2014年3月28日金曜日

ジョージ・クルーニーの恋人はアラブ人


 報道によれば、アメリカの映画スター、ジョージ・クルーニー(52歳)の新しい恋人は、ロンドンで最もホットな女性弁護士に選ばれたインテリのイギリス美人。 だが、実は、レバノンの首都ベイルート生まれのアラブ人なのだ。 とにかく、彼女はカッコいい。 古臭いアラブ観に囚われていれば、戸惑わされる。

 アマル・アラムッディーン、36歳。 国際法、人権問題の専門家で、米国が指名手配し、スウェーデン当局がレイプ容疑で逮捕しようとしているウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジの弁護士を務めている。 また、ウクライナ政府の人権侵害を訴えているティモシェンコ元首相の代理人としても知られている。 その美貌ばかりでなく、国際刑事裁判所や欧州人権裁判所での華々しい活動は、ジョージ・クルーニーとのゴシップが発覚する以前から人目を引いていた。

 彼女は、かつて「中東のパリ」と呼ばれたコスモポリタンな都市ベイルートの女たちの「ひとつの典型」かもしれない。 地中海に面したおしゃれな街には、おしゃれな女が似合う。 アマルのような女は、ベイルートの通りや高級レストランでよく見かける。 伝統や因習にとらわれず、最新の西欧ファッションを堂々と着こなし、英語やフランス語を流暢に話す。

 「ひとつの典型」。 そう、レバノンという国には、いくつもの「典型」がある。 歴史家アーノルド・トインビーはかつて、レバノンを「宗教の歴史博物館」と表現した。 イスラム教とキリスト教のいくつもの宗派が、複雑な歴史的経緯で混在しているからだ。 それぞれの宗派の人々には、それぞれの「典型」がある。

 アマルは、ドルーズ派の家族に生まれた。 1990年までの15年間で国土を荒廃させたレバノン内戦で大きな戦闘力を持った一派だ。

 ドルーズ派は、イスラム教シーア派から派生したとされる。 だが、正統的イスラム教徒たちは、彼らを異端だとして、イスラム教とは認めていない。例えば、メッカを聖地とみなさないため、礼拝の向きはメッカではないし、メッカ巡礼も行わない。 イスラム教にはない人間の輪廻転生をも信じている。

 ドルーズ派の人々は、本来のイスラムとかけ離れたせいか、日常生活面を宗教で律することがあまりないように見える。 非常に世俗的で、西欧文明を寛容に受容してきたようだ。  食事もファッションも、タブーのない自由を楽しむ。 男たちは、イスラム教徒が罪悪感を抱く酒もおおらかに飲む。 宗教心の薄い外国人には、付き合いやすい相手でもある。 そういう精神土壌から、アマルは生まれ育った。

 とはいえ、アマルのような女がレバノン人のドルーズ的例外というわけではない。 男で言えば、日産自動車のCEOになったカルロス・ゴーンも、レバノン人の「ひとつの典型」であろう。 多くのレバノン人が移住しているブラジルで、キリスト教徒を両親にゴーンは生まれ、6歳のときに家族とともにレバノンに戻った。 その後、高等教育を受けるためにフランスへ渡り、企業家になっていく。 小さな国に留まらず、地球全体を生きる場所にすることは、古代の海洋民族フェニキア人の血を引き継いだレバノン人には抵抗がないのかもしれない。

 アマルの場合は、イギリスに渡り、そしてアメリカに渡った。 全身をチャドルで覆ったアラブの女のイメージも間違ってはいない。 だが、アマルのような女もまたアラブの女なのだ。 

2014年3月13日木曜日

普通の人の<3・11>

(3・11付けスポーツ新聞のトップ記事は、坂上二郎の死去。 忘れられても仕方ない。=南相馬市のコンビニで撮影)


 それぞれの<3・11>、普通の人の<3・11>。 テレビや新聞で報じられたようなドラマはない。 けれど、たいていの人たちは淡々と生活しながら、<3・11>を記憶に記している。

 以下、友人たちの<3・11>。

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 今日であの震災から3年経ちました。盛岡を歩いていても震災の影響はどこにも見られませんが、街のアチコチに今でも「頑張ろう東北」の文字が見受けられます。

 昨日は義母の96歳の誕生日で、お赤飯を持参して身内だけのささやかな昼食でお祝いしました。足腰と耳が遠くなりかけた以外は元気で、今でも軽い農作業をしています。 我が家の車庫も建ててもらいましたので、沢山恩返しをしなければいけないですね。

 朝の散歩コースにウイットに富んだアパートが有りますので紹介します。左の棟が「Carl」、右の棟が「Lewis」です。大家さんは陸上競技が好きなのでしょうね。 私でしたら「マリリン」、「モンロー」にしたかもね。

 震災の日、平和な盛岡です。

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 2011年3月11日午後2時46分、ボクは大田区内のスーパーの横を歩いていました。 急にトタン屋根が強風でバタバタするような音が聞こえました。 安普請のスーパーの建物が揺れる音でした。 歩いているのに揺れを感じ、あわてて建物から離れると、スーパーの店内から何人もの買い物客が血相をかえて飛び出してきました。

 友人の運送会社社長は、2時46分に「246」(国道246号線)をトラックで走っていました。 別の友人は昼間から新宿のションベン横町で飲んでいて、あわてて外に出て高層ビル群を見たら、ゆらゆら揺れていたので、飲みすぎて酔っ払ったと思ったとか。

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 私の3.11は埼玉県の久喜市で起きました。地面が波うち、建物の大きなガラスが一瞬にして壊れ、駐車場の自動車が、あたかもカメレオンの動きのように前後に揺れている光景を見たときは、この世の終わりかと思いました。今でも鮮明に覚えています。

 訪問していた企業から駅に送ってもらう途中では、屋根が崩壊した家が、一直線に並んでいる不思議な光景も見ました。後で分かったのですが、川を埋め立てて発達した久喜市は、そのとき液状化現象を起こしていたようです。結局その日は家には帰れず、やっと見つけた小さなホテルで一晩を過ごしたこと、その時に出された炊き出しに感激したこと、とにかく寒かったことなどなどを憶えています。

 今日の午後2時46分は家で黙とうしました。

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 今日、震災の起きた午後2時46分に職場で黙祷。もう三年・・まだ三年なのか、などいろいろ考えました。

 3年前は農水省の6階で崩れる本棚を一生懸命押さえていました。その後、少し前に起きたニュージーランドでの地震で建物が倒壊してもエレベーター部分だけが残っている映像を思い出して、本館の真ん中にあるエレベーターホールに移動して、余震に備えていましたが、今考えると滑稽です。

 結局、あの日は帰れず、当然、飲み屋も開いていないので、事務所でテレビを一晩中見ながら椅子をくっ付けてごろ寝。翌朝、建設中のスカイツリーの近くまで行き、やっと開いていた牛どん屋で20時間ぶりのメシを食べました。

 腹が空いているはずなのにあまり食欲はなかったように記憶しています。 でも、牛どん屋に感謝!!

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 三年前のこの日は駒場東大前の目黒区のテニスコートで、まさにテニスの真っ最中。

 私は審判台に座っていたのでいち早く揺れを感じたのですが、プレー中の仲間は私が止めるまで気が付きませんでした。

 コートを囲むフェンスや大木、隣の大学入学試験センターや体育館も大きく揺れ、建物の倒壊から逃れようとコートの中央に集まりました。治まるまでかなり長い時間に思えましたが、全員自転車だったので無事帰ることができました。 246号の三宿あたりでは余震で高速道路が揺れていたり、ヒヤリとする場面も。

 我が家近辺は地盤が固いと言われていました。 後日リビングボードの中の人形が倒れているのに気が付いた程度でした。しかし母が自宅で病に伏せ酸素吸入器を使用していたので、計画停電も無かったのが幸いでした。

 目黒区は東山地区に高級官僚が多く住んでいるので停電はあり得ないとのもっぱらの噂でした。

2014年2月21日金曜日

血塗られたウクライナの叫びをソチで聞く

(ウクライナ政府の弾圧に抗議してソチ五輪を途中棄権したマツォツカ)

(第2次大戦中ウクライナ独立を目指すゲリラたち)
14世紀、現在のポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、そしてウクライナにまたがるガリツィアという独立王国が存在した。 だが、1349年、ポーランドとの戦争に破れ、王国は地上から消えた。 現在のウクライナの歴史を遡ると登場する王国である。 

 複雑な地政学的位置が、周辺の強国、ポーランド、オーストリア、ロシア(その後のソ連も)、ドイツなどの介入を招き、ウクライナの歴史を翻弄してきた。 

 ウクライナ解放運動の歴史は古い。 15世紀にはポーランドへの蜂起が起き、17世紀には解放運動が始まった。

 第1次世界大戦-大戦間時代-第2次大戦。 この時代も大国の介入で多くのウクライナ人が犠牲者となる悲劇が生まれた。 第2次大戦中の1942年には、ソ連、ドイツ、ポーランドに対するウクライナ人のゲリラ闘争が始まった。 ウクライナ反乱軍(UPA)と称し、現在のウクライナ西部山岳地帯の町<コシブ>が大きな拠点だった。 UPAの活動は大戦後の1949年ごろまで続いたとされる。 

 ウクライナは1989年のソ連崩壊で悲願の民族独立を達成したが、<コシブ>は、彼らの何世紀にもわたる解放運動史で忘れることができない土地なのだ。

 <コシブ>は、交通不便ゆえに外国人観光客は少ないが、今では、ヨーロッパ人には隠れた魅力的スキーリゾートになっている。

 この田舎町出身の若い娘が突然、世界の脚光を浴びた。 ボグダナ・マツォツカ。 24歳。 身長175センチ、体重65キロ。 決して美人ではないが、アスリートらしい体形。

 ソチの冬季オリンピックにウクライナ代表としてアルペンスキーの女子滑降、大回転に出場していたが、2月21日に予定されていた回転は、母国ウクライナ政府の反政府デモに対する非道な弾圧行為に抗 議して棄権すると表明したのだ。 コーチの父親との共同行動だ。 ソチのお祭り騒ぎに向いていた世界の目を、冷徹な政治の現実に多少なりとも引き戻したのは確かだ。

 以下は、彼女の<facebook>から。

"We, members of the National Olympic Team of Ukraine, Bogdana Matsotska and Oleg Matsotskyy, are outraged by the latest actions of the President of Ukraine, Viktor Yanukovych, who drowned the last hopes of Ukrainians in blood instead of solving the conflict through negotiations with the Maidan—which we had hoped for till the very last when we went to the Olympics in Sochi. He has violated the eternal rule of the Olympics - Peace during the Games.

"To show our solidarity with those fighting on the Maidan barricades and our protest against the bandit president and his lackey government, we refuse to further perform at the 2014 Sochi Olympics.

"May the heroes killed for the freedom of Ukraine rest in peace!

"Glory to Ukraine and to its Heroes!!!"

 首都キエフでは、2月18日以来、中心部の独立広場の野党デモ隊を強制排除しており、20日までに40人が死亡したと伝えられる。

 英国BBCによると、ソチのウクライナ・チーム役員と選手は1分間の黙祷を捧げ、黒いリボンを付けた国旗を選手村宿舎のバルコニーに掲げた。

 マツォツカは記者たちに語った。 「私は政治的な人間ではない。 政治や政党とはまったく関わりがない。 でも、ヤヌコビッチ(ウクライナ大統領)とあの政府がウクライナの人々にとった身の毛もよだつような行動を許すことはできない」
 
 解放・独立への情熱をたぎらせたウクライナ人の血が、この若いスキーヤーのからだに流れ込んでいたに違いない。 彼女は正しい行動をとったと思う。 

2014年2月19日水曜日

メダルなんかどうでもいい

東ティモールのゴンカルベス

ネパールのシェルパ

 2月18日朝、7時半ごろテレビのスイッチを入れた。 ソチの冬季オリンピックで日本がスキージャンプ団体で銅メダルだったらしい。 なぜかアナウンサーが歓喜の声をあげている。 確か、前日は金メダルを取れるようなことを言っていた。 だったら残念な結果なのに・・・。 しかも、伝えるのは日本のことだけ。ずっとNHKを見ていたわけではないが、昼すぎまでテレビを点けていて、金と銀のメダルをどこの国が取ったのかわからないままだった。

 夕方、読売新聞の夕刊は日本のジャンプ銅メダルが一面の大きなトップニュースだった。 だが、この記事を読んでも、1位と2位がわからない。 ページを開いて、やっとドイツの優勝が地味な扱いで掲載されているのをみつけた。

 テレビも新聞も、オリンピックで日本人が大活躍しているイメージを無理やり作っている。 金メダルを取ろうとして銅メダルに終ったなら、負けなのだ。 だから、ジャーナリズムがスポーツを報じるなら、敗因をきちんと分析しなければいけない。 「敗走」を「転進」と報じた太平洋戦争中の国家主義的伝え方を、今オリンピック報道で日本のマスコミは繰り返している。

 こんな報道ばかり連日浴びせかけられていると、絶対にメダルを取れない国と選手のオリンピック参加は、ほのぼのとした気分にさせてくれる話題だ。

 例えば、東ティモールから一人で参加したアルペンスキーのヨハン・ゴウ・ゴンカルベス。 もちろん熱帯の東ティモールに雪のあるわけがない。 この19歳の若者は、母が東ティモール人、父がフランス人でフランス生まれ。 子どものときからスキーになじんでいた。 東ティモールに行ったとき、大統領にスキー用の手袋をプレゼントした。 「きっと、東ティモールで唯一のスキー手袋だよ」と、フランスのテレビで愉快に笑いながら語っていた。

 なんと言っても注目されたのは、タイの女子アルペンスキー選手・ヴァネッサ・バナコーンだろう。 ヴァネッサ・メイの名前で世界的に知られるセクシーなヴァイオリニスト。 2006年トリノ五輪で荒川静香が金メダルを取ったときの曲が彼女の演奏だった。 女子大回転で67位という成績は、もはや良い悪いで語るのはナンセンスだ。

 ラテン・アメリカからの参加といえば、映画にもなったジャマイカのボブスレーが、あまりにも有名だが、ソチが初の冬季五輪というドミニカからは、なにやら怪しげな夫婦がクロスカントリーに出場する。 妻アンジェリーカ48歳、夫ゲイリー47歳のディシルヴェストリ夫婦。 

 妻はイタリア人、夫はアメリカ人のビジネスマン。 2006年にドミニカで子どものための病院を作るための基金を集め、その功績でドミニカの市民権を授与された。 2012年、ドミニカ政府がスキーをやるというこの夫婦に着目し、代表に選んだ。 ドミニカからの選手はこの2人だけだ。

 ネパールからクロスカントリースキーの15kmクラシカルに出場したダチーリ・シェルパは、その名の通りヒマラヤ登山に欠かせないポーター&ガイドのシェルパ族出身だ。 44歳。 ドミニカの夫婦にしてもそうだが、日本のスキージャンパー葛西の41歳に驚くことはない。 

 シェルパは登山隊のコックをしていたときに、外国人たちが彼の有能さに感心し、ガイド資格を取るための資金援助をした。 トレイル・ラン、ウルトラマラソンでは国際レベルの選手として活躍している。 冬季五輪は、ソチが3回目。 見事86位で完走した。

 メダルから目を離そうではないか。 話題の宝庫に飛び込める。 そこには、世界中の雑多な人間が集まるオリンピックの本物の面白さがある。    

2014年2月16日日曜日

雪の日の冷たさ


 大雪の東京。 20センチ余りだが大雪だ、東京では。

 歩道は人ひとり歩ける程度の幅だけ踏まれている。 東京の雪はぐしょぐしょに水っぽくて、北国の乾いた雪とは違う。 踏みあとを外れると、水に足を突っ込んだのと同じで、靴に水がびっしょりと滲みこむ。

 歩道で、歩いている人同士がすれ違うときは、どちらかが踏みあとを譲らなければならない。 まさか、前から来る人と意地を張り合って相手に「どけ」と言うわけにはいかない。 だから、ぐしょぐしょの雪に足を踏み入れて、道を譲る。 まあ、紳士としては当然で自慢するほどのことではない。

 この2日間、雪の歩道でずっと譲ってきた。 それはどうでもいい。 気付いたことは、譲られて通りすぎていった人たち、子どもの手を引く若い母親、サラリーマン風の中年男、酔狂に歩いているだけとおぼしき老人・・・、誰一人として、「すみません」とか「ありがとう」とか、軽く「どうも」とか、あいさつをしなかったことだ。

 それに、思い起こしてみると、こちらが譲っただけで、先に譲ってくれた人はまったくいなかった。 冷たい雪の日に知ったのは、冷え切った人の心だったのか。

2014年2月13日木曜日

プーケットの墓場

(パトン・ビーチの沖合い、かつて津波がやって来た海に豪華客船が浮かぶ)


(パトン・ビーチのイスラム教墓地は、今も津波に洗われたままだ)
タイ最大の国際的観光地プーケット島を最後に訪れたのは、2006年のことだった。

 2004年12月26日のスマトラ沖大地震から1年あまりたっていた。 マグニチュード9.3という超巨大地震が最大34メートルという津波を引き起こし、インドネシアをはじめアンダマン海からインド洋に至る沿岸諸国で22万人の命を奪った。 多くの外国人がくつろいでいた白い砂浜のプーケット島パトン・ビーチも津波に襲われた。 レストランも酒場もマッサージ・パーラーも、すべてが破壊され、外国人観光客を含め数千人が死亡した。 華やいだ観光地が忽然と消えたのだ。

 2006年、津波被害から1年以上たち、ホテルは復旧し街並は戻っていた。 だが、観光客の姿はまばらで、気が滅入りそうな侘しい雰囲気は、客がつかなくなった娼婦の面影だった。

 そして2014年2月。 8年ぶりに訪れたパトン・ビーチは、落ちぶれた娼婦が整形手術と厚化粧で蘇ったかのようだった。 通りは様々な照明で明るく照らされ、外国人観光客が溢れていた。 もはや、ここが津波で死にかけた過去を持つ街とは思えない。 

 もうひとつの変化は、街を歩くと中国語とロシア語の会話がひんぱんに耳に飛び込むようになったことだろう。 これは時代の変化だ。

 変化といえば、街ばかりではなく、島の周辺の海底もかつての表情とは違う。 シュノーケリングで海に潜った外国人旅行者が驚いていた。 「珊瑚がみんな死んでいる」。 ボートで観光客を案内する地元プーケットのタイ人の若者が言った。 「5年くらい前から。 観光客がたくさん来るようになってからのこと」。 津波でも珊瑚の被害があったが、今起きているのは人間が引き起こしたものらしい。

 ”美しい珊瑚に囲まれた島”は、津波を生き延びても、やはり死ぬ運命にあるのか。 

 人口25万人のプーケット島の20%はイスラム教徒とされる。 彼らの墓地のひとつがパトン・ビーチに面したところにある。 9年前の津波の痕跡を見られる数少ない場所のひとつだ。 高級ホテルの建物に囲まれ、 ビーチに面した一等地なのに、津波に洗われたまま放置され、雑草に覆われた空き地になっている。 おそらく墓地という性格上、跡地利用が難しいのだろう。 ここでは、9年という時間が置き去りにされ止っている。

 だが、変化のけばけばしさに疲れ、墓場の茂みに足を踏み入れると、なぜか、ほっとした気持ちにさせられる。

2014年1月31日金曜日

<恵方巻>と<バレンタイン>のサンバ


 「恵方巻」と「バレンタイン」に踊らされる2月。 以下、Wikipediaからの抜粋。

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<恵方巻>

 恵方巻は、節分に食べると縁起が良いとされる太巻き(巻き寿司)を食べる行為で大阪地方を中心として行われている習慣。

 恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされている。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれており「恵方巻き」と呼ばれていたという文献等は見つかっていない。 大阪地方の地元における名称として、単に「巻き寿司」や「丸かぶり寿司]」などがある。

 起源・発祥は複数の諸説が存在しており、信憑性についても定かではない。

 商業的イベントとして、これを利用した関係業界の販売促進活動・関連商品・商戦が20世紀後半から活性化している。また、関連するイベントとして、多人数で一斉に食べたり、「日本一長い恵方巻き」「○○メートルの恵方巻」「巨大恵方巻」「ジャンボ恵方巻」などの内容で開催されている。

 節分の日は暦の上で春を迎える立春の前日にあたるので、一年の災いを払うための厄落としとして「豆撒き」が行事として行われているが、大阪などでは同日に太巻きを「巻き寿司」「丸かぶり寿司」や「恵方巻」と呼び、それを食べるイベントが行われる場合がある。

 恵方巻は、太巻き(巻き寿司)を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。「目を閉じて」食べるともされるが、一方「笑いながら食べる」という人もおり、様々である。

 このイベントが活発化したきっかけは、関係業界の販売促進活動である。2000年代以降には、形が恵方巻に類似する円柱状の食べ物、ロールケーキなどの各種商品においても販売促進活動が見られる。

 ミツカンの調査による恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%が2006年(平成18年)には92.5%となり、マイボイスコムの調査では、「認知度」と「食べた経験」に関して増加傾向となっているが、「実際に食べた」と答えた人の全国平均は2006年(平成18年)の時点で54.9%である。

 また、「実際に恵方巻を食べるか」についての地域差は大きく、2008年(平成20年)12月後半にアイシェアが行った調査では、関西・中国・四国にて「実際に食べる」が半数以上占めたのに対し、関東では「6割が食べない」などの結果が出ている。

 かつて行われ廃れていた事柄であったが、大阪の大阪鮓商組合や大阪海苔問屋協同組合が販売促進の為に(スーパーやコンビニでも)大々的な宣伝をしており、日本のイベントとして各地に広がっている。

 1973年(昭和48年)から大阪海苔問屋協同組合が作製したポスターを寿司屋が共同で店頭に貼り出し、海苔を使用する太巻きを「幸運巻ずし」として販促キャンペーンが展開された。1974年(昭和49年)には大阪市で海苔店経営者らがオイルショック後の海苔の需要拡大を狙いとして節分のイベントで「巻き寿司早食い競争」を始めたこと、1977年(昭和52年)に大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事、そのイベント「巻き寿司早食い競争」がマスコミに取り上げられたこと、関西厚焼工業組合も同時期頃に宣伝活動を開始したこと、などが契機となって、徐々に知名度が上がっていった。

 商業的に売り上げの落ちる1月後半から2月初旬の販売イベントとして、主にコンビニエンスストアを中心とし、スーパーマーケットなどの店舗において各地で展開。前述の道頓堀における販売促進イベントの影響があったり、コンビニではファミリーマートが先駆けであり、1983年(昭和58年)に大阪府と兵庫県で販売が開始された。

 全国への普及はセブン-イレブンによる。1989年(平成元年)、広島市にある加盟店7~8店舗を担当していた「OFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)が加盟店オーナーとの会話の中で恵方巻の存在を知り、新たなイベントとして仕掛けた。1989年、広島市のセブン-イレブンが販売を開始し、翌年より販売エリアを広げ、1995年(平成7年)から西日本に販売エリアを拡大、1998年(平成10年)に全国展開をしたことで急速に普及した。

 2000年代に入ると全国の各コンビニで販売促進キャンペーンが行われている。

 スーパーマーケットでは、ダイエーが関西地方において1980年代頃には販売を行っており、関東地方の一部地域では1990年代前半から販売開始、ジャスコでは1992年(平成4年)から全国同時に販売を開始[。2000年代以降は地方の小規模スーパーや個人経営店も参入する動きがある。

 売上・販売数量において、2007年の日本全体での販売本数は約3000万本であった。2008年では2月2日と2月3日の2日間において、コンビニ大手3社で約700万本を売り上げ、セブン-イレブンだけで388万本が売れたという。

 また、円柱状が類似しているだけで本来の太巻きとは全く関係が無い食べ物においても恵方巻的な商品が各種展開され、ロールケーキや形状さえ似ていないワッフルなどの洋菓子、かす巻などの和菓子、江崎グリコから「節分かぶりつきシリーズ」としてポッキー(鬼の金棒モチーフ)・プリッツ・コロンなどの一般菓子、パン・トルティーヤ・ロールサンド・オムライス・包餅などの料理を恵方巻仕様の商品に仕立て便乗して販売する事例が存在している。ファーストフード業界では日本ケンタッキーフライドチキンがレギュラーメニューの一つであるツイスターを恵方巻き替わりに奨めるPRを2000年代末期以降に実施しているほか、パンやサンドウィッチなどにおいても便乗商品が見られる。

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<バレンタインデー>

 日本では、1958年ころから流行した。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。戦前に来日した外国人によって一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。「主として女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのでは?と最初に考案して実践したのは、大田区の製菓会社である。

  欧米でも恋人やお世話になった人にチョコレートを贈ることはあるが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもない。女性から男性へ贈るのがほとんどという点と、贈る物の多くがチョコレートに限定されているという点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴である。

 「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となる。
 ・贈答品にチョコレートが重視される点
 ・女性から男性へ一方通行的贈答である点
 ・(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点

 このほか、職場における贈答習慣が強い点や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点も日本型バレンタインデーの特徴である。

 日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源については、以下のようなものがあるが、判然としていない。

 ・神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ)説
 東京で発行されていた英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』1936年2月12日付けに同社が広告を掲載したことを重視するものである。「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告であった。確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。ちなみに以前モロゾフの本社があった最寄り駅の阪神御影駅南側の広場はバレンタイン広場の名前がある。

 ・メリーチョコレートカムパニー & 伊勢丹説
 同社が1958年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重視する説である。

 ・森永製菓説、伊勢丹説
 1960年より森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、さらに伊勢丹が1965年にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となったとする説がある。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、1956年の西武百貨店や松屋の新聞広告や、1959年の松坂屋の新聞広告にも掲載されており、デパート業界では伊勢丹が最初というわけではない。

 ・ソニープラザ説
 ソニー創業者の盛田昭夫は、1968年に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈ることを流行させようと試みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている。ただいずれにしても、すぐに大きな反響があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである。

 各種の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主張されたために誇張も含まれると思われる。

 総じて昭和30年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識はまだなかった。当時のバレンタインデーの新聞広告によると、購入を勧める贈答品にチョコレートは登場しなかった。森永製菓の広告ですら、チョコレートは贈答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永製菓の新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手紙などを)贈る日」として書かれていた。バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「愛の日」という点は強調されていた。

 デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたがなかなか定着せず、1968年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もあった。しかし、オイルショック(1973年)に見舞われ高度経済成長が終焉した1970年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増した。オイルショックによる不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会になった時期とも重なる。現在、一般に「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と認識されていることとは裏腹に、バレンタインデー定着の過程には、小学校高学年から高校生の主導的な選択があったことが指摘されている。

 1970年代後半頃に、女子が男子に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が社会に定着すると、さらに日本独自の習慣が登場した。1980年前半に登場したホワイトデーと義理チョコである。ホワイトデーの起源については、福岡県の和菓子屋・石村萬盛堂のキャンペーンと、全国飴菓子工業協同組合の構想が注目されている。1977年に石村萬盛堂は、バレンタインデーの返礼としてマシュマロデーを開始した。これは社長が女性雑誌の投稿欄を見て思いついたものだという。1979年には他の菓子店と協同で「ホワイトデー」という名称を用いたとされる。

 一方、全国飴菓子工業協同組合の主張によると、1978年6月の組合の総会で、「ホワイトデーキャンペーン」の実施が決定され、1980年に第1回「愛にこたえるホワイトデー」キャンペーンが行われたという。そして2回目の1981年には「好きな女の子にキャンデーを贈ろう」というキャッチフレーズが添えられた。1984年の第5回キャンペーンには各地で品不足になるほどの盛況となり、同組合では、この1984年をホワイトデー定着の年としている。

 日本のチョコレートの年間消費量の2割程度がこの日に消費されると言われるほどの国民的行事となっており、女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的以外にも、すでに交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着している。だが、義理チョコは1990年代後半以降衰退傾向にあり、2000年代後半から2010年代前半においてもその傾向は継続している。

 また、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」の動きが2000年代初旬より広まってきてバレンタイン市場・商戦を支える存在となっており、特に2000年代後半以降、友チョコの市場規模は拡大傾向となっている。バレンタインデーにおけるチョコの売上停滞に危機感を抱いた関連業界の企業において、友チョコを重視したキャンペーンを行ったり、欧米では当然でも日本では一般的でない行為、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった様々な展開で消費活性化を図っている。逆チョコは特に森永製菓が積極的に展開している。

 上記のような習慣について日本人自身が抱く感想はさまざまである。

 2006年2月にインターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ社が実施したバレンタインデーに関する独身男女(20代〜30代)に対するアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOLで70%、同じく男性社員は50%であった。ただし、OLの反対意見では、女性の側から贈る習慣に反対しているのであって、男性側から贈られるのであれば賛成とする「ご都合主義的意見」も多かったとされる。同じく、男性側はホワイトデーのお返しが大きな金銭的な負担となっており、この義務的なイベントに対する不快感を強く持っている人が多い。妻子ある男性までも、他人の女性にプレゼントをすることを強要されており、その分のお金を妻や子供に対するサービスに費やしたいと考えている男性にとっても非常に人気がない。中には義務的なイベントを無理矢理作り出して、強制的にチョコを買わせるのは非人道的な卑劣な商法であるといった痛烈な意見もある。

 また、労働法の専門家によると、職場内におけるバレンタインデー・ホワイトデー・おごりの強要は環境型セクシャルハラスメントの温床とされており、危険性を指摘する声もある。性別を理由に一定の義務を課し、本人の意に反する行為を強要するわけであるから、環境型セクシャルハラスメントにあたる。しかも、女性のみならず『男性が被害者』になるセクシャルハラスメントである(2007年8月30日 読売新聞)。