2014年2月21日金曜日

血塗られたウクライナの叫びをソチで聞く

(ウクライナ政府の弾圧に抗議してソチ五輪を途中棄権したマツォツカ)

(第2次大戦中ウクライナ独立を目指すゲリラたち)
14世紀、現在のポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、そしてウクライナにまたがるガリツィアという独立王国が存在した。 だが、1349年、ポーランドとの戦争に破れ、王国は地上から消えた。 現在のウクライナの歴史を遡ると登場する王国である。 

 複雑な地政学的位置が、周辺の強国、ポーランド、オーストリア、ロシア(その後のソ連も)、ドイツなどの介入を招き、ウクライナの歴史を翻弄してきた。 

 ウクライナ解放運動の歴史は古い。 15世紀にはポーランドへの蜂起が起き、17世紀には解放運動が始まった。

 第1次世界大戦-大戦間時代-第2次大戦。 この時代も大国の介入で多くのウクライナ人が犠牲者となる悲劇が生まれた。 第2次大戦中の1942年には、ソ連、ドイツ、ポーランドに対するウクライナ人のゲリラ闘争が始まった。 ウクライナ反乱軍(UPA)と称し、現在のウクライナ西部山岳地帯の町<コシブ>が大きな拠点だった。 UPAの活動は大戦後の1949年ごろまで続いたとされる。 

 ウクライナは1989年のソ連崩壊で悲願の民族独立を達成したが、<コシブ>は、彼らの何世紀にもわたる解放運動史で忘れることができない土地なのだ。

 <コシブ>は、交通不便ゆえに外国人観光客は少ないが、今では、ヨーロッパ人には隠れた魅力的スキーリゾートになっている。

 この田舎町出身の若い娘が突然、世界の脚光を浴びた。 ボグダナ・マツォツカ。 24歳。 身長175センチ、体重65キロ。 決して美人ではないが、アスリートらしい体形。

 ソチの冬季オリンピックにウクライナ代表としてアルペンスキーの女子滑降、大回転に出場していたが、2月21日に予定されていた回転は、母国ウクライナ政府の反政府デモに対する非道な弾圧行為に抗 議して棄権すると表明したのだ。 コーチの父親との共同行動だ。 ソチのお祭り騒ぎに向いていた世界の目を、冷徹な政治の現実に多少なりとも引き戻したのは確かだ。

 以下は、彼女の<facebook>から。

"We, members of the National Olympic Team of Ukraine, Bogdana Matsotska and Oleg Matsotskyy, are outraged by the latest actions of the President of Ukraine, Viktor Yanukovych, who drowned the last hopes of Ukrainians in blood instead of solving the conflict through negotiations with the Maidan—which we had hoped for till the very last when we went to the Olympics in Sochi. He has violated the eternal rule of the Olympics - Peace during the Games.

"To show our solidarity with those fighting on the Maidan barricades and our protest against the bandit president and his lackey government, we refuse to further perform at the 2014 Sochi Olympics.

"May the heroes killed for the freedom of Ukraine rest in peace!

"Glory to Ukraine and to its Heroes!!!"

 首都キエフでは、2月18日以来、中心部の独立広場の野党デモ隊を強制排除しており、20日までに40人が死亡したと伝えられる。

 英国BBCによると、ソチのウクライナ・チーム役員と選手は1分間の黙祷を捧げ、黒いリボンを付けた国旗を選手村宿舎のバルコニーに掲げた。

 マツォツカは記者たちに語った。 「私は政治的な人間ではない。 政治や政党とはまったく関わりがない。 でも、ヤヌコビッチ(ウクライナ大統領)とあの政府がウクライナの人々にとった身の毛もよだつような行動を許すことはできない」
 
 解放・独立への情熱をたぎらせたウクライナ人の血が、この若いスキーヤーのからだに流れ込んでいたに違いない。 彼女は正しい行動をとったと思う。 

2014年2月19日水曜日

メダルなんかどうでもいい

東ティモールのゴンカルベス

ネパールのシェルパ

 2月18日朝、7時半ごろテレビのスイッチを入れた。 ソチの冬季オリンピックで日本がスキージャンプ団体で銅メダルだったらしい。 なぜかアナウンサーが歓喜の声をあげている。 確か、前日は金メダルを取れるようなことを言っていた。 だったら残念な結果なのに・・・。 しかも、伝えるのは日本のことだけ。ずっとNHKを見ていたわけではないが、昼すぎまでテレビを点けていて、金と銀のメダルをどこの国が取ったのかわからないままだった。

 夕方、読売新聞の夕刊は日本のジャンプ銅メダルが一面の大きなトップニュースだった。 だが、この記事を読んでも、1位と2位がわからない。 ページを開いて、やっとドイツの優勝が地味な扱いで掲載されているのをみつけた。

 テレビも新聞も、オリンピックで日本人が大活躍しているイメージを無理やり作っている。 金メダルを取ろうとして銅メダルに終ったなら、負けなのだ。 だから、ジャーナリズムがスポーツを報じるなら、敗因をきちんと分析しなければいけない。 「敗走」を「転進」と報じた太平洋戦争中の国家主義的伝え方を、今オリンピック報道で日本のマスコミは繰り返している。

 こんな報道ばかり連日浴びせかけられていると、絶対にメダルを取れない国と選手のオリンピック参加は、ほのぼのとした気分にさせてくれる話題だ。

 例えば、東ティモールから一人で参加したアルペンスキーのヨハン・ゴウ・ゴンカルベス。 もちろん熱帯の東ティモールに雪のあるわけがない。 この19歳の若者は、母が東ティモール人、父がフランス人でフランス生まれ。 子どものときからスキーになじんでいた。 東ティモールに行ったとき、大統領にスキー用の手袋をプレゼントした。 「きっと、東ティモールで唯一のスキー手袋だよ」と、フランスのテレビで愉快に笑いながら語っていた。

 なんと言っても注目されたのは、タイの女子アルペンスキー選手・ヴァネッサ・バナコーンだろう。 ヴァネッサ・メイの名前で世界的に知られるセクシーなヴァイオリニスト。 2006年トリノ五輪で荒川静香が金メダルを取ったときの曲が彼女の演奏だった。 女子大回転で67位という成績は、もはや良い悪いで語るのはナンセンスだ。

 ラテン・アメリカからの参加といえば、映画にもなったジャマイカのボブスレーが、あまりにも有名だが、ソチが初の冬季五輪というドミニカからは、なにやら怪しげな夫婦がクロスカントリーに出場する。 妻アンジェリーカ48歳、夫ゲイリー47歳のディシルヴェストリ夫婦。 

 妻はイタリア人、夫はアメリカ人のビジネスマン。 2006年にドミニカで子どものための病院を作るための基金を集め、その功績でドミニカの市民権を授与された。 2012年、ドミニカ政府がスキーをやるというこの夫婦に着目し、代表に選んだ。 ドミニカからの選手はこの2人だけだ。

 ネパールからクロスカントリースキーの15kmクラシカルに出場したダチーリ・シェルパは、その名の通りヒマラヤ登山に欠かせないポーター&ガイドのシェルパ族出身だ。 44歳。 ドミニカの夫婦にしてもそうだが、日本のスキージャンパー葛西の41歳に驚くことはない。 

 シェルパは登山隊のコックをしていたときに、外国人たちが彼の有能さに感心し、ガイド資格を取るための資金援助をした。 トレイル・ラン、ウルトラマラソンでは国際レベルの選手として活躍している。 冬季五輪は、ソチが3回目。 見事86位で完走した。

 メダルから目を離そうではないか。 話題の宝庫に飛び込める。 そこには、世界中の雑多な人間が集まるオリンピックの本物の面白さがある。    

2014年2月16日日曜日

雪の日の冷たさ


 大雪の東京。 20センチ余りだが大雪だ、東京では。

 歩道は人ひとり歩ける程度の幅だけ踏まれている。 東京の雪はぐしょぐしょに水っぽくて、北国の乾いた雪とは違う。 踏みあとを外れると、水に足を突っ込んだのと同じで、靴に水がびっしょりと滲みこむ。

 歩道で、歩いている人同士がすれ違うときは、どちらかが踏みあとを譲らなければならない。 まさか、前から来る人と意地を張り合って相手に「どけ」と言うわけにはいかない。 だから、ぐしょぐしょの雪に足を踏み入れて、道を譲る。 まあ、紳士としては当然で自慢するほどのことではない。

 この2日間、雪の歩道でずっと譲ってきた。 それはどうでもいい。 気付いたことは、譲られて通りすぎていった人たち、子どもの手を引く若い母親、サラリーマン風の中年男、酔狂に歩いているだけとおぼしき老人・・・、誰一人として、「すみません」とか「ありがとう」とか、軽く「どうも」とか、あいさつをしなかったことだ。

 それに、思い起こしてみると、こちらが譲っただけで、先に譲ってくれた人はまったくいなかった。 冷たい雪の日に知ったのは、冷え切った人の心だったのか。

2014年2月13日木曜日

プーケットの墓場

(パトン・ビーチの沖合い、かつて津波がやって来た海に豪華客船が浮かぶ)


(パトン・ビーチのイスラム教墓地は、今も津波に洗われたままだ)
タイ最大の国際的観光地プーケット島を最後に訪れたのは、2006年のことだった。

 2004年12月26日のスマトラ沖大地震から1年あまりたっていた。 マグニチュード9.3という超巨大地震が最大34メートルという津波を引き起こし、インドネシアをはじめアンダマン海からインド洋に至る沿岸諸国で22万人の命を奪った。 多くの外国人がくつろいでいた白い砂浜のプーケット島パトン・ビーチも津波に襲われた。 レストランも酒場もマッサージ・パーラーも、すべてが破壊され、外国人観光客を含め数千人が死亡した。 華やいだ観光地が忽然と消えたのだ。

 2006年、津波被害から1年以上たち、ホテルは復旧し街並は戻っていた。 だが、観光客の姿はまばらで、気が滅入りそうな侘しい雰囲気は、客がつかなくなった娼婦の面影だった。

 そして2014年2月。 8年ぶりに訪れたパトン・ビーチは、落ちぶれた娼婦が整形手術と厚化粧で蘇ったかのようだった。 通りは様々な照明で明るく照らされ、外国人観光客が溢れていた。 もはや、ここが津波で死にかけた過去を持つ街とは思えない。 

 もうひとつの変化は、街を歩くと中国語とロシア語の会話がひんぱんに耳に飛び込むようになったことだろう。 これは時代の変化だ。

 変化といえば、街ばかりではなく、島の周辺の海底もかつての表情とは違う。 シュノーケリングで海に潜った外国人旅行者が驚いていた。 「珊瑚がみんな死んでいる」。 ボートで観光客を案内する地元プーケットのタイ人の若者が言った。 「5年くらい前から。 観光客がたくさん来るようになってからのこと」。 津波でも珊瑚の被害があったが、今起きているのは人間が引き起こしたものらしい。

 ”美しい珊瑚に囲まれた島”は、津波を生き延びても、やはり死ぬ運命にあるのか。 

 人口25万人のプーケット島の20%はイスラム教徒とされる。 彼らの墓地のひとつがパトン・ビーチに面したところにある。 9年前の津波の痕跡を見られる数少ない場所のひとつだ。 高級ホテルの建物に囲まれ、 ビーチに面した一等地なのに、津波に洗われたまま放置され、雑草に覆われた空き地になっている。 おそらく墓地という性格上、跡地利用が難しいのだろう。 ここでは、9年という時間が置き去りにされ止っている。

 だが、変化のけばけばしさに疲れ、墓場の茂みに足を踏み入れると、なぜか、ほっとした気持ちにさせられる。