第一印象、海岸に流れ着いた女のマネキン人形。 だが、それは現役時代の山口百恵の水着姿だ。 この写真家は、いったい何を表現したかったのか。
「篠山紀信展 写真力」がマスコミで宣伝されているので覘いてみた。
山口百恵の写真は、タテ横数メートルの巨大なパネル。 だが、その画像の中の百恵は死んでいる。 だから、漂着したマネキンだった。 ただのゴミ。 物体。 人間が見えない。 生きている姿、その内面が無視されている。
この写真が発表された当時評判になったとしたら、超人気歌手・山口百恵がセミヌード姿になったという下世話な話題以上のものではなかったはずだ。 なぜなら、この写真から、人間・山口百恵を表現しようとした気配が感じられないからだ。
人気歌手を裸にした、この写真家はそれだけで得意満面だったに違いない。
巨大なパネルに引き伸ばしたことが、この展示の売り物だが、明らかに、こけおどしだ。 人の生き様を描いていない退屈な写真をもっともらしく見せるための仕掛けにすぎない。
こんな写真家を大物ぶらせていられるのは、日本のフォトアーティスト界の貧困さが成せるわざなのか。 哀しい実像なのだろうか。
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