2014年12月13日土曜日

もう一つの「ぺヤング焼きそば事件」


 確か、1987年のことだった。 イラン・イラク戦争は翌年終結するが、当時はいつ終わるともなく、戦闘がだらだらと続いていた。 イランの首都テヘランの市民は、食料やガソリンといった生活物資の不足に悩まされていた。 数少なくなった在留外国人にとっても、それは同じだった。 そんな中に、6,7人の日本人記者たちがいた。 主たる任務は、命がけの前線取材。 極度の緊張でずたずたになった神経を癒すために、彼らはテヘランに戻るとよく集まって密造のウオッカやワインで酔いどれたものだ。

 彼らは、本物のスコッチやビール、日本食に飢えていた。 たまに日本帰りの駐在員がお土産の日本食を分けてくれると、死肉に群がるハイエナのようにむさぼり食った。

 あるとき、日本の大臣が東京から同行記者を伴ってテヘランを訪問した。 こういう取材は日本政府がおんぶにだっこで、現地駐在記者とは異なり旅慣れない同行記者には、日本から運んできた食べ物や酒がふんだんに振舞われる(もちろん国民の税金で)。

 このとき、われわれテヘラン駐在記者たちも、同行記者たちにあてがわれたホテルのプレス・ルームに顔を出した。 そして、目は大きなテーブルの上に山積みされた即席麺やせんべい、菓子類に釘付けになった。 テヘラン組が長いこと口にしていなかったものばかりだった。

 「われわれも食っていいのかなあ」。 誰かがなにげなく同行組に声をかけた。 「どうぞ、どうぞ」と優しい返事。 すぐに心を通じ合ったテヘラン組はにんまりして、みんなで自分のカバンに、めだたない範囲で最大限の食い物を放り込んだ。

 その夜の酒盛りは、戦利品を並べて盛り上がった。 税金を取り戻したと。 

 宴たけなわのころ、誰かが即席麺を食べ始め、「こりゃあ、うめえなあ」と言った。 みんなで何を食っているのかと覗いてみると、<ぺヤング焼きそば>だった。

 今では常識だが、即席焼きそばは容器にお湯を入れ、3分たったらお湯を捨て麺にソースをかけて食べる。 だが、当時はそれほど普及していなかったのか、テヘラン住まいでボケていたのか、「うめえ」と言った記者は、お湯を捨てずにソースを混ぜたスープをズルズルすすっていたのだ。

 そのうち、誰かが不審そうに「それ、焼きそばだけどスープ付きなのかなあ」と言った。 まもなく日本から赴任したばかりの記者が気付いた。 「お湯を捨てないで食ってるのかよ、気持ち悪い。よく、そんなの旨いって言うな」

 以来、当時の記者仲間たちは日本に戻って何年たっても、このエピソードを「テヘラン・ぺヤング焼きそば事件」と呼んで、笑い話にしていた。

2014年12月12日金曜日

判読不能な「日本思想全史」


 稀有壮大とも言える時間的スパンの長さとテーマ。 「神話時代から現代まで日本人の思考をたどるはじめての本格通史」と広告は謳う。 筑摩書房が最近(2014年11月)出版した清水正之著「日本思想全史」(ちくま新書、1100円)にひかれて買おうと思ったが、とりあえず近くの図書館に行って借りた。

 早速読み始めてみて驚いた。 日本語なのに文意をまったく理解できないのだ。 例えば、「はじめに」は、こんな文章の羅列だ。

 「本書がとる視点は、選択-受容-深化としての思想史である。その特徴として、選択・受容の局面における比較的視点ないし、相対主義的視点の把持ということを指摘しておきたい」

 普通のオツムの人でもノーベル賞受賞者でも唖然としてしまうだろう。

 この本は一体なんだ! まるで暗号ではないか。 人が理解できないように書く文章。 コミュニケーションの手段である言葉の役割の否定。

 善意に解釈すれば、判読不能な悪筆の備忘録。 他人は読めないけれど、もしかしたら、すばらしい内容かもしれない。 あるいは、この分野の専門家だけが理解できる業界出版物。

 倫理学の大学教授だという著者が学生とどうやって相互理解をしているのか興味津々だ。 理解困難な本を出版する筑摩書房編集者の思考も世間離れしている。 なぜなら、若者ばかりでなく日本人全般の本離れが深刻になっている現状を最も深刻に受け止めているのは出版社であるはずだからだ。

 「はじめに」を読み終わる前に、パズルの解読に疲れて放り出した。 買わないでよかった。 きょうは図書館へ返しに行こう。 こうして、本離れとは言わないが、本屋離れが一人増えた。 

2014年12月8日月曜日

去っていったヤクザ映画のスターたち


 「刺繍」、「詩集」、「歯周」、違うんだよ! 「死臭」だよ! 

 中東の「洗浄」、いや「線上」、「船上」、「煽情」、「千畳」でもなくて「戦場」。戦争の現場を取材して生々しい記憶があるうちに、ワープロに向かって前線ルポを書き始めて変換キーを押したとき、ついさっきまでの殺戮の現場から、突然、平和な日本に時空瞬間移動をしたような錯覚を感じたものだ。

 当時使っていたワープロは持主の使用頻度が高い単語を優先する学習能力がなかった。「ししゅう」「せんじょう」と入力して「死臭」や「戦場」がすぐには出てこない。 当たり前のことだ。 平和な日本で作られたワープロにとっては、最も縁のない遠い世界の単語だからだ。

 だが、殺し合いが日常の世界に身を置いているとき、「刺繍」「詩集」「洗浄」「煽情」などという単語が突然目に飛び込んでくると、平和すぎる言葉があまりに場違いに思え、逆にギクッとする。

 今、その平和な日本で生活している。 多摩川の河川敷をよく散歩する。 この一帯は、テレビドラマかコマーシャルフィルムの撮影がよく行われる。
 
 あるとき、100メートルほど離れたところで、男たちが派手に動き回っている光景に出くわした。 どうやら、ドラマの乱闘場面を撮影しているらしい。 だが、遠くから見ても、本物の乱闘には見えなかった。 相手を倒そう、殺そうという恐さがないのだ。 ひと目でにせものとわかる。
 
 テレビや日本映画で見るチャンバラやヤクザの乱闘、殺人といった場面も、どこか現実味に欠けている。 人が殺されるときは、殺される側ばかりでなく殺す側も凄まじいストレスにさらされる。 だが、たいていの娯楽映画には、そういう緊迫感がない。

 昔の東映映画、「旗本退屈男」の市川歌右衛門は、厚化粧で額に三日月形刀傷のかさぶたをいつも付けていた。子ども心に、あのかさぶたはどうしてとれないのだろうかと思ったものだ。 そして、かさぶた男は派手な着物に返り血を一滴も浴びることなく悪人を次々と切り倒し、大見得を切る。
 
 華麗に舞うような立ち回りは日本映画の殺陣と呼ばれる伝統だ。 だが、実際の殺し合いではありえない様式美。

 太平洋戦争で、日本人たちは、あれほど人を殺し、自分たちも殺されたのに、なぜか殺しの記憶をなくし、非現実的な殺しの場面を作る。 今では日常的に殺しの場面を見ることがないから、現実的な醜い殺しではなく、美しい殺しをイメージした場面を作ってしまうのかもしれない。

 アメリカ映画は違う。戦争を飽くことなく体験し、日常の生活でも殺人に身近に接しているアメリカ人が映画で描く殺し合いの場面は迫力がある。 彼らは殺しを現実のものとして知っているからだ。

 日本映画は、この観点からすると児戯に等しい。 最近死去した俳優・高倉健も菅原文太も、ヤクザ映画では非現実的に”美しい”スターでしかなかった。

 彼らが演じる男たちは、まるで料理人が包丁で魚をさばくように、躊躇なく人を切る。 そういう人間も本当にいるかもしれないが、非常に稀な存在であろう。 そんなことをできる主人公であれば、いかにしてそういう人間になったのか壮大なドラマをまず作らねばなるまい。 だが、高倉健も菅原文太も生まれつきのように、人を殺す精神力と技術を身に着けていた。
 
 彼らが出演したヤクザ映画がどんなに観客を集めようが、この非現実性からすれば、なんともちゃちなB級娯楽映画でしかない。

 シネマコンプレックスなどなかった20世紀の時代、映画は映画館で観た。 あのころは、新しい洋画はロードショー、日本映画は封切りと言っていたと思う。そして、普通の人たちはヤクザ映画に高いカネを出して封切り館で観ることなどなかった。 当時は、古くなった映画を上映する2本立てとか3本立ての安い映画館があちこちにあった。 休憩時間には石原裕次郎の物憂げな歌が流れ、館内はタバコの煙が充満し、便所の臭いと混じり合って、独特の安映画館臭というものがあった。

 健さんも文太兄いも、こういう映画館のヒーローだった。 ヤクザ映画全盛の時代が去ったあと、二人が演じていたのは、”足を洗ったヤクザ”のイメージだった。 高倉健が演じた「幸福の黄色いハンカチ」の主人公は、文字通り、網走刑務所を出所したばかりの男だった。 ヤクザ以降、彼の役柄は、どれも刑務所帰りの男が漂わせると思われる暗さをイメージしていた。 まるでシリーズもののように、同じ暗い雰囲気の男。 菅原文太は、ヤクザと暴走トラック運転手から足を洗い、俳優の足も洗ってしまった。

 彼らは間違いなく、平和日本で制作されたB級大衆娯楽映画の人気スターだった。 これだけでも十分な褒め言葉ではないか。 だが、果たして、名優だったのだろうか、と思う。

2014年12月2日火曜日

「居酒屋兆治」で呑む


かしら 80円
しろ、ればあ、たん、はつ、がつ、こぶくろ 70円
煮込 280円
もずく 280円
自家製らっきょう 350円
豚足 200円
カニみそ 350円
いか丸焼 450円
すだこ
たこぶつ 360円
じゃがバター300円
ほっけ 400円
ほたて貝柱 450円
枝豆 300円
塩辛 200円
お新香 200円
あさりバター350円
ビール  450円
お酒 200円

 きのうの夜(2014年12月1日)の民法テレビで、最近死去した俳優・高倉健を追悼して彼の出演作「居酒屋兆治」をやっていた。 初めて見た。 それで「ありゃっ!」と気付いたのは、この映画は函館が舞台だったのだ。

 今年の3月に初めて函館に行って、この街をすっかり好きになってしまい、地元の人しか集まらないような居酒屋に何軒も立ち寄った。 そういうわけで懐かしさもあって、この映画をつい最後まで見てしまった。 ついでに、「兆治」の店の壁に書いてあるメニューを写真に撮って拡大して書き写したのが、上の値段だ。

 どうだろうか、現在のノンベエ金銭感覚からして安いか高いか。 ちなみに映画は1983年制作、30年前だ。

 多少安いとは思うが、それほど違和感はないのではないか。 最近は激安のチェーン店もあるし、北海道の飲み屋は東京と比べ割安でもあるし。

 「食べログ」で函館のヤキトリ屋を検索し、1000円~1999円という安い料金設定の店のメニューをみると、砂肝、はつ、レバー、かわ130円、中びんビール560円。 確かに30年の差は歴然としているというところか。

 それでも、思い起こしてみると、函館の生活感覚、じゃなかった、飲み歩き感覚からすれば、「兆治」の値段が妥当に思えるのが不思議だ。 きっと、知らず知らず、函館の夜を歩いているうちに、「兆治」に迷い込んでいたのだ。

 映画の最後に、兆治の妻役・加藤登紀子作詞作曲「時代おくれの酒場」の歌声が流れる。 もちろん歌い手は高倉健。

この街には 不似合な
時代おくれのこの酒場に
今夜もやってくるのは
ちょっと疲れた男達

 この歌詞は絶対にへんだ。 函館という街には時代おくれの酒場がとても似合うからだ。

2014年11月24日月曜日

十勝岳は大丈夫か



 毎年12月に、北海道の富良野スキー場で初すべりをするのが、ここ10年以上の恒例になっている。 旭川空港から富良野まで、左手に雄大な大雪山系、十勝連峰を眺めながらバスで1時間ほど。 この一帯は、夏はラベンダー畑、冬は広々とした雪原で知られている。 大好きな景色のひとつだ。 今年も行く予定だ。

 だが、ふと思った。 今年は御嶽山の大きな噴火があって多くの人が死んだ。 十勝連峰の主峰・十勝岳も火山だ。 おとなしかった御嶽山が突然暴れだしたんだから、十勝岳で同じことが起きてもおかしくないんじゃないかと。

 早速、ウェブで調べてみると、毎年バスで通過している上富良野町に「土の博物館 土の館」というのがあった。 そこには、1926年の十勝岳大噴火による泥流災害の様子を示す悲惨な写真が展示されている。 それがここに掲載した写真だ。 写真とともに、こんな説明があった。

 「1926年、十勝岳大爆発によって25km離れた富良野原野の田園風景は、たった25分というわずかな時間の間に泥流で埋め尽くされてしまいました。鉱毒を含んだ土は草も生えず、何とか土を甦らせようと客土を何度も繰り返して最上部の現代の豊かな土層になったのです。その作土層に、どん底から立ち上がり、土と生きた人々の強い意志を感じ見る事ができます」

 十勝岳がたまに噴火することは耳にしたことはあったが、美しい景色の下によこたわっていた悲惨なドラマには、まったく目を向けていなかった。 今年も旭川からスキー場に直行するから、「土の館」を覗くことはないだろう。 だが、十勝岳について、少しは知っておこうという気になった。

・・・・・・・・・

 十勝岳の噴火が歴史に登場するのは1857年(安政4年)。この年、松田一太郎なる人物が石狩川水源踏査の帰途に十勝岳に登頂したとの記録があり、この中で硫気活動についても触れている。

 1887年(明治20年)の噴火は黒煙を噴出し、周辺に降灰したと記録されている。

 1923年、溶融硫黄の沼を出現させ活動を再開した。 1925年2月頃より小規模な噴火を繰り返していたが次第に活発化し、1926年5月からは小火口を形成するなど大規模な噴火が発生した。中でも5月24日12時ごろにグラウンド火口の中央火口丘西側で発生した水蒸気爆発では、小規模な火山泥流が発生して現在の望岳台付近まで流下した。16時18分には大規模な水蒸気爆発が起こり中央火口丘の西半分が崩壊、これにより生じた岩屑なだれは噴火から約1分で火口から2.4kmの地点にあった硫黄鉱山の平山鉱業所宿舎を飲み込み、さらに山頂付近の残雪を融かして泥流を発生させた。この泥流は美瑛川と富良野川を一気に流下し、25分で約25km離れた上富良野市街に到達した。火山弾・スコリア流によるものも含めると、上富良野を中心に死者・行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。

 9月8日にも十勝岳は小噴火を起こし、2名が行方不明となった。その後も火山活動は続き、終息を迎えたのは1928年(昭和3年)12月4日の小噴火後であった。中央火口丘が崩壊した跡にはごく低い非対称なスコリア丘が形成され、その火口は大正火口と呼ばれるようになった。以降、1952年までは比較的平穏な期間が続く。

 このときの噴火を描いた小説として、三浦綾子の『泥流地帯』及び『続・泥流地帯』がある。

 1952年頃から摺鉢火口北西側で噴気が活発となっており(52年噴気孔群または昭和火口群)、直前には地震も頻発していた。1962年6月29日22時40分ころ、中央火口丘南側にあった湯沼火口付近で水蒸気爆発が発生。翌30日2時45分には大規模なブルカノ式噴火が発生、噴煙は高度12,000mにも達した。東の広い範囲に降灰し、千島列島中部でも降灰が観測された。大正火口付近の硫黄鉱業所には火山弾が直撃し、死者・行方不明者5名、負傷者11名を出した。この噴火は同年8月末には終息し、湯沼火口を通って北西-南東方向に伸びる線上に4つの火口(62-0,62-1,62-2,62-3)を残した。最も活発だった62-2火口は中央火口丘とほぼ同じ高さのスコリア丘を形成している。1968年、1969年の群発地震以降は一連の活動は次第に沈静化していき、1974年5月ころから、62-1火口からの噴気を再開させるが翌年6月には沈静化する。

 人的被害とは対照的に、1962年噴火では大正噴火をはるかに上回るエネルギーが放出されている(『十勝岳』(北海道防災会議、1971)参照)。

 1983~1987年、群発地震と小噴火を繰り返す。

 1988年 群発地震を繰り返し、12月62-2火口から小噴火。

 1989年 小噴火、群発地震の発生を繰り返す。火砕流、火砕サージ(火砕流の先端部で発生する高温ガス流、熱雲)の発生を確認。周辺140kmにわたり降灰。美瑛町、上富良野町の住民約300名が一時避難。3月以降、群発地震を伴いつつも噴火降活動は沈静化。

 この噴火により1990年(平成2年)まで入山禁止となった。

 1997年以降、空振を伴う火山性地震や噴気を観測するが激しい噴火活動は観察されていない。2004年2月と4月には有色噴煙や振幅の小さな火山性微動を観測。2012年8月および2013年6月には大正火口で発光現象が観察されている。

<防災>
 冬場に火山活動が活発化した場合、融雪により大規模な泥流、土石流の発生が見込まれる。発生が懸念される泥流規模は極めて大きく、流下を完全に防ぐことは難しいことから、白金温泉の高台には避難所が設置されている。地震計、空震計、GPS観測点などのテレメトリー観測、治山事業、砂防事業、被災範囲や避難経路などを整理したハザードマップの整備が進められている。
(Wikipedia)

上富良野町の防災対策
http://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/index.php?id=73

十勝岳の火山情報
http://www.tenki.jp/bousai/volcano/detail-8.html

2014年11月9日日曜日

朝鮮人虐殺の現場を訪ねて

京成線八広駅近く。スカイツリーを望むこの付近は虐殺の現場だったという。

韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 東京で生まれ長く住んでいても、自分の生活圏の外を訪れることはほとんどないから、「東京っ子の東京知らず」だ。 東京の西部がずっと生活拠点だったから、東部の下町、東京の原点というべき一帯については、地名は知っていても土地勘はまったくない。 江戸を舞台にした時代小説や江戸弁丸出しの落語は好きなのに、その世界は、まるで外国のようだ。

 成田空港へ行くのに、最も安い電車ルートは京成線利用なので、下町は頻繁に通過している。 それじゃあ途中下車してみようと思いたって、押上の次、荒川に面した八広で降りた。 「おとなの下町散歩」の一般的コースとしては、かなり妙な出発点であるのはわかっている。

 八広駅から外に出てみると、小さな家がぎっしりと建てこんだ住宅密集地だった。すぐそばに、高くて長い塀のように荒川の土手が聳え立っていた。 登って歩き回ってみた。 色も形も違う家々が雑然とひしめく向こうに、超近代的建造物、東京スカイツリーがよく見えた。 醜悪なほど釣り合いの取れないグロテスクな光景。 無秩序な東京の象徴。 それを見られたのは収穫だ。

 だが、八広で降りた目的は東京スカイツリー見学ではなく、この土手の下に見えるちっぽけな石碑だ。

 「韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」。

 1923年9月1日の関東大震災で、この一帯からは多大な犠牲者が出た。 その中には、被災者だけでなく、日本人に虐殺された多くの朝鮮人もいた。「朝鮮人が混乱に乗じて攻めてくる」「朝鮮人が井戸に毒薬を投げ込んだ」といった流言飛語が拡散し、自警団が手当たり次第に朝鮮人をみつけては殺害したとされる。 殺された中には中国人も多くいたという。 この悲惨な出来事を悼んで2009年に建てられたのが「追悼之碑」だ。

 日本社会の陰湿な右傾化がこのまま進んでほしくはない。 だが、現状が続けば、この石碑が狂信者たちに破壊される恐れが十分にある。 そう思って今のうちに見ておこうという気になったのだ。 今年の夏、右翼たちは従軍慰安婦問題で勝どきの気勢を上げ、関東大震災時の朝鮮人虐殺を次の標的にしようとしていた。 「虐殺はなかった、悪かったのは朝鮮人だ」と。

 小さな石碑の横のメッセージは、こう刻まれている。 「歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。 多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された」

 この虐殺に関しては、まだ全容が解明されておらず、かなりの議論の余地がある。 ここには備忘録として、日本弁護士連合会の内閣総理大臣・小泉純一郎宛て勧告書(2003年8月25日付け)と、これに別添えした「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」を添付する。 長大な文書だが読む価値がある。

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日弁連総第39号
2003年8月25日
内閣総理大臣 小泉 純一郎 殿
日本弁護士連合会会長 本林 徹

勧 告 書

  当連合会では、申立人文戊仙(ムンムソン)による関東大震災時における 虐殺事件に関する人権救済申立事件について調査した結果、下記のとおり勧告します。



第1  勧告の趣旨
  1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、 遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、 その責任を認めて謝罪すべきである。
  2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。

第2  勧告の理由
  別添調査報告書記載のとおりである。

以  上
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<関東大震災人権救済申立事件調査報告書>

2003年7月
日本弁護士連合会 人権擁護委員会

【目次】
第1章 申立の概要
  第1 当事者
  第2 申立の趣旨
  第3 申立の理由(概要)
第2章 調査の経緯
第3章 当委員会の判断
第4章 上記判断に至った理由
  第1 関帝大震災による雁災と戒厳令、虐殺の発生
  第2 虐殺事件の背景となった戒厳宣告
   1 関東大震災における戒厳令
   2 戒厳宣告の手続上の問題点
   3 事件の重大な背景としての戒厳宣告
  第3 軍隊による虐殺
   1 認定と根拠
   (1)認定
   (2)認定の根拠
   2 軍隊による朝鮮人殺害
   (1)政府=の記録に残る事件
   (2)上記以外の事件
   3 軍隊による中国人虐殺
   (1)軍の関与
   (2)大島町事件
   (3)王希天事件
   (4)中国人の虐殺被害者数について
   4 結論
  第4 自警団による虐殺
   1 事実
   (1)新聞報道
   (2)刑事確定記録
   (3)刑事裁判についての新聞報道
   (4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
   2 自警団による虐殺に関する国の関与
   (1)朝鮮人に関する虚偽事実の流布(流言飛語)
   (2)流言飛語の原因となった虚偽事実の伝達一内務省警保局長発の打電
   (3)行政機関による虚偽事実の伝達と自警団の組織
   (4)刑事事件判決に判示された事実
   (5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録
   (6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について
   (7)流言飛語の発生・自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺
   (8)当時の政府機関における朝鮮人に対する考え方
   (9)マイノリティー保護に関する国際的認識
   4 結論
第5章 再発防止の重要性
【資料目録】


第1章 申立の概要
1999年12月10日提出の人権救済申立書によると本件申立の概要は次のとおりである。

第1 当事者
    申立人 文戊仙(ムン ムソン)
    現住所 (略)
    本 籍 (略)
    代理人 (略)
    相手方 日本政府

第2 申立の趣旨
1) 関東大震災時の朝鮮人虐殺は 「集団虐殺」 であり、重大な人権侵害であることを明らかにせよ。
2) 朝鮮人虐殺は、外国人虐殺であるから、国際法により外国人(他民族) に対する集団虐殺行為としての責任があることを明らかにせよ。
3) 集団虐殺の加害責任者を日本の国内法により処罰しなかった日本政府の責任をあきらかにせよ。
4) 日本政府は、虐殺の責任をみとめ、謝罪せよ。在日朝鮮人、在日外国人に対する集団虐殺の再発防止措置をとれ。

第3 申立の理由(概要)
  申立人は、関東大震災発生当時から、日本に在住する在日朝鮮人である。
  申立人は、関東大震災の当時東京都品川区大井に居住していたが、父の知人が関東大震災直後に虐殺されたり、 虐殺をうけた朝鮮人が遺体に残酷な仕打ちをうけているのをみたりして、深く傷ついた。
  申立人は、本件虐殺事件で、政府が責任を認め、あるいは謝罪したことは一切ないと主張している。
  同種の事件を再発防止するためにも虐殺事件の政府の責任をあきらかにしてほしい。

第2章 調査の経緯

  事件委員会は、申立人本人から事情聴取を行い、また、別紙目録記載のすでに刊行された資料集、史料集を閲覧検討した。 とくに、重要な史料については原本ないし現物にあたり、それが現存しない、あるいは、確認困難である場合には、その史 (資) 料の所在を確認した。 さらに、史料を収集した団体及び個人に収集の経緯を確認することにより、資 (史) 料の信憑性の確認に万全を期した。
  史 (資) 料の確認のために、赴いたのは、東京都公文書館、防衛庁史料編纂所、憲政資料室等である。
  また、朝鮮人虐殺の加害者を処罰した刑事事件の確定判決閲覧謄写のため、前橋、横浜、浦和、千葉の各地方検察庁を訪問して、閲覧謄写の申請をした。
  上記各地方検察庁では結局のところ確定記録保存法にもとづき、閲覧を拒まれた。最終的には法務省とも交渉し、 確定記録保存法にいう保存記録ではないとの確認を得たが、結局上記各地検からは閲覧許可を獲得するにいたらなかった。
  このため、事件委員会は元立教大学教授山田昭次氏が歴史研究の目的で収集した判決のコピーを閲覧して、事実認定の資料として活用させていただいた。
  なお、関東大震災の際に発生した殺害等に関しては、朝鮮人、中国人のみならず、 社会主義者と目された日本人あるいは朝鮮人と間違われて殺害された人などが知られているが、申立の趣旨から、本報告書では、朝鮮人、 中国人の被害に限定して検討する。

第3章 当委員会の判断

  次の主文による勧告を日本政府に対して行うべきものと考える。
【主文】
1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、遺族、 および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪せよ。
2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因をあきらかにせよ。

第4章 上記判断に至った理由

  申立人による人権救済の申立を受けて、人権擁護委員会の任命のもとに事件の経過と国の責任を調査した事件委員会は、 国に対して前記のとおり勧告を出すべきとの結論にいたったので、調査の経緯、結論の基礎とした事実認定、その根拠についてここに記載する。

第1 関東大震災による羅災と戒厳令、虐殺の発生
  1923年9月1日午前11時58分、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨、茨城の1府、6県を大震災が襲った。 火災もおこり死者99,331人、行方不明43,476人、家屋全壊128,266戸、半壊126,233戸、焼失447,128戸に達した。
  1923年9月2日、政府は、帝国憲法8条に定める緊急勅令によって戒厳令を宣告した。9月3日には、戒厳地境を東京府・神奈川県全域に拡大した。
  東京戒厳司令官は、9月3日、職権によって戒厳令第14条の権利制限の適用について次のように定めた。
「一、警視総監及関係地方長官並二警察官ノ施行スベキ諸勤務。
  1 時勢二妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
  2 兵器弾薬等其ノ他危険二亙ル諸物品ノ検査押収。
  3 出入ノ船舶及諸物品ノ検査押収。
  4 各要所二検問所ヲ設ケ通行人ノ時勢二妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機二依り水陸ノ通路停止。
  5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中二立入検察。
  6 本令施行地域内二寄宿スル者二対シ時機二依り地境外退去。
 二、関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開鍼ス。」
 この震災の直後、朝鮮人、中国人が多数殺害された。

第2 虐殺事件の背景となった戒厳宣告
1 関東大震災における戒厳宣告
  戒厳令とは、一般に、非常時に際して通常の行政権、司法権の停止と軍による一国の全部または一部の支配の実現を意味する非常法をいい、 日本では、軍人勅諭の制定と同じ年である1882年 (明治15年) 8月5日に、太政官布告第36号として制定された。 その第1条は、「戒厳令ハ戦時若クハ事変二際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス」 と規定している。 日本においても、戒厳宣告の実体要件としては戦時もしくは事変を条件としており、対外防備のための非常法として制定されたものである。
  1889年に制定された大日本帝国憲法には14条で天皇の戒厳大権の規定が定められたが、戒厳の要件・効力を定めるべき新法が制定されなかったため、 太政官布告による戒厳令がその法律に代わるものとされた。
  しかし、帝国憲法下の軍事戒厳は日清戦争のとき1件、日露戦争のとき6件宣告されたのみで、日露戦争後は軍事戒厳が宣告された例はなく、 帝国憲法8条の緊急勅令制定権を利用した、もっぱら国内治安のための、いわゆる行政戒厳が行われた。 行政戒厳は、1905年日比谷焼打事件に際して東京市および周辺に、1923年関東大震災に際して1府3県に、1936年二・二六事件に際して東京市に、計3回行われた。
  本件における戒厳令も、帝国憲法8条に定める緊急勅令によって宣告された。

2 戒厳宣告の手続上の問題点
  関東大震災における戒厳宣告は、帝国憲法第8条に定める緊急勅令の形で発せられた。緊急勅令を発するときは、 枢密顧問の諮詢を経るという枢密院官制上の規定が存在したが、本件戒厳の勅令においては枢密顧問の諮詢を受けていない。 また、勅令は官報により公布されて有効となるとされているが、本件では官報に記載されず、号外扱いとなっている。
 このような戒厳宣告が、枢密院 (顧問) の諮詢を経ることなくなされたことは、緊急勅令によって戒厳を宣告する手続の適法性として疑問が残るところである。

3 事件の重大な背景としての戒厳宣告
  関東大震災によって多数の火災が発生し、これによる多くの死傷者がでたことは間違いないが、そうであるとしても、 なお、戒厳令を宣告して軍隊を出動させるべき必要があったかどうかは、疑問の余地なしとしない。 そもそも戒厳令は、「戦時若クハ事変二際シ」という戦争、内乱状態を前提として、敵からの攻撃に対処するために、行政権等の執行を停止させ、 「兵備ヲ以テ」 軍に国民生活を統括させるものである。
  このような戒厳令を震災という自然災害事態に対して宣告すること自体、中央および地方の官憲の危機意識を過剰に募らせるものであった。
  9月3日の関東戒厳司令官命令は、戒厳令にもとづく命令の施行の目的として、「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」 を挙げ (資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文 『関東大震災 政府陸海軍関係資料Ⅱ巻陸軍関係史料』 139貢)、不逞の挙を行うものを想定している。
  また、戒厳令は戒厳司令部に対して、押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など、 災害時における対処としては著しく過大な権限を与えた (前同書143貢)。
  これらは、大地震という自然災害に際しての救難・復旧などに通常必要な対応の水準を超えて、 騒擾その他の犯罪行為を予防・鎮圧する治安行動的な対応を意味している。このことは中央及び地方の各官憲に、 そのような治安行動が必要な事態が生じているという危機感を増幅させたと考えられる。
  また、このように増幅された危機感と認識は、後述するとおり、行政の指揮命令系統を通じた自警の指示や、 末端の巡査などの巡回等によって自警団などの民衆レベルにも浸透したものと考えられる。

第2 軍隊による虐殺
1 認定と根拠
(1)認定
  被害者の人数を確定するには至らないが、関東大震災において多数の朝鮮人・中国人が軍隊によって殺害された。
(2)認定の根拠
  従来、軍人による朝鮮人虐殺については、被害者側の目撃供述、その伝聞、元兵士による述懐など、 さまざまな記録が残されている (第一師団騎兵第十六聯隊見習士官越中谷利一の手記 (『現代史資料6』 x ⅳ)、 全虎岩 『亀戸事件の記録』 亀戸事件碑記念会編・国民救援会、崔承萬 「日本関東大震災わが同胞の受難」 『極熊筆耕-崔承萬文集』 等々)。 しかしながら、当委員会として、供述あるいは述懐する本人と面談することはすでに叶わず、 また、残された記録の裏付を諸事実と照らし合せて確認することも容易ではない。
  しかしながら、陸軍および政府に残る資料から、軍隊による殺害の事実を確認することができる。 また、中国人に関しては、資料収集者に対する聞き取りが実現したことから、これを判断の参考にすることが可能であった。

以下に検討の内容を記す。

2 軍隊による朝鮮人殺害
(1)政府の記録に残る事件
  『関東戒厳司令部詳報第三巻』 所収 「第四章 行政及司法業務」 の 「第三節付録」 付表 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」 (以下 「資料第3の1」 という) および 『震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書』 所収 「第十章 軍隊の行為に就いて」 の 「第四 千葉県下における殺害事件」(以下 「資料第3の2」 という) によれば、軍隊による多数の朝鮮人虐殺事件が認められる。
  上記2つの資料は、同一の事案について共通して記載している事例が多いので、主に資料第3の1に依拠して概観すると、 下表のとおり12件の軍隊による朝鮮人虐殺事件があったことが認められる。その被害総数は少なくとも数十人以上に及んでおり、 この資料に記載された殺害事件だけでも多大な数に上る。
  なお、下表④の事件については、後述 (3、(2)、エ) するように、被害者は中国人である可能性がある。

【表】
  月日 場  所 概    要
9/1 東京府月島4丁目付近 外泊休暇中の兵士が朝鮮人1名を撲殺 (資料第3の1)
9/3 東京府両国橋西詰付近 1兵士が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
9/3 東京府下谷区三輪町
45番地電車道路上 1兵士が朝鮮人1名を刺殺 (資料第3の1)
9/3 東京府大島町3丁目付近 3名の兵士が朝鮮人を銃把で殴打したことがきっかけで群衆・警察官
と闘争がおこり、朝鮮人200名が殺害された (資料第3の1)
9/3 東京府永代橋付近 兵士3名が朝鮮人17名を射殺 (資料第3の1)
9/3 東京府大島丸八橋付近 兵士6名が朝鮮人6名を射殺 (資料第3の1)
9/3 東京府亀戸駅構内 兵士1名が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
9/2 千葉県南行徳村下江戸川橋際 騎兵15連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1)
9/3 千葉県浦安町役場前 兵士1名が朝鮮人3名を射殺 (資料第3の1、2)
9/4 千葉県松戸地先葛飾橋上 1将校が1兵士に命じて朝鮮人1名を射殺 (資料第3の1、2)
9/4 千葉県南行徳村下江戸川橋北詰 1軍曹が兵士2名に命じて朝鮮人2名を射殺 (資料第3の1、2)
9/4 千葉県南行徳村下江戸川橋北詰 1軍曹が兵士2名に命じて朝鮮人5名を射殺 (資料第3の1、2)

  以上の事実によれば、軍は震災後の混乱の中で、理由なく朝鮮人を多数虐殺しているのであり、 これらの殺害 事件に関する国の責任は重いといわなければならない。また、これらの事件は、 裁判・軍法会議のいずれにもか からなかっただけに、軍隊による朝鮮人殺害の事実と国の責任を明らかにすることの意味は大きい。

(2)上記以外の事件
  軍隊が朝鮮人の殺害に関与したのは、上記事件に限定されるものとは考えられない。
  資料第3の2によれば、資料第3の2に報告されている 「千葉県下における殺害事件」 は、 「千葉地方裁判所管内に於て鮮人を殺傷したる事件を検挙し之が審理中軍人に於て殺害行為を為したりとの密告を為したるものあり。
  又被告に於て其の趣旨の陳述を為したりとて左記事実に付検事正より報告ありたるを以て直に之を陸軍省に移 牒したり。」 という経緯で、 正式に移牒を受けたものを軍として暖昧にすることができないことから、 報告をあ げていると考えられる。そして、資料第3の1が資料第3の2とかなりの程度重複していることから、 資料第3の2に掲げられた事件も、資料第3の1と同様の事情で表面化せざるを得ない範囲に留められているものと考えられる。
  また、資料第3の1は 「兵器」 を使用した事例とされている。 これは、小銃など軍隊が用いる兵器によらずに 殺害した事例は除外するとの意味とも受け止めうる。

3 軍隊による中国人虐殺
(1)軍の関与
  関東大震災時において、朝鮮人の虐殺のみならず、多数の中国人が殺傷され、この虐殺における軍隊の関与も認められる。

(2)大島町事件
  1923年当時、中国からの労働者は、南葛飾郡大島町、南千住、三河島の一帯に居住をしており、60数軒の中国人労働者の宿舎が存在した。 当委員会は、諸資料を調査の上、同年9月3日、この大島町で中国人集団虐殺が行われたとの事実を認めることができるとの判断に達した。 この認定の根拠は、以下の各証拠である。

ア 九月三日の朝、大島八丁目付近の住民は外に出るなと自警団員より命じられ、大島六丁目の中国人宿舎に兵士二名が来て、 中国人労働者たちを屋外に整列させ、八丁目の方へ引き立てて行った。(資料第3の3 『十一月九日丸山、大迫両人大島町中国労働者被害事件調査、 八丁目惨殺の件』 有)、『支那人被害及救済に関する件』)
  そして八丁目広場で軍隊による虐殺がなされた。第1回は朝、軍隊による2名の支那人の銃殺 (資料第3の4警視庁広瀬外事課長直話4行目)、 第2回は午後1時頃、軍隊及び自警団による約200名を銃殺及び撲殺 (前同直話5行目)、 第3回は、午後4時頃、約100名を殺害した (資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』 6行目)。

イ 昼頃、八丁目の宿舎に日本人数百名がやってきて、中国人174人を連れ出した。そして鉄棒、こん棒、斧等を持って、乱打乱殺した。 (資料第3の5在北京立田内務事務官翻訳作成の綜麟祥による大正13年8月14日付け中国人黄子連聴取喜一 『支那人誤殺事件宣伝者に関する件』。)
  この聴取書によると黄子連は、耳辺に負傷を負ったが、死を装い、殺害をまぬかれたのだと供述している。
  黄子連は、1926年に中国で死亡した(第3の6黄子連の姪である黄砕乃 (フアンツイナイ) の証言─仁木ふみこ震災下の中国人178ページ) がフアンツイナイによると黄子連は耳をたちきられ、頭も負傷していて、それがもとで死亡したのだという。 負傷した箇所などという作為の入る余地のない箇所について一致している黄子連の供述の信用性は高いと評価される。

ウ 当時、大島町8丁目146番地に居た木戸四郎 (当時27才、電気モータ販売業) によると 「五、六名の兵士と数名の警官と多数の民衆とは、 二百名ばかりの支那人を包囲し、民衆は手に手に薪割り、とび口、竹槍、日本刀等をもって、片はしから支那人を虐殺し、 中川水上署の巡査の如きも民衆と共に狂人の如くなってこの虐殺に加わっていた。 二発の銃声がした。あるいは逃亡者を射撃したものか、自分は当時わが同胞のこの残虐行為を正視することができなかった。」 (資料第3の7目撃者による 「支那人被害の実状踏査記事」)

エ 午後三時ころ、野重第一連隊第二中隊の岩波少尉以下六九名、騎兵一四連隊三浦孝三少尉以下一一名は、 群衆と警官四、五〇名が 「約二〇〇人の鮮人団を連れてきて、その始末を協議中」 のところに行き合わせて全員殺害した。 この点、わざわざ 「備考欄 本鮮人団、支那労働者なりとの説あるも、軍隊側は鮮人と確信しいたるものなり」 と記載されている点、 そして、大島八丁目という場所からしても、ここで鮮人としているのは、中国人と推測される (資料第3の1 『戒厳司令部詳報』 震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表 野重一及び騎一四)。 資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』 とも基本的に符合する。

オ さらに、田辺貞之助の 「番小屋につめていたとき、隣の大島町の六丁目に、死体をたくさん並べてあるから見に行こうとさそわれた。 (略) 空地に東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にして並べてあった。 数は二百五十ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頸動脈がしらじらとみえているのがあった。 (略) 『こいつらは朝鮮じやなくて、支那だよ』 と、誰かが云っていた。」(資料第3の8 『江東昔ばなし』) という記述も上記を裏付けるものである。

(3)王希天事件
  王希天 (1896年8月5日生) とは、当時、大島3丁目278番地に所在した僑日共済会の会長であった。 当委員会は、王希天も、軍により殺害されたものと認定する。なお、その殺害についての隠蔽も組織ぐるみに行われた疑いが存する。
  この事実を認定したのは、以下の資料による。

ア 国府台の野戦重砲兵第1連隊の中隊長であった遠藤三郎によれば (資料第3の9 『遠藤日記』 後記1967.10.3)、 「野戦重砲第七連隊にて逮捕し亀戸警察署に拘留を依頼す。鮮支人に対する住民の迫害より彼らの保護を同警察に依頼しありしも人員多数にて収容しえず、 予、戒厳指令部に連絡して習志野厩舎に収容するに決す。
  それが実施に先立ち佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て王希天のみをもらい受け、中川堤防上にて垣内中尉、その首を切り死がいを中川に流す。
  王希天は中国の大物と見え、その存否を中国政府より日本政府に問い合わせあり、外交部長自ら捜索に来り、外交問題ならんとす。
  警視庁の調べにより佐々木大尉の王希天受領の証書、亀戸警察より出でしため疑惑の目は陸軍に向けられる。 第七連隊長、中岡大佐も金子旅団長も本間題は全然、関知せずという。やむをえず江東地区戒厳参謀たりし予、責任を取り阿部信行参謀長、 武田高級参謀と図り、軍において受領せるも習志野へ輸送途中、本人の希望により解放し、その後の消息不明ということにして殺害を秘匿するに決したるものなり。
  正力警備課長は、その秘密を察知しありしが如きも深く追及せず (略)」 とされている。

イ そして、これを裏付けるものとして、野戦重砲兵第一連隊第六中隊の一等兵であった久保野茂次の日記には (資料第3の10 『久保野日記』) 次のように記されている。
  「一〇月一八日 (晴) (略) 王希天君は、その当時、我が中隊の将校等を誘い、支人護送につき労働者のため尽力中であった。快活な人であった。
  彼は支人の為、習志野に護送されても心配はないということを、漢文に害して、我が支那鮮人受領所に掲示された。支那人として王希天君を知らぬものはなかった。
  税務署の衛兵に行き、将校が殺してしまったということを聞いた。彼の乗ってきた中古の自転車は、我が中隊では占領品だな、 というて使用していた (略)」 「一〇月一九日 (晴) (略) その真相については逐一、ある者 (欄外に高橋春三氏より聞いたと書き込み) より聞いた。 中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒いでいるから訓戒をあたえてくれ」 というてつれだし、逆井橋の所の鉄橋の所にさしかかりしに、 待機していた垣内中尉が来り、君らどこにゆくと六中隊の将校の一行にいい、まあ一ぶくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。
  そして彼の顔面及び手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の一〇円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。 そして殺したことは将校間に秘密してあり、殺害の歩哨にさせられた兵より逐一聞いた (略)」 としている。 これらは、軍内部の者の証言であり、かつ複数の記録が詳細かつ細部で一致している。

(4)中国人の虐殺被害者数について
ア 王兆澄の調査では、虐殺された中国人は四〇七名 (四二〇名だが一三名だぶり) とされている。
  王兆澄は王希天と第八高等学校時代からの友人であり、ともに僑日共済会を創設した者である。震災後、山城丸で上海へ帰国。 そして、順次、帰国者から聞き取り調査を行った記録を新聞に 『日人惨殺華工之鉄証』 として発表した。
  「調査の手続きとしては、①死者の親族の報告、②死者の友人の報告、③宿舎の主人の報告によった。かれらはみな大島六丁目、八丁目の中国人宿舎にいた者で、 それらの宿舎の名は林合吉、林合発、周進順、夏日豊、張広進、呉元昌、陳意順 (七軒) である」 とする。

イ さらに 『中華民国僑民被害調査表』(1923年12月7日)、『震災時支那人被害状況表』、『中華民国留日人民被害調査表』(1924年2月25日)、 『日人惨殺温州僑胞調査書』(1924年5月5日) 等の調査がなされ、それらの調査の結果につき、重複を省き、合算すると被害者総数は758名となる。

ウ 当委員会としては、これらの被害者数について、実数として確定するすべを持たないが、 200数十名を越え750名程度の範囲の中国人が殺害されたと推定することには相当の根拠があると判断する。

4 結論
  以上のとおり、軍隊によって朝鮮人および中国人が殺害された事実が認定できる。
  なお、これらの虐殺の状況について、資料第3の1には、虐殺が正当防衛にあたるものであるかの如き記載が列挙されている。
  一例を挙げれば、資料第3の1の2例目には、 「鮮人と思わるる者夜警青年団員に追跡せられた結果窮して抜刀し群衆に迫り危険甚しく歩哨之を制したるも肯せす己むを得す…刺突し…射殺」 したと記載されている。 いわれなく自警団に追跡され危険を感じた朝鮮人が、仮に抜刀して身構えたのだとしても、これを刺突した上射殺しなければならない急迫不正の侵害は認めがたい。
  また、同4例目には、「該鮮人は突然右物入より爆弾らしきものを取出し将に投擲せんとし危険極なかりしを以て自衛上巳むを得す之を射殺せり」 と記載されているが、 投擲しようとしたという物体が爆弾であったとは記載されていないから、射殺後もそのような事実は確認できなかったのであろうと認められる。
  このように、あたかも正当防衛その他巳むを得ずに行ったものであるかのように記載されている各殺害行為は、 いずれも軍による朝鮮人殺害を正当化できるものではない。

第4 自警団による虐殺
1 事実
  関東大震災における朝鮮人虐殺の、相当な部分は民間人によるものであった。
  民間人による虐殺行為は、いわゆる自警団によるものであったことは、以下のとおり、様々な資料の示すとおりである。

(1)新聞報道
  当時の新聞報道記事によれば、東京日々新聞 (大正12年10月21日) は、 船橋町の虐殺について 「鮮人の行衛不明にぢれ気味であった船橋自警団初め八栄村自警団など約150名は…全部を殺害し」(資料第1の1、『現代史資料6』 207頁)、 「保土ヶ谷久保山方面で行われた青年会自警団等の殺人事件に関し詳細聴取」(同208頁) 等を報道している。 同様に、読売新聞 (大正12年10月21日) は 「子安の自警団員の多くは日本刀を帯いて自動車を走らせ…五十余の鮮人は死体となって鉄道路線に遺棄された」(同210頁) と報道し、国民新聞 (大正12年10月12日) は 「暴行自警団員及陰謀事件の犯人検挙」(同211頁) を報じるなど、 当時の多数の新聞記事が自警団による朝鮮人殺害事件を報じている。

(2)刑事確定記録
  さらに事実関係の確実性が信頼できる資料としては、刑事確定記録として保管されている刑事事件判決が挙げられる。 以下に、判決文のうち罪となるべき事実として判示された虐殺行為の部分を抜粋する。

① 本庄事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の1)
  「当時極度に昂奮せる群衆は同署 (注:本庄警察署) 構内に殺到し来りて約三千人に達し同夜中 (注:9月4日夜) より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人三名を殺害し

一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍 (証拠略) を使用し他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四五名を殺害し

一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ (以下略)」

② 神保原事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の2)
  「約一千の民衆は忽ち諸方より来りて該自動車 (注‥保護した朝鮮人を乗せた警察車両) に蝟集し其進路に粗朶を横えて内二台を停車せしめたる上 同日夜半迄に亘り車中の鮮人に対し暴行を加えたる際右群衆に加りたる被告A,B,C,E,F,H,Ⅰ,K,L,M,N, Sは各粗朶棒又は竹棒等を以て鮮人一名乃至数名を殴打し被告0,P,Q,Rは 『ヤレヤレ』 と叫びて群衆を声援激励し以て孰れも他に率先して該騒擾を助勢し」
  (中略)
  「右取調の終了するや忽ち該鮮人に対し暴行を加え騒擾をなしたる際被告G,J, Lは右群衆に加りたる上Gは粗朶棒を以て該鮮人を殴打しLは小刀を以て該鮮人を突きJは 『ヤレヤレ』 と叫びて群衆を声援激励し以て執れも他に率先して該騒擾を助勢したり (以下略)」

③ 寄居事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の3)
  「被告Aは戊 (ママ)(判決63貢確認) 等百余の群衆に対し鮮人は吾人同胞の仇敵なり桜沢村に於ける木賃宿真下屋にも鮮人滞在し居れる筈なれば 何時不逞の所行に出づるや計り知るべからず予め之を襲撃殺害するに如かざる旨を演説し以て群衆を扇動したるより被告B,C,D,E,F,G,J,Ⅹ,L, M等及群衆は之に応じAと共に各日本刀竹槍鳶口梶棒等凶器を携え前記真下屋に向い
  (中略)
  一、被告Aは前記鮮人甲が畄置場より玄関辺に逃走し来るや同所に於て自己有に係る処携の日本刀 (証拠略) にて同人に対し二回斬付け尚右騒擾中ヤレヤレと叫び群衆の暴行を扇動し

  一、被告Bは右甲が畄置場より分署前の庭に引出され群衆の乱撃を受け死に瀕し居りたる際自己所有に係る所携のイゴの棒 (証拠略) にて同人に対し一回殴打し

  一、被告Cは同所に於て同様瀕死の状態に在りたる右甲に対し自己所有に係る所携の檪の棒 (証拠略) にて二回殴打し (以下略)」

④ 熊谷事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の4)
  「一、被告Aは前記八丁地内に於て熊谷町消防組頭乙より鮮人十名の遞送方を託せされ乏が護送中内二人を殺害する目的を以て 故意に当時避難民の収容所なる同町熊谷寺境内に引率し行きたる上同所に於てCD等と共謀の上目本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

  一、被告Bは同日同町熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に手斧を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

  一、被告Cは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Dと共謀の上殺意の下に日本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

  一、被告Dは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Cと共謀の上殺意の下に日本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し尚犯意継続して 同日熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に右日本刀を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し (以下略)」

⑤ 片柳事件 (浦和地方裁判所判決1923年11月26日)(資料第4の5)
  「鮮人甲が同村大字染谷地内に逃げ入り消防小屋附近に差掛るや折しも同所に警戒し居りたる乙の為に覚知せられて追跡を受け同人方裏手の里道を逃走中圖 (はか) らず不逞鮮人の来襲なりと聞き伝え其場に駆付け来りたる被告A及びBの両名と出会しAは槍 (証拠略) Bは日本刀 (証拠略) を持て右甲を追跡し同染谷字八雲耕地地内に追迫り同所丙方附近の里道に於て甲が後方に振向くや Aは前記の槍にて忽ち同人の胸部を突刺し甲が逃れて附近の薑畑に入り畑構に転倒するや Bは前記の日本刀にて其左肩辺を斬付け同時にAは右槍先にて甲の前頭部辺を殴打したるも同人は直ちに起上がり 更に十数間を距る同所甘藷畑に逃入り再び転倒するや被告CDE等も亦不逞鮮人の襲来なりと聞き其場に駆け付け来り同甘藷畑に於て Dは日本刀 (証拠略) を持て甲の右腕辺にCは日本刀 (証拠略) を持て其腎部辺に各斬付けEは槍 (証拠略) を持って其後頭部辺を突刺し其結果甲は重傷を負い救護の為同郡大宮町萩原病院に収容せられたるも同日午前九時頃死亡するに至りたるもの (後略)」
  また、前橋地方裁判所1993年11月14日判決 (資料第4の6) は、警察署に保護されていた朝鮮人に対する殺人等事件について、 「自警団を組織して各自警戒に努めて居たる」 旨を判示している (同16丁)。
  東京をはじめ、関東近県の裁判所において、同様の刑事裁判が行われている (次項参照)。しかし、残念ながらこれらの刑事確定記録は、 当委員会の調査によっても閲覧・謄写することが認められず、引用することができなかった。

(3)刑事裁判についての新聞報道
  上記のとおり、浦和地裁と前橋地裁における裁判以外は、刑事記録の閲覧謄写ができなかったが、上記のような刑事訴訟の内容は、 当時の新聞によって多数報道されている。
  判決謄本を見ることができなかった地域においても、元立教大学教授山田昭次氏の調査によれば、 当時の新聞報道等によって以下のとおりの判決が出されていることが分かる。
①東京地方裁判所管内
  花畑事件        (被告人10名)
  西新井村与野通り事件 (被告人2名)
  千住町事件      (被告人1名)
  南千住町事件A    (被告人2名)
  南千住町事件B    (被告人7名)
  巣鴨町宮下事件   (被告人1名)
  千歳村烏山事件   (被告人13名)
  平塚村蛇窪事件   (被告人3名)
  世田谷町事件     (被告人1名)
  五反田事件      (被告人9名)
  荒川放水路事件A  (被告人1名)
  荒川放水路事件B  (被告人1名)
  吾濡町亀戸事件   (被告人2名)
  吾滞町大畑事件   (被告人1名)
  吾滞町請地事件   (被告人5名)
  亀戸町遊園地事件  (被告人5名)
  亀戸事件        (被告人6名)
  南綾瀬村事件     (被告人11名)
  寺島村事件      (被告人12名)

②千葉地方裁判所管内
  小金町事件      (被告人1名)
  馬橋事件A       (被告人6名)
  馬橋事件B       (被告人2名)
  馬橋事件C       (被告人6名)
  浦安町堀江・猫実事件 (被告人10名)
  流山事件        (被告人6名)
  船橋事件A       (被告人14名)
  船橋事件B       (被告人7名)
  中山村事件      (被告人8名)
  千葉市事件      (被告人1名)
  佐原事件        (被告人9名)
  滑川事件        (被告人14名)

③宇都宮地方裁判所管内
  間々田駅事件     (被告人8名)
  石橋駅事件      (被告人7名)
  小金井駅事件     (被告人7名)

④横浜地方裁判所管内
  鶴見町事件      (被告人4名)
  横浜市公園バラック事件 (被告人1名)

(4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
  陸上幕僚総監部第三部署 『関東大震災から得た教訓』(資料第4の7) は、「震災発生直後の状況」 として、 「鮮人の暴動、津波の襲来などの流言、飛語が流布されたので、期せずして隣保相寄って自らを守り、生きるために物資を奪う等一時騒じょう化した」 とし、 続いて 「じ後の状況」 として 「引続き自警団の暴行、食料倉庫の襲撃等混乱を極めた」(同3頁) と述べており、 当時の騒擾的状況が自警団によって作り出されたことを強調している。
  自警団の実態について、以下同書から引用する。「自警団の組織は必ずしも一様でなく、おおむね各区、町村の青年団、在郷軍人、消防団等を中心とし、 これに町会、夜警、親睦会を加えたもので組織された」(同14頁)。 自警団の目的は、「当初においては各自の生命、財産、自由の防衛及び相互扶助並びに罹災者の救護にあったが、 流言が一度出るともっばら鮮人の来襲に備えるのをもって最大の目的としたようである」(同書14頁)。 「9月16日の調査による団体数は、市部526、郡部583である。」(同書14頁)。
  警視庁警備部と陸上自衛隊東部方面総監部による資料でも、同様の記載がある。「9月16日の調査によれば市部に562、郡部に583団体が組織され、 多い団体は110名、少ない団体30名であったが、逐次その数を増し、10月20日ごろには市部774、郡部810、合計1584団体の多数に上り、 また1団の数も多いものは750名という大きな組織をもつものもあり、これがため統制も乱れ、過激粗暴の行動に出るものも少なくなかった。」 (資料第4の8、警視庁警備部、陸上自衛隊東部方面総監部編『大震災対策研究資料』70頁)。
  「団員は各自刀剣、木刀、こん棒、竹やり、銃、とび口、くわ、玄能、かま、のこぎり等あらゆる凶器を携帯し、町村の要所および出入口に非常線を張り、 通行人に対し、厳重な尋問を行ない、朝鮮人の疑いあるものは警察署に同行し、あるいは迫害を加え、中には勢をたのみ暴行、 りゃく奪、殺傷事件をひき起こすものもあり、また、団体加入を強要したり、寄付金を強要するなど、専横をきわめる団体も現れるにいたった。」(同書同頁)。
  「民衆は自警団を組織して朝鮮人に対して、猛烈な迫害を加え」 た (同書67頁)。
  震災後の犯罪発生数については、「9月、10月に殺人犯が激増して漸次減少している9月中の殺人は、震災直後の9月1日から3日までに多発しており、 これらの原因は、鮮人来襲に対する自警団の凶暴的行為がその最たるものであった。」(同書72頁) としている。

2 自警団による虐殺に関する国の責任
  自警団による朝鮮人虐殺の事実は、民間人による犯罪行為ではあるが、その背景と原因を精査するならば、国の責任に言及せざるを得ない。

(1)朝鮮人に関する虚偽事実の流布 (流言飛語)
  そもそも、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不逞行為をおこなっているという喧伝は、 客観的事実ではない流言飛語であった。少なくとも、各所で多数のそうした行為が行われたり、組織的な行為が行われたという形跡はない。 これが流言飛語であったことは、以下のとおり当時の警察文書の記載からも明かな事実である。
  例えば、警視庁編 『大正大震火災誌』(資料第1の1『現代史資料(6)』 39頁以下) は、「鮮人暴動の蜚話に至りては、 忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く」 「流言蜚語の、初めて管内に流布せらりしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、 最も甚しく、其種類も亦多種多様なり。」(同39頁) と記載し、以下時々刻々の流言飛語の状況と内容を摘示し、 その取締状況と朝鮮人保護の状況に至るまで詳細に記録している。 これは、鮮人暴動・不逞行為などの言説がおよそ客観的事実にもとづかない流言であったことを直截に物語るものである。
  また、警視庁編 「大正大震火災誌抄」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 49頁以下) は、 警視庁管内の各警察署における朝鮮人に対する殺害などの犯罪行為を詳細に記録した史料であるが、この記録においても、 「鮮人暴動の流言熾に行はれ」 「鮮人暴挙の流言行はるるや」 「流言蜚語の初めて管内に伝播せらるるや」(同49頁) 等と記載されており、 一貫してこれらが流言に過ぎなかったことを明らかにしている。
  後述のとおり、海軍省船橋送信所から打電された内務省警保局長発の打電は流言飛語の大きな原因になったのであるが、 船橋送信所は、当時それだけはでなく、遭難信号や応援依頼の送信を繰り返して、 「鮮人暴動」 「来襲」 等の打電を連送したことによって流言飛語の各地への拡大・伝播に大きく寄与したことがあきらかになっている。 そして、この一連の打電の顛末を報告する軍関係文書、 東京海軍無線電信所長の大正12年10月1日付横須賀鎮守府参謀長宛 「船橋送信所無線電報に関する件」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 20頁) は、 「情勢不明にして騒擾の真相を確かむるを得ず避難者より或は青年団より誇大な情報」 と記載し、 「不逞鮮人来襲」 が客観的事実に基づくものではなかったことを認めている。 同様に、この船橋送信所の所長である大森大尉自身の報告書 「送信所にて採りたる処置並びに状況」(資料第1の1 『現代史資料 (6)』 23頁) は、 「警備に関しては送受両所間の聯絡杜絶せしため種々の錯誤を生じ遺憾の点多かりしも・・・終始不安に堪へざりし為如斯失態を演じ・・・ 結果より見れば徒に宣伝に乗りたる事となり慙愧に不堪」 と、これらの打電の内容は客観的事実に基づくものではなかったこと、 それにもかかわらず流言に乗ってしまったものであることを率直に述べている。

  内閣総理大臣山本権兵衛の残した 『戒厳令に関する研究』 と超する文書 (資料第1の3 『政府戒厳令関係史料Ⅰ巻』 578ページ) 以下では、 朝鮮人に関する流言事例を具体的にとりあげて検討し、それを事実に反することとして否定している。
  たとえば、次の例があげられている。
○9月2日午後3時ころ自警団員が駒込警察署に同行した爆弾毒薬所持をしている朝鮮人がもっていたものは、砂糖であった。
○9月2日午後9時ころ、土木作業員18名を貨物自動車に乗せ、進行中自警団7、80名は朝鮮人の襲来とあやまって朝鮮人を車からひきおろして暴行して、 多数の負傷者を出した。
  以上、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不退行為をおこなっているという事実はなかった。 それにもかかわらず、次に述べるとおり、内務省警保局および船橋送信所は、虚偽の事実認識を広範に伝播した。

(2)流言飛語の原因となった虚偽事実の伝達─内務省警保局長発の打電
  海軍省船橋送信所は、9月3日午前から正午にかけて、各地方長官宛、朝鮮総督府警務局長宛、山口県知事宛に、 内務省警保局長を発信者とする下記の打電を行ったことが記録されている。当時、震災による被害のため首都圏と地方の間の通信手段は大きな打撃を受け、 中央政府から地方宛の通信は、全て海軍省船橋送信所からなされていた。

① 呉鎮副官宛打電 9月3日午前8時15分了解
    各地方長官宛  内務省警保局長 出
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。」
② 鎮海副官宛  9月3日午前8時30分了解
    朝鮮総督府警務局長宛  内務省警保局長 出
「東京付近の震災を利用し、在留鮮人は放火、投擲等、其他の不逞手段に出んとするものあり。既に東京府下には、一部戒厳令を施行せるを以て、 此際朝鮮内、鮮人の動向に付ては厳重なる取締を加えられ、且内地渡航を阻止する様、御配慮を頂度。」
③ 呉鏡副官宛打電 9月3日午後0時10分了解
    山口県知事宛  内務省警保局長 出
「東京付近震災を利用し、内地在留鮮人は不逞の行動を敢えてせんとし、現に東京市内においては放火をなし、 爆弾を投擲せんとし、頻に行動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、 貴府に於いては内地渡来鮮人に付ては此際厳密なる視察を加え、?くも容疑者たる以上は内地上陸を阻止し、 殊に上海より渡来する仮装鮮人に付ては十分警戒を加えられ、適宜の措置を採られ度。」(以上3件について、 資料第1の1 『現代史資料6』 18頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 158ないし159頁)
  なお、右の①の打電の記録については、欄外に 「此電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」 と記入されている (資料第1の1 『現代史資料6』 18頁、 及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』158頁)。 当時、都心の中央政府から船橋の送信所への伝令は伝騎による使者を走らせるしかなかったことも併せ考え、内務省警保局長からこれらの打電の指示がなされたのは、 9月2日午後より以前のことであったものと判断される。
  これらの内務省警保局長発の打電は、いずれも客観的事実に基づくものではないことは、前述のように、当時の警察文書が記載しているところからも明らかである。
  当時の警察組織の体制からすれば、かかる打電による情報連絡は各府県の知事ないしは内務部長に到達していたことは十分に考えられる。 右伝達により各府県はつぎにみる埼玉県のように各市町村に同様の情報を伝達し、これが自警団を組織する下地となり、 また自警団をして虐殺にかりたてる結果をもたらした可能性を否定できないのである。

(3)行政機関による虚偽の事実認識の伝達と自警団の組織
  内務省警保局の上記のような命令は、船橋送信所からの打電を待つまでもなく、電報や担当者等による協議によって隣接近県に対して伝達された。 そして、内務省警保局長から各地方長官等宛のこのような命令を受けて、各地の地方行政庁は、これを管下の各郡役所・町村に伝達して、 「十分周密なる視察」 と 「厳密なる取締」 の対応を取らせた。

  この経緯については、大正12年12月15日の衆議院における、永井柳太郎の質疑に、 以下のとおり取り上げられている (「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 104頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 477頁以下、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 65ないし72頁所収)。 「斯う云うような電報が其当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、 又、其命令を管下の郡役所に伝え、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」

  埼玉県については、以下の事実が指摘されている。「埼玉県の地方課長が、9月2日に東京から本省との打合せを終えて、午後の5時頃に帰って来まして、 そうしてそれを香坂内務部長に報告をして、其報告に基いて香坂内務部長は、守屋属をして県内の各郡役所へ電話を以て急報し、 各郡役所は、其移牒されたるものを、或は文書に依り、或は電話によって、之を各町村に伝えたのであります。」 (上記永井柳太郎の質疑 「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 106頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 480頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 67頁所収)
  その移牒の内容は、永井柳太郎によれば下記の内容であったという (その経緯については後述する)。
  『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、 而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、 一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』
  この質疑における事実摘示は甚だ具体的であり、かつ上記電報の内容・性格と整合性を有するので、その指摘する内容は信憑性が高いと評価できる。

(4)刑事事件判決に判示された事実
  このような経過は、朝鮮人に対する虐殺行為について検挙され、公訴提起された自警団員らの刑事事件判決 (資料第4の1ないし5) においても明らかにされている。

(ア)片柳事件判決外の浦和地裁判決
  前掲の浦和地方裁判所大正12年11月26日判決 (資料第4の5) は、 当時の埼玉県北足立郡片柳村における朝鮮人に対する殺人被告事件 (いわゆる 「片柳事件」) である。 前記のとおりこの事件は、自警団が日本刀や槍等を携帯して警戒に従事中、被害者である朝鮮人が差し掛かったところ追跡し、槍で胸部を突き刺し、 転倒したところを日本刀で左肩辺を斬りつけ、頭部を槍先で殴打したが、被害者は起きあがって逃げようとしたのでさらに日本刀で右腕や腎部を斬りつけ、 後頭部を槍で突き刺して、その結果死亡に至らしめたという残虐かつ酸鼻なものであるが、当時の朝鮮人虐殺の典型的な事件ともいえるものである。
  この事件の判決は、その理由中に、このような虐殺行為に至った経過について以下のとおり判示している。 「不逞鮮人が過激思想を抱ける一部の内地人と結託して右震災に乗じ東京市等に於て盛んに爆弾を投じて放火を企て或は井戸へ毒物を投入する等残虐の所為を敢てし・‥ との流言浮説頻に喧伝せられ同村地方民は痛く之に刺激を受け興奮し居れる折柄県当局者に於ても咄嵯の間当時誤風説の根拠たる帝都における鮮人の不逞行為に付き 其裏偽を探究するの術なかりしより万一の場合を慮り翌二目の夜所轄郡役所を介して夫々管内の町村役場に対し 予め消防手在郷軍人分会青年団等の各首脳者と協議し警察官憲と協力の上叙上不逞の輩の襲来に備うべく自警の方策を講ぜられたき旨の通牒を発したるより 被告等居村民も亦同月3日夜より各自日本刀槍等の凶器を携帯し居村内に於て之警戒に従事中‥・」(同第3丁)。
  このように片柳事件の判決は、「県当局者」 が9月2日夜、 東京等で朝鮮人が放火や井戸への毒物の投入などの不逞行為を行っているという風評について真実かどうかの確認の時間もなかったため、郡を通じて町村に対し、 在郷軍人会、青年団、消防団等に警察等と協力のもとに不逞の輩の襲来に備えるための 「自警の方策」 をとるようにとの 「通謀」 を発したことにより、 自警団が日本刀などで武装して警戒し、朝鮮人に対する無差別的な殺人に及んだことを事実認定しているのである。
  この経緯は、浦和地方裁判所における前掲の神保原事件、寄居事件、熊谷事件、本庄事件、妻沼事件 (いずれも大正12年11月26日判決) の各判決においても、 いずれも同様の事実認定がなされており、これが埼玉県内の各地における朝鮮人虐殺事件に共通する背景事実であることを示している。

(イ)国会質疑にあらわれた 「通牒」 の内容
  なお、判決において判示されている 「通牒」 の内容は、次のようなものであったと伝えられている。 すなわち上記永井柳太郎の質疑 「官報号外 大正12年12月16日 衆議院議事速記録第5号 国務大臣の演説に対する質疑 (前回の続き)」 106頁、 資料第1の1 『現代史資料6』 480頁、及び、資料第1の2 『朝鮮人虐殺関連官庁史料』 67頁所収) によれば、「現に浦和地方裁判所に於きまして、 大里、児玉両郡々書記が陳述致しました証書に依ってもその移牒電話は大体次の如きものであったのであります。 『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、 各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、 至急相当の手配相成りたし』 と云うことであります。」 との事実が指摘されている。このように、この通牒文は当時書証として残っていたことが明らかであり、 その内容は上記判決に判示された通牒の内容とほぼ同じである。

(5)千葉県八千代市在住者の残した日記による記録
  千葉県八千代市で発生した自警団による虐殺については、八千代市が1979年に編集・発行した 「八千代市の歴史」(資料第4の9) に記録されている。 同書549ないし550頁によれば 「村の各区では自警団が組織され、鳶口、槍、日本刀、猟銃などを持って部落の入口の警備にあたりました。 また、高津廠舎に軍の命令で朝鮮人を引き取りに行って殺害したりしました。大和田地区では数人が殺されたといわれています。」 と記載されている。 この調査結果を裏付ける貴重な資料として、当時の地域住民の日記 (資料第4の10) が保存されている。
  大正12年9月の部分、3日の欄に、次の記載がある。「区長の引続ぎ (ママ) をやる。(中略) と決定。一切を渡す。 夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」 (資料第1の6、資料第4の10 『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 6頁)。
  これは、自警団を組織して不逞鮮人の警戒に当たることになった経緯が、役所からの通知によるものであることを示している。 その結果、軍の指示により、拘束されていた朝鮮人を、地域の自警団貝が引き取って殺害するという事態が引き起こされるのである。 この事実も、自警団による朝鮮人虐殺が、内務省警保局からの命令と、これによる地域 (村役場) 毎の指示に基づくことを示している。

(6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について
  前述のとおり、震災発生直後の9月3日、戒厳令が発せられた。この勅令第401号戒厳令に基づく関東戒厳司令官告諭 (大正12年9月3日) は、 次のように述べている。
  「・・・本職れい下の軍隊及び諸機関 (在京部隊のほか各地方より招致せられたるもの。) は、全力を尽くして警備、救護、救じゅつに従事しつつあるも、 この際地方諸団体及び一般人士も、また、自衛協同の実を発揮して災害の防止に努められんことを望む。
(ア)不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加するの不利を招かざること。」(資料第4の7 『関東大震災から得た教訓』(陸上幕僚総監部第三部)9頁)。
  また、戒厳令司令官令(大正12年9月4日)は、次のように述べている。
「軍隊の増加に伴い、警備完備するに至れり、よって左のことを命令する。
(ア)自警のため、団体若しくは個人ごとに所要警戒法をとりあるものは、あらかじめ、もより警備隊、憲兵又は警察に届出でその指示を受くべし。
(イ)戒厳地域内における通行人に対する誰何、検問は、軍隊憲兵及び警察官に限りこれを行うものとす。
(ウ)軍隊、憲兵又は警察官憲より許可するにあらざれば、地方自警団及び一般人民は、武器又はきょう器の携帯を許さず。」 (資料第4の7 陸上幕僚総監部第三部著『関東大震災から得た教訓』 15頁)

  これらの告諭及び命令は、「不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加する」 事態の存在を前提にしており、 こうした状況が生じてしまっていたこと(ないしその懸念が生じていたこと) を示している。 そして、自警団を初めとする一般人による、通行人に対する誰何、検問、武器・凶器の携行が行われていたところ、 軍隊による警備完備に伴って、そのような事態を変更しようとしたことを示している。
  このように不逞団体蜂起の流言飛語の流布という状況は自警団による虐殺行為の前提として存在していたのであり、 戒厳司令官はこのような事態を認識したうえで、その転換を図る挙にでたのである。
  これは、こうした事態が国家的関与と国家的政策の支配の下におかれていたことを示しているともいえる。

(7)流言飛語の発生・自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺
  朝鮮人の不逞行為云々はまったく事実ではないにもかかわらず、国 (内務省警保局) は、 朝鮮人が放火・爆弾所持・投擲・井戸への毒物投入等をおこなっているという誤った事実認識および 「周密なる視察を加え、 鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加え」 るべきであるという指示を、海軍送信所からの無線電信により全国に伝播させ、 また、電報や県の担当者との会合において各県担当者に伝達した。これにより、各県の地方長官は、通牒を発して管下の各部役所、さらに管下の町村に伝達した。 すなわち、内務省警保局と県の地方課長の打合せの下に、朝鮮人による不逞行為の発生という認識と、これに対する監視と取締りの要求が、 県内務部、郡長、町村長のルートを通じて伝達され、消防、青年団を通じて自警団を組織し、自衛の措置を講ずることを指示した。 これが各地における朝鮮人殺害等の虐殺行為の動機ないし原因となったものである。
  上にみたとおり、埼玉県においては、『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、 而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、 一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』 との通牒により、各町村において自警団が結成され、 また、朝鮮人は東京において暴行をなし、埼玉県下においてもいかなる蛮行をなすやもしれないとの誤った認識を自警団はもちろん地域住民に広くひろめた。 そして、これが自警団員等において朝鮮人の殺害行為等の動機を形成する重要な要素となったものである。
  内務省警保局との打合せに基づいて県内務部長から各部役所、各町村へと通牒が伝達指示されたことが現在はっきり確認できるのは埼玉県の場合にとどまるが、 同様にして、内務省警保局長の打電は各町村の末端に至るまで徹底されたと考えられ、これにより、朝鮮人の放火、爆弾所持などの 「不逞行為」 の存在は、 中央政府の治安当局の指示・命令として確認された事実として周知徹底され、各地において朝鮮人に対する監視と取締りの体制が採られたのである。 「武装」 という指示は具体的に示されているわけではないが、当時の状況からすると、それが前提とされていたと考えられる。
  各県庁に県知事の掌握する警察部があり、市と郡役所所在地に警察署、その他の町に警察分署、村には巡査駐在所が置かれた。 さらに警察だけでは力が及ばないときには、自警団が補助警察として出動した。なお首府の警察としては警視庁があり、これは警保局と並び、内務大臣の直轄であった。
  このように、各県の警察部は上記のように内務省警保局長の下に位置し、その指揮下にあったのであり、警保局からの指示によって、 警察組織はその指示どおりに動いた。

(8)当時の政府機関における朝鮮人に対する考え方
  なお、政府機関において朝鮮人に関する虚偽の事実を伝達させ流言蜚話を生じしめた背後には、朝鮮人を危険視する考え方があったことを留意すべきである。
  1910年の日韓併合以後、韓国国内において反日独立運動は根強く存在し、1919年3月1日を期して始められた三・一独立運動は、全国土に広がり、 200万人以上の朝鮮人が参加した。この運動は7500人を越す死亡者、15000人を越す負傷者を出して終わったが、日本の為政者には強烈な印象を残した。

表一 運動参加者数と被害状況
          【参加者数]  [死亡者数】  【負傷者数】   [逮捕者数]
京畿道         665900     1472     3124       4680
黄海道         92670      238      414       4218
平安道         514670     2042     3665      11610
咸鏡道         59850      135      667       6215
江原道         99510      144      645       1360
忠清道        120850       590     1116       5233
全羅道        294800       384      767       2900
慶尚道        154498      2470     5295      10085
懐仁・竜井・奉天・  48700       34      157         5
満州・その他
総計         2023098      7509    15961      46948

注-朴殷植《韓国独立運動之血史》(上巻)による。朴殷植の統計では道別統計と総計が一致しないが、郡別統計に空欄が多いため、総計をそのままとった。 被害にはこの他にも教会の毀焼47や、毀焼民家715が数えられている。
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  日本においても、朝鮮人の参加する労働運動、反日運動は、規模の大小は別として存在し、 関東大震災の直前にあたる1921年から1922年にかけて東京朝鮮労働同盟会や大阪朝鮮労働同盟会が結成され、 1922年5月のメーデーには在日朝鮮人がはじめて参加するという状況があった。
  これに対し、1922年刊行の内務省警保局編朝鮮人概況では 「最近内地在留鮮入学生中漸次共産主義に感染して内地社会主義に接近するものあり」 とされ、 同1923年5月14日付内務省警保局長の 「朝鮮人労働者募集に関する件依命通牒」 は、 在日朝鮮人は 「往々にして社会運動及労働運動に参加し団体行動に出んとする傾向の特に著しきものあり」 と、各庁府県長官に警戒を促している。 また、この年の5月1日の東京メーデーに際しては、警察は会場入口に 「鮮人掛」 「主義者掛」 などを置いて彼らを理由なしに検束するなどした。

(9)マイノリティー保護に関する国際的認識
  本件の虐殺に関する国の責任を論ずるにあたって、当時の国際的認識は次のようなものであった。

 ①日本政府は、国際連盟規約を検討する場で、アメリカに移住した日系人への差別を批判し、日系人を保護する目的で、 国際連盟規約に人種平等条項を含ませるべきことを主張していた。(大沼保昭、国際法、国際連合と日本427ページ所収「はるかなる人種平等の思想」)
  朝鮮人、中国人に対する大規模、深刻な虐殺被害がおこった背景には人種差別があったことは否定できないところであり、 かかる国際的な場で差別防止を主張していた日本政府が国内においてマイノリティー保護の責任を負っていたことは否定することはできないことは見やすい道理である。

  ②常設国際司法裁判所は、ドイツがポーランドに返還した領域におけるドイツ系定住者事件 (1923年) アルバニアの少数者学校事件 (1935年) などにおいて実質的平等についての原則を発表した。
  これは、後に国連憲章1条3、55条に盛り込まれる人種差別の防止という国際規範が、すでに古くから人類共通の規範として確認されていたことを示すものである。
  このように、国のマイノリティー保護責任、および、人種差別を規律する国際規範は、この当時から無視できない規範として存在していた。

4 結論
  以上の事実および背景事情から、少なくとも埼玉県においては、国 (内務省警保局) が地方長官 (各県内務部) を通じて通牒を発し、 これにより各郡ないし各町村に至るまで、震災に乗じた 「不逞鮮人」 による放火、爆弾投擲、井戸への毒物投入などの不法行為や暴動があったとの誤った情報を、 内務省という警備当局の見解として伝達・認識せしめたこと、これに対する警備と自警の方策 (自警団の結成) を講じるように命じたことが、 民衆の朝鮮人への暴力と虐殺の動機になったことが認められる。
  したがって、自警団による朝鮮人虐殺について、戒厳令宣告の下、殺害の実行主体である自警団を結成するよう指示し、 また、朝鮮人に対する殺意を含む暴行の動機づけを与えた点で、国の責任は免れない。

第5章 再発防止の重要性

1 以上検討してきたように、軍隊による国の直接的な虐殺行為はもとより、内務省警保局をはじめとする国の機関自らが、 朝鮮人が 「不逞行為」 によって震災の被害を拡大しているとの認識を全国に伝播し、各方面に自警の措置をよびかけ、 民衆に殺人・暴行の動機付けをした責任は重大である。
  しかるに国はその責任をあきらかにせず、謝罪もしていない。そればかりか、国として虐殺の実態や原因についての調査もしていない。
  虐殺の規模、深刻さにかんがみると、長期にわたるその不作為の責任は重大であるといわなければならない。
  国のこれら亡くなられた被害者やその遺族に与えた人権侵害行為の責任は、80年の経過により消滅するものではなく、 事実を調査し、事件の内容を明らかにし、謝罪すべきである。

2 最近でも在日コリアン、特に朝鮮学校の児童・生徒に対するいやがらせがなされた事実がある。 1994年の 「北朝鮮核疑惑」 の際、あるいは1998年の 「テポドン報道」 の際に、 民族服であるチマ・チョゴリを着ている朝鮮学校の女生徒に対する多数の暴行や脅迫事件が起きたことは記憶に新しい。 そして昨年来、朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) による日本人位致事件を同国政府が認め、位致事件の実体が明らかにされるにつれて、 在日コリアン、特に朝鮮学校の児童・生徒に対する暴行・脅迫、いやがらせや危害の予告等が続いている。 例えば、朝鮮学校に通う子どもが、登下校中、駅のホームや電車の中で腕を捕まれる、民族衣装のチョゴリを引っ張られる、 「植民地時代に朝鮮人を全員殺しておけばこんなことにはならなかった」 ・ 「朝鮮に帰れ」などと言われる、 すれ違いざまに「拉致」と言われるなどの被害を受けている。あるいは、朝鮮学校のホームページの掲示板への書き込み・手紙・電話などにより、 朝鮮学校の子どもに対する危害の予告が行われ、そのために一時的に休校せざるを得なかった例もある (資料第5の2、日弁連会長声明、同緊急アピール)。
  このような出来事を考えれば、予測できない大きな事件や災害が起きたとき、今の日本でも流言飛語などの影響で在日外国人に不当な民族差別と嫌悪感、 排斥的感情を引き起こす可能性があることを自戒すべきである。
  事件発生80周年の今こそ、国が事件発生の原因を事実に即して究明すべくただちに調査に着手すること、事件発生にかかわる重大な責任をみとめて謝罪すること、 そのことを通じてかかる重大なあやまちを再発させないとの決意を内外に明らかにすべきときである。

  以上の調査た基づき、主文に記載したとおり、
  第1に、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人虐殺に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、遺族、 および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、その責任を認めて謝罪すべきである。
  第2に、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。
  
  との頭書の勧告に及んだ次第である。
以 上

【資料目録】
第1 関東大震災の罹災と虐殺の発生について
資料第1の1 『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』 みすず書房1973年
資料第1の2 『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅱ朝鮮人虐殺関連官庁史料Ⅴ』 緑陰書房1991年
資料第1の3 『関東大震災政府陸海軍関係史料Ⅰ巻 政府・戒厳令関係史料』 監修松尾章一編集 平形千恵子・大竹米子1997年 日本経済評論社刊
資料第1の4 『関東大震災政府陸海軍関係史料Ⅱ巻 陸軍関係史料』 監修編集発行年度 前書に同じ
資料第1の5 『関東大震災政府陸海軍関係史料Ⅲ巻 海軍関係史料』 監修編集発行年度刊行社 前書に同じ

第2 戒厳令の発布について
資料第2の1 『戒厳令』大江志乃夫著 岩波書店1978年
資料第2の2 関東戒厳司令官命令第一号前文『関東大震災政府陸海軍関係資料Ⅲ巻陸軍関係史料』 139頁

第3 軍隊による虐殺について
資料第3の1 「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」(『関東戒厳司令部詳報第三巻』 所収 「第四章 行政及司法業務」 の 「第三節 付録」 付表。 資料1の4所収)
資料第3の2 『震災後に於ける刑事事犯及之に閑聯する事項調査書』 「第十章 軍隊の行為に於いて」 の 「第四 千葉県下における殺害事件」(資料1の1)
資料第3の3 『十一月九日丸山、大迫両人大島町中国労働者被害事件調査、八丁目惨殺の件』
資料第3の4 『9月6日警視庁広瀬外事課長直話』
資料第3の5 在北京立田内務事務官翻訳作成の綜麟祥による大正13年8月14日付け中国人黄子連聴取書-『支那人誤殺事件宣伝者に関する件』。
資料第3の6 黄子連の姪である黄砕乃 (フアンツイナイ) の証言 (仁木ふみこ『震災下の中国人』 178頁)
資料第3の7 「支那人被害の実状踏査記事」(仁木ふみこ 『震災下の中国人』(仁木ふみ子氏はこの目撃者の氏名を特定しているが、 プライバシー保護のためこの報告書では、氏名をふせた。)
資料第3の8 『江東青ばなし』
資料第3の9 『遠藤日記』
資料第3の10 『久保野日記』

第4 自警団による虐殺について
資料第4の1 本庄事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の2 神保原事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の3 寄居事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の4 熊谷事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の5 片柳事件判決 (浦和地方裁判所1923年11月26日判決)
資料第4の6 藤岡事件判決 (前橋地方裁判所1923年11月14日判決)
資料第4の7 『関東大震災から得た教訓』 陸上幕僚総監部第三部 (1960年)
資料第4の8 『大震災対策研究資料』 警視庁警備部・陸上自衛隊東部方面総監部編
資料第4の9 『八千代市の歴史』 1979年八千代市編集・発行
資料第4の10 『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 青木書店1983年6頁

第5 国の対応と責任
資料第5の1  共同通信配信記事 (1999年4月7日)
資料第5の2  2002年12月19日付け日弁連会長声明、同緊急アピール 

2014年11月4日火曜日

祝? 読売新聞創刊140周年


 2014年11月2日付け読売新聞によると、同紙はこの日、創刊140年だそうだ。 別刷りで、「創刊 140周年」という特集が、第1部、第2部に分けて二つも配られていた。 
 日本最大の部数、かつ保守・右翼化思潮を代表する新聞について、多少は知っておくべきと思って、特集をじっくり読んでみた。 日本社会の世論形成に多かれ少なかれ、良かれ悪しかれ、ある程度の影響を及ぼしているはずだからだ。 だが、この特集では何も見えない。 販売用の宣伝広告みたいなもので、この新聞が歩んできた140年という<歴史>というものがまったくうかがい知れない。
 仕方ない。 お手軽だが、まあまあ信頼できるWikipedia に、またもや頼って「読売新聞140年史」を自習してみた。
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 読売新聞(よみうりしんぶん、新聞の題字及び漢字制限前の表記は讀賣新聞、英語:Yomiuri Shimbun)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する世界最多の発行部数を有する新聞である。2014年上半期の販売部数は朝刊が約956万部、夕刊が約321万部(日本ABC協会調べ)で世界最多(かつてはソ連共産党機関紙・プラウダ)。
題号は、江戸時代に瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。
歴史
読売争議[編集]1874年11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻。創刊当時は漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。
1897年1月1日 尾崎紅葉作の小説『金色夜叉』が連載開始。
1904年5月7日〜1905年9月29日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う。
1914年 『身の上相談』(現在の『人生案内』)連載開始。
1917年12月1日 商号を「日就社」から「讀賣新聞社」に改称。
1924年2月25日 関東大震災後の経営難から、前警視庁警務部長、後の衆議院議員、正力松太郎が買収。正力の社長就任で今日に至る読売新聞発展の基礎を築いた。
1925年11月15日 「よみうりラジオ版」新設(テレビ・ラジオ欄=番組表の先駆け)。
1931年11月25日 夕刊の発行を開始。
1934年12月26日 大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)創設。部数拡大に大きく貢献する。
1942年8月5日 新聞統制により、報知新聞社を合併。「讀賣報知」に改題。
1945年
5月25日 東京大空襲で銀座社屋が炎上、築地本願寺に仮事務所を設置。
5月27日 読売報知・朝日新聞・毎日新聞・日本産業経済・東京新聞の5社共同による「共同新聞」を発行。
7月27日に論評なし公表されたポツダム宣言を、翌7月28日「笑止、対日降伏條件」と報道し、同日、鈴木貫太郎首相の記者会見上の「黙殺」発言を7月29日に報道。
11月12日 「漢字を廃止せよ」との社説を掲載し漢字廃止(国語国字問題参照)を推進。
正力松太郎社長がA級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される(1947年不起訴で釈放後公職追放)。
馬場恒吾、社長就任。
1946年
5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。
7月1日 現在の印南渓龍が書いた横書きの隷書体の物を使用している(それ以前は縦書きの楷書体であった)。
1947年12月6日 読者投票による「日本十大ニュース」の募集を開始(海外版は1989年から開始)。
1949年
3月1日 朝刊コラム「編集手帖」スタート(1953年8月から「編集手帳」に改題。「編集手帖」以前のコラムのタイトルは「明窓」であった)。
11月26日 「夕刊読売」創刊(夕刊が復活、1951年9月に朝夕刊セット制再開により読売本紙に統合)。秋好馨の4コマ漫画『轟先生』が連載開始
1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。
1951年 正力松太郎の公職追放解除。
1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊、西日本に進出。
1955年1月1日 正力松太郎の命令により、原発導入を図るため大キャンペーンを展開開始
1955年4月1日 英字新聞『ザ・デイリー読売』創刊。
1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。
1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。
1962年4月1日 読売日本交響楽団設立。
1964年9月23日 北九州市に「読売新聞西部本社」設立。現地印刷開始。
1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。
1971年10月29日 読売新聞社、本社が銀座から千代田区大手町に移転。
1975年3月25日 名古屋市で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。
1977年 発行部数で朝日新聞を抜き、日本一となる。またソ連(現:ロシア)のプラウダなどを抜いて世界一の発行部数となる。
1978年 ギネスブック(1978年版)に発行部数世界一であると記載される。
1979年 渡邉恒雄(現読売新聞グループ本社会長)が論説委員長に就任。
1980年 空白の一日事件や読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督解任に対する不買運動に遭う。
1980年 宝塚市学童誘拐事件において、被害者の安全を考慮せずに報道協定を破りフライング報道を行う。兵庫県警記者クラブは3ヶ月間除名する処分に留めた。
1982年4月1日 植田まさし作の4コマ漫画『コボちゃん』が連載開始。
1988年6月1日 中部読売新聞社が読売本体と合併し読売新聞中部本社となり、題号から「中部」が外れる。
1989年12月1日 被疑者の呼び捨てをやめ、「容疑者」などの呼称を付ける。
1994年
5月 日本ABC協会の報告により、発行部数が1千万部を達成。
11月3日 当時の社長である渡邉恒雄の下で、主要なマスコミで初めて「憲法改正試案」を発表して、憲法の改正を主張。憲法について再考する一つのきっかけになった。
1995年6月16日 YOMIURI ONLINEを開設。
1999年2月1日 経営難の中央公論社を買収し、中央公論新社を設立。
2000年
1月26日 全国の販売店の呼称を「読売センター」(略称・YC)に統一。これまでは東京と西部が「YSC」、大阪が「読売IC」の呼称だった。
12月1日 紙面の文字拡大。「第二次文字拡大ブーム」に火を付ける。
2002年
1月1日 読売新聞の題字下に記載されていた、「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が廃止。
7月1日 グループ再編。株式会社読売新聞社を株式会社読売新聞グループ本社(グループ持株会社)と株式会社読売新聞東京本社に、株式会社よみうりを株式会社読売新聞西部本社と株式会社読売巨人軍に会社分割。中部本社はよみうりから読売新聞東京本社に分割承継(中部支社に格下げ)。大阪本社(株式会社読売新聞大阪本社)も株式交換により読売新聞グループ本社の完全子会社に移行。
10月17日 新聞社で唯一、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーになる。
2004年
1月1日 読売新聞西部本社が北九州市から福岡市に移転。
12月1日 朝刊連載の4コマ漫画『コボちゃん』が、日本の全国紙の4コマ漫画では初めてカラー化。
2007年10月1日 読売新聞グループ本社・日本経済新聞社・朝日新聞社の3社がインターネット分野による共同事業及び販売事業における業務提携、システム障害と災害時における新聞発行の相互援助協定を締結することを発表。
2008年
3月31日 紙面を大幅刷新。紙面の文字を拡大、14段組みから12段組みの「メガ文字」になる。1面下段のコラム「編集手帳」が横1列から縦2段に再編され、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が復活する。夕刊題字のスクリーントーンが廃止。
8月31日 大阪本社の「泉」のコーナーが終了。新コーナーへ引き継ぐ。
2009年
1月10日 創刊135周年記念企画として連日6回に渡り300の候補地を掲載し、4月中旬に「平成百景」を定めた。
2月10日 1874年の創刊から現在に至るまでの紙面記事がインターネットで検索できる、日本初のオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスが開始。
2月27日 ウォールストリート・ジャーナルと編集、印刷、販売に関して提携することが発表され、2009年3月2日からアジア版の主な記事の見出しが日本語で夕刊2面に掲載され始めた[8]。
3月16日 創刊135周年記念企画としてコラム「ポケモンといっしょにおぼえよう! ことわざ大百科」を設け、子供の頃から新聞に慣れ親しむことわざ解説の連載開始。その後「熟語大辞典」、「慣用句全集」、「わかる故事成語」と逐次シリーズ化され、この日以降一面には、「探せ!ポケモン どこかのページにことわざ大百科」のタイトルと共に、ピカチュウのイラストが掲載されている。
6月1日 島根県石見地方の発行が西部本社から大阪本社に変更し、島根県内では全県で大阪本社版の発売とした。
2010年
3月31日 東京本社(大手町)社屋建て替えを発表。地上30階・地下3階・延べ床面積約7万9800平方メートル・高さ180メートルの計画で、2014年に完成予定。現在の大手町社屋は2010年中に解体され、その間の仮社屋は東京都中央区銀座の日産自動車旧本社ビルを使用することとなった。
10月1日 東京本社が千代田区大手町から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルへの仮移転が完了。3年強の暫定期間だが、39年ぶりに銀座の本社が復活した。
2011年
3月3日 小学生を対象としたタブロイド判の週刊新聞『読売KODOMO新聞』創刊。
3月13日 東日本大震災の情報を伝えるため、日曜日としては異例の夕刊を発行。
6月20日 朝日新聞社との業務提携により、千葉県全域と東京都東部向け読売新聞の受託印刷を朝日新聞系の朝日プリンテック船橋工場(千葉県船橋市)で開始。
2012年
5月 スマートフォンによるサービス『読売プレミアム』を開始。
7月 定期購読者向け特典として『Marie Claire Style』の配布を開始。
2013年
4月1日 英字新聞「ザ・デイリー読売」の題号を『ジャパン・ニューズ』に改題。
2014年
1月6日 東京本社(大手町)新社屋が完成し、中央区銀座の仮社屋(日産自動車旧本社ビル)から移転。
4月30日 西部本社がこの日をもって大分県に於いての夕刊の発行を休止。朝夕刊セット地域から統合版地域に格下げとなるのは同県が全国初。
読売争議は、ポツダム宣言受諾により連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の間接統治下にあった敗戦直後の日本で発生した労働争議をさす。間接統治では総司令部から日本政府への命令が覚書、メモ、口述により伝えられた。口頭の場合は命令ではなく示唆であり「するべきではないか」という曖昧さにより伝えられた。
労働争議は労使契約を締結した使用者側と労働者側において労使関係に意見の一致を見ないとき生じる争いで労働組合法において認められた行為になる。敗戦直後の日本は勤労者はいても労働者は一人も存在しなかったし、法律も存在しなかったが現実には12月の時点で509組合38万人が組織され翌年に12,000組合368万人、組織率は41.5%へ膨張していた。
第1次争議
1945年9月13日、読売新聞社の中堅幹部45名が正力松太郎社長へ社内民主化に関する意見書を提出した。
「君の社にはどうしてあんなにたくさんの赤い社員がいたのか」と正力の巣鴨出所後、友人伊藤忠兵衛が質問したところ、正力は「俺は勤勉に、真面目に社のため働く人間はどんな思想をもっていようと構わない方針だった。赤には新聞記者として有能な人間が多いから、自然、赤い社員ができたのだろう」と答えている
「読売は藤原銀次郎や郷誠之助など財界のお歴々がカネをだして匿名組合でやっていた新聞でした。朝日や毎日に比べて記者が少なかったんです。(中略)ほうぼうから記者を引き抜いて強化しました。それで左翼でもはいれたんですが監視するスパイ網はつくっていましたよ」
同年の10月23日、読売新聞社の鈴木東民編集委員他は、東京本社の講堂において全従業員大会を開催した。翌日、従業員代表は正力へ大会にて決定した「社内機構の民主化」「従業員の人格尊重と待遇改善」などを求めた要求事項を書面で提出した。正力は要求を拒否、また社内民主化運動の中心人物であった5名を社内に混乱を生じさせたとして退職を命じた。
正力は徹底した独裁者であり、火の玉のような男である。この意見書を見た彼は果然、激怒をもって一蹴してしまった。普通の対談でも怒号するように聞える彼の話ぶりであるから、怒った時のその語調や態度は容易に想像できる
この結果をうけて従業員側は闘争宣言を発し、鈴木東民を委員長とする闘争委員会を結成した。同月25日、闘争委員会は新聞の生産管理を宣言し、これに従わない編集局長、工務局長の現場よりの退出を求めている。紙面を決定する編集局、新聞を印刷する工務局はここに闘争委員会の管理下におかれた。読売新聞社内部において従業員組合が結成され世間の注目が集まると同時に政治的な色彩が濃くなっていく。
同年の10月10日には府中刑務所を出獄した日本共産党の徳田球一、志賀義雄、金天海が熱狂の中で迎えられ、蔵前工業会館では日本全国から戦前の労働組合関係者170名あまりが集まり第一回労働組合再建懇談会が開かれている。22日には朝日新聞の従業員大会において村山長挙社長以下首脳陣が戦争責任をとり退陣すると発表した。
政府は11月2日に労働争議の調停に関する通牒を出して東京都に下駄が預けられた。都は第三者機関として『労働争議調停委員会』に仲裁を任せるために委員を選任したが、これが労働者側から資本家よりの反発を食らう。都は『調停委』の下にさらに『臨時委員会』を設立する。委員長に末弘厳太郎、労働者側の委員に徳田球一、聴濤克巳、鈴木茂三郎。資本側に鈴木文四郎、品川主計、田村幸策が選ばれた。12月2日、都庁会議室において世間の注目を浴び第一回の調停委員会が開かれたが双方のラッパの吹き合いが終わって本番となる、五回目の委員会を前にして正力松太郎がA級戦犯指名を受けて巣鴨プリズン収監が決定。経営側と従業員側は12月に調停案に合意した。
第2次争議
「民主読売」の成立は他のマスコミに大きな影響を与え、さらには記者クラブ改革や新しい新聞の発刊にまで波及した。しかし、1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。
1946年6月、馬場はGHQの支援を取り付けた上で、鈴木たち共産党員6名に退社命令をだした。これがきっかけで争議が再発した。GHQ民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を陰ながら応援していたが、この第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。
日本共産党などはこの争議を高く評価しているが、大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。この争議の混乱が尾を引いて読売は社の体力が大きく疲弊。読売の民間ラジオ局「読売放送」の構想が挫折した(後にラジオ東京の前身の一つとなった)。
社会部
読売新聞は、かつて立松和博、本田靖春(東京本社)、黒田清、大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。藤原肇『朝日と読売の火ダルマ時代』(国際評論社、1997年、57~59頁)によれば、この間の事情は、以下のようなものであったという。
競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れたヤクザの親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売り上げを大いに伸ばした。
連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。
田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、前科11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ

読売新聞大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代に社内で渡邉恒雄らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を呈した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている。
この行動は読売新聞の論説体系の統一の観点からはやむを得ないものではあるが、一方で従来の「保守的なリベラル」というバランスに立脚した論説体系を捨てたともされる。
医療情報部
読売新聞は、他の全国紙にはない医療専門の取材機関「医療情報部」を持つ。同部長である前野一雄は、自身が脳動脈瘤、次いで甲状腺がんを患った経験を生かして「脳動脈瘤がある人の不安と選択」(ISBN 4-88320-246-1)、「甲状腺がんなんて怖くない」(ISBN 4-385-36190-8)を著している(後者は杉谷巌との共著)。また、「『健康常識』ウソ・ホント55」(ISBN 4-06-257370-9)で世間に伝わる「健康常識」に疑問を呈している。
紙面・論調・歴史
現在の論調は、概ね中道右派・親米保守である。また日本の全国紙の中では論調が保守的な印象が持たれているという調査がある。大衆主義とも評される。
大垣藩士・子安峻、佐賀藩士・本野盛亨、柴田昌吉らの創業した読売新聞は、「文学新聞」として知られた。分かりやすい新聞、だれでも読める新聞を目指しただけでなく、西郷隆盛戦死の号外を自決した当日に出すなど早くから電信の導入をおこない、明治10年、発行部数は2万5千部を突破して、早くも日本最大の発行部数を誇った。1887年には、立憲改進党や早稲田大学創設に携わった高田早苗が初代主筆となり、国会や憲法についての解説を記事にしたが、明治中期以降、部数が衰えた読売新聞は、1919年、白虹事件によって東京朝日を退社した松山忠二郎たちをむかえ、「大正デモクラシーの梁山泊」として、プロレタリア文学などの発表の場となるとともに、政治・経済の硬派記事を加え、部数も3万部から13万部に急伸させた。1923年、関東大震災の襲来にともない経営不振に陥った読売新聞は、1924年2月26日、警視庁刑事課長・警務部長を歴任し、虎の門事件で退官していた、まだ38歳の正力松太郎の手に委ねられる。
正力は、社務を統括する総務局長に警視庁特高課長の小林光政、販売部長には警視庁捜査係長の武藤哲哉、のちの読売巨人軍代表の品川主計など、警視庁人脈を中枢に入れて社内の労務支配をおこない、半沢玉城らを使って、大量のリストラをおこなった。松山忠二郎社長時代の幹部、十数人が正力に辞表を出す際、記者の1人が「正力君、ここはポリの来るところではない。君が社長になるなんて生意気だよ」「帰れ帰れ!」と言い、「何が生意気だ。オレは今日から社長だ。黙って聞け!」とやりかえした話は有名である。警官が新聞社の社長となったことは衝撃であった。そのため、正力が読売新聞にのりこんだ当日、朝日新聞夕刊の短評欄には、「読売新聞、遂に正力松太郎の手に墜つ。嗚呼」と書かれたほどである。正力による買収後、読売社内では「不正摘発」に名をかりた告発による恐怖政治が敷かれ、『読売新聞百年史』(読売新聞社、1974年)でも、「社長が社員を告訴するというこのやり方に、社の内外ともびっくりした」。正力は警視庁人脈で経営を固めただけではない。後の法務大臣、秦野章の証言によれば、
販売にも警視庁の刑事あがりを使ったというんだな。あの当時は、“オイコラ警察”の時代だから、刑事あがりにスゴまれりゃ、新聞をとらざるをえない。そうやって片っぱしから拡張していったんだって、正力さんは自慢そうによく言っていたな。
という[18]。正力は、読売の「警察新聞化」をすすめる一方で、アメリカのハースト系新聞社のイエロージャーナリズムにならい、警察ネタとセンセーショナルな記事を結合させる独自の紙面作りを推し進めた。「読売のエロ・グロ」については、佐野真一『巨怪伝』によれば、1927年当時のことが次のように描かれている。
昭和2年、正力は社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖の読者の度肝を抜いた。当時正力は、『新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ』と胸をそらして語り、心ある人々から『正力という男は英語の使い方も知らないのか』と失笑を買った。
東京朝日と東京日日(後の毎日新聞)が幅を利かせる中で、正力は、両紙に対抗するため、まともな文章が書けるとして、「アカ」を大量に採用した。学生時代に左翼運動に参加したものは、戦前、獄中で転向しても、特高警察が仕事場に入りこんで嫌がらせをしたため、就職もままならない。「アカ」の弱みを握っている正力は、彼らを安くこき使った。報知時代、「納金不納同盟」に参加し、退職に追い込まれた後の読売新聞社長務台光雄も、「アカ」扱いされていたという。戦時中は、記者たちに吹き込まれた「読売魂」による命がけの取材によって「戦死」「絶命」「重症」が相次いだものの、「敵兵を斬って血しぶきが上がった写真」などを掲載し、センセーショナルな報道をおこなった。読売は、戦時中、『報知新聞』向け30万部の新聞用紙配給をもらうなど、戦時経済統制の恩恵をもっとも受けた新聞のひとつであった。読売は、急拡大したこともあって、「学閥のない」「派閥のない」バイタリティあふれる会社となった。ケンカ、バクチ、女郎買いは日常茶飯事。読売新聞の記者は、「変わり者が多いなかでも、またわけても読売新聞社会部というところには、豪傑、怪物、異物、ウジャウジャと集まる」「個性豊かな」「鉛筆ヤクザ」たちであった。このような読売の社風は、「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」と呼ばれた。
読売新聞が現在の発行部数世界一になったのは、1951年以降の全国紙化によるところが大きい。全国紙である毎日・朝日両紙とは異なり、当時、読売新聞は関東一円のブロック紙にすぎなかった。正力松太郎は、毎日・朝日両紙に対して、日本テレビの設立への協力の見返りとして、大阪進出の見送りを約束していた。読売新聞の販売戦略を担当する務台光雄は、毎日新聞が新聞共販制から専売店の組織化に乗り出したことをとらえ、大阪への進出を断行したのである。1952年11月25日、大阪読売新聞が創刊。読売新聞は、まだ宝くじの1等が400万円だった時代に、最高500万円、総額1億~2億にものぼる「福引き」をおこない、新聞業界の常識を打ち破る熾烈な拡販競争をおこなったのである。このとき関東から送られた読売新聞の拡販団は、「人相の悪い暴力団…ヤクザ風の若者」。読売新聞は、1人住まいの女性や主婦を集中的に狙い、「お届け物です」と声をかけてドアを空けさせた後、ヤクザ風に凄んで新聞を取らせる、勝手に半年契約のハンコを押す、クレームを入れると謝罪し、今度はもみ手戦術で新聞をとらせる等々、現在でも続いている拡販団による悪名高い新聞拡販方式の原型を作った。この方式は、現在では他紙に模倣されている。ただ、拡販や読者つなぎ止めで他紙と違うのは、プラチナ・ペーパーとされた巨人戦チケットを使うことである。大阪進出当時、甲子園球場の阪神タイガースと読売ジャイアンツの試合のチケットは、ほとんど読売新聞が引きうけ、阪神にとっては「読売さまさま」だった。巨人戦チケットを使った拡販は、読売の全国進出にあたって広く使われた。巨人軍が負けてはならない、強くならなければならないのは、読売拡販のためという。
戦後は、原四郎社会部長の下、読売「社会部王国」を築き、暗黒街の取材に関しては他紙の追随を許さなかった。「読売の在野精神」とよばれ、「庶民感覚」に根ざしたリベラルな論調を展開した。これは、絶対的な権力をもつ社長・社主の正力松太郎自身、自民党の政治家でありながら、社論に容喙することが少なく、また「販売の鬼」「販売の神様」と呼ばれた後任社長務台光雄も、新聞の心臓部である編集に口を差し挟まなかったことが大きい。ただ、読売新聞は、「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」(務台光雄)[23]と豪語し、「“社主の魅力”でとっているのが40%、“巨人軍”でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」(小島文夫専務・編集主幹)と言うだけあって、「かつては教養ある日本人は読売新聞を読んだり、読んでいることを知られるのを恥じる」のが通例で、90年代までそのような傾向は残存していた。国立大学の教授では18%(朝日新聞が80%)、官僚の課長以上では25%(同75%)、上場企業の総務部長の30%(同55%)しか読売を読んでいなかったという。
1979年、渡邉恒雄の論説委員長就任以降、紙面の編集方針や論調は右派・保守主義となった。現在は基本的に自民党支持、改憲支持、財界(日本経団連)支持、新自由主義的経済改革支持である。その一方、「大連立構想」以降の社説等で見られるように民主党など中道左派・左派系の政治勢力や、左派系の考え方が強い労働組合、平和運動、反核・反原発運動などへの論調には総じて批判的なものが多い。ただし、民主党「も」政権に参加する「大連立」には積極的であるという指摘もある。そのためか、民主党については、方向が違うために批判する場合だけでなく、税制改革のように基本的な方向は現在の民主党主流派と一緒だが程度の違いがあるための批判というケースもある。その他に、主筆・渡邉恒雄が戦争経験者であるため、特に靖国神社(特に遊就館)における歴史認識には批判的で、小泉純一郎の首相在任中の靖国参拝には反対した。
政府の政策に関し、政策分野によっては(憲法改正問題、防衛政策など)、社の見解(社論)を明確に打ち出すのが特徴である。他方、不得意な政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどであることも特徴である。
5大全国紙中で唯一の人生相談コーナー「人生案内」を紙面に持っている。また教育面は早稲田大学と提携。
一方、全国紙では唯一、週刊誌を発行していない(週刊読売→読売ウイークリーがあったが2008年、販売不振で休刊)。
読売新聞の読者層について、木村雅文は大阪商業大学JGSS研究センターの調査をもとに、「日経や朝日と比べて高卒(新制)の割合、ブルーカラーの割合、非正社員の割合が多い」としている。これら学歴、職業を反映して読者世帯の平均年収は、毎日と並んで、日経、朝日、産経に次ぐとしている(いずれも木村、2004)。
全国紙への道
Jリーグのチーム表記問題1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町に於いて「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1964年(昭和39年)9月23日、福岡県北九州市小倉北区砂津中津口(現・明和町1-11)に於いて「読売新聞」の西部版第一号を発刊。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更)の一事業として発足した。
1975年3月25日に、読売新聞の東海3県に於いての発行としての形で、愛知県・岐阜県・三重県を対象地域とする『中部読売新聞』(題号:中部讀賣新聞、読み:ちゅうぶよみうりしんぶん)が創刊された。紙面は、東京で製作された紙面を一部共用し、読売本社と中部読売は編集・工務・販売・広告などの部門で互いに協力し合った。創刊号は、一般的な読売新聞の横並びの題字ではなく、中部読売独自による縦並びの題字[1]が使われた。
1992年のナビスコ杯から1993年にかけてのJリーグ草創期、自社が当時メインスポンサーとして運営していたヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のチーム名を「読売ヴェルディ」とした(日テレも同じ。スポーツ報知=読売系スポーツ紙は「読売ヴェルディ川崎」とした)。
渡邉恒雄は企業名を冠したことについて「プロ野球と同じようにJリーグも企業重視が必要だ」、「川崎製鉄、川崎重工業の商標で商標権侵害の恐れがある」[29]、「東京への移転問題」などの理由を挙げていた。
Jリーグでは企業名は排除して自治体(市区町村名)+愛称で表記するように指導しており、1994年度以後のシーズンは企業名を排除して「ヴェルディ川崎」としてクレジットするようになった。
他メディアに対する姿勢
自らが報道対象になることに関して、J-CASTの取材には「過去にJ-CASTニュースの取材方法に問題があったので、当面は取材にお答えしていません」と回答し、取材拒否する。
2010年2月27日、総務大臣原口一博が消防庁災害対策本部から津波に関する情報をTwitterに発信し、襲来が予想される津波への警戒を呼びかけた。これに対して読売新聞は、既存のメディアよりTwitterを優先するものだとして批判し、「今後、論議を呼ぶ可能性がある」と議論の火種を仄めかした。ただし、当該記事において読売新聞は、誰が、何処に議論を呼ぶのか、一切明記していない。
巨人の契約金の超過に関する問題で自らが運営する巨人軍及び読売グループの会長である渡辺恒雄に対する過度の取材を控えるよう文書にして申し入れた。なお、渡邊会長は過度の取材に対して「人権侵害」であると述べている。
注目を集めた報道・スクープ
 ・1953年、新宿暗黒街の暴力追放などのキャンペーン報道により、第1回菊池寛賞を受賞。
 ・1954年、第五福竜丸の被爆事件の特ダネを報道。一躍、世界に知られるようになる。
連載「物価戦争」による物価引き下げのキャンペーン報道により、1966年度日本新聞協会賞を受賞[。
1968年、連載「昭和史の天皇」により、第16回菊池寛賞を受賞。
1973年8月8日に起こった金大中事件で、韓国KCIAが介在していたことをスクープし、1974年度日本新聞協会賞を受賞した。
1977年、弘前大学教授夫人殺人事件の再審に関する報道により、第25回菊池寛賞を受賞。
弘前大学教授夫人殺人事件に関する一連の報道により、1977年度日本新聞協会賞を受賞。
企画「医療をどうする」により、1978年度日本新聞協会賞を受賞した。
在韓日本人妻の里帰りキャンペーン報道により、1986年度日本新聞協会賞を受賞した。
1988年に発生した大阪府警察の巡査及び堺南署(現西堺警察署)署長以下の職員が組織ぐるみで主婦に拾得物横領の罪を着せようとした事件では、読売新聞記者がいち早く事件を耳にし、社会面に大きく特集記事を掲載したことから事件が発覚、主婦の冤罪が晴れた。この報道により、1988年度日本新聞協会賞を受賞した。
1991年6月3日の雲仙・普賢岳噴火の写真報道により、1991年度日本新聞協会賞を受賞。
企画「PKOぐったり“良識の歩み”」により、1992年度日本新聞協会賞を受賞。
1994年11月3日(日本国憲法公布記念の日)、日本のマスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案」を発表し、憲法改正論議のさきがけとなる。しかし48年前の1946年同月同日(日本国憲法公布の当日)に発行した『新憲法読本』で“新憲法をしっかりと身につけ新憲法を一貫して流れる民主主義的精神を自分たちのものとすることによって、われわれははじめて平和国家の国民としてたち直ることができるのである。”、憲法第9条について同書で“新しい時代の平和の典型として日本憲法を見るならば、ある程度の戦力保持の必要を漠然と感じる危惧感は、この憲法によって再生しようとする日本国民のヒューマニズムを踏みにじるものでしかない。それは単なる感傷の域を脱しない小市民的感情であろう”と述べていた事はあまり知られていない(つまり転向した)。
日本の医療を取り上げた連載企画「医療ルネサンス」により、1994年度日本新聞協会賞を受賞。
元日の一面トップ記事には、他紙のように連載特集記事ではなくスクープ記事を持ってくる。
特に1995年(平成7年)1月1日の「山梨のオウム施設近くでサリン残留物を検出」では、一連のオウム真理教事件報道のきっかけを作った。
日本国内で初めて、第三者の女性から卵子の提供を受けた体外受精をスクープし、1998年度日本新聞協会賞を受賞。
ユーゴスラビア紛争・コソボ紛争に関する一連の写真報道により、1999年度日本新聞協会賞を受賞。
2009年12月22日朝刊で、佐藤栄作とリチャード・ニクソンによる日米核持ち込み問題を独占スクープした。この報道は2010年度日本新聞協会賞を受賞した。
2011年7月21日付朝刊に東電OL殺人事件で別人のDNAが見つかったと報道。真犯人はネパール人男性ではない可能性があることをスクープ。2012年度日本新聞協会賞を受賞した。
疑義が持たれた報道・スキャンダル
1911年1月19日、読売新聞は、小学校「日本歴史」教師用教科書の南北朝についての「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらず」という記述を「大義名分を誤るもの」として社説で批判し、いわゆる南北朝正閏論問題の火ぶたを切った。南北朝正閏論争は、大逆事件判決直後にとりあげられたため、桂内閣を弾劾したい人々による「正義の旗」に利用され、2月23日、立憲国民党は大逆事件とあわせ閣僚問責決議案を提出。桂内閣は、決議案否決のため、政府系会派「中央倶楽部」に大浦兼武を通じて朝鮮銀行から1万円もの資金を渡したという。2月27日、南朝・北朝のどちらを正統とするか、勅裁をあおぐことを閣議決定。結局、南朝正統の勅裁が下り、北朝は「偽朝」に、現在の皇室の祖先である北朝の天皇は、『大日本史』の例にならい、「○○院」とすることが定められた。戦前期の南朝を正統とする歴史教育の端緒を作っただけでなく、大逆事件とあわせて、予防策としての教育や社会政策、警察による取締強化を招いた。
1925年にラジオ欄の創設、1932年に「地方版」である「読売江東版」の刊行など、時代を先取りする紙面作りを行う一方、1927年、ヌード写真を社会面に掲載し、「読売のエログロ主義」と呼ばれて批判も受けた。
1930年代、毎日新聞・朝日新聞などと同様、いわゆる「15年戦争」「大本営発表」に全面的に協力し、戦争を煽りたてる報道を行った。ただし当時、同業者からは「新聞記事は創作するのが練達堪能の記者とされ、やがて幹部に出世する大道」「外電と称して実は編集室の机上でニュースを作りあげる」」と見られており、1938年に捏造記事「揚子江上英米軍艦訪問記」で記者が処分されると驚きをもって迎えられた。また、営利主義的に親ナチ・ヒトラー礼賛の紙面作りを行い、1941年の独ソ戦開始直後から「独軍の電撃的勝利」「赤軍の全面的崩壊」とやったため、年末になると収拾できなくなった。その姿は同時代から「昭和年代のお笑い草」とされた。
1948年、読売新聞は、昭電疑獄において、重要人物の召還を次々と予告して的中させる、連続特大スクープをおこない、「朝起きたら読売を見る、自分の名前が出ていないのを確認して朝日を読む」といわしめるほどの報道をおこなった。このセンセーショナルな紙面作りを可能にしたのは、記者としての訓練をほとんど受けていない、入社3年目の駆け出し記者、24歳の立松和博である。立松和博の父・懐清は、朴烈事件の予審判事。そのため立松は、検察幹部に可愛がられ、「木内曾益 最高検次長検事-馬場義続 東京高検 次席検事-河井信太郎 東京地検主任検事」のラインに結びつくことに成功した。当時、GHQ内は、日本の占領統治をめぐって、右のウィロビー少将と左のケージスが対立・分裂しており、ウィロビー少将は自由党の吉田茂を支持していた。「木内-馬場-河井」の検察ラインは、芦田均内閣を潰そうとするGHQの政治的思惑にそって、昭電疑獄をでっちあげて、検察が政治を支配する時代をつくりあげたのである。河井信太郎は、馬場の黙認の下、捜査情報を読売新聞にリークし続けた。検察は、読売新聞一社のみにスクープを独占・継続させることを通して、強烈なインパクトを各界にあたえ、芦田連立政権を崩壊させることに成功した。ただ、立松は、読売の連続スクープに息巻く他社の記者たちから、河井がネタ元であることを悟らせないようにするため、細心の注意を払わざるをえず、睡眠不足と疲労からヒロポンを打つほど心身がボロボロになり、ほどなくして休職に追いこまれることになる。1957年の売春防止法の読売新聞の大誤報事件は、取材体制の出遅れにあせった景山与志雄社会部長が、昭電疑獄時のエース記者、立松を病欠から呼びもどしたことからはじまった、という。なお、司法記者クラブが検事の家に夜討ち朝駆けをして「ネタ」を物乞いする習慣は、昭電疑獄から始まり、造船疑獄で定着、ロッキード事件やグラマン事件、リクルート事件では、検察関係者による報道機関に対するリーク、すなわち検察リークが猛威を振るうことになる。検事たちが思いあがり、報道機関が検察批判をすると、ただちに「出入り禁止」にする慣行は、三田和夫によれば、読売新聞による昭電疑獄・造船疑獄報道が原因、と、読売新聞の行為を厳しく断罪している。
1950年6月1日に電波三法が施行されたのに伴い、米国の資金と技術によって放送・通信分野の国内基幹網を建設し、公共団体や保安隊へ貸与する構想が浮上した事で騒動が起きた。1952年9月4日の読売新聞には、正力松太郎が中心的役割を担うマイクロ波中継構想が公表された。構想は二転三転したが、最終的に1954年暮れの参議院通信委員会決議により決着した。
1954年3月、第五福竜丸の被曝以降、読売新聞は、社主にして自民党議員、正力松太郎の政治力拡大と原発利権掌握の思惑から、CIAとの協力をえて、原子力平和利用をすすめる原子力発電所建設のための積極的なキャンペーンをおこなった。ただ、日本の再軍備のため、独自に核兵器の開発能力を期待して原発を推進した正力とCIAの思惑は一致せず、CIAが協力するにとどまったことが、有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史』により明らかにされている。ただ、このことは、東日本大震災における福島第一原子力発電所の水素爆発(福島第一原子力発電所事故)以降、あらためて問題とされ、2012年6月1日、ウォールストリート・ジャーナルは、読売新聞社主と原子力発電の不透明な関係を世界に伝えた。
1957年10月18日、朝刊社会面トップ記事は、前年に成立した売春防止法をめぐって、反対運動を行っていた赤線(公認売春)組織から宇都宮徳馬・福田篤泰両代議士が収賄していた、というものであった。これは法務省刑事課長・河井信太郎のリークであったが、読売に情報を漏らす法務省関係者をあぶりだすため、検察が法務省に仕掛けたガセネタであった。読売新聞は、ただちに両代議士から事実無根と告訴され、執筆者の立松和博記者も逮捕された。当時、後に検事総長になる伊藤栄樹たち東京地検特捜部の検事たちは、前任の事務次官・岸本義広によって法務研修所の教官にとばされた河井信太郎が、馬場義続・法務事務次官によって法務省の刑事課長に呼びもどされ、やがては特捜部長に返り咲くのではないか、と憂えていた。とても法律家とは思えない、 造船疑獄における河井の強引な捜査手法に危惧の念を抱いたからにほかならない。岸本東京高検検事長の検事総長就任をめぐって、検察庁内の岸本派と馬場派の感情的対立は頂点に達した。岸本派の集う東京高検は、馬場たち赤レンガ派の昭電疑獄以来の読売新聞への河井のリーク疑惑を確認するため、あえて法務省にガセネタをあげたのである。河井信太郎は、法務省にあげられた容疑濃厚な5名の代議士の内、宇都宮徳馬と福田篤泰のみ、イニシャルではなく実名での報道を立松に認めた。これは、当時もっとも汚い汚職とされた売春疑獄において、選挙に強くない東京2区の宇都宮、東京7区の福田を読売に名指しさせることで落選させて、大物新人として当時総選挙に出馬予定であった、藤山愛一郎外務大臣(東京2区)と、後の参議院議長安井謙の実兄、安井誠一郎東京都知事(東京7区)の当選を確実にし、 岸内閣のために便宜をはかることが狙いだった、とみられている。小島編集局長は、ニュースソースである河井信太郎を隠匿するため「検察庁筋」と答えたとものの、検事総長は両氏の容疑と情報漏れを完全否定。衆議院法務委員会の証人喚問の動きに対して、原四郎は他紙への根回しのうえ、誤報にもかかわらず、全紙をあげて東京高検攻撃に出た。結局、正力松太郎の調停もあって、12月18日、謝罪広告を出し、立松記者は懲戒休職処分となった。読売「社会部王国」終わりの始まり、とされるスキャンダルであった。
1960年代、読売新聞は、北朝鮮を礼賛し、在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業を積極的に推し進めた。1960年1月9日、読売新聞は、ピョンヤン発の特派員電で、「北朝鮮へ帰った日本人妻たち」「夢のような正月」という記事を掲載し、金日成首相に招かれて新年の宴会に出席してることや、正月用にお餅やおせち料理が特配される豊かな生活ぶりを伝え、日本人妻をふくめた在日朝鮮人の帰国熱をあおりたてた。そして、「夫の祖国に帰った日本人妻たちはみんな喜びと幸福にひたっています。新潟を出港するまでの不安や心配は、国あげての大歓迎にすっかり消しとんでしまったようです」「日本で貧困と、ときには屈辱の生活をおくっていた妻たちには夢のようなお正月。まだ日本で帰国をためらっている同じ境遇の人たちに『早く来るように伝えてほしい』と口をそろって語っている」「記者が見たすべての日本人妻が、朝鮮にきてほっと解放されたかのような安らぎをみせ」「みんなが希望にあふれて前方を見つめている」とのべ、多くの日本人の犠牲者をつくりだす原動力となった。読売新聞や産経新聞が在日朝鮮人とその日本人妻の北朝鮮帰国事業を煽りながら、社民党や朝日新聞を攻撃するだけで、自らの過去の言論をまったく反省しない姿に対しては、「目糞鼻糞を笑う」とまで厳しく批判されている。
1966年12月24日、朝刊一面トップで「総選挙にかける」という特集記事が組まれ、「黒い霧の審判 歓迎されぬ首相の応援」「史上最低の不人気内閣」「(支持率)二五パーセントの不人気首相」と、渡辺恒雄記者による佐藤内閣への批判キャンペーンがおこなわれる。1961年以降、旧大蔵省関東財務局・国有財産局であった「国有地の払い下げ」問題がこじれたためであった。跡地は日比谷通りに面した一等地のため、100社以上の応募が殺到。読売新聞は、49番目の応募だったが、「角さん、俺のとこに社屋の土地をよこせよ」(渡辺恒雄の田中角栄への直談判の時の発言)と、熾烈な政界工作を展開。1963年、読売への払い下げが決定された。ところが水野成夫産経新聞社長の巻き返しで、1966年夏、払い下げは白紙撤回。そのため1966年12月22日、業を煮やした務台光雄副社長は、読売新聞本社部長会の席上、「大手町の国有地を払い下げるとはっきり約束した。この約束が反故になったら日本の政治はもうおしまいだ。道義は地に墜ちてしまう。そうなったら内閣と一戦交えるしかない」と発言。12月24日朝刊記事は、国有地を読売にわたさない佐藤内閣へ、解散総選挙を利用した圧力であった。1966年12月27日、「黒い霧解散」で衆議院が解散される。12月29日、務台光雄と佐藤栄作は、首相官邸で会談をおこなう。読売新聞は、460万部の部数をバックにして、大手町の国有地を手に入れることに成功した。
1969年10月8日、読売新聞と報知新聞は、西鉄の永易選手による暴力団と絡んだ八百長事件を報じ、「黒い霧事件」報道の先鞭をつけた。ところが、当時、読売ジャイアンツでは、コーチと暴力団の癒着が騒がれていた。読売ジャイアンツと暴力団の癒着という疑惑から世間の注意をそらすため、読売グループがこの事件を意図的にフレームアップした、と囁かれた。
1974年から1975年にかけて、読売新聞は名人戦騒動をおこした。1961年から始まった旧・名人戦は、高度成長期に14年間も、2500万円前後に契約金が据えおかれた。そこで日本棋院は、1億円の契約金を提示した朝日新聞に名人戦主催権を移すことを表明。あわてた読売新聞は、「金目当て」「信義がない」と激しいバッシングをほぼ1年にわたって囲碁界全体に加え、裁判にまで発展した。1975年末、「最高棋士決定・棋聖戦」創設(1976年から開始)という形で落ち着いたものの、日本棋院のプロの卵である院生の数は激減。日本囲碁界の凋落と中国・韓国の台頭の一因となった。
1978年、ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院、法政大学出身(のち阪神タイガース・読売ジャイアンツ、解説者)の投手江川卓が入団契約を結んだ事件、いわゆる空白の一日。これは栃木選出の代議士である船田中議員らが関与したとも言われ、その経緯は「実録たかされ」(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志)などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種のタブー扱いになっていた。しかし、2005年の日本テレビのスポーツ番組においてこの事件が取り上げられるなど、近年では内部での扱いが変化しつつある。
1986年12月5日夕刊では、「よみうり寸評」差し替え事件がおきた。「よみうり寸評」では、中曽根政権の売上税導入の決定に対して、「朝三暮四のもう一つの意味、詐術を用いて人を愚弄する点も、今回は当てはまる。(略)中曽根首相は七月の同日選のとき、『大型間接税は導入しない』と選挙民に約束した」と批判。渡邉恒雄主筆(1985年6月就任)の展開した「売上税は中型間接税だから公約違反ではない」という売上税導入キャンペーンにそぐわぬためで、夕刊3版から急遽差し替えられた。「よみうり寸評」で1981年の日本記者クラブ賞を受賞した村尾清一記者は、1987年6月、出版局顧問に退いた。
1987年11月29日、大韓航空機爆破事件では、「大韓航空機の墜落確認 タイ奥地」(11月30日夕刊)と報道した。墜落したのは、ベンガル湾上空であった。またこの事件では、11月30日、日本人の偽造旅券を使った人物が、中東のバーレーンで逮捕されそうになり服毒自殺をした。12月2日付夕刊で読売新聞は、「墜落大韓機自殺の男 宮本と同一人物か」と、自殺した男性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺男性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった。
1989年8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事ではアジトの様子が語られており、アジト付近の地図まで載っていたが捜査本部は全面否定し、全くの虚偽であることが判明。翌日には「おわび」を出したものの、「検証」記事に2ヶ月もかかり、その内容も具体性に欠けるものであった。この虚偽報道事件は、珊瑚損傷記事捏造(『朝日新聞』同年4月20日夕刊)やグリコ・森永事件の犯人取り調べ捏造(『毎日新聞』同年6月1日朝刊)とならぶ一大スキャンダルであったが、朝日新聞のサンゴ事件の影に隠れてほとんど話題にされず、読売新聞は処分の内容も、記事を書いた記者の名前も明らかにしなかった。
1990年5月6日、子供の日翌日の朝刊社会面トップは、「雨の日の5日午前2時幼い2人置き去り 歩道とぼとぼ 保護 親の名言わず」と、「豊かな時代」の「子捨て」を報道し、「親の身勝手から依然として後を絶たない」と批判した。しかし実際は、父に黙って深夜に外出して保護されただけであり、記者の早とちりであった。ところが、訂正・お詫び記事を出さなかったどころか、「同署では"兄妹は大人たちに囲まれ、緊張感と警戒心で自宅がすぐ近くにあることさえ口に出せなかったのだろう"と同情している」(5月7日夕刊)と書き、読売新聞は誤報の責任を子供になすりつけた。
1991年12月1日朝刊は、1990年5月におきた足利事件を報道した。読売は、朝日・毎日と異なり、「捜査本部は、これまでの調べで、男性が少女を扱ったビデオソフトや雑誌を愛好している」と、犯人をロリコンとする独自記事を掲載。翌日の朝刊でも、「ロリコン趣味の45歳」と見出しをつけ、「週末の『隠れ家』でロリコン趣味にひたる地味な男」「『週末の隠れ家』には、少女を扱ったアダルトビデオやポルノ雑誌があるといい、S容疑者の少女趣味を満たすアジトとなったらしい」と、あたかも宮崎勤事件かのようにセンセーショナルに煽りたてた。菅家容疑者の家宅捜索が12月3日におこなわれ、少女向けアダルトビデオは一切発見されなかったにも関わらず、続報として触れるにとどまり、一切謝罪しなかった。読売新聞は、2009年6月8日、菅家受刑囚の釈放後最初の単独インタビューを掲載した後になって、菅家容疑者に対する一連のロリコン報道について検証をおこなう(2009年6月26日)。その検証でによれば、「記事は、県警担当の記者が菅家さん逮捕の約1週間前、県警幹部から取材をした情報がもと」と警察リークであることを白状した。だが検証では、逮捕の日(12月2日)前日にロリコンと報道としていたにも関わらず、「別の複数の捜査幹部からも『逮捕できるだけの直接証拠ではないが、状況証拠の一つだ』との感触を得ていたことから、菅家さんの逮捕直後に記事にした」と『逮捕直後』の報道とするなど、事実関係を偽っていて、まったく検証になっていない。また「菅家さんについての予断や偏見を読者に与えた可能性はある」と『可能性』に矮小化するなど、真摯な反省・謝罪はまったくおこなわれていない。
1994年3月25日、朝刊一面に「『グリコ・森永』に有力容疑者 大阪の男、一部供述」という見出しがおどった。内容は、「グループ8人か」「捜査本部一斉聴取へ」「江崎勝久・グリコ社長誘拐に始まった一連の事件について関与を示唆するような供述」「末端の実行犯の可能性」「『しゃべれば、殺される』などと供述」「当時の行動を再現させるなど、確認作業を始めた」「時効まで残すところ二ヶ月余りという局面で最大のヤマバをむかえる」というもの。しかしその後進展はなく誤報であることが分かった。読売新聞は6月2日朝刊一面の「グリコ・森永事件『アベック襲撃』も時効」と伝えたことを受けての社会面記事、「悔しい時効」の一節にあわせて掲載した「大阪社会部『グリコ・森永事件』取材班」の署名入り記事「性急だった本紙報道」の中で「情報の検証に甘さがあったことは否めない」と釈明した。
松本サリン事件において、6月28日付でマスメディアが報じた「薬剤の調合をまちがえた」「農薬混合」とされたガスの正体が、7月3日になって農薬ではなく調合では精製できないサリンと判明したものの、1994年7月15日夕刊では「薬剤使用をほのめかす 事件直後に会社員」と、会社員・河野義行を犯人視させる報道をおこなっている。なお読売新聞は1995年5月12日になってから河野に対し紙面で謝罪をおこなった。
1995年2月14日、東京協和信用組合の前理事長・高橋治則が行った、元・中曽根派の代議士山口敏夫のファミリー企業への法定限度額をこえた過剰融資と癒着を報じた記事は、編集局次長の業務命令で差し替えられた。12版・13版まで掲載された記事が14版(東京都内)で消えた背景には、旧・大野派の番記者として、山口敏夫や彼の父と親しかった渡邉恒雄社長(当時)への、編集局幹部たちの過剰な配慮があったとされた。
1995年3月28日、地下鉄サリン事件の報道が過熱する中で、朝刊一面にトップに「入院の男 容疑者と断定」「小伝馬町駅 サリン車内に置く」「目撃情報で突き止める」「回復次第 取り調べ」と題した記事を掲載した。内容は、営団地下鉄日比谷線の電車の3両目車内に、サリン発生源である新聞包をおいたコート姿のサングラスの男は、サリンを浴びて入院している男と同一人物であることが、目撃情報によって突き止められた、というものである。しかし同日夕刊の続報では、社会面で「犯行とは無関係」と、朝刊特ダネを完全に否定した。容疑者と断定した人物についての謝罪・顛末説明は行われていない。
2001年から2002年にかけて、読売新聞は田中眞紀子外相更迭の旗振り役をになう。2001年6月2日付社説では、「機密費問題などに見られる外務官僚の閉鎖的体質を改めるのは大事なことだ。だが、いたずらに省内に混乱を生じ、外交を弱めるようでは本末転倒」と、田中外相の外交感覚を危惧。8月3日、4日付社説では、事務次官人事の混乱に基づき、田中外相の更迭を要求した。これは、「9・11」以後噴出する田中外相批判の先鞭となり、2002年1月29日の外相更迭につながっている。しかし2002年2月以降、機密費横領・水増し詐偽・組織的裏金作り・私的流用・「鈴木宗男疑惑」などが噴出すると、一転して「『政と官』の不明朗な関係が批判されているにもかかわらず、外務省幹部の意識が一向に改まっていない」(2002年2月24日付社説)と批判した。
2002年4月、個人情報保護法案と人権擁護法案の国会審議入りに際して、日本新聞協会(会長・渡邉恒雄)は、表現・報道の自由を侵すとして廃案・出直しをもとめ、緊急声明まで出して反対姿勢を示していた。しかし読売新聞は、個人情報保護法については、メディアを含めて守らなければならない基本原則のうち「透明性の確保」を報道分野だけ除外する、などを柱とした「「報道の自由」と両立を/修正試案を本社提言」を5月12日付1面で掲載した。5月13日、小泉首相は、読売試案を参考にして修正協議に入るように山崎幹事長に指示。事前了解済みを疑わせる怪しい動きに、ほとんどのメディアがこの読売試案に反発。「特定の大新聞がよければ「青信号」を出せるような法案ではない」(『北海道新聞』)「読売案は<歴史の汚点>」(月刊『文藝春秋』)という批判をあびた。
2002年9月18日、小泉訪朝による日朝首脳会談では、政治部長署名記事で、「北朝鮮が軍事独裁国家である限り、経済協力などできるものではない」と啖呵をきった。しかし、1962年から1965年、朴正煕政権との日韓国交回復交渉において、金鍾泌と日韓国交回復に反対していた党人派大野伴睦を引き合わせるなどして、軍事独裁国家に対する経済協力を実現させた黒子役は、読売新聞の渡邉恒雄記者(当時)であった。
2003年3月、米英によるイラク戦争の開始にあたって、「湾岸戦争から十二年後の今もなお、大量破壊兵器の廃棄義務を履行していない」(3月9日社説)「大量破壊兵器を廃棄した、というフセイン政権の主張は、まだ立証されていない」(3月14日社説)「問題の本質は、イラクの大量破壊兵器がテロリストの手に渡る危険性をどう排除するか、である」(3月19日)など、イラク攻撃に賛成する論陣を張った。しかし2004年の米政府調査団による最終報告にて、大量破壊兵器がイラクに存在しなかったことが結論付けられた。
2004年4月8日に起こったイラク日本人人質事件報道において読売新聞は、「三人の行動はテロリストの本質を甘く見た軽率なもの」(4月9日)「三人にもこうした事態を招いた責任がある」(4月10日)「人質の家族の言動にもいささか疑問がある…政府や関係機関などに大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である」(4月13日)等、人質とその家族を批判する「自己責任論」の火付け役となる。また4月19日付社会面では本人の帰国費用のほか、政府自治体関係者の活動費まで細かく算定して「自己負担論」を唱えた。だが、読売新聞は、サマワから記者を撤退させた際、「現地の治安が悪化し、外務省から航空自衛隊の輸送機で撤退を求められたため、利用」(4月15日)したとして、帰国費用や政府自治体関係者の活動費を「自己負担」したかどうか、未だ明らかにしていない。
2004年5月26日、「アル・カーイダ幹部新潟潜伏」の見出しで記事を掲載。新潟で会社を経営しているバングラデシュ国籍の男性が、国際テロ組織アルカーイダと関連があるかのように報道した。警察の捜査の結果、男性はアルカーイダとは無関係と判明。男性は名誉を傷つけられたとして読売新聞東京本社に330万円の損害賠償を求めた。読売新聞側は「記事は警察当局の見方や方針を報じたもの」などと主張したが、1審、2審では読売新聞側の裏付け取材が不十分なうえ、記事の見出しは原告がアル・カーイダ幹部であると読者に誤解させるものと判断、原告の名誉棄損を認めた。2008年11月25日、最高裁は読売側の上告を棄却したため読売新聞に220万円の支払いを命じた2審判決が確定した。
2005年、デンマークの新聞「ユランス・ポステン」が、預言者ムハンマドに関する風刺画12枚を掲載、イスラム教徒の反発と抗議行動を招いた。ヨーロッパの新聞が、風刺画を転載するなど、「表現の自由」を訴える中で、2006年2月11日、読売新聞は、社説「風刺漫画騒動 『表現の自由』には責任が伴う」の中で、「風刺漫画という表現方法で、権力者や社会事象などを皮肉るのも、報道の範疇だろう。だが、それによって、敬虔な信仰心を傷つける権利までは表現の自由にはない」とし、これ以上信教の自由を侵してはならないという論陣をはって、どのような風刺画だったのかを一切明らかにしなかった。一見、「信教の自由」を重視したようにみえるが、実は、イスラム教徒の暴力やテロを極度に恐れた日本新聞協会や日本雑誌協会による、風刺画を転載しない申し合わせに従っただけにすぎないことが明らかにされており、暴力への弱腰が厳しく批判された。
2007年2月16日、アサヒビールがサッポロホールディングスに経営統合を提案したとの報道がなされたが、両社ともにそのような事実は無いとして否定した。
2007年6月2日、朝刊の連載小説「声をたずねて、君に」の同年5月28日掲載分について、挿絵が雑誌に掲載された写真を無断使用して描かれていたことが判明。即座に挿絵の掲載を中止し、他にも無断利用がないか調査した結果、7月2日には新たに35点に著作権侵害の疑いがあることが判明した。挿絵を担当したのはイラストレーターの中島恵可であり、写真の無断使用を認めている。使われた写真は高知新聞に掲載された32点と読売新聞に掲載された3点。高知新聞の掲載写真のうち、13点は共同通信、5点は時事通信、2点は主婦と生活社の配信であり、読売新聞社は各社に謝罪した。
2007年11月、自民党と民主党の間で大連立内閣を組む構想が持ち上がったが、読売新聞主筆の渡邉恒雄が仲介役として関与していたことが読売新聞以外の各紙報道により伝えられた。読売新聞自体も大連立を推進する報道を行い、構想頓挫について民主党を批判する報道を行った。
2008年1月27日、石川県版に掲載されたある大学教員の学位をめぐる記事に対して、大学から「取材を受けていないのにコメントが掲載されている」という抗議があり調べたところ、金沢支局の記者が大学側に取材を行わず他紙の報道や大学、文部科学省の公表資料などを参考にして記事を執筆し、コメントも「土曜日で電話がつながらなかったから」という理由で捏造していたことが発覚。記者は休職1カ月の懲戒処分となった。
2008年7月28日、青森県版に掲載された全日本吹奏楽コンクール青森県大会関連の記事で、掲載された八戸市代表楽団長の談話は“岩手県中部の地震被災地関連の記事が必要だ”と考えた青森支局の記者が、楽団名をネット検索して書いた捏造記事だった(コメントした団長は先任者で楽団とは既に無関係)。元団長本人からの指摘で発覚。談話部分は取り消され、執筆記者は休職3ヶ月、伊藤学支局長はけん責の懲戒処分となった。取消・謝罪は「青森版」のみに掲載された。なお、謝罪会見は行われず、執筆者も明らかにされていない。
2009年3月以降、小沢一郎民主党代表(当時)をめぐる西松建設の疑惑西松建設事件では、検察リークにもとづき小沢批判を紙面で展開する一方、批判に対しては徹底した検察擁護をおこなった。2009年6月11日付けの朝刊社説では、「検察・報道批判は的外れだ」とタイトルをつけ、批判を一蹴。「小沢氏に持たれた疑惑の核心部分はもっと別のところにある。秘書が西松建設幹部と相談し、ダミーの政治団体からの献金額や割り振り先を決めていたとして、検察当局は悪質な献金元隠しと認定した」と断定したが、「ダミーの政治団体」であることは、西松事件の公判で否定された。もちろん、読売新聞は謝罪・訂正を一切していない。このような、一方的な報道姿勢については、元・読売新聞大阪社会部記者の大谷昭宏からも、「現状では小沢氏を罪に問える材料は何もなく、事件取材をしている現場記者たちは、無理筋だとわかっている。だから、これまでの犯罪報道なら『贈収賄』や『闇献金』という具体的な容疑で書くのが原則のところを、『政治とカネ』という漠然とした言葉にせざるを得ない。とにかく小沢氏に疑惑をかぶせて批判したというだけの恣意的な報道です。ある現場の記者は、『デスクなど上司からは小沢の悪い記事を書けと要求されるが、何も容疑がないのに何故悪く書けというのか。上司の感覚の方がズレている』と嘆いていた」と批判されている。
2009年5月22日、20日付朝刊のスポーツ面に掲載された記事が中国新聞からの盗用であることが発覚。読売新聞大阪本社の運動部記者が容疑を認めたため、中国新聞社に謝罪した。後日、その他の盗用の有無を調査した結果、同じ記者が執筆した4月16日付朝刊のスポーツ面においても、中国新聞の2008年9月11日付のスポーツ面の記事と酷似した表現が数カ所発見され、最終的に8本の記事で盗用が確認された。
2009年7月23日付け世論調査記事『「比例は民主」42%、優勢維持…読売世論調査』で、麻生太郎と鳩山由紀夫のうち総理大臣にふさわしいのはどちらかを比較するグラフを掲載したが、菅原琢・東京大学特任准教授(先端科学技術研究センター、博士(法学))は作為的に(基準軸を操作して)麻生の横ばい評に対し鳩山は大きく下落しているように表現したとし、「メディアの信頼性を毀損するもの」と批判している。
2010年1月20日付夕刊では、「石川知裕衆院議員が東京地検特捜部の調べに、(中略)小沢氏に報告し、了承を得ていたと供述していることが、関係者の話でわかった」と、陸山会の虚偽記載について報告し了承を小沢氏から取った、ことを一面でスクープ。新聞・テレビによる「陸山会の『虚偽報告書』問題」報道をリードした。また2010年10月8日朝刊では、「ブレなかった石川供述」と題し、「小沢氏の公判では、石川議員が供述を翻すことも考えられる。その場合、保釈後も崩れなかった石川供述が再び意味を持つことになる」と、自社のスクープをもちあげ、検察審査会は、「強制起訴議決」の有力な根拠に石川供述を挙げるほどであった。だが、担当検事による「供述の捏造」が指摘され、東京地裁は石川供述の採用を却下。すると、2012年3月2日朝刊一面トップで、「地検が問題発覚の約1年前にこの事実を把握しながら、十分な調査を行わず放置していたことがわかった」と、今度は自社のスクープを否定するスクープを報道。読売新聞による2010年1月20日以降の「(虚偽記載について)小沢先生への報告・了承を求めた」の報道についての釈明・訂正・謝罪はなく、その余りのマッチポンプな報道ぶりで呆れさせた。
2010年1月25日の夕刊で、民主党幹事長・小沢一郎の政治資金管理団体陸山会による政治資金収支報告書に関する虚偽・不記載疑惑に関連し、「東京地検特捜部が押収した(元事務担当の)石川議員の手帳には、水谷建設の元幹部らが5000万円を渡したとする04年10月15日の欄に、授受の場所とされるホテル名が記されていた」という記事を掲載した。また、「特捜部はこの手帳の記載を、水谷建設の当時の幹部と面会したことを示す証拠として重視している」と続けた。しかし、実際に手帳に書かれていた数字は「04年」ではなく「05年」であり、さらにホテル名が記載されていた時期も4月だった。読売新聞は翌26日朝刊に訂正記事を掲載し、記事と見出しの当該部分を取り消した。
2010年10月5日付朝刊社説は、検察審査会による小沢一郎の強制起訴議決に賛成する論陣をはった。社説では、村木厚子をめぐる障害者郵便制度悪用事件で証拠を改竄した主任検事が、陸山会事件大久保元秘書の取り調べを担当し、調書を作成していたことに対してほとんど触れなかっただけではなく、「大阪地検特捜部検事による証拠改竄事件が検察の審査に与える影響も懸念されたが、『強制起訴』議決は改竄疑惑が発覚する前の先月14日だった。無責任な検察審批判は慎むべきだろう」と、改竄の発覚前の議決だから、検察審批判をしてはいけない、という論陣をはり、一部から批判された。
2011年3月11日、東日本大震災による福島原発の被災に対して、原発推進派で多額の広告料を東京電力からもらっていた読売新聞は、放射能被害を少なく見せかける虚偽の報道を繰り返した。2011年3月16日には、「『黒い雨』『うがい薬飲め』のデマ」と題して、「放射性物質が雨に溶け込んで降ってくるというのは考えにくい」という原子力安全技術センターのコメントをのせるなど、放射性物質を含んだ雨水によるホットスポットによる被曝を否定をつづけた。ところが、2011年10月22日、千葉県柏市の私有地では、毎時57.5シーベルトの高い放射線量が検出され、10月23日、文科省は「原発事故が原因の雨水」とみとめることとなる。あろうことか、この事件について読売新聞は、2011年5月16日、「チェーンメールで放射能のデマ拡散」と題して、ホットスポットとはデマである、と以下のように断言していながら、読売新聞は今に至るまで、まったく訂正・謝罪をしていない。
福島第一原発の事故に関連して、千葉の柏市、松戸、流山と埼玉県の三郷の計4市で、飛び地のように放射線観測地が高くなる「ホットスポット」が発生しているといううわさがチェーンメールやツイッター、ネット掲示板で広がっている。…… 日本データ通信協会迷惑メール相談センターは「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と注意を呼びかけている
なお、コメントを引用された原子力安全技術センターは、「読売さんが当時どのように取材したのかわからないため答えようがない」としており、東電との癒着だけでなく、取材方法、報道姿勢も問題視された。
2011年5月20日の朝刊一面トップで、「東電社長に築舘氏」との見出しで、同社の清水正孝社長が退任し、常任監査役の築舘勝利が社長に就任すると報じたが、実際は西沢俊夫常務取締役が社長に就任した[65]。この誤報については、「『ああ、新聞ももう絶望的だな』と思った」「社長にならない人を社長になるって書いちゃった。それもマヌケだけど、この期に及んで社長人事が1面トップ、特ダネだと思っているような人たちが新聞を作っている。それが何よりもマヌケなんです」(烏賀陽弘道)「ワカメや昆布からヨウ素131が10万ベクレル以上検出されたというほうが世界的大ニュースですからね。しかも食べているのは日本人なんです。でも新聞はそれをやらない。感覚がズレている」(上杉隆)「いや狂っていると言ったほうがいい」(烏賀陽弘道)などと、批判を浴びている。
2011年9月2日の野田内閣発足の際、同日付けの朝刊の1面トップで「財務・岡田氏」と乗せ、岡田克也が財務大臣に内定したと報じたが、実際には岡田は入閣せず、誤報となった。
2011年10月20日、読売新聞東京本社編集局社会部次長の恒次徹記者は、自由報道協会で行われた小沢一郎衆議院議員の記者会見において、事前に了解していたはずの「参加者は司会者の指示に従う」というルールを守らず、上杉隆や岩上安身と衝突した取材態度が問題視された。恒次記者は、会見の席上、司会者が静止しているにも関わらず繰り返し質問をおこない、ゲストが答えている最中に声をかぶせて持論を展開。主催者側では、動画中継されている記者会見自体を妨害する行為と判断。そこでたしなめた所、恒次記者が「対話がしたいもので…」「小沢さんがきちんと答えない。私たちはこれまでも数々の会見に出席し、追及してきた」と反論したばかりか、公平性を重視し外部のフリーアナウンサーを司会に起用しているにも関わらず、「司会者の司会が不当な場合もある」と司会に責任転嫁したからである。主催者側の上杉と岩上は激怒。恒次徹社会部次長の「失笑」ものの「不規則発言」「露骨な決めつけ」もあって、ネットでは大いに話題となった。2011年10月27日、読売新聞は、検証記事「本紙記者へ激しい抗議 自由報道協会」で「ルール違反と過剰に騒ぐことは、会見者を追及から守ることにしかならない」と反論。寄付金で賄われ、ボランティアが運営する記者会見に出席しても、あたかもルールなど守る必要はない、という見解を示して、さらなる自由報道協会側の反発をまねいた。なお、この事件については、「読売新聞の記者が、国民、つまり読者を見ていないから起きたのです。要するに『会社の方針』だから、そのために一所懸命、取材をやって紙面化してる。…、自説の開陳なんて、本来、会見でやることではない」(佐藤優)[72]などの意見が出されており、読売新聞側を支持する人は、とりわけネット上では2割にとどまるなど、厳しい批判にさらされている。
2012年3月15日付『朝日新聞』の朝刊一面トップは、読売巨人軍が新人選手へ1億円をこえる契約金を裏金で支出していた、とする報道であった。読売新聞は、同日、朝日新聞の報道にあわせて、ただちに反論記事を掲載。新人選手への1億円以上の契約金の支出禁止は、2007年1月までは、目安に過ぎなかったとした。だが、この反論記事は、「04年に横浜や西武が1億円を超えて払っていたことが大きなニュースになって、コミッショナーに厳重注意を受けて、西武なんか上層部が責任をとった」「あれは何なの? 野間口も同じ04年ですよ。その時になんで巨人さん、バックアップしてくれなかったのよ。『ルールじゃないんだよ』と。そう思うじゃないですか」(小倉智昭)という反発をうけただけではない。報道各社に「朝日がこんな取材をしているが」と反論文書を配る、読売新聞の「報道のモラル」に反した振る舞いも厳しく批判された。とりわけ、読売新聞の反論の中で失笑を買ったのは、「いま球団が一丸となって東日本大震災を支援しようとする時に、10年も前のことを持ち出すのはいかがなものか」と、東日本大震災の復興への支援をダシにして、朝日新聞を批判し、裏金報道を封じこめようとする態度であった。
2012年3月27日、読売新聞は、「『管理会社』実体なし」との見出しで、2ちゃんねるの管理会社がペーパーカンパニーであることについて、記者をシンガポールにまで派遣してあきらかにした。ただ、2011年10月に就任した片桐裕・警察庁長官は、すでに生活安全畑出身の樋口建史・警視総監に指示し、警視庁生活安全部に約20人からなる『2ちゃんねる特捜班』を設置。2011年11月以降、覚醒剤売買の書き込みを放置した麻薬特例法違反幇助容疑で、2ちゃんねるの関係先を捜索している。ただ、「そもそも掲示板の管理人がすべての削除依頼に目を通すことなど不可能。そこで2ちゃんねるでは、複数の人が自警団的に削除をしてきた。犯罪が起きたのは残念だが、一部のユーザーの不届きな行為で、掲示板自体を潰そうとすれば言論統制、表現の自由の侵害といわれても仕方がない」(ITジャーナリストの井上トシユキ氏)。そのため、捜査当局が描く「2ちゃんねる=悪」というストーリーを補完するためだけの、警視庁と読売新聞の二人三脚による、警察リーク記事ではないか、いう批判をあびただけではなく、読売新聞はそもそも報道機関ではない、とまで揶揄されている。
2012年7月25日~26日の夕刊「夏の連ドラ記者座談会」は、大きな話題をよんだ。「大 1位の『トッカン』は、何と言っても、『お金になんて、殺されないで』というセリフ、キャッチコピーがいいね。市井の市民が税金に追いまくられる姿を描いた、メッセージ性のあるドラマだよ」「浅 このセリフはビシッと決まったね。僕は映画のような映像にはまった。井上真央も頑張っている」などと、同じ読売グループ内の日テレの連続ドラマについて、なにが良いのかよく分からない「礼賛」がおこなわれたばかりか、連続ドラマとして取り上げた11作品中、テレビ朝日の作品が1つしか含まれない、異常に偏った連続ドラマ紹介が行われていたためである。当時、テレビ朝日と日テレは、激烈な視聴率争いを展開していた。そのため、読売新聞が日テレに異常な配慮をしたのではないか、と問題視された。
2012年(平成24年)10月11日付の朝刊一面トップ記事にて『iPS心筋移植 - 初の臨床応用』の見出しを付けた記事を一面と三面に掲載。ハーバード大学客員講師・東京大学客員研究員の森口尚史が、iPS細胞を利用して心筋細胞を作成し、特殊な注射器で心臓の30箇所に注入し手術が成功した、という記事を書いた。しかし2日後の10月13日の一面記事にて『iPS移植は虚偽』と見出しを出し「おわび」を掲載。10月11日朝刊と夕刊・一部地域の12日朝刊の関連記事に誤りがあったとして、お詫び文を掲載し誤報を認め、検証記事を10月13日朝刊8面に掲載し、事実上の虚報を認めた。
2013年(平成25年)5月19日付朝刊1面および8面にて、東京電力が柏崎刈羽原子力発電所1号機と7号機の運転再開を原子力規制委員会に申請する方針を固めたと報道。YOMIURI ONLINEにも同内容の記事を掲載した[78]。これに対し東京電力は、そのような事実は無いとして、読売の報道内容を否定した。
不祥事
1969年12月14日、全日本空輸の旅客機と、読売新聞社のレシプロ機が空中衝突した。衝突後も双方の機体は飛行可能であったため、死傷者は出なかった。
1975年3月25日、創刊当時の『中部読売新聞』の月極め購読料が500円(1部売り20円)と、他の新聞より安く設定されていたため、公正取引委員会は「不当廉売の疑いあり」として緊急停止命令を東京高等裁判所に申し立てた。同年4月30日に東京高裁は、公正取引委員会の審決があるまで、月極め812円を下回る価格での販売を禁止する判決を下した。
1981年9月、読売新聞拡販団長がピストル密輸事件で逮捕される事件が起こった。1981年9月2日付『朝日新聞』によれば、広域暴力団の住吉連合がアメリカからピストルを密輸した事件の第二次摘発が行われ、逮捕者は合計で二八名、押収したピストルは四三丁におよんだ。担当の警視庁捜査四課は、密輸されたピストルの総数を「百丁は越す」としていた。読売新聞の「城西地区」(杉並、中野、渋谷)を担当エリアとする拡張販売団である、武蔵野総合企画社長矢野公久も、「銃刀法・火薬取締法違反」で逮捕された。矢野公久は、池田会宮崎組のナンバー・ツーで、「自動式拳銃四丁と実弾二百発」を所持していたという。警視庁は、一応、矢野公久の身元を発表したのだが、警視庁詰め記者クラブの談合でほとんど報道されなかったため、「なぜ新聞に一行も出ないのか/読売新聞拡販団長が/ピストル二〇〇丁密輸事件で逮捕」(『週刊文春』1981年9月10日号)などと厳しい批判をあびた。
1990年12月4日、東京都調布市の読売新聞販売店で新聞奨学生の過労死事件が発生した。裁判の結果、1999年7月27日に読売新聞社と遺族との間に和解が成立した。
2004年11月5日、渡邉恒雄の名義とされる日本テレビ放送網株が讀賣新聞社の実質所有する株式であることを公表し有価証券報告書を訂正。これを受けて地方のテレビ局24社とラジオ局18社の株式を役員などの第三者の名義で実質保有していることも公表した。その結果、テレビ9社とラジオ3社に対する出資比率がマスメディアの集中排除の原則における制限を越えていた事実が明らかになった。その後、第三者名義にして制限を逃れる行為が他の全国紙や地方紙でも行われていたことが発覚した。
2005年5月4日から5日早朝にかけてのJR福知山線脱線事故記者会見の席上、JR西日本の事故直後の対応やレクリエーションを中止しなかったことについて、出席した記者が説明を求めて「あんたらはもういい、社長を呼んで」等と罵声を浴びせたり、感情的発言を繰り返していたことが判明。取材モラルに欠けていないかと読者や他のマスコミなどから批判され、特に産経新聞は『主張』(社説)で批判文を掲載した。後に、大阪本社社会部長名で社会面に謝罪文が掲載された一方、当の記者が報じられたことのうちの一部を否定している。
2006年、週刊新潮2月16日号の報道において、社主・正力松太郎が中央情報局(CIA)に買収されその意向に従って行動していたことが明らかにされた。これは有馬哲夫・早稲田大学教授が、アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交機密文書を調査した結果判明したもので、大きな反響を呼んだ。
2007年9月12日付のJ-CASTニュースにて、朝日新聞社(asahi-np.co.jp)からウィキペディア日本語版の記事項目が大量に修正されていた事実が報道されたが、読売新聞社からは朝日より多い850件余りの修正が行われていたことも同時に発覚した。読売はWikiScanner日本語版において、プログラム開発者の「お勧め」として挙げられている。
2012年1月18日の奈良県版で、殺人罪などが問われている警察官発砲事件の裁判員裁判(奈良地方裁判所)をめぐり、裁判員に選任された女性のコメントを掲載した。裁判員法102条により、選任された裁判員への接触が禁じられているため、読売新聞の記事は裁判員法に抵触する可能性がある。奈良地方裁判所の上田昭典所長は同月20日、読売新聞奈良支局長宛ての抗議文書を送付し、遺憾の意を表明した。
読売新聞とプロ野球
日本のプロ野球ファンの中で最も数が多い巨人ファンから見ると、読売新聞を巨人軍の「親会社」と考える者は多くても、巨人軍を読売新聞の「グループ企業」と見る向きは少ない。そのため、巨人軍に「読売」色が全面に出るのを嫌う人達も少なくない(むろん、巨人ファンの大多数が読売新聞の読者というわけでも、あるいは読売新聞の論調を支持しているわけでもなく、あくまで巨人軍という球団のファンであるに過ぎない)。また、読売ジャイアンツの通称としては「巨人」がマスコミも含め一般に浸透しており、「読売」と呼称するのはむしろアンチ巨人の立場のファンに多く見られる。
1980年、ファンから絶大な人気を得ていた長嶋茂雄が巨人軍監督を解任されると、ファンによる「読売新聞」不買運動が繰り広げられた。
ON対決となった2000年の日本選手権シリーズ後、特に九州地方で部数減の傾向となった。以降西部本社・大阪本社管内においては、地元の系列民放テレビ局(福岡放送と読売テレビ)への配慮から、それぞれ福岡ソフトバンクホークス・阪神タイガースの記事も同等に取り扱うようにしている。
2002年、球団の経営母体が「株式会社よみうり」から「株式会社読売巨人軍」に変わったことにより、球団の正式名称も「東京読売巨人軍」から「読売巨人軍」に、またビジター用ユニホームの胸文字も、長年使われてきた「TOKYO」から「YOMIURI」に変更された。特にユニホームの変更は反感を買い、東京ドーム右翼席に抗議の横断幕が掲げられたこともあった(「YOMIURI」表記は2004年に廃止。現在はユニホームデザインの刷新でホーム・ビジターとも「GIANTS」表記になっている)。
2004年、日本プロ野球選手会によるストライキが行われた際に、選手会を糾弾する報道を展開し、ファンの反発を招いた。
近年は各地のプロ野球本拠地球場(千葉マリンスタジアムなど)で「読む声援 読売新聞」の広告看板を掲出するところがある。また、ニューヨーク・ヤンキースの旧ヤンキー・スタジアムにも広告看板を出稿していた。
2011年11月11日、巨人のコーチ人事を巡る清武英利球団代表と渡邉恒雄オーナーの騒動では、他の全国紙が大きく取り扱う一方、読売新聞ではスポーツ欄で小さく取り上げられた。