2014年4月15日火曜日

ネットショップで棺桶を


 アメリカに住む女友だちから妙なメールが来た。 「神社の境内で絵馬が掲げられていて小さな屋根が上にあるのは、日本語でなんと言うのでしょうか。私の友達が日本に関して、おかしな本を書いていて聞かれましたが、はたと困ってしまいました」

 確かに、神社やお寺で、絵馬がぶら下がっているを見る。 だが、その屋根付きボードのようなものの名前など考えたこともないし、そもそも名前なんてあるのか。

 と思いつつ、Google で、とりあえず「絵馬」を検索してみた。 すると、すぐに、「絵馬掛け」という名前だとわかった。 だが、驚いたことに、こんなものをインターネットで買うことができるのだ。 普通の買い物をするのと同じように。
 
 <【寺院用仏具】II型 アルミニウム製 絵馬掛/なーむくまちゃん工房/カスタマーレビューを書きませんか?/価格:¥ 367,500>

 <【送料無料!】ステンレス製・屋根付き 絵馬掛け 900タイプ/商品番号gen07007/価格 200,100円 (税込 216,108 円) 送料込/お買い物の前に2,000ポイントゲット!>

  といった具合だ。

 神社とかお寺は神聖なところで、ネットショッピングなどという俗っぽいこととは無関係というのは、思い込み、予断、偏見だった。 世界の隅々まで張り巡らされているインターネットには、神聖であろうと下賤であろうと引っかかるのだ。

 それでは、ネットショッピングでは、なんでも買えるのだろうか。 まさかと思って、「棺桶」を検索してみた。 そして、また驚いた。 Amazon の広告が、たちまち目の前に現れた。

 <棺桶 Amazon - Amazon.co.jp/アマゾン配送商品は通常送料無料 お急ぎ便 利用で当日、翌日にお届け。/1 点の新品/中古品を見る ¥ 18,900 より>

 えっ、中古品まであるのか! 「新品/中古品を見る」の表記は、おそらく、このページの通常の様式を使っているというだけで、まさか、棺桶の中古品の登場を想定してはいないだろう。 1回使って燃やしてしまうものなんだから。

 だが、棺桶の商品レビューも掲載されていた。

 <この値段帯の棺の中では最もコスパに優れているのではないでしょうか。何より寝心地の良さが素晴らしく、そのままどこかへ行ってしまいたくなります。先日、僕を起こしに来た母親のキックにより破壊されてしまったので、母親と生活している方は注意が必要です>
 <中の寝心地はまあまあですね。 しかし、この驚きの白さいいですね、死んだ私から言うととても服に合っててオシャレです!>

 ノーチェックで掲載された悪ふざけのコメントだろうが、実際に趣味で買う人もいるのかもしれない。

 「棺屋さん」(棺桶ネットショップ)というのもあった。

 ・ワンタッチ組立式棺-布張ホワイト
 M:1810×530×450 17,000円[税込] 残僅
 L:1910×530×450 18,000円[税込]残僅

 ・ワンタッチ組立式棺-桐平棺(完売しました)
 M:1810×530×420 16,000円[税込]
 L:1890×530×420 17,000円[税込]

 ・布張棺-ブルー スライド窓(オススメ)
 L:1900×550×460 11,000円[税込]

 ・子供用桐平棺(完売しました)
 サイズ3尺12,000円[税込]
 サイズ4尺14,000円[税込]

・商品到着後の返品・交換について
 お客様のご都合による(初期商品不良・誤配送以外)返品は7日間以内に返品希望の意志をご連絡をいただければ、返品をお受け致します。(但し未使用・未開封品のみ受付けます。)商品代金以外の送料・代引き手数料・返送料、および、代金振り込み手数料はお客様のご負担となります。

・直葬(家族葬)セット アウトレット
棺と布団・骨壺・ヌキナシ箱・位牌・仏衣・骨上げ箸・風呂敷のセット商品です 棺のアウトレット(少々傷あり)商品:お問い合わせください。
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 ネットで棺桶を注文して返品する。 少々傷のあるお買い得の棺桶を買う。 これが現実とは思えないが、本当のところはわからない。

2014年3月28日金曜日

ジョージ・クルーニーの恋人はアラブ人


 報道によれば、アメリカの映画スター、ジョージ・クルーニー(52歳)の新しい恋人は、ロンドンで最もホットな女性弁護士に選ばれたインテリのイギリス美人。 だが、実は、レバノンの首都ベイルート生まれのアラブ人なのだ。 とにかく、彼女はカッコいい。 古臭いアラブ観に囚われていれば、戸惑わされる。

 アマル・アラムッディーン、36歳。 国際法、人権問題の専門家で、米国が指名手配し、スウェーデン当局がレイプ容疑で逮捕しようとしているウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジの弁護士を務めている。 また、ウクライナ政府の人権侵害を訴えているティモシェンコ元首相の代理人としても知られている。 その美貌ばかりでなく、国際刑事裁判所や欧州人権裁判所での華々しい活動は、ジョージ・クルーニーとのゴシップが発覚する以前から人目を引いていた。

 彼女は、かつて「中東のパリ」と呼ばれたコスモポリタンな都市ベイルートの女たちの「ひとつの典型」かもしれない。 地中海に面したおしゃれな街には、おしゃれな女が似合う。 アマルのような女は、ベイルートの通りや高級レストランでよく見かける。 伝統や因習にとらわれず、最新の西欧ファッションを堂々と着こなし、英語やフランス語を流暢に話す。

 「ひとつの典型」。 そう、レバノンという国には、いくつもの「典型」がある。 歴史家アーノルド・トインビーはかつて、レバノンを「宗教の歴史博物館」と表現した。 イスラム教とキリスト教のいくつもの宗派が、複雑な歴史的経緯で混在しているからだ。 それぞれの宗派の人々には、それぞれの「典型」がある。

 アマルは、ドルーズ派の家族に生まれた。 1990年までの15年間で国土を荒廃させたレバノン内戦で大きな戦闘力を持った一派だ。

 ドルーズ派は、イスラム教シーア派から派生したとされる。 だが、正統的イスラム教徒たちは、彼らを異端だとして、イスラム教とは認めていない。例えば、メッカを聖地とみなさないため、礼拝の向きはメッカではないし、メッカ巡礼も行わない。 イスラム教にはない人間の輪廻転生をも信じている。

 ドルーズ派の人々は、本来のイスラムとかけ離れたせいか、日常生活面を宗教で律することがあまりないように見える。 非常に世俗的で、西欧文明を寛容に受容してきたようだ。  食事もファッションも、タブーのない自由を楽しむ。 男たちは、イスラム教徒が罪悪感を抱く酒もおおらかに飲む。 宗教心の薄い外国人には、付き合いやすい相手でもある。 そういう精神土壌から、アマルは生まれ育った。

 とはいえ、アマルのような女がレバノン人のドルーズ的例外というわけではない。 男で言えば、日産自動車のCEOになったカルロス・ゴーンも、レバノン人の「ひとつの典型」であろう。 多くのレバノン人が移住しているブラジルで、キリスト教徒を両親にゴーンは生まれ、6歳のときに家族とともにレバノンに戻った。 その後、高等教育を受けるためにフランスへ渡り、企業家になっていく。 小さな国に留まらず、地球全体を生きる場所にすることは、古代の海洋民族フェニキア人の血を引き継いだレバノン人には抵抗がないのかもしれない。

 アマルの場合は、イギリスに渡り、そしてアメリカに渡った。 全身をチャドルで覆ったアラブの女のイメージも間違ってはいない。 だが、アマルのような女もまたアラブの女なのだ。 

2014年3月13日木曜日

普通の人の<3・11>

(3・11付けスポーツ新聞のトップ記事は、坂上二郎の死去。 忘れられても仕方ない。=南相馬市のコンビニで撮影)


 それぞれの<3・11>、普通の人の<3・11>。 テレビや新聞で報じられたようなドラマはない。 けれど、たいていの人たちは淡々と生活しながら、<3・11>を記憶に記している。

 以下、友人たちの<3・11>。

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 今日であの震災から3年経ちました。盛岡を歩いていても震災の影響はどこにも見られませんが、街のアチコチに今でも「頑張ろう東北」の文字が見受けられます。

 昨日は義母の96歳の誕生日で、お赤飯を持参して身内だけのささやかな昼食でお祝いしました。足腰と耳が遠くなりかけた以外は元気で、今でも軽い農作業をしています。 我が家の車庫も建ててもらいましたので、沢山恩返しをしなければいけないですね。

 朝の散歩コースにウイットに富んだアパートが有りますので紹介します。左の棟が「Carl」、右の棟が「Lewis」です。大家さんは陸上競技が好きなのでしょうね。 私でしたら「マリリン」、「モンロー」にしたかもね。

 震災の日、平和な盛岡です。

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 2011年3月11日午後2時46分、ボクは大田区内のスーパーの横を歩いていました。 急にトタン屋根が強風でバタバタするような音が聞こえました。 安普請のスーパーの建物が揺れる音でした。 歩いているのに揺れを感じ、あわてて建物から離れると、スーパーの店内から何人もの買い物客が血相をかえて飛び出してきました。

 友人の運送会社社長は、2時46分に「246」(国道246号線)をトラックで走っていました。 別の友人は昼間から新宿のションベン横町で飲んでいて、あわてて外に出て高層ビル群を見たら、ゆらゆら揺れていたので、飲みすぎて酔っ払ったと思ったとか。

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 私の3.11は埼玉県の久喜市で起きました。地面が波うち、建物の大きなガラスが一瞬にして壊れ、駐車場の自動車が、あたかもカメレオンの動きのように前後に揺れている光景を見たときは、この世の終わりかと思いました。今でも鮮明に覚えています。

 訪問していた企業から駅に送ってもらう途中では、屋根が崩壊した家が、一直線に並んでいる不思議な光景も見ました。後で分かったのですが、川を埋め立てて発達した久喜市は、そのとき液状化現象を起こしていたようです。結局その日は家には帰れず、やっと見つけた小さなホテルで一晩を過ごしたこと、その時に出された炊き出しに感激したこと、とにかく寒かったことなどなどを憶えています。

 今日の午後2時46分は家で黙とうしました。

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 今日、震災の起きた午後2時46分に職場で黙祷。もう三年・・まだ三年なのか、などいろいろ考えました。

 3年前は農水省の6階で崩れる本棚を一生懸命押さえていました。その後、少し前に起きたニュージーランドでの地震で建物が倒壊してもエレベーター部分だけが残っている映像を思い出して、本館の真ん中にあるエレベーターホールに移動して、余震に備えていましたが、今考えると滑稽です。

 結局、あの日は帰れず、当然、飲み屋も開いていないので、事務所でテレビを一晩中見ながら椅子をくっ付けてごろ寝。翌朝、建設中のスカイツリーの近くまで行き、やっと開いていた牛どん屋で20時間ぶりのメシを食べました。

 腹が空いているはずなのにあまり食欲はなかったように記憶しています。 でも、牛どん屋に感謝!!

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 三年前のこの日は駒場東大前の目黒区のテニスコートで、まさにテニスの真っ最中。

 私は審判台に座っていたのでいち早く揺れを感じたのですが、プレー中の仲間は私が止めるまで気が付きませんでした。

 コートを囲むフェンスや大木、隣の大学入学試験センターや体育館も大きく揺れ、建物の倒壊から逃れようとコートの中央に集まりました。治まるまでかなり長い時間に思えましたが、全員自転車だったので無事帰ることができました。 246号の三宿あたりでは余震で高速道路が揺れていたり、ヒヤリとする場面も。

 我が家近辺は地盤が固いと言われていました。 後日リビングボードの中の人形が倒れているのに気が付いた程度でした。しかし母が自宅で病に伏せ酸素吸入器を使用していたので、計画停電も無かったのが幸いでした。

 目黒区は東山地区に高級官僚が多く住んでいるので停電はあり得ないとのもっぱらの噂でした。

2014年2月21日金曜日

血塗られたウクライナの叫びをソチで聞く

(ウクライナ政府の弾圧に抗議してソチ五輪を途中棄権したマツォツカ)

(第2次大戦中ウクライナ独立を目指すゲリラたち)
14世紀、現在のポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、そしてウクライナにまたがるガリツィアという独立王国が存在した。 だが、1349年、ポーランドとの戦争に破れ、王国は地上から消えた。 現在のウクライナの歴史を遡ると登場する王国である。 

 複雑な地政学的位置が、周辺の強国、ポーランド、オーストリア、ロシア(その後のソ連も)、ドイツなどの介入を招き、ウクライナの歴史を翻弄してきた。 

 ウクライナ解放運動の歴史は古い。 15世紀にはポーランドへの蜂起が起き、17世紀には解放運動が始まった。

 第1次世界大戦-大戦間時代-第2次大戦。 この時代も大国の介入で多くのウクライナ人が犠牲者となる悲劇が生まれた。 第2次大戦中の1942年には、ソ連、ドイツ、ポーランドに対するウクライナ人のゲリラ闘争が始まった。 ウクライナ反乱軍(UPA)と称し、現在のウクライナ西部山岳地帯の町<コシブ>が大きな拠点だった。 UPAの活動は大戦後の1949年ごろまで続いたとされる。 

 ウクライナは1989年のソ連崩壊で悲願の民族独立を達成したが、<コシブ>は、彼らの何世紀にもわたる解放運動史で忘れることができない土地なのだ。

 <コシブ>は、交通不便ゆえに外国人観光客は少ないが、今では、ヨーロッパ人には隠れた魅力的スキーリゾートになっている。

 この田舎町出身の若い娘が突然、世界の脚光を浴びた。 ボグダナ・マツォツカ。 24歳。 身長175センチ、体重65キロ。 決して美人ではないが、アスリートらしい体形。

 ソチの冬季オリンピックにウクライナ代表としてアルペンスキーの女子滑降、大回転に出場していたが、2月21日に予定されていた回転は、母国ウクライナ政府の反政府デモに対する非道な弾圧行為に抗 議して棄権すると表明したのだ。 コーチの父親との共同行動だ。 ソチのお祭り騒ぎに向いていた世界の目を、冷徹な政治の現実に多少なりとも引き戻したのは確かだ。

 以下は、彼女の<facebook>から。

"We, members of the National Olympic Team of Ukraine, Bogdana Matsotska and Oleg Matsotskyy, are outraged by the latest actions of the President of Ukraine, Viktor Yanukovych, who drowned the last hopes of Ukrainians in blood instead of solving the conflict through negotiations with the Maidan—which we had hoped for till the very last when we went to the Olympics in Sochi. He has violated the eternal rule of the Olympics - Peace during the Games.

"To show our solidarity with those fighting on the Maidan barricades and our protest against the bandit president and his lackey government, we refuse to further perform at the 2014 Sochi Olympics.

"May the heroes killed for the freedom of Ukraine rest in peace!

"Glory to Ukraine and to its Heroes!!!"

 首都キエフでは、2月18日以来、中心部の独立広場の野党デモ隊を強制排除しており、20日までに40人が死亡したと伝えられる。

 英国BBCによると、ソチのウクライナ・チーム役員と選手は1分間の黙祷を捧げ、黒いリボンを付けた国旗を選手村宿舎のバルコニーに掲げた。

 マツォツカは記者たちに語った。 「私は政治的な人間ではない。 政治や政党とはまったく関わりがない。 でも、ヤヌコビッチ(ウクライナ大統領)とあの政府がウクライナの人々にとった身の毛もよだつような行動を許すことはできない」
 
 解放・独立への情熱をたぎらせたウクライナ人の血が、この若いスキーヤーのからだに流れ込んでいたに違いない。 彼女は正しい行動をとったと思う。 

2014年2月19日水曜日

メダルなんかどうでもいい

東ティモールのゴンカルベス

ネパールのシェルパ

 2月18日朝、7時半ごろテレビのスイッチを入れた。 ソチの冬季オリンピックで日本がスキージャンプ団体で銅メダルだったらしい。 なぜかアナウンサーが歓喜の声をあげている。 確か、前日は金メダルを取れるようなことを言っていた。 だったら残念な結果なのに・・・。 しかも、伝えるのは日本のことだけ。ずっとNHKを見ていたわけではないが、昼すぎまでテレビを点けていて、金と銀のメダルをどこの国が取ったのかわからないままだった。

 夕方、読売新聞の夕刊は日本のジャンプ銅メダルが一面の大きなトップニュースだった。 だが、この記事を読んでも、1位と2位がわからない。 ページを開いて、やっとドイツの優勝が地味な扱いで掲載されているのをみつけた。

 テレビも新聞も、オリンピックで日本人が大活躍しているイメージを無理やり作っている。 金メダルを取ろうとして銅メダルに終ったなら、負けなのだ。 だから、ジャーナリズムがスポーツを報じるなら、敗因をきちんと分析しなければいけない。 「敗走」を「転進」と報じた太平洋戦争中の国家主義的伝え方を、今オリンピック報道で日本のマスコミは繰り返している。

 こんな報道ばかり連日浴びせかけられていると、絶対にメダルを取れない国と選手のオリンピック参加は、ほのぼのとした気分にさせてくれる話題だ。

 例えば、東ティモールから一人で参加したアルペンスキーのヨハン・ゴウ・ゴンカルベス。 もちろん熱帯の東ティモールに雪のあるわけがない。 この19歳の若者は、母が東ティモール人、父がフランス人でフランス生まれ。 子どものときからスキーになじんでいた。 東ティモールに行ったとき、大統領にスキー用の手袋をプレゼントした。 「きっと、東ティモールで唯一のスキー手袋だよ」と、フランスのテレビで愉快に笑いながら語っていた。

 なんと言っても注目されたのは、タイの女子アルペンスキー選手・ヴァネッサ・バナコーンだろう。 ヴァネッサ・メイの名前で世界的に知られるセクシーなヴァイオリニスト。 2006年トリノ五輪で荒川静香が金メダルを取ったときの曲が彼女の演奏だった。 女子大回転で67位という成績は、もはや良い悪いで語るのはナンセンスだ。

 ラテン・アメリカからの参加といえば、映画にもなったジャマイカのボブスレーが、あまりにも有名だが、ソチが初の冬季五輪というドミニカからは、なにやら怪しげな夫婦がクロスカントリーに出場する。 妻アンジェリーカ48歳、夫ゲイリー47歳のディシルヴェストリ夫婦。 

 妻はイタリア人、夫はアメリカ人のビジネスマン。 2006年にドミニカで子どものための病院を作るための基金を集め、その功績でドミニカの市民権を授与された。 2012年、ドミニカ政府がスキーをやるというこの夫婦に着目し、代表に選んだ。 ドミニカからの選手はこの2人だけだ。

 ネパールからクロスカントリースキーの15kmクラシカルに出場したダチーリ・シェルパは、その名の通りヒマラヤ登山に欠かせないポーター&ガイドのシェルパ族出身だ。 44歳。 ドミニカの夫婦にしてもそうだが、日本のスキージャンパー葛西の41歳に驚くことはない。 

 シェルパは登山隊のコックをしていたときに、外国人たちが彼の有能さに感心し、ガイド資格を取るための資金援助をした。 トレイル・ラン、ウルトラマラソンでは国際レベルの選手として活躍している。 冬季五輪は、ソチが3回目。 見事86位で完走した。

 メダルから目を離そうではないか。 話題の宝庫に飛び込める。 そこには、世界中の雑多な人間が集まるオリンピックの本物の面白さがある。    

2014年2月16日日曜日

雪の日の冷たさ


 大雪の東京。 20センチ余りだが大雪だ、東京では。

 歩道は人ひとり歩ける程度の幅だけ踏まれている。 東京の雪はぐしょぐしょに水っぽくて、北国の乾いた雪とは違う。 踏みあとを外れると、水に足を突っ込んだのと同じで、靴に水がびっしょりと滲みこむ。

 歩道で、歩いている人同士がすれ違うときは、どちらかが踏みあとを譲らなければならない。 まさか、前から来る人と意地を張り合って相手に「どけ」と言うわけにはいかない。 だから、ぐしょぐしょの雪に足を踏み入れて、道を譲る。 まあ、紳士としては当然で自慢するほどのことではない。

 この2日間、雪の歩道でずっと譲ってきた。 それはどうでもいい。 気付いたことは、譲られて通りすぎていった人たち、子どもの手を引く若い母親、サラリーマン風の中年男、酔狂に歩いているだけとおぼしき老人・・・、誰一人として、「すみません」とか「ありがとう」とか、軽く「どうも」とか、あいさつをしなかったことだ。

 それに、思い起こしてみると、こちらが譲っただけで、先に譲ってくれた人はまったくいなかった。 冷たい雪の日に知ったのは、冷え切った人の心だったのか。

2014年2月13日木曜日

プーケットの墓場

(パトン・ビーチの沖合い、かつて津波がやって来た海に豪華客船が浮かぶ)


(パトン・ビーチのイスラム教墓地は、今も津波に洗われたままだ)
タイ最大の国際的観光地プーケット島を最後に訪れたのは、2006年のことだった。

 2004年12月26日のスマトラ沖大地震から1年あまりたっていた。 マグニチュード9.3という超巨大地震が最大34メートルという津波を引き起こし、インドネシアをはじめアンダマン海からインド洋に至る沿岸諸国で22万人の命を奪った。 多くの外国人がくつろいでいた白い砂浜のプーケット島パトン・ビーチも津波に襲われた。 レストランも酒場もマッサージ・パーラーも、すべてが破壊され、外国人観光客を含め数千人が死亡した。 華やいだ観光地が忽然と消えたのだ。

 2006年、津波被害から1年以上たち、ホテルは復旧し街並は戻っていた。 だが、観光客の姿はまばらで、気が滅入りそうな侘しい雰囲気は、客がつかなくなった娼婦の面影だった。

 そして2014年2月。 8年ぶりに訪れたパトン・ビーチは、落ちぶれた娼婦が整形手術と厚化粧で蘇ったかのようだった。 通りは様々な照明で明るく照らされ、外国人観光客が溢れていた。 もはや、ここが津波で死にかけた過去を持つ街とは思えない。 

 もうひとつの変化は、街を歩くと中国語とロシア語の会話がひんぱんに耳に飛び込むようになったことだろう。 これは時代の変化だ。

 変化といえば、街ばかりではなく、島の周辺の海底もかつての表情とは違う。 シュノーケリングで海に潜った外国人旅行者が驚いていた。 「珊瑚がみんな死んでいる」。 ボートで観光客を案内する地元プーケットのタイ人の若者が言った。 「5年くらい前から。 観光客がたくさん来るようになってからのこと」。 津波でも珊瑚の被害があったが、今起きているのは人間が引き起こしたものらしい。

 ”美しい珊瑚に囲まれた島”は、津波を生き延びても、やはり死ぬ運命にあるのか。 

 人口25万人のプーケット島の20%はイスラム教徒とされる。 彼らの墓地のひとつがパトン・ビーチに面したところにある。 9年前の津波の痕跡を見られる数少ない場所のひとつだ。 高級ホテルの建物に囲まれ、 ビーチに面した一等地なのに、津波に洗われたまま放置され、雑草に覆われた空き地になっている。 おそらく墓地という性格上、跡地利用が難しいのだろう。 ここでは、9年という時間が置き去りにされ止っている。

 だが、変化のけばけばしさに疲れ、墓場の茂みに足を踏み入れると、なぜか、ほっとした気持ちにさせられる。