2009年6月26日金曜日

不審な声かけ


 きのうの新聞(yesterday's paper)に、全国で今年4月以来の2か月で、女性やこどもに声をかけた168人が警察から警告を受けたという記事が出ていた(6月25日付け読売新聞夕刊)。

 おかしな人間による犯罪を未然防止しようとする警察の活動を伝える無批判なサツダネ記事の典型ではある。だが、ちょっと寂しい気分にさせられる内容だった。

 盛り場やビーチで若者たちがナンパする光景は、石原慎太郎が反抗的新世代の代表という幻想が共有されていた時代(つまり化石時代)から珍しくはない。近所のこどもに、おじさんやおばさんが「大きくなったね」と声をかけるのも、ごく当たり前の慣わしではなかったか。

 だが、記事によれば、こういう行為は、やがて最悪の事態、殺人に発展する可能性のある「犯罪の前兆」として、警察の注意を引くようになったらしい。

 この記事で紹介されている具体例―「埼玉県警は4月22日、上尾市内で小学生の女児たちに繰り返し、『かわいいね』『成長したね』と声をかけていた40歳代の男を割り出し、警告した」

 この男には、きっと不審者じみた行動と雰囲気があったのだろう。だが、「かわいいね」とか「成長したね」などという言葉を近所のこどもにかけるのは、ごく普通のことではないか。

 逆に、「声かけ運動」なんて看板を、どこかで見たような気がする。

 職場で恋愛をすればセクハラになり、満員電車の中で背中が痒くなってモゾモゾ動けば痴漢にされる時代。

 膨大な「してはいけないリスト」を頭に入れておかなければ、もはや、この国を歩くことはできない。 

2009年6月24日水曜日

イランのラップを知っているかい?


 ソローシュ・ラシュガリというイランの若者を知っているかい?今テヘランに住んでいる25歳。無論、知るわけがない。彼は「取るに足らない人間」なのだから。だが、彼はイランで最も有名な「取るに足らない人間」、ペルシャ語で「هیچکس(ヒッチカス)」なのだ。

 ソロ―シュはラップ・ミュージシャン、「ヒッチカス」の名で歌い、イランの若者たちから圧倒的支持を受けている。だが、CDを1枚もリリーズしたことがない。

 イスラム支配体制のイランで、西欧の退廃的音楽、とくに、その極みと言えるようなラップが公けに認められるわけがないのだ。それでも、ヒッチカスのラップは、ブログやYouTubeを通じてイランばかりでなく世界に広がっている。(ネットでは、Hich Kas)

 ヒッチカスは、イランに公的には存在しないが、都会の若者の世界には堂々と存在している。アンダーグラウンドというには、おおっぴら過ぎる。

 イスラム法に基づく支配とラップ・ミュージック。この訳のわからない取り合わせが、まさにイラン・イスラム共和国の現実だ。禁酒なのに容易に手に入る酒、黒いチャドルを脱ぐと現れる女たちのセクシーボディ。

 イランという国は外部世界が想像する以上に自由がきく。政治的にも、中東の独裁専制国家群の中では最も民主化が進んでいる。

 それでは、自由はどこまで許されるのか。これが問題なのだ。実は、ここが境界線だと誰も指し示すことができないからだ。

 例えば酒。コーランに基づいて絶対に飲むなというのではないようだ。飲むことはアラーの教えに反することだが、それは個人がアラーに負い目を感じることで、他人に迷惑をかけず自宅で飲むかぎり当局の咎めはないらしい。「らしい」というのは、明文化されていないからだ。

 かつて、司法省の最高幹部に、真正面から「イランで酒を飲んではいけないのか」「とくに、非イスラム教徒や外国人はどうなのか」と質問したことがある。彼はしつこく訊いても最後まで答えてくれなかった。

 どうやら、レストランのような公共の場所は明らかに禁酒だが、あとは適当に判断しろということのようだ。

 だが、このグレーゾーンが難しい。

 今、大統領選挙のあと広がっている体制批判の動きも同じだ。

 現状は、ホメイニが確立した理論「イスラム法学者による支配」の否定と取られかねない領域に踏み込まず、グレーゾーンにとどまっているようにみえる。だが、これもよくわからない。

 この騒ぎが拡大してから、ホメイニの後を継いだ最高指導者ハメネイへの批判が出始めている大統領選挙であまりに露骨に現職アハマディネジャド支持の姿勢を出したからだ。とくに、投票後の発言は、開票結果が公式に発表される前にアハマディネジャド勝利に言及したもので、イラン憲法に抵触するとの指摘もある。

 現在の批判が、ハメネイ個人への批判であれば、グレーゾーンにとどまっていると言えるかもしれない。だが、ホメイニ理論の象徴である「最高指導者」という制度への批判となれば明確に境界線を越えたことになるだろう。

 境界線などというものは、雑踏で人が押し合い圧し合いをしているときのように、誰も気が付かないうちに越えてしまうのかもしれない。

 そうなれば大量の血が流れるだろう。それが今のイランの怖さだ。

2009年6月20日土曜日

サヘル・ローズの謎


 イラン情勢が緊迫しているので、インターネットで「イラン」を検索しているうちに、あらぬ方向へ寄り道してしまった。

 日本で活動しているイラン人の若い女性タレント、サヘル・ローズの著書「戦場から女優へ」(文芸春秋)というのをみつけた。戦争で孤児になり、日本に来てからホームレス生活までしてタレントになったというので、ちょっと関心を持った。

 本の価格は1300円、高くはないがタレント本にこんな金は払いたくない。で、幸運にもブックオフに800円の中古があったので買ってしまった

 読んでみると、若いのに様々な苦労をした人生はなかなか興味深い。ただ、テーマのわりに軽い内容で、彼女のミーハー的ファンなら十分堪能できそうだという程度のものだった。本人が本当に書いたのかゴーストライターが書いたのか、この手の本では当然なのかもしれないが、そんな説明はない。

 それはそれでいいのだが、イランへの興味でこの本を読むと、肝心な点が、無視されているのか、ぼかされているのか、すべて欠落している。これは非常に気になる。

 著書によれば、1985年、イラン西部、イラク国境に面したクルディスタン近くの町で貧しい家庭に生まれた。1989年2月、4歳のとき、イラク軍の攻撃で倒壊した建物の瓦礫の下から奇跡的に助けられた

 イラン・イラク戦争は1988年8月22日に停戦の合意に達したが、イランとイラクはその後も空爆を続け、その犠牲になったとしている。

 意図的かどうかはわからないが、この決定的事件が起きた場所であり、故郷でもある地名を明らかにしていない。かなり不自然に思える。

 ただ、イラン・イラク戦争が終わったあと、イラク軍が継続していた攻撃の対象は自国内とイラン国境近くの少数民族クルド人居住地域だった。クルド人は両国の国境山岳地帯の両側に住んでいる。

 イランは戦争中、イラク国内のクルド人を軍事的に支援し撹乱に大いに利用した。民族自立のためにバグダッド政権と対立していたからだ。だが、停戦で支援を停止すると、イラクは後ろ盾を失ったクルド人を徹底的に叩いた。

 サヘルの町がイラクの攻撃を受けたとすれば、クルド人地域である可能性が非常に高い。そして、彼女自身もクルド人という可能性もある。だが、彼女はイラン人というだけで、人種については何も語っていない。

 イランは多民族国家だが、様々な社会的圧迫を受けてきたクルド人であるか否かは、個人の存在意義に関わる重要な問題だ。クルド人地域のクルド人なのか非クルド人なのか。普通のイラン人なら明確に表明するだろう。

 彼女のホームページによると、人種に関しては、さらに混乱させられる。彼女の使える言語にクルド語はなく、日本語のほかに、「ペルシャ語、ダリー語、タジク語」と記されている。

 ペルシャ語はイランの公用語、ダリー語はイランの隣国アフガニスタンの公用語、タジク語はアフガニスタンの主要民族のひとつタジク人の言語であり、またタジク人の国タジキスタンの公用語だ。

 ただ、この3つの言語はペルシャ語を同じルーツとし、多少の違いはあるが互いの意思疎通は十分にできる関係だ。いわば、東京弁と栃木弁と青森弁の違い程度で、同じ言語の方言ともいえる。普通のイラン人なら、ダリー語、タジク語がわかっても、ペルシャ語以外の言語として、あえて言及はしないと思う。

 それでは、サヘルはなぜ言及したのか。

 彼女は、タジク系のアフガン人なのかもしれない。あるいは、彼女を瓦礫から救った現在の養母がそうなのか。イランには、かなりの数のアフガン人も住んでいる。

 著書は、アフガニスタンとの関わりにまったく触れていない。これも訳がわからない。

 サヘル・ローズとは、実にミステリアスな人物に思えてくる。

 果たして、本当にミステリーがあるのか。あるいは、無能なゴーストライターの単なる欠陥原稿が、巧まずして作り出した謎なのか?
 

2009年6月17日水曜日

留置所から見たイラン


 イランが熱くなっている。

 保守派の現職大統領アハマディネジャドと改革派の元首相ムサビが大接戦を演じるとみられていたイラン大統領選挙が、予想に反してアハマディネジャドの圧勝になったためだ。ムサビ支持者たちは不正があったと叫び、街頭で激しい抗議行動を展開している。

 イランでの権力に対する公然たる大規模抗議行動は、1979年のイスラム革命以来であるのは間違いない。日本のメディアも大きなニュースとして報じている。もっとも、この騒ぎが新たな歴史を作る一歩となるかどうか、まだ見極めはつかないが。

 ニュースによれば、かなりの人数が身柄を拘束され、テヘランにある内務省の留置所に放り込まれているという。

 無論、この事態は憂慮すべきなのだが、内務省の留置所と聞いて、つい懐かしくなってしまった。

 イランの革命防衛隊というのは、イスラム革命の精神とそこから生まれた支配構造を頑なに守ろうとする組織で、現在ではアハマディネジャドを支える手足と言える存在だ。ここに属する若者たちの中にも、冗談を理解できる面白いのがいないとは言わないが、概して、頭が固く融通が利かない。

 イラン・イラク戦争が終わる前のことだ。革命防衛隊のメンバーとのつまらない誤解と口論で、身柄を拘束されてしまった。名目は、なんとスパイ容疑。

 スパイとなれば、泣く子も黙るエビン政治犯刑務所に収容され、拷問、そして、もしかしたら死刑。

 冗談じゃない、俺は頭の悪い防衛隊のガキと口喧嘩をしただけだぜ!

 とは言え、内務省留置所の独房に放り込まれてしまった。

 広さは、日本式に言うと四畳半くらい。気になったのは、壁に記された刻みだった。日本人は「正」の字を書いて、ものを数える。イラン人は、「1111」と「1」を4本書き、これに焼き鳥のように串を刺して5とする。

 壁のあちこちに、この刻みがある。ひとつの串刺しがまさか5時間ではあるまい。きっと5日に違いない。その串刺しがいくつも連なっているのだ。

 だが、これは考えても仕方ない、無視することにした。

 やがて、独房の扉が開き、食事が出された。バルバリとアブグシュト。バルバリとは、イラン風のパンであるナンの中では最も分厚く、腹をふくらませるにはいい。肉体労働者が好むとされる。アブグシュトはイランの家庭で最も一般的なトマト味のスープで、肉や豆が入りどろっとしている。

 この食事は、留置所での最初の少なからぬ驚きだった。アブグシュトが想像を超えてうまかったのだ。それまでイランで食べた中で一番だと思った。すぐに平らげ、お代わりをもらえないかと、ダメ元と思って、独房の鉄扉を拳でゴンゴン叩き、看守を呼んでみた。すると、直ぐにやってきた。

 第2の驚きは、看守が実に親切で、まるで客を接待するように微笑んでくれたことだ。そして、アブグシュトを深皿になみなみと足してくれた。

 食事を終えるとトイレに行きたくなり、再びゴンゴンと叩くと、またもや親切に場所を指し示してくれた。トイレには看守が同行するわけでなく、勝手に行って用を済ませた。

 独房に戻るとき、看守部屋にいた2人の看守と目が合った。「こっちに来い」と目配せするので、彼らの部屋に入り、勧められるままに座った。こうして、3人のペルシャ語と英語のたどたどしい会話が始まった。

 2人の看守によると、心配する必要はなく数時間で釈放されるという。たいした理由もないのに留置所に連れてこられる者は珍しくなく、そういう場合は、すぐに放免されるというのだ。

 釈放される前に、担当官が来て手続きをするから、それまで一緒にお茶でも飲んでいよう、独房には戻らなくていい―なんという嬉しい申し出。条件は、担当官が来たら独房に戻って、ずっと入っていたふりをすること。

 つまり、看守たちは内務省という政治的犯罪を取り締まる部署にいながら、その支配体制をまったく信用していなかったのだ。

 われわれ3人は、ついには、面白おかしく日本語会話教室まで始めていた。

 数時間後に釈放されたとき、親しくなった2人の看守とは目配せの挨拶しかできなかった。そばに担当官がいたからだ。なんだか、留置所を去りがたい気持ちになってしまった。

 ときに茶番劇じみたイスラム支配体制。

 あの留置所は、きっと今もそのままだと思う。

2009年6月16日火曜日

パラオからの手紙


 CNNでもやっていました。
こちらの新聞には経済援助とのリンクは無いと大統領が言ってて、US代表とも合意しているとかなんとか・・。
 
 でも、今年の秋には切れる経済援助をどうやってまた引き出すか。パラオ政府は四苦八苦していたので、考えられますよね。

 新聞にはまだ決定ではなくて、パラオ国民が彼らは脅威ではないと理解することが先決だ、と書いてありましたが。

 一体どこに収監するつもりなのでしょうね。

 何人かで廻して読みました。その中の1人がアメリカ人の新聞記者を知っていて、現在パラオ訪問中で、彼もアメリカの新聞にこの件のコラムを書いたと言ってました。

 有難うございました。

                                     EM子

 P.S. 知り合いの子供がアフガニスタンで戦死しました。5年前にUSミリタリーに志願、戦車が地雷を踏んだそうです。明日、遺体が戻ってきます。26歳のお葬式は辛いものがあります。
これでイラクでの2人と合わせて、3人になりました。

 <以上、前回の「楽園パラオのテロリスト」を読んでくださったパラオ在住の女性から、読売新聞NO.1の水中フォトグラファー安斎晃氏(地上でも悪くない)を通じて届いたメールです>
 

2009年6月11日木曜日

楽園パラオのテロリスト














 トルコのイスタンブールで、東トルキスタン独立運動の指導者たちと会ったことがある。

 東トルキスタンとは、中国の新疆ウイグル自治区のことである。住民の多数は中央アジアと同じトルコ系のイスラム教徒で、トルコ語を話すウイグル人だ。長年にわたり、中国の支配と迫害の下で生きている。トルキスタンとは「トルコ人の国」という意味で、トルコは地理的には遠いが民族的には近い国だ。だから、イスタンブールにウイグル人の抵抗組織が拠点を置いているのは不思議でもなんでもない。

 彼らが語る中国共産党による迫害を如実に示したのは、どうやって撮影したのかは不明だが、何枚もの集団処刑の写真だった。杭に後ろ手に縛られ、ずらりと並ぶ男たちが中国軍兵士の一斉射撃を受けていた。ここには、まともな裁判などはない。抵抗分子とみなされれば殺されるのだ。

 こういう過酷な政治状況下では、激しい行動に出る者が生まれる。多くの若者たちが急進イスラム運動家の訓練場となっていたアフガニスタンへ向かった。

 だが、2001年の9・11事件は、彼らを、想像をはるかに超えた長い旅路に就かせることになった。

 アル・カーイダが本拠地とするアフガニスタンに米軍は総攻撃を仕掛け、捕虜にした”テロリスト”を遠く離れたカリブ海に送った。キューバからの租借地グアンタナモにある米海軍基地の収容所である。

 その中には、様々な国籍に混じって、22人のウイグル人も含まれていた。彼らは、故郷からアフガニスタンへは陸路をたどったはずだ。そして、グアンタナモへは、おそらく、生まれて初めて飛行機で空を飛び、着陸するときは、やはり生まれて初めて、海を見たはずだ。

 アフガニスタンのキャンプで訓練を受けていただけで、戦士としてまだ育っていなかった彼らは、4年後には釈放されることになった。だが、彼らはグアンタナモから離れようとしなかった。収容所から出ると、中国当局に身柄を拘束され、処刑されるのが怖かったからだ。

 それから、さらに4年。残酷な拷問を認めるグアンタナモ収容所は非人道的であり、閉鎖すべきだと主張するバラク・オバマが米国大統領になった。

 オバマの主張を実現するには、収容者の移転先を確保する必要がある。こうして、22人のウイグル人は収容所より怖いシャバに出ざるをえなくなった。

 ところが、当人たちの意志はどうであれ、事は簡単には運ばなかった。いったん「テロリスト」のレッテルを貼られた人物を米国を含め、どこの国も治安上の理由で引き取りたがらなかったからだ。さらに、反政府運動に関わったウイグル人を匿って、大国・中国と煩わしい外交問題を起こしたくもなかった。

 それでも、アルバニアが5人に限定して引き受けてくれたが、それ以上は固辞した。
米国政府のことだから、あちこちの国を脅したり、すかして、残り17人を受け取らそうとしたに違いない。

 そうこうするうちに、受け入れの名乗りをあげたのは、太平洋の小さな島国パラオだった。
ジョンソン・トリビオン大統領が6月10日、正式に米国政府へ伝達したという。

 かつては日本の占領地だったが、今は美しい海のダイビングが世界的に知られている平和なアイランド・リゾート。グアンタナモの”テロリスト”と”南国の楽園”のなんとも唐突な関わり。一体なぜ?

 常識的には、自由連合協定と経済援助で米国に縛られ、何も言えないパラオは米国の要求を受けざるをえなかったという見方に落ち着くと思う。

 だが、縁もゆかりもないのに、行き場がないウイグルの若者たちを、「人道的」に受け入れるという大統領の言葉は信じたくなる。

 この島国には、そういう歴史があるからだ。

 1783年、英国の商船アンテロープ号がパラオで座礁し動けなくなった。乗組員たちは海図になかった島で、恐る恐る初めて会ったパラオ人に手厚くもてなされ、命を救われた。そればかりでなく、帰国のための新たな船を建造するまで、十分な歓待を受けた。これがパラオと西欧の初めての出会いとされる。

 ウイグル人受け入れに、漂流民を助けるというパラオの伝統を感じてしまう。

 アンテロープ号の遭難には続編がある。船長はじめ乗組員が帰国するとき、パラオ国王の若い王子リーボーがヨーロッパを見たいと言いだし、帰国船に加わることになった。当時20歳のリーボーは島を離れ、はるかかなたの外部世界ヨーロッパを見た最初のパラオ人になった。

 ロンドンで生活を始めたリーボーは、持って生まれた好奇心で貪欲に西欧人とその生活を観察したとされる。だが、わずか6か月で天然痘に罹り、かの地で死去した。

 当時、ずいぶん話題になった人物のようで、英国人にも愛され、肖像画や記録が大英博物館に残っている。

 17人のウイグル人たちは、意志にかかわりなく、見ず知らずの遠い世界へ運ばれていく。行き着く先がパラオなら、彼らは、リーボーの生まれ変わりなのかもしれない。

2009年6月4日木曜日

時空ミサイル


 「Real life at the White House」(Claire Whitcom著)によると、第2次世界大戦が始まると、ときの米国大統領ルーズベルトの身辺警護も厳重さを増した。だが、ホワイトハウスのホールで、ルーズベルトが家族といっしょに映画を見ていたとき、珍事が発生した。

 映画が終わって、ホールのライトを点けたら、ルーズベルトのすぐ横に、まったく見ず知らずの若い男が立っていて、大統領にサインを求めた。ルーズベルトは唖然としたまま、申し出を受けてサインをしてしまったという。

 幸い、悪意のない侵入で事なきをえたが、当時は、世界の最重要人物の警護といえども、この程度だったらしい。

 現代と比べれば、のどかな時代だった。ルーズベルトの次の大統領トルーマンは、第2次大戦後の東西対立、冷戦のいわば宣戦布告にあたる「トルーマン・ドクトリン」を発したことで知られる。このトルーマンは、ホワイトハウスと米国議会を結ぶワシントンDCのメイン・ストリート「ペンシルヴェニア・アヴェニュー」の雑踏をのんびりと散歩していたそうだ。

 ルーズベルトの2代前のクーリッジという大統領は、なんとポトマック川で水泳をしていたというではないか。

 古き良き時代は、とっくに終わった。現在の大統領執務室の窓ガラスは、アルミニウム加工が施された強化ガラスだが、それは防弾というだけではない。ゴルゴ13のようなスナイパーが外から正確に狙っても、偏光作用で大統領の姿は実際よりも50センチずれて見えるそうだ。(もっとも、われらのゴルゴなら完璧な仕事をこなすに違いない!)

 そして、ホワイトハウスの屋上には、あのスティンガーを常備した要員まで潜んでいるという。

 これは、やはり、歴史の皮肉であろう。

 「スティンガー」は、肩に担げる軽量の携行式地対空ミサイルで、射程距離は4キロ程度だが、歩兵が持ち運びできる武器としては画期的だ。発射されたミサイルは、標的である航空機の発する熱を感知して追尾し撃墜する。

 スティンガーが名を馳せたのは、何と言っても1980年代前半、ソ連軍が侵攻したアフガニスタンの戦場だ。

 アフガン人、それに同じイスラム教徒として応援に駆けつけたアラブ人らは聖戦の戦士―ムジャヒディンとなって、ソ連軍に勇敢に立ち向かった。称賛に値する勇気ではあったが、ソ連軍のMi戦闘ヘリの敵ではなかった。

 その状況を眺めていたCIAがムジャヒディンたちに供与したのがスティンガーだった。その威力は戦況を一変させた。ソ連軍は空からの攻撃を封じられ、戦闘は硬直状態に陥った。アフガニスタンは明らかに「ソ連のベトナム」となった。勝てない戦争への莫大な財政支出は、ついには、ソ連崩壊の要因にもなった。

 スティンガーの威力は、ソ連を潰しただけではなかった。戦争の鬼っ子ムジャヒディンたちを得体の知れないモンスターに育て上げた。その中には、かのオサマ・ビン・ラーディンもいた。

 彼らは、やがて、アフガニスタンで共闘した米国に牙を剥いた。

 そして、9・11.

 今、空を睨むホワイトハウス屋上のスティンガーは時空を越え、自分が産み落とした子ども達を標的にしているのだ。