2011年2月12日土曜日

エジプト人に「とりあえず、おめでとう」


 ムバラクがついにエジプト大統領の座を手放した。 エジプトの人たちに「おめでとう」と言おうではないか。 今後の政治的展開は予断を許さないから、「とりあえず」ではあるが。

 それにしても、彼らのパワーは凄かった。 いったい、どこに隠されていたのだろうか。 ぶくぶく太ったエジプト人たちは、怠惰な生活ぶりとともに、アラブ世界の中では常に笑いの種になっていた。 もちろん、すべてのエジプト人がデブで怠け者ではないのだが。

 今週の米誌TIMEのエジプト特集記事で、名の売れた国際問題ジャーナリストのFareed Zakariaが書いている。 エジプトには、1798年のナポレオンによる侵略以来、西欧に追いつこうとし、リベラルな思想と政治の潮流が流れ続けていた。 1882年のエジプト基本法は、当時の全アジア、中東諸国の憲法の中で、もっとも進んでいたという。 Zakariaは、ここにエジプトにおける民主主義進化(深化)への希望を託す。

 これは面白い視点だ。 言われてみると、納得できる面がある。 インドネシアのスハルト独裁体制が終わったあと大統領になった卓越した宗教家・政治指導者アブドゥルラハマン・ワヒド、愛称グス・ドゥルは1960年代初め、カイロにあるイスラム最高権威アズハル大学に留学した。 彼のやや奇想天外な性格と生活ぶりにもよるが、イスラムの授業に退屈してドロップアウトし、自由な空気が流れていた当時のカイロで様々な種類の人間たちとの交流を楽しみ、自身の知的財産を形成したという。

 カイロに長く住むヨーロッパ人の老ジャーナリストは、1970年ごろの生活を懐かしんでいた。 街の雰囲気は自由で、若い女たちも美しく、ミニスカートで通りを闊歩していたという。 現在のカイロでは考えられないことだ。 政治的、社会的不満が鬱積するにつれ、人々は伝統的イスラムの生活へ回帰していった。 ミニの女は、今だったらイスラム過激派の標的にされてしまうかもしれない。

 現在のエジプト社会は腐りきっている。 教師たちは学校での授業で子どもたちにきちんと教えることはない。 まともに教えるのは、家庭教師に雇われた先だけだ。 建築業者たちは平気で手抜き工事のビルを建てる。 カイロの地震は、だから怖い。 まじめに生活するのがバカバカしい社会になってしまったのだ。 一部の特権階級、権威と結びついた者たちだけが得をする構造は、独裁政権下で地盤を固めていった。

 みんなが知っていたことだったが、声に出すことはできなかった。 それを思い切って、みんなで叫んでみたら、独裁者をあっさりと追い出すことができたのだ。

 あらためて、「おめでとう、エジプト」。

 だが、あくまでも「とりあえず」。

 ベトナム戦争でのベトナム解放、イランのイスラム革命、フィリピンのピープル革命、ソ連崩壊後の新国家群誕生、アフガニスタン、イラクへの米軍侵攻。 「歴史的転換点」と呼ばれた過去の大きな出来事の結果、誰もが幸せになれた例は、まだ残念ながらない。

2011年2月4日金曜日

エジプト、そしてムスリム同胞団


 エジプトの混乱が深まるにつれ注目度が上がっている「ムスリム同砲団」とは、いったい、どんな組織なのだろうか。 非合法とはいえ、実質的に、もっとも組織化された最大野党とあれば、同胞団抜きに、今後のシナリオは描けない。

 米国やイスラエルの不安は、彼らはイスラム原理主義者であり、政権を握ればエジプトが反米・反イスラエル・反西欧の一大国家になる可能性があるという恐れに集約できよう。 1979年のイラン革命は広範囲な国民の反パーレビ感情の高まりが原動力になったが、卓抜した宗教政治哲学者ホメイニの支持者たちがその果実を奪い、「イスラム革命」へと変質させた。 親米から反米へと180度転換したイラン革命の悪夢をエジプトでもう一度見たくはないのだ。

 だが、こうしたイランとエジプトの比較は、あまりに単純すぎる。

 オサマ・ビンラーディンのアル・カーイダと密接につながるエジプトの過激テロ組織は、穏健化したムスリム同砲団から離反していった。 根は同じでも、同胞団は今、アル・カーイダ主義を全面否定する。 彼らの活動は非常に現実的だ。 手段はテロではなく、社会奉仕活動が主体、ムバラク政権下で貧困にあえぐ大衆は、何もしてくれない国家より同砲団を頼りにする。 例えば、地震などの災害時にいち早く救援チームを組織するのも同胞団である。

 顎鬚をたくわえたイスラム指導者のイメージで同胞団幹部に会うと面食らう。 つるりとした顔で高級スーツを着こなしているのもいれば、流暢な英語でジョークを飛ばすのもいる。 

 カイロで、1928年に同胞団を創設したハサン・アルバンナの孫に会ったことがある。 弁護士で、現在の主要メンバーでもある。 みかけは、どう見てもビジネスマン。 しばらく話してから、顔を寄せてきた。 「日本から資金と技術を援助してもらえないだろうか? 組織内のコミュニケーション・システムを整備したいんだ」。 生き馬の目を抜く商売人の面構えだった。

 現在の同砲団の雰囲気を知るには、同砲団の公式ウェブサイトhttp://www.ikhwanweb.con/(英語版)を見るのがいいかもしれない。 洗練された作りで、外部世界に開かれた組織であると感じさせる。

 米国オバマ政権は非常に慎重に対応しているようにみえる。 イランで、米国が全面的に支援していたパーレビ王政が倒れたあと、イスラム勢力との回路がなかったために、ホメイニ政権が強烈な反米へと邁進するのをとどめることができなかった。 オバマ政権がその二の舞を回避しようとしているのは明らかだ。 

 だが、おそらく米国は同胞団と接触はできても、まだ信頼できるパイプは確立していないはずだ。 それでも、オバマがムバラクを見限る態度をとりつつあるのは、なんらかの手ごたえを感じたからに違いない。

 ハサン・アルバンナが同砲団を創設した1928年は、イスラム世界の盟主オスマン帝国を崩壊させた第1次世界大戦から10年後のことだった。 この間の大きな歴史的出来事は、1924年、消滅したオスマン帝国のあとに西欧型近代国家・トルコ共和国が生まれたことだ。 軍事と政治の天才ケマル・アタチュルクは、伝統的イスラム教徒が生きるよすがとしていたイスラムの価値を根本的に否定し、西欧の価値基準を導入して近代化を推進した。

 トルコ人ばかりでなく中東全体のイスラム教徒に衝撃的な変革であった。 アルバンナは、西欧化が近代化への道とするアタチュルクの考えに強い違和感を覚えた。 われわれには、われわれの道があるのではないか、という疑問が、あらためてイスラムに目を向けさせた。 同胞団運動は、こうして生まれた。 西欧化が唯一の価値だった植民地時代に、価値の多様性を主張した運動ともいえる。

 今も、その価値観は様々なイスラム運動の根本にある。 ムバラク後のエジプトにいかなる政権が誕生しようと、オバマの米国がイランの失敗を繰り返さないためには、米国の伝統である横暴・独断・押し付けを棚上げし、これまで最も苦手としていた価値の多様性を受け入れる謙虚さが、たとえ上っ面だけにしても当面は必要だと思う。 

 

2011年2月2日水曜日

悲劇の多摩川フクロウたちは耐えるしかない


 衆人環視のもとでの生活を強いられた多摩川フクロウの悲劇は、いくつかのきっかけが重なった結果であろう。 どれか一つに責任を負わせることはできないが、明らかに、きっかけの一つを作った人物を、ほぼピンポイントで特定することができた。

 哀れなフクロウたちの居場所から遠くない駅近くの商店街の熟年男性だった。

 本人に悪気はまったくなく、無邪気に色々な人に見てもらいたいと思って、新聞社に電話で通報した。 新聞は場所をぼかして、珍しいフクロウの飛来を報じたが、地元の口コミもあいまって、たちまち知れ渡ってしまった。

 新聞社に電話をした男性は、新聞が場所を明確に伝えなかったので、役所の広報課にも電話をして、問い合わせがあったら教えるようにと詳しい場所を伝えた。

 善意の人なのだ。 きっと周囲の人たちに好かれる親切なオジサンであろう。 そして、フクロウの写真を撮ろうと連日集まる人々も、動物と自然を愛する優しい心の持ち主であろう。

 フクロウたちは、かれこれ2か月も人間たちに連日覗かれながら、けなげにも同じ場所で動かずに耐えているように見える。

 そろそろ”視撃”から解放してやりたいのだが、好奇心という魔物がそれを許さないだろう。

2011年2月1日火曜日

ムバラクの命運は時間の問題


 CNNテレビは、24時間休みなくエジプト騒乱のカバーを続けている。 明らかに、独裁ムバラク体制崩壊を前提に、その瞬間を逃すまいとする報道シフトだ。

 大衆蜂起で倒された政権の例、1979年イランのパーレビ王政、1986年フィリピンのマルコス独裁、1998年インドネシアのスハルト独裁などと比較すると、ムバラクの命運は明らかだ。

 政権倒壊のプロセスがテレビのライブで歴史上初めて報道されたのは、1986年のフィリピンだった。 以来、戦争までもがライブで報じられるようになった。

 今では、現場にいる誰もが携帯電話でリアルタイムの情報を発信できるようになった。 テレビや新聞は表向きの報道の中では、「ムバラクはもう終わりだ」とは言わないが、携帯を持ってデモに参加している若者たちと同様に、「その瞬間」を、記者と機材を大動員して待っている。

 これだけ期待されると、ムバラクは去るしかない。 問題は、いつ。

2011年1月31日月曜日

アラブの歴史が動き出した


 アラブ世界の歴史が確実に動き出した。 もはや止めることはできない。 チュニジアの地方都市で政府の腐敗に抗議して焼身自殺した26歳の失業青年ムハンマド・ブアジジは、巨大地震の震源地となった。 独裁政権の抑圧下で人々のあいだに充満していた不平不満が大津波となり、たちまちチュニジアの独裁者ベンアリを飲み込んだ。 そして、その大波はアラブの大国エジプトをも襲った。

 貧しくても従順なエジプト人が街に繰り出し、独裁大統領ホスニ・ムバラクに「出て行け」と叫ぶ姿は感動的な驚きだ。 ピラミッド見物に来た日本人観光客が、カイロ国際空港で飛ばなくなった帰りの飛行機をぼんやりと手持ち無沙汰に待っているのは信じられない光景だ。 彼らは歴史の目撃者になれる幸運に遭遇したのだ。 歩いてでもカイロ市街に戻ってエジプト人たちとエールをかわせばいい。 一生の思い出になるだろう。 帰国などせずに、独裁者の最期を見届けようではないか。

 きょう(1月31日)のCNNには、イスラエルの元カイロ駐在大使がエジプト通として登場していた。 彼は、現在の抗議行動でエジプトが民主化され、民主的な選挙が実施されるとすれば、それがエジプトで最初で最後の民主的選挙になるだろうと警告していた。 

 選挙に勝つのは、イスラエルの存在を受け入れようとしないイスラム勢力で、彼らが政権を取れば二度と選挙などしないという論理だ。 イスラエルは、敵対するアラブ諸国の中で曲がりなりにも自国と国交を持ち、イスラム勢力を抑圧する独裁エジプトの延命を願っているのだ。

 中東や外交の専門家たちは、中東で最大の親米国エジプトの独裁が崩壊すれば、米国にとって大きな損失となり、米国が主導してきた中東秩序の再構築がせまられると”解説”する。

 だが今は、したり顔の解説や分析に耳を傾けるときではない。 そういう意見には、アラブ人たちの血や汗の臭いが欠如している。

 腐りかけた偽善の秩序が崩れつつある。 きっと大きな混乱が起きるだろう。 だが、われわれは、それを受け入れなければならない。 なぜなら、アラブ大衆の犠牲で成り立っていた世界的搾取システムから流れ出てくる甘い汁を、われわれも貪ってきたからだ。  

2011年1月21日金曜日

なぜサクラの植樹なのか


 ぱっと咲き、散っていくサクラ。 そこに人生のはかなさと死に際の潔さを見る。 サクラは日本人の精神を象徴するという。

 ”咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため”

 太平洋戦争末期、大日本帝国が始めた勝つわけのない戦争の仇花、特攻隊出撃で多くの若者が死んだ。 「同期の桜」が大いに流行したのは、そのころだ。 花見には美しいサクラだが、当時は若者たちの無駄死を鼓舞する役割も担ったと言える。

 最近では、外国との友好や平和の象徴として、日本人が世界のあちこちでサクラの植樹をしている。 2009年には、上海万博予定地で、「日中友好・緑と花の植樹事業」と称してサクラの苗木が植樹された。 2010年には、日本とトルコの交友120年として、トルコのイスタンブール、アンカラなどの都市に3000本のサクラが植樹された。

 太平洋戦争で多くの若者を「散り際の美学」で死に追いやったサクラが、なぜ、いつから友好や平和の象徴になったのか知らない。

 1912年、東京・荒川堤のサクラ並木からとった苗木が米国に贈られ、首都ワシントンDCのポトマック川岸に植樹され今も咲き誇っている。 だが、サクラは平和の構築には貢献しなかった。 植樹から29年後の1941年12月8日、日本は真珠湾を電撃攻撃し、日米は戦争に突入した。

 寒風吹く真冬に、唐突にサクラを話題にしたのは、ボランティア活動に熱心な女友達I さんが、日本からはるか離れたボスニア・ヘルツェゴビナでのサクラ植樹を進めているのを知ったからだ。

 1990年代のボスニア紛争では、戦火と民族浄化で20万人が死に、200万人が難民になり、第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪の悲劇となった。

 日本人によるサクラ植樹はボスニアの平和のためだという。 彼女たちの活動ぶりを直接きいていると、まじめで純粋な気持ちがひしひしと伝わってくる。 そもそも、そんな遠くの国の出来事を自分のものとして感じ取り、行動を起こす感受性、知性、想像力、実行力が凄い。

 とは言え、どうしても、ピンとこないのだ。 ボスニアの平和を願うのはいい、だが、どうしてサクラの植樹なのか。

 ボスニアでは、紛争で深まった民族間の亀裂がまだ埋まっていない。 サクラのお花見をして憎しみを忘れなさいとでもいうのだろうか。 あるいは「散り際の美学」で過去をすっぱり捨て去りなさいというのだろうか。 それは、あまりにナイーブであろう。 かつての軍国日本は周辺アジア諸国の人々に日本精神の受け入れを強要した。 まさか、心優しい彼女たちの心を、そんなことが一瞬たりともよぎったことはないだろうが。

 日本外務省は、日本国の存在を誇示するための記念碑風のものを各国に作りたがる癖がある。 サクラ植樹がそんな姑息な”外交”の手段に使われているとも思いたくない。

 ボランティアとは何をすべきか、I さん、今度いっしょに考えませんか。

2011年1月16日日曜日

チュニジアで何が起きたのだ?


 1月14日、23年間にわたってチュニジアに君臨していた独裁大統領ベンアリが、急速に勢いをつけた反政府デモの拡大に耐え切れず、サウジアラビアへ脱出し、政権が崩壊した。 強権支配の海・中東イスラム世界で起きた唐突ともいえる驚きの政治ドラマをどうとらえるべきか。

 希望的観測をするなら、長いこと停滞していたこの世界で地殻変動が起きつつある前兆、歴史的転換点が表面化した出来事である。

 チュニジアは政治的、経済的に安定し、治安も良く、ヨーロッパ人など外国人で賑わう地中海の観光立国だった。 イスラム教国の中では宗教色は薄い方で、宗教理解が貧弱な日本人にはイスラム世界の入門に最も適した国でもあった。

 おそらく、外国人の目には見えない社会の水面下で、経済的格差、支配層の腐敗などに対する国民の不満が次第に蓄積されていたのであろう。 それにしても、独裁政権崩壊は突然だった。

 きっかけは、大学を卒業しても職のない26歳の若者の焼身自殺だった。中部の町シディブジの市場で野菜を売っていたが、警察官に無許可販売ととがめられた。自殺はそのあとだった。 これをきっかけに抗議行動に火が付いた。 すぐに全土に広がり、当局との衝突で数十人が死亡したとされる。 それによってベンアリ政権への憎悪はさらに深まった。

 ただ、その前に、いわば序曲があった。 あの世界的に注目されたWikileaksの大暴露の中に、ベンアリ政権の腐敗に関する情報があったのだ。 独裁への不平不満は、この暴露によって、まるで可燃性の油のように、ひたひたと社会の底辺に広がっていた。 若者の自殺はマッチのひと擦りだった。

 アルジャジーラなどの中東メディアは、もうひとつの要因に注目した。 インターネットである。 ブログ、ツイッター、facebookなどが、当局のサイバー攻撃、妨害にもかかわらず、政府批判運動の拡大と継続に大きな役割を果たしたというのだ。

 まさに、サイバー社会を象徴する政治ドラマだったと言えるだろう。 だが、新しさはそれだけではない。 1979年のイラン革命以来初めて、大衆行動によって独裁体制が倒されたことに注目しなければならない。

 イラン革命後、中東イスラム世界の大衆は、政治社会改革運動の思想的支柱として、イスラム主義に期待を寄せた。 だが、「イスラムが解決」というスローガンは現実にはならず、過激主義を生み、多くの犠牲者を出し、人々は次第に期待をしぼませていった。 

 1990年代後半には、文明間の対話を訴えたイラン大統領モハマド・ハタミの穏健路線がイスラム大衆に「民主化」という希望を抱かせた。 2001年の9・11事件後は、ブッシュ政権の米国が、テロの温床は非民主的な中東の独裁・専制支配にあると考え、中東諸国に「民主化」圧力を加えた。 だが、その結果は米国には、実に皮肉なものとなった。 エジプトなどで政治規制を緩和して実施された選挙で、反米勢力が大きく伸長したのだ。 こうして、「民主化」はさたやみになってしまった。

 以来、中東イスラム社会は沈滞したままの状態が続いているとみられていた。 チュニジアのドラマが生まれたのは、こういう状況下だった。 だが、これまで変革運動に登場してきたイスラム勢力や野党、軍部といった既成の組織は表立った動きをしないまま、独裁は倒れてしまった。

 これはいったい何なのだ。 まるで、社会変革の未知の要因が作用したかのようだ。 無論、チュニジア情勢は今後、注意深く観察しなければならない。 ベンアリが去って別の人物が指導者になっても、権力構造に変化がなければ、ありきたりのクーデターになってしまうからだ。 ただ、当面は、この新現象に、周辺地域の独裁者たちは神経を尖らせるだろう。 彼らは自国の政治的締め付けを強めるかもしれない。 だが、それは彼らが怯えた証拠だ。

 ゆっくりでもいい。 歴史が確実に転換するのを目撃しようではないか。