2009年3月5日木曜日

コシャリを知っているかい?


 エジプトの街の食堂には、コシャリという丼ぶり飯風の奇妙な食べ物がある。ご飯とマカロニとスパゲティを混ぜてトマト味にしたものだ。決して美味いとは思わないが、安さのせいか、日本からのバックパッカーたちには好まれている。

 見た目は、やや誇張して言えば、一昔前、いや、もっと前の日本で当たり前だった犬や猫に与えた食事。当時は、人間のあらゆる食べ残しをひとつ皿にぶちまけて動物たちに食わせていた。わけのわからない気味の悪い見かけになったが、元は人間の食べ物なのだから不味くはないはずだ。

 コシャリとは、エジプトという国の混沌と魅力を象徴する食べ物だと思う。

 規則と慣習と人の目でがんじがらめになって委縮した日本人が、意識の奥底に隠して、その存在すら忘れていた野性の自由、ジャングルの掟を思い起こす土地、それがエジプトだ。

 独裁国家というのは、最高政治指導者が法権力を恣意的に使うことができる国だ。だから、ムバラク独裁政権に支配されるエジプト人も法律などに、あまり拘らない。いや、尊重はしているが、拘っていては生活ができない。つまり、順法精神などというものは、あまり意味を成さない。(エジプトの民主化運動とは、煎じつめれば法の支配確立を実現することで、エジプト人もそんなことはよくわかっているが、現状は法が支配していない)

 こういう社会で生きていくには、法律に従うことよりも、個々人の臨機応変さが重要だ。誰もがそういう生活をしている国に、規則に飼い慣らされた日本人が放り込まれると、そこはまさに「混沌の世界」となる。そう、コシャリの皿に飛び込んだ小さな昆虫みたいなものだ。

 たいていの日本人は、裏世界にでも関わっていないかぎり、規則や法律を無視して生活することに慣れていない。だが、エジプトでは多かれ少なかれ、”アウトロー”にならざるを得ない。手っ取り早く慣れるには、車がひしめく首都カイロの街を自分で運転して移動してみるのが一番だろう。

 カイロの通りは、まさに無政府状態だ。交通警官はいるがドライバーになめられて相手にされない。渋滞になれば、2車線の道路は割り込みで、たちまち3車線、4車線にふくれあがる。信号は単なる目安で誰もきちんと守ろうとはしない。一方通行を逆行してくる車はざらで、自分が正しいと思っても強気に出なければ負けだ。窓を開け、相手に向かって手を振り回し「エンタ・マフィーシュ・モホ(お前は脳なしだ)」と叫ぶ声の大きい方が勝つのだ。酒酔い運転取り締まりなどは、もちろんない。

 道路は弱肉強食社会を体現している。大きい車、高価な車ほど威張ることができる。カローラはメルセデスに服従しなければならない。つまり、道を譲る。

 こういう道路での運転、あるいは生存競争に慣れてくると、自分の身は自分で守るしかない、国家や法律に頼ることはできない、という生き方が皮膚感覚でわかってくる。

 これこそ、究極の「自己責任」だ。混沌の中で、人間とは何か、を考えさせられる。これが現代エジプトなのだ。

 なぜ、こんなことを書いたかというと、きのう、人も車も通らなくなった寒い深夜の東京の交差点に若い女が一人たたずんでいた姿が印象的だったからだ。

 男を釣り上げようとするストリートガールではないかと思ったが違った。歩行者用の信号が青に変わると小走りで横断歩道を渡っていった。単に信号待ちをしていただけだったのだ。赤信号でも車が来ないなら渡ってしまえばいいのに動かない。これは物凄い順法精神ではないか。

 そう、それが日本なのだ。エジプト人はきっと、ここがとても奇妙な国だと思っているに違いない。

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