2017年12月22日金曜日

あのバリ島は消えた


 「バリは、ほんとに金儲けの島になってしまった。地獄へ堕ちるよ」「慣習上の儀式や宗教儀礼は金で買えるようになってしまった」「浜辺の白い砂やそよ吹く風は、もう漁師のものじゃない。聞いたかい、バリの男は外国女の奴隷になって満足しているって」

 バリ島出身のジャーナリスト、プトゥ・スティアの著作「Menggugat Bali」を翻訳した「バリ案内」(木犀社)の中で、スティアが友人の言葉として引用しているくだりだ。

 だが、世界中から観光客がやってくる現在のバリのことではない。 今から30年以上前、この本が書かれた1986年のことだ。 

 1986年といえば、G5(先進5か国)による為替安定化のためのプラザ合意の翌年、急激な円高で多数の日本企業が東南アジアへ脱出していたころだ。 このころから東南アジアは確かに変わり始めた。 経済発展と外国人観光客の増加。 伝統社会の変化も始まった。

 そのころのバリを知っている。 スティアの友人が言うほどバリ社会が変化していたとは思わなかった。 日本の農村を思わせる水田の風景、どこからか聞こえてくるガムランの音色、人々のほほえみ、そういったものが一緒になって独特のたおやかな雰囲気を醸し出していた。 だが、もちろん、そのころでも観光化の俗っぽさを感じることはできた。 われわれ外国人には、当時、それはまだたいしたことはない程度のものだったが、バリ人には既に破滅的な堕落になっていたのだろう。

 11月に、バリの伝統を色濃く残しているとされる内陸部ウブドに、15年ぶりに行った。 この土地の田舎っぽさ、何もしないでぼんやりしていても退屈しない時間の流れ、ずっと昼寝をしていたい気持ちになれるのが好きで、いつかは住んでみたいな、と思っていたからだ。

 だが、クルマでウブドに着いて、運転手から「ここだ」と言われても、そこがウブドだとわからなかった。 通りの両側は、ホテル、レストラン、バー、スパ、エステ、土産物屋、コンビニなどが、ぎっしりと並んでいた。 都会の繁華街のような光景。 

 15年前もこういった店はあった。 だが数ははるかに少なくて、建物と建物のあいだからは裏手に広がる水田を見渡すことができた。 あの田舎町は消えていた。 東京から7時間も飛行機に乗らなくても、こんな歓楽街なら電車ですぐのところにいくらでもある。

 どうやら、スティアの友人が30年前に指摘したことをやっと感じることができたようだ。 冷静になってみれば、自分があまりにナイーブになっていたことはわかる。 東南アジアはどの国も30年のあいだに大変貌を遂げた。 バリだけが例外であるはずはない。 それでも嬉しかったのは、バリの人々の昔と変わらない優しい微笑みだった。

 昔は、泥棒だの売春婦みたいな邪悪な人間は、ジャワ島などからやって来たよそ者で、バリの人間は悪いことはやらないと自慢していた。 多少の誇張ではあったろう。 ウブドの若者に、今はどうなんだ、と訊いてみた。 ニヤッと笑って、「今は、バリの人間でも悪いのが少しはいるよ」と言った。 きっと、”少し”ではなくて、”たくさん”いるのだろう。 そういう顔をしていた。    

2017年11月5日日曜日

何を意味する「トランプ報道」

 


 米国大統領ドナルド・トランプの来日が目前の11月2日付け読売新聞朝刊は、「トランプ主義」と題する企画記事を掲載し、かなり唐突にトランプを礼賛した。

 記事の内容は、昨年の大統領選挙でトランプが70%以上も得票した特異な州ワイオミングで拾ったトランプへの期待の声を集めたものだ。 日本の新聞報道の基準からすれば、この記事だけでは中立性を欠き、露骨な”偏向報道”ととらえられかねない。 さすがに、日本を代表する新聞だけに、そんなボロは出さない。 別の目立たない記事で、トランプに失望した声も紹介している。 だが、明らかに、とってつけた”中立性”だ。

 翌3日掲載の「トランプ主義」は、野党・民主党内部の分裂ぶりに焦点を当て、トランプへの抵抗勢力としての弱さを強調している。 この報道の仕方は、日本国内で安倍政権を持ち上げる一方、野党の体たらくを強調する得意の手法と同じようにみえる。

 まるで、日本も含め世界中で評判の悪いトランプへの支援キャンペーンを始めたかのようだと思ったら、2日に来日していた大統領補佐官を務める娘のイヴァンカ・トランプが、3日に都内で開いた国際女性会議「WAW!」で講演し、この会議であいさつした安倍晋三は、おそろしく気前のいい約束をした。 なんと5000万ドル、日本円で57億円をイヴァンカが提唱した女性起業家支援の基金に拠出すると表明したのだ。

 これは、いったい何を意味するのか。 米国ではイヴァンカといえば世間知らずの金持ちで庶民感覚に疎いとみられている。 そういう女の基金を支援すること自体が米国では不可思議な行為と受け取られるかもしれない。 しかし、イヴァンカが大統領に最も近い人物であることに目を向ければ、父親トランプへの安倍のご機嫌取り以外の狙いがあろうはずはない。

 安倍はこれからも評判の悪いトランプに擦り寄っていくのだろう。 当面の狙いが何かはわからないが、57億円はある種の賄賂の性格も持とう。

 トランプは日本でも一般的に好かれてはいない。 安倍は無論そのことを知っている。 だが、トランプに擦り寄りたい。 そのためには日本でのトランプの印象を改善したい。 そういうことなら、自分の後援会機関紙・読売新聞を使わない手はない。 おそらく、こうして読売の「トランプ支援キャンペーン」は始まったのだろう。

 それにしても、安倍はなぜトランプにべたべたとくっつこうとするのだろうか。 伝統的な日米関係とは異質な何かを感じる。 北朝鮮情勢、中国の脅威といった安全保障面では米国と密接な関係を維持したいだろう。 だが、トランプによる米国のTPP、パリ協定からの離脱は日本の国益とは相容れない。 利害が相矛盾し日米関係が複雑化する中で、露骨なトランプ接近が目指す先はまだ見えてこない。

 いくらなんでも、安倍の大好きな「お友だち」というレベルのものではないだろう。 

2017年10月18日水曜日

あの脱脂粉乳の不味さを知らないユニセフ


 「戦後食糧難の時代、ユニセフミルクとも呼ばれた学校給食の脱脂粉乳が、ユニセフを通じ世界から日本へ届けられました」

 きょうの新聞(2017・10・17 読売)に掲載されていたユニセフの広告は、学校給食の脱脂粉乳に実に誇らしげだ。 貧しかった日本の子どもたちの栄養改善に貢献したというわけだ。 おそらく、その通りなのだろう。 だが、当時、脱脂粉乳を半ば強制的に飲まされた世代の日本人、「団塊の世代」以上の年齢に達している人たちは、その誇りに嫌悪感や吐き気を催すかもしれない。

 とにかく不味かった。 当時の給食で出てくるものは、なにもかもが不味かった印象しか残っていない。 無論、ときには旨いものもあったのだろうが、給食に良い記憶はほとんどない。 教師も「残すな」と子どもたちを睨みつけ、吐き気をこらえながら飲み込まされたこともしばしばだった。 給食とは拷問であった。 その最強の武器が脱脂粉乳だった。 

 今どきのスーパーで売っている粉ミルクやスキムミルクも脱脂粉乳だそうだが、不味くはない。 給食ミルクがなぜ不味かったのかわからない。 だが、団塊オヤジたちが酒場で一杯やりながら、給食の思い出話を始めれば、無理やり飲まされた脱脂粉乳の悪口でかなり盛り上がるだろう。

 だから、きょうの広告は、犯罪者が自分の犯行であると自白したようなものでもある。 だが、「悪うございました」と謝罪するのではなく、逆に「感謝しろ」と威張りくさっているようにすら受け取れる。

 新聞広告に付けられている給食の写真は、まさに「フェイク」だ。 男の子が嬉しそうに脱脂粉乳を別の男の子の持つ容器に注いでいる。 冗談ではない。 

 この写真にふきだしを付けて、正しい台詞を書き込むなら、「おまえには、たっぷり飲ませてやるぞ、へへへ」「バカ、やめろ。ふざけるな」

 おそらく、この広告制作者はかなり若い人で、ある年齢以上の日本人が脱脂粉乳をいかに嫌悪していたかを知らないのだろう。

 学校給食を紹介している「学校給食」というサイトによれば、学校給食は昭和22年(1947年)に全国都市の児童300万人に対して始められ、アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳が使われた、となっている。 さらに、昭和24年(1949年)からは、ユニセフから寄贈を受けた、としている。

 「援助の歴史」というサイトによると、第2次大戦後、対日援助のために、アメリカ、カナダ、メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの国から集められた物資の窓口を一本化するためにLARA(Licenced Agencies for Relief in Asia)という組織が発足し、1948年LARA物資による給食が開始されたとなっている。 また、1949年に始まったユニセフ活動では、62年までに脱脂粉乳が緊急用として71万4千ドル、母子福祉に101万9700ドル分が援助された(この金額、現在の感覚では少なすぎるが…)。

 LARAとユニセフを通じて日本に届いた脱脂粉乳は、実際には、ほとんどアメリカから来たものであろう。

 当時は、凶悪な軍国主義日本を倒したアメリカは憧れの輝ける国だった。 それでも、あの恐ろしく不味いミルクがアメリカから来たということは、子どもたちもなんとなく知っていた。 アメリカ人は日本人を人間扱いしていないから、あんなミルクを寄越すんだ、などという声も聞かなかったわけではない。 もしかしたら、それは本当かもしれない。 

 だが、今になってみれば、多くの日本人がアメリカへ観光旅行に行って、アメリカの食べものがひどく不味くて、アメリカ人の多くが味覚音痴だと知っている。 だから、ゲロを我慢しながら飲んだ脱脂粉乳も、善意のアメリカ人がご馳走だと信じて誠心誠意作った可能性も否定はできない。

 これは喜劇なのか悲劇なのか。 自分たちが常に正しいと信じきっているアメリカ人とつきあうとき、脱脂粉乳の味は教訓になるかもしれない。

2017年9月18日月曜日

パキスタンにクルマを売ろうと思ったけれど


 友人が最近、カッコいいクルマを買ったのに刺激を受けて、13年も乗っているマツダを乗り換えようかな、という気がした。

 しかし、こんな古いクルマを下取りに出したり、買い取り業者に引き取らせても、たいした額になるわけはない。 と思っているうちに、10年くらい前に横浜で偶然会ったパキスタン人の中古車業者の男を思い出した。 パキスタンばかりでなく、アジアには街を走るクルマのほとんどが、日本から輸入された中古車という国が珍しくない。 そういう国では日本製中古車がかなりの高額で売られている。 

 あのパキスタン人に売り込めば、いい値が付くかもしれない、確か名刺をもらったはず。 と思って、古い名刺のたばをめくってみたら出てきたではないか。 自分のクルマがこれからもアジアのどこかの街を走っている、と想像するのも楽しくはある。 

 こういう連中が怪しげな商売をしていることは十分承知している。 だから、名刺に記されていた番号に電話する前に、ネットで、彼の名前と会社名を検索してみた。

 ビンゴ‼ 見事に当たった。 2010年の新聞ニュースになっていた。 軽自動車を無免許運転していて警察につかまり、その後の調べでパキスタンのアルカーイダ系組織にクルマを売っていたことがわかったというのだ。 報じられた記事によれば、本人も売った事実を認めていた。

 10年前に会った印象では、この男は多少やばい商売をしているという印象はあったが断じてテロリストではない。 こういうタイプの商売人はパキスタンの街中にいくらでもいる。 話をしているだけなら楽しい相手だ。 彼のクルマを買った相手に関してアルカーイダ系と知っていたかもしれないが、そんなことはどうでもいいと売っぱらったにちがいない。 なにしろパキスタンでアルカーイダ系の組織に会うなどというのは日常生活の一部でしかないのだから。

 日本の警察がつまらない小者を捕まえて自慢げに公表し、パkスタン情勢に疎いアホな新聞記者がそれを記事にしたのだろう。 

 彼の電話番号にまだダイアルしていないが、きっと逮捕後すぐに国外追放されたにちがいない。 いずれにせよ、もう電話はしない。 警察がいまだに盗聴している可能性も否定できないからだ。 なんだか、クルマを買おうという気持ちも興醒めしてしまった。 

 

2017年9月14日木曜日

蘇炳添を忘れるな


 9月9日に、桐生祥秀が陸上100mで日本人として初めて9秒台の記録を出した。 9.98秒。 日本人には嬉しいニュースだった。 近ごろのスポーツ選手はイケメン揃いになった気がする。 だが、桐生クンは普通の田舎臭い若者面。 親しみの持てる新たなスターの誕生だ。 東京オリンピックのころ活躍した飯島英雄も田舎っぺ面だったっけ。 二人ともイボイノシシを思い起こす顔つきだ。

 桐生クンや他の若い日本人スプリンターへの期待はふくらむが、日本人よりも先に「黄色人種」として初めて9秒台を出した中国の蘇炳添(スービンティエン)とのライバル対決も楽しみだ。

 中国の経済発展や中国人の国際的活躍に嫉妬心を抱きがちな日本人には受けないニュースのせいか、日本のマスコミは蘇炳添の活躍をあまり報じない。 とにかくアフリカ系の選手を除けば、おそらく世界一だろう。 2年前2015年5月に日本人に先駆けて9.99秒を記録、その年の北京世界陸上の100mで決勝に進出し、アジア人(生まれ育ちがアジアのnative)で初めてのファイナリストになった。 さらに今年の8月のロンドン世界陸上でも決勝進出を果たし8位に入賞した。

 日本のメディアは引退するウサイン・ボルトの最後の姿ばかりに注目していたが、あの決勝レースで蘇炳添はボルツに果敢に挑んでいたのだ。 

 蘇炳添は広東省中山市出身の28歳。 からだは小さい。 172センチ、65キロ。 大型スプリンターが世界の主流になる中で、桐生(175センチ)より小さい。 このからだで、今年5月には、追い風2.4mで参考記録ながら9.92秒を叩きだした。

 100mを9秒台で走った人間は桐生が126番目だそうだ。 世界に目を向ければ、ニュースでも何でもない。 保守反動政権下で今、日本ナショナリズムがむやみに煽られている。100m9秒台の騒ぎも、そんな一コマであろう。 純粋にスポーツを楽しみたいなら、 蘇炳添は絶対に面白い存在だ。 日本ではスポーツ・ニュースも次第に政治化している。

2017年9月11日月曜日

これぞ日本の記者会見



 皇室「秋篠宮家」の長女と大学の同級生との婚約内定が、9月3日発表され、その記者会見が、テレビで生中継された。 

 主役の二人はやや緊張気味ではあったが、記者の質問に、言葉を詰まらせることもなく、よどみなく答え、会見はつつがなく終了した。

 だが、これは本来の記者会見とは言えない。 宮内記者会幹事社のフジテレビのタナカ、日本経済新聞のイマイが発する台本通りの質問に、十分な時間をかけて何度も練習して、滑らかに口に出せるようにして暗記した台本通りの回答をしただけだ。 

 そんなことは、日本の報道機関も会見を設定した宮内庁も承知の上であり、これこそが彼らの言う記者会見なのだ。  予定外の質問などありえない。 ロボットのように個性のない同級生は、既に皇室の一員に成りきったような話し方をしていた。 宮内庁で徹底した訓練を受けたのだろう。

 この記者会見が誰の目にも明らかにしたことは、日本のジャーナリズムの現実だ。 国家権力の思い通りに操られ、手も足も出ない。 

 とても悲しい婚約内定だ。 


2017年9月3日日曜日

ミサイル空襲体験記

(イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクによるテヘランへのミサイル空襲で家を失い茫然とする市民)


 イラン・イラク戦争が終わったのは1988年7月。 この年の2月。 イランの首都テヘランには、長引く戦争にもかかわらず、まだ150人ほどの日本人駐在員が残っていた。 商社員、大使館員、それに新聞記者などが、その中に含まれていた。 

 イラクがテヘランへのミサイル空襲を突然開始し、彼らは、ミサイル攻撃というものを初めて体験した。 私もその一人だった。 今、北朝鮮がミサイルを次々と飛ばし、日本ではちょっとした緊張感が広がっている。 この機に、数少ない日本人のミサイル体験を多少語っておくのは意味があるかもしれない。

 ミサイル空襲の開始は夜、それほど遅くない時間という記憶だ。 それ以前にも、イラク航空機による散発的な空襲はあった。 イラン側はテヘランのかなり高空を飛ぶイラク機に向かって対空砲を発射していたが、届く距離ではなく、砲弾はいつも空中で破裂し小さな破片が落下していた。 対空砲の発射音、空を輝きながら舞う破片。 その光景は、日本人になじみの花火大会の音と火花に似て、とても綺麗だった。

 最初のミサイル空襲はその比ではなかった。 空に飛び散る火花の数が従来の空襲とは違うスケールで、継続時間も長かった。 まるで派手な花火大会という様相だった。 ちょっとした興奮。 私は、禁酒国イランでも容易に入手できる密造ウオッカをグラスにたっぷり注いで、アパートの屋根に上って寝転がり、花火見物を決め込んだ。 下の部屋では2歳の息子がガラス窓にかじりつき、空中に火花が飛び広がるたびに「ウワーオー」と大声をあげて、はしゃいでいた。

 当時のイランでは、空襲警報はないし、テレビやラジオも何も伝えなかった。 だから、この時、ずいぶん長引く空襲だな、とは思ったが、ミサイルによるものだとは知らなかった。

 ミサイルと知ったのは翌日だった。 どうやって知り得たのかは忘れたが、多分テヘラン放送のラジオ・ニュースだろう。 だが、ミサイル攻撃を身近で見たわけではない。 その一端を知ったのは、その日テヘランの日本大使館で、大使と駐在日本人記者が会ったときだった。 とは言っても、貧弱な情報収集能力しかない日本大使館から貴重な情報を得たという意味ではない。

 大使との会見中、激しい対空砲の音が聞こえ、記者たちは大使をほったらかして、大使館屋上に駆け上がった。 われわれは空を見上げ、ぎょっとした。 大小の金属片がバラバラと降ってきたのだ。 小さなネジ状のものもあれば、30センチ四方ほどの大きさの金属板まで大きさと形は様々。 人間に当たれば命がないのは明らかだ。 記者たちは再びあわてて建物の中へ駆け戻った。

 このあとわかったのだが、イラクのスカッド・ミサイルはイラク領内で発射され、巡航速度でテヘラン上空に到達すると、弾頭部のブースターが点火し、急角度で地上の目標物へ突進する。 ロケット本体はブースターの点火で粉々に破壊され、破片が地上に落ちてくる。 記者たちをあわてさせたのは、この破片だ。 そして、前夜の「花火見物」が、実は命懸けの蛮行だったと知った。 もう少し日にちがたってからは、テヘラン市民の死傷者はミサイルの直撃ばかりでなく、爆発の衝撃で割れたガラスによるケースがかなりの数に上っていたこともわかった。 はしゃいでいた息子もかなり無謀なことをしていたのだ。

 あちこちに落ちてきたミサイルの破片の存在は、まもなくテヘラン中に知れ渡った。 やがて、ウソか本当か、イラン革命防衛隊がこの破片を1個いくらで買い集めているという話が広がった。

 大使館に行った日はいろいろなことがあった。 自宅は3階建てアパートの3階で2階には家主が住んでいた。 親しい付き合いだった。 このところ数日間美人の娘の姿を見ないと思っていたら、顔を包帯でグルグル巻きにしてアパートに帰ってきた。 病院で鼻の整形手術を受け、入院していたが、その病院にミサイルが当たり、とてもいられないので逃げてきたのだという。 ちなみに、イラン人の鼻の整形手術は高くするのではなく、高すぎる鼻を低くするのが普通だ。

 日本人は次々とイランから脱出した。 中には恐怖感で精神を痛めつけられ10円ハゲができた人もいた。 だが、イラン人たちはタフだった。 空襲避難を口実に郊外へピクニックに行って楽しんでいる姿をよく見た。 テヘラン北部の山の中腹に登ると、南から飛んでくるミサイルがよく見えたそうだ。 まるで自分に向かってくるような迫力があって、そのスリルに病みつきなって毎日登っているという男もいた。 スキー場も賑わっていたし、空襲下、個人の家で開くエアロビクス教室も盛況だった。 密造のウオッカやワインの入手に困ったという記憶もない。 ミサイル空襲の犠牲者はかなりの数にのぼったが、イラン人たちは7年にも及ぶ戦時下の不便な生活に慣れきっていたとも言える。

 だが、外国人にはきつい生活だった。 長引く停電、品不足の乳児用粉ミルク、ガソリン・スタンドの行列、等々。 数え上げれば、キリがない。 とは言え、不便さを楽しむ余裕もあった。 今だから笑い話にもなるが、当時は怖い思いもしたはずだ。 だが、戦争は嫌だという重苦しい気持ちを除けば、なにも記憶にない。 不思議なものだ。  

2017年9月2日土曜日

こんなニュースでなぜ大騒ぎ?



 NHKニュース

逃走36時間 ベトナム人の男を逮捕 立ち回り先を捜査

群馬県大泉町で警察官から職務質問を受けたベトナム人の男が暴れて逃走していた事件で、警察は、逃走から36時間たった1日夜遅く男を公務執行妨害の疑いで逮捕しました。男は埼玉県内で知人と待ち合わせたところを確保されたということで、警察は、逃走中の立ち回り先を調べています。調べに対し「オーバーステイだったので怖くなって逃げた。かんだことは覚えていない」と容疑を一部否認しているということです。
逮捕されたのは、ベトナム国籍で住所不定の無職、グエン・バン・ハイ容疑者(31)で、1日午後11時40分ごろ大泉警察署に入りました。

警察によりますと、ハイ容疑者は、先月31日午前11時すぎ、群馬県大泉町の駐車場で車の中にいたところ、警察官から職務質問を受けた際、突然逃げ出し、さらに近くの住宅の敷地内で追いついた警察官の腕にかみついて逃走したとして、公務執行妨害の疑いが持たれています。

ハイ容疑者は、36時間余り逃走していましたが、1日午後11時すぎ隣接する埼玉県熊谷市のコンビニエンスストアで知人と待ち合わせたところを警察に確保されたということです。

その際、左手に手錠はかけられたままだったということです。調べに対し、「無免許でオーバーステイだったので、怖くなって逃げた。抵抗したことは認めるが、かんだことは覚えていない」と容疑を一部否認しているということです。

捜査関係者によりますと、ハイ容疑者は、2年前に不法滞在の疑いで警察に摘発されたあと、難民認定を申請して身柄の拘束を一時的に解かれ、ことしに入って所在不明になっていました。警察は、埼玉県内も含め、逃走中の立ち回り先を調べています。

コンビニ店員「これで一安心」

埼玉県熊谷市のコンビニエンスストアの店員は、「店の駐車場で5人ほどの男性が車を取り囲んでいたので最初、ケンカかと思いました。そのうちの1人が私服の警察官だと説明し、店の住所や電話番号が記されたレシートをもらいにきたため、事件のことを思い出しました。車の中をのぞいてみると、後部座席には両脇をはさまれたベトナム人のような男が座っていました。暴れることはなく正面を向いていましたが、目が泳いでいておびえている様子でした」と話しました。
そのうえで「隣の大泉町で起きた事件だと聞いていたので、『まさかここで』と思って怖かったですが、これで一安心です」と話していました。

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 NHKをはじめテレビは、このベトナム人が逃げた9月1日から、大きなニュースとして報じていた。 報じ方は、凶悪な殺人鬼が逃亡したかのように、現場の”緊張ぶり” を伝えた。 だが、男が逃げた直後には、日本での不法滞在と無免許運転がばれるのが怖くて、咄嗟にとった行動らしいとわかったようだ。 つまり、普通の気の弱い男の間抜けな逃亡にすぎなかった。 

 それでは、この大騒ぎはいったい何だったのか。 ときどき事件報道を妙に詳しく報じるスポーツ新聞によると、この近辺では2年前に警察署から逃亡したペルー人が6人を殺害する事件が起きていた。 地元の人がこの事件を思い起こしたのであれば、緊張が走ったのは頷ける。 だが、テレビはこんなことはまったく伝えていなかった。 ベトナム人が逃げて行方がわからないというだけだった。 

 つまり、ベトナム人が逃げたというのがニュースのようだ。 同じ間抜けでも、日本人だったらニュースにならなかったのかもしれない。 それでは、どうしてベトナム人だとニュースなのか。 これもわからない。 今どき、外国人の不法滞在など珍しくもない。 そもそも、この問題は外国人の労働をきびしく制限する日本政府の態度が作り出している。 ベトナム人に限らず、摘発される外国人の方が可哀そうだ。 

 だが、テレビは外国人の労働問題に焦点を当てたわけでもない。 結局、なにもわからないが、当然のように大きく報じていたのは、それが当然の報道とみなしたからであろう。 だとすれば、何が当然なのか。 

 そうは思いたくないが、外国人に対する違和感、恐怖感みたいなものが日本人の意識の根底にあって、それが報道に反映したのかもしれない。 日本ばかりではない。 ヨーロッパでも米国でも偏狭な愛国主義が外国人排斥の風潮と絡み合っている。 厭な雰囲気だ。 実は、内心、あのベトナム人が長期間にわたって逃げまくってくれたら、応援したいと思った。 日本の網の目の監視網を潜り抜ける逃亡者。 ロマンを感じるではないか。 だが、残念ながら、あの男は、ベトナム戦争を戦い、生き抜いたベトコンのDNAを引き継いだわけではなかった。    

2017年9月1日金曜日

パラワン島でフィリピンを見る

フィリピンの南西部、マレーシアのボルネオ島とをつなぐ橋と言っていいだろう。 長さ397kmで幅の平均約40km。 極端に細長い形状をしている。 世界一美しい島に米国の旅行雑誌が選んだというパラワン島だ。 西側は南シナ海に面し、中国が理不尽な領有権を主張している南沙諸島にも近い。 その先の彼方はベトナムだ。

 この島で1週間、海で遊び、街をうろつき、ポークのスペアリブをかじりながらサンミゲル・ビールとタンドゥアイ・ラムを飲みながら、のんびりと過ごした。

 パラワン島は、フィリピンの経済・政治の中心から遠く離れ、「最後のフロンティア」と呼ばれている。

 マルコス独裁が倒れた1986年まではフィリピンをよく訪れた。以来、30年以上たって、パラワンという「僻地」で久しぶりにフィリピンを眺めた。 パラワンの住民たちは以前と同じように貧しい人々で、粗末な小屋のような家々の光景は30年前とさして違いはない。 だが、フィリピンがこの30年で明らかに変化したこともわかる。

 島の中心地プエルトプリンセサには、大きくて洒落た近代的ショッピング・ビルができていた。 貧しい人ばかりでなく、こんなところで買い物をできる中産階層や富裕層が生まれていることを示しているのだと思う。 30年前の僻地には、雑然として汚らしい市場しかなかった。 

 世界遺産に登録されている地底河川国立公園やホンダ湾の小島をめぐるアイランド・ホッピングのツアーに行ってみた。 かつて、観光地のツアーに参加するのは、ほとんど外国人だった。 だが、今はマニラなどから休暇で遊びに来たフィリピン人がほとんど、9割くらいを占めていただろうか。 これも大きな変化だ。 東南アジア経済の発展ぶりがよく見える。

 この30年余りの変化は、消えつつあるベトナム人集落にも見ることができる。 1979年前後、ベトナムの共産化を嫌って大量のベトナム人が小舟に乗って南シナ海へ逃げ出した。 ボートピープルだ。 彼らの多くは、対岸というには1000キロ以上も離れているがパラワン島に辿り着いた。 こうして、島の西側、プエルトプリンセサの郊外には大きなベトナム人居住区ができた。 おそらく数百人単位であったろう。 今、ここには、たった2人のベトナム人しか住んでいないという。 ほとんどは米国へ渡ったという。 

 だが、ボートピープルの名残りは、街の目抜き通りにちゃんとある。 いくつかのベトナム料理の食堂だ。 フォー(ベトナムうどん)やゴイクン(生春巻き)を出している。 まあまあの味。 島に居ついた人、知り合いを頼って渡ってきた人など様々のようだ。

 この国の変わらない実態も垣間見えた。 フィリピンの現大統領ドゥテルテは、犯罪者を情け容赦なく殺害してきた。 本人自身も人を殺した経験があると語ったこともある。 国際社会は、こういう大統領に嫌悪感を抱くが、フィリピンでは絶対的な人気がある。 その根底にあるのは、銃社会の伝統だ。 この国では新聞記者でも拳銃を身につけている。 自分が書いた記事で命を狙われていると感じた記者は自宅に自動小銃を置き、レストランでは襲撃者の動きを捉えやすいように、奥のテーブルで壁を背に座っていた。

 プエルトプリンセサでは、2001年に米国人20人がイスラム武装集団に誘拐される事件があった。 そのせいか、治安は維持されているが、ホテルやビーチの警備要員は必ず銃を携行している。 パラワン滞在中に読んだフィリピンの新聞の一面に大きなニュースが掲載されていた。 麻薬取り締まりで233人を検挙したというのだが、ニュースの力点は、「no bloodshed」、流血なしでこれだけの人数を捕まえたというところにある。 警察の取り締まりでも、血を見るのが当たり前の現状を反映している。

 おそらく、フィリピン人は銃の扱いに馴染んでいて、今でも入手は容易だと思う。 以前と同様に、警察や軍も横流しをしているだろう。 最近は聞かなくなったが、日本の暴力団がセブ島から密造拳銃を持ち出して逮捕されたニュースがあった。 最近はどうなっているのだろうか。

 暗い側面があっても、フィリピン人は笑顔を絶やさない。 見知らぬ外国人に気安く挨拶し、話しかけてくれる。 変わらぬフィリピンの一番いいところだ。 次はいつ行こうか。 

2017年8月18日金曜日

多摩川サイクリング


 膝痛でジョギングができない。 テニスもダメだ。 からだを動かさないでいると、どんどん太っていきそうだ。 仕方ない。 食べるのも飲むのも好きで、運動をしなくても飲み食いの量は減らないのだから。

 というわけで、久しぶりに自転車に乗り始めた。 膝に負担がかからない有酸素運動で体重増加を食い止める手近なスポーツは自転車しかない。 ホームグラウンドは多摩川土手のサイクリングコース。 羽田空港あたりの河口から、玉川上水の起点で知られる羽村までの多摩川両岸。 全コースを往復すれば100キロ以上になるが、通常は往復30~40キロ程度をのんびり走る。 ママチャリの通学高校生にすいすいと抜かれていく。 体重減に必死のデブおやじにもかなわない。

 多摩川のサイクリングコースは、「青少年サイクリングコース」という看板をずっと掲げていたが、近ごろは消えてしまった。 ひとつには、サイクリングをするのが青少年ばかりでなく中高年も多くなったためだろう。 昭和30年代に、サイクリングの歌謡曲があった。 その歌のイメージは、若者たちが颯爽と自転車に乗る姿だが、今では団塊世代ジジババの姿の方が多いかもしれない。

 もうひとつの理由は、そもそもサイクリングコースと呼ぶのは間違っていると役所の誰かが気付いたからだろう。 サイクリングコースといいながら、自転車専用道路ではなく、ウォーキングやジョギングの人もいるし、通勤通学にも使われている。 そして、この混在ぶりが、ちょっと怖い。

 土手のコースは幅3メートルほど。 自然にできたルールは人も自転車も左側通行。 だが、誰もがこれを守るわけではない。 右側を歩く腰の曲がったお年寄りもいるし、道幅いっぱいに横並びとなって、おしゃべりに夢中になっているオバサンたちもいる。 

 自転車に乗って、このコースを走っていると、人間の行動というのは実に予測不能だということがわかる。 真っすぐ一人で歩いているのに、突然止まったり、突然曲がったりする。 何か考えているのかもしれないし、道端に百円玉が落ちているのをみつけたのかもしれない。 自転車で歩行者を追い越すときは常に緊張を強いられる。 だから、かなり遠くからでも警告のベルをチリンチリンと鳴らすようにしている。 

 最近は、歩きスマホが危険を増幅している。 とくに怖いのはヘッドフォンを装着している歩きスマホだ。 歩行者ばかりでなく、ジョガーやサイクリストも要注意だ。 後ろからの警告がまったく聞こえない。これでは都心の交差点とさしたる違いがないではないか。

 のんびりサイクリングをしているときは、爽やかに風と戯れていたいものだが、気が付けば、世間の縮図みたいなところに入り込んでいたのだ。 大都会周辺では、自然と遊ぶサイクリングは、もはや不可能になっているのかもしれない。 最近、自転車事故の傷害保険などというものに入ってしまった。 年間保険額は1960円という安さだが、なんだか、自分がちまちまと生きている気がしてきた。


2017年8月16日水曜日

ブログ再開

1月戸狩温泉
2月富良野
5月オマーン
6月鳥取砂丘

6月出雲大社
6月広島
6月下蒲刈島
今年のブログは、1月にタンザニアに行ったあとに2本、3月に1本。 ひどく怠惰になっている。 たかだかブログ1本をまとめるだけの集中力、持久力がなくなっているのかもしれない。 このままでは、物事への関心、好奇心がどんどん薄れて、ぼんやり生きているだけの世捨て人になりかねない。

 そう思って、ブログ再開を試みてみることにした。 どこまでできるか。

7月石垣島。 
今年は、タンザニアのあとでも、1月には毎年恒例の戸狩温泉スキーツアー、2月にも富良野へスキーに行った。

 そして、5月には中東で唯一訪れたことのなかったオマーンへ行くという個人的イベントがあった。 政治的混乱が当たり前の中東で、オマーンは昔から落ち着いて平和な国だった。 海や山が美しいことは聞いていたが、ニュースのないオマーンをジャーナリストが訪れる機会はそうあるものではない。 日本からの観光客も非常に少ない。 格安航空券、格安ホテルを探してみると、なかなかいい旅行ができることに気付き行ってみたら、想像通り素敵な国だった。 自然の景観が美しいばかりでなく、人々の心が優しかった。


 6月には、日本国内でも”初めてツアー” をした。 鳥取からレンタカーで出雲大社、広島、瀬戸内海の下蒲刈島を回った。 どこも初めての土地で好奇心をそそられたが、この旅行は失敗だったかもしれない。 たった3日間だったので、土地の人たちと接する機会が十分なかったし、居酒屋探索も物足りなかった。 広島が大都会なのには驚いたが、広島人と戦争を語る時間はなかった。

 7月の石垣島は、妙な味わいのある旅行だった。 石垣の人たちはよそ者をすんなりと受け入れてくれる。 道端で会ったさとうきび畑の農民、田舎町で食堂を経営する女性、いろいろな人が初対面なのに自分の身の上話をしてくれた。 本州からの移住者が多い理由はこんなところにあるのかもしれない。

 こうして振り返ってみれば、旅に関してだけでもブログの材料は十分あった。 世の中の動きに目を向ければ、以前から先天性虚言症と疑っていた安倍晋三の政治基盤にやっとほころびが見えてきた。 米国には、とんでもない大統領が登場して世界に不安が広がっている。 中東ではシリアが注目されているが、独裁色を強めるトルコのエルドアンが気になる。 中国は間違いなく、21世紀の世界で揺るぎない地位を築くだろう。 この新現実を受け入れられない日本人はどうなるのだろう。

 ブログ再開の意欲がどこまで持続できるかわからないが、力まず、のんびりとブログを綴ってみよう。 

2017年3月16日木曜日

瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」

(瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」=ちくま新書)
1997年、「北海道旧土人保護法」が廃止され、アイヌは先住民族として、日本人としての当たり前の人権を認められた。 今、一般の日本人はアイヌをどう見ているだろうか。 旭川市博物館館長でアイヌ史研究者・瀬川拓郎の著書「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」(ちくま書房)は、人類史や考古学などの研究を通して、縄文人を同じ祖先としながら異なる歴史を辿ってきたアイヌと日本人の姿を描いている。 そればかりではない。 意図したものかどうかわからないが、偏屈な民族主義や差別意識は視野の狭さから生じるものだと問わず語らずに伝えている。 アイヌ史の入門書というジャンルに区分されるのだろうが、その枠を越え、こころざしとスケールの大きさを感じさせる名著だ。

 とりあえず、アイヌの出自に関する概略は以下を参照に(Wikipedia)。

 『アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。
自然人類学から見たアイヌは、アイヌも大和民族も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立しとされる。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる。』

 「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」は、以上の視点を踏まえ、「アイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。 平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原卿の思想が明らかになるにちがいない」と、新たな日本人観のアプローチを提案している。

 最近の研究では、アイヌとは、日本人と異なる民族ではなく、非常に近くて縄文人の血を色濃く残した人々だ。 つまり、現代の日本人のほとんどは朝鮮半島からの渡来人の血と文化を受け入れ、縄文の血が薄くなって弥生人となったが、アイヌとは同じ祖先というわけだ。

 アイヌの文化に縄文文化の痕跡を見ることができるが、弥生文化に移行して異なる歴史を歩んだ本州でも、縄文時代に起源があると思われる風習があるという。 例えば、山岳信仰は、仏教渡来以前、さらに弥生、古墳時代より遡り、山と濃密にかかわっていた縄文時代に端を発している可能性がある。

 北海道の屋根、大雪山の小泉岳付近、標高2100メートルの高所で縄文時代の石器数十点が採集されている。 現代でも登るには本格的登山装備が必要だ。 このような高地の縄文遺跡は、本州でも山梨県の甲斐駒ケ岳、栃木県の男体山、長野県の八ヶ岳連峰の編笠山、蓼科山など2000メートルを超える高山で発見されている。

 だが、弥生時代から古墳時代には、本州の高山遺跡は確認できない。 農耕を主とする弥生文化を受け入れなかった縄文人は狩猟・採集の生活を維持して山に残った。 その直系がアイヌだ。 だが弥生人たちは山から下りた。

 本州の高山に再び登頂の痕跡があらわれるのは奈良時代以降で、山岳信仰の修験者たちだった。 弥生時代に入ったあとも、狩猟を生業にして山中に暮らす人々はみとめられた。 彼らが縄文人だった可能性がある。 山岳信仰は彼らを通じて脈々と受け継がれた縄文文化とも考えられる。 現代日本人の生活・風習にも縄文の痕跡があるにちがいない。

 著者が「もうひとつの日本の歴史」と言うのは、日本人が、アイヌは民族も習俗も異なる人々と感じるほど両者は違っておらず、2000年前のご先祖様の人生の決断次第で、あなたはアイヌになっていたかもしれないという意味でもあろう。

 煎じ詰めれば、人間の違いとは何か、という問いかけだ。 現生人類がアフリカを出発したときまで遡れば、ヒトはヒトでしかいなかったろう。 さらに遡れば、人類学伝説によれば、現生人類を生んだたった一人の母に辿り着く。 

 
  


                 






2017年2月2日木曜日

少年ケニアのアフリカ

少年ケニア(山川惣治)
 まわりの友人や知り合いに、タンザニアに行ってきたと言うと、たいていはキョトンとする。 アフリカの国ということくらいは気付くが、イメージがまったく湧かないからだ。 いまだに、普通の日本人にとって、アフリカは「暗黒大陸」、「危険地帯」という印象のようだ。 だが、タンザニアはケニアの隣りで、言葉は同じスワヒリ語だから似たような国だと、かなり大雑把な説明をすると、少しはわかった気がしてホッとするようだ。

 どうやら、サハラ以南のブラック・アフリカに興味も知識もない日本人でも、ケニアにはほんの少しだが近さを感じるようだ。 その理由は、友人の一言でわかった気がした。 「アフリカと言えば『少年ケニア』だなあ」。

 きっと、「団塊の世代」以上の年齢の日本人には懐かしいだろう。
 
 Wikipedia によると、「少年ケニア」は、「アフリカケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語。1951年10月7日から1955年10月4日まで「産業経済新聞」(現:産経新聞)に連載されていた。『少年ケニヤ』は大人気となり、映画化、テレビドラマ化、漫画化、アニメ映画化なども行われた。その人気ぶりに『少年ケニヤ』は週1回の掲載から毎日の連載になり、「産業経済新聞」が一時は「ケニヤ新聞」と言われたほどだったという。1984年角川書店がアニメ映画化した際には1983年から角川文庫でリバイバルされて、全20巻が復刊された。」

 ストーリーは、「1941年12月、日本は真珠湾を攻撃。米英と交戦状態に入った。日本の商社マンとして英国植民地のケニヤに駐在している村上大介と10歳になる息子のワタルは捕まるのを恐れ自動車で奥地へと逃れた。」というところから始まる。 (どうでもいいことだが、現在の産経新聞には「村上大介」と同姓同名の知り合いの記者がいる)

 ケニアと比べると、タンザニアで日本人に思い浮かぶものは、ほとんど何もない。 ネットでタンザニア出身タレントを検索しても聞いた名前はない。 1人だけ、イーダ・ヤングビストという素晴らしくカッコいいセクシーなモデルがいた。 タンザニア人の母、スウェーデン人の父、現在アメリカ在住。 2009年に、アフリカ出身で初めての Playmate of the year に選ばれたとか。ただし、国籍はスウェーデン。
 タンザニアと日本をつなぐものは、まったくないわけではない。 明治から大正にかけて、東南アジアへ渡った「からゆきさん」は有名だ。 この中には、さらに遠くアフリカまで渡っていった女性たちもいた。 比較的知られているのは、歴史的な国際貿易港ザンジバルだ。 かつては奴隷売買の拠点でもあった。 ザンジバルはタンガニーカと合併しタンザニアとなった。 ここに日本人売春婦が最盛期には28人いたという。  彼女たちが働いていた店のあった建物は今でも残っており、日本人旅行者がときおり物珍しげに訪れているそうだ。

 実は、日本人とタンザニア人は第2次大戦中に敵対して戦ったこともある。 英国領だった東アフリカからは28万人が兵士として動員され、このうち87,000人がタンガニーカ(現タンザニア)出身だった。 彼らはアスカリと呼ばれ、東アフリカ戦線ではイタリア軍と闘ったが、ビルマ戦線では日本軍との戦いに加わった。 

 日本人とタンザニア人。 地理的に遠すぎて、お互いに相手のことについて何も知らないのに殺し合いをしていた。 これが現代の戦争なのだろう。
 タンザニア人だって、日本のことを知らない。 街を走るクルマのほとんどが日本製でも日本を知ることにはならない。 クルマは所詮クルマだ。
 
 タンザニアのアル―シャで、泊まっていた小さなコテージの調理場に入り込み、タンザニアのおいしい地鶏を使って日本風の唐揚げを作ってみた。 タンザニア人たちにふるまったら、大喜びしてくれた。 こんなに美味しいフライドチキンは初めてだと。

 せがまれて、和風唐揚げのレシピも置いてきた。 これでタンザニア人は日本のことをひとつだけ知ったかな。 ちょっとだけ自慢してみよう。

2017年1月30日月曜日

タンザニアの野生動物たち

座るキリン(アル―シャ国立公園で)
睨みあうライオンとバッファロー(ンゴロンゴロ保護区で)

 タンザニアに行ったのは、静かな場所で、のんびりと何もしないで2週間ほど過ごしてみたかったからだが、アフリカの野生動物たちを間近に見ることができるサファリに行かない手はない。 というわけで、アル―シャ国立公園、タランギレ国立公園、それにンゴロンゴロ保護区の3か所のサファリ・ツアーに行った。

 アフリカでのサファリはケニアで経験したことがある。 有名なアンボセリとマサイマラに行った。 動物の種類と数が豊富なケニアと比べると、タンザニアの平原は、ちょっと寂しい。 われわれは幸運だったが、例えば、タランギレは象に会うチャンスのあるところだが、まったく会えないで失望して帰る観光客は珍しくない。 ンゴロンゴロはライオンが一番の見ものだが、やはりタイミングが外れると見ることができない。 一方、ケニアでは大物に会える確率はかなり高い。 象やキリン、シマウマなど集団を形成する動物の群れもタンザニアより、はるかに大きい。 初めてサファリを体験しようという人なら、ケニアの方が確実に楽しめるだろう。 

 タンザニアのサファリは、Big 5 と呼ばれる大物をがつがつと追い求めるより、大自然に身を置いて、動物の1種のヒトとして生きることの意味を静かに感じとってみるのがいい。 ここは、やがて地球全域へ旅立っていく現生人類が誕生した土地でもあるのだから。

 だが、タンザニアでは、ダイナミックな光景ではないが、とても珍しい場面に出会うことができた。 アフリカの野生動物に詳しい人には、どうということではないのかもしれない。 だが、素人目には驚きであった。

 ひとつは、アル―シャ国立公園で見たキリンが座っている姿だ。 キリンというのは決して座らない動物だと信じきっていた。 動物園のキリンだって、いつも立っている。 そもそもキリンの背が高いのは、広大な平原で遠くを見渡し、外敵をいち早くみつけられるように進化したからではないか。 眠るときも立ったままで、深い眠りに入るのはごく短時間と習ったはずだ。

 ガイドの説明によれば、アル―シャ国立公園に、キリンの唯一最大の外敵であるライオンはいない。 このため、キリンは警戒をする必要がないから、のんびりと座っている。 ここではキリンが座っている姿が普通に見られるという。 これは、ある種の退化ではないか。 文明のおかげで便利な生活ができる現代人のように。

 もうひとつは、ンゴロンゴロ保護区で遭遇したライオンとバッファローの緊張みなぎる睨みあいだ。

 われわれが草原に座る5頭のライオンをみつけたとき、彼らは150mほど離れたところに群れている約20頭のバッファローに狙いを定めていた。

 1頭の雌ライオンがバッファローににじり寄っていく。 やや遅れて、他のライオンもバッファローに迫っていく。 最初のライオンは1頭のバッファローまで10mほどのところまで接近しダッシュした。 だが、バッファローは素早く身をひるがえして逃げた。 ライオンの爪が到底届かない十分な余裕があった。 バッファローの群れは一斉に走り、ライオンから100mほどの安全な距離をとった。 ライオンの狩りは完全な失敗。

 だが、ドラマはこれで終わらなかった。 逃げたバッファローの群れがライオンに向かって戻りはじめたのだ。 先頭は、最初にライオンの標的になった1頭。 次第に距離を縮め、間隔はほんの10mになった。 ここでバッファローは立ち止まり、後続の群れも動きを停めた。 ライオンとバッファローの睨みあいが始まった。 バッファローの反撃だ。 

 ライオンたちも座ったまま動かなかった。 バッファローに襲いかかろうとはしない。 仕留める自信がないのだろう。

 双方がじっとしたまま30分はたっただろうか。 何頭かのライオンは腹を上にして、地べたに背中をこすり始めた。 明らかに戦意を喪失した動作。 バッファローたちは、それをみつめている。

 それから、さらに30分。 ライオンの群れはゆっくりとバッファローから離れ、遠くへ去っていった。 バッファローがライオンとの心理戦に勝ったのだ。 彼らはその場に動かず、何事もなかったように草をはみ始めた。 ライオンのメンツは丸潰れだ。

 「百獣の王ライオン」というイメージと常識が見事に崩れ落ちた。 ライオンがいつも勝てるわけではなかったのだ。 野生動物の世界は奥が深い。 自然界ではか弱い動物であるヒトが地球を支配できるのも、この奥深さのせいだろうなあ。

2017年1月28日土曜日

北海道からアフリカまで膝痛の脚を引きずる

(タンザニア・アル―シャのダウンタウンで)
北海道の夕張へ2泊3日でスキーに行って東京に戻ってきたのが12月19日。 その前に、スキーのために体の準備をしておこうと、膝痛があったのに1週間ほど頑張ってジョギングをしたのが失敗だった。 膝痛が悪化し、スキーをしてさらに痛くなった。 

 それから3日後の12月22日、以前から予定していた東アフリカのタンザニアへの旅行に出発した。 膝が痛いままだったので、登山用の折りたたみストックを突きながら、Ethihad 航空で25時間という気の遠くなるような長いエコノミークラスの旅だった。 なにしろ格安チケットなのだから仕方ない。 成田→アブダビ→ナイロビ →キリマンジャロというルートで、最終目的地はタンザニア北部、キリマンジャロ登山や野生動物サファリツアーの拠点として有名なアル―シャだ。

 近ごろ、飛行機に乗るには執拗なセキュリティ・チェックがあるから、登山用ストックを機内に持ち込めるか、ちょっと心配した。 ストックでも客室乗務員の頭を叩いてケガをさせるくらいはできる。 だが、ぜんぜん問題はなかった。 とにかくストックを持っていて良かった。 2度のトランジットで空港ターミナルの階段を昇り降りするとき、最後に到着したキリマンジャロ空港の急なタラップを降りるときも、とても助かった。

 とにかく、片足を引きずりながらアフリカに到着し、 夕方の空港から臨んだキリマンジャロの美しさに感動した。

 アル―シャは、日本や東南アジアの基準からすれば小さな田舎町だが、タンザニア独立の歴史が刻まれた由緒ある土地でもある。

 1964年に発足したタンガニーカとザンジバルによる2つの国家の連合が、同年「タンザニア連合共和国」になるのだが、この国家連合が宣言されたのはアル―シャだった。 その前に1961年、タンガニーカが宗主国イギリスからの独立を宣言したのもアル―シャだった。 そして1967年、初代大統領ジュリウス・ニエレレの社会主義化は「アル―シャ宣言」で始まった。

 人口約42万。 市の中心部には、ホテルやビジネスのビルが建っているが多くはない。 道路の交通量はそこそこにあるが、バンコクやジャカルタのようにクルマが身動きできなくなるような渋滞はない。 庶民の主たる交通機関は「ダラダラ」。 日本製の8人乗りワゴン車の座席を改造し、20人くらい詰め込む。 停留所はあるが、どこでも手を挙げれば止まってくれるし、降りたいところで降ろしてくれる。 1乗り400シリング、20-30円といったところ。 これは便利で、アル―シャ滞在中は毎日のように乗っていた。 

 道路を走っているクルマのほとんど、100%ではないが間違いなく95%以上は日本製で、かなりの数が日本から運ばれた中古車だ。 日本のどこかの介護老人ホームの名前と電話番号が車体に大く書かれたままのダラダラがとても目についた。

 ニエレレの社会主義化以来、中国との関係が深く、1人当たりGDPが1400ドル程度の貧しいタンザニアは、中国からかなりの経済支援を受けている。 キリマンジャロ空港とアル―シャを結ぶ主要道路はあちこちで大規模な改修工事が行われ、寸断されていた。 この工事も中国の支援によるもので、現場で大型重機を操縦しているのは中国人ばかりだった。 現状は、中国が日本車普及のために道路建設をしているようなものだ。

 アル―シャに道路交差点の交通信号は4か所しかない。 つまり、ないも同然。 歩行者はクルマの流れを見ながら、あいまを縫って道路を渡る。 これは日本を除けば、どこの国でも同じようなもので、とくに途上国では、クルマは歩行者がいようが止まってくれないので、渡るタイミングを習得しないと日常生活に支障をきたす。

 アル―シャに到着した翌日、早速、ダウンタウンの散歩にでかけた。 道路を歩いて渡るタイミングの計り方は、東南アジアや中東で習得し、お手のものだから困ることはない。 

 朝起きたら膝痛がかなり改善していたので、ストックは畳んでバッグにしまっていた。 だが、しばらくすると疲れのせいか、痛みが少しぶり返してきたので、ストックを出して使い始めた。 そのうちに、ふと気が付いた。 クルマがたくさん走っているのに、なんだか横断が簡単にできるようになったなあ、と。

 そう、ストックを突いて足を引きずっている歩行者を見て、たいていのクルマが徐行したり、停車してくれていたのだ。 途上国の弱肉強食の道路、「大きい」「高級」がクルマの中でも最強で、歩行者が最弱という交通ルールのもとで、おそらく初めての経験だった。

 歩行者を蹴散らすように走る高級車への反感がちょっと緩んできた。 金持ちだろうと優しい心は持っている、当たり前のことだが、新鮮な発見をした思い。

 そう言えば、アル―シャの街のデコボコの歩道を行く車いすのヨーロッパ人旅行者を見た。 不自由なからだでの旅行は苦労するに違いない。 だが、ハンディキャップがあっても健常者が想像する以上に、通りすがりの人々が助けてくれるのかもしれない。

 膝痛とストックでのほんのわずかな体験だけで、世の中をそこまで楽観的に見てはいけないのはわかっている。 だが、アル―シャの歩道より、もっと酷いカイロやバンコクでも、車いすの欧米人旅行者をみかけることはあった。 決して珍しくはない。

 からだの不自由さにおじけづかず行動する勇気、そういう彼らを見守る優しい人たち。 本当は、人間たちの心はとても美しい。 などと結論付けるほどロマンティストではない。 だが、埃っぽいアル―シャの通りを歩くのが、なんとなく気持ち良かった。