2014年1月31日金曜日

<恵方巻>と<バレンタイン>のサンバ


 「恵方巻」と「バレンタイン」に踊らされる2月。 以下、Wikipediaからの抜粋。

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<恵方巻>

 恵方巻は、節分に食べると縁起が良いとされる太巻き(巻き寿司)を食べる行為で大阪地方を中心として行われている習慣。

 恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされている。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれており「恵方巻き」と呼ばれていたという文献等は見つかっていない。 大阪地方の地元における名称として、単に「巻き寿司」や「丸かぶり寿司]」などがある。

 起源・発祥は複数の諸説が存在しており、信憑性についても定かではない。

 商業的イベントとして、これを利用した関係業界の販売促進活動・関連商品・商戦が20世紀後半から活性化している。また、関連するイベントとして、多人数で一斉に食べたり、「日本一長い恵方巻き」「○○メートルの恵方巻」「巨大恵方巻」「ジャンボ恵方巻」などの内容で開催されている。

 節分の日は暦の上で春を迎える立春の前日にあたるので、一年の災いを払うための厄落としとして「豆撒き」が行事として行われているが、大阪などでは同日に太巻きを「巻き寿司」「丸かぶり寿司」や「恵方巻」と呼び、それを食べるイベントが行われる場合がある。

 恵方巻は、太巻き(巻き寿司)を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。「目を閉じて」食べるともされるが、一方「笑いながら食べる」という人もおり、様々である。

 このイベントが活発化したきっかけは、関係業界の販売促進活動である。2000年代以降には、形が恵方巻に類似する円柱状の食べ物、ロールケーキなどの各種商品においても販売促進活動が見られる。

 ミツカンの調査による恵方巻の認知度は、全国平均は2002年(平成14年)時点の53%が2006年(平成18年)には92.5%となり、マイボイスコムの調査では、「認知度」と「食べた経験」に関して増加傾向となっているが、「実際に食べた」と答えた人の全国平均は2006年(平成18年)の時点で54.9%である。

 また、「実際に恵方巻を食べるか」についての地域差は大きく、2008年(平成20年)12月後半にアイシェアが行った調査では、関西・中国・四国にて「実際に食べる」が半数以上占めたのに対し、関東では「6割が食べない」などの結果が出ている。

 かつて行われ廃れていた事柄であったが、大阪の大阪鮓商組合や大阪海苔問屋協同組合が販売促進の為に(スーパーやコンビニでも)大々的な宣伝をしており、日本のイベントとして各地に広がっている。

 1973年(昭和48年)から大阪海苔問屋協同組合が作製したポスターを寿司屋が共同で店頭に貼り出し、海苔を使用する太巻きを「幸運巻ずし」として販促キャンペーンが展開された。1974年(昭和49年)には大阪市で海苔店経営者らがオイルショック後の海苔の需要拡大を狙いとして節分のイベントで「巻き寿司早食い競争」を始めたこと、1977年(昭和52年)に大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事、そのイベント「巻き寿司早食い競争」がマスコミに取り上げられたこと、関西厚焼工業組合も同時期頃に宣伝活動を開始したこと、などが契機となって、徐々に知名度が上がっていった。

 商業的に売り上げの落ちる1月後半から2月初旬の販売イベントとして、主にコンビニエンスストアを中心とし、スーパーマーケットなどの店舗において各地で展開。前述の道頓堀における販売促進イベントの影響があったり、コンビニではファミリーマートが先駆けであり、1983年(昭和58年)に大阪府と兵庫県で販売が開始された。

 全国への普及はセブン-イレブンによる。1989年(平成元年)、広島市にある加盟店7~8店舗を担当していた「OFC(オペレーション・フィールド・カウンセラー)が加盟店オーナーとの会話の中で恵方巻の存在を知り、新たなイベントとして仕掛けた。1989年、広島市のセブン-イレブンが販売を開始し、翌年より販売エリアを広げ、1995年(平成7年)から西日本に販売エリアを拡大、1998年(平成10年)に全国展開をしたことで急速に普及した。

 2000年代に入ると全国の各コンビニで販売促進キャンペーンが行われている。

 スーパーマーケットでは、ダイエーが関西地方において1980年代頃には販売を行っており、関東地方の一部地域では1990年代前半から販売開始、ジャスコでは1992年(平成4年)から全国同時に販売を開始[。2000年代以降は地方の小規模スーパーや個人経営店も参入する動きがある。

 売上・販売数量において、2007年の日本全体での販売本数は約3000万本であった。2008年では2月2日と2月3日の2日間において、コンビニ大手3社で約700万本を売り上げ、セブン-イレブンだけで388万本が売れたという。

 また、円柱状が類似しているだけで本来の太巻きとは全く関係が無い食べ物においても恵方巻的な商品が各種展開され、ロールケーキや形状さえ似ていないワッフルなどの洋菓子、かす巻などの和菓子、江崎グリコから「節分かぶりつきシリーズ」としてポッキー(鬼の金棒モチーフ)・プリッツ・コロンなどの一般菓子、パン・トルティーヤ・ロールサンド・オムライス・包餅などの料理を恵方巻仕様の商品に仕立て便乗して販売する事例が存在している。ファーストフード業界では日本ケンタッキーフライドチキンがレギュラーメニューの一つであるツイスターを恵方巻き替わりに奨めるPRを2000年代末期以降に実施しているほか、パンやサンドウィッチなどにおいても便乗商品が見られる。

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<バレンタインデー>

 日本では、1958年ころから流行した。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。戦前に来日した外国人によって一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。「主として女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのでは?と最初に考案して実践したのは、大田区の製菓会社である。

  欧米でも恋人やお世話になった人にチョコレートを贈ることはあるが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもない。女性から男性へ贈るのがほとんどという点と、贈る物の多くがチョコレートに限定されているという点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴である。

 「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となる。
 ・贈答品にチョコレートが重視される点
 ・女性から男性へ一方通行的贈答である点
 ・(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点

 このほか、職場における贈答習慣が強い点や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点も日本型バレンタインデーの特徴である。

 日本でのバレンタインデーとチョコレートとの歴史の起源については、以下のようなものがあるが、判然としていない。

 ・神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ)説
 東京で発行されていた英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』1936年2月12日付けに同社が広告を掲載したことを重視するものである。「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告であった。確認されている最も古い“バレンタインデーにはチョコを”の広告である。ちなみに以前モロゾフの本社があった最寄り駅の阪神御影駅南側の広場はバレンタイン広場の名前がある。

 ・メリーチョコレートカムパニー & 伊勢丹説
 同社が1958年2月に伊勢丹新宿本店で「バレンタインセール」というキャンペーンを行ったことを重視する説である。

 ・森永製菓説、伊勢丹説
 1960年より森永製菓が「愛する人にチョコレートを贈りましょう」と新聞広告を出し、さらに伊勢丹が1965年にバレンタインデーのフェアを開催し、これがバレンタインデー普及の契機となったとする説がある。しかし、「バレンタインデー」の文字がある広告が、1956年の西武百貨店や松屋の新聞広告や、1959年の松坂屋の新聞広告にも掲載されており、デパート業界では伊勢丹が最初というわけではない。

 ・ソニープラザ説
 ソニー創業者の盛田昭夫は、1968年に自社の関連輸入雑貨専門店ソニープラザがチョコレートを贈ることを流行させようと試みたことをもって「日本のバレンタインデーはうちが作った」としている。ただいずれにしても、すぐに大きな反響があったわけではなく、商品もあまり売れなかったようである。

 各種の説があるが、バレンタインデーが日本社会に普及したあとに、自社宣伝のために主張されたために誇張も含まれると思われる。

 総じて昭和30年代には、「バレンタインデーの贈答品はチョコレート」とする意識はまだなかった。当時のバレンタインデーの新聞広告によると、購入を勧める贈答品にチョコレートは登場しなかった。森永製菓の広告ですら、チョコレートは贈答品のおまけとして位置付けられていた。バレンタインデーの起源の一つとされる1960年の森永製菓の新聞広告には、「チョコレートを贈る日」ではなく、「チョコレートを添えて(手紙などを)贈る日」として書かれていた。バレンタインデーに贈答品を贈るのは誰かという点でも女性に限定されていなかった。ただ「愛の日」という点は強調されていた。

 デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたがなかなか定着せず、1968年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もあった。しかし、オイルショック(1973年)に見舞われ高度経済成長が終焉した1970年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増した。オイルショックによる不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会になった時期とも重なる。現在、一般に「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と認識されていることとは裏腹に、バレンタインデー定着の過程には、小学校高学年から高校生の主導的な選択があったことが指摘されている。

 1970年代後半頃に、女子が男子に親愛の情を込めてチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が社会に定着すると、さらに日本独自の習慣が登場した。1980年前半に登場したホワイトデーと義理チョコである。ホワイトデーの起源については、福岡県の和菓子屋・石村萬盛堂のキャンペーンと、全国飴菓子工業協同組合の構想が注目されている。1977年に石村萬盛堂は、バレンタインデーの返礼としてマシュマロデーを開始した。これは社長が女性雑誌の投稿欄を見て思いついたものだという。1979年には他の菓子店と協同で「ホワイトデー」という名称を用いたとされる。

 一方、全国飴菓子工業協同組合の主張によると、1978年6月の組合の総会で、「ホワイトデーキャンペーン」の実施が決定され、1980年に第1回「愛にこたえるホワイトデー」キャンペーンが行われたという。そして2回目の1981年には「好きな女の子にキャンデーを贈ろう」というキャッチフレーズが添えられた。1984年の第5回キャンペーンには各地で品不足になるほどの盛況となり、同組合では、この1984年をホワイトデー定着の年としている。

 日本のチョコレートの年間消費量の2割程度がこの日に消費されると言われるほどの国民的行事となっており、女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的以外にも、すでに交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着している。だが、義理チョコは1990年代後半以降衰退傾向にあり、2000年代後半から2010年代前半においてもその傾向は継続している。

 また、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」の動きが2000年代初旬より広まってきてバレンタイン市場・商戦を支える存在となっており、特に2000年代後半以降、友チョコの市場規模は拡大傾向となっている。バレンタインデーにおけるチョコの売上停滞に危機感を抱いた関連業界の企業において、友チョコを重視したキャンペーンを行ったり、欧米では当然でも日本では一般的でない行為、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった様々な展開で消費活性化を図っている。逆チョコは特に森永製菓が積極的に展開している。

 上記のような習慣について日本人自身が抱く感想はさまざまである。

 2006年2月にインターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ社が実施したバレンタインデーに関する独身男女(20代〜30代)に対するアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOLで70%、同じく男性社員は50%であった。ただし、OLの反対意見では、女性の側から贈る習慣に反対しているのであって、男性側から贈られるのであれば賛成とする「ご都合主義的意見」も多かったとされる。同じく、男性側はホワイトデーのお返しが大きな金銭的な負担となっており、この義務的なイベントに対する不快感を強く持っている人が多い。妻子ある男性までも、他人の女性にプレゼントをすることを強要されており、その分のお金を妻や子供に対するサービスに費やしたいと考えている男性にとっても非常に人気がない。中には義務的なイベントを無理矢理作り出して、強制的にチョコを買わせるのは非人道的な卑劣な商法であるといった痛烈な意見もある。

 また、労働法の専門家によると、職場内におけるバレンタインデー・ホワイトデー・おごりの強要は環境型セクシャルハラスメントの温床とされており、危険性を指摘する声もある。性別を理由に一定の義務を課し、本人の意に反する行為を強要するわけであるから、環境型セクシャルハラスメントにあたる。しかも、女性のみならず『男性が被害者』になるセクシャルハラスメントである(2007年8月30日 読売新聞)。

2014年1月16日木曜日

”黒い未亡人”は登場するか


 ソチ冬季五輪の幕開けが迫るにつれ、日本のスポーツ・メディアはお得意の期待願望キャンペーンで、日本選手メダル獲得の夢をお祭り騒ぎのように煽っている。 だが、浮かれてばかりではいられない大会でもある。 真っ白な雪のゲレンデや氷のリンクが真っ赤な血に染まらないという保証がないからだ。 この大会には、能天気にスポーツ祭典を楽しめない重苦しさがのしかかっている。 テロの恐怖だ。

 ソチ五輪を悲劇の舞台と化す恐れのあるテロリストを拡大再生産しているのは、まさしく、主催国ロシアそのものだ。 ソチが位置するカフカス地方は、黒海とカスピ海に挟まれ複雑な歴史に翻弄されてきた土地だ。 民族的、宗教的にも入り組んでいる。 ソ連崩壊後、イスラム教徒のチェチェン人たちは独立国家を樹立しようと立ち上がった。 だが、ソ連を引き継いだロシアは圧倒的軍事力で独立運動を潰した。 1999年以来、60,000人のチェチェン人がロシア軍によって殺されたとされる。

 武力と政治的弾圧によって、抵抗するチェチェン人たちは地下に潜り、テロ活動に向かうしかなかった。 その中で、特筆すべき傾向は、女のテロリストの数が非常に多いことだ。 彼女たちは「黒い未亡人」と呼ばれ、恐れられている。

 欧米メディアの報道から、「黒い未亡人」の関わったとされるテロ事件に関する記事をピックアップしてみた。

 「黒い未亡人」として最初に知られたのは、カーワ・バライェワという女だ。 彼女は2000年6月、チェチェンのロシア軍特殊部隊基地に爆発物を満載したトラックを運転して突入して自爆、27人を殺害した。

 第2の「黒い未亡人」は、2001年11月のエルザ・ガズイェワだ。 チェチェンのウルス・マルタンのロシア軍司令官に「私を覚えているか」と話しかけ、爆弾を破裂させた。 この司令官は、以前に、彼女の目の前で夫を殺害していたという。

 2002年10月23日のモスクワ劇場占拠事件は、あまりにも有名だ。 42人の武装勢力が、モスクワ中心部にある劇場ドブロフカ・ミュージアムで観客922名を人質に取り、第2次チェチェン紛争により進駐してきたロシア軍のチェチェン共和国からの撤退を要求した。これが受け入れられない場合は人質を殺害、自分達も爆弾を使って劇場ごと自爆すると警告した。3日後の26日ロシア連邦保安庁(FSB)の特殊部隊が突入。その際、犯人を無力化するためにKOLOKOL-1と呼ばれる非致死性兵器ガスを使用。劇場内にいた大半はこのガスによって数秒で昏倒し、異変に気付いて対処しようとした武装グループの何人かと特殊部隊との間で銃撃戦が発生した。 だが、短時間で制圧され、武装勢力側は全員射殺された。 あとで判明したのは、このうち19人ものメンバーが「黒い未亡人」だったことだ。

 2003年5月には、チェチェンの首都グロズヌイ郊外の村で行われたイスラム教祭典の人混みの中で、「黒い未亡人」が、のちにロシア政府任命チェチェン大統領となるアフマド・カディロフを暗殺しようと自爆、16人が死亡、150人が負傷した。(カディロフは1年後に暗殺された)

 2003年6月5日、北オセチアで、ロシア空軍パイロットの乗ったバスを女が爆破、21人が死亡、14人が負傷した。

 2003年7月5日、モスクワの飛行場で行われたロック・コンサートで2人の自爆攻撃で16人が死亡、6人が負傷した。

 2003年12月、ロシア南部カフカス地方のイェセンツキで、発車したばかりの列車の中で男女2人が自爆し、46人が死亡、100人が負傷した。

 2004年8月24日、ロシア南部ロストウとトゥーラで起きた2機の旅客機墜落で計90人が死亡した。2機ともモスクワ発で、ソチ行きとヴォルゴグラード行き、両機には、それぞれ出発直前に航空券を買って乗ったチェチェン人の女がおり、この2人が爆発物を持ち込み爆破したとみられている。

 ベスラン学校占拠事件も世界的に大きく報道された。 2004年9月1日から9月3日にかけてロシアの北オセチア共和国ベスラン市のベスラン第一中等学校が、チェチェン独立派を中心とする多国籍の武装集団(約30人)によって占拠され、7歳から18歳の少年少女とその保護者、1181人が人質となった。3日間の膠着状態ののち、9月3日に犯人グループと治安部隊の銃撃戦になり、治安部隊が建物を制圧し事件は終了した。 だが、子ども186人を含む386人以上が死亡した。この犯行グループにも「黒い未亡人」とされる2人の女が含まれていた。

 2010年3月29日モスクワの2つの地下鉄駅で起きた爆破事件で40人近くが死亡、100人が負傷した。 当局は黒い未亡人が関わったとみている。 犯人の1人は、3か月前ロシア軍に夫を殺された30歳の女で、チェチェンと接するダゲスタン出身だった。

 2011年1月24日にモスクワのドモジェドボ空港で起きた爆弾テロで35人が死亡、180人が負傷した。この犯行には少なくとも「黒い未亡人」1人が関わったとされる。

 2012年3月7日、ダゲスタンの首都マハチカラ南の村で、1か月前に夫を殺害された女が自爆、警察官5人が死亡した。

 ソチ五輪が近付いても爆弾テロが止む気配はない。2013年5月25日ダゲスタンで、夫を殺された女が自爆、18人が負傷した。 10月21日には、イスラム勢力によるテロがたびたび起きているロシア南部ヴォルゴグラードで、40人が乗ったバスの中で女が自爆、6人が死亡した。

 年末には、テロリストの性別は判明していないが、ヴォルゴグラードで2日連続の爆弾テロが発生した。12月29日、ヴォルゴグラードの鉄道駅で起きた自爆テロで、17人が死亡した。30日には、中心部の路上で、走行中の満員のトロリーバスが爆発した。 少なくとも乗客ら14人が死亡、約40人がけがをした。

 ソチ五輪の成功に権力者としての自分の威信を賭けている首相プーチンは間違いなく神経をいらだたせている。

 一連のテロで大きな役割を演じている「黒い未亡人」とは、いかなる組織なのだろうか。

 いや、実は、組織なのかどうかもわかっていないらしい。 多くの「黒い未亡人」は、ロシア人との戦闘や拷問で夫や兄弟などの近親者を殺された女で、チェチェン武装組織にリクルートされたという。  幼いときに人身売買で売り飛ばされた子どもたちが含まれるという見方もある。

 彼女たちは、組織の中で自爆テロの訓練を受けるのであろうが、からだに巻き付けた爆弾を別の者がリモート・コントロールで爆破するケースもあり、こういうケースの場合は訓練すら必要ないという指摘もある。

 「黒い未亡人」たちがどのような経緯を辿って、そこに至ったにせよ、不幸を背負ってきたのは疑いようがない。 その不幸が終わる気配はなく、テロリストは再生産されていく。 優美なスポーツの祭典とはあまりに落差の大きいロシアの現実だ。

2014年1月11日土曜日

すばらしき逃亡者たち


 強姦容疑で逮捕された若い男が横浜地方検察庁川崎支部から、ちょっとしたすきをついて逃亡し、つまらないチンピラの逃走劇を日本のテレビも新聞も大々的に報じた。

 この男に、なにか社会的、政治的背景があるわけではない。 有名人でもない。 無実の罪を主張するといったドラマ性があるわけでもない。 逃亡の手口が巧妙だったわけでもなく、検察庁がおっちょこちょいだっただけだ。

 こういう男を「逃亡者」と呼んでほしくはない。 「逃亡者」は、ロマンや反体制的臭いがしなければいけない。 権力の裏をかき、巧みに逃げる。 川崎の強姦男みたいに、ただ逃げるだけではない。 逃げるのは、命がけで達成したい目的があるからだ。 「逃亡者」は大衆のヒーローにもなりうるのだ。

 
 1960年代のアメリカ連続テレビドラマ「逃亡者」の主人公リチャード・キンブルは、妻殺しの罪を着せられて逃亡し、ジェラード警部の執拗な追跡をかわし真実にせまる。 日本でも放映され人気を博した。 これは実話に基づいた物語だ。

 源義経の逃亡劇は、日本人の心の琴線に触れる。 米軍の秘密軍事作戦で最後はパキスタンで暗殺されたオサマ・ビンラーディンの生涯も劇的だった(テロリストを称賛するわけではないが)。

 胸に蝶の刺青をした男「パピヨン」が、1931年に無実を叫びながら終身刑となった。だが、堅固な牢獄からの脱出を何度も試み、ついに成功し、後にベネズエラ市民権を取得して自由の身となる。 この人物、アンリ・シャリエールの伝記小説はベストセラーとなり、のちに映画化され、スティーブ・マクイーンが「パピヨン」を演じた。

 逃亡者を語るなら、「モンテクリスト伯」を無視することはできない。 アレクサンドル・デュマのこの長大な小説は、読み始めたら止まらない。 ”逃亡者文学”の古典と言えるだろう。 

 嗚呼、すばらしき逃亡者たちよ。

 川崎チンピラ強姦男の大袈裟な報道は、「逃亡者」たちへの侮辱以外のなにものでもない。