新聞に出ていた旅行社の広告で、山口県の萩温泉3泊4日3万円という格安ツアーをみつけた。 東京からの飛行機代も含まれるから、すごい安さだ。 山陰地方には行ったことがなかったので、躊躇なく申し込んだ。
羽田から島根県の萩・石見空港に飛び、空港からレンタカーで旅を始めた。 津和野、萩、秋芳洞といったところを4日間でまわった。 東京近辺にはない静かに落ち着いた地域の雰囲気を3万円で味わえたのは儲けものだった。
ただ、この小旅行で最も印象的だったのは、日本のキリスト教弾圧史の一端を教えてもらったことだった。 こんなことも知らなかったのか、と惨めな気持ちにもさせられたといったところか。
以下は、津和野の「津和野カトリック教会」に展示されていた資料を書き写したものだ。
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1 キリスト教が禁止される
フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリストの福音を伝えてから65年後、キリスト教徒の数は30万人に達していました。 ところが、1614年に徳川幕府初代将軍家康はキリスト教を禁止し、すべての宣教師を国外に追放しました。
「おまえたちは間違った宗教を教えている。天照大神と天皇が神ではないと言っている。キリスト教は日本の宗教ではない。直ちに日本を去れ。日本人は皆、この邪教を捨てなければならない」
しかし、神父の中には日本にとどまり、密かに宣教活動を続けた者もいたので、キリスト教はなおも広がり続けました。 「天と地の造り主とその御子イエス・キリストだけが神なのです。決して異国の神ではありません。世界中の人々の神なのです」
2 恐ろしい迫害
3代将軍徳川家光(1623~1651)は、キリスト教を日本から消し去ってしまおうと決心しました。 将軍は、ありとあらゆる残酷な拷問によって、何千人ものキリスト教徒を苦しめ、迫害しました。 拷問に耐え切れず、大勢のキリスト教徒が信仰を捨てました。 また、山奥や人里離れたところに身を隠した者もたくさんいました。
日本はついに1639年に国を閉ざしてしまい、宣教師が入国できなくなりました。日本に入ることも日本から出ることもできなくなったのです。 こうして鎖国時代が始まり、250年間続きました。 日本中の村という村では、キリスト教禁止と、隠れキリシタンをみつけたものには褒美が与えられると書かれた高札が掲げられました。
3 浦上の隠れキリシタン
鎖国時代、現在の長崎県の浦上のような小さな村々では、隠れキリシタンたちが、キリストへの信仰を守りとおすために力のかぎりを尽くしました。 聖書も、教会も、ミサもなく、司祭もいないので、それは困難を極める歩みでした。 みつかれば、投獄、拷問、そして死さえ覚悟しなければなりません。
「神父様がいてくれたら…。ミサにあずかりたい。キリスト様が今、ここに来てくださらないものか」 「神父様はきっとまた来てくださるとも」 「そうだ。最後に来てくださった神父様が約束なさったではないか。いつかまた神父様の来られる日が必ず来ると…」
4 信仰を育む
十字架や聖人の絵や像を家に持つことは禁じられました。 キリシタンたちは表向きは阿弥陀観音像を祭りましたが、それをマリア観音と称し、その像の裏に十字架を刻んだりしました。 また密かに集まって、一緒にロザリオの祈りを唱えたりしていました。
それぞれの村では、信仰を伝えていくための組織ができあがりました。 張方(指導者)は教会暦を伝え、教え方(先生)は祈りや大切な教えを伝え、聞き方(伝令)は各家に教会の祝日や断食の日を伝え、水方は赤子に洗礼をさずけたり、また若い後継者に水方の仕事を伝えていきました。
5 黒船の到来
ロシアやアメリカの捕鯨船は、水や食料、燃料を補給するために北海道への寄港を望みましたが、許されていませんでした。 そこでアメリカのペリーは、1854年に海軍を率いて日本に開国を迫りました。 1858年7月にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが通商条約を結ぶためにやってきました。
「ハリス領事様、幕府はアメリカ船が江戸、大阪、兵庫、新潟、神奈川の港に寄港することを認めます」 「それに加えて、わが国の外交官が江戸に滞在することも認めていただかねばなりません」 「承知しました」 「また外交官とその家族のために、神父が滞在することも認めていただきたい」 「よろしい。しかし日本人にキリスト教を宣教することはなりません」
6 カトリック教会の建設
まもなく、英国、ロシア、オランダ、フランスも日本と通商条約を結びました。 このようにして、鎖国時代は終わりを告げました。
鎖国時代が解かれ、外国人が入国を許されるようになっても、キリスト教は相変わらず禁止され、みつかれば死罪になりました。 江戸時代末にフランスは幕府に、フランス人のために教会を建てることを願い出ました。 許可が下り、1862年横浜に初めてキリスト教の教会が建てられました。 物見高い民衆は、「フランス寺」が建つのを一目見ようと集まってきました。 だが一人として教会に近付こうとしませんでした。
7 キリシタンの発見
長崎には1865年、大浦に天主堂が完成し、献堂から1か月たった3月17日、浦上の隠れキリシタンの一団が天主堂を訪れました。 人目をしのぶようにそっとやって来ると、お祈りをしていたプチジャン神父に近付き、たずねました。 「サンタ・マリア様の像はどこ?」 プチジャン神父は、祭壇わきに安置されている聖母マリア像を指さしました。 彼らは互いに顔を見合わせ、あふれるほどの喜びを表しました。
「本当にサンタ・マリア様じゃ、ほら幼子のイエス様を抱いておられる。 神父様、わたしどもはあなた様と同じ心でございます」 「わたしどもの村に住む者のほとんどもキリシタンでございます」
これを聞いたプチジャン神父の心は感謝と喜びでいっぱいでした。 250年以上の間、みつかれば死罪になる危険を冒して、信仰を守りとおしたのです。 聖書も神父もミサもない状況の中で、イエス・キリストへの信仰が受け継がれていたのでした。
8 待ち受ける迫害
長い鎖国時代を通して、浦上のキリシタンは3度にわたり捜査、迫害を受けました。 1790年、1840年、1856年の3回です。 そのため、宣教師たちはきわめて慎重に行動しました。 しかし、あるキリシタンの女性が亡くなったとき、遺族は仏教による葬儀を拒否し、僧侶を呼びませんでした。 「わたしどもはこれからもお上に忠実に従いますが、今後お寺さんのお世話にはなりません」
「今後、お寺と関わりたくない者をとりまとめ、名簿を差し出せ」 そこで700名の名簿を差し出したところ、役人の頭は大いに腹を立てましたが、そのときは何の処罰もありませんでした。
9 浦上に手入れ
1867年7月14日深夜、突然、300人ほどの警吏が浦上の谷一帯を手入れし、68人のキリシタンが逮捕されました。 結局、83人が投獄され、信仰を捨てさせる目的で厳しい拷問にかけられました。 その1人というのは、年老いた百姓の高木仙右衛門でした。
「みんな転んだぞ。なぜおまえは意地を張るのだ」 「信心を捨てることは、神様からいただいた魂にとっても、神様に対しても、この上ない不幸を働くことですから、申し訳ありませんが改宗はできません。100人の仲間がいるから強いとか、1人になったから弱くなるということはありません。私1人になっても、本来の心は消えません」 「ならばもう改心せよとは言わぬ。おまえは、たとえ最後の1人となろうとも主人に仕えるという真の武士の魂を持っておる。帰ってもよろしい」
仙右衛門が帰ると、他の者たちがたずねました。 「よくもあんな厳しい拷問に耐えられたものだな」 仙衛右門は答えました。 「私は自分がそれほど強くないことを知っています。だから聖霊に祈って助けを求めました」
そこで他の者たちも祈ってから役人のところへ行きました。 「私どもは教えを捨てたことを取り消します。 私どもは今でもキリシタンです」
「江戸の決定を待て」と言われました。
10 東京における決定
264年続いた徳川幕府は力を失い、とうとう1867年11月に最後の将軍が退位しました。 天皇が復権し、1868年1月1日、明治時代が正式に始まりました。 しかし、キリスト教は相変わらず死罪に当たる邪教として禁じられ、さらに多くのキリシタンがみつかりました。 その後は浦上だけでも3000人を超えました。
「この邪教の信者をどのように扱えばよいのだろうか」 「法律に従って処分すべきだ。死刑にしてしまえ」 「たかが3000人だ。目をつぶってもよいではないか」
そして、津和野の亀井藩は1つの妥協案を出しました。 「その3000人を少人数に分け、それぞれを各地に分散させてはどうだろうか」 「それは良い考えだ。少人数に分けられ、故郷から遠くへ流されたら、きっと異国の宗教を捨てるにちがいない」
このようにして浦上の信者3000人は20組に分けられ、各地に送られたのでした。
11 津和野へ
高木仙右衛門と守山甚三郎を含む28人のキリシタンは、中国山地の奥深くにある津和野に流されました。 彼らは、使われなくなった寺に閉じ込められ、しつこく説得されました。 亀井藩士盛岡は甚三郎に言いました。
「われわれは目に見える太陽を拝む。太陽は道を照らし世を明るくする。おまえたちは、なぜ目に見えない神を拝むのだ。そのようなばかげたことをやめ、神道を信じなさい」
「お役人様、おわかりいただけるかどうかわかりませんが、たとえばあなた様が御用のため遠い田舎につかわされたとしましょう。用を終え帰路につきましたが、日はどっぷりと暮れ、あたりも暗くなってきました。田舎道で3歩先も見えません。1人の百姓があなたの困り果てている様子を見て、明かりをともして言いました。『どうぞこの明かりで道を照らしなさいませ』 明かりのおかげであなたは無事家にたどり着くことができました。さてあなたは明かりを台座に置き、明かりに感謝し、明かりを拝むでしょうか。むしろ明かりを貸してくれた百姓に感謝するのではないでしょうか。あなたは私に道を照らしてくれる太陽を拝めとおっしゃる。しかしわれわれキリスト教徒は太陽を造り、これを大空にすえて世を照らしてくださる神に感謝し、神を拝むのです」
「牢屋に戻れ。この愚かな百姓め」
12 水と火の試練
牢屋がわりのお寺の裏には、深さが1mはある池がありました。 その年の冬は、1か月以上もの間雪が降り続いたので、池には氷が張り、雪が積もっていました。 そんな日に役人の盛岡は、信者の主要人物2人を丸裸にして、氷の張った池に投げ込みました。 寒さにふるえ、息もできずにあえぎながら、仙右衛門と甚三郎は主の祈りを唱え、「主よ、おささげします…」と祈り始めました。 役人たちは冷たい水を彼らに頭から浴びせました。 年長の仙右衛門がいよいよ力を失い、池に沈みそうになると、役人たちは竹の先につけたかぎで髪の毛を引っかけて、2人を池から引き上げました。 そして「おまえたち、さぞ寒かろう」とからかいながら、彼らを火であぶりました。 半死半生の状態で彼らは牢屋に戻されました。
後に、甚三郎は「あの時の水と火で責められたことほど苦しかったことはない」と書いています。
13 最初の殉教者、和三郎
役人たちはキリシタンをいくら説得しても、信仰を捨てさせることができませんでした。 それで彼らはますます強硬な態度で信者たちを責めました。 食料を減らされ、秋が来て、冬が近付いても、夏用の薄手の着物のままでした。 そのため体がどんどん衰弱し、16人が信仰を捨てましたが、他の者は踏み止まりました。 役人たちはさらに残酷な三尺牢という拷問を考えつきました。
この悪名高い牢屋は、たて横約1mで、正面に格子がはまっている頑丈な作りの箱です。 キリシタンはこの箱に1人ずつ閉じ込められ、雨ざらしのまま寒さと飢えと孤独に耐えなければなりません。 その中に閉じ込められているかぎり、横になることも立ち上がることもできません。 食事は1日におにぎりたった2つです。
この三尺牢に最初に閉じ込められた1人が27歳の和三郎でした。 彼は20日間閉じ込められ、衰弱して1868年10月9日に亡くなりました。 最初の殉教者になったのです。
14 安太郎と聖母
キリシタンの中に30歳になる安太郎という青年がいました。 彼は物静かでしたが、明るく、心の広い人でした。 わずかな食物をほかの人と分かち合い、人のいちばん嫌がる仕事をひきうけたものでした。
その年の冬、安太郎は三尺牢に入れられました。 2,3日たった日の夜に、仙右衛門と甚三郎はお寺の床を破り、こっそりと抜け出して安太郎の様子をうかがいにやってきました。 「寂しくないか」
「いいやちっとも寂しくなんかありません。毎晩、真夜中になると美しい婦人が来て、すばらしい話をしてくださいます。青い服を身にまとい、まるで長崎の教会にあるサンタ・マリア様の像のようなおかたです。しかし、このことは私が生きている間は誰にも言わないでください」
「もしおまえのお母様にお会いすることができれば、何と言えばよいだろうか」
「この三尺牢は十字架だと思います。母に伝えてください。ここでイエス様のために、またイエス様とともに死ねるのは私にとってこの上ない幸せですと」
2人は密かに寺に帰り、マリア様が安太郎に現れたことをすぐ皆に伝えました。 皆は、このことを聞いて勇気づけられました。 数日後、雪に埋もれた三尺牢の中で安太郎は死んでいました。
15 流刑の仲間たち
1870年、女性と子どもを含む浦上キリシタン最後の一行が各地に送られました。 津和野にはそのうちの125人が送られましたが、その中には甚三郎の父と姉のマツと2人の弟がいました。 後から来た者たちを収容するために仙右衛門と仲間たちは他の場所に移されました。 甚三郎は考えました。 「役人たちは新しく来た者たちに、われわれがキリストへの信仰を捨てたと言うに違いない。彼らが騙されないようにしておかないといけない」 そこで彼は炭を砕いて粉にし、さらに唾でこねて墨を作って書きました。 「われわれはキリストへの信仰を捨ててはいません。皆さんも踏み止まってください」 彼はそれを便所に隠しておきました。
本当にその通りでした。役人たちは新たに連れてこられた者に言いました。「前に来た者は皆改心したぞ、おまえたちもそうする方が利口だぞ」 それを聞いて彼らは皆動揺しましたが、マツが弟甚三郎の残した書き付けをみつけて皆に告げると、動揺はいっぺんに喜びに変わりました。
16 新しい作戦
その年の冬の寒さはことのほか厳しく、飢えのために多くの人が亡くなりました。 3歳の清次郎が明くる1871年1月23日に亡くなり、この年の最初の犠牲者となりました。 11月24日までにはさらに多くの犠牲者が出ました。
亀井藩士盛岡は、指導者の甚三郎さえ信仰を捨てさせることができれば、あとの者も彼に続くだろうと考えました。 水や火で責め立てても信仰を捨てさせられないとわかると、盛岡は新たな方法を思いつきました。 「彼には14歳の弟祐次郎がいる。弟思いの甚三郎が信仰を捨てるまで祐次郎を苦しめてやろう」
そこで11月の初めに盛岡は祐次郎を裸にし、道端に立てた十字架にくくりつけました。 村人たちがやって来てからかい、竹の棒でつつきました。 「キリストを捨てろ。このキリシタンのばか者め」 しかし、祐次郎はいつもただ一言答えるだけでした。 「いやです」
17 祐次郎の試練
それから盛岡は祐次郎を十字架から降ろさせ、お寺の縁側に座らせました。 服をはぎ、柱に縛りつけ、容赦なく鞭で打ちました。 うめき声と泣き声が祐次郎の口からもれましたが、「キリストを捨てろ」と迫る役人たちに対しては、いつも「いや、捨てません」と答えました。
まる2週間、祐次郎は飢えと寒さと容赦ない鞭打ちに耐えました。 体はあざだらけになり、死の近いことがわかりました。 盛岡は少年が死んでしまうのではないかと心配になり、後悔の念におそわれました。
「自分は、はたしてこれで人間だろうか。武士だろうか。幼い子どもをこれほどまでの拷問にかけるとは」
そこで彼は少年を解放し、姉マツのもとへ返しました。
18 祐次郎の死
姉の腕の中で目覚めた祐次郎は、わびて言いました。 「私は臆病者でした。 泣き声をあげるつもりはなかったのだけれど」 「いいんだよ。とてもつらかったんだね」
「最初はとてもつらかった。でも、8日目に一心に祈っていると、小さなすずめが屋根の上にいるのが見えました。その小さなすずめも泣いていました。そのとき母鳥がやって来てえさを与えました。それを見て思いました。すずめでもわが子の世話をするのであれば、天の父が私の世話をしてくださらないわけがない。マリアさまはきっと私を天国に連れて行ってくださいます。そうとわかってからは、私は泣きませんでした」
11月26日に祐次郎は亡くなりました。 幼い殉教者でした。
19 モリちゃん
子どもたちは外で遊ぶことが許されていました。 ある日のこと、モリちゃんという小さな女の子のお母さんが牢屋の窓からながめていると、体の大きな番人がモリちゃんに近付いて行きました。 番人は手においしそうなお菓子を持っています。
「こんにちは、名前はなんて言うのかね。年はいくつ」「モリというの。5歳」「お腹がすいているだろう。モリちゃん。おいしいお菓子があるよ。イエス様なんて大嫌いと言えばこれをあげるよ」
お母さんは、モリちゃんが何と答えるか、はらはらしながら様子をうかがっていました。
「そんな悪いことは言えないわ。私はイエス様が大好きよ。私は天国へ行きたいの。天国のお菓子はずっとおいしいんだから」 モリちゃんはお菓子の誘惑にまけませんでした。 2,3週間後、飢えのために体が弱って熱を出し、モリちゃんは死んでしまいました。
20 転んだ人々
飢えと寒さは次第にキリシタンたちの力を奪っていきました。 まもなく54人が音を上げ、改宗すると申し出ました。 彼らは山から町に降りることを許され、暖かい服と十分な食べ物を与えられました。 しかし、決して心からキリスト教を捨てたわけではありませんでした。 自分の弱さを悔やみ、なんとか償いをしようと思って、たびたび仲間のいるお寺に夜こっそりとご飯を差し入れに行きました。
迫害が終わるまでに36人が殉教し、54人が少なくとも形の上では教えを捨て、63人が信仰を守り抜きました。
21 迫害の終わり
諸外国に日本のキリシタン迫害の様子が広く知られるようになると、外国政府は日本政府に、文明の名において迫害をやめるように圧力をかけました。
また、日本は鎖国によって250年も欧米に遅れをとっていたので、日本政府は伊藤博文、岩倉具視ら有力政治家をヨーロッパとアメリカに派遣しました。 彼らは行く先々で、キリシタン迫害のゆえに野蛮人とののしられました。 そこで彼らは、「日本の国際的評判は地に落ちています」と書き送り、日本政府に迫害を直ちにやめるように働きかけました。ついに政府は「迫害を中止し、キリシタンを故郷に帰すように」という指令を出しました。
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東京に戻って、早速、図書館に行って、<日本史小百科「キリシタン」H・チースリク監修、太田淑子編(東京堂出版)>をみつけて読んだ。 浦上のキリシタンについても詳しかった。