2011年3月27日日曜日

自国民大虐殺の国シリア



 1982年2月3日午前2時、シリアの首都ダマスカス北方約200km、古い歴史のある美しい都市ハマの中心へ向け、シリア軍部隊が夜陰に乗じ、密かに潜入しつつあった。 ハフェズ・アサドのバース党政権に敵対するイスラム原理主義組織・ムスリム同砲団の武装ゲリラ指揮官アブ・バクルの根城を急襲しようとする作戦だった。

 だが、この作戦は待ち構えていたゲリラ側の攻撃で完全な失敗に終わった。 そして、それがすべての始まりとなった。

 兵力12,000のシリア軍が戦車とともにハマを包囲し、戦車の攻撃ルートを作るための空爆には戦闘機が動員された。 政権に歯向かう者たちへの情け容赦ない殺戮の開始である。

 ハマの包囲は27日間におよび、由緒ある街並みはずたずたに破壊され、街路には死体が累々と横たわった。

 犠牲者は恐ろしい数にのぼり、数万人とされたが、誰も正確に言うことはできなかった。

 それから20年後、シリア人ジャーナリスト、スビ・ハッディは、死者数を30,000~40,000人、行方不明者数15,000人、100,000人が追放されたと推計した。 中東における最大の自国民殺戮である。 シリアにおける反政府活動は以来、ほとんど根絶やしにされた。

 シリアというのは、恐ろしい国なのだ。

 そのシリアでも、中東で急激に拡大してきた民主化要求の運動が始まった。 チュニジアやエジプトのように、「優しい独裁者」の国ではない。 リビアとも違う。 ハフェズ・アサドを引き継ぎ大統領になった息子バシャール・アサドは、冷酷な父親とは異なる改革主義者ではある。 だが、「ハマ大虐殺」の記憶ゆえに、陰惨な不気味さが漂う。

 今は、リビア、日本に続く不幸な出来事が起きないことを祈るしかない。

 以下、シリア関連ブログ(アサド・ファミリー、シリアの難民、クルド人など)。



2011年3月21日月曜日

日本脱出


 1975年4月29日、南ベトナムの首都サイゴンの占領を開始した北ベトナム軍から逃れるため、残っていたアメリカ人や、一部のベトナム人が、懸命の、そして最後の国外脱出を続けていた。

 米軍の手元にあった使用可能な兵員輸送ヘリコプターのすべてが動員され、人々はサイゴン市内から沖合いに待機する空母へ運ばれた。 北ベトナム軍がせまる中、それは時間との競争であり、出国しようとする全員の輸送が不可能なことは目に見えていた。 当然、多くの人々が取り残された。

 オランダ人フォトジャーナリストHubert Van Es が撮った当時のドラマティックな光景を覚えている人は多いだろう。

 3月11日の巨大地震・津波、その後の余震と原子力発電所の深刻な損傷。 鈍痛のような不安は今も続く。 そして、在住外国人たちは日本脱出を続けている。 

 「(法務省入国管理局によると)地震後は外国人を中心に出国者が増加し、羽田と成田空港からの出国者が地震前の約2倍に達している。 一時帰国に必要な在日外国人の『再入国』の手続き者は通常の約10倍に達している」(3月19日読売新聞夕刊)

 ヨーロッパの新聞のウェブ版には、出発ロビーで「日本の友人を置いて離れるのは心苦しい」と語る談話が載っていた。 そんな心優しい気遣いはあるにしても、外国人の日本脱出は着々と進んでいる。

 われわれは今、日本人として初めて、見捨てられる、去られる寂寥感を味わわされている。

 ベトナム、カンボジア、アフガニスタン、イラン、イラク、イエメン、ボスニア…。 戦争や内戦が激化するたびに、外国人たちは脱出した。 だが、去られる国の人々は、去る外国人を責めることはない。どんな悲惨な状態になっても、そこに生きる宿命を受け入れるしかないからだ。

 だが、去る外国人への複雑な感情は否定できない。 イラン・イラク戦争の末期、イラクはイランへ激しいミサイル空襲を加えた。 このため、当時住んでいたテヘランから隣国トルコへ一時避難したことがある。

 そのときイラン人の友人たちが向けた目は、なんと表現したらいいのか、あらゆる感情をごちゃまぜにした無彩色とでも言おうか。 

 無論、戦争と災害は違う。 だが、あの目を今の日本人も去る外国人に向けているのかもしれない。

2011年3月18日金曜日

巨大地震とともにスキーシーズンも終わった


 地球温暖化が進む中での大雪。 この冬、スキー場ではパウダースノーを思い切り楽しむことができた。 だが、やはり何かが異常だったのだ。 とてつもない巨大な災害が起きた。

 山には、まだたっぷりと雪がある。 気温が低くて、いつもの春と比べ、コンディションも良好だ。 だが、今年のスノースポーツのシーズンは突然終わった。

 スキーバスは運行を停止し、多くのスキー場は実質的にクローズした。 ガソリンも電力も不足ではバスやリフトを動かすことはできない。

 そして、なによりも、東北の人たちが避難所で寒さに震えているときに、寒さを遊びの道具にする気など、とても起きない。

 さらば、スノーフリークたちよ。 雪を無邪気に楽しめるときが早く来ることを祈ろうではないか。

2011年3月16日水曜日

そして多摩川フクロウはいなくなった


 巨大地震・津波が起きる直前の3月11日午前中には、たしか2羽がいたと思う。 だが、2日前には1羽しか見なかった。 そして、きょう3月16日は、朝から1羽も見なかった。

 東京・大田区の多摩川河川敷に昨年12月から棲みついた6羽のフクロウは、たちまち人間たちの好奇の目に晒され、3か月間にわたりカメラという狩猟道具の標的にされ続けた。

 年が明け、ハンターたちの数が膨らむにつれ、フクロウの数は1羽ずつ減っていった。 いったい、どこへ行ったのだろうか。 ストレスで死んでしまったのだろうか。

 彼らが棲んでいた柳の木は、まるで空き家のようだ。 留守になった枝で戯れているのは騒がしいムクドリだけ。

 短い期間だったが多摩川河川敷のスーパースターになったフクロウたちが、どこへ消えたのか、誰も知らない。

2011年3月15日火曜日

なぜトイレット・ペーパーの買いだめ??


 戦場ジャーナリストは、どんな事態に直面しても、「なんとかなるさ」と楽観的でなければならない。 だが、今朝、近所のスーパーに買い物に行って、頭に血が上ってしまった。 好物の納豆が売り場の棚から消えてしまっていたからだ。

 納豆ばかりではない。 カップ麺、牛乳、米、スパゲティ、パン、肉…。 トイレット・ペーパーや生理用品、乾電池、カセット・コンロ用のボンベ、色々なものが消えていた。

 地震・津波は、確実に首都東京の生活に影響を与えている。 それにしても、買いだめ騒ぎは行き過ぎではないか。

 スーパーでなにも買う気が起きなくなったので、気晴らしに散歩をした。 そして、なにげなく道端に目をやると、ツクシが芽を出していた。 そうだ、スーパーなんかで買い物をしないで、ツクシを食おう。 腹の足しにはならないが、醤油と砂糖で炒めるとビールにすごく合う。

 100本ほど摘んで、面倒くさいヘタ取りをしているうちに、ふと思った。 「なぜ、トイレット・ペーパーの買いだめが起きているのだろう」と。 

 今どき、日本で「温水肛門洗浄便器」(TOTOの「ウォッシュレット」、INAXの「シャワートイレ」)のない家など皆無に近いのではないか。

 洗浄便器が普及するずっと前に住んでいたインドネシアの人たちに習ったおかげで、用便のあとは水で洗うだけで、拭いたり乾かしたりせず、そのままパンツをはくのが習慣になっていた。 だから、洗浄便器を使い始めても温風乾燥のボタンを押したこともなかったし、トイレット・ペーパーを使ったこともなかった。 多少パンツが湿っても、すぐに乾くから気にならない。

 だが、どうやら日本人の多くは、洗浄便器とトイレット・ペーパーの両方を使う二重手間をかけているらしい。 買いだめに走るということは、そういうことだ。

 洗浄して、なおかつ紙で拭く必要があるのだろうか。 もしかして、オレはずっと洗浄だけでは十分きれいにならないまま、クソをつけて長いこと生活していたのだろうか。 これは由々しき問題だ。

 すぐにツクシのヘタ取りを中断し、トイレに行って、INAXの便器に貼ってあるステッカーに記してあるフリーダイアルサービスの番号をメモして電話してみた。

 応対は非常に丁寧で親切だった。

 こちらの質問は、①洗浄だけで紙を使わない場合、衛生上問題はあるか②洗浄のあと乾かす必要はあるか―の2点。 

 その回答は、簡潔かつ実に明快だった。

 ①衛生上、まったく問題ない。

 ②乾燥するかどうかは、個人の好みで、乾かさなくてもまったく構わない。

 嬉しいではないか。 トイレット・ペーパーを使う必要などないのだ。 オレはずっと正しい洗浄便器の使い方をしていたのだ。

 だが、そうだとすると、この買いだめ騒ぎは何だ。 潔癖症の日本人が無意味な資源無駄使いをしている現実が、巨大地震によって暴露されたのではないか。

 洗浄便器は、日本のトイレ文化に革命を起こした。 だが、TOTOもINAXも企業責任を十分に果たしていない。 トイレット・ペーパーは無用だと啓発活動をしなければならない。 この国家的危機はまたとない機会ではないか。

 (まあ、考えてみれば、水道も止まる大惨事を想定すれば、トイレット・ペーパーはやはり必要かな? いや、そんな事態になれば、ケツの汚れなんかどうでもいい?)

   

2011年3月12日土曜日

3月12日、東京、巨大地震の翌朝


 開店前のパチンコ屋の行列は、いつもより短かった。

 スーパーマーケットは朝から大混雑で、最初の石油ショック以来おなじみになったトイレット・ペーパーの買いだめが始まっていた。

 土曜日の朝いつも混雑しているジョギング・コースは、人の姿がまばらだった。

 草野球のグラウンドにも人の姿はなかった。

 ゴルフ練習場もがらがらだった。

 東京都内は、巨大地震の被害を直接受けたわけではないが、明らかに街の雰囲気はいつもと異なる。 春の到来を予感させる晴れた空と温かい空気。 だが、何かが重苦しく人々の上にのしかかる。

 東北地方の人々を襲った悲劇が東京にやって来なかったのは、単なる偶然だとみんなが感じているからだ。 次は、われわれの番かもしれない。

 そして、それは、落ち目の日本へのとどめの一撃になるのか。

2011年3月11日金曜日

巨大地震がやって来た


 2011年3月11日(金)を、多くの日本人が忘れられない日のリストに、新たに加えるだろう。

 マグニチュード8.8という日本の観測史上最大という地震の揺れが来たとき、自分がどこにいたか、どう対応したか、まわりの光景はどうだったか…。

 そして、津波のニュースは津波より速く世界に広がった。

 日本時間11日午後6時すぎの段階で、ル・モンド紙(フランス)、フランクフルター・アルゲマイネ紙(ドイツ)、BBC放送(英国)、ヒュリエット紙(トルコ)、PTI通信(インド)、バンコク・ポスト(タイ)、CNNテレビ(米国)、ABCテレビ(オーストラリア)、それに、革命や内戦で大忙しの中東カタールのテレビ局アル・ジャジーラ英語版までが、日本の地震・津波を緊急のトップ・ニュースにしていた。

 今、われわれは、とんでもない出来事に遭遇しているのだ。 巨大地震が、その全貌の片鱗を見せたのかもしれない。 きょう1日は生き延びた。 だが、これからも生き延びることができるのだろうか。

 余震は夜になっても続いている。 揺れるたびに、「生きる」を意識せざるをえない。

 さあ、生きようではないか。

いいじゃないか、多少の間違いは


 こいつは、明らかに誤字だが、「駐車禁止」としか読みようがない。 稚拙な間違いだが、悪意はないだろうし、「こどもの教育上けしからん」と、目くじらをたてるほどのことではない。

 日本の政治家への外国人の寄付が禁止されているからと言って、在日韓国人からのわずかな額の寄付で大騒ぎするのは、この誤字程度の問題だと言ったら、腹を立てる人間がけっこういるのかもしれない。 「油断していると、ワガクニは外国人に支配されてしまうゾ」と。

 気持ちはわからないではないが、物事の本質と関係ないところで、「駐車禁止」の誤字が国家存亡の危機だといきり立つのと、どれほどの違いがあるのか。

 近ごろ、日本の世の中はどうでもいいことで大騒ぎしている。

 たかがテレビ塔がどんなに高くなっても、あのバカバカしいバラエティ番組を垂れ流す道具にすぎないが、マスコミは「東京タワーを追い越した」、「600mに達した」などと大げさに騒いでいる。

 携帯電話のカンニングもそうだ。 手段が年寄りに目新しかっただけで、所詮カンニング、売春の歴史と同じくらい大昔から続いている。 おそらくカンニングで逮捕されたのは史上初めてではあろうが。

 賃貸パンダの話もそうだ。 パンダはかわいくても中国から到着して名前が決まったというだけで、なぜ新聞の一面の大ニュースなのか。

 どんどん幼稚になっていく日本社会で、「これは重要なことだ」と記憶すべきことはさしてないような気もする。 認知症になっても、実は、困ることはないのかもしれない。 考えようによっては、これは喜ばしいことだ。

2011年3月9日水曜日

カンニング革命は成らず


 アラブの若者たちが、独裁者打倒のために命懸けで携帯を使っているというのに、日本の若者は入学試験で姑息な携帯カンニングとは…。
 と、嘆くだけなら、日本のマスコミと同じだ。 この事件が発覚した直後、ある新聞のコラムは「これは明白な偽計業務妨害罪だ」と書いていた。 これは凄い。 こんな罪名を世間一般のたいていの人は知らない。 この時点で、報道によれば、警察ですら捜査に踏み切れるか確信を持てないでいた。 だが、コラムは記者風情の分際で、罪名を断定していた。 このことは、つまり、そこまで踏み込むことによって、現在の日本の入試制度を破壊する行為を断じて許さないと主張しているのだ。
 この新聞の主張を現在のアラビア語に翻訳すると、「現体制に逆らう者は絶対に許さない」。 つまり、カダフィと同じなのだ。
 とは言え、カンニングをした19歳の予備校生にはがっかりさせられた。 肝っ玉が小さくて、頭が悪くて、世界を見回すことのできない典型的な日本のアホだった。 そもそも、目新しくはあるが、Yahoo知恵袋などに投稿して回答を得ようとすれば身元がばれるのは、わかりきっている。
 事件が最初に報道されたとき期待したのは、新しい時代の反逆児の姿だった。 
 現在の入試システムで人間の真の能力や個性を読み取ることはできない。 一見、公正で客観的な制度だが、ここで良い成績を取る者は、受験準備に惜しみなくカネを使える豊かな家庭で育ち、受験勉強などは貴重な若さの無駄遣いなどと考えず、親と学校と世間に逆らわない従順なこどもだけだ。
 だから、カンニング実行者には、入試システムの巨大な虚構に風穴を開けようとする確信犯の登場を期待した。 チュニジアで始まった「ジャスミン革命」が形を変え、日本の行き詰まり社会に挑戦状を突きつけたのだというロマンだ。
 だが、それは虚しい夢だった。
 それにしても、知識を自分の頭と書棚だけに蓄積する時代は終わった。 知識はインターネットの中では無尽蔵で、それを誰でも利用できる。 こういう時代に、頭に詰め込んだ知識だけを検査する制度は、グロテスクなアナクロニズムではないか。 少なくとも、あのアホなカンニング少年は意識せずに、この現実を指し示すことだけはできた。

2011年3月6日日曜日

カダフィは禿げている




 1994年にトリポリでカダフィに会ったときに撮った写真をなにげなく見ていて気付いた。
 いっしょに会ったエジプト人記者たちはスーパースターを取り囲むファンのように興奮し、はしゃいでいた。その光景を面白半分で、カダフィの後ろから撮った1枚だった。
 エジプト人たちをメインにしたショットのつもりだったので、手前に写っていたカダフィの後頭部に、これまで注意を払ったことはなかった。
 ふと気付いたのは、カダフィの後頭部は毛が薄いことだった。
 これは凄い発見かもしれない。 世界中の何人がカダフィの後頭部の状態を見たことがあるだろうか。 最近のカダフィは、いつも頭に被り物を着けている。 あれから17年。 もしかすると、今は後頭部の毛はもっと薄くなって、河童みたいになっている可能性がある。
 この写真は、”The Yesterday's Paper” の世界的トクダネを予感させるではないか!!