2009年3月12日木曜日

電柱


 子どもたちが電柱に登って遊ばなくなったのは、いつのころからだろうか。昔の電柱は木製で、表面がすべすべしたコンクリート製ではなかったから、登りやすかった。電柱に差し込んである作業用の足場は、子どもの背よりはるかに高い部分に取り付けてあった。だが、滑らない木製の電柱なら抱きついて足場まで這い登ることができた。

 高い電柱は、子どもたちの冒険心を刺激し、一番高く登れば英雄になれた。高すぎて身がすくみ一人で降りられなくなると笑いものになった。臆病者とからかわれない高さというのもあって、恐怖におののきながら、どこまで登るかを決断する。きっと、たまには転落した子どももいただろう。今では許されない危険な遊びのひとつだ。

 昔の電柱は、登ったり、かくれんぼに利用する子どもの遊び道具だったばかりではない。立ち小便が恥ずかしい行為でもなんでもなかった時代、犬ばかりでなく人間もなぜか電柱にひっかけていた。日が暮れれば、電柱の後ろの暗がりには、カップルではなくアベックと呼ばれていた男女の密やかな姿があった。かつて、電柱は日本人の生活に溶け込んでいたように思える。

 今、無機質なコンクリートの林立は地上を歩く人々に、まるで敵意があるかのようにのしかかってくる。電柱はいつのまにか、そびえ立つモンスターになってしまった。電柱に架けられた電線が空に描く複雑な模様は、逃亡を試みようとする人間を捕えようとする投網のようにもみえる。

 とくに都会は醜悪だ。銀座や日比谷といった東京の上っ面になる部分には電柱がなく、整然とした街並みになっている。しかし普通の人々が住む街の光景を決定付けているのは、複雑怪奇な電柱・電線網だ。こんな様相の街作りを、なぜ我々日本人は認めてきたのだろうか。

 「無電柱化」という言葉がある。明らかに役人語であろう。電線を地中に埋めたりして道路から電柱をなくすことを意味する。都市の景色を見るかぎり、実感はまったく湧かないが、日本政府は昭和61年、つまり1986年から、この「無電柱化」に取り組んでいるそうだ。

 政府(国土交通省)のHPによると、電線の地中化は、ロンドン、パリ、ボンで100%、世界の主要都市で東京(23区)は、わずか5.2%、断トツのビリになっている。この数字は海外旅行での実感そのままだと思う。アジアやアフリカ諸国の都市でも東京ほど電柱を見ることはない。おそらく、東京は電柱の数で世界一だろう。

 東京都も2016年オリンピック招致に合わせて、「無電柱化」推進を謳っている。きれいごとを羅列した招致の宣伝パンフレットには胡散臭さを感じるが、電柱のジャングルが多少なりとも伐採されるなら、オリンピック開催に賛成してもいいような気になってくる。

 もっとも、開催推進者たちは、「無電柱化」にかぎらず、都市環境のあらゆる面を改善すると公言している。今なら、東京オリンピックにかこつけて、普段の不平不満の解消、行政側にやってもらいたい注文、なんでもかんでも言えば、開催支持との交換で実現してくれそうだ。

 それにしても、東京オリンピックを開催すれば地球環境の大切さを世界にアピールできるという彼らの主張は世界にまともに受け取られているのだろうか。そもそも、金をかけてオリンピックなど開催しなくとも、地球環境の大切さなど誰でもわかっているはずだ。問題は、それをいかに実現するかだ。それに、このレトリックでは、開催しなければアピールできないということになる。

 もしかしたら、招致パンフレットの美辞麗句は、「お前ら、オリンピックがダメになったら、電柱もへったくれもない、なにも実現しないぞ」という脅迫かもしれない。

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