー社会を象徴する政治ドラマだったと言えるだろう。 だが、新しさはそれだけではない。 1979年のイラン革命以来初めて、大衆行動によって独裁体制が倒されたことに注目しなければならない。

 イラン革命後、中東イスラム世界の大衆は、政治社会改革運動の思想的支柱として、イスラム主義に期待を寄せた。 だが、「イスラムが解決」というスローガンは現実にはならず、過激主義を生み、多くの犠牲者を出し、人々は次第に期待をしぼませていった。 

 1990年代後半には、文明間の対話を訴えたイラン大統領モハマド・ハタミの穏健路線がイスラム大衆に「民主化」という希望を抱かせた。 2001年の9・11事件後は、ブッシュ政権の米国が、テロの温床は非民主的な中東の独裁・専制支配にあると考え、中東諸国に「民主化」圧力を加えた。 だが、その結果は米国には、実に皮肉なものとなった。 エジプトなどで政治規制を緩和して実施された選挙で、反米勢力が大きく伸長したのだ。 こうして、「民主化」はさたやみになってしまった。

 以来、中東イスラム社会は沈滞したままの状態が続いているとみられていた。 チュニジアのドラマが生まれたのは、こういう状況下だった。 だが、これまで変革運動に登場してきたイスラム勢力や野党、軍部といった既成の組織は表立った動きをしないまま、独裁は倒れてしまった。

 これはいったい何なのだ。 まるで、社会変革の未知の要因が作用したかのようだ。 無論、チュニジア情勢は今後、注意深く観察しなければならない。 ベンアリが去って別の人物が指導者になっても、権力構造に変化がなければ、ありきたりのクーデターになってしまうからだ。 ただ、当面は、この新現象に、周辺地域の独裁者たちは神経を尖らせるだろう。 彼らは自国の政治的締め付けを強めるかもしれない。 だが、それは彼らが怯えた証拠だ。

 ゆっくりでもいい。 歴史が確実に転換するのを目撃しようではないか。 

  

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