1994年1月21日未明、シリアの首都ダマスカスは濃い霧に包まれていた。 郊外の国際空港へ向かう片側4車線のハイウェイの見通しもひどく悪かったが、1台のメルセデスが、無謀にも時速130キロ以上のスピードで突っ走っていた。 空港間近のロータリーに達したときだった。 メルセデスはカーブを曲がりきれず外壁に激突し、吹っ飛びながら何度も回転し、グシャグシャに大破した。 運転していた若い男は即死だった。
男はスポーツカーを飛ばすのが趣味のスピード狂で知られていた。 だが、それだけで有名だったのではない。 シリアの独裁大統領ハーフェズ・アサドの長男で、後継者と目されていた人物、バシール・アサド(当時31歳)だったのだ。
この突然の悲劇が、政治とは距離を置きロンドンで眼科医になるべく学んでいた二男バシャール・アサドが大統領に就任する道を開いた。
シリアという国家の独裁支配には、力の源泉となる軍の掌握が不可欠だ。 このため、当時は長男バシールに次ぐ後継候補は、軍人として正規の訓練を受けた四男マーヘルという見方が強かった。 だが、父ハーフェズは、”文人”の二男バシャールを選び、急きょ、ロンドンからダマスカスに呼び戻した。 一説には、直情径行で乱暴者のマーヘルに不安を感じたためだという。
ハーフェズが死んだのは、それから6年半後のことであった。 心臓に持病を持つハーフェズは自らの遠くない死を間違いなく意識していた。 こうして、バシャールを軍士官学校に入れ、大急ぎの帝王学教育が始められた。
2000年6月10日、中東アラブ世界を代表する独裁者として君臨したハーフェズ・アサドは死んだ。 そして、予定通り、バシャールが新大統領に就任した。
おっとりとした顔立ち、189センチの長身、英語を流暢に話しフランス語もこなす。 鉄の支配を続けた父のイメージとはがらりと変わり、ソフトな指導者の誕生に思えた。 当時のイスラム世界は、イランで「対話」を訴える大統領ハタミ、インドネシアでは「民主化」を象徴する大統領グスドゥールが就任し、新たな時代を感じさせる雰囲気があった。 そういう中で、バシャールにも改革への期待が持たれた。
実際、就任後すぐに報道規制の緩和など自由化方針が打ち出された。 だが、それは、ほんの数か月の非常に短い「シリアの春」で終った。
これは一体、何を意味するのか。
おそらく、四男マーヘルの存在がある。 大統領にはなれなかったが、共和国防衛隊、陸軍第4師団というエリート精鋭部隊の司令官になり、国内治安を取り仕切っていた。 兄で大統領といえども、重要な権力基盤を牛耳る弟には一目置かざるをえない。 自由化に危機感を抱いたマーヘルが締め付け緩和に待ったをかけたとの見方は広く信じられている。
バシャールとマーヘルの兄弟関係がどうなっているかは不明だが、誰でも父ハーフェズとその弟リファアトの関係を重ね合わせて見てしまう。
リファアトも兄の下で国内治安を担当した。 数万人の自国民を殺害したとされる有名な1982年ハマの大虐殺を指揮した張本人で、「ハマの屠殺人」と呼ばれている。
マーヘルは昨年(2011年)3月、「アラブの春」がシリアに飛び火して、ダマスカスの南ダラアで大規模な反政府抗議行動が起きたとき、第4師団を派遣して町に砲撃を加え、数十人の市民を殺した。
今年(2012年)になって、ダマスカスの東ホムスで拡大している抗議に対して、戦車を動員して激しい砲撃が加えられている。 これを指揮しているのもマーヘルだ。 すでに全国の死亡者数は7000人以上に達している。
この叔父と甥はあまりに似ている。 果たして、どこまで似ているのか。
この叔父と甥はあまりに似ている。 果たして、どこまで似ているのか。
1983年、リファアトは、ハーフェズが心臓病で入院したあと、軍を動員してクーデターを企てた。 内戦寸前の状態になったが、翌1984年3月にハーフェズが退院して職務に戻り、リファアトの目論見は失敗に終った。 だが、ハーフェズはリファアトを許しはしなかった。 名目だけの副大統領に祭り上げたあと、海外に追放した。
シリア国内では、マーヘルの野心はバシャールから大統領の座を奪うことだという噂がずっと流れているという。 これが本当なら、アサド家には骨肉の争いというDNAが埋め込まれているのだろう。
アサド・ファミリーの排除なしに、シリア国民のまともな未来はないように思える。 だが、かつて権力闘争に破れたリファアトという男には、そういう認識が完全に欠如している。 今、ロンドンの豪邸で生活し、現在の混乱がチャンスと見て、シリアへの返り咲きを画策している。 信じられないことだが、これが彼らの思考様式なのだ。
こうしているあいだにも、人がどんどん殺されている。 こんな血塗られた支配体制が許されていいわけがない。
0 件のコメント:
コメントを投稿