2012年7月31日火曜日

デモ見学の勧め



 ”トモヨー ヨアケマーエノー ヤーミーノナカデー”
とか
 ”ウイ シャル オーヴァーカーアム”
なんて、咽を嗄らして、怒鳴るように歌っていた1968,69年ごろの日米安保条約、ベトナム戦争反対の街頭デモ参加者たち。 当時若さを漲らせていた主役の団塊世代、70年安保世代は、何を求めていたのだろうか。 まさか、安保体制と自民党支配を倒して革命が成就されるなんて、誰も本気で思っちゃいなかったろう。

 1979年2月のイラン独裁者パーレビ支配を終らせたイラン革命。 のちにホメイニ信奉者たちが革命の果実を奪ってしまうが、当時、イラン人たちは思想も宗教も越えて、パーレビ打倒を目指し一致団結した。

 この世代のイラン人が言っていた。 「当時は、見ず知らず同士でも助け合う雰囲気が自然に生まれたんだ」と。 例えば、首都テヘランの街を歩いていて、にわか雨にあって濡れていると、通りかかった車が停まって「乗っていけ」と声をかけられるのが普通だった。 誰もが優しい心を持つようになったという。

 1986年2月フィリピンの独裁者マルコスが人民の100万人デモで権力の座から追いやられたころ、首都マニラにいた。 元来人懐っこいフィリピン人がさらに親しげな態度で寄ってくる。 バーで飲んでいるとき「おめでとう」と声を掛ければ、San Miguel ビールの一杯くらいは必ずおごってくれたものだ。 レストランでは、なにかをきっかけに、たちまちフィリピン国歌の大合唱が始まった。

 イランで、フィリピンで、人々のあいだに生まれたものは「連帯感」だと思う。 権力者たちではなく、無名の市民が何かを成し遂げた充実感の共有。

 70年安保世代は当時、何も成就することはできなかった。 そんなことは十分承知の上で街頭デモに繰り出していった。 そこにも、ある種の「連帯感」が生まれた。 みんなで馬鹿げたことをやっているんだぞ、という自虐的な連帯感。 それでも機動隊の催涙ガスに追われたあと、赤提灯で肉体労働者たちと飲む合成酒はうまかった。

 3・11の大災害。 日本人は呆然とした。 莫大な数の死者・行方不明者、東電の無責任体質、政府の間抜けぶり、政治家たちの国民を無視した政治議論と称するトンチンカンな口喧嘩。 すべてに呆然としたのだ。 このままでは、我々が乗っている日本という船は沈没してしまうのではないか。 どうにかしなければ。 

 毎週金曜日に、東京の総理官邸前に集まって反原発を叫んでデモをする人々を見に行った。 老若男女、様々な普通の人々の姿があった。 沈没前に、いても立ってもいられなくなって駆けつけてきたという印象だった。 多くの参加者がこういう催しに不慣れな人々だということは見て取れた。 緊張が表情にあらわれているからだ。

 そう、彼らが求めているのは、「未来への不安」を共有しようという「連帯感」なのだ。 もしかしたら、原発事故というのは、単なる象徴としての「不安」であって、実は、もっと漠とした巨大な不安がわれわれにのしかかっているのかもしれない。

 生レバーを食えない、鰻が高い、クソ暑いのに何が節電だ、上がる消費税、少ない年金、円高、欧州経済危機、シリア内戦、薄気味悪い北朝鮮…。 脈絡なく広がる不安の連鎖。

 うさ晴らしにデモにいくのもいいかもしれない。 警察官は相変わらず知性がなく、デモの規制や参加者数のカウント、写真撮影に忙しい。 だが、重装備の機動隊の姿はなく、当面は強制排除のような強硬策に出る様子はない。 楽しむなら、いまのうちだ。

 それに、日本人が、動員されたのではなく、自発的に、こんな大規模抗議行動をとるのを見る機会は決して多くない。 2003年3月の米国ブッシュ政権が始めた理不尽なイラク戦争に反対するデモは世界中に広がったが、東京での抗議は線香花火みたいなものだった。 とにかく、今回のデモは、歴史的とは言える。 見逃す手はない。

2012年7月23日月曜日

エジプト革命をどう見ようか



 エリザベス・テーラーが妖艶なクレオパトラを演じている古いハリウッド映画を最近、NHK/BS放送で見た。 2000年以上前、そのころの日本はまだ弥生時代だったが、映画で描かれているクレオパトラの宮殿のインテリアは、現在のエジプトの首都カイロにある高級ホテルより、はるかに豪華だった。

 映画のセットは無論大げさに誇張しているだろうが、それでも、あまりに非現実的ではウソ臭くなってしまうから、ある程度は史実を反映しているだろう。 古代エジプト文明は凄かったのだ。
 
 エジプト古代王朝は、日本が縄文時代だった紀元前3000年ごろ形成され、紀元前30年王女クレオパトラの自殺で終る。 最後の王朝は、紀元前332年アレキサンダー大王がエジプトを征服したあと樹立されたギリシャ系のプトレマイオス朝で、ヘレニズム文明の色彩が色濃く、エジプト王朝とは呼びがたい。

 それでは、ネイティブのエジプト王朝はいつまで続いたのか。

 紀元前1000年までにエジプトは、アッシリアなど他民族の侵攻を受けるようになり、紀元前525年にはペルシャに征服された。 その後もエジプト王朝は続くが、最後のエジプト人ファラオは、紀元前360年から342年まで在位したネクタネボ2世とされる。 最後は、ペルシャに追われて上エジプトへ脱出し、ヌビアへの亡命が許された。
 
 つまり、”エジプト人のエジプト人によるエジプト古代王朝”は紀元前342年に終った。 古代から様々な民族が集積してきたナイル川流域がエジプトの核を成すが、民族的に何をもってエジプト人と呼ぶかは難しい。 煎じ詰めれば、自分がエジプト人と思う人間がエジプト人であろう。
 
 その自分がエジプト人と思う人間たちは、最後のファラオ以来、第2次世界大戦後の西暦1952年ナセルを指導者とする自由将校団が150年続いたアルバニア人のムハンマド・アリ王朝をクーデターで倒すまで、実に2,293年間、外国人の支配を受けていた。
 
 以来60年余り。 古代王朝誕生から最後のファラオまでが2700年、それからナセルのクーデターまでが2300年ほど。 60年という期間は、戦争や大統領暗殺や人民革命など色々なことが起きたにせよ、気の遠くなるような歴史的時間の流れからすると、ほんの瞬間でしかない。

 2012年、エジプト初の民主的選挙による大統領が誕生したが、民主政治の定着には予断を許せない不安がある。 だが、ほんの60年という瞬間の中の出来事だ。 2000年単位で生きてきたエジプト人の歴史感覚を、時間尺度がまったく異なる我々が本当に理解できるとは思わない。
 
 おそらく、日干し煉瓦を積んだ粗末な家々が並ぶ農村の埃っぽい光景は、2000年前とそれほど違わない。 アッシリア人もペルシャ人もギリシャ人もローマ人もトルコ人もフランス人もイギリス人もなしで、エジプト人たちが自らの手で国家を作っていく様を、じっくりと見ていこうではないか。