2014年3月28日金曜日

ジョージ・クルーニーの恋人はアラブ人


 報道によれば、アメリカの映画スター、ジョージ・クルーニー(52歳)の新しい恋人は、ロンドンで最もホットな女性弁護士に選ばれたインテリのイギリス美人。 だが、実は、レバノンの首都ベイルート生まれのアラブ人なのだ。 とにかく、彼女はカッコいい。 古臭いアラブ観に囚われていれば、戸惑わされる。

 アマル・アラムッディーン、36歳。 国際法、人権問題の専門家で、米国が指名手配し、スウェーデン当局がレイプ容疑で逮捕しようとしているウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジの弁護士を務めている。 また、ウクライナ政府の人権侵害を訴えているティモシェンコ元首相の代理人としても知られている。 その美貌ばかりでなく、国際刑事裁判所や欧州人権裁判所での華々しい活動は、ジョージ・クルーニーとのゴシップが発覚する以前から人目を引いていた。

 彼女は、かつて「中東のパリ」と呼ばれたコスモポリタンな都市ベイルートの女たちの「ひとつの典型」かもしれない。 地中海に面したおしゃれな街には、おしゃれな女が似合う。 アマルのような女は、ベイルートの通りや高級レストランでよく見かける。 伝統や因習にとらわれず、最新の西欧ファッションを堂々と着こなし、英語やフランス語を流暢に話す。

 「ひとつの典型」。 そう、レバノンという国には、いくつもの「典型」がある。 歴史家アーノルド・トインビーはかつて、レバノンを「宗教の歴史博物館」と表現した。 イスラム教とキリスト教のいくつもの宗派が、複雑な歴史的経緯で混在しているからだ。 それぞれの宗派の人々には、それぞれの「典型」がある。

 アマルは、ドルーズ派の家族に生まれた。 1990年までの15年間で国土を荒廃させたレバノン内戦で大きな戦闘力を持った一派だ。

 ドルーズ派は、イスラム教シーア派から派生したとされる。 だが、正統的イスラム教徒たちは、彼らを異端だとして、イスラム教とは認めていない。例えば、メッカを聖地とみなさないため、礼拝の向きはメッカではないし、メッカ巡礼も行わない。 イスラム教にはない人間の輪廻転生をも信じている。

 ドルーズ派の人々は、本来のイスラムとかけ離れたせいか、日常生活面を宗教で律することがあまりないように見える。 非常に世俗的で、西欧文明を寛容に受容してきたようだ。  食事もファッションも、タブーのない自由を楽しむ。 男たちは、イスラム教徒が罪悪感を抱く酒もおおらかに飲む。 宗教心の薄い外国人には、付き合いやすい相手でもある。 そういう精神土壌から、アマルは生まれ育った。

 とはいえ、アマルのような女がレバノン人のドルーズ的例外というわけではない。 男で言えば、日産自動車のCEOになったカルロス・ゴーンも、レバノン人の「ひとつの典型」であろう。 多くのレバノン人が移住しているブラジルで、キリスト教徒を両親にゴーンは生まれ、6歳のときに家族とともにレバノンに戻った。 その後、高等教育を受けるためにフランスへ渡り、企業家になっていく。 小さな国に留まらず、地球全体を生きる場所にすることは、古代の海洋民族フェニキア人の血を引き継いだレバノン人には抵抗がないのかもしれない。

 アマルの場合は、イギリスに渡り、そしてアメリカに渡った。 全身をチャドルで覆ったアラブの女のイメージも間違ってはいない。 だが、アマルのような女もまたアラブの女なのだ。 

2014年3月13日木曜日

普通の人の<3・11>

(3・11付けスポーツ新聞のトップ記事は、坂上二郎の死去。 忘れられても仕方ない。=南相馬市のコンビニで撮影)


 それぞれの<3・11>、普通の人の<3・11>。 テレビや新聞で報じられたようなドラマはない。 けれど、たいていの人たちは淡々と生活しながら、<3・11>を記憶に記している。

 以下、友人たちの<3・11>。

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 今日であの震災から3年経ちました。盛岡を歩いていても震災の影響はどこにも見られませんが、街のアチコチに今でも「頑張ろう東北」の文字が見受けられます。

 昨日は義母の96歳の誕生日で、お赤飯を持参して身内だけのささやかな昼食でお祝いしました。足腰と耳が遠くなりかけた以外は元気で、今でも軽い農作業をしています。 我が家の車庫も建ててもらいましたので、沢山恩返しをしなければいけないですね。

 朝の散歩コースにウイットに富んだアパートが有りますので紹介します。左の棟が「Carl」、右の棟が「Lewis」です。大家さんは陸上競技が好きなのでしょうね。 私でしたら「マリリン」、「モンロー」にしたかもね。

 震災の日、平和な盛岡です。

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 2011年3月11日午後2時46分、ボクは大田区内のスーパーの横を歩いていました。 急にトタン屋根が強風でバタバタするような音が聞こえました。 安普請のスーパーの建物が揺れる音でした。 歩いているのに揺れを感じ、あわてて建物から離れると、スーパーの店内から何人もの買い物客が血相をかえて飛び出してきました。

 友人の運送会社社長は、2時46分に「246」(国道246号線)をトラックで走っていました。 別の友人は昼間から新宿のションベン横町で飲んでいて、あわてて外に出て高層ビル群を見たら、ゆらゆら揺れていたので、飲みすぎて酔っ払ったと思ったとか。

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 私の3.11は埼玉県の久喜市で起きました。地面が波うち、建物の大きなガラスが一瞬にして壊れ、駐車場の自動車が、あたかもカメレオンの動きのように前後に揺れている光景を見たときは、この世の終わりかと思いました。今でも鮮明に覚えています。

 訪問していた企業から駅に送ってもらう途中では、屋根が崩壊した家が、一直線に並んでいる不思議な光景も見ました。後で分かったのですが、川を埋め立てて発達した久喜市は、そのとき液状化現象を起こしていたようです。結局その日は家には帰れず、やっと見つけた小さなホテルで一晩を過ごしたこと、その時に出された炊き出しに感激したこと、とにかく寒かったことなどなどを憶えています。

 今日の午後2時46分は家で黙とうしました。

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 今日、震災の起きた午後2時46分に職場で黙祷。もう三年・・まだ三年なのか、などいろいろ考えました。

 3年前は農水省の6階で崩れる本棚を一生懸命押さえていました。その後、少し前に起きたニュージーランドでの地震で建物が倒壊してもエレベーター部分だけが残っている映像を思い出して、本館の真ん中にあるエレベーターホールに移動して、余震に備えていましたが、今考えると滑稽です。

 結局、あの日は帰れず、当然、飲み屋も開いていないので、事務所でテレビを一晩中見ながら椅子をくっ付けてごろ寝。翌朝、建設中のスカイツリーの近くまで行き、やっと開いていた牛どん屋で20時間ぶりのメシを食べました。

 腹が空いているはずなのにあまり食欲はなかったように記憶しています。 でも、牛どん屋に感謝!!

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 三年前のこの日は駒場東大前の目黒区のテニスコートで、まさにテニスの真っ最中。

 私は審判台に座っていたのでいち早く揺れを感じたのですが、プレー中の仲間は私が止めるまで気が付きませんでした。

 コートを囲むフェンスや大木、隣の大学入学試験センターや体育館も大きく揺れ、建物の倒壊から逃れようとコートの中央に集まりました。治まるまでかなり長い時間に思えましたが、全員自転車だったので無事帰ることができました。 246号の三宿あたりでは余震で高速道路が揺れていたり、ヒヤリとする場面も。

 我が家近辺は地盤が固いと言われていました。 後日リビングボードの中の人形が倒れているのに気が付いた程度でした。しかし母が自宅で病に伏せ酸素吸入器を使用していたので、計画停電も無かったのが幸いでした。

 目黒区は東山地区に高級官僚が多く住んでいるので停電はあり得ないとのもっぱらの噂でした。