2014年8月30日土曜日

はしゃぐ右翼メディア


 日本の右翼メディアがはしゃぎまくっている。 朝日新聞が、朝鮮人女性を慰安婦にするため日本軍が強制連行したとする特報記事の重要証言を誤報と認めたためだ。 右翼が目の敵にしている”左翼”、朝日新聞(それほど左翼とは思えないが‥)が、右翼的国家プライドを傷つけていた”誹謗中傷”をついに取り下げたと勝利を祝っているかのようだ。

 朝日新聞の報道ぶりに問題があったのは確かだ。 朝日はよくできた質の高い新聞ではあるが、なんとなく上から目線で読者を説教するような態度がちらついて、どうも好きになれない。 そういう個人的好悪の感情があっても、近ごろの右翼メディアによる朝日バッシングの物凄さには、嫌悪感を覚える。

 右翼は単に朝日批判をしているのではない。 「従軍慰安婦の強制連行はなかった」という主張の次はなんだろうか。 「日本軍は悪いことをしていない」→「日本軍は正しい」→「朝鮮、中国、東南アジアの侵略は正しい」→「太平洋戦争は正義の戦争だった」→「平和憲法は間違っている」。 従軍慰安婦否定のあとに続く主張は、こんなところであろう。 あるいは、彼らは、この→とは逆に、「平和憲法は間違っている」を出発点に演繹的に「慰安婦否定」へと論理展開していたかもしれない。

 一新聞が誤報を認めたことを右翼の勝利と混同してはいけない。 あの悪魔的戦争へと突き進んでいった歴史を決して美化してはいけないのだ。  

2014年8月17日日曜日

23年ぶりホーチミン感傷旅行



(夕方のサイゴン川)
1986年、ソ連でゴルバチョフが始めたペレストロイカ開放政策に倣って、同じソ連陣営に属していたベトナムもそれを真似て、ドイモイ政策を開始した。 ペレストロイカで政治、経済両面の自由化が動きだし、東欧諸国はソ連支配の重圧から解き放され、社会主義体制が次々と崩壊していった。 だが、同じことは、ベトナムでは起こらなかった。

 東欧諸国の変動をじっとみつめていたベトナム共産党は、開放政策は導入したものの経済面に限定し、政治の自由化へは踏み込まなかった。 共産党支配維持への脅威になると判断したからだ。 1990年のことだ。

 当時のベトナムは世界の最貧国の範疇に入れられてもおかしくない、みすぼらしい経済状態だった。 下級公務員の月給は15ドル程度で、路上での物売りなどを副収入源にしないと生活が成り立たなかった。

 ドイモイ政策による経済開放、つまり資本主義的経営の導入が打ち出されても、多くの人はまだ何をしたらいいのかわからなかった。 

 当時、かつての南ベトナムの首都サイゴン、ホーチミン市は暗い街だった。 灯りが少ないだけではない、人々の心も、うらびれたホテルや商店、市場の雰囲気も暗かった。 ベトナム戦争最後のクライマックス、1975年のサイゴン陥落で、米軍や外国人、共産主義を嫌う多くのベトナム人がこの国から脱出した。 人が去ったあとの物寂しさが、十数年たっても街に漂い、朽ち果てた空き家のような都市だった。 

 外国人の姿を見ることは、ほとんどなかった。 サイゴン時代、外交官や外国人ジャーナリストの巣だった、サイゴン川に面したマジェスティック・ホテルはクーロン・ホテルと名前を変えていた。 かつて外国人で賑わっていたホテルのバーはがらんとしていた。 カウンターで隣り合わせたドイツ人外交官と、ウイスキーを飲みながら、この国はどうなるのだろうかと、ぼそぼそと会話したのを覚えている。

 この翌年、1991年にホーチミン市を訪れたとき、雰囲気がちょっと変化していた。 おそらくドイモイ政策が、ほんの少しだが機能し始めたのだろう。 小さいながらも小奇麗なバーやレストランが開店していて、日本料理屋もできていた。 それでも、古びてくすんだ街のごく一部の変化でしかなかった。

 あれから23年たった2014年8月1日。 すっかり変わってしまったホーチミン市を訪れた。 

 かつて入国ビザ取得に手間取ったのがウソのようだった。 今ではビザなしで入国できる。 薄汚れた空港建物はなくなり、近代的なターミナル・ビルになっていた。 以前は、税関の入国審査があって、到着時にもスーツケースを開けなければならなかった。 ベトナム人たちはスーツケースを開いたところに、良く見えるように5ドル紙幣を置いていた。 税関職員が黙って、それを取ってポケットに入れる。 お目こぼし料だ。 貧しい者同士の憐れな贈収賄だった。

 23年前に自転車があふれていた道路は今、バイクの大洪水になっていた。 この眺めはなかなか壮観だ。 しかも、かつて見たことがなかったヘルメットを必ず被っている。 タン・ソン・ニャット空港からホーチミン中心部までの道路は同じだったが、かつては渋滞などなかったのに、バイクとクルマが溢れかえっていた。 周辺の景色もまったく違っていた。 高いビルは皆無だったのに、新しい現代的なビルが並んでいた。

 だが、あの優雅なアオザイを着た女たちの姿を見ることはほとんどなかった。たまに見かけるのは、外国人向け高級レストランのウェイトレス、あるいはレンタルのアオザイを着た観光客の女たち。 通りを歩く若い女のファッションに東京との違いはない。 だが、彼女たちには笑顔があった。まちがいなく、23年前にはなかった明るさだ。

 中心部のドンコイ通りは、ホーチミンで最も洒落た通りになっていた。 23年前にも、そうなる兆候はあった。 だが、まだ素朴な食堂もあった。 「ハノイ」という名のフォー(ベトナムうどん)の店を覚えている。 フォーと言えばベトナム北部ハノイが有名だ。 日本だったら「讃岐」という名のうどん屋といったところだろう。 だが、そんな店は消えて、外国人や金持ちしか入らないようなレストラン、バー、ビアホール、土産物店が並び、夜も明るい歩道は別世界になっていた。

 定宿にしていたレックス・ホテルは以前のままだった。 だが、それはコロニアル風の外観だけで、ドアを開けて踏み込むと広々とした高級ホテルに様変わりしていた。 ホテルの近くにあった中古カメラ街も消えていた。 ベトナム戦争中にジャーナリストたちが戦場で使っていたと思われるライカやニコンが、とんでもない安値で並んでいたものだ。 今では小奇麗なカメラ屋になって、店頭に並んでいるのは最新のデジカメばかり。 それでもショウウィンドウの端に置いてある数台の古いフィルム・カメラを目にした。

 この街はすっかり変わってしまった。

 昔の友人に会えるかもしれないと訪ねた狭い通りは消滅し、広い通りとビルになっていた。 クーロン・ホテルは昔のマジェスティックに名前を戻していたが、ホテルのバーは店内の配置を変え、昔の雰囲気はなかった。 バーテンダーに、いつ変えたのかと訊いたら、4,5年前から働いているが、ずっと同じだという。 「でも、23年前は違っていた」と言うと、「そんな昔のことを知っている者はいない」と答えた。 まあ、それはそうだろう。

 スポーツジムのような建物の中から、激しいリズムの音楽と大きな歓声が聞こえたので入ってみると、若者たちがヒップホップ・ダンスのパフォーマンスに熱中していた。 盛り上がりぶりは、東京の若者たちと、なんら違いはない。 こんな光景を23年前は想像だにできなかった。 彼らの両親はベトナム戦争の戦火から逃げ惑い、祖父は米軍と戦った解放戦線のゲリラ世代なのだ。

 旅行者として歩いているかぎり、共産党支配の国という臭いを感じることはない。 たまに国旗と共産党旗を掲げている政府建物を見るくらいだ。 両方とも赤い旗だ。 今のホーチミンは、経済発展が軌道に乗る前の他のASEAN諸国の貧しさと繁栄と猥雑が混じり合った雰囲気に似ていた。 

 23年前、ベトナム政府の顧問をしている経済学者が内緒話で言った。 ベトナムの経済発展モデルは、ASEANの独裁国家だ。 政治的自由を抑制して安定を維持しながら経済発展を図る。 「開発独裁」モデルである。 想定していたのはインドネシアのスハルト体制だった。 確かに、共産党政権の人間として、こんなことを公に言えるわけがない。 

 だが、ベトナムはきっと、彼の言った通りの発展をしてきたのだろう。 つまり、普通の国、世界のどこの国ともさして変わりのない国になりつつある。 20世紀の記憶に残る壮絶なドラマ、ベトナム戦争は、遠い遠いかなた。

 
 朝、サイゴン川に面した公園。 若いとき、痩せて精悍な”ベトコン”兵士だったかもしれない60代とおぼしき腹の大きな男が、よたよたとジョギングをしていた。

 サイクリングの途中で休んでいた同じような世代の男は、ぴかぴかのロードバイクを公園の樹木に立てかけていた。 英語で、これいくら? と聞いたら、「高くはない。 だいたい1000ドル」と答えた。 23年前、月給15ドルだった公務員の6年半分の値段の自転車に、気軽に乗っているようだった。