1975年4月29日、南ベトナムの首都サイゴンの占領を開始した北ベトナム軍から逃れるため、残っていたアメリカ人や、一部のベトナム人が、懸命の、そして最後の国外脱出を続けていた。
米軍の手元にあった使用可能な兵員輸送ヘリコプターのすべてが動員され、人々はサイゴン市内から沖合いに待機する空母へ運ばれた。 北ベトナム軍がせまる中、それは時間との競争であり、出国しようとする全員の輸送が不可能なことは目に見えていた。 当然、多くの人々が取り残された。
オランダ人フォトジャーナリストHubert Van Es が撮った当時のドラマティックな光景を覚えている人は多いだろう。
3月11日の巨大地震・津波、その後の余震と原子力発電所の深刻な損傷。 鈍痛のような不安は今も続く。 そして、在住外国人たちは日本脱出を続けている。
「(法務省入国管理局によると)地震後は外国人を中心に出国者が増加し、羽田と成田空港からの出国者が地震前の約2倍に達している。 一時帰国に必要な在日外国人の『再入国』の手続き者は通常の約10倍に達している」(3月19日読売新聞夕刊)
ヨーロッパの新聞のウェブ版には、出発ロビーで「日本の友人を置いて離れるのは心苦しい」と語る談話が載っていた。 そんな心優しい気遣いはあるにしても、外国人の日本脱出は着々と進んでいる。
われわれは今、日本人として初めて、見捨てられる、去られる寂寥感を味わわされている。
ベトナム、カンボジア、アフガニスタン、イラン、イラク、イエメン、ボスニア…。 戦争や内戦が激化するたびに、外国人たちは脱出した。 だが、去られる国の人々は、去る外国人を責めることはない。どんな悲惨な状態になっても、そこに生きる宿命を受け入れるしかないからだ。
だが、去る外国人への複雑な感情は否定できない。 イラン・イラク戦争の末期、イラクはイランへ激しいミサイル空襲を加えた。 このため、当時住んでいたテヘランから隣国トルコへ一時避難したことがある。
そのときイラン人の友人たちが向けた目は、なんと表現したらいいのか、あらゆる感情をごちゃまぜにした無彩色とでも言おうか。
無論、戦争と災害は違う。 だが、あの目を今の日本人も去る外国人に向けているのかもしれない。
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