2011年4月16日土曜日

渋谷―3・11から1か月、最初の週末





 2011年4月16日、土曜日、午後6時。 東京・渋谷に歴史的悲劇の臭いはなかった。

 そう、若者たちは盛り場でのわずかな消費の積み重ねで、日本経済復興に貢献していた。

 すばらしい無意識の貢献の姿ではないか。


 <Canon PowerShot G12 / 魚眼風モード>

2011年4月14日木曜日

白き1票で政治を変えよう


 オリンピックの東京招致なんか絶対に反対だったし、そもそも、あの傲慢な態度で人を見下す都知事の石原慎太郎には生理的不快感を覚えていた。 だから4月10日の都知事選挙では投票によって、自らの意見を表明すべきだったかもしれない。 が、花見酒を飲んでいるうちに選挙のことなど忘れてしまった。

 友人の写真家Tは違っていた。 政治への不信感を表明するために投票に行ったのだ。

 上のイラストは投票所での投票のやり方をサルにもわかるように説明したものだ。 ①受付で自宅に郵送されてきた投票所入場整理券を渡す②選挙人名簿で本人確認をする③投票用紙をもらう④投票記載台で用紙に自分の支持する候補者名を記入する⑤投票箱に用紙を入れる。

 Tは自分の政治不信を、④を省き、③から⑤へ、つまり投票用紙を受け取ると投票箱へ直接向かい、白紙のまま投函するという行動で表明した。

 イラストに描かれている投票立会人・投票管理者の目に、Tの行動はかなり突飛に写ったようだ。 彼らの一人は思わずTに声をかけた。

 「あっ、お客さん」

 後日話をきいて「お客さん」には笑わせられた。 有権者を「お客さん」と呼ぶ神経は訳がわからないが、かと言って、どう呼べばいいんだろう。 ヒマなときに選管に電話してきいてみよう。

 選挙では石原が当選してしまった。 だが、「勝った」というのはウソだ。

 石原は立候補者の中では最高の2,615,120票を得票し、日本の新聞は得票率43.4%で圧倒的強さを発揮したと報じたが、この得票率の数字は明らかな間違いだ。

 43.4%というのは、投票者数6,072、604に占める割合で、東京の全有権者数10,505,848の中では24.9%でしかない。 これが石原の本当の得票率なのだ。 

 この選挙の投票率は57.8%。 したがって棄権した有権者は42.2%、4,433,244票。 石原の獲得数を断然引き離し凌駕している。 

 真の勝者は<白票>なのだ。

 Tのように積極的に白票を投じるために投票所に行った有権者の数はわからない。 ちなみに、都知事選立候補者11人の全得票数は6,025,339で、投票者数より47,265少ない。 おそらく、ほとんどは書き間違えや判読不能の無効票であろう。 Tの貴重な反骨の1票も、残念ながら、その中に紛れ込んでしまった。

 そう思うと、うんざりする。 いいかげんに、偽善と欺瞞の選挙制度は変えようではないか。 白票に代表される積極的棄権がカウントされる制度を作り上げれば、政治不信を政治家に明確に突きつけることができる。 そうなれば、多くの有権者がわくわくして白票を投じ、投票率が大幅に上がるにちがいない。

2011年4月7日木曜日

就職先は東京電力


 彼らは、上級生や卒業生、監督に対し、常に礼儀正しい。 喉が張り裂けんばかりの大声で挨拶する。 自分たちの使う練習グラウンドに対しても、まるで、そこに神が宿るかのように礼をする。

 この高校野球少年たちに叩き込まれた礼儀作法は、彼らがやがて卒業し、おとなになってからも保ち続けられるかもしれない。

 ただし、それは、”内向き組織”の礼儀だ。

 少年たちは、野球部と野球部関係者以外の人間には、ほとんど関心がない。 だから、礼儀正しいにもかかわらず、彼らは、公共の遊歩道上で、散歩やサイクリングをする人、ジョガーたちの邪魔になっても気にせず、平然と下着姿になって着替えをする。

 彼らにとっての礼儀とは、野球部という、おそらく、かなり歪な小宇宙の中で生きるための術なのだろう。 これは、いわば処世術ではないか。

 そう、企業の社会的責任の意識が希薄なくせに、社内政治には血道を上げるような会社に就職し、会社と上司への忠誠心が絶対とされるようなとき、その処世術は役に立つ。

 とりあえず、君たちに推薦できる就職先は、東京電力だ。

2011年4月1日金曜日

災害ボランティア・優先席無視・買いだめ



 大災害に遭った人たちに何かをしてあげたい。 今、多くの日本人が慈愛の心を持ち、募金箱にお金を投じ、さらには、より積極的にボランティア活動をしようと現地へ向かっている。 

 その一方で、東京の電車の中では、3・11以前と同じように、サラリーマンやOLや学生、普通のオジサン、オバサンたちが、社会的弱者を無視して優先席を占拠している。

 これが、同じ国で同時進行している光景なのだ。

 スーパーでは、自分だけは美味いものを食い続けよう、快適な生活を楽しもうという買いだめの群れの襲撃が続いている。

 人間の美しさと醜さ。 美しいだけが人間ではないことを知る貴重な日々を、われわれは今生きているらしい。