2010年9月28日火曜日

多摩川両岸の品位


 昼下がり、多摩川の川崎側、丸子橋付近のサイクリング・コースを自転車で散歩しているうちに、携帯電話を落してしまった。 電話会社に連絡すると、GPSの位置情報で、川崎市中原区小杉1丁目の半径1.5km以内にあると教えてくれたが、半径1.5km、つまり1.5×1.5×3.14(円周率)=7.065平方kmの範囲のいったい、どこを探せばいいのだ。


 警察に遺失物届けをしたものの、発見はほとんど諦めていた。 ところが、みつかったのである。 夕方、自宅の固定電話にかかってきた男の声が、携帯を拾ったので渡したいというのだ。


 男は、自分の居場所は河川敷のテントだと説明した。 どうやらホームレスらしい。 その日は暗くなっていたので、翌日行ってみた。


 指定された場所には、想像していたブルーハウスではなく、小奇麗なコールマンの一人用テントがあり、外から声をかけると、50がらみのよく日に焼けた男が、ニコニコ笑いながら顔を出した。


 テントの中には、小さなテーブルがあって、「白鶴まる」の200mlカップ酒、「KIRINのどごし<生>」の350ml缶がそれぞれ数本、空になって転がっていた。 奥の方には、4ℓのペットボトル焼酎「大番頭」も見えた。

 

 「きのう、酒を買いに出かけたときに拾ったんだよ。持っていきな」。 あっさりと携帯を渡してくれた。


 丁重にお礼を言って、どうやら酒が好きらしいので、テーブルの上のカップや缶の数から酒代を頭の中で計算して、ちょっと少ないかなと思いつつ千円札2枚を握らせた。


 すると、男は「そんなつもりじゃねえ」と強い力でカネを突っ返してきた。 しばし押し問答をした末、結局、「今度、酒を持って遊びに来るよ」と言うと、相手はやっと満足してくれた。


 ホームレスだって礼節はわきまえているんだというプライド、矜持と言ったら、優越感で男を見下したことになろう。 そうではない。 普通の人間の普通の行為だった。 なにしろ、ホームレスの男も携帯を持っていたのだから。 


 秋晴れの下、河川敷には野球に興じる子どもたちの声が響き渡っていた。 気持ちの良い、さわやかな1日だった。


 多摩川の向こう側に見える河岸段丘のあたりは田園調布。 数年前のことを思い出す。 そのときは財布を落とした。 このときも運良く、田園調布警察署から「みつかった」と連絡があった。


 拾い主は田園調布の住民だった。 まずはお礼を言おうと電話をした。 だが、相手の応答で、すっかり厭な気分にさせられた。


 東京を代表する高級住宅地・田園調布の財力と知性、教養のある住民という先入観が大間違いだったのだ。 いきなり、「それ相応の謝礼を出すんだろうね」と露骨にカネを求めてきたのだ。 このときは本人に会って、皮肉を込め多過ぎる額の現金を渡し、あとで反省した。


 多摩川の両岸。 河川敷と高級住宅地。 人間の品格には関係ない。 

2010年9月22日水曜日

特捜検事の逮捕とメディア


 日本で優秀な新聞記者とは、役人や政治家の行動や決定をいち早く察知し、それを「トクダネ」として報じる者をいう。


 そうなるための精神的、肉体的苦労は生半可なものではない。 役人たちの帰宅後の深夜、出勤前の早朝、自宅に押しかけ情報を聞き出そうとする。 「夜討ち朝駆け」という。 世間一般の人から見れば、いつ寝るのかと訝しく思うかもしれない。 だが、それは問題ではない。 彼らは暇なとき、ところかまわず惰眠を貪っているのだ。 そんなことより、非常識な時間に他人の家の玄関ベルを押すむ無神経さ、暗闇の中で役人の帰りを待つしぶとさが凄い。


 役人たちに食い込めば、夜討ちのときには酒を振る舞ってもらえるし、朝駆けついでに朝飯もご馳走になる。 ここまでの関係になれば、たいていの情報は流してもらえる。


 重要なのは信頼関係を築くことだ。 例えば、自衛隊に批判的な朝日新聞の記者が懸命に防衛省の役人に食い込んでも、自衛隊擁護派の読売や産経の記者にかなわないかもしれない。(ただ、内部告発の場合は逆になる可能性もあろう) 


 だが、こうやって情報を得る行為は、物乞いと大きな違いはない。 物乞いが差し出されたものを拒否しないのと同様、記者たちは「トクダネ情報」を有難く頂くのだ。


 これが、日本の新聞記者の伝統的取材手法と習性である。


 役人や権力者側からすれば、目の前をうろうろする記者たちの存在は鬱陶しくもあるが、彼らの習性がわかれば利用するのも容易い。 こちらに都合の良い情報をトクダネという餌にしてばら撒けば、食らいついて宣伝してくれる。


 こうした日本型報道には当然、構造的問題が指摘されている。 とくに怖いのは、警察・検察の報道だ。


 事件で逮捕された被疑者の取調室での言動は、警察・検察の独占情報だ。 記者たちは、普段から情を通じ合っていた警察官・検察官に夜討ち朝駆けをし、”犯人”の自供内容を聞き出す。 そして、”官憲”からの情報だからと裏付けがないまま、それを「真実」として報じる。 この時点で、記者と警察官・検察官は、まるで一心同体であるかのようだ。


 こうして、過去、どれだけの冤罪事件がもっともらしく報じられてきたことであろう。


 9月21日、大阪地検特捜部のエリートと言われた主任検事が、こともあろうに前代未聞の証拠隠滅容疑で逮捕された。 この検事は、さる10日に無罪を言い渡された厚生労働省元局長・村木厚子の事件を担当していた。


 日本の新聞、テレビは、「地に落ちた特捜地検の威信」を連日報じている。 それはいい。 だが、昨年6月、特捜部によって村木が逮捕されたときは、どのように報じたのか。 特捜部の検事が一方的に流した情報を鵜呑みにして報じてはいなかったのか。 


 もはや、こんな指摘は「王様は裸だ」と叫ぶほどのことではなく、今や誰もが口にする「つぶやき」だと思う。

2010年9月14日火曜日

平和すぎる八丈島


 澄んだ青い空と熱帯樹林の濃い緑。 その光景は東南アジアのどこかなのだ。 だが、人々は皆、日本語を話し、その上、道路を走るクルマのナンバープレートは「品川」ばかり。 ここは、一体どこなのだ? そういえば、空港ではパスポート・チェックも税関もなかった。

 羽田空港からANAのフライトでわずか50分、喧騒の東京の一部とは思えない別世界・八丈島の第一印象。

 伝説の女護が島。 女しか住まず、彼女たちは外部世界から訪れた男たちを夢み心地にさせる歓待をしたという。

 今も平和の島であることに変わりはないようだ。

 泊まった民宿でクルマを借りた。 宿のオヤジさんは言った。 「駐車するときは、暑いからクルマの窓は閉めなくていい。 鍵もつけっぱなしでいい。 泥棒なんて、この島にはいないから」
 だから、島に滞在していた5日間、言われたとおり、ずっとそうしていたが、何も起きなかった。(おかげで、東京(騒がしい23区の方の)に戻ってから、しばらくの間、クルマをロックするのにひどく煩わしさを感じた)
 こんなところに警察などが果たして必要なのだろうか。 島の中心、三根地区には八丈島警察署の立派な建物がある。 島の各所には、真新しくて小奇麗な駐在所が設けられている(”駐在さん”の姿は5日間に1度も見なかったが)。
 彼らは毎日、何をして過ごしているのだろうか。
 島の人たちにきくと、「何してるんですかねえ」と言って、ニヤニヤ笑う。 彼らにも、ある種のミステリーであるらしい。 だが、いくつかの答えはあった。
 「酔っ払い運転の検問は、夜ではなく早朝にやる。 二日酔いを捕まえるんだ」
 「警察の取り締まりは、酔っ払いを除けば、シートベルト着用くらいかな」
 「警察官の転勤時期のあと1,2か月は新任が張り切って、取り締まりが厳しいよ」

 二日酔いとシートベルトの取り締まりだけでは、警察の存在意義を認めるわけにはいかない。
 なにしろ、人口8200人の八丈島で、年間(2009年)の人身交通事故はわずか10件(八丈島警察署ホームページ)。 比較のために人口1000人当たりの年間発生率に換算すると、1.19件。 ちなみに警視庁警察署索引でたまたま隣りに並んでいる八王子警察署管内では7.9件。 八丈島は、その7分の1。
 八丈島にクルマ泥棒がいないわけではない。 だが、昨年1年間で3件。 これも八王子と1000人当たりの発生率で比べると、7.9対0.36. わずか22分の1。 威張ることもないが、車上狙いだって、ちゃんと存在する。 だが、昨年はたった2件。
 車上狙い2件という数字は、限りなくゼロに近い。 統計的意味があるとは思えないが、八丈島警察署ホームページは、「車上狙い施錠別割合」として「施錠なし100%」という”統計数字”を掲載し、さらに、熱心な仕事ぶりを強調するがごとく、「鍵かけロック運動推進中」とうたっている。 冗談だろ、たかだか2件のために。
 交通事故にしても犯罪にしても、発生数が絶対的に少ないのだ。 まさか、警察も含め誰だって、安全が警察の努力のおかげとは思っていないだろう。 クルマで1周2時間ほどの島で、悪いことなどやる余地はないし、離島から逃げ出すリスクを考えれば犯罪者には割が合わない。
 平和すぎる島の警察官は可哀そうだ。 犯罪者を捕まえるのが仕事なのに、犯罪者がいないのだから。 魚のいない池で釣りをしているようなものだ。
 とはいえ、仕事のない警察官に給料を払い続けることが税金の無駄使いだと決め付けるのは難しい。 いつか何かとんでもないことが起きる可能性は誰も否定することができない。 そのための保険と考えることはできる。 
 ただ、問題は危険発生の確率だ。 掛け捨ての保険は安全を担保できても高くつく。 
 残念ながら、八丈島で警察は自分たちの役割を住民たちに十分納得してもらっていないように思える。  

 もっとも、警察自体がそんな努力をしたことはないだろう。 人のいるところ犯罪あり、犯罪のあるところ警察あり、という性悪説を基盤とする組織なのだから。

2010年8月30日月曜日

老人たちの行方


 最近、静岡県某所の人里離れた山道を歩いていたとき、急傾斜地の狭い畑で老婆が一人、野良仕事をしているところに出くわした。 「こんにちは」と声をかけたその時、周辺の暗い森の中から、こちらを窺っている、いくつかの視線を感じた。同時に、落ち葉の上を何人かが歩く「カサカサ」という微かな音が遠ざかっていった。


 日本の過疎地域を研究する専門家や役人たちは、過疎集落の中でも、若者たちが消え、65歳以上の高齢者が住民の半数以上を占め、コミュニティとしての存続が危ぶまれるケースを「限界集落」と呼ぶ。

国土交通省の2006年調査では、全国に7878の「限界集落」が存在する。


 海上保安庁の統計によると、日本は6852の島で成り立っているが、なんと、このうち6415は無人島だ。 知られざる島は意外と多いのだ。


 近ごろ、「限界集落」とされる僻地で、老人の姿がいつの間にか増えたような気がするといった話を聞かないだろうか。


 人が住んでいないはずの無人島近くを夜間に通りかかった船舶から、微かな明かりを見たという目撃談が増えてはいないだろうか。


 100歳以上の高齢者が全国で数十人も行方不明になっていることがわかった。 90歳、80歳、70歳と年齢を下げて調査すれば、行方不明者の数は計り知れない。


 彼らの多くは死んでしまったかもしれないが、どこかで生きているのもいるはずだ。 


 彼らは老人に冷たい日本社会から逃げ出して、自分たちの駆け込み寺となる秘密コロニーを作り、集団生活をしているという噂を耳にしたことはないだろうか。


 カモフラージュ型コロニーは限界集落であり、外部との連絡遮断型は無人島だ。


 秘密コロニーの存在は、まだ公的には確認されていないし、報道もされていない。

  

2010年8月16日月曜日

ラジオ体操のメンタリティ


 夏真っ盛り。 時の流れとともに風景は変わっても、神社や寺の境内、公園、広場で早朝に見られる光景は昔のままだ。 ラジオ体操。 


 親に叩き起こされたような寝ぼけ顔の小学生たちが、とても体操とは呼べないダラダラした動作を嫌々ながら続けている。 大音響のラジカセのわざとらしい元気な掛け声がなんとも空しい。 十年一日のごとく、こうして気だるい夏の一日は始まる。


 ラジオ体操は、まじめにやれば、きっと本当に健康に良いのだろう。 だが、子どもたちはなぜか昔から、適当に体操をやっているふりをして帰っていく。 いやなら参加しなければいいのに、無意味な体操なら止めればいいのに、朝寝の誘惑を断ち切って出席する。


 早起きが苦にならない老人たちには適度な運動になるらしく、彼らは夏だけではなく一年中、積極的に集まってラジオ体操をやっている。 彼らの動作がやる気のない小学生の動作に似ているのは興味深い。 老人たちは一生懸命やっているつもりでも、からだが硬くなっているので、さぼっている小学生程度にしか動けないのだ。 


 老人たちは別にして、たいていの子どもがやりたがらない夏休みラジオ体操なのに、それがえんえん続く。


 ラジオ体操は、1925年、米国のメトロポリタン生命保険会社が宣伝のために放送したのが始まりだ。 当時、米国へ視察旅行した逓信省簡易保険局の猪熊某という人物が帰国後、日本でのラジオ体操実施を提案し、1928年11月1日午前7時、天皇の御大典事業の一環で放送されたのが、日本での事始めとなった。


 NHKで放送を担当した軍人上がりのアナウンサー江木理一はマイクの前でパンツ1枚で体操をしていたという。 だが、照宮成子内親王もラジオ体操にご執心と聞くや、燕尾服の正装で臨むようになったという。 無論、当時テレビはなく、文字通りラジオ体操だったのだが。


 夏休みのラジオ体操会は、1930年7月21日、東京・神田万世橋署の巡査・面高某が神田佐久間町の佐久間公園で「早起きラジオ体操会」を始めたのが起源とされる。


 歴史は、ラジオ体操が昭和という時代に入り、官製の音頭取りで、日本が狂気の戦争へ突入するための助走を開始するとともに始まったことを教える。


 「早起きラジオ体操会」が始まった翌年1931年7月「ラジオ体操の歌」発表、その2か月後の9月、日本は中国東北部への侵略を開始(満州事変)。


 1932年7月、青壮年向けラジオ体操第2制定、「全国ラジオ体操の会」始まる(参加者延べ2,593万人)。 満州国独立。


 1933年、日本が国際連盟を脱退。


 1937年、日中戦争へ突入。


 1938年、国家総動員法。


 1941年、太平洋戦争。


  ラジオ体操は、国民の一体感を醸成し、無謀な戦争遂行に欠かせなかった全体主義支配体制構築に貢献したのだ。 実際、太平洋戦争後の一時期、ラジオ体操は軍国主義的色彩を理由に禁止されたことがある。


 それでは、なぜ戦後も夏休みのラジオ体操はだらだらと続いているのだろうか。 単なる惰性か。 まさか、全体主義国家復活のための地道な努力ではあるまい。 北朝鮮のマスゲームのように一糸乱れぬラジオ体操であれば、薄気味悪い。 むしろ、やる気のない、いいかげんな体操だから誰も文句を言わず、受け入れられているのかもしれない。


 それだけではなく、文句を言わずに参加するところに意義があるのだと思う。 個人よりも集団の意思を尊重する日本社会の集団主義形成の基礎を学ぶ場になっているのだ。


 どんなに疲労しても満員電車に揺られて出勤する父親たちのメンタリティを、小学生たちは早起きラジオ体操に、意思に反して参加することで学んでいる。


 だが、もう、それは止めたほうがいいかもしれない。 我慢のメンタリティは、戦後日本の高度経済成長の土台になったが、従順なヒツジたちの時代は終わった。 今後の時代は、ラジオ体操参加の呼びかけを平然と無視する強い個性を持つ悪がきたちが、新しい未来を冒険的に創造していくにちがいない。


(ラジオ体操を提唱した逓信省簡易保険局とは現在の「かんぽ生命」で、今も学校などを通じて無料配布されるラジオ体操出席カードの主たるスポンサー)

 




 


  

2010年7月30日金曜日

東京スカイツリーは壮大な虚像か


 東京・世田谷が高級住宅地になるずっと前、農村風景がたっぷり残っていたころ、どこからでも、西の地平には富士山がくっきりと見えた。 東は目印がないから、どこまで見えたのかわからなかった。 だから、奇妙な建造物が次第に高くなっていくのが何なのか、知っている人は当初あまりいなかった。 それが東京タワーだった。



 戦争に負けた日本が、有名なパリのエッフェル塔よりも高い世界一の鉄塔を作る。 そう、それはまさに、戦後復興の象徴である。 畑の胡瓜をかっぱらって、かぶりついていた世田谷の洟垂れ小僧たちも、遠くに見えるのが東京タワーだとわかると、東の地平を眺めることが、毎日の楽しみになったものだ。 東京タワーは、経済発展にばく進する戦後日本人の精神史に、くっきりと刻まれたモニュメントである。



 今、333mの東京タワーをはるかに凌駕する634mの「東京スカイツリー」の建設が進んでいる。 これも世界一だという。 テレビや新聞は折りあるごとに、高さがどこまで達したか、どれだけ遠くから見えるようになったかを興奮気味に報じている。 「ついに東京タワーを抜く」とか「400mに達する」云々。



  だが、世間の人たちは、”新東京タワー”にどれほどの関心があるのだろうか。 おそらく、少なくとも、興奮するほどのものではないと思う。 テクノロジーの発展で、この程度の高さの建築が難しくない時代となり、世界を見渡せば各地にニョキニョキと立っている。 決して物珍しくはない。



 そもそも、こんな巨大タワーを建設する必要が本当にあったのかどうか、よくわからない。


 来年7月にテレビ放送は地上デジタルに完全移行する。 地デジ電波を行き渡らせるには600mの高さの塔が必要で、スカイツリー完成後は全テレビ局が使用するという。 つまり、現在、全テレビ局が利用している東京タワーは要らなくなるというわけだ。


 東京タワー側も手をこまねいていたわけではなく、東京タワー改修案を出していた。 現在より30mほど高くして、デジタル放送用アンテナを350mの高さに設置するというもので、これで地デジ放送に十分対応できるという内容だった。 ”新東京タワー”の建設費500億円に対し、改修なら40億円で済むという。


 だが、マスコミはこうした動きをほとんど報じなかった。 これが税金を使う公共事業だったら、マスコミはこぞって、”新東京タワー”建設を税金の無駄遣いとこき下ろしたであろう。 ところが、逆に、テレビも新聞も声をそろえて、”夢の大事業”と称賛しまくっている。


 多分、見えないところで、国家意思が働いているのだと思う。 その意図は何か。


 馬鹿げた戦争に負けるべくして負け、打ちのめされた日本人が立ち直るときの象徴になった東京タワー建設の高揚感を人工的に再現しようとしているのだ。 


 日本が唯一自信を持てた経済が停滞し、国民の心はばらばらになり、中心を失った。 日本国民が再び一つになるには、サッカーW杯だけでは心もとない。 南アフリカで多少は頑張ったが、弱小国にしてはよくやったという域を出たとはいえず、しかも勝負は水ものだから、確かな中心にはなりえない。 本当は、東京オリンピックに期待していたのだろう。 だが、誘致に失敗した。


 もはや国民の心の再統一を推進するカードは、東京スカイツリーしかない。 国家意思は叫んだ。 「スカイツリーを宣伝しろ!!」


 最近、友人と車で東京から千葉方面へ高速道路で向かっているとき、巨大な建造物が目に入った。 「あれは何だ」「スカイツリーってヤツじゃないかなあ?」「うん、そうかもしれない」。 会話はこれでおしまい。 関心もなければ興奮もなかった。 少なくとも、われわれ二人のところに国家意思は伝わっていなかった。


 それより、不要になった東京タワーはどうなるのだろうか。 テレビ局が去れば、主たる収入は展望台を訪れる観光客に頼るしかないに違いない。それとて、もっともっと高いスカイツリーに奪われ先細りが目に見えている。


 現実的展望は、<解体>に違いない。 これは、すごい見ものになる。東京タワーの解体の方が感傷的で、国民の関心は、スカイツリーの完成より、はるかに高まるだろう。


 まるでビデオを逆回しするように、東京タワーがだんだん低くなって、ついには消えてしまう。 多くの人が涙にくれ、映画「三丁目の夕日」が全国で再上映されるだろう。


 かくて、東京タワーを葬り去ったスカイツリーは極悪人として、その姿をさらし続けることになるのだ。

2010年7月27日火曜日

山ガールたちの使命


 昨年の9月ごろから両膝の故障が悪化して、ジョギングどころか歩行にすら支障が出て、悪友から居酒屋に呼び出しを受けたときは、杖をついて出かけるはめになった。 そんなにまでして飲みに行くことはないだろと言われるが、飲みにいくなら車椅子だって買うだろう。 C'est la vie!!
 だから、苦痛に耐えて、テニスもスキーもやめなかった。 それはほとんど自虐的快感でもあった。 ただ、山歩きだけは控えた。 山の中で身動きできなくなるのは、やばい。 命とともに、様々な楽しみを捨て去る気はまだ毛頭ない。 とはいえ、山の自然と霊気の中に身を置く気持ち良さを諦めたわけではなかった。
 コンドロイチンだとかグルコサミンとか変形性膝関節症で擦り減った軟骨を回復するというサプリメントの広告が、ちまたには溢れている。 だが、医者の診断を信じれば、「あなたの関節に問題はない。 腱か筋肉の過労でしょう」。
 「だったら自分で治してやろう」。 春が来たころから、膝を中心としたストレッチング、それにサイクリングを開始した。
 ストレッチングは、腰痛をこれで治した経験があったからだ。 飲み屋の小上がりで長いこと胡坐をかいていると固まってしまう腰が完治した。 サイクリングは、たまたま膝の痛みが強いときに自転車に乗ってみたら、痛みが和らいだのを感じたからだ。 ペダルを踏むときではなく、膝を引き上げるときの動きが硬くなった筋肉をほぐすようだった。 とにかくサイクリングをすると膝が軽くなる。
 膝痛はみるみる改善した。 だが調子に乗りすぎるのはいけない。 パラオにスキューバ・ダイビングに行ったついでに参加した5キロの市民マラソンで痛みがぶり返してしまった。

 それで一から出直し。 どうやら体幹、体軸にしっかり乗って歩いたり走ったりすれば、膝への負担がかなり軽減されることがわかった。 つまり正しい姿勢で正しく動くこと。

 そして、ついに山歩き再開。 7月、高尾山、御岳山、大山と東京近郊三大ハイキングコースを制覇した。 いやー、嬉しかったね。 膝はけろりとしている。
 約1年ぶりの山。 それにしても驚かされたのは、山行く人々の様変わりだった。
 中高年の遊園地と化していた山々に、若い女たちがどっと繰り出していたのだ。 これは、ある種の浦島太郎体験だと思う。 膝の”闘病生活”のあいだに、山の世界は豹変していた。

 若い女たちは、奇妙なファッションを身にまとっていた。 ミニスカート風の腰巻、その下は派手なタイツやスパッツ。 東京近郊の低山を歩くにしては高価そうな山靴。

 第一印象は、カラフルなやぶ蚊。 やぶ蚊の黒と白の縞々をどぎつい原色で塗り替えたようなタイツがとくに人気のようで、あちこちで目にした。 ジジイ・ババアたちの従来のくすんだ色彩を小ばかにしたような色の氾濫。
 あのミニスカート風腰巻は、そもそも着けている必要があるものなのか。 おそらく、実用性の議論などは、ファッションからすればナンセンスでしかないのだろう。
 あとで、彼女たちが「山ガール」と呼ばれているのを知った。 誰かが仕掛けたビジネスらしく、ネットには「山ガール」のファッション・アイテムがずらりと並んでいる。
 まあ、最初は奇異な印象を受けたが、悪いことではない。 第一に、山に若者たちが帰ってきたのは嬉しいことだ。 若い女がいれば、金魚の糞みたいに若い男がぞろぞろついてくる。

 大学山岳部や○×山岳会がでけえツラをしていた光景は、もはや化石時代。 現代はみてくれの時代なのだ。 みてくれの追求が、山をはなやかにしてくれるし、日本経済の復活に多少の貢献だってしてくれるだろう。
 それにしても、「山ガール」が山で遭難でもしたら、新聞だとかのオールド・メディアは「ファッション登山に警鐘を鳴らす」なんてクソまじめな社説を掲げるに違いない。
 遭難しようが、右傾化メディアの好きな言葉で言えば「自己責任」だ。 彼女たちの使命は、つまらない批判にへこたれない精神的・肉体的強靭さを身につけることだ。
 山の復活は、当面、彼女たちの双肩にかかっているように思えるからだ。 いや、双肩じゃなくて、みてくれかな?
 というわけで、元気になりました。 C君、久しぶりに山に行きませんか?