2012年2月27日月曜日

シリアのクルド人たち



              (クルド人地域=ピンク色の部分)

 国家を持たずに、人口で世界最大の少数民族クルド人。 正確な数字は不明だが、総数は3000万人ともいわれる。 トルコに1500万、イラクとイランに500万ずつ、シリアに200万が、4か国の国境をまたいで居住し、それぞれの国で、複雑な民族問題になっている。 人口が多いだけに、彼らの独立心が高まれば、国家基盤を揺るがしかねないからだ。

 「アラブの春」の反乱がシリアで勢いを増し、予断を許せない状況になっている。 この政治的、社会的に不安定な状況の下で、シリア人口の10%を占めるクルド人たちは、どう対応しているのだろうか。

 彼らの動向について、メディアはほとんど伝えていない。 だが、近い将来、独裁政権が倒れ、民主化が実現するなら、これまで抑圧されてきたクルド人たちは無視できない存在になるだろう。 サダム後のイラクでクルド人の発言力が高まったように、シリアでも政治を動かす新たな要因になるのは間違いない。 言葉を変えれば、クルド人を無視する民主化は、真の民主化とは言えない。

 実は、1年近く前に始まったシリアの反政府運動に前哨戦があったとすれば、それを演じたのは、人口の76%を占めるアラブ人ではなく、少数民族のクルド人だった。

 シリア北東部、トルコ国境に接する町カミシリ。 クルド人居住地域の中心地だ。 2004年3月12日、この町で、地元カミシリと近隣の町デリゾールのサッカー試合が行われた。 このとき、カミシリのクルド人サポーターとデリゾールのアラブ人サポーターが衝突し、血生臭い乱闘となった。 この結果13人が死亡した。

 騒ぎは、カミシリのあるハサカ県、さらにはシリア第2の都市アレッポ、首都ダマスカス近郊にも拡大し、大量の逮捕者が出た。 騒動は数日間におよび、アムネスティ・インターナショナルによれば、クルド人2000人が拘留され、この中には、女性、子どもも含まれていた。 また、多くのクルド人学生が大学から追放された。

 サッカー試合を契機に燃え広がった騒動だが、根底にあったのは、長年にわたる差別と抑圧で鬱積したクルド人の不満だった。 シリアのクルド人たちは、「クルドのインティファーダ(一斉蜂起)」として、この2004年の出来事を歴史に刻んでいる。

 少数民族として虐げられているクルド人だが、なかにはダマスカスなどの都会で成功している者もいる。 現大統領の父親ハフェズ・アサドの大統領時代にはクルド人の首相もいたし、国会議員や著名な芸術家もいる。 だが、大多数のクルド人はシリア北東部のトルコとイラクの国境に近い地域で、昔ながらの牧畜や農業で貧しい生活をおくっている。

 シリアのクルド人が政府から組織的差別・抑圧を受けるようになったのは、1963年のクーデターによるバース党独裁政権の誕生以降だ。 強いアラブ民族主義を党是とするバース党は、民族、言語などが異なるクルド人をアラブ民族主義の埒外に置いた。

 具体的には、1962年の国勢調査に基づき、1945年以前にシリア国民だったと証明できる者には市民権を付与し、それ以外は身分証明のない外国人ないしは無国籍者の範疇に入れられた。 市民権がなければ、土地、財産を所有できず、公務員にもなれない。大学の医学部、工学部への入学が禁止され、シリア人との結婚が許されない。 パスポートが取得できないので外国にも行けない。 現在、無国籍のクルド人は30万人とされる。

 1970年代には、トルコ、イラクとの国境付近にアラブ人の入植地が設けられた。 実際には、国境の向こう側のクルド人との団結を警戒する政治的意図に基づく”緩衝地帯”だった。 これによって、国境貿易で生計を立てていたクルド人の多くが地元を離れた。

 1991年には、第1次湾岸戦争の結果、サダム・フセイン政権が国際的に孤立し、イラク北部にクルド人自治が確立した。 当然、シリア指導部は自国内のクルド人が刺激を受け分離主義傾向を強めることを警戒した。 クルド人たちによれば、当局は国民の分割統治策を取った。 つまり、「クルド人はシリアからの分離・独立を画策する危険な連中だ」と宣伝し、アラブ系住民の危機感を煽ったという。 2004年のサッカー騒乱は、こうした虐げられた歴史の延長線上で起きた。

 シリア国内のクルド人は、トルコ、イラク、イランのクルド人のように、激しい反政府活動でニュースになることはなかった。 それだけに、当時、この出来事は驚きをもって受け取られた。 この騒乱は数日間で鎮圧されたが、反抗の火は消えたわけではなかった。 以降、反政府騒動は散発的ではあるが、ずっと継続していく(以下、Human Rights Watch 作成の年表より)。

 2005年6月5日/暗殺された聖職者の1周忌の行進がカミシリで行われ、治安当局は数十人を逮捕。

 2006年3月20日/アレッポでクルドの新年ノールーズの祭りに参加した数十人を治安当局が拘束。

 2006年12月10日/カミシリでクルド人の人権を訴えたデモ参加者を治安当局が襲う。

 2007年11月2日/トルコ軍によるイラク北部のクルド人攻撃に抗議するカミシリでの集会に治安部隊が発砲、1人が死亡、24人が重傷。 多数が逮捕される。

 2008年2月15日/トルコのクルド労働者党(PKK)指導者アブドゥラ・オジャラン逮捕9周年集会参加者多数逮捕。

 2008年3月20日/カミシリのノールーズ祭典で治安当局が発砲、3人が死亡。

 2008年11月2日/ダマスカスでクルド人の土地所有制限に抗議する国会前のデモ参加者200人が逮捕される。

 2009年3月12日/アレッポ大学で2004年事件記念集会、学生13人逮捕される。

 昨年2011年春、シリアで反政府運動が高まり始めたとき、クルド人たちは民主化運動のウォーミングアップを十分に終えていたと言えるかもしれない。

 注目すべきは、政府批判が高まって間もない4月17日に、唐突とも思える大統領令が発令されたことだ。 その内容は、クルド人10万人に市民権を付与するというものだ。 明らかな懐柔策だった。

 レバノンの新聞アルアクバルによると、それから5日後の4月22日、地中海に近いバニアスで行われた反政府デモに参加したクルド人のスローガンは、一般のシリア人には想定外のものだった。

 「クルド人の大義は市民権取得ではない、自由だ」

 彼らは長年渇望していた市民権取得の要求ではなく、シリア人としての民主国家実現を選んだのだ。 クルド人たちは、アサド独裁政権の終焉を嗅ぎとったのだろう。

 だが、クルド人とアラブ人の間に掘られた溝は深く、お互いの不信感がたやすく払拭されるとは思えない。 反独裁統一行動が民族を超えて結成されると甘い期待を持つことはできないだろう。

 イラク北部のドフク郊外には、シリアからのクルド難民のために、1000家族を収容できるキャンプができあがった。 ここに住んでいる難民の1人は、外国人記者に対し、独裁政権への恐怖よりも、アラブ人への不信感を強調していた。

 クルド人の目を通してシリアを見ると、この国の未来像の焦点はぼけ、何もかもが混沌としてくる。

2012年2月22日水曜日

タブノキを知っているかい?

 紙パック入りの日本酒と缶ビールを持って、友人と二人、神奈川県・大磯町の北部に”そそり立つ”標高168mの高麗山を目指した。 冬晴れ、伊豆半島から江ノ島、三浦半島、遠く房総半島まで見渡す絶景。 東海道線・大磯駅から登りはじめ、浅間山(181m)へ。 ここから尾根伝いに高麗山へ向かい、高来神社に降りる。
 アルコールを注入したのは浅間山頂上のベンチだった。 そのあと、ほろ酔い気分でチンタラと歩いているうちに、化け物が圧し掛かってくるような異様な枝ぶりの巨樹が目の前に立ちはだかっているのに気付いた。 太い腕を振り回している巨人にも見えた。 雑木林の中で、圧倒的なオーラを発していた。 この木は、いったい何だ!! 決して酔っていたからではない。 明らかに精霊が宿っているではないか。

 幹に下がっていた札には「タブノキ」と書いてあった。 タブノキの巨樹は、日本中の寺や神社で見ることができるし、日本アニミズムの典型的な信仰対象になっている。 無信仰の人間をも圧倒するパワーを発するのは当然だったのだ。

  <タブノキ> 分類 /: 植物界 Plantae : 被子植物門 Magnoliophyta : 双子葉植物綱 Magnoliopsida : クスノキ目Laurales : クスノキ科 Lauraceae : タブノキ属 Machilus : タブノキ M. thunbergii

 クスノキ科タブノキ属の高さ25mに達する常緑高木で直径は3mにもなる。イヌグス・タマグス・ヤマグスとも称される。単に「タブ」とも。ワニナシ属(Persea、アボカドと同属、熱帯アメリカなどに分布)とする場合もある(学名:Persea thunbergii)。

 若い枝は緑色で、赤みを帯びる。芽は丸くふくらむ。 葉は枝先に集まる傾向があり、葉は長さ8-15cm、倒卵形。革質で硬く、表面はつやがあって深緑。花期は4-6月。黄緑色であまり目立たない花を咲かせる。8-9月ごろ球形で黒い果実が熟す。

 日本では東北地方―九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っている。また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」と呼ばれ有名である。

 樹皮は染料、材は器具材、家具材、建築材、ベニヤ材、枕木などに用いられ、有用な樹種である。材は古くから船材に適し、昔、朝鮮半島から日本に渡来した船は、すべてタブノキの材で造られたという。

 朝鮮語の方言におけるトンバイ(独木舟)がなまってタブとなり、タブを作る木の意、とする説がある。別名(地方名)のダマ、ダモなども同じ。

 八丈島に、古くから伝わる絹織物である「黄八丈」は、タブノキ(島ではマダミと呼ばれる)の樹皮を、染料として利用した。黄八丈の色は、黄色を主にして、樺(茶)色、黒とあり、タブノキは樺色の染料にする。今で言えば、草木染めである。国の伝統工芸品に指定されている。

 ちなみに「八丈島」と言う地名は、この特産品である絹織物の名が、そのままついた。八丈島には、古くから都の流人によって、絹織物の技術が伝えられた。1丈は約3mで、8丈の長さで絹織物は織られた。美濃八丈、尾張八丈、秋田八丈など各地に特産品がある。

 タブノキの樹皮には水と混ぜると粘液を生ずる成分が含まれ、古来、たぶ皮と呼ばれ、線香や 練香の粘料として使われた。 クスノキのような芳香はないが、材は良質で、建築・家具・ 細工物などに広く利用される。

 古代の信仰で対象となった大きな樹が霊(タマ)の木であり、それが タモ、タブと変化 したとも考えられている。 また『万葉集』の大伴家持の歌、 「磯の上の都万麻(ツママ)を見れば根を延へて 年深からし神さびにけり」のツママは、タブノキとされている。

 瀬戸内海に面した山口県玖珂郡和木町関ヶ浜にある疫神社には、古くからの習俗が残っている。ここには、根回り7m、高さ20m、樹齢500年のタブノキがある。 疫神は疫病払いの神で、そのむかし、この樹に大蛇が巻きついたという故事に倣って毎年藁で作った大蛇をタブノキに巻きつけ、お祓いをした後、当屋の人々が獅子頭をかぶって家々を回って疫病払いをする。

 昆虫採集マニアたちは、クワガタやカブトムシがタブノキの樹液に集まることをよく知っている。

 福井県坂井市には、樹齢250年のタブノキを眺めながらコーヒーを飲める喫茶店「カフェ タブノキ」がある。(℡ 0776-81-3778 、tabunoki[★]mikuni-minato.jp)

 われわれが登った高麗山から近い平塚市博物館敷地内には、長さ4mほどのタブノキの古木が置いてある。 1964年に平塚駅の地下道工事中に地下5mのところでみつかった埋もれ木だ。 樹齢は300年、年代測定では1950±50年前のもの。 発見されたのは砂礫質の地層。 2000年前の駅付近は海浜で、発見されたタブノキは漂着物と推定された。 現在、平塚駅から海岸までは1.4kmもある。

 ウエブには、”大樹タブノキからの贈り物!特許取得済み製法「抗炎症剤」”というスキンケア商品の広告も載っている。

 家庭学習研究社「3年生におすすめの本」には、「 大きなタブノキ」という絵本がある( 木暮 正夫・作、野村 たかあき・絵)。

 夏の暑い日の昼下がり、とつぜん、にわか雨がおちはじめました。とうげ道のわきにある、太くてたくましいタブノキの下で、馬かたの六さん、旅のおぼうさんと、ひきゃくが、雨やどりをしながら、話していました。

 「りっぱな大木ですなあ。これだけの雨なのに、一てきのしずくもおちてこんですからなあ。」「村のみんなは、この木を『千年タブ』とよんで、大事にしとるんだよ。」「人は、親から子へ、まごへといのちをつないでいきますが、この木は、一代で千年も生きて、なおも木のいきおいがさかん。まだまだ何百年もいきつづけるでしょう。」

  そのころから約二百年の月日が流れました。峠のようすもすっかりかわってしまい、峠の下のほうでは、ダムの工事がはじまっていました。ダムができるとタブノキは水の底にしずんでしまいます。村の分校の子どもたちは、あかね先生にうったえました。

 「先生、この木をたすけてやれないの?」 あかね先生や校長先生も、タブノキをなんとか守りたいとおもっています。そこで、木のお医者さんに、タブノキが高いところにうつしかえられるかどうか、くわしくしらべてもらうことにしました。

 ●タブノキは、うつしかえるには、年をとりすぎていました。千年以上もの間、村の人の暮らしとかかわり、世の中を見つめ続けてきた『千年タブノキ』は、どのような形で、残すことができたのでしょうか。世代をこえた長い時間の中での、命のつながりを感じてください。

 なかなか読ませるではないか。

 日本中のタブノキの巨樹を訪ねてみるのも面白いだろう。 世間には、色々なことをやってくれる人がいる。 全国巨樹探訪記http://www.hitozato-kyoboku.com/tabunoki.htm#top「タブノキ」は、そういう人の力作のひとつだ。

 このブログは、以下のサイトを切り貼りして作り上げた。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/シリーズ自然を読む 樹木の個性を知る、生活を知る「タブノキ」(http://elekitel.jp/elekitel/nature/2004/nt_28_tabu.htm】/樹木図鑑(zukahttp://wwwsv88/jumoku-zz-tabunoki.htm)/http://www.wood.co.jp/wood/m158.htm/全国巨樹探訪記http://www.hitozato-kyoboku.com/tabunoki.htm#top「タブノキ」

2012年2月16日木曜日

「はだしラン ブーム到来?」



 2年ほど前、膝痛でジョギングも山歩きもテニスもできなかったとき、スポーツ用品店で、膝痛を防止するんだか緩和するとかいうパッドを見た。 ゴムより柔らかくて弾力性のある素材。 膝への衝撃を弱めるためにシューズ内側底のかかと部分に貼り付けて使う。 それをみつけて買わなかったが、ふーん、そうか、膝痛はかかとへの衝撃で起きるんだと知った。

 それから暫くして、犬が飼い主に引かれて小走りに走っているのを見て、あれっ、犬はかかとを地面に着けていない、と気付いた。 犬の後ろ足のことだ。 つまり、犬が着地しているのは、人間の足の前部で、後ろにとんがっている関節部分が人間のかかとに相当する。

 犬みたいに、かかとを着けないで走れば膝は痛くならないに違いない。 勘に基づいた非科学的推測。 早速試してみると、わりと調子いい。 ただ、かかと着地は体軸より、やや前で接地するけれど、かかとを着けないで走るときは、体軸の真下あたりで接地するのがコツだ。 陸上競技短距離の走り方に似ているかもしれない。

 そうなると、衝撃を吸収するための大きなかかとが付いたジョギング・シューズはいらない。 足にフィットして、底が平らな靴はどこかにないか。 偶然みつけたのは、土木作業や建築労働の衣類や道具を売っている店。 最近あちこちで目立つようになってきた店だ。 入り口に軍手なんかが山積みになっている。

 地下足袋も悪くなさそうにみえた。 だが、そのそばに、たった800円で足袋靴というのが置いてあった。 足の親指部分が分かれていない地下足袋と思えばいい。 なんと言っても、高級ジョギング・シューズの10分の1以下という値段が気に入った。 問題は、冬のジョギングでは寒さが足にしみ込むこと。

 自分の発見を内心で自慢していたら、それからまもなく、暇つぶしに点けたテレビのドキュメンタリー番組でアメリカ人が裸足でジョギングをしていた。 barefoot running というそうだ。  太古からの人間の走り方で、裸足ではかかとを着けないのだという。 ハーバード大学のLiebermanとかいう教授が、膝への衝撃が少なく、これが自然で理にかなった走り方だと、オレが発見したと思っていた走り方について、とくとくと説明しているではないか。 

 教授の名前をメモして、早速ウェブで検索したら、たちどころに出てきた。


 堅苦しい論文だが、関心のある方は英語の勉強がてらにどうぞ。 その気のない方は、You Tube を。


 世界中で、人間、考えることは同じようなものなのだろう。 まあ、科学とは無縁の自分の方向性の正しさが、ハーバード大学の先生に科学的に立証されたとも言える。

 以上は、1年以上前の話。 そして、今月号の「Tarzan」(2/23 2012 No.597)(マガジンハウス)の特集は「ランニングドリル」で、「はだしラン ブーム到来?」などという記事を掲載しているではないか。

 コンビニで立ち読みせずに、550円を払って買って読んでみると、記事の内容は、基本的にはLiebermanの論文を下敷きにしていた。

 いやー、実に軽薄に嬉しいもんだ!!! 日本の雑誌が「ブーム到来」などと言うずっと前に、時代を先取りしていたという優越感。 もちろん、日本の雑誌が世界の潮流から外れ、情報収集が貧困すぎることは十分承知の上だ。 それでも嬉しいから軽薄なのだ。 

2012年2月13日月曜日

シリアからの難民



 シリアの住民に対する治安当局による情容赦ない武力弾圧は、日本でも大きなニュースになりつつある。 だが、自らの命を守るために母国を脱出せざるをえない難民が急増していることについては、あまり知られていないかもしれない。

 真冬の氷雨や雪の中、シリア国境を越え隣接するレバノン、ヨルダン、トルコへ着の身着のままで逃れるシリア人の数は、既に40,000人に達していると推測される。

 シリアと接するレバノンのベカー。 レバノン人の支援者によると、この付近の村にたどり着いたシリア人は約2,500人、このうち半数は過去1か月間に弾圧が激しくなってからやって来た。 もはや難民のための居住空間はほとんどなく、車庫や牛小屋も使うしかないという。 レバノン全体では、非登録者を含め10,000人を超えているとみられる。

 歴史家トインビーは、レバノンを宗教の博物館と読んだ。 イスラム教、キリスト教それぞれの様々な流派が混在し、各派の微妙な社会的、政治的バランスが安定のカギになる国家だ。 かつては、パレスチナ人の大量流入がきっかっけで泥沼の内戦に陥った。

 シリアでは、少数派・イスラム教シーア派の流れをくむアラウィ派の政権が、主として、多数派のイスラム教スンニ派の住民に弾圧を加えている。 したがって、難民のほとんどもスンニ派だ。 当然、レバノン当局はスンニ派の流入による社会バランスの変化に神経を尖らせる。 現在は、民間支援者たちが難民の世話をしているが、レバノン当局が今後、無制限に難民を受け入れるとは想像できない。

 一方、ヨルダンには、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、約3,000人のシリア難民が登録されている。 だが、報道などの非公式数字では、20,000人に達しているともいう。 だが、ヨルダン当局は、今のところ、テント設置など人道的援助には動いていない。

 弱小国ヨルダンは周辺地域の空気を敏感に嗅ぎとり生存をはかってきた。 イラク戦争への関わりを極力抑えたのは、この国家戦略に基づく。 イラクと同じ、隣りの強国シリアとの関係にも微妙な駆け引きが欠かせない。 おそらく、ヨルダンが難民支援に全面的に乗り出すのは、シリアのアサド政権倒壊が確実になるときだろう。

 中東の冬は、一般的日本人がイメージする以上に寒い。 シリア周辺にはスキー場だってあるくらいだ。 難民たちは政治に翻弄されながら寒さに震えている。

 トルコへ行った難民たちは、比較的恵まれている。 トルコ政府発表の数字によると、2011年7月以降、トルコに逃れたシリア難民は15,228人、現在(2012年2月)は10,227人が滞在している。 イスラム世界の赤十字にあたる赤新月社がシリア国境に接するハタイ県にテント村を作り、ほとんどの難民がここで生活している。 そればかりではない。 トルコ政府は仮設住宅2,000戸を建設し、完成後テント村から移ってもらうと発表している。

 外相ダヴトオールは、「アサド政権の弾圧から避難する人々をトルコは今後も受け入れる」と宣言している。 実際、トルコは、シリアの反政府組織「シリア国民評議会」の拠点にもなっているし、シリア政府軍から離反した兵士たちをも国内に受け入れている。

 トルコのこうした対シリア政策の中心にいるのは、首相エルドアンだ。 かつて盟友としていたアサドに対し、住民弾圧が始まると、明確に辞任をせまった。

 トルコは中東地域での存在感を次第に大きくしている。 シリアの独裁倒壊が現実になったときには、反独裁の旗頭となったトルコは、さらに影響力を強めるであろう。 トルコは難民をしたたかに利用しているとも言えるのだ。  

2012年2月11日土曜日

ALWAYS三丁目の夕日'64

 ありゃ!! 交番の中に映画のポスターが貼ってあるんじゃないか? 珍しいなあ。 オマワリがいないうちに覗いてみるか。 


 やっぱり!! 人気の「三丁目の夕日'64」じゃないか。 文科省推薦の映画ってのはよくあるけど、警察庁推薦なんて聞いたことない。 オマワリとはつきあいたくないけど、この交番に勤務しているメタボのオッサンにきいてみようかなあ。 「交番の盗影は犯罪だ」なんて言って逮捕しようとしたら、走って逃げよう。 あのメタボなら10mも走れば息を切らせるに違いない。

 <東京・大田区下丸子のガス橋交番で> 

2012年2月7日火曜日

自国民虐殺の国シリアⅡ

 <前列ハーフェズ・アサドと妻アニサ、後列左から四男マーヘル、二男バシャール、長男バシール、三男マジード、長女ブシュラ>


 1994年1月21日未明、シリアの首都ダマスカスは濃い霧に包まれていた。 郊外の国際空港へ向かう片側4車線のハイウェイの見通しもひどく悪かったが、1台のメルセデスが、無謀にも時速130キロ以上のスピードで突っ走っていた。 空港間近のロータリーに達したときだった。 メルセデスはカーブを曲がりきれず外壁に激突し、吹っ飛びながら何度も回転し、グシャグシャに大破した。 運転していた若い男は即死だった。

 男はスポーツカーを飛ばすのが趣味のスピード狂で知られていた。 だが、それだけで有名だったのではない。 シリアの独裁大統領ハーフェズ・アサドの長男で、後継者と目されていた人物、バシール・アサド(当時31歳)だったのだ。

 この突然の悲劇が、政治とは距離を置きロンドンで眼科医になるべく学んでいた二男バシャール・アサドが大統領に就任する道を開いた。

 シリアという国家の独裁支配には、力の源泉となる軍の掌握が不可欠だ。 このため、当時は長男バシールに次ぐ後継候補は、軍人として正規の訓練を受けた四男マーヘルという見方が強かった。 だが、父ハーフェズは、”文人”の二男バシャールを選び、急きょ、ロンドンからダマスカスに呼び戻した。 一説には、直情径行で乱暴者のマーヘルに不安を感じたためだという。

 ハーフェズが死んだのは、それから6年半後のことであった。 心臓に持病を持つハーフェズは自らの遠くない死を間違いなく意識していた。 こうして、バシャールを軍士官学校に入れ、大急ぎの帝王学教育が始められた。

 2000年6月10日、中東アラブ世界を代表する独裁者として君臨したハーフェズ・アサドは死んだ。 そして、予定通り、バシャールが新大統領に就任した。

 おっとりとした顔立ち、189センチの長身、英語を流暢に話しフランス語もこなす。 鉄の支配を続けた父のイメージとはがらりと変わり、ソフトな指導者の誕生に思えた。 当時のイスラム世界は、イランで「対話」を訴える大統領ハタミ、インドネシアでは「民主化」を象徴する大統領グスドゥールが就任し、新たな時代を感じさせる雰囲気があった。 そういう中で、バシャールにも改革への期待が持たれた。

 実際、就任後すぐに報道規制の緩和など自由化方針が打ち出された。 だが、それは、ほんの数か月の非常に短い「シリアの春」で終った。

 これは一体、何を意味するのか。

 おそらく、四男マーヘルの存在がある。 大統領にはなれなかったが、共和国防衛隊、陸軍第4師団というエリート精鋭部隊の司令官になり、国内治安を取り仕切っていた。 兄で大統領といえども、重要な権力基盤を牛耳る弟には一目置かざるをえない。 自由化に危機感を抱いたマーヘルが締め付け緩和に待ったをかけたとの見方は広く信じられている。

 バシャールとマーヘルの兄弟関係がどうなっているかは不明だが、誰でも父ハーフェズとその弟リファアトの関係を重ね合わせて見てしまう。

 リファアトも兄の下で国内治安を担当した。 数万人の自国民を殺害したとされる有名な1982年ハマの大虐殺を指揮した張本人で、「ハマの屠殺人」と呼ばれている。

 マーヘルは昨年(2011年)3月、「アラブの春」がシリアに飛び火して、ダマスカスの南ダラアで大規模な反政府抗議行動が起きたとき、第4師団を派遣して町に砲撃を加え、数十人の市民を殺した。

 今年(2012年)になって、ダマスカスの東ホムスで拡大している抗議に対して、戦車を動員して激しい砲撃が加えられている。 これを指揮しているのもマーヘルだ。 すでに全国の死亡者数は7000人以上に達している。 
 この叔父と甥はあまりに似ている。 果たして、どこまで似ているのか。

 1983年、リファアトは、ハーフェズが心臓病で入院したあと、軍を動員してクーデターを企てた。 内戦寸前の状態になったが、翌1984年3月にハーフェズが退院して職務に戻り、リファアトの目論見は失敗に終った。 だが、ハーフェズはリファアトを許しはしなかった。 名目だけの副大統領に祭り上げたあと、海外に追放した。

 シリア国内では、マーヘルの野心はバシャールから大統領の座を奪うことだという噂がずっと流れているという。 これが本当なら、アサド家には骨肉の争いというDNAが埋め込まれているのだろう。

 アサド・ファミリーの排除なしに、シリア国民のまともな未来はないように思える。 だが、かつて権力闘争に破れたリファアトという男には、そういう認識が完全に欠如している。 今、ロンドンの豪邸で生活し、現在の混乱がチャンスと見て、シリアへの返り咲きを画策している。 信じられないことだが、これが彼らの思考様式なのだ。

 こうしているあいだにも、人がどんどん殺されている。 こんな血塗られた支配体制が許されていいわけがない。

2012年2月3日金曜日

オレもハーフだ!!!!


 <ハーフということでお子さんはいじめられませんでしたか>
 家でも子どもたちに言うのですが、やっぱり、名札でハーフとわかりますよね。それで、ハーフといじめられても、それは、コミュニケーションの始まりと考えているんです。わたしも日本に来たときには、日本人の子どもに「ああ、外人」と言われましたが、わたしも彼らに、「外人」と言ってやるんです。子どもたちは「外人じゃないよ」と言います。すると、「いや、わたしから見たら、外人だよ」とね。それがコミュニケーションのスタートだと思うんですね。自分の子どもたちにも、そう説明しました。

 日本人の妻を持ち、日本に住むイラン人、Farid Darvīsh Sefat氏が自分の息子について質問されたときの答えだ。(別冊クラッセ)

 息子は1986年8月16日に生まれた。 このころから90年代にかけて、日本でのイラン人の評判は芳しくなかった。 当時、イラン人は日本にビザなしで入国できた。 このため、ホメイニ革命とイラン・イラク戦争で経済が疲弊した母国を離れ、多くのイラン人が日本で建設労働などに従事して出稼ぎ生活を送っていた。 薄汚い身なりの彼らは日本人から見下された。 そればかりではない。 都会の繁華街では、違法テレホンカードや麻薬の売買をする怪しげなイラン人の姿が目立った。

 ハーフの子ども、帰国子女というだけで日本の子ども社会では、いじめの対象になる。 イラン人の子どもがいじめの格好の標的になるのは当然だったろう。

 Farid氏は、貧しい出稼ぎ労働者ではなかった。 豊かな家庭で育ち、留学した米国で日本人女性と知り合い、やがて日本で生活するようになった。

 当時、日本の子どものいじめに遭った男の子の名前は、Ali Farid Darvish Sefat。 ずっと日本とイラン、二つの国籍を持っていた。 2007年10月、21歳のときに、二つの国籍のうち日本を選択した。

 彼の日本名は、ダルビッシュ有。

 日本のプロ野球を代表する図体のでかい豪腕投手が”いじめられっ子”だったとは、にわかに信じがたいが、あのふてぶてしい態度の内面にも傷つきやすいナイーブな部分があるのかもしれない。

 大騒ぎの末、今年、米国大リーグのテキサス・レンジャーズに移籍する。 所属していた日本ハム・ファイターズの本拠地・札幌で行われた記者会見で、ダルビッシュは自らの強い日本人意識を強調してみせた。

 「日本人選手の評価が低くなり、日本の野球が下にみられるのも嫌だった。それが(大リーグ挑戦の理由に)重なった。世界中の誰からもナンバーワンはダルビッシュといわれるような投手になりたい」

 この日本人意識は、一体どこから来るのだろうか。 野茂だってイチローだって松井だって松坂だって、「日本」をこんなに前面に出しはしなかったはずだ。

 「オレは日本人だ」と叫び続ける。 それが、「Ali」 ではなく、あくまでも「有」として生きていくための宿命なのだろうか。

2012年2月1日水曜日

池上線が走る町に あなたは二度と来ないのね




 久しぶりに、東急池上線の戸越銀座で友人と待ち合わせて飲む約束をした。 長いこと戸越銀座に行っていなかったので、飲み屋にたどり着くまでの時間を調べようと、ウェブで「池上線」を検索した。 そして、ついネット寄り道をして、昔、「池上線」という歌があって、はやっていたことを知った。

 1976年に出た歌で、西島三重子という清純そうな若い女の歌手(今はどうか知らない)が歌っていた。 you tube にもあった。 あの時代に流行した失恋の思い出を描いた切なくて、甘く悲しいメロディと歌詞。 悪くない。 しかも、今になって気付くことができる昭和の歴史的風景が刻み込まれていた。 ”古い電車のドアのそば/二人は黙って立っていた/話す言葉を探しながら/すきま風に震えて”

 そうなんだ。 あのころの池上線は東横線のお古みたいなボロ電車だった。 電車のすきま風なんて、今ではウソみたいに思えるが、あの時代は、池上線にかぎらず冬の電車はすきま風で寒かったものだ。 あの寒さは失恋なんかしてなくてもこたえたぜ。

 ”終電時刻を確かめて/あなたは私と駅を出た/角のフルーツショップだけが/灯りともす夜更けに” 

 ある年齢以上の人は記憶に残っているから、夜中の私鉄駅はこんなものだと思ってしまうかもしれないが、いまどき、こんな光景はない。 24時間営業のコンビニなどが普及する前の時代の暗くて寒い駅前のわびしさが、ここには描かれているのだ。

 この歌は、池上線沿線に住んでいる女が去っていく男と最後に会い、電車に乗って送られていくというストーリーになっている。

 歌詞では、”池上線が走る町に あなたは二度と来ないのね”と、女は嘆いている。 去った男はどこに住んでいたのだろうか。

 池上線は五反田と蒲田を結ぶ。 旗の台で大井町線と交差する。 「池上線が走る町に二度と来ない」というのだから、男が住むのは池上線沿線ではない。 大井町線はどうだろうか。 池上線の旗の台を通らないとすれば、旗の台―大井町間、旗の台―自由が丘間は理屈の上では可能性があるが、生活圏があまりに近く、男が旗の台に二度と来ない生活をするのは非常に難しい。 同様の理由で、1976年当時の目蒲線(現在の目黒線と多摩川線)沿線も現実味が乏しい。

 こうして消去していくと、男が住むのは、五反田から山手線、蒲田から京浜東北線、自由が丘以遠の大井町線、東横線沿線ということになるか。 山手線の五反田―品川間、京浜東北線の蒲田ー品川間も生活圏の近さを考慮すると除外すべきかもしれない。

 それにしても、当時の男女が、東京という大都会で地理的にこれだけの広い範囲に距離を置いて住んでいたとしたら、確かに、二度と会うことはできなかったであろう。 もちろん、出会い頭という偶然はあるだろうが。

 現在では、こんな別れは不可能に違いない。 男は別れたつもりでいても、女が寂しくなって未練がましいメールを送ってくる。 悲しくも美しい別れなど現実の物語ではなく、最後は口汚く罵るメールの応酬。

 そもそも、歌詞にあるような「泣いてはダメだと胸にきかせて白いハンカチを握りしめたの」なんていう忍耐力のある若い女は、もはや絶滅危惧種であろう。