2017年9月18日月曜日

パキスタンにクルマを売ろうと思ったけれど


 友人が最近、カッコいいクルマを買ったのに刺激を受けて、13年も乗っているマツダを乗り換えようかな、という気がした。

 しかし、こんな古いクルマを下取りに出したり、買い取り業者に引き取らせても、たいした額になるわけはない。 と思っているうちに、10年くらい前に横浜で偶然会ったパキスタン人の中古車業者の男を思い出した。 パキスタンばかりでなく、アジアには街を走るクルマのほとんどが、日本から輸入された中古車という国が珍しくない。 そういう国では日本製中古車がかなりの高額で売られている。 

 あのパキスタン人に売り込めば、いい値が付くかもしれない、確か名刺をもらったはず。 と思って、古い名刺のたばをめくってみたら出てきたではないか。 自分のクルマがこれからもアジアのどこかの街を走っている、と想像するのも楽しくはある。 

 こういう連中が怪しげな商売をしていることは十分承知している。 だから、名刺に記されていた番号に電話する前に、ネットで、彼の名前と会社名を検索してみた。

 ビンゴ‼ 見事に当たった。 2010年の新聞ニュースになっていた。 軽自動車を無免許運転していて警察につかまり、その後の調べでパキスタンのアルカーイダ系組織にクルマを売っていたことがわかったというのだ。 報じられた記事によれば、本人も売った事実を認めていた。

 10年前に会った印象では、この男は多少やばい商売をしているという印象はあったが断じてテロリストではない。 こういうタイプの商売人はパキスタンの街中にいくらでもいる。 話をしているだけなら楽しい相手だ。 彼のクルマを買った相手に関してアルカーイダ系と知っていたかもしれないが、そんなことはどうでもいいと売っぱらったにちがいない。 なにしろパキスタンでアルカーイダ系の組織に会うなどというのは日常生活の一部でしかないのだから。

 日本の警察がつまらない小者を捕まえて自慢げに公表し、パkスタン情勢に疎いアホな新聞記者がそれを記事にしたのだろう。 

 彼の電話番号にまだダイアルしていないが、きっと逮捕後すぐに国外追放されたにちがいない。 いずれにせよ、もう電話はしない。 警察がいまだに盗聴している可能性も否定できないからだ。 なんだか、クルマを買おうという気持ちも興醒めしてしまった。 

 

2017年9月14日木曜日

蘇炳添を忘れるな


 9月9日に、桐生祥秀が陸上100mで日本人として初めて9秒台の記録を出した。 9.98秒。 日本人には嬉しいニュースだった。 近ごろのスポーツ選手はイケメン揃いになった気がする。 だが、桐生クンは普通の田舎臭い若者面。 親しみの持てる新たなスターの誕生だ。 東京オリンピックのころ活躍した飯島英雄も田舎っぺ面だったっけ。 二人ともイボイノシシを思い起こす顔つきだ。

 桐生クンや他の若い日本人スプリンターへの期待はふくらむが、日本人よりも先に「黄色人種」として初めて9秒台を出した中国の蘇炳添(スービンティエン)とのライバル対決も楽しみだ。

 中国の経済発展や中国人の国際的活躍に嫉妬心を抱きがちな日本人には受けないニュースのせいか、日本のマスコミは蘇炳添の活躍をあまり報じない。 とにかくアフリカ系の選手を除けば、おそらく世界一だろう。 2年前2015年5月に日本人に先駆けて9.99秒を記録、その年の北京世界陸上の100mで決勝に進出し、アジア人(生まれ育ちがアジアのnative)で初めてのファイナリストになった。 さらに今年の8月のロンドン世界陸上でも決勝進出を果たし8位に入賞した。

 日本のメディアは引退するウサイン・ボルトの最後の姿ばかりに注目していたが、あの決勝レースで蘇炳添はボルツに果敢に挑んでいたのだ。 

 蘇炳添は広東省中山市出身の28歳。 からだは小さい。 172センチ、65キロ。 大型スプリンターが世界の主流になる中で、桐生(175センチ)より小さい。 このからだで、今年5月には、追い風2.4mで参考記録ながら9.92秒を叩きだした。

 100mを9秒台で走った人間は桐生が126番目だそうだ。 世界に目を向ければ、ニュースでも何でもない。 保守反動政権下で今、日本ナショナリズムがむやみに煽られている。100m9秒台の騒ぎも、そんな一コマであろう。 純粋にスポーツを楽しみたいなら、 蘇炳添は絶対に面白い存在だ。 日本ではスポーツ・ニュースも次第に政治化している。

2017年9月11日月曜日

これぞ日本の記者会見



 皇室「秋篠宮家」の長女と大学の同級生との婚約内定が、9月3日発表され、その記者会見が、テレビで生中継された。 

 主役の二人はやや緊張気味ではあったが、記者の質問に、言葉を詰まらせることもなく、よどみなく答え、会見はつつがなく終了した。

 だが、これは本来の記者会見とは言えない。 宮内記者会幹事社のフジテレビのタナカ、日本経済新聞のイマイが発する台本通りの質問に、十分な時間をかけて何度も練習して、滑らかに口に出せるようにして暗記した台本通りの回答をしただけだ。 

 そんなことは、日本の報道機関も会見を設定した宮内庁も承知の上であり、これこそが彼らの言う記者会見なのだ。  予定外の質問などありえない。 ロボットのように個性のない同級生は、既に皇室の一員に成りきったような話し方をしていた。 宮内庁で徹底した訓練を受けたのだろう。

 この記者会見が誰の目にも明らかにしたことは、日本のジャーナリズムの現実だ。 国家権力の思い通りに操られ、手も足も出ない。 

 とても悲しい婚約内定だ。 


2017年9月3日日曜日

ミサイル空襲体験記

(イラン・イラク戦争末期の1988年、イラクによるテヘランへのミサイル空襲で家を失い茫然とする市民)


 イラン・イラク戦争が終わったのは1988年7月。 この年の2月。 イランの首都テヘランには、長引く戦争にもかかわらず、まだ150人ほどの日本人駐在員が残っていた。 商社員、大使館員、それに新聞記者などが、その中に含まれていた。 

 イラクがテヘランへのミサイル空襲を突然開始し、彼らは、ミサイル攻撃というものを初めて体験した。 私もその一人だった。 今、北朝鮮がミサイルを次々と飛ばし、日本ではちょっとした緊張感が広がっている。 この機に、数少ない日本人のミサイル体験を多少語っておくのは意味があるかもしれない。

 ミサイル空襲の開始は夜、それほど遅くない時間という記憶だ。 それ以前にも、イラク航空機による散発的な空襲はあった。 イラン側はテヘランのかなり高空を飛ぶイラク機に向かって対空砲を発射していたが、届く距離ではなく、砲弾はいつも空中で破裂し小さな破片が落下していた。 対空砲の発射音、空を輝きながら舞う破片。 その光景は、日本人になじみの花火大会の音と火花に似て、とても綺麗だった。

 最初のミサイル空襲はその比ではなかった。 空に飛び散る火花の数が従来の空襲とは違うスケールで、継続時間も長かった。 まるで派手な花火大会という様相だった。 ちょっとした興奮。 私は、禁酒国イランでも容易に入手できる密造ウオッカをグラスにたっぷり注いで、アパートの屋根に上って寝転がり、花火見物を決め込んだ。 下の部屋では2歳の息子がガラス窓にかじりつき、空中に火花が飛び広がるたびに「ウワーオー」と大声をあげて、はしゃいでいた。

 当時のイランでは、空襲警報はないし、テレビやラジオも何も伝えなかった。 だから、この時、ずいぶん長引く空襲だな、とは思ったが、ミサイルによるものだとは知らなかった。

 ミサイルと知ったのは翌日だった。 どうやって知り得たのかは忘れたが、多分テヘラン放送のラジオ・ニュースだろう。 だが、ミサイル攻撃を身近で見たわけではない。 その一端を知ったのは、その日テヘランの日本大使館で、大使と駐在日本人記者が会ったときだった。 とは言っても、貧弱な情報収集能力しかない日本大使館から貴重な情報を得たという意味ではない。

 大使との会見中、激しい対空砲の音が聞こえ、記者たちは大使をほったらかして、大使館屋上に駆け上がった。 われわれは空を見上げ、ぎょっとした。 大小の金属片がバラバラと降ってきたのだ。 小さなネジ状のものもあれば、30センチ四方ほどの大きさの金属板まで大きさと形は様々。 人間に当たれば命がないのは明らかだ。 記者たちは再びあわてて建物の中へ駆け戻った。

 このあとわかったのだが、イラクのスカッド・ミサイルはイラク領内で発射され、巡航速度でテヘラン上空に到達すると、弾頭部のブースターが点火し、急角度で地上の目標物へ突進する。 ロケット本体はブースターの点火で粉々に破壊され、破片が地上に落ちてくる。 記者たちをあわてさせたのは、この破片だ。 そして、前夜の「花火見物」が、実は命懸けの蛮行だったと知った。 もう少し日にちがたってからは、テヘラン市民の死傷者はミサイルの直撃ばかりでなく、爆発の衝撃で割れたガラスによるケースがかなりの数に上っていたこともわかった。 はしゃいでいた息子もかなり無謀なことをしていたのだ。

 あちこちに落ちてきたミサイルの破片の存在は、まもなくテヘラン中に知れ渡った。 やがて、ウソか本当か、イラン革命防衛隊がこの破片を1個いくらで買い集めているという話が広がった。

 大使館に行った日はいろいろなことがあった。 自宅は3階建てアパートの3階で2階には家主が住んでいた。 親しい付き合いだった。 このところ数日間美人の娘の姿を見ないと思っていたら、顔を包帯でグルグル巻きにしてアパートに帰ってきた。 病院で鼻の整形手術を受け、入院していたが、その病院にミサイルが当たり、とてもいられないので逃げてきたのだという。 ちなみに、イラン人の鼻の整形手術は高くするのではなく、高すぎる鼻を低くするのが普通だ。

 日本人は次々とイランから脱出した。 中には恐怖感で精神を痛めつけられ10円ハゲができた人もいた。 だが、イラン人たちはタフだった。 空襲避難を口実に郊外へピクニックに行って楽しんでいる姿をよく見た。 テヘラン北部の山の中腹に登ると、南から飛んでくるミサイルがよく見えたそうだ。 まるで自分に向かってくるような迫力があって、そのスリルに病みつきなって毎日登っているという男もいた。 スキー場も賑わっていたし、空襲下、個人の家で開くエアロビクス教室も盛況だった。 密造のウオッカやワインの入手に困ったという記憶もない。 ミサイル空襲の犠牲者はかなりの数にのぼったが、イラン人たちは7年にも及ぶ戦時下の不便な生活に慣れきっていたとも言える。

 だが、外国人にはきつい生活だった。 長引く停電、品不足の乳児用粉ミルク、ガソリン・スタンドの行列、等々。 数え上げれば、キリがない。 とは言え、不便さを楽しむ余裕もあった。 今だから笑い話にもなるが、当時は怖い思いもしたはずだ。 だが、戦争は嫌だという重苦しい気持ちを除けば、なにも記憶にない。 不思議なものだ。  

2017年9月2日土曜日

こんなニュースでなぜ大騒ぎ?



 NHKニュース

逃走36時間 ベトナム人の男を逮捕 立ち回り先を捜査

群馬県大泉町で警察官から職務質問を受けたベトナム人の男が暴れて逃走していた事件で、警察は、逃走から36時間たった1日夜遅く男を公務執行妨害の疑いで逮捕しました。男は埼玉県内で知人と待ち合わせたところを確保されたということで、警察は、逃走中の立ち回り先を調べています。調べに対し「オーバーステイだったので怖くなって逃げた。かんだことは覚えていない」と容疑を一部否認しているということです。
逮捕されたのは、ベトナム国籍で住所不定の無職、グエン・バン・ハイ容疑者(31)で、1日午後11時40分ごろ大泉警察署に入りました。

警察によりますと、ハイ容疑者は、先月31日午前11時すぎ、群馬県大泉町の駐車場で車の中にいたところ、警察官から職務質問を受けた際、突然逃げ出し、さらに近くの住宅の敷地内で追いついた警察官の腕にかみついて逃走したとして、公務執行妨害の疑いが持たれています。

ハイ容疑者は、36時間余り逃走していましたが、1日午後11時すぎ隣接する埼玉県熊谷市のコンビニエンスストアで知人と待ち合わせたところを警察に確保されたということです。

その際、左手に手錠はかけられたままだったということです。調べに対し、「無免許でオーバーステイだったので、怖くなって逃げた。抵抗したことは認めるが、かんだことは覚えていない」と容疑を一部否認しているということです。

捜査関係者によりますと、ハイ容疑者は、2年前に不法滞在の疑いで警察に摘発されたあと、難民認定を申請して身柄の拘束を一時的に解かれ、ことしに入って所在不明になっていました。警察は、埼玉県内も含め、逃走中の立ち回り先を調べています。

コンビニ店員「これで一安心」

埼玉県熊谷市のコンビニエンスストアの店員は、「店の駐車場で5人ほどの男性が車を取り囲んでいたので最初、ケンカかと思いました。そのうちの1人が私服の警察官だと説明し、店の住所や電話番号が記されたレシートをもらいにきたため、事件のことを思い出しました。車の中をのぞいてみると、後部座席には両脇をはさまれたベトナム人のような男が座っていました。暴れることはなく正面を向いていましたが、目が泳いでいておびえている様子でした」と話しました。
そのうえで「隣の大泉町で起きた事件だと聞いていたので、『まさかここで』と思って怖かったですが、これで一安心です」と話していました。

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 NHKをはじめテレビは、このベトナム人が逃げた9月1日から、大きなニュースとして報じていた。 報じ方は、凶悪な殺人鬼が逃亡したかのように、現場の”緊張ぶり” を伝えた。 だが、男が逃げた直後には、日本での不法滞在と無免許運転がばれるのが怖くて、咄嗟にとった行動らしいとわかったようだ。 つまり、普通の気の弱い男の間抜けな逃亡にすぎなかった。 

 それでは、この大騒ぎはいったい何だったのか。 ときどき事件報道を妙に詳しく報じるスポーツ新聞によると、この近辺では2年前に警察署から逃亡したペルー人が6人を殺害する事件が起きていた。 地元の人がこの事件を思い起こしたのであれば、緊張が走ったのは頷ける。 だが、テレビはこんなことはまったく伝えていなかった。 ベトナム人が逃げて行方がわからないというだけだった。 

 つまり、ベトナム人が逃げたというのがニュースのようだ。 同じ間抜けでも、日本人だったらニュースにならなかったのかもしれない。 それでは、どうしてベトナム人だとニュースなのか。 これもわからない。 今どき、外国人の不法滞在など珍しくもない。 そもそも、この問題は外国人の労働をきびしく制限する日本政府の態度が作り出している。 ベトナム人に限らず、摘発される外国人の方が可哀そうだ。 

 だが、テレビは外国人の労働問題に焦点を当てたわけでもない。 結局、なにもわからないが、当然のように大きく報じていたのは、それが当然の報道とみなしたからであろう。 だとすれば、何が当然なのか。 

 そうは思いたくないが、外国人に対する違和感、恐怖感みたいなものが日本人の意識の根底にあって、それが報道に反映したのかもしれない。 日本ばかりではない。 ヨーロッパでも米国でも偏狭な愛国主義が外国人排斥の風潮と絡み合っている。 厭な雰囲気だ。 実は、内心、あのベトナム人が長期間にわたって逃げまくってくれたら、応援したいと思った。 日本の網の目の監視網を潜り抜ける逃亡者。 ロマンを感じるではないか。 だが、残念ながら、あの男は、ベトナム戦争を戦い、生き抜いたベトコンのDNAを引き継いだわけではなかった。    

2017年9月1日金曜日

パラワン島でフィリピンを見る

フィリピンの南西部、マレーシアのボルネオ島とをつなぐ橋と言っていいだろう。 長さ397kmで幅の平均約40km。 極端に細長い形状をしている。 世界一美しい島に米国の旅行雑誌が選んだというパラワン島だ。 西側は南シナ海に面し、中国が理不尽な領有権を主張している南沙諸島にも近い。 その先の彼方はベトナムだ。

 この島で1週間、海で遊び、街をうろつき、ポークのスペアリブをかじりながらサンミゲル・ビールとタンドゥアイ・ラムを飲みながら、のんびりと過ごした。

 パラワン島は、フィリピンの経済・政治の中心から遠く離れ、「最後のフロンティア」と呼ばれている。

 マルコス独裁が倒れた1986年まではフィリピンをよく訪れた。以来、30年以上たって、パラワンという「僻地」で久しぶりにフィリピンを眺めた。 パラワンの住民たちは以前と同じように貧しい人々で、粗末な小屋のような家々の光景は30年前とさして違いはない。 だが、フィリピンがこの30年で明らかに変化したこともわかる。

 島の中心地プエルトプリンセサには、大きくて洒落た近代的ショッピング・ビルができていた。 貧しい人ばかりでなく、こんなところで買い物をできる中産階層や富裕層が生まれていることを示しているのだと思う。 30年前の僻地には、雑然として汚らしい市場しかなかった。 

 世界遺産に登録されている地底河川国立公園やホンダ湾の小島をめぐるアイランド・ホッピングのツアーに行ってみた。 かつて、観光地のツアーに参加するのは、ほとんど外国人だった。 だが、今はマニラなどから休暇で遊びに来たフィリピン人がほとんど、9割くらいを占めていただろうか。 これも大きな変化だ。 東南アジア経済の発展ぶりがよく見える。

 この30年余りの変化は、消えつつあるベトナム人集落にも見ることができる。 1979年前後、ベトナムの共産化を嫌って大量のベトナム人が小舟に乗って南シナ海へ逃げ出した。 ボートピープルだ。 彼らの多くは、対岸というには1000キロ以上も離れているがパラワン島に辿り着いた。 こうして、島の西側、プエルトプリンセサの郊外には大きなベトナム人居住区ができた。 おそらく数百人単位であったろう。 今、ここには、たった2人のベトナム人しか住んでいないという。 ほとんどは米国へ渡ったという。 

 だが、ボートピープルの名残りは、街の目抜き通りにちゃんとある。 いくつかのベトナム料理の食堂だ。 フォー(ベトナムうどん)やゴイクン(生春巻き)を出している。 まあまあの味。 島に居ついた人、知り合いを頼って渡ってきた人など様々のようだ。

 この国の変わらない実態も垣間見えた。 フィリピンの現大統領ドゥテルテは、犯罪者を情け容赦なく殺害してきた。 本人自身も人を殺した経験があると語ったこともある。 国際社会は、こういう大統領に嫌悪感を抱くが、フィリピンでは絶対的な人気がある。 その根底にあるのは、銃社会の伝統だ。 この国では新聞記者でも拳銃を身につけている。 自分が書いた記事で命を狙われていると感じた記者は自宅に自動小銃を置き、レストランでは襲撃者の動きを捉えやすいように、奥のテーブルで壁を背に座っていた。

 プエルトプリンセサでは、2001年に米国人20人がイスラム武装集団に誘拐される事件があった。 そのせいか、治安は維持されているが、ホテルやビーチの警備要員は必ず銃を携行している。 パラワン滞在中に読んだフィリピンの新聞の一面に大きなニュースが掲載されていた。 麻薬取り締まりで233人を検挙したというのだが、ニュースの力点は、「no bloodshed」、流血なしでこれだけの人数を捕まえたというところにある。 警察の取り締まりでも、血を見るのが当たり前の現状を反映している。

 おそらく、フィリピン人は銃の扱いに馴染んでいて、今でも入手は容易だと思う。 以前と同様に、警察や軍も横流しをしているだろう。 最近は聞かなくなったが、日本の暴力団がセブ島から密造拳銃を持ち出して逮捕されたニュースがあった。 最近はどうなっているのだろうか。

 暗い側面があっても、フィリピン人は笑顔を絶やさない。 見知らぬ外国人に気安く挨拶し、話しかけてくれる。 変わらぬフィリピンの一番いいところだ。 次はいつ行こうか。