2015年11月30日月曜日
日本人は本当に人種差別主義者ではないのか
われわれ日本人は、中国人、韓国人への差別感情を持っていないか? 近隣の東南アジアや太平洋諸国の人々を”現地人”などと呼んで見下していないか?
日本社会にも「被差別部落」があるではないか。 アイヌ人たちは「土人」とまで呼ばれて虐げられていたのではないか。
日本人はアジア人の中で一番偉いと思っていないか? アパルトヘイト時代の南アフリカで日本人が「名誉白人」とみなされて鼻が高いと感じていなかったか?
11月28日、埼玉スタジアムで行われたJ1リーグチャンピオンシップ準決勝で、地元の浦和レッズがガンバ大阪に1-3で負けた夜、ダメ押しの1点を入れたガンバのフォワード、パトリック(ブラジル出身)に対し、浦和サポーターの名で、ツイッター・アカウントに、「黒人死ね」と書き込まれた。
日刊スポーツによれば、パトリックは「すごく悲しい気持ちになった。 昨日はいろいろ考えて眠れなかった」と、記者に傷ついた心情を明らかにした。 だが、彼を擁護するメッセージも溢れかえった。 パトリックはこれに感謝し、「やはり日本は世界で一番好きな国。 どこの国にもいい人、悪い人がいる。 ガンバだけでなく他のクラブ・サポーターからもたくさん励ましのメッセージをもらい、心強くなった」と語った。
確かに、ツイッターを見ると、人種差別メッセージへの反感、憎悪が続々と集まっていた。 パトリックが感動したのも頷ける。 美談である。
だが、報道は本当のことに触れていない。 たいていの日本人も”美談”で済ませている。 しかし、パトリックを安心させることができたとしても、日本人の腹の底にある根強い差別意識は、日本人自身に宿る不治の病のようなものかもしれない。
パトリックの騒ぎが美談になったことで、これまでも繰り返されてきたように、日本人が本音で自らを語る機会が失われつつあると思う。
2015年11月24日火曜日
政治家アウン・サン・スー・チーとは?
ミャンマーの民主化運動リーダー、アウン・サン・スー・チー率いる野党NLD(国民民主連合)が総選挙で地滑り的大勝を収めた。 長く軍事政権の下で政治的自由が押さえつけられていたミャンマーでは、独立以来の歴史に残る出来事だ。
この選挙結果が公表されたあと、11月20日、日本外務省は「外務大臣談話」を発表した。
「岸田外務大臣は,20日,ミャンマー連邦共和国で8日に行われた2011年の民政移管後初めての総選挙に関して,総選挙が概ね自由かつ公正に実施されたことを歓迎し,ミャンマーにおける民主化進展に向けた重要な一歩として祝福する談話を発出しました。
・・・・・・・・・・・・
日本国政府は,ミャンマーの更なる発展と繁栄に向けた取組を引き続き支援し,ミャンマーとの伝統的友好・協力関係を更に発展させていく考えです。」
スー・チーが、この談話をどう受け取ったか、非常に興味あるところだ。
1989年、国民の民主化要求の声が高まる中、軍事政権は危機感を抱き、スー・チーを自宅軟禁し、翌90年には総選挙でNLDが圧勝した結果を無視して軍政を継続した。 スー・チーは2010年まで断続的に解放されることはあったものの、20年以上拘された。
この間、欧米諸国は経済制裁などで軍事政権を国際的に孤立させ、民主主義の確立を迫った。 スー・チーも、軍事政権が解放の条件としたミャンマーからの出国などを拒否し、民主化実現への断固たる姿勢を維持した。
スー・チーの毅然たる態度、それを支える西欧諸国による経済制裁の継続によって、ミャンマー経済は疲弊し、追い詰められた軍事政権は2010年のスー・チー解放に続き、2013年には、ついに大幅な民主化に踏み出した。
ここに至るまでの日本政府の「ミャンマーの更なる発展と繁栄に向けた取組」への支援とは、欧米諸国の軍事政権との敵対、孤立化政策とはまったく異なる。 軍事政権への経済援助を含む友好的関係の維持だった。
日本外務省によれば、欧米とは異なる”独自の外交”で軍事政権を説得し、軟化を促すというものだ。 当時、外務省関係者は、だからスー・チーも頑固な態度を続けないで、少しは妥協してほしいと言っていたものだ。
結局、日本の「独自外交」なるものは意味を成さず、軍事政権は欧米の経済制裁に屈服して民主化に踏み切った。
スー・チーは、軍事政権と良好な関係を維持した日本に良い感情を持っているわけがない。 日本政府が「ミャンマーとの伝統的友好・協力関係」と言うとき、明らかに、彼女の感情は屈折している。
それでは、今後間違いなく大きな政治的影響力を持つことになるスー・チーが、日本と距離を置く立場をとるかというと、これがよくわからない。
解放されたあとのスー・チーからは、単なる理想主義者から現実政治を学んだ指導者へと変身した節がうかがえたからだ。
現在のミャンマーの政治状況は、民主化がかなり進行したものの、軍の政治的存在は依然として大きく、選挙結果を無視してクーデターを起こす可能性も完全否定できないというところだ。 NLDは圧勝したが、国を運営する行政手腕は、明らかに未熟で、軍事政権の実務者を利用せざるをえないであろう。 当面は、軍との対立は避けていくだろう。 また、最貧国から脱するため、今後の経済発展には西側諸国からの支援に期待せざるをえない。 中でも日本からの援助、民間投資は欠かせない。
スー・チーは賢く、したたかな女だ。 軟禁中の頑固さも、あるいは、戦略だったかもしれない。 そして今、現実政治への対応という新たな戦略・戦術を始動させている。
もしかしたら、彼女は、計算能力の高い冷徹な現実主義者に化けつつある。 それを感じさせたのは、軍事政権に弾圧されてきたイスラム教徒の少数民族ロヒンギャの問題に敢えて触れない態度を取り続けていることだ。 人権擁護者であるはずのスー・チーがロヒンギャ問題を無視するのは、総選挙で多数派の仏教徒からの得票を固めようとする計算だったという見方は、おそらく正しい。
スー・チーは、今年6月には、軍事政権と緊密な関係を持ち、支えてきた中国を訪問した。 確実に新たな指導者になるであろうスー・チーとの関係を構築しようとする中国の外交攻勢に答えたのだ。 中国は、軍事政権のパトロンとはいえ、地政学的に、ミャンマーは中国と安定した関係を維持しなければならない。 彼女は、その現実も受け入れた。
そうであれば、中国と比べれば、日本の軍事政権との関係など目くじらを立てるほどのことではない、と彼女は自分に言い聞かせたかもしれない。 いや、きっと、そうに違いない。
現ミャンマー憲法では、外国人の親族がいては大統領になれない。 この条項は、スー・チーを対象に軍が作り上げたものだ。 彼女は、この憲法の改正を目指しているが、最近、現憲法下でも大統領以上の存在になると発言し、最高権力獲得への強い願望を示した。
この女はどこまで化けるのか。 今、多くの人がそこに注目している。 すでに、新たな独裁者誕生への道が始まったのではないか、という疑念がミャンマー内外で少しずつ広がっている。
早くも、新しいドラマの幕が切って落とされたのだ。
2015年11月12日木曜日
宇都宮センチメンタル・ジャーニー
1970年代に北関東の田舎都市・宇都宮に5年間住んだことがある。 東京から、ほんの100キロほどしか離れていない土地だが、東京人には、まるで外国だった。
当時、夜の街が東京とはまったく違っていた。 飲み歩いているのは男ばかりで女の姿がなかった。 住んでみて気付いたのだが、この街では男女関係が古い因習に囚われたままだった。
交差点の歩道で信号待ちをしていたときに、顔見知りの女性がそばに立っているのに気付いた。 軽くあいさつして、横断歩道を並んで渡った。 その姿が彼女の職場の同僚に目撃された。 その日の夕方には彼女が男と歩いていたという悪意の噂が職場に広がっていた。
宇都宮にも職場結婚というものがあるという。 だが、恋愛途上で交際が知れると様々な噂、あること、ないこと取り混ぜて陰口をたたかれ、足を引っぱられて、二人の仲は破たんするのがおちだそうだ。 だから、付き合う二人はたいてい同僚たちに気付かれないよう密かなデートを続け、結婚が正式に決まって初めて職場で明らかにする。 したがって、職場結婚はだいたい突然なのだ。
福島以北の東北人には、東京とは異なる文化への誇りがある。 だが、栃木県人、とくに宇都宮人からは地元への文化的誇りは感じられなかった。 むしろ東京への劣等感が強かった。 そして、狭い社会の中での足の引っぱり合い、ひがみ、つげぐち。
当時、知り合いから、こんな話を聞いた。 友人が浮気をして、その相手と旅行をした。 妻には仕事で出張だと言い、勤務先からは休暇を取った。 だが、なぜか旅行中に職場で浮気がばれた。
こういうとき東京人であれば、おそらく個人生活に口出しはしないであろう。 だが、この職場の同僚は旅行中の彼の自宅に電話をし、「こういうことをされては困る」と、妻にすべて明かしてしまった。
独特の尻上がりの言葉使いもよく理解できなかった。 しかも、東京の標準語でしゃべるとよそ者扱いされ、冷たい人間とみられた。 しかたなく栃木弁を自分で練習して覚えたものだ。 栃木弁は、いわば初めてマスターした外国語になった。
そのころ、この土地を牛耳っていたのは、作新学院の経営者で自民党の大物政治家・船田中、足利銀行、下野新聞というトリオだった。 がっちりと固められた保守風土。 自由の気風を感じられず、居心地の良い土地ではなかった。 つまり、嫌いだった。
その嫌いな街に、つい最近(11月7日)東北を旅行した帰途、立ち寄ってみた。 JR宇都宮駅近くの安ホテルに荷物を置き、夜の街に出た。 あてもなく駅前大通りを歩いて、かつて飲み歩いた泉町の飲み屋街を目指した。 街の様相は40年近く前とは、まるで違っていた。 かつて暗かった通りに、誰か知恵者が思いついて捏造した”伝統の宇都宮餃子”の店が、けばけばしく並ぶ。
それでも、通りは、以前と比べ、随分あか抜けていた。 40年前、週末に豚カツを食べるのを楽しみやってきた田舎の人たちが入る食堂があった。 そのあたりには、洒落たイタリアンの看板が出ていた。
それよりも、本当に驚いた変化は、夜の宇都宮の通りを女たちが歩いていることだった。 かつて見ることのなかった親しげに手をつなぐカップル、若い男女の明るく楽しげなグループ、ほろ酔い気分の女たちの屈託のない会話…。 飲み屋に立ち寄ってみると、女が普通にビールを口にしていた。 東京の見慣れた光景が宇都宮にも実現していたのだ。
40年の年月は、街の様相ばかりでなく、人々の生き方も大きく変えたに違いない。 保守反動だった下野新聞だって、リベラル色を出すようになった。 きっと、男女関係だって、こそこそ隠す必要はなくなったのだろう。
耳をすまして彼らの会話を聞いてみると、あの栃木弁の訛りがほとんど感じられないではないか。 言葉の標準語化にはメディアの影響が大きいだろうが、内にこもっていた宇都宮人たちが閉ざされた社会から踏み出し、外部社会と接触する機会が増えたからかもしれない。 彼ら自身は誇りを持っていないが、栃木弁という文化と歴史が消えてしまうのは寂しいことではあるが。
懐かしい泉町は、ずいぶん暗い通りになっていた。 飲み屋やバーは昔のように並んでいるが、建て替えられ名前が変わり、昔の面影はない。 それは想像していたが、歩く人の姿が昔と比べるとまばらになっていたのは、ちょっとした驚きだった。
40年前に行った店を2軒みつけた。 だが両方とも閉まっていた。 その1軒「きよもと」の近くに、いかにも古そうな飲み屋があったので入った。
70代後半と思われるママは、案の定、泉町の生き字引のような人だった。 「きよもと」は看板は残っているが、ずいぶん前に閉店し、美人だったママがどこへ行ったか、生きているのか死んでしまったか、ぜんぜんわからないと言った。
泉町は客が減って、本当に寂しくなってしまったと嘆く。 客が減ったのは、今どきの若い人が酒を飲まなくなったからだという。 だから、商売が成り立たなくなって、たたんだ店も多いそうだ。
オールド・ママの言ったことは、その通りかもしれない。 だが、今風の新しい店には若い女たちも来て 賑わっていた。 おそらく、時代遅れの男の世界・泉町はすたれつつあるのだ。 もうひとつのかつての歓楽街・松ケ峰では、40年前、やくざの抗争まで繰り広げられた。 ここもさびれて、かつての面影はないそうだ。
年月は、人を変え、街を変えた。 自分自身の宇都宮を嫌っていた気持ちも、いとおしさに変った。
当時、夜の街が東京とはまったく違っていた。 飲み歩いているのは男ばかりで女の姿がなかった。 住んでみて気付いたのだが、この街では男女関係が古い因習に囚われたままだった。
交差点の歩道で信号待ちをしていたときに、顔見知りの女性がそばに立っているのに気付いた。 軽くあいさつして、横断歩道を並んで渡った。 その姿が彼女の職場の同僚に目撃された。 その日の夕方には彼女が男と歩いていたという悪意の噂が職場に広がっていた。
宇都宮にも職場結婚というものがあるという。 だが、恋愛途上で交際が知れると様々な噂、あること、ないこと取り混ぜて陰口をたたかれ、足を引っぱられて、二人の仲は破たんするのがおちだそうだ。 だから、付き合う二人はたいてい同僚たちに気付かれないよう密かなデートを続け、結婚が正式に決まって初めて職場で明らかにする。 したがって、職場結婚はだいたい突然なのだ。
福島以北の東北人には、東京とは異なる文化への誇りがある。 だが、栃木県人、とくに宇都宮人からは地元への文化的誇りは感じられなかった。 むしろ東京への劣等感が強かった。 そして、狭い社会の中での足の引っぱり合い、ひがみ、つげぐち。
当時、知り合いから、こんな話を聞いた。 友人が浮気をして、その相手と旅行をした。 妻には仕事で出張だと言い、勤務先からは休暇を取った。 だが、なぜか旅行中に職場で浮気がばれた。
こういうとき東京人であれば、おそらく個人生活に口出しはしないであろう。 だが、この職場の同僚は旅行中の彼の自宅に電話をし、「こういうことをされては困る」と、妻にすべて明かしてしまった。
独特の尻上がりの言葉使いもよく理解できなかった。 しかも、東京の標準語でしゃべるとよそ者扱いされ、冷たい人間とみられた。 しかたなく栃木弁を自分で練習して覚えたものだ。 栃木弁は、いわば初めてマスターした外国語になった。
そのころ、この土地を牛耳っていたのは、作新学院の経営者で自民党の大物政治家・船田中、足利銀行、下野新聞というトリオだった。 がっちりと固められた保守風土。 自由の気風を感じられず、居心地の良い土地ではなかった。 つまり、嫌いだった。
その嫌いな街に、つい最近(11月7日)東北を旅行した帰途、立ち寄ってみた。 JR宇都宮駅近くの安ホテルに荷物を置き、夜の街に出た。 あてもなく駅前大通りを歩いて、かつて飲み歩いた泉町の飲み屋街を目指した。 街の様相は40年近く前とは、まるで違っていた。 かつて暗かった通りに、誰か知恵者が思いついて捏造した”伝統の宇都宮餃子”の店が、けばけばしく並ぶ。
それでも、通りは、以前と比べ、随分あか抜けていた。 40年前、週末に豚カツを食べるのを楽しみやってきた田舎の人たちが入る食堂があった。 そのあたりには、洒落たイタリアンの看板が出ていた。
それよりも、本当に驚いた変化は、夜の宇都宮の通りを女たちが歩いていることだった。 かつて見ることのなかった親しげに手をつなぐカップル、若い男女の明るく楽しげなグループ、ほろ酔い気分の女たちの屈託のない会話…。 飲み屋に立ち寄ってみると、女が普通にビールを口にしていた。 東京の見慣れた光景が宇都宮にも実現していたのだ。
40年の年月は、街の様相ばかりでなく、人々の生き方も大きく変えたに違いない。 保守反動だった下野新聞だって、リベラル色を出すようになった。 きっと、男女関係だって、こそこそ隠す必要はなくなったのだろう。
耳をすまして彼らの会話を聞いてみると、あの栃木弁の訛りがほとんど感じられないではないか。 言葉の標準語化にはメディアの影響が大きいだろうが、内にこもっていた宇都宮人たちが閉ざされた社会から踏み出し、外部社会と接触する機会が増えたからかもしれない。 彼ら自身は誇りを持っていないが、栃木弁という文化と歴史が消えてしまうのは寂しいことではあるが。
懐かしい泉町は、ずいぶん暗い通りになっていた。 飲み屋やバーは昔のように並んでいるが、建て替えられ名前が変わり、昔の面影はない。 それは想像していたが、歩く人の姿が昔と比べるとまばらになっていたのは、ちょっとした驚きだった。
40年前に行った店を2軒みつけた。 だが両方とも閉まっていた。 その1軒「きよもと」の近くに、いかにも古そうな飲み屋があったので入った。
70代後半と思われるママは、案の定、泉町の生き字引のような人だった。 「きよもと」は看板は残っているが、ずいぶん前に閉店し、美人だったママがどこへ行ったか、生きているのか死んでしまったか、ぜんぜんわからないと言った。
泉町は客が減って、本当に寂しくなってしまったと嘆く。 客が減ったのは、今どきの若い人が酒を飲まなくなったからだという。 だから、商売が成り立たなくなって、たたんだ店も多いそうだ。
オールド・ママの言ったことは、その通りかもしれない。 だが、今風の新しい店には若い女たちも来て 賑わっていた。 おそらく、時代遅れの男の世界・泉町はすたれつつあるのだ。 もうひとつのかつての歓楽街・松ケ峰では、40年前、やくざの抗争まで繰り広げられた。 ここもさびれて、かつての面影はないそうだ。
年月は、人を変え、街を変えた。 自分自身の宇都宮を嫌っていた気持ちも、いとおしさに変った。
2015年11月9日月曜日
老人よ、遊びまくれ
(気仙沼駅で) |
それでは方向を変えようと、今度は、遠野物語で有名な遠野の宿を探してみた。 やはり、混んでいたが、やっと民宿を一軒みつけ、そこに決めた。 他に選択の余地はなかった。
結果的に、ここはいい宿だった。 2000円の追加で地元のドブロク、岩手の地酒が飲み放題というのが良かった。 いやー、実に美味かった。
夕食は、真ん中に大きな囲炉裏のある和室だった。 一緒になった一人旅の女性と話がはずんだ。 聞けば、70歳代前半というが見かけの若い人で60代かと思った。 4年前に夫がガンで先立ち、一人で山登りや各地の旅行をしているという。
この人に聞いて、この時期に宿が混んでいる理由がわかった。 JRの「大人の休日倶楽部」のせいだった。
入会者は、50歳以上がミドルカード、男65歳、女60歳でジパングカードというのを取得できる。 この倶楽部メンバーを対象に、JRは11月5日から17日までの期間使える新幹線を含む路線の乗り放題切符を売り出した。 JRの観光オフシーズン対策の商売だ。 とにかく、安い。 東日本は4日間15,000円、東日本と北海道のセットでは5日間25,000円。
遠野で会った女性もこれを利用していた。 そして、これがよく売れて、今、東北はどこも高齢の旅行者がいっぱいで宿を確保するのが、とても難しいと言っていた。
まさに、その通りだった。 遠野のあと、大船渡ー気仙沼ー石巻ー仙台と旅を続けたが、列車もバスも宿も、見かけるのは高齢者ばかりだった。
この旅行で、秋の東北の美しさ、地酒の旨さ、3・11被災地住民の生きざま、いろいろなことを見聞できた。 だが、もっとも印象に残ったのは何かと言えば、元気な老人たちが日本には、なんとたくさんいるのだろうという驚きだった。
70歳以上の高齢者ともなれば、年金受取額は悪くない。 彼らが旅行することによる経済効果は決して小さくはないだろう。
老人たちよ、社会のお荷物などと見下すバカ者どもに負けてはいけない。 元気なうちは、旅行しまくり、遊びまくり、経済発展に貢献しよう。
2015年10月31日土曜日
川崎港を歩く
人が、川崎港の「東扇島」という埋立地へ行くには、「人道」を通らなければならない。 非人道は許されない。 「人道」は海の底の下、地獄を
連想させるようなトンネルだ。
長さ1200メートル。 一直線。 まったく曲がらない。 「人道」を外れたり、曲がることはできない。 「非人道」は許されないのだ。 とにかく「人道」なのだから。
「人道」で可能な数少ない「非人道的」なことをやってみた。 歩かなくてはいけない「人道」を自転車で突っ走った。 平日の午後、「人道的」な人の姿が皆無だったので、緩やかな直線の下り坂を全速力。 まるで必死に逃げる極悪人。 なぜなら、「自転車は降りてください」というスピーカーから流れる 女の音声が、魔女のように追いかけてくるからだ。 下り坂は中間地点から上り坂になる。 スピードが落ち、魔女がすぐ背後まで迫ってくる。 捕まる寸前に出口にたどりつく。
出口から地上に出て、「人道」の束縛から解放されたところは、小さな公園だった。 そこには、草むらにやがて覆われそうな石碑があった。 「川崎漁業ゆかりの地」と記してある。
巨大な倉庫と貨物輸送用の大型トレーラーしか目に入らず、人の臭いが皆無の埋立地で、「漁業」という人の姿がたくさん詰まった言葉にばったり出会って、ぎょっとする。
ポケットからスマホをひっぱり出して調べる。
「川崎漁業ゆかりの地」の碑は、川崎区東扇島の海底トンネルの上に建っています。昔、このあたりは「大師の海」と呼ばれた遠浅の海が広がっていました。明治4(1871)年、村の有志が国から海面の使用権を借り受け、海苔の養殖を始めたのが川崎の漁業の始まりです。多摩川が運ぶ豊富な養分に恵まれたこの海は、ハマグリやアサリ、アオヤギがよく育ち貝捲き漁が盛んで、品質の良い海苔は「大師のり」として全国に知られました。大正年間には漁協の組合員が500人を数え、遠く東北地方などからも1,000人を超す出稼ぎの人が来ていたということです。
しかし、昭和になって海は順々に埋め立てられ、大規模工場や石油コンビナートの建設、運河を航行する船舶からの重油流出などにより海の様子は一変しました。昭和48(1973)年、さらに大規模な埋め立て工事によって漁場が失われ、川崎の漁業は100年の歴史の幕を閉じることになります。この碑は漁業組合の解散を記念して建てられました。「伊予石」という銘石が使われています。(川崎市川崎区)
1973年、今から43年前まで、ここに貝を採ったり海苔をつくる漁師たちがいたとは。
あの「人道」トンネルには、水圧ばかりでなく、漁師たちの亡霊が重くのしかかっていたのだ。
(広辞苑によれば、「人道」には「歩道」の意味もあるそうだ)
連想させるようなトンネルだ。
長さ1200メートル。 一直線。 まったく曲がらない。 「人道」を外れたり、曲がることはできない。 「非人道」は許されないのだ。 とにかく「人道」なのだから。
「人道」で可能な数少ない「非人道的」なことをやってみた。 歩かなくてはいけない「人道」を自転車で突っ走った。 平日の午後、「人道的」な人の姿が皆無だったので、緩やかな直線の下り坂を全速力。 まるで必死に逃げる極悪人。 なぜなら、「自転車は降りてください」というスピーカーから流れる 女の音声が、魔女のように追いかけてくるからだ。 下り坂は中間地点から上り坂になる。 スピードが落ち、魔女がすぐ背後まで迫ってくる。 捕まる寸前に出口にたどりつく。
出口から地上に出て、「人道」の束縛から解放されたところは、小さな公園だった。 そこには、草むらにやがて覆われそうな石碑があった。 「川崎漁業ゆかりの地」と記してある。
巨大な倉庫と貨物輸送用の大型トレーラーしか目に入らず、人の臭いが皆無の埋立地で、「漁業」という人の姿がたくさん詰まった言葉にばったり出会って、ぎょっとする。
ポケットからスマホをひっぱり出して調べる。
「川崎漁業ゆかりの地」の碑は、川崎区東扇島の海底トンネルの上に建っています。昔、このあたりは「大師の海」と呼ばれた遠浅の海が広がっていました。明治4(1871)年、村の有志が国から海面の使用権を借り受け、海苔の養殖を始めたのが川崎の漁業の始まりです。多摩川が運ぶ豊富な養分に恵まれたこの海は、ハマグリやアサリ、アオヤギがよく育ち貝捲き漁が盛んで、品質の良い海苔は「大師のり」として全国に知られました。大正年間には漁協の組合員が500人を数え、遠く東北地方などからも1,000人を超す出稼ぎの人が来ていたということです。
しかし、昭和になって海は順々に埋め立てられ、大規模工場や石油コンビナートの建設、運河を航行する船舶からの重油流出などにより海の様子は一変しました。昭和48(1973)年、さらに大規模な埋め立て工事によって漁場が失われ、川崎の漁業は100年の歴史の幕を閉じることになります。この碑は漁業組合の解散を記念して建てられました。「伊予石」という銘石が使われています。(川崎市川崎区)
1973年、今から43年前まで、ここに貝を採ったり海苔をつくる漁師たちがいたとは。
あの「人道」トンネルには、水圧ばかりでなく、漁師たちの亡霊が重くのしかかっていたのだ。
(広辞苑によれば、「人道」には「歩道」の意味もあるそうだ)
2015年10月6日火曜日
忘れてはいけない<サンダカン死の行進>
(サンダカン中心地。 隣接するフィリピンのイスラム過激組織「アブ・サヤフ」がたまに姿を現すこともあるが、今ではマレーシアの普通の地方都市だ) |
9月にボルネオに行って、オランウータンに会ってきた。 ほかにも、テングザルやマレーグマにも出会い、ジャングルのエコツアーを十分堪能した。 交通の拠点にしたのは、日本では山崎朋子の「サンダカン八番娼館」で知られるようになったサンダカン市だ。 ここに行って観光案内を見て、かすかに記憶にあった「サンダカン死の行進」を思い出した。 日本軍の忌まわしい戦争犯罪だ。 今の日本で知る人は少ない。 外国人観光客がエコツアーを楽しむのと同じジャングルで、太平洋戦争末期、悲惨な出来事が起きていたのだ。 以下、2015年1月15日付け東京新聞からの引用。
七十年前の太平洋戦争末期、東南アジア・ボルネオ島で、日本ではあまり知られていないある悲劇が起きた。一九四五年一月二十九日、旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、連合軍の捕虜ら約千人にジャングルを二百六十キロ歩かせる「死の行進」が始まった。生き残ったのは脱走した六人のオーストラリア兵のみ。その一人、ディック・ブレイスウェイトさん(故人)の長男リチャードさん(67)は、戦後も恐怖におびえ続ける父を見て育った。 (菊谷隆文)
防衛拠点の移動に伴い捕虜に物資を運ばせた死の行進で、食糧は住民から略奪するしかなかった。脱走してもマラリアと飢えに苦しみ、木の根を枕に休んでいると、アリに足をかまれて目が覚めた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。
死の行進で、捕虜は重い荷物を背に一日十八キロも歩かされた。途中で力尽きた人、遅れて銃や剣で殺された人もいた。ディックさんの班は四五年六月初めに出発。数日後、監視員の目を盗み茂みに飛び込んだ。
せきが止まらず日本兵に見つかったが、とっさに殴り殺した。密林を丸三日さまよい、日本軍のボートが行き来する川のほとりであきらめかけていた時、住民に助けられ、フィリピンの米軍基地にたどり着いた。体重は捕虜になる前の半分の三一キロだった。
多くの友を失ったディックさんは八一年、ボルネオ島での追悼式に出席した。途中のマニラで見た日本人の観光客に怒りがこみ上げた。その五年後、六十九歳で亡くなった。
強い反日感情を抱き続けた生涯だったが、晩年は日本車に乗り、日本人セールスマンに冗談を言うこともあった。リチャードさんら子どもには「日本人を憎むな」と教えたという。
リチャードさんは大学講師だった十年前、ある元日本兵(故人)の回想記を読んだ。ボルネオのジャングルを六百キロ歩き続けて生還した体験が、父と重なった。英訳本を編集し、言葉を寄せた。「私たちの周りの人が体験した恐ろしい出来事に憎しみを持ち続けることは、その傷を治すことを遅らせるだけだ」
サンダカン捕虜収容所で死亡したオーストラリア兵の顔写真=オーストラリア戦争記念館で
|
◆悲劇伝える1787の顔
壁一面を覆い尽くしたおびただしい顔写真が、わずかな明かりに浮かび上がる。オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館の一室。太平洋戦争中、ボルネオ島にあった旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、「死の行進」などにより死亡した千七百八十七人のオーストラリア人捕虜の遺影だ。
サンダカンには約七百人の英国人を含め約二千五百人の捕虜が収容され、生き残ったのは六人だけだった。生存率はわずか0・24%。説明板には「オーストラリアの戦争史で最大の悲劇」と記されている。
「戦後、捕虜の過酷な経験が新聞やラジオで伝えられた。オーストラリアには個人の物語を賛辞する文化がある。私たちもそこに焦点を当て、遺族から写真を集めた」。戦争記念館で旧日本軍を研究しているスティーブン・ブラード博士(52)は、この部屋を特別に設けている理由を語った。
わずかな食糧で過酷な労働を強いられ、病で薬を与えられないまま死んだ人、ジャングルを二百六十キロも歩かされた死の行進で力尽きた人、衰弱して最後は殺害された人…。この部屋に入った来場者は、元気だったころの彼らのまっすぐなまなざしに息をのむ。 一つ一つの顔写真を指でなぞる幼い男の子がいた。父親が寄り添って語りかける。生き残った六人は既にこの世にいないが、旧日本軍に理不尽に命を奪われた捕虜たちの物語は、戦争を知らない世代にも刻み込まれている。
一方の日本では終戦から現在に至るまで、サンダカンをはじめ旧日本軍による連合軍捕虜への戦争犯罪は、ほとんど知られていない。
初めての謝罪は一九五七年。首相だった岸信介氏がオーストラリアを訪れた際に伝えた。その孫の安倍晋三首相は昨年七月、オーストラリアを訪問し、戦争記念館にも足を運んだ。
連邦議会での演説ではサンダカンに触れ、「何人の将来ある若者が命を落としたか。生き残った人々が戦後長く苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。哀悼の誠をささげます」と述べた。祖父が述べた謝罪の言葉は口にはしなかった。 ブラード博士は「日本の首相がオーストラリアを訪れるたびに謝罪が必要とは思わない。しかし、過去に実際にあったことを忘れていいとは思わない」と語る。そして、戦後五十年の区切りに当時の村山富市首相が出した「村山談話」にある「歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らない」という言葉を引き合いに、強調した。
「日本が収容したオーストラリア人捕虜は二万二千人で三分の一以上の八千人が死亡した。(日本と同盟国の)ドイツが収容した捕虜は約5%しか死んでいない。これが、過去に何があったかを振り返らなければならない理由だ」
2015年10月4日日曜日
秋空の下、東京・下町飲み歩き
われわれ山の手生まれの目で下町っ子を見ると、まず言葉遣いで落語の世界から飛び出してきたように思えてしまう。
例えば、東北や九州の人と会話すれば、相手を地理的に離れたところから来たと思う。 だが、下町の人は、まるでタイムマシンで時空を越えて、江戸時代の世界からやって来たかのようなのだ。 つまり、距離感とは違う遠さがあるのだ。
だから、下町に行くというのは、東京を西から東へ地下鉄で都心を横切って単に移動するだけではなく、見知らぬ土地に足を踏み入れるような、ある種の旅をする感覚を抱かせる。
「日本橋エリア利き歩き」という催しがあった。 日本橋から人形町あたりにかけての飲み屋が秋の土曜日の午後開放され、各地の日本酒利き酒の会場となった。 前払い2500円で飲みたいだけ利き酒をできる。
これは、ちょっとした”下町旅行”ではないか。 行ってみると、きっとこれが東京に遊びに来た”お上りさん”という気分。 同じ東京の光景なのだが、飲み屋のたたずまいはどこか違う。 なんとなく昔懐かしい、こういう店で腰を据えて飲みたいという気持ちにさせられる。
通りには、われわれと同じような”東京お上りさん”が大勢うろうろしている。 店によっては、酒を口にするまで、かなりの行列を待たねばならない。 とはいえ、長くて、せいぜい10分くらいか。
案内によれば、全部で37店。 酒は326種。 午後2時から6時30分までの4時間半で全部味わうのは不可能だ。 大吟醸だの、なんとか搾りといった値の張りそうな銘柄も並ぶ。
案内の注意書きには、「全蔵制覇は飲酒量的に危険ですので、おやめ下さい」とある。 そりゃ、そうだ。
だが焦ることはない。 飲み放題というから酒はたっぷりあるのだ。
店に入って、受付で貰ったお猪口に好みの酒を注いでもらう。 注いでくれるのは蔵元から派遣された味をよく知る玄人たちで、質問すれば色々教えてくれる。
われわれは4店ほど回ったか。 1か所で3種類飲んだとして、12種類の酒を楽しんだ。 それぞれ、お猪口で1,2杯といったところか。
晴れた秋空の下、次の店を目指して、ほろ酔い加減で街を歩く。 ちょっと飲んでは、ちょっと歩く。 だから、ずっと深くは酔わない。 これも悪くはない。 こんな飲み方は初めての体験だろう。
これを機に、人形町あたりで、また飲んでみようか。 次は、旅行者、観光客ではなく、東京人として。
とはいえ、山の手の連中の気取ったしゃべり方が気に食わねえ、って啖呵を切るような本物の江戸っ子には会えなかった。
そんな江戸っ子はもう絶滅しちまったから、気軽に飲めたのかな?
2015年8月26日水曜日
蘇 炳添の9.99秒
身長173センチ、体重66キロ、25歳。 中国のどこの街を歩いていてもすれ違いそうな、中肉中背の一見普通の若者。 蘇 炳添(スー・ビンチャン)。 2,015年8月23日、彼が、大げさに言えば、アジア史に残る偉業を成し遂げた。 北京で開催中の世界陸上で、黄色人種(モンゴロイド)として初めて、アフリカ系にほぼ独占されている短距離100メートルの決勝に進出したのだ(決勝では9位)。 だが、日本の新聞は、この偉業をほとんど報じていない。 報じた新聞も、注意深く探さないと気付かないような小さな記事だった。
2015年7月17日金曜日
新国立競技場をデザインした女
(ザハがデザインしたアゼルバイジャンのハイデル・アリエフ・センター) |
新国立競技場の巨額の工費に対する世間の反発には、安保法案でめげなかった鉄面皮・安倍晋三も不安になったようだ。 ついに支持率低下に歯止めをかけようと計画変更を決めた。
それは別にして、この新国立競技場をデザインしたザハ・ハディドという人物は非常に興味深い。 デザインを採用した審査委員会委員長で、安っぽい目立ちたがり屋の建築家・安藤忠雄などより、はるかに奥行きがある。
イラク人というが、国籍はイギリスで、彼女のデザインは常にユニーク過ぎて議論を呼ぶ。 むしろ、それが彼女の生き方なのかもしれない。 なにしろ、デザインだけで建設が実現しなかった経験が何度もあるのだ。 新国立競技場はそのリストに加えられる一つにすぎない。
<以下、Wikipedia から>
ザハ・ハディッド(ザハ・ハディド、ザハ・ハディードとも表記、Zaha Hadid、1950年10月31日 - 、アラビア語表記:زها حديد)は、イラク・バグダード出身、イギリス在住の女性建築家。現代建築における脱構築主義を代表する建築家の一人である。
ザハ・ハディッドはイラクの首都バグダードに産まれた。父は政治家でリベラル系政党の指導者だった。建築に対する関心は、イラク南部に残っているシュメール文明の遺跡を訪れたときに芽生えた。ハディッドは以下のように述懐している。「父は私たちをシュメールの都市を見せに連れて行きました」、「まずボートで、さらにもっと小さい葦でできた小舟で沼地にある村々を訪れました。その風景の美しさ-砂、水、葦、鳥たち、家々、そして人々が一緒くたになって流れてゆく-忘れたことはありません。私は現代的なやり方で同じ事をしようと、設計と都市設計の形態を発見-発明することだと思っていますが-しようとしています」
彼女は幼少期にカトリックが運営していたフランス語学校で学んだ。この学校はイスラム教徒であるザハやユダヤ教徒も共に机を並べるリベラルな雰囲気の学校だった。ベイルートのアメリカン・ユニバーシティで数学を学んだ。イラクでサッダーム・フセインが権力を握ると彼女の家族はイラクを脱出した。1972年にザハは渡英し、ロンドンの私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学(Architectural Association School of Architecture、AAスクール)で建築を学んだ。1977年に卒業するとAAスクールでの教師でもあったオランダ人建築家のレム・コールハースの設計会社Office of Metropolitan Architecture (OMA) で働き始めた。1980年に独立して自分の事務所を構えた。
彼女の名が知られるようになったのは、1983年に行われたピーク・レジャー・クラブ (The Peak Leisure Club) の建築設計競技(コンペ)である。これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。磯崎の推薦によりザハが一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が鋭い軌跡を宙に残しながら飛び交うような設計案は、コンペ勝利直後に事業者が倒産したことで実際に建設されることはなかった。1980年代にはハーバード大学、イリノイ大学シカゴ校で教鞭をとったこともあり、1988年にニューヨーク近代美術館が主催した『脱構築主義者建築展』などでも注目されたが、独立後から十数年間は実現に至った建築は無かった。
1990年に札幌のMonsoon Restaurantの内装を手掛け、同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家らとともにフォリーを手がけている。1993年から1994年の作品であるドイツのヴェイル・アム・ラインのヴィトラ消防署が、彼女にとって最初の実際に建設されたプロジェクトになった。これはスイスの家具・インテリア製造会社であるヴィトラの工場跡地に建設されたヴィトラ・デザイン・ミュージアムの一部であり、安藤忠雄のConference Pavilion、アルヴァロ・シザのProduction Hall、ジャン・プルーヴェのガソリンスタンド、バックミンスター・フラーのドームテント、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるショップ・カフェを併設するショールームなどが隣接している。
1994年にはウェールズの首府カーディフのカーディフ・ベイ・オペラハウス (Cardiff Bay Opera House) の設計コンペに勝利したが、保守的なチャールズ皇太子がメディアを通して伝統主義的建築の復興を訴えるキャンペーンを行なっていた影響もあり、コンペはやり直しになった。二度目の選考でもハディッドが勝利すると資金提供を予定した国営クジ公社 (National Lottery) は建築計画を中止した。
以後は国際デザインコンペで多く勝利している。2002年、シンガポールの都市計画コンペで勝利し、2005年にはバーゼルの新カジノ建設計画のコンペも入賞した。2012年には日本の新国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞し、設計に当たることになった。また、建築設計以外にも、ブリタニカ百科事典の編集委員の一員になるなど、活躍の場を広げている。
建築における顕著な功績で2002年に大英帝国勲章コマンダー (CBE)、2012年に同デイム・コマンダー (DBE) を受章。2004年には女性初のプリツカー賞を受賞した。
インテリアの仕事も多く、ロンドンのミレニアム・ドームの『マインド・ゾーン』の内装設計などが有名であるほか、東京・原美術館におけるドイツ銀行コレクション展の展覧会場設計も行っていた。
2022年のFIFAワールドカップで使用されるカタールの新スタジアム「アル・ワクラ・スタジアム」を設計したが、その際、「女性器」のようなデザインだとして海外で話題にされてしまった。ザハの事務所「ザハ・ハディド・アーキテクト」が2013年11月下旬に新スタジアムのコンセプト画像を公開し、カタールの伝統的な漁船「ダウ船」をイメージし、見た目の美しさだけでなく、現地の強烈な日差しにも耐えられるよう工夫してつくられた。しかし、一般の目には「ダウ船」には映らず。デザインが発表されるとインターネット上では「女性器に似ている」として瞬く間に笑い話となってしまい、天井の中央に開いた穴、ひだ状の外壁、どれも女性器に見えるという。外観がライトアップされ薄桃色に色づいていることも想像をかきたてる原因になっているとされた。
ブログサイト「Buzzfeed」がいち早く取り上げたのを皮切りに、その後、英紙「The Guardian」や、オピニオン雑誌「The Atlantic」のウェブサイトなどでも「Vagina Stadium(女性器スタジアム)」として報道。いくつかの深夜テレビでも報道された。風刺が得意の米テレビ番組「The Daily Show」では、米女性画家ジョージア・オキーフ氏の花をモチーフにした官能的な雰囲気の作品になぞらえて「the Georgia O'Keeffe of things you can walk inside(オキーフが描いた作品の中に歩いて入っていくようなものだ)」とジョークを飛ばされた。
ザハ本人も黙っておらず、米TIME誌に対し「彼らのナンセンスな意見には本当に戸惑っているの」「彼らが何て言っているかって?建物の穴が女性器に見えるってことばかりよ。ばかげているわ」と批判は全て男性がしているかのように語り、「もし仮に男性が設計したのなら、こんな卑猥な比較はされなかったでしょう」と付け加え、デザインの問題であるにも関わらず女性差別を受けたかの様な発言をしている。
しかし、大衆の「女性器に見える」という意見は変わらず、むしろ、火に油を注ぐ形となり、米ニューズウィークと合併したニュースサイト「デイリー・ビースト」では11月26日、「芸術作品の本質において、鑑賞者の反応は作家が伝えようとした意図と同様に重要である」と主張。最後には、女性器に見えるという感想は誰も非難すべきものではないと結んでいる。
彼女は、ロシア構成主義の建築や美術の強い影響を受け、コンセプチュアルで空想的なものを現実空間に出現させ、見学・利用者に驚きを与えている。かつては、同じく脱構築主義者であるダニエル・リベスキンド同様に、実際の建築作品ではなく、建築思想の提唱者として、また過激なコンセプトを示した図面の製作者としてもっぱら知られていた。
無数の道路やパイプのようなラインがゆるやかに折れ曲がり交差し重なり合いながら高速で流れるイメージや、近未来的で巨大な有機体状の構造物などを描いたドローイングを特徴とする。
脱構築主義
建築における脱構築主義(Deconstructivism、Deconstruction、デコンストラクティビズム、デコンストラクション)とは、ポストモダン建築の一派であり、1980年代後半以降、2000年代に至るまで世界の建築界を席巻している。
脱構築主義の建築家の多くは実際の設計には恵まれず、もっぱら建築思想家として、また建つことのない建築のイメージを描いたドローイングで有名であったが(例:ダニエル・リベスキンド)、後述するMOMAによる『脱構築主義者の建築』展のあと、1990年代以降は各地で実際の建築を設計するようになっている。ポストモダンの退潮後、モダニズム建築が復権するかたわら、脱構築主義は各国でのコンペに勝利することで、スタジアムや超高層ビルなどより広い活躍の場を得るようになっている。
構造や覆いといった建築の要素に歪みや混乱を起こす非ユークリッド幾何学の応用などが特徴である。この様式で建てられた「デコン建築」の最終的な外観は、伝統的な建築様式ともモダニズム建築の箱型とも違う、アンバランスで予測不可能かつ刺激的なもので、ひねられたりずらされたり傾けられたりと、コントロールされた混沌とでもいうべき様相を呈する。
脱構築主義に含まれる建築家の一部は、フランスの哲学者ジャック・デリダの著書と、その「脱構築」という思想に影響を受けている。また、他の建築家らはロシア構成主義に影響され、その幾何学的でアンバランスな非対称的形態を再現しようとしている。
総じて脱構築主義の建築家らは、「形状は機能に従う」「素材に忠実であること」といった、モダニズム建築の抑圧的な『鉄則』と彼らが考えるものから、建築を遠ざけようと意図している。ただし、脱構築主義者とされている建築家の中には、自分たちの建築を脱構築的と分類されることを積極的に拒否する者もいる。
一方で、ポストモダン建築のなかにある、さまざまな過去の建築様式や装飾を引用する折衷主義的な考えを強く拒否しており、より純粋に新しい建築を生み出そうとしてきた。
ロシア構成主義
キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。1917年のロシア革命のもと、新しい社会主義国家の建設への動きと連動して大きく展開した。1922年のアレクセイ・ガン(Aleksei Gan)の『構成主義』が理論的基盤をもたらした。
2015年7月14日火曜日
日韓、二つの絶滅危惧民族
(今はにぎわう明洞) |
人口減少が止まらない日本人は、計算上、やがて地球から消滅する絶滅危惧種だ。 絶滅はいつか、というと基準の取り方で様々だが、国立社会保障・人口問題研究所の「人口統計資料集(2015年)」は、現在の死亡率と出生率がこのまま続く仮定では、西暦3000年に日本人の人口は1000人になる。
東北大学大学院経済学研究科のHP「日本の子ども人口時計」は、つい見入ってしまう。 1年間に減少する子どもの数は現在15.3万人と設定し、最後に残された子どもが一人になるのは、西暦3776年8月13日としている。 この日までのカウントダウンを「日・時間・分・秒」で表示している。
http://mega.econ.tohoku.ac.jp/Children/index_2015.jsp
厚生労働省発表の最新人口動態調査(2014年)によると、1人の女性が生涯に産む子どもの数を推計する日本の合計特殊出生率は1.42。 世界的な少子化国だが、今や日本に限らず、大きな人口を抱える中国やロシアですら、少子化による将来の人口減という不安に直面している。
最も深刻なのは、韓国であろう。 以下、ソウルからの昨年(2014年2月27日)の報道だ。
・・・・・・・・・・
韓国 再び「超少子化」に=出生率1.19人
【ソウル聯合ニュース】韓国で昨年、人口1000人当たりの出生数が8.6人と過去最低を記録し、1人の女性が生涯に産む子どもの平均数を示す合計特殊出生率も1.19人で超少子化の基準となる1.30人を再び下回ったことが分かった。
韓国統計庁が27日発表した2013年の出生・死亡統計(暫定)によると、昨年の出生数は43万6600人で前年比9.9%減少した。2010~2012年は増加したが、再びマイナスとなった。人口1000人当たりの出生数も前年比1.0人減の8.6人で、統計を取り始めた1970年以降で最低だった。
合計特殊出生率は1.19人と、前年から0.11人減少した。2005年に1.08人まで落ち込んだ後は徐々に回復し、2012年は1.30人に達したが、昨年は超少子化国に逆戻りした。経済協力開発機構(OECD)の平均(2011年)は1.70人。韓国は34加盟国の中で最も低い。
統計庁は「29~33歳の女性の人口が減り、初婚年齢も上がったために第2子を産む割合が低下している。未婚者も増えている」と説明した。2012年は強い運気に恵まれるとされる60年に1度の「黒竜の年」で出産が増えたが、昨年はその反動もあった。
・・・・・・・・
さらに、この報道は、韓国・国会立法調査処のシミュレーションによれば、合計特殊出生率が続けば、韓国人は2750年に絶滅すると伝えている。
それによれば、2014年現在の韓国の人口は5000万人。 現在のペースで人口が減り続けると、約120年後の2130年ごろに1000万人、そして2750年にゼロになる。
おそらく、こうなる以前に南北朝鮮統一が実現しているだろうから、この通りにはならないだろう。
だが、日本人と韓国人の両方が絶滅危惧種なら、竹島などというちっぽけな島の領有権を勝ち取っても、どれほどの意味があるのだろうか。 はるかかなたの未来のことではあるが、なにか虚しい気持ちになる。 そこには誰もいなくなっているのだから。
2015年7月10日金曜日
戦後70年 ニッポンのODAとは
2015年7月10日
2015年7月10日、読売新聞の第一面で、「ニッポンの貢献 戦後70年」という連載が始まった。 1回目は、日本の政府開発援助(ODA)の歴史をたどった記事だ。
日本のODAは、現在では中東、アフリカなどへも広がっているが、従来は東南アジアが中心だった。 そこに日本のODAの歴史的役割、本質がある。 だが、この連載はその本質部分には触れていない。 記事の内容からすると、外務省の役人のレクチャーをそのまま繰り返したという印象の記事ではある。
触れなければいけないのは、日本から東南アジア諸国への巨額のODAは、冷戦の産物だったという点だ。 東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ諸国で共産主義勢力が力をつけ、反共のタイやフィリピンでも、共産ゲリラが山間、農村部で影響力を拡大していた。
中国、北朝鮮、北ベトナムは既に共産化し、米国はさらに共産化が拡大するのではないか、共産化のドミノが起きるのではないかと警戒していた。
これを食い止めるには、どうすべきか。 米国は共産化の温床は貧困、経済発展の立ち遅れにあるとみた。 経済の底上げこそが、共産化を食い止めるための多少遠回りかもしれないが最良の道と考えた。
そこで利用したのが、敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本の経済力だ。 米国の軍事力と日本の経済力というふたつの傘の下で東南アジアを共産主義から守ろうという戦略だ。
援助の受け皿となったのは、非民主的な独裁だが反共指導者の国々。 こうして"開発独裁"という経済発展モデルが形成されていった。
政治的自由を国民に与えれば、経済格差や独裁政権を批判する共産主義がはびこって混乱が生まれる、独裁者のもとで自由を規制し、政治の安定を維持したほうが経済が発展する―。
フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルトの支配体制がその典型だ。 やがて、二人とも自由を求める人々に追い落とされていくが、こうした独裁支配を経済面で支えたのが日本のODAなのだ。
1989年のベルリンの壁崩壊、ヨーロッパ社会主義諸国の混乱は、突然すぎる政治の自由化が引き起こした。 冷戦構造が崩れていく中で、アジアでは同じような混乱は起きなかった。 いや、起こりかけたが押さえ込まれた。 ヨーロッパの混乱をじっと観察していたベトナムや中国の支配者たちは、皮肉にも、かつて敵対していた東南アジア反共諸国の"開発独裁"という手法を取り入れ、自由化は経済だけに留め、政治の自由化には歯止めをかけたのだ。
これは見事に成功した。 中国がソ連の二の舞になっていたら、現在の中国の目を見張る経済発展はありえなかったろう。
辿っていけば、日本のODAとは、"開発独裁"という支配システムを構築し、非民主的な政権が生き残る術を生み出した諸悪の根源なのだ。
2015年7月10日、読売新聞の第一面で、「ニッポンの貢献 戦後70年」という連載が始まった。 1回目は、日本の政府開発援助(ODA)の歴史をたどった記事だ。
日本のODAは、現在では中東、アフリカなどへも広がっているが、従来は東南アジアが中心だった。 そこに日本のODAの歴史的役割、本質がある。 だが、この連載はその本質部分には触れていない。 記事の内容からすると、外務省の役人のレクチャーをそのまま繰り返したという印象の記事ではある。
触れなければいけないのは、日本から東南アジア諸国への巨額のODAは、冷戦の産物だったという点だ。 東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ諸国で共産主義勢力が力をつけ、反共のタイやフィリピンでも、共産ゲリラが山間、農村部で影響力を拡大していた。
中国、北朝鮮、北ベトナムは既に共産化し、米国はさらに共産化が拡大するのではないか、共産化のドミノが起きるのではないかと警戒していた。
これを食い止めるには、どうすべきか。 米国は共産化の温床は貧困、経済発展の立ち遅れにあるとみた。 経済の底上げこそが、共産化を食い止めるための多少遠回りかもしれないが最良の道と考えた。
そこで利用したのが、敗戦後、奇跡の復興を遂げた日本の経済力だ。 米国の軍事力と日本の経済力というふたつの傘の下で東南アジアを共産主義から守ろうという戦略だ。
援助の受け皿となったのは、非民主的な独裁だが反共指導者の国々。 こうして"開発独裁"という経済発展モデルが形成されていった。
政治的自由を国民に与えれば、経済格差や独裁政権を批判する共産主義がはびこって混乱が生まれる、独裁者のもとで自由を規制し、政治の安定を維持したほうが経済が発展する―。
フィリピンのマルコス、インドネシアのスハルトの支配体制がその典型だ。 やがて、二人とも自由を求める人々に追い落とされていくが、こうした独裁支配を経済面で支えたのが日本のODAなのだ。
1989年のベルリンの壁崩壊、ヨーロッパ社会主義諸国の混乱は、突然すぎる政治の自由化が引き起こした。 冷戦構造が崩れていく中で、アジアでは同じような混乱は起きなかった。 いや、起こりかけたが押さえ込まれた。 ヨーロッパの混乱をじっと観察していたベトナムや中国の支配者たちは、皮肉にも、かつて敵対していた東南アジア反共諸国の"開発独裁"という手法を取り入れ、自由化は経済だけに留め、政治の自由化には歯止めをかけたのだ。
これは見事に成功した。 中国がソ連の二の舞になっていたら、現在の中国の目を見張る経済発展はありえなかったろう。
辿っていけば、日本のODAとは、"開発独裁"という支配システムを構築し、非民主的な政権が生き残る術を生み出した諸悪の根源なのだ。
2015年7月7日火曜日
「なでしこジャパン」って何?
2015年7月7日
バンクーバーのサッカー女子ワールドカップで、なでしこジャパンは決勝まで進出し、最後まで諦めないカミカゼ的頑張りをみせたが、米国に完敗した。 その実力からして太平洋戦争同様、順当な結果だった。それでも、「準優勝」だと日本では大騒ぎしている。 負けた選手たちの帰国を大歓迎はヘンだから、やはり「準優勝」と言うしかないのだろう。
だが、なんだかナショナリズムを煽る右翼政権の尻馬に乗っているような感じがしないでもない(太平洋戦争で負けた日本を「準優勝」とは言わない)。 ワールドカップのサッカーは、常に根の部分でナショナリズムとつながっている。 国旗を振り回す騒ぎ方はオリンピック以上のナショナリズムの発露だ。
これは日本だけではない。 イスタンブールに住んでいたころ、サッカーの国際試合がある日は、大小さまざまなトルコ国旗を売る露店が道路沿いにずらりと並んだのを覚えている。 トルコ人の国家意識は格別高い。 彼らの愛国心は、難敵ドイツを相手にするとき絶頂に達し、興奮して銃を発砲するヤカラまで出てくる。
敵との戦いのために集団で気持ちを高揚させる。 サッカーのワールドカップとはの疑似世界大戦なのだ。
米国でも、なでしこジャパンを叩きのめした夜(日本では朝)は歴史に残った。
ニューヨーク・タイムズによると、試合を放送したフォックス・テレビの視聴者は2540万人で、米国の英語テレビが放映したサッカー試合の最高記録になった。 さらに、スペイン語テレビ・テレムンドの130万人を加えた総数2670万人は、昨年の男子ワールドカップ決勝ドイツ-アルゼンチン2650万人の記録をも超えた。
米国の女子サッカー人気はわからないでもない。 国際サッカー連盟(FIFA)は増収賄などの悪事ばかりでなく、役に立つ地道な統計も集計している。 それによると、米国の女子サッカー人口は世界一の720万人、協会登録者だけで130万人にのぼる。 世界の女子サッカー人口は2600万というから、28%がアメリカ人ということになる。
西海岸オレゴン州に住む日本人の女友だちにきくと、米国では学校内スポーツは男女平等の機会が与えられている。 とくにサッカーは幼稚園から大学まで女子スポーツとしても盛んだという。 ワールドカップを圧倒的強さで制覇する実力を生む底辺の広さがうかがえる。
ただ、彼女のアメリカ人ボーイフレンドは若いころプロになるのを夢見たサッカー狂だが、女子サッカーには関心がなく、サッカーは男のものだという態度をかいまみせる。 女子サッカーが本物のメジャーになるには、もう少しなのかもしれない。
翻って、日本の女子スポーツの現状に目を向けると、なでしこ人気はなんとも不思議な現象だ。
日本の女子サッカー人口は約30万人、協会登録者は26000人くらい(2006年段階)。 ドイツは日本の人口規模に比較的近い(8200万人)が、7倍以上の220万人、登録者は38倍以上の106万人。 他の強豪国と比べ、日本の裾野は実に小さい。
高体連登録選手数(2010年)で見ても、女子サッカーは8421人で他競技と比較すると少ない方だ。ちなみに、バスケットボール62598人、バレーボール61575人、卓球18994人、柔道5220人、体操2870人、等々。
実際、日本の日常生活で女子サッカーをみかけることなど、テレビを除けばまったくと言っていいほどない。 いったい、どこで練習をしているのだろうか。
女性たちがサッカーをやっているのを見たことがないわけではないが、たいていは"冗談"の域を出るものではない。 「あら、ボールどこに行っちゃったのかしら?」「いやーねえ、ゴールに入っているじゃない」「ホント、だれが蹴ったのかしら」「ヘンねえ、ハハハハ!」
メディアが伝える華麗な女子サッカーと現実世界がまったく結びつかない。 実に不思議なスポーツだ。
真珠の首飾り
2015年7月7日
5月(2015年)のスリランカ旅行は、きっと良い思い出として、ずっと記憶に残るだろう。 人々の明るい笑顔と親切、緑あふれる自然、素朴な農村の風景、ずっしりと重みのある歴史遺産、愛くるしくも、ときに荒々しい野生動物たちとの出会い。 実に充実した時間を過すことができた。
ただ、この旅で、ひとつだけ異様な光景にめぐりあった。 忘れないうちに記しておこう。
首都コロンボでも最も現代的な景観のフォートと呼ばれる高層ビルが建ち並ぶ地域。 インド洋がすぐ目の前。 海沿いには片側2車線のよく整備された道路が走り、海岸には広い遊歩道が続いている。 ここは、家族連れや恋人たちの憩いの場でもある。
この海岸通りに、海に向かって金網フェンスが延々と張られたところがある。 その先には広大な造成途中の埋立地が広がっている。 何本もの巨大なクレーンが立っている。 様々な建設機械も見える。 だが動いてはいない。 人の姿もない。 遊歩道を楽しげに散策する人々の姿とは対照的に、動きのない沈黙の世界。
フェンスに沿って歩いていて、大きな告知板をみつけた。
「The Port City Project is temporarily suspended....... The project will be restarted after approval from relevant government institutions.....」
ふーん、この造成地はポート・シティ・プロジェクトというのか。 それが一時的に中断されて、工事再開は当局の承認後...。
これを見て思い出した。 この不気味な光景は、通常は漠としてイメージが定まらない国際政治の現実を、目の前に直接見ることができる珍しい現場だったのだ。
2009年、スリランカでは30年にわたって続いていた内戦が終結し、海外資本を積極的に導入して国家再建が始まった。 当時の大統領ラージャパクサはインフラ整備で中国に全面的に頼った。 首都コロンボと空港を結ぶ高速道路建設はその関係を象徴する。
そして、2013年、中国が総額14億3000万米ドルを投じたポート・シティ・プロジェクトが始まった。 新たな港湾都市建設と呼んでいい規模で、開発面積は230ヘクタール。 日本の広さの単位「東京ドーム」で表現すれば49個分。 公園や居住区、オフィスビル、高級ホテル、ショッピングセンターなどが整備される。 完成は2016年で、中国は見返りとして50ヘクタールを99年間租借することになった。
当然のことながら、中国の世界戦略の一環として、このプロジェクトは国際的な耳目を集めた。 米国の国防総省が2005年ごろから、中国を警戒して使い始めた表現である「真珠の首飾り戦略」にぴったりと当てはまったからだ。
真珠の首飾り( String of Pearls)戦略とは、香港から南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、ペルシャ湾などを経て中東アフリカまで延びる中国の海上交通要路を政治的、軍事的に確保しようとするものだ。 中国はそんな戦略など存在しないと否定するが、現実は、この海域への中国の並々ならぬ関心を示唆している。 スリランカはインド洋に突き出した位置にあり、この"戦略"の地理的要衝になる。
この一帯で戦略的に中国のライバルとなるインドや米国が警戒してみつめる中、ポート・シティの造成工事は着々と進んでいた。 だが、ドラマは急展開した。
今年(2015年)1月8日に行われた大統領選挙で、中国べったりだった現役ラージャパクサが、対立候補の前保健大臣マイトリパラ・シリセーナに僅差の得票率で敗れたのだ。 シリセーナは、ラージャパクサの汚職体質、独裁的手法、さらに中国偏重の姿勢を「援助の罠」にかかっていると批判していた。
シリセーナ新政権発足によって、スリランカの対中国姿勢にはたちまち変化が現われた。
ラージャパクサの中国との関係には、出身地の南部ハンバントタに港湾や空港を建設するような不透明さがあった。 また、中国のプロジェクトには大量の中国人労働者が送り込まれ、地元から反感を持たれていた。 新政権は、こうしたプロジェクトのいくつかを中断させた。 その代表が「ポート・シティ」だった。
シリセーナは、この地域で中国と覇権を競うインドにも接近する。 2月には大統領就任後初めての外遊でインドを訪問し、2国間の原子力協力に合意した。 さらに、安全保障面での協力拡大も進めることになった。 インド洋の地政図が瞬く間に塗り替えられた。 明らかに、中国の大きな後退だ。
工事が止まったポート・シティ・プロジェクトの殺伐とした現場は、覇権争いという国際政治の戦場なのだ。
ラージャパクサはまだ政治的に葬り去られたわけではない。 政権復帰への野心満々だという。 スリランカの政治は決して安定はしていないということだ。 今は岸辺でペリカンが巣を作っているだけのプロジェクト現場はまた騒々しくなるかもしれない。
2015年6月11日木曜日
アメリカの日本酒があってもいいじゃないか
6月8日(2015年)、こんなニュースが報じられた。(以下、朝日新聞から)
「純国産でなければ「日本酒」とは呼ばせません――。政府のクールジャパン戦略の一環で、財務省がそんな方針を年内にも決める。今後増えるとみられる外国産の清酒と差別化し、日本食ブームに乗って本家本元の日本酒を、世界で味わってもらうのが狙いだ。
これまで、日本酒のはっきりした定義はなかった。国税庁長官は年内にも、「日本酒」について、地名を商品名に使う知的財産権である「地理的表示」に指定。日本酒や英語の「ジャパニーズ・サケ」を名乗れる清酒を、国産米や国内の水を使って国内でつくられた清酒に限る方針だ。
日本など世界貿易機関(WTO)の加盟国は、地理的表示に指定した商品を保護し、その地名を産地以外の商品に使わないよう取り決めている。英スコットランドの「スコッチ・ウイスキー」、仏シャンパーニュ地方の「シャンパン」が代表例だ。」
何年か前に、確か、外務省が日本食の基準を定めて、これに合わないものは日本食と呼ばせないという方針を発表した。 日本食が世界に広がり、平均的日本人には日本食と思えないような料理が出現し、これを"取り締まる"必要があると外務官僚は考えたらしい。
だが、上から目線の日本政府の発想に、外国メディアは"food police"だと総反発した。 それはそうだ。 日本人だって、インド人がびっくりする「カレーライス」、イタリアには存在しないトマトケチャップで作った「スパゲティ・ナポリタン」、その他さまざまな奇妙な料理を作っている。 それがけしからん、とインドやイタリアの外務省が文句を言ったことはない。 中国料理のレストランだって、世界中にあるが、それぞれの国の伝統と混じりあい、味は様々だ。 というわけで、この外務省方針は沙汰やみになった。
それでは、日本酒はどうか。 かつてエジプトに住んでいたころ、日本酒を飲んだり買ったりする機会は、イスラエルに出張したときだけだった。 日本では見ない奇妙な大きさ、確か1.5リットルくらいの瓶に入った米国カリフォルニアで作られた日本酒だった。 値段は高くなく、味もまあまあだった。 これを「日本酒」と呼ぶことに、違和感はまったくなかった。 イスラエルは問題のある国だが、日本酒が味わえるという点だけは許せた。
ニュースによれば、国税庁は「ジャパニーズ・サケ」を、国産米や国内の水を使って国内でつくられた清酒に限る方針だという。 つまり、カリフォルニア米とカリフォルニアの水で醸造した日本酒を日本酒と呼んではいけないのだ。 これには、ちょっと引っかかる。 カリフォルニアの日本酒はものすごく旨いというわけではないが、日本酒として十分楽しめるからだ。
それでは、カリフォルニアの日本酒がどの程度のものかというと、専門家と言っていい人の意見がある。 日本酒プロデューサー(どんな仕事かよくわからないが)中野繁が、自身のブログ「多酒創論」に「アメリカ産日本酒の実力」を掲載している。
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兵庫県の大手酒造メーカー 大関株式会社は、1979年にカリフォルニア州ホリスター市に進出、自社の酒蔵「大関USA」を構えて日本酒を現地生産している。その「大関USA」が、品質保持が難しい日本酒は鮮度が命であり、蔵元でしぼりたてを飲む感動を多くの人に味わっていただきたいとの思いで、2013年12月に「大吟醸・新酒しぼりたて」をアメリカ限定で受注生産し販売した。アメリカ産「大吟醸・新酒しぼりたて」は、カリフォルニア米を使用し、日本から派遣された丹波杜氏が鮮度にこだわって仕込んだAL16度台の本格派「大吟醸酒」で、720ml詰め1本25ドルが現地価格である。昨年12月、サンフランシスコに旅した知人がそのアメリカ産「大吟醸・新酒しぼりたて」をお土産に買ってきてくれたので、国産の「大関・大吟醸・大阪屋長兵衛」と飲み比べてみた。「大阪屋長兵衛」は、国産米を使用したAL15度台の「大吟醸酒」で、720ml詰め1本税込み1,676円が国内の希望小売価格である。この2本を飲み比べる目的は、アメリカ産日本酒の実力を知ることにあり、巷間、囁かれている「カリフォルニア産の日本酒は、日本産酒に及ばない」という風評の真偽を確かめるためでもある。テイスティングは、筆者を含む男性2名と女性4名の計6名が東京四ツ谷の居酒屋に集まり、両方の大吟醸酒を共に10℃前後の品温で飲み比べた。その結果、6人のテイスター全員が、国産大吟醸に軍配を挙げ、5点満点評価では、アメリカ産「大吟醸酒」は、平均2.67点だった。アメリカ産大吟醸の最大の難点は、「旨味が少なく味わいが薄っぺらい」ことで、「後味がダレる」、「バランスが悪い」などが指摘された。両者の旨さの優劣は、カリフォルニア産米と国産米の違い、つまり、原料米の優劣にあると考えられ、ある日本の酒米栽培農家は、「アメリカと日本の米の栽培方法の違いだ」と言い切り、また、アメリカでおにぎり販売店チェーンを展開する日本人オーナーは、「アメリカの米が国産より劣る最大の原因は水にある」と断言している。結論として、カリフォルニ米が、これまで通り、アメリカの水を使用して、アメリカ式の米栽培方法を続ける限り、カリフォルニア米を使用した日本酒は、国産米を使用した日本酒の酒質を超えることは出来ないと推定される。これは、国産日本酒の旨さと国産米の優秀さを証明する国ことにもつながっている。ニューヨークのマンハッタンで酒小売店「SAKAYA」(http://www.sakayanyc.com/)を経営しているオーナーのリック・スミス氏は、現地生産の日本酒を取扱わず、日本から輸入した日本酒だけを販売している。彼は、「素晴らしい日本酒を造れるのは日本人だけ」だと信じているからで、「アメリカでは日本国内の高品質な酒米を入手する手段が無く知識も機器も無い、アメリカの米生産能力は、日本より100年遅れている」と語っている。国産日本酒の優秀さが海外にも浸透していることがわかる、リック・スミス氏の鋭い洞察力である。
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カリフォルニアの日本酒は、日本の日本酒に到底かなわないという結論になっている。 外国産日本酒、米国のほかには中国、ブラジル産があるそうだが、めくじらを立てるような対象ではないように思える。
米国では、どのようにして日本酒がつくられているのだろうか。 海外情報を丹念に集めて翻訳しているサイト「すらるど」に、アメリカ人の涙ぐましい努力を取り上げた記事があった。
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(引用元:Local Sake: America's Craft Brewers Look East For Inspiration)
我々にとっては馴染みが深いのは大抵が寿司バーでティーカップサイズのコップで出され、ホットで、麝香の香りがして、かすかに濁っていて、時として誤って”ライスワイン”等とも呼ばれている物だろう。言葉を換えれば、我々は大抵が”bad sake”を飲んでいるのだ。
しかし、ようやく我々は良い品質のものを愛する事を学んだ。
ハイエンドクラスの日本酒の人気はうなぎのぼりで、あちこちの州に数え切れないほどの日本酒をフィーチャーしたバーが建ち並び、それぞれに何百本もの日本酒が並んでいる。
通のグルメは日本酒をチーズとチョコで呑み、ミクソロジスト(バーテンダー)は日本酒のカクテルを作り、オレゴン州のポートランドでは3年連続で日本酒のフェスティバルが開かれているのだ。
おそらく何より最高なのが、今やアメリカ人は自分達の手で日本酒を造り始めている事だろう。
ポートランドにあるSakeOneは1990年から日本酒を造り始め、今では年間100万本近く売っている。
最近ではアメリカ各地の中小醸造所がそれぞれのガレージ、工房、レストランキッチンで日本酒を醸造し始め、真珠のような米を日本で最も有名な飲み物へと変えているのだ。 幾つかは既にビジネスとして軌道に乗り始め、半ダースほどがその準備に取り掛かっている。
ノースカロライナのアッシュヴィルでは2つの醸造所が起業したばかりだ。『Blue Kudzu(葛)』と『Ben's American Sake』だ。
後者は”Ben's Tune-Up”という居酒屋ラーメンレストランがベースとなっており、共同経営者で醸造者であるジョナサン・ロビンソンは”クラフトビールは地元市場で飽和状態であり、日本酒は我々の名を知らしめるのに役立っている”と語っている。
”我々は今のところクラフトビールの醸造所を開くつもりはない”とロビンソンは説明している。
”ここではみんながクラフトビールを造っており、20年以上造っている人も大勢いるんだ。だが日本酒については新境地だ”
『Ben's American Sake』は現地で醸造され、飲まれている。
バーリストの中には蜂蜜金柑酒だけではなく、活性炭入りや発泡日本酒まで含まれている。
また、ロビンソンは明らかに伝統的ではない醸造をするためにビール醸造の技法も持ち込む計画だという。 バーボンの樽を使って、寝かした日本酒を造ろうというのだ。
日本のスタイルに忠実なのはアメリカ初の日本酒蔵として広く知られているミネアポリスのMoto-iだろう。
オーナーのブレイク・リチャードソンは2008年に自分のレストラン兼醸造所をスタートさせる前に日本の酒蔵を幾つも訪れている。
リチャードソンの酒蔵では低温殺菌していない日本酒を楽しむことが出来る。また、彼は日本酒の伝統を重んじ、冬にしか醸造を行わない。
”冷たい空気と水、これが日本酒を造る理想的な環境なのです。”と彼は言う。
日本酒はもちろん米から造られている。
しばしば使われるのは何世紀も前から日本で育てられている独特な品種の米だ。最初のステップは米を研ぐ事。発酵中に雑味や匂いが入り込まないように、油分やたんぱく質を含んだ外層を除去するために何度も磨かれるのだ。その後で米は澱粉を素早く糖に変換させるオリゼーと呼ばれる麹菌を植える前に水に浸され、蒸される。酵母発酵によってアルコールへと変わる過程で糖はまばゆいばかりの、まるで香水のような香りを作りあげる。
日本酒はほとんど寝かせることが無く、時には醸造してから数週間後に飲むこともある。
日本では一番古い酒蔵はコロンブスの時代に設立され、数世紀に渡る研鑽による酒米、多数の清酒酵母、醸造についての専門的な知識と多数の機器で絶頂期を迎えた。
対照的にアメリカでの日本酒醸造はその材料と機器のために苦労をしている。
”凄く難しいよ、醸造のための設備がまだないんだ”
そう語るのはメイン州キーポイントにある醸造所『Blue Current Brewey』のダン・フォード。
”250kgの米を蒸すスチーマーがアメリカで見つかると思うか?”
フォードと共同経営者のジョン・シゴウスキーは日本から蒸し機を輸入し、今はガレージで稼働中だ。 彼らには夏に醸造用の大型施設を見つける事、秋には新製品を出すという2つの計画がある。
成長が遅いために酒米を定期的に確保できない事、”我々にとって妨げになっているのはそれのみです”
そう語るのは100%有機栽培米を使った『テキサス・サケ・カンパニー』の社長であり杜氏(日本における醸造主)のYoed Anis。
しかし、誰もがアメリカの醸造所が素晴らしい日本酒を造れると信じているわけではない。
マンハッタンで酒小売店の”Sakaya”を営んでいるオーナーのリック・スミスは輸入物の日本酒しか扱っていない。
彼は素晴らしい日本酒を造れるのは日本人だけだと信じている。今はまだ。
”アメリカは日本から100年は遅れている”
アメリカ国内で4店しかない日本酒を専門的に扱っている小売店の1つでもある”Sakaya”のオーナー、スミスはそう語る。
”アメリカでは日本国内の高品質な酒米にアクセスする手段もなく、知識もないし機器もない。[アメリカで醸造した日本酒]というのは確かに嬉しい事だけど、それはまだ日本の日本酒と同等であるという訳じゃないんだ”
Moto-iのリチャードソンはその意見に同意していない。 ”1970年代、我々が良いシャルドネ(ワイン)を造れると思った人がいただろうか?”彼はそう語った。
”ドイツスタイルのピルスナービールを造れると思った人は?しかしアメリカ人は素晴らしいワインと素晴らしいビールを造る事が出来たんだ。日本酒だって同じようなアメリカンストーリーを探してみせるよ”
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フランスのシャンパーニュ地方は、世界中に旨いスパークリングワインが生まれて、「シャンパン」に危機感を覚え、世界貿易機関(WTO)の地理的表示に指定した。 だが、米国の日本酒つくりは黎明期で、日本の日本酒の足元にも及ばないようだ。
日本政府の「クールジャパン戦略」とは、いったいなんだろう。 日本酒を愛し、ほほえましい努力をしているアメリカ人たちを、日本産以外の日本酒は日本酒ではない、と恫喝する意味があるとは思えない。 将来、日本のライバルになる前に芽を摘んでおこうとでもいうのだろうか。 歴史と伝統に根ざした日本の日本酒つくりは、そんなひ弱な産業ではないだろう。
いや、もしかしたら、日本酒でも本当に警戒しているのは中国かな?
2015年5月23日土曜日
増殖するスマホ人間たち
(スリランカ・ネゴンボのレストランでみかけたヨーロッパ人と中国人) |
もしかしたら、スマホは人類にとって、空気や水のように生きていくのに欠くことのできないものになりつつあるのかもしれない。
今年(2015年)4月から5月にかけて、2週間ほどタイとスリランカを旅行した。 どこに行っても、地元の人ばかりでなく、外国人観光客もスマホを手放さない姿を見た。 中国人もヨーロッパ人もアラブ人も。
レストランで仲間とビールを飲んでいるときも、会話することなくスマホに見入っている。 野生動物を見に行ったサファリのジープの中で、中国人の若者は動物を観察するでなく、ずっと俯いてスマホをいじっていた。 どうやら、世界中に、この光景は蔓延しているようだ。
人類の進化はすすみ、スマホなしで生きられるのは旧人類になっている。
囲い込まれた多摩川BBQギャングたち
多摩川の川崎側、二子橋下の河川敷は週末ともなると、バーベキューの若者で溢れている。 彼らは、川崎市が囲い込みに成功した多摩川河川敷のギャングたちだ。 放っておけば何をするかわからない。
以前は、バーベキューをやったあと散らかし放題、料理に使った鉄板なども持ち帰るのが面倒なのか、近所の道端に放り出していった。 ラジカセからの大音響も。 彼らが去ったあとの河原は、一面にゴミが散乱していた。
川崎市がとった対策は、バーベキューの全面禁止ではなく、場所を限定して一人当たり500円の使用量徴収だった。 道具の有料レンタルも始めた。 これによって、野放しだったギャングどもを管理し、囲い込みに成功した。
それにしても、ここに限らず、河川敷にやって来る若者たちは、なぜ傍若無人になるのだろうか。
花火で騒ぎ、コンビニで買ってきた食い物、飲み物の残骸を撒き散らして消える。 河川敷という場所は、人を無法地帯にいると感じさせる何かがあるに違いない。 だから、昔から河原乞食なんて言葉があるし、ホームレスたちが永住する。 人も殺される。
2015年5月19日火曜日
旅のすすめ
海外旅行は日本人にとって、ごく一般的な休暇の過し方になっている。 とくに、正月、ゴールデン・ウィーク、お盆という時期は、日本人には比較的まとまった休日がとれるので、多くの人が海外へでかけ、旅行社が設定する旅行代金は普段の2倍くらいになる。
とはいえ、旅行期間は長くて、せいぜい1週間、疲れきって帰国するだけの”弾丸ツアー”も当たり前だ。
これを旅行と言うべきか。 観光バスに乗って、名所旧跡を大急ぎで回り、旅行社が半ば強制的に立ち寄らせる土産物屋でガラクタを買わされて帰ってくる。 訪れた国の人々との接触も会話もない。
自由人生活のおかげで、最近スリランカをのんびりと行き当たりばったりで旅行できたので、JTBが募集しているスリランカ旅行を例に挙げてみよう。
料金は、5日間で129,000円から219,000円。 催行期間は2015年6月6日から9月28日。 最も高い219,000円は、もちらん8月のお盆休みのころだ。
そもそも、たった5日間でスリランカを旅して日本に帰ってこられるのか、という疑問が湧く。
日程を見ると案の定、初日と最終日は飛行機に乗っているだけで、5日間とはいえ、スリランカ滞在は3日間だけ。 ホテルに泊まるのは、たった2泊。
成田空港を夕方飛び立ち、15時間もかけて首都コロンボに現地時間午前4時半に着く。 そのままバス旅行が始まり、夕刻ホテルに到着するまでに6時間は揺られる。 この間、炎天下で名所旧跡にたどり着くための山登りがある。 翌日は再び6時間のバス。 コロンボのホテルに泊まって日程はほぼ終了。 翌日は正午がチェックアウト時間でホテルを追い出され、夕方の飛行機を待つだけ。 わずかな"自由時間"だが、果たして出歩くエネルギーが残っているかどうか。
こんな旅行なら、しない方がいい。
われわれのスリランカ旅行は、これと比べれば、なんと恵まれていたことか。
全日程13日、バンコクで往復3日、スリランカで10日。 かかった費用は、航空券、ホテル、現地交通費、食事、酒、その他全部合わせて、1人20万円。 この額は、JTBのお盆ツアーなら、たった5日間、2泊5日の弾丸ツアーだ。バンコクでは屋台のタイ料理を楽しみ、スリランカでは各地で安ホテルに泊まり、安食堂で食事し、エアコンなしのオンボロ路線バスで移動した。 時間に追われないのんびりした旅は心を洗ってくれる。 おかげで、いろいろな土地でいろいろな人と会話ができた。 これこそが旅というものだ。
旅行とはいえない旅行、バナナの叩き売りのようなパッケージ、参加者がみじめな気分になるような疲労困憊弾丸ツアー、こんなものに参加していると知力が低下する。 海外にあこがれるのはいいけれど、旅行社に金儲けをさせるだけのこんな旅行は卒業しよう。
2015年4月11日土曜日
寂しい老人
今住んでいるマンションでよく見かける老人がいる。 エレベーターの中、1階のロビー、周辺の道路でも、いつも一人。 顔を合わせても声を出して挨拶をすることはなく、軽く会釈するだけだ。
最近、エレベーターで上がるとき、その老人と乗り合わせた。 両手にスーパーのレジ袋をぶら下げていた。 二つとも中はいっぱいで大きくふくれていた。 なにげなく声をかけた。「重そうですね」と。
返ってきた言葉は、初めての挨拶には重すぎた。 「このマンションに引っ越してきて、3年前に女房を亡くして、一人暮らしなんです」
どう対応していいかわからないうちに、うまい具合に自分の階に着いて扉が開いた。 「どうも」と曖昧に口の中をもごもごさせてエレベーターから降りた。
なんとも複雑な気持ちになった。 彼が住んでいるのは数階上、同じ建物の中だから、うちからは直線で数十メートルの距離しかない。 こんな近いところで亡くなった人がいたことをずっと知らなかったなんて…。 人がひしめき合っているのに孤立している都会のいびつさ。
彼はいつも寂しそうな表情をしていた。 それは妻に先立たれて一人で暮らす老人の生身の姿だったのだ。 同じマンションの中で知り合いができて、世間話をしたり、食べ物のおすそ分けを互いにすることもある。 そんな気軽な近所つきあいがあれば、もう少し和んだ表情を作れるかもしれない。
エレベーターの中で乗り合わせる現役サラリーマンの男たちの多くは、ほんの一言の挨拶すらせず、路傍の石への視線を投げつける。 彼らは自分が住む身の回りの世界の人々には関心がない。 きっと勤務先の会社という宇宙に身も心も捧げているのだろう。
やがて子どもたちが巣立ち、自分も年金生活に入り、そして妻に先立たれる。 そのとき彼らはエレベーターの中で、どんな表情をするのだろうか。
2015年4月6日月曜日
カイロのテロ現場に立つ
(カイロの「5月15日橋」の事件現場) |
だが、この事件で中東で今拡散しているテロを身近に感ぜざるをえなかった。 発生場所が馴染み深いところだったからだ。
カイロ中心部を南北に流れるナイル川。 その中州であるゲジラ島。 中州とは言っても大きな島で、外国人が多く住むコンドミニアムや大使館、それに、エジプトのサッカー・プレミアム・リーグの強豪アル・ザマレクが本拠地とするスタジアムもある。
テロ事件が起きたのは、ゲジラ島に渡る「5月15日橋」の上だった。 20年も前のことになってしまうが、この近くのザマレク地区に3年間住んでいた。
この橋は散歩コースだったし、カイロの他の地域に行くときは車で必ず渡った。 そばには「トーマス」というピザ屋があった。 店内の窯で焼く店で、日本の宅配ピザとは比べ物にならない味だった。 今でもあるのだろうか。 冬には、ゲジラ島から橋を渡ったあたりに、石焼き芋の屋台が出ていた。 種子島の安納芋そっくりのねっとりした舌触りだった。
世の中の出来事を身近に感じるということは、距離の近さだけではない。知り合いが関わっているとか、自分に馴染みの場所とか、人それぞれ様々な理由がある。 これまでだって、友人が飛行機事故で死んだり、インタビューした政治指導者が暗殺されたり、一緒に酒を飲んだ芸術家が逮捕された。 だが、そういう直接的関わりだけではない。 インターネットやメディアの発達で、世界がどんどん狭くなり、身近になっていく。
今回のカイロの事件にしても、発生からさしたる時間を経ずに日本で報じられた。 パソコンを開くと、現場がピンポイントでわかり、生々しい写真や動画を見ることができた。
カイロを離れて20年という時間はどこへ行ってしまったのか。 桜が散り始めた長閑な東京で暮らしながら、テロの不安が広がるカイロの埃っぽい騒音の道路で火薬の臭いを嗅いでいる。 これは、現実なのかバーチャルなのか。
2015年4月2日木曜日
独裁者リークアンユーの死
シンガポールの元首相リークアンユーが3月23日、91歳で死んだ。 日本でずっと「淡路島程度の大きさ」と言われていた小さな熱帯の島に、着実な経済発展で近代的都市国家を作り上げた男だ。
東南アジア諸国の都会はいずれも、この30年ほどで大きな変化を遂げたが、シンガポールには敵わない。 ここでは、アジアの大都会ではどこでも見られるスラムが目に入らない。 しつこい物乞いにまとわりつかれることもない。 高層ビル群と小奇麗な街並み。 歩道は東京より清潔かもしれない。 外国人観光客は、安全に歩き回り、しゃれたレストランで食事をし、世界の一流品のショッピングを楽しめる。
これが、リークアンユーの作った国だ。
彼の死去のニュースとともに、メディアには、その偉業を称える論調が溢れた。 政治的安定の維持による経済発展の実現。 だが、その同じ理由で、この人物を好きになることはできない。
ベトナム戦争終結(1975年)以降、東南アジアの反共国家は共産主義のドミノに怯えた。 対抗手段は、経済発展実現による共産主義の浸透防止。 経済発展の基礎は政治的安定。 そのためには政府批判の口封じが必要だ。こうして、ASEAN型開発独裁が確立していった。
国民の不平不満を力で黙らせて、安定を作り、日本を筆頭とした外資を呼び込み、それを原動力に経済開発を進める。 この開発モデルの最優等生がシンガポールというわけだ。 いや、リークアンユーと言うべきだろう。 なぜなら、シンガポールという都市国家は、リーが植木バサミで丹念に剪定して形作った盆栽のようなものだからだ。
喫煙者が世の中でまだ後ろ指をさされなかった時代から、シンガポールでは路上喫煙が制限された。 横断歩道のないところを歩くことも禁止された。 政治活動ばかりでなく、だらしない日常生活も規制された。 いらない枝はちょん切られるのだ。
どんなに快適でも、権力に生活を管理されるのは息詰まる。 経済発展を成し遂げても、それは一体、何のための豊かさなのか。
シンガポール国家とジョージ・オーウェルの「1984年」に描かれた管理国家の恐怖が重なる。
あの経済的成功を実現したリークアンユーが卓越した政治家であるのは間違いない。 だが、彼が人間の尊厳、自由ということを理解していたかどうかは、わからない。
2015年3月31日火曜日
多摩川河川敷の無法者たち
おそらく年齢は、おおむね70歳以上だと思う。 多摩川河川敷の広々とした緑は、散歩やジョギング、ピクニック、昼寝、なんでもできる快適な空間だ。
ここに頻繁に現われる無法者がいる。 臆面もなく、禁止されているゴルフの練習をする年寄りたちだ。 広いグリーンを前にすると、クラブを振って、ボールを飛ばしたくなる気持ちもわからないではない。 だが、小さな子どもたちも遊んでいる。 明らかに危険だ。 それに、クラブで削られた芝生は実に痛々しい。
無法者たちの中に、なぜか中年以下の”若い”世代はいない。 年寄りばかりなのだ。 何度か注意、というか文句を言ってみたことがある。 「ゴルフ禁止の看板が見えないのか」「日本語を読めないのか」「外国人か」etc・・・。
まず効き目はない。 平気で無視してゴルフを続ける。 こちらの態度も悪いが。
だが、きょうは痛快だった。
「ゴルフ禁止」の立て札の前に堂々と自転車を停めて、クラブを振り回す年寄りと出くわした。 さすがに無視できなくて、「看板を見ろ」と怒鳴りつけたが、案の定、無視された。
ふと思いついて、100メートルほど離れたところで、地べたに落ちていた石ころを拾い、携帯電話を持っているふりをして、大げさな身振りで、交番の方やゴルフじじいの方を指さし、まるで携帯で無法者の存在と場所を説明しているかのようなジェスチャーをしばらく続けた。 それから交番の方へ、警察官が向かっているのが見えたかのように大きく手を振りながら走っていった。
走りながら、じじいの方を振り返ると、あわてて自転車に乗っているのが見えた。 しめしめ。
面白かったから、またやってみたい。 だが、同情はしたくないが、老人たちの無法ぶりには、なにか解き明かさねばならない問題があるように思える。
彼らはゴルフをやるくらいだから貧しくはないだろう。 近くにゴルフ練習場はいくつもある。 スポーツをやりたいなら、ゲートボール場もあるし、ジョギングをしている老人だって沢山いる。 なぜ無法ゴルフにこだわるのか。 彼らのこころの中にいびつに歪んだ部分があるような気がしてならない。 こちらも年寄りにからむヘンジンではあるが。
2015年3月12日木曜日
2015年2月1日日曜日
危険地帯に行くのは記者の仕事だ
ジャーナリスト後藤健二が無惨に殺されたことが明らかになった現時点では注目されないかもしれない。 だが、読売新聞の2015年1月31日付け夕刊社会面が、「イスラム過激派組織『イスラム国』とみられるグループによる日本人人質事件で、外務省が避難するよう求めているシリア国内に、朝日新聞の複数の記者が入っていたことが分かった」と報じたことが気になっている。
日本の報道機関が日本の報道機関の取材行動を報じるのは、非常に珍しい。 単に日本外務省が日本国民に退避勧告をしている地域に取材に入ったというだけでニュースとして報じたのは、おそらく日本の報道史上初めてであろう。 なぜなら、かつては、外務省の退避勧告を気にする報道メディアや記者など存在しなかったからだ。
朝日新聞記者がシリアに取材に行ったことが、なぜニュースなのか理解に苦しむが、記事の書き方は非難がましい。 それでは、なぜ非難がましいのかというと、その理由は説明していない。
いったい何を非難しているのだろうか。
第1に、「イスラム国」の人質になった湯川遥菜や後藤健二は、外務省が危険だから行くなというようなところに行ったのが悪いのだ、と言っているように受け取れなくもない。
第2に、新聞記者は外務省の言うことに従え、という主張と思える。
どちらにしても、権力から独立した立場であるべき報道メディアとしては許されない態度だ。
日本の新聞やテレビの大手メディアの正社員記者は、1991年の湾岸戦争以来、危険地帯に入る取材をしなくなった。 記者が事件・事故に遭遇した場合の責任を回避しようとする会社論理で、危険な現場に接近しようとする記者の行動を制御するようになったためだ。 大手メディアはある種の協定で日本新聞協会を通じ、記者が危険地帯に入ることを横並びで制止するようになった。
これによって、大手メディア記者たちは、去勢されたとまでは言わないが、無難な仕事以上の取材には手を出さないサラリーマン化を強いられた。 それによって、フリーのジャーナリストたちには仕事スペースが増えたという利点はあったが。
それ以前の記者たちはどうだったかというと、冒険談には事欠かない。 何回かの中東戦争、イラン・イラク戦争、ボスニア内戦、アフガニスタン内戦、カンボジアやベトナムのインドネシア戦争、フィリピン南部の内戦…。
記者たちは東京本社の意向などに関わりなく、ジャーナリストの本能のままに危険地帯に飛び込み、自己責任で命を守ってきた。 もちろん、運悪く死んだ記者もいた。
当時、(そして、おそらく今も)外務省が退避勧告を出しているような国で、かろうじて維持している大使館に篭っている日本の小役人外交官は、記者が顔を出すとこわばった顔で「さっさと出国してくれ」と言ったものだ。
だが、記者たちは危険だから行き、大使館に篭った外交官が見たり知ったりできない現実を伝えようとした。 それが、記者の醍醐味であり、きれいごとで言えば使命だった。
朝日記者のシリア取材を伝える読売の記事は、こういった記者の本来あるべき姿を否定し、政府の言いなりになるのが正しいと主張しているのか。 ジャーナリズムの自殺、終焉ではないか。
そうではなく、単に朝日にシリア取材の先を越された腹いせという子どもじみた嫌がらせにすぎなかったというなら、笑ってすませるのだが。
2015年1月21日水曜日
「イスラム国」報道の舞台裏
イスラム過激組織「イスラム国」が、日本人男性2人を人質に、日本政府に対し2億ドル、日本円で約236億円という、とてつもない額の身代金を要求し、日本の政府もメディアもあたふたしている。(2015年1月20日)
イスラム世界の専門家の数は日本では限られている。 なおかつ、接触が困難な過激組織について語るとなると一握りの人々しかいない。 それでも、メディアはあらん限りの情報をかき集め、報道しようとする。 こうして、普段は日本社会でほとんど関心を持たれない分野の研究者たちが、大騒ぎの渦に巻き込まれる。
その一人がブログで、メディアに対する腹立たしさをぶつけている。 若い研究者として、ここ数年メディアへの露出度が高い東京大学准教授・池内恵だ。 かなり生意気で横柄な表現だ。 だが、そこから、彼の高ぶる感情が伝わってきて、メディアの現状を知る上で興味深い。
保存資料として、転載した。
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「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ
2015/01/20 20:55
本日、シリアの「イスラーム国」による日本人人質殺害予告に関して、多くのお問い合わせを頂いていますが、国外での学会発表から帰国した翌日でもあり、研究や授業や大学事務で日程が完全に詰まっていることから、多くの場合はお返事もできていません。
本日は研究室で、授業の準備や締めくくり、膨大な文部事務作業、そして次の学術書のための最終段階の打ち合わせ等の重要日程をこなしており、その間にかかってきたメディアへの対応でも、かなりこれらの重要な用務が阻害されました。
これらの現在行っている研究作業は、現在だけでなく次に起こってくる事象について、適切で根拠のある判断を下すために不可欠なものです。ですので、仕事場に電話をかけ、「答えるのが当然」という態度で取材を行う記者に対しては、単に答えないだけではなく、必要な対抗措置を講じます。私自身と、私の文章を必要とする読者の利益を損ねているからです。
「イスラーム国」による人質殺害要求の手法やその背後の論理、意図した目的、結果として達成される可能性がある目的等については、既に発売されている(奥付の日付は1月20日)『イスラーム国の衝撃』で詳細に分析してあります。
私が電話やメールで逐一回答しなくても、この本からの引用であることを明記・発言して引用するのであれば、適法な引用です。「無断」で引用してもいいのですが「明示せず」に引用すれば盗用です。
このことすらわからないメディア産業従事者やコメンテーターが存在していることは残念ですが、盗用されるならまだましで、完全に間違ったことを言っている人が多く出てきますので、社会教育はしばしば徒労に感じます。
そもそも「イスラーム国」がなぜ台頭したのか、何を目的に、どのような理念に基づいているのかは、『イスラーム国の衝撃』の全体で取り上げています。
下記に今回の人質殺害予告映像と、それに対する日本の反応の問題に、直接関係する部分を幾つか挙げておきます。
(以下省略)
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2015年1月19日月曜日
推理小説に学ぶジャーナリズム
(主人公キンジーの住むサンタ・テレサのモデルとなったサンタバーバラの街並み) |
カリフォルニアの女探偵キンジー・ミルホーンを主人公にしたスー・グラフトンの推理小説シリーズ。 1982年出版の「 "A" Is for Alibi」(日本語版「アリバイのA」ハヤカワ・ミステリ文庫)に始まり、アルファベット順に続き、最新は2013年出版の「"W" Is for Wasted」。 著者のグラフトンは現在74歳。 あと10年かそこらで、なんとか最後の”Z”まで辿り着いてほしい。 日本語版は2004年出版の「"R" Is for Ricochet」(日本語題名「ロマンスのR」)まで出版されている。
主人公キンジーはロサンゼルス北方の町”サンタ・テレサ”に小さな探偵事務所を構える30代前半の離婚経験者で独身。 大きくはない町が舞台なので、FBIとかCIAが登場するような派手なストーリー展開はない。 むしろ、話はだらだらと続く。 とにかく、本筋とは関係なく不要と思われる情景描写がやたらと多い小説なのだ。 そういう部分を削れば、ページ数は20%くらいは縮小できるだろう。
だが、このシリーズは、独身女キンジーの日常生活を織り交ぜながら、どうでもいいディテールがだらだらと続くところに、じんわりと病み付きになる妙な魅力があるのだ。
例えば、こんな具合だ。 「死体のC」(ハヤカワ・ミステリ文庫1982年)で、キンジーが主要登場人物の一人とたまたま入ったモーテルのバー。
「店内は細長くてうす暗く、バー・ミラーやずらり並んだ酒瓶、ビールのネオンサインのあるはずのところに、バナナ農園の立体ジオラマが作られ、照明をあてた舞台に見立てて、そのうえに模型のバナナのなったヤシの木々が等間隔に飾られ、ちいさな機械仕掛けの人形たちが、いっせいにバナナの収穫作業にとりかかろうとしていた。 人形たちはみなメキシコ人で、零時の合図とともに、水樽とひしゃくをもった女が現われ、木によじのぼった男が手をふり、ちっぽけな木の犬が尻尾をふりふり吠えだした。」
キンジーが聞き込み調査のため飛び込みで訪れた男の家では―。
「キッチンは三十年前のリノリウムの床で、キャビネットはショッキングピンクに塗られている。 旧式の台所器具がならんでいる様子は<レディース・ホーム・ジャーナル>の古いグラビアを見ているようだ。 すみには朝食用の小さな作りつけのコーナーがあり、ベンチには新聞が山と積まれ、細長いテーブルのうえには砂糖壷、ペーパー・ナプキン・ディスペンサー、アヒルの形をした塩と胡椒の容器、カラシ入れ、ケチャップ瓶、A-Ⅰソースの瓶がところせましと出しっぱなしになっている。 彼が言っていたとおり、作りかけのサンドウィッチもおいてある―プロセスチーズのスライスに、オリーブとなんの動物の肉だかわからない塊をまぜたランチミートが中身らしい。」
モーテルのバーは、本筋に関わる現場でも何でもない。 あくまでも、たまたま入った店だ。 男の家のキッチンもしかり。 そもそも、この男に会って、ストーリーを前進させるような情報が得られたわけでもなく、キンジーにとって無駄足の訪問だった。
「悪意のM」(早川書房1997年)には、自宅の居間に寝ている恋人ディーツを早朝起こさないように、キンジーがジョギングにでかけるところがある。
「音をたてないようにドアを閉めて朝の沐浴をした。 靴を手に持ち、ソックスをはいた足で階段を下り、忍び足で外に出た。 靴をはき、簡単なストレッチ体操をし、ウォーミング・アップに早足でスタートした。 夜空は真っ暗から濃い灰色に変わっていて、カバナに着くころには空が白みはじめていた。 夜明けは大きなカンヴァスを淡い水彩のような色合いに染めた。 海はシルヴァー・ブルーで、空はスモーキー・モーヴとソフト・ピーチが混じり合っていた。 油井が虹色のスパンコールの塊のように水平線上に点在している。 私はこの時刻の波音が好きだった。」
「悪意のM」でも、本筋からすれば、恋人ディーツもジョギングも、外に忍び足で出ることも、まあ、どうでもいいことだ。
このシリーズは、主人公キンジーの生活ぶり、日常の不平不満や人間関係、食べ物の好み、人格のすべてをさらけ出し、そこに事件を、というより「事件も」織り交ぜていく。
例えていえば、近ごろ人気のウエアラブルのカメラを主人公キンジーのおでこに装着して撮り続けた動画を、編集カットなしで見るような小説。
だが、この「無駄だらけ」が、キンジーを身近にいる友人のように思わせる現実感へと読者を引き込む。 つまり、ストーリーが無駄なく、きちんと整理された小説の登場人物と異なり、わき見をし、横道にそれてしまう生身の人間が描かれていると感じさせるのだ。
だが、著者のスー・グラフトンは「無駄」を描くために、物凄いエネルギーを費やしたはずだ。 ジャーナリストとして、具体的で詳細な描写を読むと、取材にかかった時間を考えてしまい、気が遠くなる。
例えば、キンジーが入ったバーに設えてあったメキシコ人形の仕掛け。 普通のジャーナリストが同じ場所を描けば、薄暗いバーというだけで人形の仕掛けなどは無視したかもしれない。 もし描写するとなれば、じっくりと観察してメモをするかカメラに収めるという手間がかかるからだ。
だが、詳細で客観的な観察こそが事実を伝える。 そういう事実の積み重ねが真実を語る。 グラフトンの「無駄」の描写に太刀打ちできるだけの細かな情報を取材できる観察力を持つ。 それは、ジャーナリストのひとつの目標になりうるだろう。
とはいえ、毎日締め切り時間に追われる新聞記者には、そんな手間隙はかけられない。 真実からどんどん遠ざかろうとも。
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