(クルド人地域=ピンク色の部分)
国家を持たずに、人口で世界最大の少数民族クルド人。 正確な数字は不明だが、総数は3000万人ともいわれる。 トルコに1500万、イラクとイランに500万ずつ、シリアに200万が、4か国の国境をまたいで居住し、それぞれの国で、複雑な民族問題になっている。 人口が多いだけに、彼らの独立心が高まれば、国家基盤を揺るがしかねないからだ。
「アラブの春」の反乱がシリアで勢いを増し、予断を許せない状況になっている。 この政治的、社会的に不安定な状況の下で、シリア人口の10%を占めるクルド人たちは、どう対応しているのだろうか。
彼らの動向について、メディアはほとんど伝えていない。 だが、近い将来、独裁政権が倒れ、民主化が実現するなら、これまで抑圧されてきたクルド人たちは無視できない存在になるだろう。 サダム後のイラクでクルド人の発言力が高まったように、シリアでも政治を動かす新たな要因になるのは間違いない。 言葉を変えれば、クルド人を無視する民主化は、真の民主化とは言えない。
実は、1年近く前に始まったシリアの反政府運動に前哨戦があったとすれば、それを演じたのは、人口の76%を占めるアラブ人ではなく、少数民族のクルド人だった。
シリア北東部、トルコ国境に接する町カミシリ。 クルド人居住地域の中心地だ。 2004年3月12日、この町で、地元カミシリと近隣の町デリゾールのサッカー試合が行われた。 このとき、カミシリのクルド人サポーターとデリゾールのアラブ人サポーターが衝突し、血生臭い乱闘となった。 この結果13人が死亡した。
騒ぎは、カミシリのあるハサカ県、さらにはシリア第2の都市アレッポ、首都ダマスカス近郊にも拡大し、大量の逮捕者が出た。 騒動は数日間におよび、アムネスティ・インターナショナルによれば、クルド人2000人が拘留され、この中には、女性、子どもも含まれていた。 また、多くのクルド人学生が大学から追放された。
サッカー試合を契機に燃え広がった騒動だが、根底にあったのは、長年にわたる差別と抑圧で鬱積したクルド人の不満だった。 シリアのクルド人たちは、「クルドのインティファーダ(一斉蜂起)」として、この2004年の出来事を歴史に刻んでいる。
少数民族として虐げられているクルド人だが、なかにはダマスカスなどの都会で成功している者もいる。 現大統領の父親ハフェズ・アサドの大統領時代にはクルド人の首相もいたし、国会議員や著名な芸術家もいる。 だが、大多数のクルド人はシリア北東部のトルコとイラクの国境に近い地域で、昔ながらの牧畜や農業で貧しい生活をおくっている。
シリアのクルド人が政府から組織的差別・抑圧を受けるようになったのは、1963年のクーデターによるバース党独裁政権の誕生以降だ。 強いアラブ民族主義を党是とするバース党は、民族、言語などが異なるクルド人をアラブ民族主義の埒外に置いた。
具体的には、1962年の国勢調査に基づき、1945年以前にシリア国民だったと証明できる者には市民権を付与し、それ以外は身分証明のない外国人ないしは無国籍者の範疇に入れられた。 市民権がなければ、土地、財産を所有できず、公務員にもなれない。大学の医学部、工学部への入学が禁止され、シリア人との結婚が許されない。 パスポートが取得できないので外国にも行けない。 現在、無国籍のクルド人は30万人とされる。
1970年代には、トルコ、イラクとの国境付近にアラブ人の入植地が設けられた。 実際には、国境の向こう側のクルド人との団結を警戒する政治的意図に基づく”緩衝地帯”だった。 これによって、国境貿易で生計を立てていたクルド人の多くが地元を離れた。
1991年には、第1次湾岸戦争の結果、サダム・フセイン政権が国際的に孤立し、イラク北部にクルド人自治が確立した。 当然、シリア指導部は自国内のクルド人が刺激を受け分離主義傾向を強めることを警戒した。 クルド人たちによれば、当局は国民の分割統治策を取った。 つまり、「クルド人はシリアからの分離・独立を画策する危険な連中だ」と宣伝し、アラブ系住民の危機感を煽ったという。 2004年のサッカー騒乱は、こうした虐げられた歴史の延長線上で起きた。
シリア国内のクルド人は、トルコ、イラク、イランのクルド人のように、激しい反政府活動でニュースになることはなかった。 それだけに、当時、この出来事は驚きをもって受け取られた。 この騒乱は数日間で鎮圧されたが、反抗の火は消えたわけではなかった。 以降、反政府騒動は散発的ではあるが、ずっと継続していく(以下、Human Rights Watch 作成の年表より)。
2005年6月5日/暗殺された聖職者の1周忌の行進がカミシリで行われ、治安当局は数十人を逮捕。
2006年3月20日/アレッポでクルドの新年ノールーズの祭りに参加した数十人を治安当局が拘束。
2006年12月10日/カミシリでクルド人の人権を訴えたデモ参加者を治安当局が襲う。
2007年11月2日/トルコ軍によるイラク北部のクルド人攻撃に抗議するカミシリでの集会に治安部隊が発砲、1人が死亡、24人が重傷。 多数が逮捕される。
2008年2月15日/トルコのクルド労働者党(PKK)指導者アブドゥラ・オジャラン逮捕9周年集会参加者多数逮捕。
2008年3月20日/カミシリのノールーズ祭典で治安当局が発砲、3人が死亡。
2008年11月2日/ダマスカスでクルド人の土地所有制限に抗議する国会前のデモ参加者200人が逮捕される。
2009年3月12日/アレッポ大学で2004年事件記念集会、学生13人逮捕される。
昨年2011年春、シリアで反政府運動が高まり始めたとき、クルド人たちは民主化運動のウォーミングアップを十分に終えていたと言えるかもしれない。
注目すべきは、政府批判が高まって間もない4月17日に、唐突とも思える大統領令が発令されたことだ。 その内容は、クルド人10万人に市民権を付与するというものだ。 明らかな懐柔策だった。
レバノンの新聞アルアクバルによると、それから5日後の4月22日、地中海に近いバニアスで行われた反政府デモに参加したクルド人のスローガンは、一般のシリア人には想定外のものだった。
「クルド人の大義は市民権取得ではない、自由だ」
彼らは長年渇望していた市民権取得の要求ではなく、シリア人としての民主国家実現を選んだのだ。 クルド人たちは、アサド独裁政権の終焉を嗅ぎとったのだろう。
だが、クルド人とアラブ人の間に掘られた溝は深く、お互いの不信感がたやすく払拭されるとは思えない。 反独裁統一行動が民族を超えて結成されると甘い期待を持つことはできないだろう。
イラク北部のドフク郊外には、シリアからのクルド難民のために、1000家族を収容できるキャンプができあがった。 ここに住んでいる難民の1人は、外国人記者に対し、独裁政権への恐怖よりも、アラブ人への不信感を強調していた。
クルド人の目を通してシリアを見ると、この国の未来像の焦点はぼけ、何もかもが混沌としてくる。