2015年1月21日水曜日

「イスラム国」報道の舞台裏


 イスラム過激組織「イスラム国」が、日本人男性2人を人質に、日本政府に対し2億ドル、日本円で約236億円という、とてつもない額の身代金を要求し、日本の政府もメディアもあたふたしている。(2015年1月20日) 

 イスラム世界の専門家の数は日本では限られている。 なおかつ、接触が困難な過激組織について語るとなると一握りの人々しかいない。 それでも、メディアはあらん限りの情報をかき集め、報道しようとする。 こうして、普段は日本社会でほとんど関心を持たれない分野の研究者たちが、大騒ぎの渦に巻き込まれる。

 その一人がブログで、メディアに対する腹立たしさをぶつけている。 若い研究者として、ここ数年メディアへの露出度が高い東京大学准教授・池内恵だ。 かなり生意気で横柄な表現だ。 だが、そこから、彼の高ぶる感情が伝わってきて、メディアの現状を知る上で興味深い。 

 保存資料として、転載した。

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「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ

2015/01/20 20:55
本日、シリアの「イスラーム国」による日本人人質殺害予告に関して、多くのお問い合わせを頂いていますが、国外での学会発表から帰国した翌日でもあり、研究や授業や大学事務で日程が完全に詰まっていることから、多くの場合はお返事もできていません。

本日は研究室で、授業の準備や締めくくり、膨大な文部事務作業、そして次の学術書のための最終段階の打ち合わせ等の重要日程をこなしており、その間にかかってきたメディアへの対応でも、かなりこれらの重要な用務が阻害されました。

これらの現在行っている研究作業は、現在だけでなく次に起こってくる事象について、適切で根拠のある判断を下すために不可欠なものです。ですので、仕事場に電話をかけ、「答えるのが当然」という態度で取材を行う記者に対しては、単に答えないだけではなく、必要な対抗措置を講じます。私自身と、私の文章を必要とする読者の利益を損ねているからです。

「イスラーム国」による人質殺害要求の手法やその背後の論理、意図した目的、結果として達成される可能性がある目的等については、既に発売されている(奥付の日付は1月20日)『イスラーム国の衝撃』で詳細に分析してあります。

私が電話やメールで逐一回答しなくても、この本からの引用であることを明記・発言して引用するのであれば、適法な引用です。「無断」で引用してもいいのですが「明示せず」に引用すれば盗用です。

このことすらわからないメディア産業従事者やコメンテーターが存在していることは残念ですが、盗用されるならまだましで、完全に間違ったことを言っている人が多く出てきますので、社会教育はしばしば徒労に感じます。

そもそも「イスラーム国」がなぜ台頭したのか、何を目的に、どのような理念に基づいているのかは、『イスラーム国の衝撃』の全体で取り上げています。

下記に今回の人質殺害予告映像と、それに対する日本の反応の問題に、直接関係する部分を幾つか挙げておきます。
(以下省略)
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2015年1月19日月曜日

推理小説に学ぶジャーナリズム

(主人公キンジーの住むサンタ・テレサのモデルとなったサンタバーバラの街並み)

 カリフォルニアの女探偵キンジー・ミルホーンを主人公にしたスー・グラフトンの推理小説シリーズ。 1982年出版の「 "A" Is for Alibi」(日本語版「アリバイのA」ハヤカワ・ミステリ文庫)に始まり、アルファベット順に続き、最新は2013年出版の「"W" Is for Wasted」。  著者のグラフトンは現在74歳。 あと10年かそこらで、なんとか最後の”Z”まで辿り着いてほしい。 日本語版は2004年出版の「"R" Is for Ricochet」(日本語題名「ロマンスのR」)まで出版されている。

 主人公キンジーはロサンゼルス北方の町”サンタ・テレサ”に小さな探偵事務所を構える30代前半の離婚経験者で独身。 大きくはない町が舞台なので、FBIとかCIAが登場するような派手なストーリー展開はない。 むしろ、話はだらだらと続く。 とにかく、本筋とは関係なく不要と思われる情景描写がやたらと多い小説なのだ。 そういう部分を削れば、ページ数は20%くらいは縮小できるだろう。

 だが、このシリーズは、独身女キンジーの日常生活を織り交ぜながら、どうでもいいディテールがだらだらと続くところに、じんわりと病み付きになる妙な魅力があるのだ。

 例えば、こんな具合だ。 「死体のC」(ハヤカワ・ミステリ文庫1982年)で、キンジーが主要登場人物の一人とたまたま入ったモーテルのバー。

 「店内は細長くてうす暗く、バー・ミラーやずらり並んだ酒瓶、ビールのネオンサインのあるはずのところに、バナナ農園の立体ジオラマが作られ、照明をあてた舞台に見立てて、そのうえに模型のバナナのなったヤシの木々が等間隔に飾られ、ちいさな機械仕掛けの人形たちが、いっせいにバナナの収穫作業にとりかかろうとしていた。 人形たちはみなメキシコ人で、零時の合図とともに、水樽とひしゃくをもった女が現われ、木によじのぼった男が手をふり、ちっぽけな木の犬が尻尾をふりふり吠えだした。」

 キンジーが聞き込み調査のため飛び込みで訪れた男の家では―。

 「キッチンは三十年前のリノリウムの床で、キャビネットはショッキングピンクに塗られている。 旧式の台所器具がならんでいる様子は<レディース・ホーム・ジャーナル>の古いグラビアを見ているようだ。 すみには朝食用の小さな作りつけのコーナーがあり、ベンチには新聞が山と積まれ、細長いテーブルのうえには砂糖壷、ペーパー・ナプキン・ディスペンサー、アヒルの形をした塩と胡椒の容器、カラシ入れ、ケチャップ瓶、A-Ⅰソースの瓶がところせましと出しっぱなしになっている。 彼が言っていたとおり、作りかけのサンドウィッチもおいてある―プロセスチーズのスライスに、オリーブとなんの動物の肉だかわからない塊をまぜたランチミートが中身らしい。」

 モーテルのバーは、本筋に関わる現場でも何でもない。 あくまでも、たまたま入った店だ。 男の家のキッチンもしかり。 そもそも、この男に会って、ストーリーを前進させるような情報が得られたわけでもなく、キンジーにとって無駄足の訪問だった。

 「悪意のM」(早川書房1997年)には、自宅の居間に寝ている恋人ディーツを早朝起こさないように、キンジーがジョギングにでかけるところがある。

 「音をたてないようにドアを閉めて朝の沐浴をした。 靴を手に持ち、ソックスをはいた足で階段を下り、忍び足で外に出た。 靴をはき、簡単なストレッチ体操をし、ウォーミング・アップに早足でスタートした。 夜空は真っ暗から濃い灰色に変わっていて、カバナに着くころには空が白みはじめていた。 夜明けは大きなカンヴァスを淡い水彩のような色合いに染めた。 海はシルヴァー・ブルーで、空はスモーキー・モーヴとソフト・ピーチが混じり合っていた。 油井が虹色のスパンコールの塊のように水平線上に点在している。 私はこの時刻の波音が好きだった。」

 「悪意のM」でも、本筋からすれば、恋人ディーツもジョギングも、外に忍び足で出ることも、まあ、どうでもいいことだ。

 このシリーズは、主人公キンジーの生活ぶり、日常の不平不満や人間関係、食べ物の好み、人格のすべてをさらけ出し、そこに事件を、というより「事件も」織り交ぜていく。

 例えていえば、近ごろ人気のウエアラブルのカメラを主人公キンジーのおでこに装着して撮り続けた動画を、編集カットなしで見るような小説。

 だが、この「無駄だらけ」が、キンジーを身近にいる友人のように思わせる現実感へと読者を引き込む。 つまり、ストーリーが無駄なく、きちんと整理された小説の登場人物と異なり、わき見をし、横道にそれてしまう生身の人間が描かれていると感じさせるのだ。

 だが、著者のスー・グラフトンは「無駄」を描くために、物凄いエネルギーを費やしたはずだ。 ジャーナリストとして、具体的で詳細な描写を読むと、取材にかかった時間を考えてしまい、気が遠くなる。

 例えば、キンジーが入ったバーに設えてあったメキシコ人形の仕掛け。 普通のジャーナリストが同じ場所を描けば、薄暗いバーというだけで人形の仕掛けなどは無視したかもしれない。 もし描写するとなれば、じっくりと観察してメモをするかカメラに収めるという手間がかかるからだ。

 だが、詳細で客観的な観察こそが事実を伝える。 そういう事実の積み重ねが真実を語る。 グラフトンの「無駄」の描写に太刀打ちできるだけの細かな情報を取材できる観察力を持つ。 それは、ジャーナリストのひとつの目標になりうるだろう。

 とはいえ、毎日締め切り時間に追われる新聞記者には、そんな手間隙はかけられない。 真実からどんどん遠ざかろうとも。

2015年1月17日土曜日

「死病・大動脈瘤破裂からの生還」顛末-続編


 ちょうど2年前、2013年1月14日、北海道の富良野スキー場は曇り空だったが、雪のコンディションは悪くはなかった。

 その8か月前、死亡率90%という腹部大動脈瘤破裂で緊急手術を昭和大学病院で受け、命を救ってもらった。 1か月の入院で落ちた筋力はまだ十分に回復していなかったが、スキーをできるまでにはなっていた。 この1か月前には、同じ北海道の夕張で術後初めてのスキーを楽しめていたので、不安はまったくなかった。 それでも、ゆっくりと慎重に滑り始めた。

 異変が起きたのは、ゲレンデを滑り終わろうとするあたりだった。 ロープウェイ乗り場まで200㍍ほど。 突然、胸の上部から背中へ突き抜けるような痛みが走った。

 そのまま雪の上に座り込んでしまった。 まもなくスキー場のパトロールたちが救助用ソリで下まで運んでくれた。 彼らは、ホテルの部屋まで送ってくれると親切に申し出てくれた。 しかし、自分のからだの中で、とんでもない異変が起きたということだけは感じていた。 救急車を呼んでもらい、運ばれたのは地元の富良野病院だった。

 ここで検査を受け、またもや命に関わる大動脈の問題とわかった。 前回は腹部、今度は胸部大動脈解離だった。 苦痛をこらえて横になっているベッドのそばで、若い男の医師がどこかに電話をして容態を説明し、これから患者を運ぶので手術をしてほしいと懸命に頼んでいる声が聞こえた。

 富良野病院では手術をできないので、救急車で1時間ほどの距離の旭川医科大学病院に懇願していたのだ。 どうやら受け入れてもらえることになり、再び救急車に運び込まれ、夏ならばラベンダー畑が広がっている光景で有名な国道237号線の雪道を突っ走った。

 旭川に到着してからのことは、麻酔のためか、まったく記憶がない。 とにかく5時間の緊急手術で命を取り留めたのだ。 だから、こうして生きている。

 今、あらためて担当医師たちが作成した「手術前説明書」を読んでみる。

 「上行胸部大動脈の壁が2層に裂け(解離)、血液が心臓の周りにしみだしている状態で、このまま放置すれば動脈が破裂したり、心臓が動けなくなり死亡する確率が高い(90%)」「冠動脈や脳に血液を送っている動脈にも影響が及んでいる可能性があり、心筋梗塞、脳梗塞を起こす可能性がある」「救命するためには手術が必須」

 まさに死にかかっている。 手術の具体的内容も丁寧に説明してある。

 「左大腿部を切開して動脈に血液を送るための人工血管を吻合」、「胸骨を切開し、人工心肺を回して、低体温(25-35度)にし、心臓を停止するとともに心筋保護液を注入」、「心臓および大動脈の血流を停止させ、大動脈に人工血管を吻合」、「血管を繋ぎおわったら心臓への血液の流れを再開し、弓部分枝(脳や上肢につながる動脈)を再建」、「人工心肺で充分に血液と体を温めた後、人工心肺を中止」、「止血作業をしてから、胸骨を針金で閉じ合わせ傷を縫合」

 素人にも大手術だったと想像できる。 手術の間および術後に起こりうる合併症、併発症にも言及している。

 「高度な心不全(大動脈バルーンパンピングや小型人工心肺の装着が必要)」、「不整脈、徐脈(ときには永久的なペースメーカーの植え込みが必要)」、「心タンポナーデ(心臓周辺に水や血液が貯留、手術などが必要)」、「出血(ときには止血のための手術が必要)」、「傷口の感染が骨に及ぶ縦隔炎(追加手術が必要)」、「脳合併症(脳梗塞など)」、「腎不全(長期化すると透析に移行する可能性も)」、「呼吸不全」、「肝機能障害」、「消化管障害(ストレス潰瘍による出血や虚血などによる腸壊死)」

 自分の幸運に驚いてしまう。 命が助かっただけではなく、これほど多種多様な合併症にも罹らず完全な健康を取り戻すことができたのは、運が良かったとしか言いようがない。 スキーもテニスも山登りも、そして友人たちとの酒飲みも、なにもかもが元に戻ったのは、この説明書を読むと奇跡のようだ。 

 奇跡は幸運の重なりで実現した。 第1に、発症した場所が良かった。 救助がすぐに駆けつけることが可能なロープウェイ乗り場のごく近くだった。 広い富良野スキー場にはパトロールがすぐにたどり着けない場所はいくらでもある。 さらに、富良野病院の若い医師の努力。 彼が旭川医大病院に懸命に頼んでくれなかったら、どういうことになっていたのだろうか。 命の恩人との再会はまだ果たしていない。

 そして旭川医大病院に運ばれ、有能な医師たちの手術を受けることができたことだ。 これは、とてつもない幸運だった。 あとで知ったのだが、この病院の循環器外科の評判は全国的に高く、手術を希望して順番待ちをしている患者は日本中にいるという。 その病院に、緊急というので飛び込むことができたのだ。 東京に戻ってから、掛かりつけの医師に旭川の手術について話したら、通常は7,8時間かかる手術を5時間で終えた手際に感心していた。
 
 神を信じることはない。 宗教心はかけらもない。 だが、なにかに感謝しなければいけない。 そして、せっかく色々な人々の努力で取り留めた命を大切にしなければいけないと真剣に思う。  

2015年1月14日水曜日

今語られていないこと


 狂信的イスラム教徒によるフランスの風刺週刊誌CHARLIE HEBDO襲撃は、世界中を驚かせるに十分な衝撃的事件だった。 まさに、「表現の自由」を暴力的に破壊しようとする行為だった。 こんなことが許されていいわけがない。 犠牲者追悼の大行進にフランス中で370万もの人々が参加したのは、衝撃の大きさを裏付けるものだ。

 ところで、CHARLIE HEBDO とは、どんな雑誌なのだろうか。 過去にも、イスラム教や預言者ムハンマドを揶揄する漫画を掲載して、物議を呼んでいた。どんな漫画かというと、かなり下品だ。 興味があれば、Google の画像検索で見られる。

 ユーモアを越えたどぎつい侮辱、わいせつ的なものすらある。 イスラム教を揶揄するやり方は、おそらく、日本ばかりでなく世界の一般的常識の許容範囲を逸脱している。

 「表現の自由」への暴力は許せない。 だが、他人の信仰をここまで冒涜していいのか。 このテーマについて語るには、暴力への怒りが冷めやらぬ現時点では、タイミングが悪いのかもしれないが。

2015年1月12日月曜日

25年ぶりのビルマ⑤(終わり)

(急速に変貌するヤンゴン、夜明け)
コロニアル風の古いどっしりとした4階建てのホテルだった。 なかなか風格があるじゃないか。 黒光りする重そうな木製のチェックイン・カウンター。 エレベーターは、文字が消えかかったボタンを押すと、降りてきてドシンと大きな音をたてた。 何年前に建てられたのか知らないが、この古さがたまらなくいい。 

 部屋は広くて、天井の高さは4メートルはあった。 バルコニーは10人くらいのパーティができそうなスペース。 まるで大英帝国植民地のご主人様だ。 ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」の世界に時空瞬間移動した気分。
 
 ヤンゴンで過ごすために選んだホテルの一つ。 <Yuzana Garden Hotel>。 思い通りのホテルで大満足。 まずは、持ち込んだ地元ビール「Myanmar」を開ける。 これは、かなりレベルの高いビールだ。 いい気分。

 だが、やがて夜になってトラブルが始まった。

 ヤンゴンで知り合ったミャンマー人に連絡することがあって、部屋で電話をかけようとした。 だが、外線がつながらない。 そこでフロントを呼ぶと、信じられない説明が返ってきた。

 交換手が外に食事に出かけて、その間、外線を切っているというのだ。 どういう交換システムになっているのかわからない。 なんとかしてくれと言ったら、フロントまで来れば自分の個人用携帯電話を使っていいと言う。

 フロントに降りていくと、夜勤の若者がすまなそうな顔をして携帯を差し出した。 使い終わって返すと「電話代はいいです」。 「でも、これ、キミのでしょ?」「ええ、でも構いません」。 ホテルのマネージメントはひどく悪いが、従業員たちはとても親切なのだ。

 問題はまだ続いた。 部屋に戻ってしばらくすると、エアコンが止まり、バスルームのライトも消えた。 再び、フロントに電話をすると、さきほどの携帯の若者が作業着姿の技術者を連れて飛んできた。 バスルームでなにやら作業をすると、すぐにエアコンとライトは回復した。

 ところが5分ほどすると、また同じことが起き、また電話をした。 今度は、技術者とたった2人のフロント係が2人ともやってきて、しきりに恐縮しながら再び作業を始めたが、さきほどよりも長引いている。 フロントは空っぽでいいのだろうか。 へんな心配をしてしまう。

 こうなったら部屋を替えた方がいいんじゃないかと思って、フロント係に提案した。 すると、マネージャーが帰宅してしまったので今は判断できないという。 それじゃあマネージャーに電話で訊いてくれないかと携帯の若者に頼んだ。 まもなくマネージャーは捉まり、部屋の変更をOKしてくれた。

 すぐに助っ人が3人やってきて、フロントの2人と合わせて5人で荷物の引越しは瞬く間に終わった。 従業員たちは本当によくやってくれる。 いろいろと問題のあるホテルだが、彼らの心からの親切と手助けに接していると腹も立たない。 むしろ、なぜか心が和んでくる。

 こんなドタバタで夕食にでかけるには遅い時間になってしまい、仕方ないので、持ち込んだミャンマー製ラム酒のボトルをぶらさげてホテルの食堂に行ってみた。

 宿泊客が少ないせいか、広い食堂に客も従業員の姿もなく、がらんとしていた。 大きな声で「Excuse me!」と言うと、奥の調理場から見たような顔の3人の男が顔を出した。

 なんだ、さっき部屋の引越しで助っ人に来た連中ではないか。 荷物を運んでくれたのは、料理人とウェイターだったのだ。 訊けば、このホテルの夜間勤務者は、部屋に来てくれた6人で全員なのだそうだ。 ホテルの総部屋数は36というから中規模クラスか。 それでも、この人数は少なすぎる。 だが、部屋の引越しにはホテルの総力を投入したことになる。 ちょっとした感激。

 いろいろな国を旅してきたけれど、こんなにひどいマネージメントのホテルに泊まったことはないかもしれない。 それなのに寛げてしまう。 きっと、従業員たちがホテル運営のマニュアルなどに関係なく(あるいは、マニュアルなんか、もともと存在しない?)、人としての優しさで客に接しているからだと思う。
 
 シェラトン・ホテルに泊まったら絶対に味わえないサービス。 この不便きわまりないのに居心地良いホテルに、また泊まってみたい。 でも、今のヤンゴンの変貌が続けば、こんな”へぼホテル”は近いうちに淘汰されてしまうかもしれない。 古き良きビルマと共に。

(終わり)

2015年1月11日日曜日

25年ぶりのビルマ④


 25年前、ヤンゴン中心部の北、インヤ湖に面したアウン・サン・スー・チーの自宅を見に行くには、ちょっとした緊張感を強いられた。 ビルマ人ジャーナリストに頼み、彼のクルマで連れて行ってもらったときには、監視の当局者の注意を引くから、ジロジロ見るなと注意された。 だから、助手席で顔を正面に向けたまま横目で眺めたものだ。

 今、スー・チーの自宅は観光コースにまでなっている。 道路に面した門前では、カメラを手にした外国人観光客がうろうろしている。 土産物でも目玉のひとつだ。スー・チーの似顔絵Tシャツ、スー・チーの顔写真付きカレンダーといったアイテムが店先にずらりと並んでいる。

 2010年から始まった”民主化”で、翌2011年には軍は支配機構から退き、”民政”が久しぶりに復活し、スー・チーも国会議員として公けの舞台に登場した。 これによって、米国をはじめとする欧米や日本などのミャンマーに対する経済制裁が大幅に緩んだ。 

 これをきっかけに、”東南アジア最後のフロンティア”に外資が次々と進出してきた。 日本企業も活発な動きをしている。 かつて、まともなレストランすらなかったヤンゴンの街に、数えきれないほどの日本料理屋が店を開き、かわいらしいミャンマーの女の子をはべらせる日本人向けナイトスポットまで登場した。 まさに、普通の東南アジアになったのだ。

 スー・チー邸見学や土産物屋に並ぶスー・チー関連アイテムは、彼女が稼げる人気アイドルになった”民主化”を象徴する光景だ。

 だが、現状が本物の「民主化」とは思われていない。 とはいえ、人々がかなり公然と軍の批判を口にできるようにはなったようだ。 たまたま乗ったタクシーの英語ができる運転手は「military regime(軍支配体制)が続くうちは、democracy(民主主義)ではない」と、窓を開けた外の騒音に負けないくらいの大声で言った。

 本物の「民主化」でないことは、現憲法を見れば歴然としている。 外国の影響を受けた人物は大統領になることはできないとする規定によって、スー・チーには圧倒的人気があろうが大統領の資格がない。 軍事政権の最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC)は2011年に解散したが、この憲法は軍が国家運営に決定的影響力を持てることを保障している。 つまり、現状は”民主的な軍政”という言葉としては矛盾する奇妙な体制なのだ。

 スー・チーはこの体制と妥協し、人気アイドルになった。 だが、彼女には、反軍政指導者として、人権擁護者として、ノーベル平和賞受賞者として、やるべきことが未だに山積しているはずだ。

 さらに気になるのは、スー・チーが多民族国家ミャンマーで人口の70%近くを占める支配民族ビルマ人の域を越えていないのではないかという疑念だ。 国際的にミャンマーの人権侵害と非難されているイスラム教徒の少数民族ロヒンギャの弾圧に関し、彼女が意図的に言及することを避けている節があるからだ。

 スー・チーは所詮、ビルマ支配層に属する”持てる者”にすぎないのか。 それとも、彼女の大統領への道を理不尽に阻害する現憲法の改定へ向け、さらに勇敢な戦いを継続するのか。 ミャンマーの明日は、まだ見えていない。 

(続く)

2015年1月10日土曜日

25年ぶりのビルマ③


 都会に住んでいる普通の日本人は、仏教とどう関わっているだろうか。

 たいていは、日常生活ではなく、非日常の事態、人が死んだときに仏教は登場してくる。 あるいは死に関係する行事である法事。 墓参り。 それ以外では観光旅行で有名な寺院を見物するくらいか。 ポケットに小銭がなければ賽銭も投げない。 大晦日にどこからともなく聞こえてくる除夜の鐘は風情があるけれど、信仰には結びつかない。

 身近に親しく話をできる僧侶などいない。 彼らが一般人と共通の話題を持っているなどと想像することもできない。 外国人に自分の宗教を尋ねられれば、「Buddhist」と答えるだろうが、実のところは自分が何者か確信はない。

 ミャンマーのパゴダにいると、こんなことを考えたくなってしまうのだ。

 ここでは、人々は祈るだけではない。 昼寝をし、談笑し、弁当を広げて食事の場にもする。 明るい開かれた空間。 静かで落ち着いた寛ぎの時間が過ぎる。 

 パゴダは寺院ではない。 イスラム教のモスク=礼拝所に近いかもしれない。寺院とは僧侶たちが修行し生活する場所で、一般の人たちにはパゴダが公けの信仰の場だ。

 ミャンマー仏教の中心とも言えるヤンゴンのシュウェダゴン・パゴダにいると、この国の政治的転換点の場として、ここが必ず登場してくる理由がわかるような気がしてくる。

 独立の英雄アウン・サンたちの運動の出発点となり、その娘スー・チーが反軍政ののろしを上げたのもここだ。 2007年10月、軍政を批判する民衆蜂起で主要な役割を担った僧侶のころもの色から”サフラン革命”と外国メディアが名付けた運動が巻き起こったときの拠点にもなった。 ビルマ(ミャンマー)では、常に多数の僧侶が、学生らとともに、権力に対する勇気ある政治行動に参加してきた。

 ミャンマーでは、仏教は死の行事を司るだけのものではなく、人々が「生きること」を支え、日々の生活を暖かく包みこむように直接関わっている。 だから、彼らはパゴダで柔らかい表情になる。 だから、僧侶たちは民衆とともに暴政に立ち上がる。

 25年ぶりに訪れたヤンゴンの街並みは、急激な現代化で様変わりしていた。 まるで初めての国に来たような戸惑いと驚きを覚えた。 だが、シュウェダゴン・パゴダの境内に座って、ミャンマーの人々をながめていて、この国の人々の本質は、高々20年かそこらの都市外観の変容には、決して影響を受けることはなかったと思えてきた。

 (続く)
     

2015年1月8日木曜日

25年ぶりのビルマ②


 朝日新聞の有名な女記者で松井やよりという人がいた。 確か、もう亡くなっている。 日本人の男たちの東南アジアでの買春を凄まじい執念で非難する記事を書いていた。 その一途さは尊敬に値した。

 1980年代に、この人がビルマに行ったときの記事を記憶している。 <どぎついネオンが夜の街を彩るバンコクから、静かで落ち着いたラングーンに入るとほっとする。 ここにはバンコクで盛んな買春などない> こんな内容だった。

 当時のラングーンは首都でありながら、近隣のタイ、マレーシア、インドネシアなどの都会と比べれば、田舎町も同然だった。 クルマの通りは少なく、暗く、まともなレストランはほとんどなかった。 経済発展が立ち遅れ、みすぼらしく、哀れなほど貧しかったラングーンには、交通渋滞で空気が汚れバンコクで失われた澄んだ空気だけはあった。

 だが、この女記者が「買春はない」と断定したのは驚きだった。 ネオンがなければ買春がないと決め付ける単純発想。 この地球上で娼婦のいない国などあるのだろうか。 たまたま、この記事が出た直後にラングーンに行ったので、ラングーンの買春事情を徹底的に取材し、生身の人間理解に欠けていると思われる女記者に対するあてつけがましい記事を書いた。 多少、おとな気なくはあったが。

(朝日新聞には鼻持ちならない性格の悪い記者が多いと記者仲間では言われている。 だが、それでも朝日はいい新聞だ。 右翼が最近、朝日解体論を口にしているが、朝日を潰してはいけない。言論のバランスが取れなくなってしまう)

 25年ぶりのラングーン、いやヤンゴン。 かつての静寂さはどこにもなかった。 見事に、普通の東南アジアの都市に変貌していた。 喧騒と猥雑、交通渋滞、建設が進む高層ビル。 夜の街はすっかり明るくなり、覗いてみたくなるバーやレストランがあちこちにある。

 1962年の軍事クーデターで、ビルマ経済を牛耳っていた華僑と印僑を追い出し、ビルマ人主体の経済体制、ビルマ式社会主義が始まった。 それは、外的勢力の影響を極力排除した鎖国体制でもあった。 しかし、明らかな失敗であった。 歴史的に戦争で一度も負けたことがなく、常に見下していた隣国タイに経済力で大差をつけられた。 当然、国民の不満は募った。 80年代末、アウン・サン・スー・チーが登場したのは、こういう時代だった。 軍政は国民の大多数が求める民主化を力で押さえたが、国家の未来には何も見えなかった。 そして、軍政がやっと学んだのが鎖国からの脱却、民主化と経済開放の必要性だった。 こうして、長く幽閉していたスー・チーを解放し、外資への門戸を開いた。

 今ヤンゴンで目にする光景は、その果実だ。 それがいいことか悪いことか、まだわからない。
 
 伝統的な生活も変わった。 25年前、市内のガンドージ湖をジョギングで1周したことがある。 その姿を知り合いのビルマ人に目撃され、顰蹙を買った。 理由はショートパンツ姿が、はしたないというものだった。 そんなバカな、と思って、中心部の茶店に1時間ほど座って、通行人を観察してみた。 すると、確かに男であっても短パン姿は皆無だった。 まれにズボンを見るが、ほぼ100%がロンジーという伝統の腰巻を着用していた。
 
 それが今はどうだ。 男の短パンばかりでなく、女の短パン、ミニスカートもごく普通のファッションになっていた。 茶髪でスマホ片手の若者たちの姿は、バンコクや東京、いや世界のどこの国ともなんら変わりはない。

 グローバリゼーションを理解するには、国境を越える経済などという小難しいテーマよりも、街のファッションを観察する方がわかりやすい。 朝のインヤ湖畔でウォーキングをしているときに、今風の若者が話しかけてきたので、「民主化はいいね」と鎌をかけてみた。 彼ははっきりと答えた。 「スー・チーの政治活動が認められたって、軍支配体制が続いているかぎりは、本当の民主化とは言えない」。 軍の政治支配を保障する現憲法が存在するかぎり、”民主化”などクソくらえということだ。

 そう、彼の「民主化」理解は、彼のファッション・センスと同様レベルの国際基準に達していた。

 (続く)  

2015年1月7日水曜日

25年ぶりのビルマ①


 近ごろ軍政下の民主化と経済発展で注目されているミャンマー、かつてのビルマへ、25年ぶりに行ってみた。 みすぼらしかった国がどれだけ変貌したのか眺めるセンチメンタル・ジャーニーだった。

 この小旅行について書こうと思ったら、起点は東京・品川のミャンマー大使館になった。 ビザ取得のために訪れた大使館で、早くも軍政ミャンマーという国家に足を踏み入れたと感じたからだ。相変わらず、お手軽に遊びにいくというわけにはいかない。

 今どき、東南アジアで、日本のパスポート所持者に事前の観光ビザ取得を義務付ける国はミャンマーだけだ。 しかも4000円も取る。 依然として閉ざされた国なのだ。

 ビザ申請には6ヶ月以内に撮影したカラー証明写真を添付しなければならないのに、申請書には、わざわざ髪の色、目の色、それに肌の色(complexion)まで書かねばならない。 以前はどうだったか忘れたが、日本人にはあまり馴染みのない申請だ。 だから、自分の目の色を書き込むときは、ちょっと迷った。 日本では「目の色が黒いうちは・・」などと言うが、たいていの日本人の目は、黒というより濃い茶色だ。 面倒なので申請サンプルと同じ「black(黒)」にしておいた。

 さらに迷うのは肌の色だ。 申請サンプルは「yellow」となっているが、普通の日本人が、自分の肌を黄色と思っているわけがない。 それに「yellow」は差別語じゃないのか。 この項目もビザ欲しさの一心で逆らわずに「yellow」と書いたが。
  
 職業証明書なるものも必要だ。 主婦であれば非課税証明書、年金生活者は年金受給通知書を提出しなければならない。

 まだある。出入国フライト、訪問地、滞在ホテル等のスケジュール表も出さねばならない。 いつも旅行は行き当たりばったりなので、これはいい加減に書いておいた。

 ジャーナリストには、もうひとつ。 「メディア関係の方が観光ビザを申請する場合は、観光目的の渡航であり取材活動をしない旨を記した誓約書及び、会社からの休暇証明書が必要」となっている。

 観光ビザで入り込んで取材はするな、というわけだ。

 実は、ビルマ(ミャンマー)にはジャーナリストとしての取材で、過去数回行ったことがあるが、1度も正式にジャーナリストのビザを取得したことがない。 すべて”不法入国”だった。

 忘れもしない1回目は、1983年10月韓国の全斗煥大統領一行がラングーン(ヤンゴン)で北朝鮮工作員による爆弾テロ攻撃を受け、多くの閣僚を含め21人が殺害されたラングーン事件の取材だった。

 東京の大使館では観光ビザを申請した。 そのとき職業を「レストラン経営」と書いたら、受付の日本人女性スタッフが偶然なのか、ひっかけなのか、「あら、私の夫もレストランをやってるんです。どこですか?」ときいてきた。 慌てて「新宿です」と答えたら、この女性は「うちも新宿、新宿のどこですか?」と畳み掛けてきた。 「やばい」と思ったけれど、当時よく行っていた新宿3丁目の飲み屋を頭に描いて、懸命にウソをついた。 なんとかビザを取ったが、今思うと、あの女はインチキ申請の見破り役だったに違いない。
 
 最も冒険的な訪問は、ビルマの少数民族カレン人の反政府ゲリラとタイから国境の川をボートで渡って潜入したときだった。 峡谷の崖の上では政府軍兵士が自動小銃を構えて警備していた。 そのとき一晩を過ごしたカレンのゲリラ基地「マナプロウ」は、のちの政府軍の大規模作戦で壊滅し、今は存在しない。

 考えてみれば、今回のミャンマー訪問は画期的だ。 なにしろ、正式に観光ビザを取って、本当に観光に行くのだから。 しかも、今では成田から全日空の直行便でヤンゴンに簡単に飛べる。
 
 ミャンマーに到着してみて、つくずく思った。 不法入国じゃないのはいいなあと。 どこかで見ているかもしれない監視の目を気にしなくていい。 25年前までの圧迫感からやっと解放されたのだ。

(続く)