2013年12月27日金曜日

日本人は安倍晋三と手を切ろう


 国民の大多数が反対した特定秘密保護法案に曖昧な態度をとっていた右派・読売新聞ですら、安倍晋三の唐突な靖国神社参拝を批判した。 「なぜ、今なのか。 どんな覚悟と準備をして参拝に踏み切ったのか。 多くの疑問が拭えない」「外交建て直しに全力を挙げよ」「国立追悼施設を検討すべきだ」

 中道・日本経済新聞も、経済界の失望ばかりではないと安倍の参拝を批判する。 「本人の強い意向によるものだろうが、内外にもたらすあつれきはあまりに大きく、国のためになるとは思えない」「いまの日本は経済再生が最重要課題だ。 あえて国論を二分するような政治的混乱を引き起こすことで何が得られるのだろうか」

 無論、左派の朝日新聞、毎日新聞は容赦しない。 「首相がどんな理由を挙げようとも、この参拝を正当化することはできない。… 中国や韓国が反発するという理由からだけではない。 首相の行為は、日本人の戦争への向き合い方から、安全保障、経済まで広い範囲に深刻な影響を与えるからだ」(朝日)、 「安倍晋三首相は、先の大戦における日本の戦争責任をあいまいにしたいのか。 首相が政権発足1年を迎えた26日、東京・九段北の靖国神社を参拝したことは、首相の歴史認識についての疑念を改めて国内外に抱かせるものだ」(毎日)

 安倍の行為を唯一歓迎する大手新聞は、極右・産経新聞だけだ。 「多くの国民がこの日を待ち望んでいた。 首相が国民を代表し国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげることは、国家の指導者としての責務である。 安倍氏がその責務を果たしたことは当然とはいえ、率直に評価したい」

 12月26日の安倍の靖国神社参拝は、この人物の薄気味悪さをさらに深めた。 米国がアジアの同盟国として最も信頼していた日本への信頼感は、この参拝で確実に薄らぐ。 米国が日本との距離を広げるということは、最悪のシナリオとなれば、アジアの地政図を大幅に描きかえることを意味し、日本という存在そのものが地域にとって危険な不確定要因になる。

 日本と日本人は、安倍を切り捨てるときを迎えたようだ。 東京五輪などで浮かれていてはいけない。

2013年12月13日金曜日

ヒツジ飼いとヒツジ―特定秘密保護法案


 安倍晋三という首相の政治的メンタリティは、自分はヒツジ飼いで国民はヒツジと位置付けているのだと思う。 ヒツジの群れは放っておくと勝手にどこへ行くかわからない、だからヒツジ飼いは棒を振り回して、ヒツジが牧場の中におとなしく留まるようにしなければならない。

 
 憲法改定議論でも特定秘密保護法案議論でも、ヒツジ飼いがヒツジを小バカにするような国民への目線をどうしても感じてしまう。

 それでは、国民の大半が反感を抱く特定秘密保護法案を成立させることに、安倍が固執する動機は何だろうか。 おそらく、その一つは、一国の首相としての抜き難い国際的劣等感だと思う。

 この法案が参議院を通過したあとの記者会見の短い冒頭スピーチの中で、安倍はわざわざアルジェリア人質事件に言及した。 この事件は、今年(2013年)1月16日、アルジェリア東部の天然ガス精製プラントで起きた。 イスラム武装勢力が、日本人、アメリカ人、イギリス人、フランス人など外国人多数を人質に取り、翌日の救出作戦の際、日本人10人を含む人質37人が死亡した。

 「アルジェリア人質事件では英国のキャメロン首相から情報提供を受けた。情報交換を進めることが国民の生命と財産を守ることにつながる。各国には国家秘密の指定、解除、保全などに明確なルールがある。わが国が機密情報の管理ルールを確立していなければ、外国から情報を得ることはできない。日本を守る航空機や艦船の情報が漏洩する事態になれば、国民の安全が危機にひんする。人命を守るためテロリストへの漏洩を防止しなければならない情報がある」

 この1か月前、時事通信は「背景に米の意向=アルジェリア事件が後押し-秘密保護」の見出しで、こんな記事を配信していた(2013年11月7日)。
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 安倍政権が特定秘密保護法案の成立を急ぐ背景には、同盟国間で共有する機密の保全を求める米政府の意向がある。特に、政権発足間もない今年1月のアルジェリア人質事件で、在留邦人の安全確保に米国の情報が不可欠であることを痛感し、法制化に前のめりとなった。

 米政府は「スパイ天国」とも称される日本の情報管理に懸念を抱き、日本政府に機密保全への具体的対応を求めてきた。とりわけ2001年の同時テロ以降、米政府はテロ情報の収集と保全を強化。05年10月の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の共同発表には「共有された秘密情報を保護するために必要な追加的措置を取る」と明記された。

 第1次政権でもNSC法案を提出した首相にはもともと秘密保全への問題意識があったが、危機感をあおったのがアルジェリア人質事件だ。同国の複数の政府機関から寄せられた情報は相矛盾することもあったため、日本政府は米英両国の「確度が高い」(政府高官)情報に頼らざるを得なかった。両国の情報機関とより緊密に連携するため、秘密保護法制化を急務ととらえた。
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 アルジェリア事件に限らず、国外の出来事に関する日本政府の情報収集能力は非常に貧困とされる。 北朝鮮の核実験やミサイル発射の際も、日本政府が独自に収集した情報はおそらく皆無だ。 米国と韓国が譲ってくれる情報がすべてであろう。

 世界各国の日本大使館には防衛省から派遣された武官が駐在している。 彼らの責務は軍事情報の収集だが、非公開・機密に属する対象が多いだけに、プロのスパイでもない武官に独自の情報収集など簡単にできるわけがない。 各国の武官も似たり寄ったりで、日常業務は地元新聞やテレビのニュースを細かくチェックする以外にさしてやることはない。

 そのせいか、どこの国でも各国駐在武官たちは非常に緊密なコミュニティを形成し、頻繁にパーティを開いて酒を酌み交わす。 こうやって、数少ない手持ちの情報を交換しあうのだ。

 だが、こういうコミュニティの中で、米国は別格だ。 ときには英国やフランスも別格になる。 国際的影響力のある大国のもとには情報も吸い寄せられる。 だから日本の武官は大国、とくに米国の武官にすり寄る。 耳新しい情報をめぐんでもらうと東京へご注進となる。

 
 これが現場での”軍事機密情報収集活動”の実情と言って大きな間違いはないはずだ。 日本の情報収集とは、スパイ映画のCIAやMI6のヒーローたちの姿とはかけ離れた平身低頭の乞食にすぎない。

 しかも、現場ばかりでなく、政府のトップである首相も情報乞食をしていることを、安倍はアルジェリア事件を例にして白状したのだ。

 貴重な情報が国際的影響力のある大国に集まるのだとしたら、日本は依然として中小国だ。 イランの核開発問題がそれを示す。 イランの核開発を抑止するための交渉に参加している国は、国連安保理常任理事国5か国とドイツの6か国だ。 イランへの影響力と世界規模の問題への対応力によって、交渉参加国は決まった。

 イスラム革命後、日本政府は、米国をはじめとする西側諸国を敵視するイランとは独自の関係があり、米国との仲介役を果たせると言い続けていた。 だが、革命から30数年、日本がなんらかの仲介に貢献した気配はなく、核問題でも”独自の関係”があるイランに何かをした様子はうかがえない。 日本など、まったく相手にされなかったのだ。

 日本が国際政治の一流プレイヤーの仲間に入れる見通しは、当面まったくない。 だが、安倍は乞食をしても、見下されたりバカにされたくはなかった。 ”頂いた情報はきちんと大切にしますから、どうかお恵みを”。

 それにしても、安倍が情報を提供されることに劣等感を抱いているとしたら、なぜか。 米国は、日本の同盟国なのだから日本に情報提供するのは米国の義務だ。 もっと寄越せと堂々と要求することだってできるはずだ。 そればかりではない。 日本が軍事・治安機密情報を独自に収集できる能力を身につけるということは、軍事大国になることをも意味しよう。 そうなれば、アジア地域ばかりでなく世界の政治バランスの現状に予測不能の不安が生じるかもしれない。 米国だって、それは望まない。

 安倍の劣等感は、強くなりたい、大きくなりたいという野心の裏返しだと思う。 日本を世界的大国にして、強大な権力を持つ指導者になることを夢想しているのだ。 危険の臭いがぷんぷんする。

 富士山、東京オリンピック、和食…。 近ごろ、日本人のナショナリズムを鼓舞しようとするニュースが多過ぎはしないか。 安倍の野心と軌を一にした妙な雰囲気作りが進行しているのではあるまいか。  気味が悪い。 

2013年12月4日水曜日

真面目すぎると笑っちゃう


 こういうテーマをあまりに生真面目に書かれると、つい噴き出してしまう。 筆者がそれを意識して書いたのだとしたら、凄い名文だ。

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Wikipedia 「屁」より
 屁(へ)は、肛門から排出される気体で、腸で発生されるガスも含める。おなら、ガスともいう。
 平均的には大人は普通一日に合計0.5~1.5リットルの量の屁を5回から20回に亘って放出する。屁を放出することを放屁という。
 <メカニズム>
 小腸上部で消化吸収されなかった食物の残渣(カス)は、小腸の下部や大腸で腸内細菌の作用によって分解されるときに、ガス(腸内ガス)を発生させる。このガスのほとんどは腸管から吸収されるが、吸収しきれないものが肛門から排出される。
 また、開腹手術を行った後は腸管蠕動運動が一時停止し、屁が出ないようになる。
 <成分>
*気体成分
 腸内のガスの9割は体外から口と鼻を通って入ってくるもので、残りの1割は体内の微生物により造られる。主成分を以下に示す。
 ・窒素(体外から取り込まれたもの)
 ・酸素(体外から取り込まれたもの)
 ・メタン(体内のメタン生成古細菌により生産):主に肛門の近くにいるメタン菌によって合成されるが、3人の内2人はメタンを一切含まない屁をする事がわかっている。メタン菌がいないと硫酸還元菌が優勢になるため硫化水素が増加することも。
 ・二酸化炭素(体内の好気呼吸微生物により生産、体外からも取り込まれる)
 ・水素(微生物により排出):体内の古細菌がメタンを合成するために、もしくは硫酸還元菌が硫化水素を合成するために消費する。
*微量だが臭いの元となる成分
 ・酪酸:腐ったバターのにおい。
 ・硫化水素:腐った卵のにおいがある。タンパク質の分解や硫酸還元菌の活動で作られる。
 ・二酸化硫黄:タンパク質の分解によって造られる。
 ・二硫化炭素:タンパク質の分解によって造られる。
 ・アンモニア:尿素と関係がある。
 ・リン化水素:魚臭いにおいがする。リン酸塩や食物中のリンと関係がある。
 ・インドール
 ・スカトール
*その他の成分
 ・腸内細菌 これは大腸菌等の腸内菌が、ガスを排出する際に一緒に放出されてくるものである。一回あたり数千~数万個が放出されるといわれる。
*臭いと原因
 ・小腸には、繊維分を分解する酵素がないため、繊維分は小腸で消化吸収されず、大腸へ送られて分解される。その際に発酵してガスが発生する。したがって、食べた物や量、又は体調によりガスの発生が異なってくる。
 ・イモ類など繊維分の多い食物 :繊維質の多い食物を多く食べると、それだけガスの量も多くなる。その際、水素ガス、メタンガスが多量に発生するが、匂いは強くない。水素、メタンはまったくの無臭である。
 ・肉、ねぎ類、にんにく、にらなど硫黄分が多い食物 :これらの食物を多く食べると、大腸で分解されるときに腐敗し、インドール、スカトールなどのガスが大量に発生し、においの強いガスが発生する。
 ・病気によるガス :胃、腸、肝臓、胆道、膵臓の病気や菌交代症の際には、蛋白質の腐敗による、不快なにおいのガスが発生することがある。
 ・その他 :炭酸飲料(ビール等)を摂取する人の方が、摂取しない人よりも、ガスの量が多いという俗説がある。
 ・口臭が腸内ガスと同じ臭いを発することがある。これは便秘している腸から腸内ガスが吸収され血管内を運ばれ、肺から放出され口腔に至る為である。
 ・屁には水素やメタン、硫化水素などが含まれるため、ライターなどを近づけると、燃えることがある。これは体質、食したものなどによる成分によって、よく燃える場合と燃えない場合がある。ただし、二酸化硫黄を発生したり、火炎による火傷を起こす恐れがある。

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 こういう話題になると盛り上がるヤツがいるんだなあ。

2013年12月2日月曜日

古き良き食材偽装の時代


 見るからに、客が入りそうもないしょぼくれた飲み屋。しかも、入口の「居酒屋」と染め抜かれたヨレヨレの暖簾は裏表が逆だった。 どうしようもない店だ。 だが、あまりにうらぶれた佇まいに好奇心が湧いて、われわれは建てつけの悪いガラス戸をつい開けてしまった。

 年老いた店主が顔を出したので、「暖簾が裏返しだよ」と教えたら、外に出てきて暖簾をかけ直そうとした。 しかし、年のせいか、ぎこちないからだの動き。 見かねて暖簾をかけ直してやって店に入った。

 「1年前に女房が先立って、食べるものはほとんどないんで申し訳ない」

 確かに、狭い店内は手入れが行き届いていないせいか、なんとなく薄汚れている。出されたお手拭きのタオルは汚れていて雑巾のようだった。 とても手を拭く気にはなれない。

 とはいえ、背中がすっかり丸くなった店主は話好きで気の良い人物のようだった。 聞けば、東京のラグビーの名門、あの保善高校ラグビー部のレギュラーで、1953年に保善が全国大会で初めて決勝に進出したときのメンバーだったという。 今の弱々しげな姿からは想像もつかないが、店主が言う通り、店の隅には黄ばんだ表彰状が飾ってあった。 栄光の過去。

 その後、立教大学ラグビー部に引っぱられて入ったが、当時の立教は長嶋のいた野球部だけが注目されていた。 大学を出てからはサラリーマン、そして脱サラ。 以来40年、この場所で居酒屋をやってきた。

 「昔はヤキトリもやっていたんだよ。市場で豚肉を仕入れて」

 店主のこの一言が引き金になって、われわれも汚らしい横丁が当たり前だった過去の東京世界に思いが飛んだ。

 そう、あのころ、安い飲み屋でヤキトリと言えば、豚肉か豚肉の臓物だった。 今と違って、ブロイラーの”チキン”などなかったから、鶏は豚よりはるかに高かった。 ヤキブタをヤキトリと言って食っていたのだ。 店も客も、そんなことは百も承知だった。

 あれを、また食いたいなあ。 あのヤキトリには本物の日本酒じゃなくて合成酒が合うんだ。 ひどい臭いだったけどね。

 あの酒だってヤキトリと同じで、日本酒ということにして飲んでいた。 誰も、これは「合成酒だ」なんてヤボなことは言わなかった。

 もしかしたら、戦後日本の都会で繁殖(?)した闇市の文化かもしれない。 みんなでウソをついて騙しあって、お互いにそれがわかっている。 今だったら”食材偽装だ”とマスコミが目くじらを立てて叫ぶだろう。

 ほんのちょっとのウソで、みんながほんのちょっと幸せな気分になる。 称賛してはいけないが、なぜか、ほんのりとした懐かしさを覚えてしまう。 年をとったせいかな? いや、老店主のペースに、いつのまにか引き込まれてしまったかな?

2013年11月19日火曜日

フィリピンの友人たちを助けよう


 フィリピンで最大のサトウキビ生産地ネグロス島。 中心都市バコロドから島の東側を海岸沿いに路線バスで南下した。 午後遅い時間だった。 バスは終点の小さな町に着いた。 降りてホテルを探そうと停留所の付近を見回したが、うらびれた雑貨屋しかない。

 
 腹をくくって、砂浜で野宿することにして、サンミゲール・ビールと食い物の缶詰を買おうと1軒だけの雑貨屋に入った。 すると、たまたま店の中に、買い物に来た近所の男がいた。 背は低いがしっかりした体格の50がらみの男だった。

 多少の会話をかわすと男はいきなり言った。 「野宿なんかしないで、うちに来い」。

 男の家は、砂浜に面していて、かなり大きな建物だった。 訊けば、男は網元で、毎日、自宅の目の前に漁師のボートが着いて、釣った魚を降ろしていくという。

 すごい幸運。 その夜は庭先の煉瓦で作った囲炉裏で、新鮮な魚と貝を焼いて、たらふく食べて、きちんとしたベッドで寝ることができた。

 見返りを求めるわけでなく、見ず知らずの人間との会話を楽しむ。 そう、それが典型的なフィリピン人だ。 同じような親切と人の良さは、旅をしたフィリピン各地で経験した。

 深夜、マニラの歓楽街マビニ・ストリートを歩いていたら、タクシーが寄ってきて運転手が「遊びにいかないか」と声をかけてきた。 飲みにいくだけだから結構だと断ると、近くに馴染みのバーがあるという。 

 初めて会った下心満々のタクシー運転手と知らないバーに入る危険は承知していたが、それも一興と、お薦めのバーに入った。 ところが、そこは本当に、普通の安いカウンターバーだった。 運転手は一緒に飲みながら話しているうちに上機嫌になって、なぜか飲み代をおごってくれた。 しかも、酔っ払い運転だったが、タクシーでホテルまでカネを取らずに送ってくれた。 底抜けに気のいいポン引きだった。

 最近のことは知らないが、日本の男たちの集団買春ツアーが盛んだったころ、成田―マニラ間フライトの機内は品位のかけらもないスケベ男たちで溢れていた。 彼らは客室乗務員を「オーイ、ネエチャン」と呼んでいた。

 そんなケダモノたちの一人の心情を知る機会があった。

 独身。 日本では女たちに鼻も引っかけられない。 いつも冷たくあしらわれる。 あるとき誘われてマニラへのセックス・ツアーに参加した。 マニラでは、団体でバスに乗り、置き屋のようなところへ行き、女を指名する。 その女を連れて再びバスに乗ってホテルに戻る。

 
 男は女に惚れてしまった。 カネの関係とはいえ、日本の女が彼に示したことのない優しさで接してくれたからだという。 

 日本に帰ってからも彼女に会いたくてたまらなくなった。 だが、男は外国語がまったくできない。 一人で飛行機に乗って、彼女がいた置き屋を探す、などということは到底できない。 結局、再びセックス・ツアーに参加し、恋する女をカネで買うしかなかった。 彼女と会うために、何度も繰り返していた。

 
 こんなツアーの存在を許すべきではない。 だが、誤解を承知で言えば、フィリピン人のホスピタリティがあってこそ成立する悲しい純情買春物語だったと思う。

 フィリピン・レイテ島が未曾有の巨大台風に襲われ、既に4000人の死亡が確認されている(2013年11月19日現在)。 親切にしてくれた彼らに何かをして、お返しをしたい。 いつも明るい笑顔をふりまくフィリピン人が泣き叫んでいる姿をテレビ画面で見るのは堪らない。

 今、東京の街のどこでもフィリピン人と会う機会がある。 お父さんの行くパブでも、お母さんが買い物をするスーパーのレジでも微笑んでくれる。 とても身近な隣人たちだ。  3・11でも援助の手を差し伸べてくれた。 今度はわれわれが、せめて、ほんの少しのおカネだけでも送って、力になろうではないか。

2013年11月14日木曜日

化粧品メーカーが作る美の基準


 化粧品メーカーのポーラが、「美肌県グランプリ総合年間ランキング2013」なるものを発表した。 昨年2012年から始め、今年で2回目。 日本全国47都道府県の女たちの美肌度を調べ、順位を付けたものだ。

 トップは、2年連続で島根県。 ベスト10は、以下、2位石川県、3位高知県、4位富山県、5位山形県、6位宮城県、7位東京都、8位香川県、9位山梨県、10位愛媛県。

 島根のトップをはじめ、この順位を納得できるかどうかは別にして、すぐに出てくる好奇心は、「それじゃあ、ビリはどこ?」。

 ポーラの発表によると、ワースト10の10位は山口県、以下、9位広島県、8位京都府、7位茨城県、6位大分県、5位栃木県、4位静岡県、3位滋賀県、2位岐阜県。

 そして、”栄光”のワースト・ワンは群馬県。 ベスト10もワースト10も6県が去年と同じ顔ぶれになっている。 ちなみに、群馬県は昨年はワースト2だった。

 しかし、島根県が美肌No.1と言っても、たいていの日本人は、島根と鳥取が地図のどっちかわからないのだから、美肌15位の鳥取の女を見ても、「さすが島根の女」と感心するかもしれない。 東京の女は美肌7位になっているが、東京には日本中の人間が集まって混血が深化しているのだから、何を以って東京と言うのかわかったものではない。

 こんなランキングでも毎年発表して宣伝すれば、順位の上下に一喜一憂する現象が生まれるかもしれない。 きっと化粧品メーカーの狙いはそこにある。 そもそも、このランキングに信憑性はあるのか? 単にポーラ化粧品の都道府県別売り上げ順位なのかもしれない。 群馬県は実は、資生堂の牙城なのでビリにしたのではないか? 

 だいたい、美しさの基準を化粧品メーカーに決められてしまうのは不愉快ではないか。 いや、実は、化粧という行為自体がそういうものなのかもしれない。 女たちの知性と教養を盲目にし、商業的な美の基準を無自覚に追い求めさせる魔術。 

 そんなペテンに免疫力を持つ本当に美しい女に会いたいものだ。

2013年11月13日水曜日

深遠なるクルミ割り


 暇つぶしでネットをあちこち覗いていて、山梨県甲府市郊外、昇仙峡に近い辺りのリゾート・マンションが手ごろな価格で売りに出ているのが目に留まった。 それで、紅葉見物を兼ねて、クルマで現地に行ってみた。 結局、色々と気になることがあって、価格は安かったが購入は見送った。 もともと真剣に考えていたわけではなかったので、紅葉を楽しみながら帰途についた。

 途中、地元農家の婆さんが街道沿いで自作の野菜を売っていたのでクルマを停めた。 旨そうな太ネギ4本、大きな柿の実2個、キウィ2個、それに網袋に入ったクルミ500グラム程度を買った。 全部で800円。 安いものだ。

 うちに持って帰って、どうやって食べようかと戸惑ったのはクルミだった。 売ってくれた婆さんは、そのままナマで食えばいいと言ったが、硬い殻を割る方法がわからない。 日本に自生するオニクルミというヤツで殻は簡単には割れない。 試しに金槌で叩いたら、こなごなになって殻も実も飛び散ってしまった。 

 とりあえず、クルミの殻を割る「クルミ割り」という道具は、「クルミ割り人形」などというものがあるくらいだから、面白い工夫を凝らしたものがあるに違いないと思って、近所の百円ショップに行く前にネットで検索してみた。

 すると色々、安いのから高いのまで出てきた。 ところが、どれを選ぼうかとネット商品の「コメント」を見て困った。 あの硬い殻をうまく割れる「クルミ割り」がそう簡単にはみつからないらしいのだ。 たかがクルミの殻を割る単純な道具の奥の深さが、そこには滲み出ていた。 

 「クルミ割り」へのコメントのいくつかを紹介しよう。 

 「クルミを割ろうとしたらクルミを入れる部分(鋳物製?)が割れてしまいました。それも、最初の1個目でです。信じられますか。笑い話にもならない。」

 「道具よりクルミのほうが固いので、先に道具が割れます!炒った銀杏なら割れそうです。」

 「胡桃が粉々になる位何回も潰さないと実が取れませんでした。」

 「20個位使用したら、ひび割れしてもう使えません。購入して失敗しました。買ったクルミがまだ500個以上あり、違うタイプの物を買うことも検討しましたが、どうせ同じ様な結果だろうなと思うとクルミと、いっしょに捨てちゃって忘れちゃおうと思っています。」

 「これは久々に失敗した商品でした・・・。クルミのサイズと全然違う為、ガチっとクルミは挟めないし、全然割れないし・・・。完全なる設計ミスだと思います・・・値段が高いのに大失敗でした・・・。」

 「クルミの殻を割るのに購入したのですが、殻と一緒に実までつぶれてしまいます。器具としては、もっと工夫が必要です。 クルミ割りとして発売しているのは如何なものか」

 英語の”foolproof”。 「バカでも大丈夫」。 使い方を間違えようのない単純な道具のことだ。 例えば金槌。 何かを叩くしか使い道はない。 クルミ割りも実に単純な”機械”。 クルミを挟んでギュッと手で力強く握って割るだけだ。 ところが、こんな”バカの道具”がうまくいかない、というところが面白い。

 そこで、ネットには、「クルミの簡単な割り方」という色々な知恵が紹介されている。 フライパンで炒めたり、電子レンジで加熱したり・・・。 だが内容を熟読してみると、どうやら様々なアイディアのどれも十分満足できるものではないらしい。 You tube の動画にいたっては、「簡単」ではなく「困難」を紹介しているかのようだった。 結局、クルミ割りのうまい方法はわからず仕舞い。

 リゾート・マンションを購入するはずだったのに、クルミ割りの深遠さを学んで、秋の夜は更けていった。

2013年11月7日木曜日

ストーカーにならないために

(画像とブログの内容は無関係)
近ごろ、高齢者のストーカーが増えていると、朝のNHK番組が伝えていた。 番組の趣旨は、基本的には「困ったことだ」といったところか。 しかし、そう悪いことではないんじゃなかろうか。

 年寄りが元気になった証しに思えるからだ。 だとすれば、それは良いことだ。 世界には、スケベな年寄りがいくらでもいる。 イタリア政治への影響力をしぶとく維持している元首相シルヴィオ・ベルルスコーニは今年77歳だが、未成年買春で訴追されている。 こんな政治家を称賛はしないが、あきれるほど元気なジジイだ。

 歴史をちょっと遡って、元気なジジイの有名人と言えば、あのスエズ運河掘削を主導したフランスの外交官・実業家フェルディナンド・レセップスがいる。 運河が完成した1869年、64歳のとき21歳の女性と結婚し、なんと12人の子どもを作った。

 日本で高齢者のストーカーが目立つようになっているとしたら、きっと人間関係作りでボタンの掛け違いみたいなことが起きているのだと思う。 近ごろの若い女たちは、同年齢の男は幼稚で退屈、中高年のオジサンたちと話している方が楽しい、などと平気で口にする。 まあ、オジサン相手のお世辞でもあるだろうけど。

 
 オバサンたちも元気だし、老若男女入り乱れて楽しくやる時代になっているのは間違いない。 だから、いろんな形態の人間関係が生まれることになった。 オジサン×オバサン / オジサン×若い女 / オバサン×若い男・・・。 世代を超えた男と女。 友情×友情 / 友情×恋愛感情 / 反感×恋愛感情・・・。 楽しいけれど、結構複雑な組み合わせ。

 恋愛感情の表明とストーカー行為の境界線を引くのは難しい。 ジジ・ババといえども同じだ。 洗練された人間関係を楽しむには、痴性を知性で覆う微妙なさじ加減が必要にちがいない。 それを身につけるには、きっと経験を積むしかない。 さあ、みんなで頑張って練習しよう。 ストーカーにならないために。  

2013年11月2日土曜日

石川県土産の北海道産蕎麦を東京で食べる旅

 
 
 
 
 
 
 
  2009年5月8日、ゴールデンウイーク直後に、こんなブログを掲載していた。 以下はその一部。

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 純朴な都会人を狡賢い田舎者が騙して金儲けに精を出す”黄金週間”が今年も終わった のどかな5月の田園地帯の街道筋には、「農産物直売所」のノボリがはためき、地元農家の新鮮な収穫物が売られている。だが、「直売所」と名乗るにもかかわらず、都会のスーパーと同じで日本中の生産物もそこでは売られている。
 泥の付いたジャガイモを直売所で見れば、産地表示をチェックしないかぎり、誰だって、そこいらへんの畑で獲れたと信じてしまう。でも、この程度なら、まだ可愛げがあるかな?
 落花生で有名な千葉県内の「道の駅」では、堂々と格安の中国産落花生が売られているし、ブドウで有名な山梨県内の中央高速SAでは、チリ産の干しブドウが「巨峰の里」の名で売られている。

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 そう、わかっているのに、また、狡賢い田舎者に騙される純朴な都会人になってしまった。

 10月初めに石川県の金沢へ遊びに行った。 歴史を感じさせる雰囲気、美味い酒と肴に会話が楽しい金沢人。 楽しい旅だった。 それから1か月。 みやげに買った蕎麦を茹でて食べた。 

 有名な一向一揆が最初に起きたという石川県白山市の里にレンタカーで行って、地元の「道の駅」で買ったものだった。 袋の表には、「<加賀の国> 霊峰白山 国内産そば粉使用 山麓そば」と書いてある。

 味はまあまあ、普通の乾麺の味だった。 だから、200g(2人前)に420円も払ったのは、ちょっと高かったかな、と思った。 それで、蕎麦をすすりながら、何気なく袋を裏返して貼ってある内容説明の小さな文字を読んでみて、また騙されたのに気が付いた。
 原産地は「国産」となっていたが、「製麺地 北海道」となっていた。 白山市は、まるで地元産であるかのような包装をしている小賢しい販売者の住所が存在しているだけだった。 その名前もいかがわしい。 自分で打った蕎麦を売っているわけでもないのに、「そば工房 おきな」などと名乗っている。

  金沢くんだりまで飛行機で行って、北海道産の蕎麦を高い値段で買わされ、東京に持って帰って食う。 結局、これが楽しい旅の結末になってしまった。 素晴らしい「お・も・て・な・し」ではないか。 ナイーブになりすぎると、この国の旅は楽しむことができないのは、わかっていたのだが。

2013年11月1日金曜日

お控えなすって、”みずほ”でござんす


 みずほ銀行が暴力団へ融資していたことが大きなニュースになった。 お堅いと世間で思われている銀行員だが、実際は普通か、それ以上に生臭いみたいだ。 なんだか銀行員を身近に感じられるようになった。 そんなわけで、後学のために、みずほ騒ぎの記事をいくつかかき集めてみた。
 
 それにしても、こうした記事を読むと、日本資本主義は、安倍政権が自讃するほど盤石ではないような気もしてくる。


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<2013年10月14日J-CASTニュース>
   金融庁の業務改善命令によって暴力団員らへの融資が明るみとなった問題で、みずほ銀行の佐藤康博頭取自身も「報告を受けていた」という事実が明らかになった。 銀行が組織ぐるみで隠ぺいしようとしたとさえ思えるお粗末さだ。
  過去、みずほ銀行は不祥事のたびに「旧3行」の覇権争いがその原因と指摘されてきたが、その体質は治っていなかったらしい。
  2013年10月8日の記者会見で、暴力団員ら反社会的勢力に230件、2億円超を融資していたことを、西堀利元頭取(旧富士銀行出身)も現在の佐藤康博頭取(旧日本興業銀行出身)も知っていたことがわかったが、その融資を銀行で改めて審査するよう指示したのが西堀元頭取だったこともわかった。
   問題融資の情報を把握していながら、なぜ2年間も放置するようなことになったのか――。考えられるのが、自動車ローンの提携先であり、契約前の審査にあたったオリエントコーポレーションの存在だ。
   オリコは、みずほグループの一員ではあるが旧第一勧業銀行の出身者が社長に座る。そもそも、問題融資のきっかけはオリコにある。小口の提携ローンなので、銀行に当事者意識が欠如していたのは間違いなく、西堀元頭取ら、当時の経営陣は次回から契約を承諾しないようオリコに求めただけで、取引停止などの対応を取らずに先送りした。
   加えて、銀行内では「旧第一勧銀系が起こした問題なのだから、その関係者が解決しろ」といった、責任のなすり合いが起こったり、あるいは事態を把握した旧第一勧銀出身者が穏便に事態を収集しようと画策したりしたことも、旧3行の「覇権争い」が背後にあったと仮定すれば、容易に推察できる。
   そうこうしているうちに、西堀元頭取は2011年3月に引き起こした2度目の大規模なシステム障害で引責辞任。後任の頭取には塚本隆史氏(現会長、旧第一勧銀出身)が就いたが結果的に事態を先送りしていたようだ。
   経営統合したみずほ銀行は、不祥事が相次いだ。2002年4月、大規模なシステム障害が発生。08年7月には写真週刊誌が斎藤宏頭取(当時、みずほコーポレート銀行)の女性スキャンダルを報じた。また、11年3月には東日本大震災の義援金の振り込みが原因で、再び大規模システム障害を起こしてしまった。
   不祥事のたびに、旧3行の派閥争いが背景にあるといわれてきた。
   元銀行員で経営コンサルタントの大関暁夫氏は、今回の問題融資について、「経営幹部が臭いものにフタすらせず、見て見ぬふりをした」とみている。
   そのうえで、前出の大関暁夫氏は「経営幹部に、銀行の組織や出身銀行の立場を守るため、また自らのポジションを守るための『保身』が働いたのではないか」という。
   組織の中で声をあげれば、処理を任され、責任を負わされ、「面倒なことに巻き込まれる」といった意識が働く。役員というポジションゆえ、そんなリスクを率先して負いたくないのかもしれない。
   また、外資家金融機関での勤務経験のある国際経済アナリストの小田切尚登氏は、「問題の融資案件は、1件あたりは数百万円という小口のもの。元来、メガバンクは一流企業と取引する、エリート意識の高い行員ばかりです。小口の融資といって軽く見ていたところがあるのではないでしょうか」と指摘する。
   一般に融資案件は取引を停止するにしても、すぐに返済してもらえないなど対応が厄介だ。「このくらい(少額)なら、誰かが処理してくれる」「問題さえ起らなければ、いずれ取引(返済)が終わる」と思っていたフシもある。
   そもそも、2億円の小口融資を金融庁が検査することが稀だ。内部かどうかは不明だが、「通報者がいた」との見方は少なくなく、これも「旧3行」の内部抗争がもとになっているといった憶測も飛んでいる。
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<2013年10月18日ロイター通信>
 3行統合の弊害を指摘されてきたみずほフィナンシャルグループの体質を抜本的に変えようとしてきた佐藤康博社長が、暴力団向け融資の放置問題で窮地に立っている。
 傘下の2銀行を合併し、1バンク体制を構築した強力なリーダーシップで業績回復を図ろうとしたが、足元で展開されていた不祥事を未然に防ぐガバナンスの強さは行内に浸透していなかったかたちだ。金融庁が強く経営責任を追及する事態になれば、佐藤社長が変えようとしていた古い体質に「逆戻り」するリスクをはらんでいる。
<道義的責任から、経営責任へ>
「満月は欠け始めると、後は早い」――。みずほFGのある役員OBは、平安時代に権力を握り、わが世の春を謳歌(おうか)した藤原道長が詠んだ和歌になぞらえて、佐藤社長の現状を指摘した。
 今年7月にはグループ傘下のみずほ銀行とみずほコーポレート銀行の合併を実現させ、政府の産業競争力会議には唯一の金融界代表として参加し、存在感を発揮していた。3行統合の後遺症で、他行に比べコスト圧縮の対応が手ぬるいと指摘され、「3メガバンク中の4位」と揶揄(やゆ)されてきた業績も、足元では回復基調を示していた。「みずほの中興の祖として足場を固めていたはずだった。こんなことで足元をすくわれるとは」と、この有力OBは残念がる。
 暴力団への融資を放置してきた問題は、今月8日になって急展開する。この日、佐藤社長は問題の発覚後はじめて記者会見に臨み、これまで同グループが説明してきた事実関係を一転させた。
 佐藤社長は、取締役会に反社勢力との取り引きが報告され、自分自身も「知りうる立場にいた」ことを明らかにした。旧日本興業銀行出身で、国際業務や大企業取引を得意としてきたが、リテール業務に潜む反社会的勢力に対するリスク認識に抜かりがあったとの批判も出ている。
 この発言内容は「それまでの道義的責任から、自らに経営責任を生じかねさせない事態となった」(ライバル行役員)と、金融業界では注目を集めた。
<佐藤社長のリーダーシップ>
 佐藤社長が、持ち株会社のみずほFG社長に就任したのは2011年。東日本大震災直後の大規模システムトラブルに伴う人事刷新で、旧みずほコーポレート銀行頭取から、持株会社社長を兼務し、経営トップの座に座ることになった。「弁舌巧みで、発想も豊か。金融庁としても佐藤氏を推した」と、同庁関係者は話す。
 さらに傘下2行を合併させる1バンク体制を敷き、自らがCEOとして1トップに収まる体制も確立した。
 銀行は通常、企画部がお膳立てし、社内の関係者に根回して新たな方針を打ち立てるボトムアップ方式による意思決定が多い。だが、佐藤社長は自ら旗を振る「トップダウン経営」が信条。「側近も重用せず、自ら方針を立案して決めることもあり、企画部が後から慌てふためくこともある」(同行関係者)という。
 母体である旧日本興業銀行、旧富士銀行、旧第一勧業銀行の確執が金融界の「常識」と批判されてきたみずほの旧弊。旧3行のバランス人事の払しょくにも腐心し、今年4月の役員人事では副社長、副頭取7人を一気に退任させるなど、大幅な刷新にも踏み込んだ。
 「旧興銀出身の佐藤社長に配慮して、旧興銀出身者を大目に配分した人事案を蹴られた」(同行関係者)というエピソードもある。旧富士、旧一勧出身者の中にも「スタンドプレイが過ぎるなど短所がないわけじゃないが、佐藤社長を支えるほかにみずほが浮上する道はない」と、佐藤社長への求心力が高まる局面になっていた。
<見えない「ポスト佐藤」>
 だが、虚偽の報告をして、誤った前提に立った行政処分を金融庁に出させることになったみずほに対し、同庁が経営責任を強く求めてくる可能性も否定できない。佐藤社長が就任以来の窮地に立っていることは間違いない。
 一方、佐藤社長が進めてきたみずほの改革路線は、未だに「道半ば」だ。佐藤社長が何らかの経営責任を負うことになれば、みずほの経営方針に大きな影響が出かねない。
 「三井住友フィナンシャルグループや三菱UFJフィナンシャル・グループは、現トップの後任がなんとなく下馬評に上っている。しかし、みずほはまだ見えない」――。金融当局のある幹部は、こう語る。
 1トップ体制の確立は、ポスト佐藤体制が整っていない現状の裏返しでもある。今回の事件を契機に佐藤社長がグループ内での求心力を失えば、「後任体制をめぐる3行のさや当てが、また浮上しかねない」(みずほ役員)と危惧する声もある。
 (布施 太郎 編集;田巻 一彦)
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<2013年10月29日 毎日新聞朝刊>
 みずほフィナンシャルグループ(FG)傘下のみずほ銀行が暴力団員向け融資を放置した問題で、みずほがまとめた改善計画は、現体制の維持を前提にした、抜本改革からはほど遠いものだ。みずほ前身の第一勧業、富士、日本興業出身者の「旧3行意識」も背景にあるとみられており、取引先などからは処分の内容が「手ぬるい」との批判も出ている。信頼回復の道のりは依然として険しい。【工藤昭久、山口知、浅野翔太郎】
 「(トップ辞任を)思ったことはございません」。28日の記者会見でこう強調した佐藤氏は旧行意識について、「心の奥底までは分からないが、旧行意識が入り込む余地は相当払拭(ふっしょく)されている」と否定した。
 ただ、第三者委員会の中込秀樹弁護士は同日の記者会見で、頭取間の引き継ぎの不十分さに言及し、問題の一因として反社会的取引の管理を行う部門と他の部署とのコミュニケーション不足を批判した。佐藤氏も「縦割り意識が原因の一つにあったと思う。その払拭や企業理念の見直しを進める」と認めざるをえなかった。
 みずほは、旧3行の統合後も、持ち株会社のみずほFG(2003年1月までみずほホールディングス)と、傘下の旧みずほ銀、旧みずほコーポレート銀の幹部を旧3行で分け合うたすき掛け人事を続けてきた。問題融資発覚時のみずほ銀頭取は、旧富士銀出身の西堀利氏、後任の頭取は旧第一勧銀出身の塚本隆史氏、佐藤氏は旧興銀出身だ。「オリコの問題は勧銀案件とも呼ばれ、他の2行が口を挟みづらい。問題の背景に旧行意識がある」(大手行幹部)との見方は根強い。
 みずほFGは今年7月、中小企業・個人向けの旧みずほ銀と、大企業向けの旧みずほコーポレート銀を合併させて新みずほ銀行を誕生させた。FG社長の佐藤氏が頭取を兼務し、ようやく旧行のたすき掛け人事から決別したはずだった。
 旧行意識が噴出したかのような出来事があった。佐藤氏が今月8日の会見で「西堀氏が(10年当時)この問題を認識していたとしっかり確認できた」と説明し、自分は「知りうる立場にいたが、詳しく説明を受けた記憶はなく認識するに至らなかった」と釈明。これに対し西堀氏が「対応はした。説明があろうとなかろうと私は徹底して中身を見ていた」と反論したのだ。みずほは、同じ合併行である他のメガバンクに比べ、「旧3行の力関係が拮抗(きっこう)していたために勢力争いや、意思疎通の悪さはなかなか改善されない」(別の大手行幹部)との指摘もある。
 ただ、みずほ内部からは「ワンバンクを誕生させた佐藤氏の手腕は高い」(みずほFG幹部)との声は多く、進退問題を阻止したいというムードは強かった。7月に大幅な人事刷新を行ったため、「次期トップの候補が思い浮かばない」(金融庁幹部)という背景もある。
 また、佐藤氏の処分は報酬を半年間ゼロにするものだが、13年3月期の有価証券報告書によると、佐藤氏の報酬総額は1億1600万円。半年間無報酬でも5000万円以上を受け取る可能性が高い。佐藤氏は「給与水準は業界他社と比べて突出しておらず、今回の責任を考慮しても妥当な水準。批判があることは認識している」と説明したが、庶民感覚とかけ離れていると言えそうだ。
 一方、塚本氏はみずほ銀会長を辞任するものの、持ち株会社のみずほFG会長は続投。「責任を取ったのかどうか分かりにくい」(みずほ銀との取引のある東京都内の中小企業役員)との批判も出ている。
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<2013年3月17日 週刊ダイヤモンド>
  みずほフィナンシャルグループ(FG)の佐藤康博社長が、満を持して発表した新たな中期経営計画は、銀行と信託、証券を「あたかも一つの組織として運営する」(佐藤社長)という、経営の一体感を前面に押し出した内容だった。
  グループ内連携の強化に向けて、これまで弱かったFGの機能を大幅に強化。6人の副社長を、人事、財務、システムなどのグループ長や大企業、個人、国際などのユニット長に据え、それぞれが銀行、信託、証券すべてを横断して管理しグリップを利かせる仕組みに改めている。
 「Oneみずほ」という中計のテーマが示す通り、縦割りだった組織体系に横串を刺すことによって、ガバナンス(統治)の強化と意思決定の迅速化につなげていくのが狙いだ。
 その意気込みは、言葉だけでなく役員人事にも鮮明に表れた。
 佐藤社長が「旧3行の背番号を徹底的にはずす」と宣言したように、出身行に関係なく、1976~79年入行組の大半が退任し、80年組を中心に副社長に昇格させた。システム障害で引責辞任した西堀利・元みずほ銀行頭取の後を受けてFG副社長に就いた80年組の西澤順一氏が退任するなど、随所に「佐藤色」が滲む人事だった。
 人選に当たっては、タワーズワトソンなど外部のコンサルティング会社を活用し、上司や部下、同僚にヒアリングをかける360度評価を実施。評価を参考に、佐藤社長と社外取締役の計4人で構成する指名委員会で作業を進めたが、当初は「身内に甘い評価が散見され、扱いに困るものもあった」と、取締役の1人は明かす。
 それでも、各役員の「はっきりとした将来の可能性が出てきた」(佐藤社長)ことで、今春以降の新体制が固まったという。
 監督当局がかねて強く求めていた、グループのガバナンス強化に向け前進した一方で、中計が組織変更など「どうしても内向きの内容が中心になってしまった」(FG幹部)面は否めない。
 記者会見の席上でも、海外での買収・提携戦略については、さらっと触れただけ。むしろ、組織や3年後に控える次期システムの開発状況といった説明に時間をかけざるを得なかった。
 佐藤社長が「まだ旗を降ろしたわけではない」と話す、銀行と信託の統合や、本質的な解決策が見いだせていないみずほ証券の機能強化などにも、ある程度踏み込んだ中計を当初は模索していたとみられるが、あえて課題として残している。
 そこには、課題の解決や新たな組織の運営を軌道に乗せられるかどうかは、「ポスト佐藤」次第だ、という思いが込められているのかもしれない。 (「週刊ダイヤモンド」編集部 新井美江子、中村正毅)
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<2013年7月3日Business Journal>
 みずほフィナンシャルグループ(FG)傘下のみずほ銀行とみずほコーポレート銀行が合併し、新しい「みずほ銀行」の営業が7月1日にスタートした。この合併にともなうシステム移行作業で、6月29日午前0時から、7月1日午前8時までの56時間、全国の現金自動出入機(ATM)が一斉に停止した。
 日本経済新聞の7月1日朝刊によると、今回のシステム移行はコーポ銀の店名をみずほ銀に合わせる作業が中心で、銀行システムの中核には手を加えておらず、「できて当然」の内容だったという。このように比較的容易な作業内容だったにもかかわらず、みずほは通常の2倍のテストを重ね、4月には障害発生に備えた訓練も実施。さらに、29、30日には朝晩2回の会議で移行状況を確認し、佐藤康博社長は会社に泊まり込み、異例の厳戒態勢でシステムの移行に臨んだ。
 同行が、慎重を重ねたシステム移行の背景には、過去二度の大規模なシステム障害がある。5月26日付の朝日新聞のまとめによると、第一勧業銀行と富士銀行、日本興業銀行の三行を統合、みずほ銀とコーポ銀に再編した2002年4月、システム統合がうまくいかず、大規模な障害を起こした。さらに、東日本大震災後の2011年3月には、義援金振り込みが集中したのをきっかけに、振り込みの遅れや店舗でのサービス停止、ATMの取引停止などが発生。収束までに10日間を要し、金融庁から業務改善命令を出される結果となった。三度目の失敗を犯すようなことがあれば、「みずほはなくなるかもしれない」という緊張感が漂う中、今回のシステム移行が行われたようだ。
 そして、度重なるシステム障害の裏には、各メディアで繰り返し指摘されてきた、旧三行の派閥争いがあると見られる。朝日新聞は旧三行の派閥意識を払しょくできず、人材の融合が進まなかったことがシステム障害の一因だと分析している。
 みずほの人事は02年の発足からこれまで、みずほFGとみずほ銀、コーポ銀のトップを旧三行出身者が分け合う「三頭立て」だった。そのため、グループ間の意思決定が曖昧になり、古いシステムが温存された結果、発足時のトラブルの経験が生かされず、二度目のシステム障害につながった可能性が指摘されている。
 しかし、二度のトラブルで第一勧銀と富士銀出身のトップが相次いで失脚し、11年6月からは興銀出身の佐藤氏がみずほFGとコーポ銀頭取を兼務。さらに、今回の合併でみずほFGと新・みずほ銀頭取を兼務することになり、佐藤氏がみずほグループを統治する仕組みが整った。
 さらに、佐藤氏は今年2月に中期経営計画を発表すると同時に、旧三行の派閥意識払しょくを目指した新人事を発表している。6人の副社長を各分野のトップに据え、それぞれが銀行・信託・証券すべてを横断して管理する仕組みに改めた。縦割りだった組織体系に横串を刺すことで、ガバナンスの強化と意思決定の迅速化につなげていく――ダイヤモンドオンラインは3月7日配信の記事で、この人事を佐藤社長の「旧三行の背番号を徹底的にはずす」と宣言した意気込みが鮮明に現れたものだと評価している。
 しかし、現場からは旧弊からの脱却に懐疑的な声も出ているようだ。転職情報サイト・キャリコネは3月11日配信の記事で、みずほFG関係者の「新銀行では中年以降は旧三行の争い、若手はみずほ銀とコーポ銀で争いの構図が見えている」とのコメントを掲載。今回の合併によって、派閥争いが収束するどころか、拡大する可能性もあるというのだ。
 新・みずほ銀が7月1日に誕生し、サービス再開からこれまでトラブルは発生していないが、今回の移行作業はシステムの一部にすぎず、当面はみずほ銀とコーポ銀の二行のシステムをつないだ状態で業務が続けられる。7月1日配信のロイターの記事によると、本格的なシステム統合が行われるのは16年3月になる見込みだという。
 新たなスタートを切ったみずほ銀行は、新体制のもと派閥の勃興を抑え、メガバンクに相応しい強固なガバナンスを築くことができるのか。ネット上で「ATMの停止を知らず、ボーナス後なのにお金が下ろせなかった」という小さな騒動が起こっている裏で、金融庁の目が光っている。 (文=blueprint)

2013年10月28日月曜日

JR北海道もかなわない!


 JR北海道の度重なる事故、不祥事のニュースによれば、JR北海道の鉄道レール幅は1067mmに決まっていて、19mm以上の広がりがあった場合は15日以内に補修することになっていた。 ところが、この基準の2倍近い37mmになっていても放置されていたそうだ。

 このニュースが流れて、すぐに連想したのはエジプトの光景だった。 1990年代、首都カイロから中部の都市アシュートへ鉄道で行った。 当時、イスラム過激組織が散発的なテロ活動をしていた。 テロとはいっても子どものイタズラに毛がはえた程度で、鉄道線路沿いのサトウキビ畑から列車に向かって発砲するくらいだった。 治安当局がとった手っ取り早いテロ対策は、線路沿いのサトウキビを刈り取ってしまうことだった。 そうすれば、”テロリスト”が畑に隠れて発砲できないというわけだ。

 なんとなく長閑なテロ騒ぎではあったが、無論、背景には様々な社会的不満があった。 そんな情況の一端を見てみたくて列車に乗った。 広々とした特等席でナイル川と平行する田園風景を眺めながらの特急列車の旅は、なかなか快適だった。

 だが、アシュート駅で降りて、列車が去ったあと、ホームから何気なく線路に目を向けて驚いた。 2本のレールは、まるで2匹の長大なヘビが胴体をくねくねとうねらせているようだった。 鉄のレールが摂氏40度の暑さで蕩けてしまった棒飴のようにも見えた。 2本の真っ直ぐな平行線という線路のイメージが根底から覆された。 

 よくぞ脱線しないでレールの上を走ってきたものだ。 しかも快適な乗り心地で。 当時は、線路などというものは、かなり大雑把で、幅が多少狂っていても気にしなくていいものなんだと思い込んでしまった。

 しかし、これはとんでもない間違いだった。 エジプトでは大きな列車事故が頻繁におきているのだ。2002年には360人が死亡するという列車火災が起きた。 しかも、カイロとアシュート間300kmを結ぶ鉄道は、とくに危険なようだ。

 昨年11月には、 アシュート近くの踏切で遠足の幼稚園児などが乗ったバスが列車と衝突し、51人が死亡した。 この事故は、JR北海道が優等生にみえてしまうような原因で起きた。 遮断機を操作する係員が居眠りをしていて、遮断機を下ろさなかったためバスが突っ込んだのだ。

 そして、今年1月には、ついに、あのカイロ―アシュート間で脱線事故が起き、乗っていたエジプト軍兵士など19人が死亡、109人が負傷した。 やはり、レールは蛇行していてはいけないのだ。

 エジプトの鉄道は、迷走するエジプトの政治のようだ。 「アラブの春」の盛り上がりで、世界が賞賛する民主革命に成功したのに、国内の政治対立が続き、民主主義という列車がレールにうまく載らない。 乗り心地がいいのに、いつ脱線するかわからない特急列車。 これは、まさにエジプトの現実ではないか。

2013年10月26日土曜日

近くて遠い

10月26日、鵜の木の殺人事件現場。群がる記者たち。
2013年10月25日の昼近く、東京都大田区鵜の木の東急多摩川線鵜の木駅近くのアパートで、若い女の絞殺死体がみつかった。 午後3時すぎ、鵜の木上空あたりをヘリコプターがけたたましい騒音を撒き散らしながら何機も旋回を始めた。 現場から800mほどの我が家の周辺では、近所の人たちが、何事が起きたのかと空を見上げていた。 だが、その時間には殺人事件がテレビのニュースで流れていなかったので、住人たちは首をかしげるばかりだった。

 それから2時間ほどたって、我が家から4kmほど離れた川崎市・二子新地に住む友人から携帯にメールが来た。 「鵜の木のアパートで女が殺されたそうだ」。 きっとテレビが伝えたのだろう。 そうか、さっきのヘリ騒音はテレビか新聞の取材だったのか、と納得。 早速、もっと詳しい様子を知りたいと思って、現場まで400mほどのところにある行きつけの居酒屋のマスターに携帯メールを送った。 だが、彼はまだ事件を知らなかった。 逆に、教えてくれてありがとうと返信メールが来た。

 ふと、不思議だなあ、と思った。 情報源に近いからといって、情報が早く(速く)伝わるわけじゃないんだなと。 現場から4km離れている友人の方が400mしか離れていない友人より先に情報を知ることができたのだ。 ノロシや伝書鳩の時代ではないのだから当たり前なのだが。

 「近い」とか「遠い」の意味が混乱している時代に生きていることを、殺人事件であらためて感じいった。 そういえば、近くは高い、遠くは安い。 だから海外旅行に行く。 これは別の話か! 

2013年9月19日木曜日

お・も・て・な・し


 「独立行政法人・日本政府観光局」という生い立ちに不可解さの臭いがしなくもない名称の政府機関が9月18日に、8月の日本を訪れた外国人旅行者数は90万人を超え、前年同月比で17.1%増となったと発表した。 この調子で増えれば、2013年の年間政府目標1000万達成が可能だという。

 こんな政府発表ニュースをテレビや新聞が報じても、われわれ一般納税者には、東日本大震災の復興がうまくいっているとか、アベノミクスの成果が上がっていると宣伝する政権の情報操作以外にどんな意味があるのか、よくわからない。

 例えば、「1000万」という数字を自慢げに強調するが、この”成果”はどう評価すべきなのか。

 この発表をした「観光局」のホームページで、2012年の「世界各国・地域への外国人訪問者数」を見ると、日本は835万人で世界で33番目。 とても自慢できる数字ではない。 

 アジアでは、世界3位・中国の5772万を筆頭に、マレーシア(10位)2503万、香港(12位)2377万、タイ(15位)2235万、マカオ(13位)1357万、韓国(11位)1114万、シンガポール(25位)1039万と続く。 日本が1000万に達しても、世界ではモロッコを抜いて、やっと28位だ。 トップのフランスともなれば、なんと日本の10倍の8300万。 フランスの人口は6500万余りだから、それ以上の数の外国人がフランスを訪れるのだ。

 観光は今や世界の主要な産業分野のひとつになっているが、日本はここでは決して先進国ではない。 ちなみに、2020年オリンピック開催地で日本(東京)のライバルになったスペイン(マドリッド)は世界4位の5770万、トルコ(イスタンブール)は6位の3569万。 魅力ある訪問地としては、日本とは格が違っている。

 「おもてなし」。 悪い冗談だ。 短期訪問の外国人に短期間だけニコニコする。 これなら日本人もできる。 だが、日本に長期滞在する外国人やハーフの子どもたちが、日本の学校で「ガイジン」として陰湿なイジメの標的になっている現実を「おもてなし」というのか。 日本でハーフの問題をずっと追っているサンドラ・ヘフェリンに訊いてみるといい。  

 おそらく、交通標識に英語を加える程度の上っ面の”おもてなし”でも1000万人の目標は達成できるだろう。 だが、外国人が街に増えれば、日本人の醜さも曝すことになろう。

 電車の優先席に座って、寝たふりをして老人を無視するエセ紳士を見れば、”おもてなし”の本音が世界の隅々にまで知れ渡るだろう。 

2013年9月9日月曜日

東京オリンピック 究極の不安


<マグニチュード 7> クラスの東京直下型地震が起きる確率。
 
 東京大学地震研究所の試算によると、4年以内は50%以下、30年以内では83%。

 京都大学防災研究所によると、5年以内は28%、30年以内は64%。

 統計数理研究所によると、5年以内は30%弱。

 文部科学省地震調査研究推進本部によると、30年以内は70%。

 2020年オリンピックの東京開催が決まった。 日本の右翼・国家主義者が推進し、マスコミを巻き込み、国民を煽り立てた結果。 首謀者たちは、ライバル都市イスタンブールを意識して”安全”、マドリッドを念頭に”安定経済”を東京の売りにした。 ウソで塗り固められた原発安全神話が3・11で崩壊し、いまだに垂れ流されている放射能汚染も問題ないと言い張った。

 本当に、このオリンピックを開催する意味があるのか。 多くの人が多くの疑問を持っている。 気になることは色々ある。  

 なぜか、オリンピック誘致の過程で、都民の誰もが不安に思っている首都直下型地震は語られなかった。 意図的な無視だったのか。 やがて確実にやって来る巨大地震に正直に言及することは、”安全”も”経済”も吹き飛ばす地雷原に踏み込むも同然。 

 「東京が地震で壊滅状態になっても、われわれは瓦礫と死体を片付けて、立派なマラソン・コースを整備いたします」 

 これでは誘致は無理だったろう。 やはり、狡賢い陰謀の臭いがする。 

2013年9月2日月曜日

消えゆく足尾の宿で


 東京の暑さから逃れようと、急に思いたってクルマで栃木県の足尾に行った。 

 足尾銅山のあった町、日本資本主義経済の決して褒められない出発点、公害の原点。 かつての足尾町は「平成の大合併」で日光市に組み込まれていたが、30年ぶりに訪れた足尾の変化は行政区分だけではなかった。 銅生産最盛期の煙害で木々が死に絶え、不気味に禿げ上がった山々に緑が復活していたのだ。

 過去を知らずに、町を見下ろす国道122号線バイパスから眺めれば、普通の田舎町にしか見えないだろう。 ちょっとした浦島太郎体験。

 宿は町の北、銀山平の国民宿舎「かじか荘」。 チェックイン・カウンターの老人。 この宿のマネージャーか経営者か。 靴は部屋番号の記してある靴箱に入れて、スリッパもそこから取ること、ふとんは自分で敷くこと、浴衣はロビーにあるのを持っていくこと、風呂は夜10時まで、部屋に冷蔵庫はない、酒の持ち込みはダメ・・・。 「なにしろ国民宿舎ですから」。 サービスの悪さを自覚しているらしく、その責任というか原因は、すべて「国民宿舎」ということにしてしまった。 

 そんなことを言うなら、1泊2食7800円はちと高いぞ。 今どき、これだけ払えばサービスと愛想のいい民宿だって、飲み放題・カニ食べ放題付き格安温泉旅館だって泊まれる。 などとは言わず、リュックサックにワインと日本酒とウイスキーのボトルを隠して部屋に入った。 あとで、宿のおねえさんにワインボトルを冷蔵庫で冷やしてくれないかと、そっと頼んだら、ダメだけどいいですと言って冷やしてくれた。

 平日のせいか客は数人、広々とした露天風呂で、山並みと青空と秋の気配の赤トンボの群れを眺めながら思い切りからだを伸ばす。 気持ちいい湯だ。

 60がらみの男が一人入ってきた。 地元の住人だという。 近ごろは鹿が増えすぎて困っている、これまでクルマを運転していて鹿と5回も衝突した、と話し始めた。 「あの向かいの山まで7,8百メートルだと思うが、あそこに鹿がいればライフルで撃てる」

 今、鹿猟の制限はなく、1年中解禁されている。 それほど増えすぎているということだ。 最大の被害は森林で、樹木の幹を食い荒らす。 日光市は鹿1頭1万円の助成金まで出しているという。 獲った鹿の写真とその鹿の尻尾を持っていけばいいそうだ。 

 だが、鹿狩りは思惑通りには促進できなかった。 第1に、猟師の数が激減している。 若者たちは地元を離れ、残る猟師たちは老齢化が進む。 第2は、福島第2原発事故による放射能の拡散だ。 この一帯の山々も放射線量は基準を超え、山菜やキノコは今も食べられない。 獲った鹿の肉も口にできないから肉の需要がない。 かつて、日光一帯の鹿肉刺身、もみじおろしを浸けた味は絶品だった。 実は鹿刺しには期待を持って足尾に来たのだが、それが食えなくなっていた。

 気が付いたら、湯の中で30分も話をきいていた。 おかげで頭がぼーっとしてきた。 だが、宿に頼んだワインの冷え加減はちょうど良くなっていた。 澄んだ山の空気と冷えたワイン。 文句なし。 

 田舎の人は純朴だ、などという幻想は持たない。 「裏山で採れた山菜」などと言って中国製のパックを都会からの観光客に売りつける”素朴な田舎者”に驚きはしない。 だが、足尾の人たちは、純朴かどうかはわからないが、人懐こく話しかけてくる。 

 宿の部屋にはトイレがないので用をたすには廊下を30メートルくらい歩かなければならない。 トイレの入り口で鉢合わせした老人が前触れもなく「寂しいんだ」と言った。

  髪は白いが骨格はがっしりしている。 話し方もしっかりしていて、ボケが始まった徘徊老人なんかではない。 「銅山で23のときから働いていた。 今80だが健康だ。 銅山で長く働いて肺をやられず元気なのは珍しい。 医者も驚く。 仲間はみんな60になる前に肺をやられて死んでしまった。 最後は胸が痛くて仰向けに寝られなくて、上半身を起こして苦しみながら死んでいった。 残ったのは俺だけ。 昔をわかってくれる仲間がいないのは、本当に寂しい」

 礼儀作法をわきまえた人だった。 「話をきいてくれて、ありがとう」と丁寧に挨拶をして去っていった。

 足尾町の最盛期に人口は4万人近くに達し、町の通りには料理屋や芸妓屋が軒を連ねていたそうだ。 多くの集落や歓楽街は生い茂る樹林の中に消えた。 太平洋戦争中は、日本人ばかりでなく、多くの中国人、朝鮮人、欧米人戦争捕虜が過酷な労働を強いられ死んでいった。 

 今、足尾の人口は、わずか2000人。 

 人が消え、記憶が消えていく寂しさが、安普請の国民宿舎に染み込んでいた。

2013年8月13日火曜日

暑い夏のアラカルト


 ペルシャ暦の元旦ノールーズ=3月21日、イランの沙漠はうっすらと緑色に染まる。 この土地の冬は突然終わり、夏が突然やって来る。 ノールーズ前後の2週間ほどは寒くもなく暑くもなく、1年で最高の季節、 そして灼熱の夏が始まる。

 首都テヘラン。 気温40℃。 暑くても乾燥した夏の生活は、それほど悪くはない。 ペルシャ湾で獲れた鯖を開いて室内に置いておけば、わずか半日で旨い干物になる。 禁酒国で密造した白ワインとの相性が実にいい。

 南部アフワーズで気温50℃を経験したことがある。 照りつける日ざしだけでは50℃は実感できない。 乾燥しているので、日陰にいると爽やかさすら感じる。 だが、エアコンの壊れたバスの車内は走るサウナ風呂だった。  堪らなくなって窓を開けるや否や、高熱の衝撃が顔を襲った。 ヘアドライヤーを顔に直接吹きつけられたようなものだった。 あわてて窓を閉め、サウナを選択する。

 インドの首都ニューデリーの7,8月は、日本の夏に似ている。 雨季のせいで湿度があり気温は32℃くらい。 日本人に違和感はない。 だが、この国には2種類の夏がある。 もうひとつの夏は4,5月、暑くて乾いている。 気温は45℃に達し、インド人に言わせるとクルマのボンネットでタマゴを焼ける。 

 この暑さを体感してみたくなって、デリーでエアコンのない安ホテルに泊まったことがある。 従業員たちは、涼しい屋上や裏庭にベッドを持ち出して寝ていた。 その光景を見て、チェックインしたものの眠る自信を失った。 暑さへの恐怖すら覚えながら、意を決してベッドに寝転ぶ。 熱い! 耐えられないほどではないが、マットの表面は熱かった。 だが、熱さに慣れてくると決して不快ではない。 空気が乾燥しているので、汗は瞬く間に蒸発して肌はさらさらしている。 結局、朝までぐっすり眠ることができた。
 (インドでは、どんなに暑い日でも「hot」とは言わず、「warm」と言う。 「hot」は料理の「辛い」にしか使わない)


 ペルシャ湾岸、アラブ首長国連邦のアブダビの8月。 気温は40℃に達し、晴れていても湿度は100%近くになる。 夏の熱気が海水を蒸発させるためだ。 平坦な沙漠に海が面するという単純な地形のせいで、ビーチの風は向きと強さが一定している。 おかげで快適なウインドサーフィンを楽しむことができる。 昼下がり、ビーチ沿いの道路はサーファーたちを除けば閑散としている。

 ここはサウナというよりスチームバス。 スチームバスのジョギングなど、世界のどこでもできるというわけではない。 というわけで、人通りのない街を走ってみた。 やはり想像した通り。 シャワーを浴びているように汗をかいた。 だが、思ったよりは、はるかに快適に感じるジョギングだった。 からだにやさしい湿度のせいだったかもしれない。 なにより、走ったあとのビールがとてつもなく旨い。
 (アブダビ在住日本人たちは、暑い夏の間、家にこもって動かないので太ってしまう。 無論ビールのせいもある)

 2013年8月、日本の首都東京。 異常と言われる暑さが続く。 どう楽しもうか。 熱中症などクソくらえ。 だが、面白そうなことがなかなか思いつかない。

 都会の男たちは”クールビズ”という名の夏用半そでシャツを着て、せっかちに働いている。 テレビは、暑苦しくて汗臭い高校野球が騒々しくて鬱陶しい。 東京の夏が不快なのは、余裕のない雰囲気が充満しているせいかもしれない。 だとすれば、不快なのは今年だけではなく毎年のこと、異常気象のせいではなく東京の存在そのもののせいか。 東京よりはるかに暑いテヘランやデリー、アブダビでゆとりを感じることができたわけが少し見えてきた気がしてきた。

 (今年同様に暑い夏だった2010年、クルマのボンネットで目玉焼き作りに挑戦したが、タマゴがまったく固まらず失敗した)  

2013年8月8日木曜日

1000頭ラクダで平和運動だ!


 二十数年ぶりに、横浜・桜木町駅で降りた。 東横線はなくなってJRの駅だけ。 横浜港側の光景に昔の面影はない。 「みなとみらい」のせいだ。

 だが、反対側、野毛のあたりは、それほど変わっていなかった。 うろうろしていると、記憶にある小さくて汚らしいタン麺屋があった。 引き込まれるように、なつかしい「三幸苑」の暖簾を分けて入る。 名物のたんめん(770円)は、野毛の街のように昔のままだった。 こってりとした濃厚なスープ。

 それにしても、この店は、資本主義発展の根本原則である拡大再生産という概念が欠落している。 何も変わっていない、何も発展していない。 「みなとみらい」の対極にある。 そして、それはとてもいいことだと思った。

 野毛坂を上って、入場無料の野毛山動物園に入る。 対費用効果は無限大。 ここには年老いたラクダがいて、イベントを企画していた。 

<野毛山動物園では、世界最高齢のフタコブラクダ「ツガル(メス・推定37 歳)」を飼育しています。人間に例えると100 歳を超える当園の名物おばあちゃん「ツガル」の長寿を願い、9 月16日(月・祝)の敬老の日に、千羽鶴ならぬ千頭ラクダを「ツガル」にプレゼントする「1000頭ラクダプロジェクト」を8 月1 日(木)から実施します。これは、来園者の皆様に折り紙で折っていただいたラクダを集めて、千頭ラクダを作りあげるという企画です。ぜひ「ツガル」への思いを込めて、たくさんのラクダを折ってください!!> 

 折り紙とラクダの折り方を説明するパンフレットを無料で配っている。 さすが無料が売りの動物園。 子ども相手には面白いイベントかもしれないなあ・・・。 

 が、帰途、野毛坂を下っているとき思いついた。 「1000頭ラクダプロジェクト」を横取りしたら、もっと面白くなるぞ。

 千羽鶴は長寿ばかりでなく平和のシンボルでもある。 多くのラクダが飼われ、生活の一部になっている西アジア・中東は、紛争、戦争、殺戮の絶えない地域だ。 「1000頭ラクダ」を、平和を祈願するために、紛争国の在日大使館に送るのはどうだ。 「ツガル」のための折り紙もイベントのあとは譲ってもらって、大使館に送れるかもしれない。

 きっと、これは、日本発の新しい平和運動になる。 マスコミにも協力を頼もう。 とりあえず、このブログを読んだら、ラクダを折って以下の住所に送ろう。 「三幸苑」のたんめんでパワーをつけたら、こんな凄いプロジェクトが誕生したのだ。

<<ラクダの折り方は「折り紙 ラクダ」でネット検索すると、いくつもみつかる。折り方はひとつではないようだ>>

<アフガニスタン・イスラム共和国大使館>
Embassy of Islamic Republic of Afghanistan in Japan
〒106-0041 東京都港区麻布台2-2-1
電話:03-5574-7611

<パキスタン・イスラム共和国大使館>
Embassy of the Islamic Republic of Pakistan in Japan
〒106-0047 東京都港区南麻布4-6-17
電話:03-5421-7741、03-5421-7742

<イスラエル国大使館>
Embassy of Israel in Japan
〒102-0084 東京都千代田区二番町3
電話:03-3264-0911

<イラク共和国大使館>
Embassy of the Republic of Iraq in Japan
〒150-0047 東京都渋谷区神山町14-6 ラビアンパレス松濤
電話:03-5790-5311

<イラン・イスラム共和国大使館>
Embassy of the Islamic Republic of Iran in Japan
〒106-0047 東京都港区南麻布3丁目13-9
電話:03-3446-8011、03-3446-8015

<シリア・アラブ共和国大使館>
Embassy of the Syrian Arab Republic in Japan
〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目19-45 ホーマット・ジェイド
電話:03-3586-8977、03-3586-8978

2013年8月2日金曜日

お盆のシーズンだから


     がしじょうぶつどう みょうしょうちょうじっぽう
     きょうみしょもん せいふじょうしょうがく
     りよくじんしょうねん じょうえしゅぼんぎょう
     しぐむじょうどう いしょてんにんし
     じんりきえんだいこう ふじょうむさいど
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 日本語だか、なんだか見当もつかない意味不明のお経を、僧侶の声に合わせて唱和、というより口をモゴモゴさせているだけの参列者たち。 

     なーまーんだーぶー なーまーんだーぶー
     なーまーんだーぶー なーまーんだーぶー
     なーまーんだーぶー

 このお経は浄土真宗のウエブからダウンロードしたが、日本の仏教各宗派の法事では、ごく普通の光景、 誰もお経の意味など意に介さない。 仏教がどのような教えの宗教なのか知りもしない。

 それにもかかわらず、日本人のほとんどは、自分を仏教徒だという。 日本中のいたるところ寺院がある。 観光ツアーに参加した外国人観光客は、あちこち連れていかれても、寺ばかりなのでうんざりし疲れた顔でホテルに帰る。

 だが、普通の日本人が仏教に接する機会は、人の死に関わる法事、お盆、お彼岸、それに大晦日の夜に響く除夜の鐘くらい。 日々の生活に深く関わってくるキリスト教、イスラム教と比べると、日本の仏教は宗教と言えるのか疑問にすら思えてくる。 

 キリスト教の聖書、イスラム教のコーランは、それぞれの宗教の根本であると同時に、読み物としても、歴史や文化人類学、民俗学の資料としても興味深く、面白い。 だが、仏教には、われわれ”信徒"が親しんでいる教典がない。 

 なぜか今年は前半だけでも、知り合いがずいぶん亡くなった。 それに、もうすぐお盆。 そのせいか、すっかり通い慣れてしまった寺と坊主と仏教を知らない仏教徒への興味がじわりと湧いてきた。
 
 興味のきっかけは、もうひとつあった。 多摩川下流域に点在する玉川八十八ヶ所の寺を散歩がてら三十まで回ってみた。 どこも同じような寺なので興味を失ってやめてしまったが、気になったのは、どの寺も同じように、財力が十分あるようにみえたことだ。 多くの寺には警備会社ALSOKのスティッカーが張ってあった。 カネをかけても守るべき財産があるということだろう。 信者の信仰心は薄いが、寺は金持ちになる。 不思議なメカニズム。

 お経など唱えても仏教の真髄など理解できるわけがない。 仏教を極めようなどとは決して思わないが、今夏のお盆期間中は、仏教の古典を読んでみよう。

 原始仏教の経典「スッタニパータ」の労作日本語訳「ブッダのことば」(中村元訳・岩波文庫)を、とりあえず開いてみよう。 そこでは、ブッダがやさしい言葉で直接語りかけている。

 こんなことをほざいていると、危険な原理主義思想の持ち主と胡散臭く見られるかもしれないが。

2013年7月19日金曜日

退屈すぎる日本の考古学


 ブライアン・フェイガンという米国の有名な考古学者がいる。 非常に多作の著述家で、日本でも翻訳が出版されている。 地球規模の気候変動を基軸に、200万年にわたる壮大な人類史を描く。

 根底にあるストーリーは、当たり前のことだが、常に定まっている。 人類史はひとつなのだから当然と言えば当然だ。 「The Long Summer  How Climate Changed Civilization」の日本語訳「古代文明と気候大変動 人類の運命を変えた二万年史」(河出書房新社)の訳者・東郷えりかがあとがきで、彼のストーリーをうまく要約しているので、そのまま引用してしまおう。

 「地球の気候が寒暖、乾湿を繰り返して大きく変化してきたあいだも、人類はどこかで生き抜いてきた。 その間ほぼずっと、気候が悪化すれば、住みやすい場所を求めて移動し、よい時代が戻って人口が増えれば、新たな場所を探し求めて移っていくという暮らしがつづいた。
 しかし、完新世になって気候が急速に温暖化しはじめると、環境の変化への対策として、人間はそれまでの狩猟生活から採集生活へ切り替え、やがて一つの土地に定住して農耕を始めた。 その後、灌漑設備や都市を築くようになり、気候が少しばかり悪化しても、乗り切れるようになった。
 こうして文明が始まったのだが、生物の宿命のように、あるとき増えつづけた人口がその土地の環境収容力を超える日がやってくる。 そこで気候が大きく変動すると、もはや対応しきれず、多くの人は死に絶え、生き残った者は各地へ離散していった。」

 これだけ読むと、当たり前すぎて、目新しさはない。 だが、フェイガンは著作の中で、数百万年、ときには数十億年という時間、全表面積5億994万9千km²の地球という空間を自由に飛びまわり、まるでジャーナリストのような人間観察ルポをする。

 われわれは、人類発祥の地アフリカから徐々に北上したホモ・サピエンスがネアンデルタール人を駆逐している姿を見る。 厚い毛皮で身を覆ったモンゴロイドの狩人たちが、シベリアからベーリング地峡を渡って、アメリカ大陸に初めて足を踏み入れた瞬間を目撃する。

 フェイガンの考古学は、化石の観察に留まらない。 生きている人間のダイナミックなドラマなのだ。 だから読者は長編小説を読むように、彼の描く世界へ惹きこまれていく。

 対照的に、日本の考古学書は退屈だ。 石ころや土くれ収集の域を越えていない。 ”旧石器時代”、”縄文時代”、”弥生時代”...。 この時代区分がいけないのかもしれない。 道具の発掘や分布の調査が考古学の最大の目的になってしまった。 本当の目的は、石器や土器ではなく、それを使っていた人間を知ることでなければならない。

 日本の考古学者たちは、ナウマン象を倒して喜々とする旧石器時代人、派手な火炎土器を完成して自慢する縄文時代人、泥臭い縄文女にちょっかいを出すイケメン弥生男たちと会話しようとしたことがあるのだろうか。

 試みに、フェイガンの翻訳を出版している河出書房新社が出している「列島の考古学シリーズ」から、「旧石器時代」(堤隆著)、「縄文時代」(能登健著)の2冊を読んでみた。 残念ながら退屈きわまりない。 考古学者である両著者とも、従来の日本考古学から脱皮しようとする意図はあるらしい。 だが、如何せん、器が小さい。 どうしてもストーリーの主流は石ころや土くれに行ってしまい、人間が見えてこない。

 地べたを這いずり回るのもいいけれど、そもそも彼らは、普通の人間のように恋愛をしたことがあるのだろうか? 酒を飲んで酔っ払ったことがあるのだろうか? こういう学者と居酒屋に行っても話題がなくて面白くないだろう。 
 
 2000年11月に旧石器捏造事件という日本考古学界の権威を根底からなぎ倒すスキャンダルが発覚した。 1980年代から、東北地方を中心に、後期旧石器時代以前の前期旧石器・中期旧石器時代が日本にも存在したという証拠が、藤村新一という人物によって、次々に”発見”された。従来の常識を覆し、日本の旧石器時代は約70万年前まで遡った。

 しかし、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、旧石器発掘捏造を報じた。その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、今では、前・中期旧石器時代の存在を裏付ける遺跡は日本には存在しないとされている。

 こんな馬鹿げた捏造事件が起きてしまうのは、日本考古学が石ころ、土くれ発掘にしか関心がなかったからだ。 視野が狭く、空を見上げないし、高みに登って遠くを見ようともしない。 

  「古代文明と気候大変動 人類の運命を変えた二万年史」でフェイガンが出した結論は、「現代」への警鐘だった。  


 「われわれが人間社会のなかのスーパータンカーになったのだとすれば、これは妙に不注意な船だ。 乗組員のうち、機関室に目を配っている者は一握りしかいない。 操船指令室にいる人は誰一人、海図も天気図ももっていず、それが必要だということすら賛成しない。 それどころか、彼らのなかで最も権力のある者は、嵐など存在しないという説に与している。 指揮権を握る者のうち、立ちこめる雲が自分たちの運命となにかしら関係があると考えたり、乗客10人につき1人分しか救命ボートがないことを案じたりする人はわずかしかいない。 そして、舵手の耳に、方向転換を考えたほうがいいとあえて耳打ちする人は誰もいない。」 

 人間を対象にする考古学は現代をも考察することができるのだ。 そんな考古学者は日本にはいない。 つまり、日本に真の考古学者はいないということか。

2013年7月9日火曜日

7800円でみつけた新時代


 街のディスカウント・ショップで、イタリア製の超高級エクストラ・ヴァージン・オリーヴ・オイルが半額になっているのをみつけ、大喜びで買ったついでのことだった。 同じ店の別の売り場にぶらぶらと入りこんだら、7インチのタブレットPCが目にとまった。 こちらは、見るからに超低級という感じの中国製。 値段はたったの7800円。 オリーヴ・オイルで気分が良かったし、使ったことのないタブレットのオモチャだと思えばいいやと、つい買ってしまった。 

 うちに帰って箱を開けてみると、電車の中で使っているのをみかけるタブレットと比べ、いかにも安っぽく、プラスティックの薄っぺらなケースという感じ。 それでも電源を入れるとインターネットにつながった。 だが、キーボードの文字が小さ過ぎて、言葉の入力にはえらく手間と時間がかかる。 これでは使い物にならん。 だが、ダウンロードできるアプリの一覧を見ていて、別のキーボードを入手できることがわかった。 そこで、とりあえず使い勝手の良さそうなのを選んでダウンロードしたら、まあまあ使えるようになった。 反応が遅く、多少ノロマではあるが、7800円で文句は言えないというレベルには達した。

 こうしてタブレットPCの初体験が始まった。 それまでデスクトップとノートブック型しか使ったことがなかったので、ソファに寝転がって雑誌でも読むように片手でPCを持って、画面をながめている感覚が新鮮だった。 

 だが、キーボード操作は従来型PCの正確さとスピードにとてもかなわない。 だから情報の発信には向かない。 こいつは情報の受信専用で、そこに特化すれば結構楽しめると解釈した。

 最初に目をつけたのは、無料の電子書籍だった。 無料のものは、基本的には著作権が消滅した古典ばかりだ。 退屈だと思ったが、タダの魅力というのは凄い。 日本文学の古典とされる小説をたちまちのうちに何冊も読破してしまった。 夏目漱石「坊ちゃん」、「吾輩は猫である」、芥川龍之介「藪の中」、「羅生門」、森鴎外「高瀬舟」、太宰治「人間失格」、小林多喜二「蟹工船」・・・。

 読んで見ると、タダだからというのではなく、いずれの作品もその力強さに惹きつけられた。 古さをまったく感じさせない。 骨太のストーリー、スピード感のある展開、切れ味の良さ。 「蟹工船」のリアルな描写には圧倒させられる。 あれだけの表現力を持った作家が現代にいるのだろうか。 日本の小説は、あの時代から、ちっとも進化していないのではないか。 昔読んだときには、こんな風に感じなかったのに。 

 今、自分の本棚を探せば、電子書籍で読んだうちの数冊はみつかるだろう。 開けばページは黴臭く黄ばんでいることだろう。 タブレットでは、まるで消毒されたように無味無臭になっている。 死人が生き返ったような気味悪い感覚でもあるが、古典がこんな風に再生しているのは、将来の文学史に記される出来事かもしれない。 

 ソファに寝転がったまま同じ画面で、古典小説を読んでいるだけではない。 新聞やテレビの電子版を見て、友人からの電子メールを受け取る。 税金の支払いも買い物もする。 

 タブレットPC画面に現われた「今」の光景を、20年前に巻き戻して翻訳して見よう。

 寝転がっていた男は起き上がって、読んでいた本を閉じ、テレビを付けて新聞を広げる。 それから郵便受けまで行って郵便物を取り出し封を開けて手紙を読む。 しばらくして着替え、近くの銀行へ税金を払いにでかける。 ついでにカネを下ろしてスーパーに立ち寄って買い物をする。

 同じことをしても心象風景は著しく異なるだろう。 7800円で新時代へようこそ。

2013年7月2日火曜日

同一性障害の政治的症候群


 性同一性障害の知人が身近にいないので、彼らの日常の心理を直接知る機会はない。 自分自身で感じる性と世の中や戸籍が認めている自分の性が合わず、つねにアイデンティティに違和感がある人生。 着たくもなかった着ぐるみを脱ごうとしても、そこから抜け出せないもどかしさ。 簡単に口先で、同情するなどと言えない苦悩があると思う。

 2013年6月24日朝、目を覚まして新聞を広げ、テレビのスイッチを入れたときの違和感は、性同一性障害者の感覚に似ていたのかもしれない。 そこは自分が住んでいる世界だが、そうではない。 日常生活の臭いも物音も見慣れた光景も同じ。 だが、この倒錯した感覚は何か。 前日は体調が悪くて、1日中ベッドに寝転び、「5万年前に人類に何が起きたか?」などという実生活から遠く離れたテーマの本を読んで、そのまま寝入ってしまった。 だが、それで頭がおかしくなったわけではない。

 肉体と精神の奇妙なズレ。 その原因はすぐにわかった。 新聞とテレビが大々的に伝えているニュースのせいだった。

 「自民全員当選 第1党」
 「自民に勢い鮮明」
 「自民満願『59』」
 「自公 笑顔満開」
 「全勝 歓声バンザイ」
 (いずれも読売新聞から)

 前日23日に行われた東京都議会選挙の結果だ。 国政与党の自民党と公明党が圧勝していた。 

 マスコミの事前予想通りではあるが、われわれ東京市民の皮膚感覚とは断じて違う。 自民党が圧倒的な第1党になったが、東京市民は絶対に自民党を大勝させようなどと思っていなかった。 この感覚のズレが同一性障害の症状として顕在化したのだ。 自民党が勝っていないのに、ニュースは「勝った」と繰り返し叫ぶ。 まるで「勝った」と思っていない人々の脳みそに、「勝った」を摺り込もうとするかのように。

 だが、結果はそうではない。 党派別得票率を見れば、あまりに明白だ。

 国政与党の得票率は、自民党36.03%、公明党14.10%、合計50.13%。 議席で過半数を大きく上回ったばかりでなく、得票率だけでも過半数に達した。 しかし、これを以って「自公勝利」とは言えない。 そんなことは、「勝った」と主張する自民党、公明党、新聞、テレビだって知っているはずだ。 

 この選挙の投票率は43.5%。 半分以上の56.5%は投票していない。 自公の得票率は、50.13%の43.5%、つまり、実際の支持率は21.8%でしかない。 自民党だけなら15.67%にすぎない。 

 そう、これが東京の実像だ。 既成政党を信頼できず、政治に興味と関心を失い棄権した56.5%が、巨大な第1党なのだ。 

 まさに、われわれの生活感覚。 こんな選挙で第1党になったからと言って「勝った、勝った」と大騒ぎしていたので、こちらの頭もおかしくなったのかと不安になってしまった。

 次は、7月21日の参議院選挙かあ。

2013年6月11日火曜日

トルコで何が起きているのだ?


 トルコで今起きている騒ぎの実態がよくわからない。

 報道によれば、イスタンブール中心部、外国人観光客も多いタクシム広場横の公園の再開発に反対する小さなデモがきっかけで、警察による乱暴な取り締まりへの抗議が瞬く間に、エルドアン政権を批判する全国規模の反政府デモへと拡大した。 批判の内容は、警察の強圧的取り締り、首相エルドアンの強権・独裁体質、世俗主義に反するイスラム化の推進といったところに集約される。

 だが、こうした批判は本当のものなのか。 それがわからない。 エルドアン政権下で政治的自由に対する規制があったとしても、現在の穏健イスラム政党・公正発展党が2002年に政権を取る前と比べると、民主化ははるかに進んでいるように見えるからだ。

  トルコ伝統の国粋主義によって、その存在すら認められていなかった少数民族クルド人の人権は現政権下で大幅に改善した。 「世俗主義が国是」を理由に様々な規制を受けていた信仰(イスラム教)の自由もかなり回復した(これは政権の性格上当然か)。 また、トルコ軍は、建国の父ケマル・アタチュルクの思想を実践する世俗主義の守護者を自任し、それを理由にクーデターなどで政治にたびたび介入してきたが、エルドアン政権は軍の政治的影響力を削減することにも成功した。 民主化の推進は、欧米各国がエルドアン政権を歓迎してきた理由でもある。

 イスラム化への不安。 穏健ではあるがイスラムを基本とする公正発展党が徐々にではあるが、イスラム伝統の習慣を回復させているのは明らかだ。 今回の騒ぎで批判の的になった夜間の酒類販売禁止も、そのひとつ。 イスラム女性のへジャブ着用容認もそうだ。 アタチュルク以来、宗教弾圧の教育を受けていたトルコ人、とくに西欧化した都会のトルコ人が、政権の示すイスラム色に嫌悪感を示すことは想像に難くない。 とはいえ、当面は、イスタンブールの呑んべえやセクシーガールたちの生活に影響があるわけではない。 

 それでは、公正発展党が将来、イスラム化を加速し、サウジアラビアやイランのように、イスラムが絶対支配する国家社会を建設することはありうるのだろうか。 おそらくできない。 日本よりも政権交代が起きやすい選挙制度のトルコで、多数の支持を受けない改革は不可能だ。 政権批判のひとつ、「過激なイスラム化」に説得力があるとは思えない。

 そして、最後に、警察の取り締まり。 トルコ警察は昔から、逮捕者を殴ったり蹴ったりすることが当たり前だった。 拷問とまでは言わなくとも、逮捕するとまず警察官が”懲らしめてやる”のが慣例になっている。 以前、デモに参加して拘束されたトルコ人の知り合いが言ったことがある。「今回は運が良かった。 殴られただけで釈放された」。 運が悪いとどうなるか。 警棒や鞭でたたかれるのだという。 ゲイの人権活動家によれば、ゲイは道路を歩いているだけで、警察官に殴られたり逮捕されるそうだ。 この警察の伝統はイスラム政権になっても変わっていないのかもしれない。 なにを今さら、なのだ。

 この10年で経済も順調に発展していた。 インターネットやマスコミが作った実態のない騒ぎではないとすれば、どこかに、本当の火種があるのかもしれない。 久しぶりに、トルコに遊びに行くしかないかな。 

2013年6月1日土曜日

南欧風ラーメン???


 ラーメンと名乗っているが、それをスープスパゲティと呼んでも一向に構わない。 

 トマト風味のスープ、麺は中華麺ではなく、デュラムセモリナの通常のスパゲティを使っているが、1.4mmという極細。 トッピングは、ペペロンチーノとニンニク、オリーブオイルで炒めたエビ、タコ、イカ、ムール貝。 たっぷりと載ったスウィートバジルの葉の緑がスープの赤と鮮やかな対照を成す。

 値段はやや高めの設定で1,100円。

 大田区山王1丁目、 JR大森駅からジャーマン通りを歩いて10分ほどのところに位置するレストラン。 「南欧創作家庭料理」の大きな看板が掲げられている。 一般的なイメージは、スペインやイタリアのシーフード料理やオリーブオイルの香りetc であろう。 だが、この店の入り口のシェードには、くっきり「ラーメン」と染め抜かれた旗がぶら下げられ、風に元気よく揺れている。

 この店はいったい何だ! そして色々と想像してみた。 ”南欧創作家庭料理”の”ラーメン”とはこんなものではないだろうかと。

 だが、次第に驚くことではない、という気がしてきた。 蕎麦屋でインド料理まがい=カレーライスを出すのが当たり前の日本では、どんなマッチングもありうる。 慣れてくれば、”南欧創作家庭料理”の店で、札幌みそラーメンが出てきても気にしなくなるだろう。 きっと、この店では、日本人に馴染みの普通のラーメンを提供しているのだろう。 そして、客たちは、イタリア料理まがいのスパゲティ・ナポリタンを駅の立ち食いソバをかきこむように、ズルズルと大音響をたてて食べているに違いない。 ようするに、看板を無視すれば、街の普通の食堂。

 日本という国は、こうやって異文化を吸収してきた。 その逞しさがいまだに息づき、進化しているのを大森で見た。 とはいえ、この店がグルメに勧められるとは思えない。 しかし、とりあえず、ここのラーメンを食べてみなければいけない。 近いうちに、勇気を奮って入ってみよう。

2013年5月25日土曜日

報じられないエベレスト挑戦

サウジのラハ・モハラック

ネパールのミン・バハドゥール・シェルチャン

 日本ではほとんど報じられていないが、日本人の冒険家・三浦雄一郎が世界最高齢80歳のエベレスト登頂に成功する5日前の5月18日、もう一つの画期的なエベレスト登頂があった。 サウジアラビアの女性として初めての登頂だ。

 イスラム教社会の古くからの伝統が維持されているサウジアラビアでは、女性の社会進出やスポーツ参加には厳しい制約がある。 世界で、女性の自動車運転が認められない唯一の国でもある。 オリンピックへの女子派遣も2012年ロンドン大会でやっと実現した。

 こういう国の女性がエベレストに挑戦したこと自体が驚きであり、まさに画期的な出来事と言える。 彼女の名前は、ラハ・モハラック、27歳のグラフィック・デザイナー。 「伝統的で保守的な家族に登山を認めてもらうよう説得するのは、エベレスト挑戦と同様大変なことだった」と、ツイッターに書き込んでいたという。

 さらにもう一つ、日本であまり報じられていないニュースは、三浦にとって最も手強いライバル、81歳のネパール人ミン・バハドゥール・シェルチャンのエベレスト再挑戦だ。 2008年5月、三浦が75歳での登頂に成功する直前、76歳のシェルチャンが頂上を極め、「世界最高齢」の栄誉をかっさらった。 今回は、三浦のあとの挑戦だが、成功すれば三浦の栄冠はほんの短期間で再びシェルチャンのものになる。

 これは、三浦にとっても、日本の愛国者たちにとっても面白くない。 おそらく、日本でシェルチャンのニュースが多く伝えられない理由だろう。 だが、右翼メディア・産経はベースキャンプまで行って、こんな記事を送っていた。 

 「シェルチャン氏は17日、ベースキャンプで取材に応じ、1931年6月20日生まれの81歳と答えた。登山目的については『世界平和や核の根絶をベースキャンプに集まる登山者を通して訴えたい』と話した。
 しかし2008年、産経新聞の取材では、年齢が不自然に変更された経緯があったほか、頂上アタック時にはキャンプ1(標高6050メートル)以上での目撃情報がなく、登頂後、証明写真の提示もなかった。
 今回はヘリコプターでベースキャンプ入り。高所登山に必要な高度順化もしていないといい、『準備が急で登山費用が集められず、訓練もしていない』と話す。各登山隊からは登頂が可能なのか疑問視する声も上がる」

 シェルチャンは年齢をごまかし、登頂成功もウソだと臭わせている。 右翼の希望的観測で終らないことを祈る。 しかし、今回のシェルチャンの挑戦は、ネパール政府も100万ルピー(約110万円)の支援金を出すことを決めて応援している。 したがって、彼が成功したとき「インチキだ」と声を張り上げるのはネパール政府を敵に回すことになりかねない。 とりあえずは、静かに失敗を祈るのが得策だろう。

 (シェルチャンは5月28日、体調不良で登頂を断念したという”朗報”が伝えられた。 多くの日本人はほっとしたことだろう)

 三浦の成功は、おそらくスポンサーから提供された莫大な資金と大人数の支援によるものだ。 三浦は登ったのではなく、運び上げられただけだったのかもしれない。 そうだとすれば、本来の登山とは異質のものだ。 検証しなくてはいけない。

 騒がれすぎる三浦の”成功”、その前後の無視された二つの挑戦。 このイビツさはどこから来るのか。

2013年5月20日月曜日

Mampoholic Ⅱ ― 縄文ビーチを歩く

http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/arc/kantoplain/


  トルコやイラン、イラク内陸部に多く住む少数民族クルド人の地域には海がない。 彼らに冗談めかして「水泳を知らないだろ?」と訊いたら、即座に「もちろん泳げる」と笑って答えた。 その理由は、旧約聖書に出てくる「ノアの箱舟」だった。 箱舟は大洪水に押し流され、現在のトルコ北東部、アララト山にたどり着いた。 この山はクルド人の霊峰でもある。 クルド人は大洪水を生き残ったのだから、当然泳げるというわけだ。

 同じ冗談を海なし県の栃木県出身者に言うときは気をつけたほうがいい。 ひがみっぽい県民性の彼らは冗談を理解しないで、顔をひきつらせるかもしれない。 クルド人のように心が広ければ、「もちろん泳げる。 縄文時代には栃木県にも海があったんだ」とやり返すのだが。

 縄文時代、地球が温暖化し、氷が解けて海の水位が現在よりかなり上がり、今の東京は広い範囲が水没し、東京湾は栃木県にまで達したとされる。 

 「縄文海進」と呼ばれ、水位がピークに達したのは6500年前とされる。 その水位については諸説あるが、東京では現在の海抜10メートル前後のあたりだと思えば、専門家ではない一般人の理解には十分らしい。

 そこで思い立った。 東京の縄文時代ビーチラインを歩いて見ようと。

 きっかけは万歩計の衝動買い。 安いけれど品のないドンキの店内に、何気なく足を踏み込んで買ってしまった。 以来、万歩計を持たないと歩けないmampoholic と化した。 だが、ただ歩くだけでは面白くないので、「玉川八十八ヶ所霊場」というのをみつけ、巡り始めた。 大田区、世田谷区、川崎市などに点在する真言宗の寺巡りだが、所詮そこいら辺のありきたりの寺、八十八のうち三十を回ったところでうんざりしてきた。 信仰心のかけらもないのだから、想定内の成り行きだったと言えなくもない。

 そして、たどりついたのが「縄文ビーチ踏破」だった。 

 すぐに手ごろな地図が手に入った。 大田区が発行した「大田区津波ハザードマップ」。 この裏面には、なんと、「縄文ビーチ踏破」のために作ってくれたのではないかと感激したくなる地図が多色刷りできれいに印刷されていた。 「大田区標高図」と題し、海抜10メートルのラインが非常にわかりやすく描かれている。 しかもタダ。 

 海抜10メートルを目安にすると、あの有名な大森貝塚が海っぺりにあったことが地図からよくわかる。 6500年前、蒲田駅も東急多摩川線、JR、京浜急行も海の中。

 とりあえず、東急多摩川線下丸子駅から、その北側の環状8号線を渡り、やっと海中から這い出して、大田区鵜の木特別出張所付近から東急池上線千鳥町駅方面へ海岸線を歩く。 明らかに、左側の土地は、平坦な右側より高くなっていて、斜面に家々が建っている。 6500年前なら、目の前に海が広がり景色が良かったことだろう。 

 池上線の線路にぶつかる手前に、フラダンス教室があった。 これには、つい笑ってしまった。 6500年前なら、波打ち際でフラダンスを踊れたのに。 今では目の前を電車が走る。

 道端で顔をあわせたおばあさんに、大昔はこのあたりが海だったことを知っているかきいてみた。 「ちっとも知らなかった」と驚いていたが、近くに松林があるけれど「あれは浜辺のあとかねえ」とトンチンカンなことを言った。 「違うよ、バアサン、6500年前のことだよ」と一応は説明した。 だが、縄文杉などというのが屋久島にあるのだから、縄文松があってもおかしくないなあ、という気もしてきた。

 万歩計でタイムスリップするお散歩は悪くない。 それにしても、この海抜10メートル・ラインより上は、田園調布をはじめ上流の住宅街で知られているが、海底だった広い一帯は、小さな町工場が目立ち、低所得の住民が多いのはなぜか。 土地の価値が6500年も前に決められてしまっていたという運命論は受け入れたくない。

2013年5月8日水曜日

”mampoholic” を知っているかい?

(2013年5月1日初の二万歩達成)

(2013年5月6日記録更新)

(2013年5月8日またもや更新)
今年1月に大病をして緊急手術、2週間余りの入院。 退院したとき、体力の衰えは重々承知していた。 だが、外を歩いてみて、腰がまがって杖をついている老女よりも遅く、200メートルほどで足腰の筋肉が限界に達してしまったのは、さすがにショックだった。

 新たな病気は、ここから始まった。 体力回復のために毎日欠かさずにウォーキングをするようになったのがいけなかった。 少し元気になると遠出をしたくなってきた。 そして、街を歩いていて、何気なく万歩計を目にして買ってしまった。 自分はアスリートとうぬぼれ、万歩計などというものは、年寄りのオモチャと見下していただけに、持っているのを友人に見られるのは当初恥ずかしくもあった。

 だが、瞬く間に「万歩計の魔力」に引き寄せられてしまっていた。  1日の歩数が気になって仕方なくなってきたのだ。 少しでも歩数を増やしたいと思っているから、近所への買い物など、ほんの短時間の外出でも万歩計を置き忘れると、ひどく損をした気分になる。 

 こうなってくると、もはや中毒だ。 万歩計を肌身離さず持っていないと落ち着かない。 煙草と同じだ。 それでも、おかげで体力は順調に回復していった。 

 だが、同時に、「万歩計中毒」はさらに昂進していった。 いったい、1日の歩数の限度はどのくらいなのだろうと思ったとたん、挑戦を開始していた。 酒飲みが自分の酒量を試すのと似たようなものだ。

 やってみると、1.5万歩はどうということはない。 2万歩もすぐに到達できた。 現在の記録は2.5万歩余り。 果たして、万歩計の日本記録みたいなものはあるのだろうか。 

 歩数記録を伸ばすには、もちろん体力が必要だが、それよりも重要なのはヒマと時間だろう。 おおざっぱに数えてみると、1時間で6,000歩。 つまり、3万歩を達成するには、休みなしで5時間。 食事や休憩を含め6,7時間とすれば余裕を持って達成可能だ。 

 山登りに行く交通費もないヒマな貧乏人には、きっと面白い挑戦だろう。 ほんの1ヶ月前なのに、万歩計なしで、のんびり散歩していた中毒前の自分の姿が遠い昔のことのように思える。

 (<mampoholic>とは、万歩計を持たずに歩くと情緒不安定になる万歩計依存症を意味する新語.。 「マンポホーリック」と発音する。 生まれたばかりの単語で、まだ辞書には掲載されていない)

2013年5月7日火曜日

イスタンブールより愛をこめて



 いわゆる知識人が事情通と称してテレビに登場し、日本で注目されている社会問題などについてコメントする。 医療や老人介護、あるいは交通渋滞、役人の汚職等々、テーマは様々。 よくある発言は、”進んだ外国”との比較だ。 「外国と比べると日本は遅れてますねえ」といった類のコメント。 しかし、その「外国」がどこを指すのか具体的には言及しない。 なぜなら、彼らは、そんなことは自明の理で、いちいち説明する必要はないと思っているからだ。 

 彼らの言う「外国」は、欧米諸国だけなのだ。 だが、ヨーロッパでも貧しいラトビアとかルーマニアとかマケドニアなどという国は念頭にない。 それどころか、アジアのアフガニスタン、バングラデシュ、ラオス、あるいは、アフリカのザンビア、ソマリア、チャドなどといった世界の最貧国の存在などは、完全に無視している。 こういう概念は明らかに、国家に対する差別だ。 脱亜入欧の近代化でアジア諸国を無視してダイニッポン支配を確立しようとした日本でも、こういう概念の持ち主は少しずつ減りつつある。 やがては絶滅危惧種になるであろう。 だが、いまだに、かなりの個体数が棲息しているのも事実だ。

 最近、その一人が俄然注目を集めた。 東京都知事・猪瀬直樹。 2020年夏季オリンピックに立候補した東京のライバル都市イスタンブールについて、ニューヨーク・タイムズとのインタビューで、「イスラム諸国は互いに争いばかりしている」「トルコの人たちが長生きしたければ、日本のような文化を作るべきだ」と発言した。 ライバルへの批判というより、もはや侮辱だ。 国際オリンピック委員会は、他の立候補都市の批判を禁じる行動規範に違反するとして問題視した。

 報道によると、猪瀬はさる1月に東京オリンピック開催計画を記者発表した席でも、「途上国は先進国のモデルを追いかけていればいい」と、トルコを侮蔑したと受け取られかねない発言をしていた。 猪瀬という人物には、先進国の「上から目線」で途上国を見下す本性がある。 

 今回の猪瀬発言騒ぎを、単なる「舌禍事件」ととらえてはいけない。 世界の人々が集う平和の祭典にまったくそぐわない差別主義者がオリンピックを開催しようとしていることが暴露されたのだ。 本来なら、東京は候補地という地位を剥奪されるべきであろう。

 それにしても、「イスタンブール開催」を一貫して支持してきたThe Yesterday's Paper にとっては、青天の霹靂と言える猪瀬発言だった。 これで東京開催の可能性はこれまで以上に萎み、イスタンブールの地歩がさらに固まったからだ。

 猪瀬発言後にトルコを訪問した日本の首相・安部は、トルコの首相エルドアンに、侮辱発言を取り繕うような言い訳がましいことをしゃべった。 エルドアンは、いつもの生真面目な表情を崩さず、内心ほくそえんでいた。 「ありがとう、これで2020年はイスタンブールで決まりだ」。 
 

2013年5月5日日曜日

富士山は凄い!!!!

(2013年5月3日山中湖で撮影した”逆さま富士”)
  富士山の雄大な円錐形には、誰でも惚れ惚れとしてしまう。 日本人にとって、富士山が特別なものなのは間違いない。 富士山抜きの日本および日本人のイメージを、日本人は想像できない。 ゴールデンウィークの交通渋滞をくぐり抜け、山中湖に行って富士山を見上げたとき、つくづくと思った。 「世界文化遺産」に登録されることが決まった直後だった。 日本文化が富士山抜きに語れないなら、これは当然の決定だ。

 だが、富士山周辺の交通渋滞、観光客目当てのけばけばしい店舗の林立、自衛隊の広大な演習場で響き渡る砲撃の爆発音などを目の当たりにすると、一時は「世界自然遺産」への登録を、誰かが大真面目に目指していたというのは、あきれるばかりの身の程知らずだったことがよくわかる。 日常的には、ここは、あくまでも手軽に楽しめる行楽地なのだ。 

 それにしても、「世界文化遺産」は納得できるにしても、本当にそれだけでいいのか。 「世界遺産」は、「自然遺産」、「文化遺産」、そして、自然と文化を兼ね備えた「複合遺産」の3種類がよく知られているが、もう一つ、第4の遺産がある。 「危機遺産」(World Heritage in Danger)だ。 

 「世界遺産」制度発足の歴史を遡ると、1960年にエジプト政府がナイル川流域で開始したアスワン・ハイ・ダム建設が決定的影響を及ぼした。 このダムが完成した場合、古代エジプトのヌビア遺跡が水没する。 このため、ユネスコが、ヌビア遺跡救済キャンペーンを開始し、遺跡内のアブ・シンベル神殿の移築が実現した。

 こうした成り立ちの歴史からして、「世界遺産」で最も重視されるのは、崩壊や喪失の危険にさらされている「危機遺産」なのだ。 

 だとすると、富士山はどうなのか。 富士山噴火は将来確実に起きるとされている。 そのとき、山の形が爆発で完全に変形するのか、円錐形が多少いびつになるだけなのか。 日本人の心の支えが牙を剥き、大量の火山灰がこの国の将来を暗黒世界に塗りつぶす可能性も否定できない。 

 富士山は、実は、文字通り「危機遺産」ではないのか。 

 それだけではない。 富士山は、他の範疇の候補にもなりうる。 それは、「自然遺産」を諦めた理由をそのまま申請理由にできる。 「負の世界遺産」だ。 人類が犯した悲惨な歴史を伝えようとするもので、奴隷貿易の拠点になったセネガルのゴレ島、ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したポーランドのアウシュビッツ、広島の原爆ドームなどが入っている。

 富士山とは、日本人の精神的象徴がいかにして汚されてきたかという歴史でもある。 まるで日本の歴史そのものではないか。 富士山は本当に凄い。

2013年4月23日火曜日

2人のタメルラン―英雄とテロリスト

タメルラン(ティムール)のリトグラフ(サマルカンドで25USドル)

 14世紀後半、日本では室町時代、足利政権が安定期に入ろうとしていた。 そのころ、ユーラシアのど真ん中、中央アジアの古都サマルカンドでは、チンギスハンが樹立したモンゴル帝国が消えたあとに、一人の英雄による新たな帝国が誕生していた。

 モンゴル人とこの地のトルコ系先住民族の血を引くティムール。 草原を馬で駆け巡る盗賊という出自だったが、その卓越した指導力で影響力を拡大し、ついにモンゴル帝国の後継とも言える広大な版図を支配することになった。 

 ティムールの廟は今もサマルカンドにあり、訪れる人が絶えない。 1941年6月21日午前6時、ソ連の世界的科学者ミハイル・ゲラシモフが、調査のためにティムールの墓を掘り起こした。 地元の人々は、崇拝する英雄の墓が暴かれれば、絶対に不吉なことが起きると調査を見守っていた。 そして、それは本当に起きた。 調査からまもなく、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦でソ連への侵攻を開始したのだ。

 ティムールは「タメルラン」とも呼ばれた。 ティムールは戦闘で負傷し、右足を引きずって歩いていた。 このため、「びっこのティムール」、ペルシャ語で「ティムーリ・ラン」、このペルシャ語がなまって「タメルラン」となった。

 2013年4月15日、ボストン・マラソンのゴール地点近くで起きた爆弾テロ。 犯人は、ロシア南部の民族チェチェン系の若い兄弟で、逃走中に射殺された兄の名前も、「タメルラン」だった。 

 おかげで新しいことを知った。 今に受け継がれる英雄にちなんだ「タメルラン」という名前は、西欧人にとっての「アレクサンダー」みたいな名前だったのだ。  

 それにしても、ソ連時代に、ティムールは残虐な抑圧者、古臭い封建社会の象徴とみなされ、英雄崇拝は否定されていた。 その時代、生まれた子どもに「タメルラン」と名付けることは、自分が反ソ連だと告白するようなものだったのではないのか。 危険すぎる命名ではなかったのか。

 中央アジアから来ている東京駐在外交官にきいてみた。 彼によると、「タメルラン」という名前は「ティムール」とともに、ソ連時代から珍しくない名前だったという。 確かに、殺されたボストンの「タメルラン」はソ連崩壊前の1986年生まれだった。 この年、ゴルバチョフがペレストロイカを提唱し、アフガニスタンからのソ連軍撤退を表明したが、ソ連はまだ堂々たる超大国だった。

 ソ連時代、中央アジアやカフカスの民族主義は徹底的に押さえ込まれた。 とくに、命知らずの抵抗を続けたチェチェン人は大量虐殺の標的にもなった。 それにもかかわらず、中央アジアという土地と文化を象徴する「タメルラン(=ティムール)」への崇拝の念を失わず、彼らはアイデンティティを頑なに守って生き続けた。 「タメルラン」という名前は、だから残った。 ソ連当局も名前の否定まではできなかったのだろう。

 ボストン・マラソンでのテロ行為は正気のさたではない。 同情の余地のない狂気の犯行だ。 だが、「タメルラン」という名前の背後にある歴史を無視することもできない。 チェチェン人たちは、ロシア革命から第2次世界大戦、そしてソ連崩壊後も、その頑固なまでの自立心ゆえに国家への忠誠を疑われて住む土地を追われ、流浪と離散の歴史をたどってきた。

 おそらく中央アジアのどこの国に行ってもチェチェン人に会うことができる。 彼らは旧ソ連の中だけではなく、中東のヨルダンやレバノン、トルコにも散っている。

 ボストンで犯行に及んだ兄弟に組織的な背後関係があろうがなかろうが、 彼らが生きる現実がチェチェンの若者を過激行動に引き寄せる。 アルカーイダに多くのチェチェン人が加わっているのは当然すぎることなのだ。


ボストン・テロ犯として殺害されたタメルラン・ツァルナエフ

2013年4月15日月曜日

男の料理<さくらもち>

(切り餅を2枚にする)
(塩漬けのさくらの葉を広げる)
(2枚の餅を適当な柔らかさになるまで焼いて葉にのせる)
(餅の上にたっぷりと餡をのせる)

(2枚の餅を合わせ、手作り<さくらもち>の完成)

  さくらが散って花見客の姿が消え、人の気配がなくなった葉桜の夜。 いよいよ収穫が始まる。 さくらの葉っぱを千切る輩など見たことはない。 それでも、花をむしるような罪悪感はないにしても、多少は犯罪者の気分になる。 良心との葛藤の結果、50枚ほどいただいて闇夜に消えた。

 さくらの葉は軽く水洗いし、鍋の熱湯で香りが湧き立つまで、ほんの束の間煮て引き揚げる。 湯は緑色になり香りが広がる。 この湯に塩を加え、底の浅い容器に並べた葉がひたひたになるくらい注ぐ。熱がさめたら冷蔵庫に入れて2,3日。

 さくらもちの作り方は、画像の通り。 さくらの葉っぱのあんころ餅サンドといったところだが、味は、ちゃんとしたさくらもち。 餡と餅は100円ショップで買ってきた。

 この塩漬けさくら葉、チーズに巻いて酒のつまみにするとか、握り飯に巻いて食べるとか、工夫次第で多様な味を楽しめる。 まだ試していないが、天ぷらもいいかもしれない。  


2013年4月5日金曜日

やはりイスタンブールがいい



 2020年オリンピック開催都市の最有力は、どうやら東京ではなくイスタンブールのようだ。 五輪招致オフィシャルパートナー読売新聞の記者で、日本のスポーツ・ジャーナリストとしては一流の結城和香子が4月5日付け解説面で、それを濃厚に臭わせる記事を書いているからだ。 読売が、勝ち目のない東京五輪開催というギャンブルからの撤退準備を始めたようにも受け取れる。

 <五輪が社会発展の触媒となれば、それは五輪開催の意義を証明し、さらに多くの都市の立候補を呼ぶ。 国民には、日本で1964年東京五輪が記憶されるように、世代を超えた印象や憧れを残すことにもつながるからだ。 イスタンブールは今回、戦略的な巧みさで、このIOCの「時の長さ」の視点を利用した。 ... (IOC視察)期間中には「ともに橋を懸けよう」というスローガンを公表。 欧州とアジア大陸での同時開催というテーマ性、イスラムを含む多様な文化・信条をつなぐ懸け橋となる意義を強調した。 ... (渋滞や効率やタクシー運転手のお行儀など)現在の課題については改善の能力と自信を誇示し、大会の主題としては未来に向けた変化そのものを掲げて見せた。 ... 翻って、東京はどうだろう。 「今」の質の高さと開催能力をアピールするあまり、「未来」へのテーマ性や可能性を示しきれていない>

 こんなことは今わかったわけではない。 東京でオリンピックを開催すれば、スムーズな運営で過不足ない大会になるだろう。 開会式や閉会式は、ハイテクを駆使した魅力的なショーになるに違いない。 しかし、だからどうだというのだ。 東京で日本人がオリンピックをやれば、こんなものだろうと、世界中が納得するだけの話ではないか。 意外性、時代を反映する歴史的意味は考えようもない。

 東京の退屈さと比べれば、イスタンブールは魅力に溢れている。 このブログが強く主張してきた点だ。(2013年2月12日付け「2020オリンピックはイスタンブールでhttp://theyesterdayspaper.blogspot.jp/2013/02/2020.html)

 国家主義者や右翼が目論む東京オリンピック開催の阻止までは、気を緩めることはできない。 だが、明るい兆候は見えている。 さあ、みんな、もう一息だ。 がんばって東京オリンピック開催に背を向けよう。

2013年4月4日木曜日

福本豊という生き方



 きのうの夜、久しぶりに読売新聞の記者たちとヤキトリ屋で飲んだとき話題にのぼったのは、長嶋茂雄と松井秀喜への国民栄誉賞授賞ニュースだった。

 ウエブ上では、「戦後プロ野球の大発展に貢献した長嶋の受賞はわかるが、松井には重みが足りない」といったコメントが飛び交っている。 さらには、「それにしても、なぜ、この時機に?」という疑問、「間近にせまった参院選での票稼ぎ」といった批判も目に付く。 ところが、新聞は、巨人軍の親会社・読売だけでなく朝日も毎日も、批判をまともに取り上げず、2人の受賞を喜んでご祝儀紙面を作っている。 大新聞は、安部・自民党政権と一心同体になっているかのようにすらみえる。 少しは距離を置き、今回の国民栄誉賞の意味を冷静に分析すべきではないか。

 国民栄誉賞授賞には、つねに、時の政権の政治的目論見がちらつく胡散臭さが漂う。 だから、こんな賞は受け取らないのが一番だ。 そう考えると、すぐに思い浮かぶのが、この男。 プロ野球・元阪急ブレーブスの盗塁王・福本豊。 飄々とした生き様を振り返ってみよう(以下、Wikipediaより)。

 福本は、地元大阪の大鉄高等学校時代、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて、球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き、内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回、福本が守るライトの前に落ちたポテンヒットによりサヨナラ負けを喫した。

 卒業後は社会人野球の松下電器に進む。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し、優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスに7位指名を受けた。南海ホークスも早くから福本の俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

 プロ入りのきっかけは、松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。スカウトが来ている試合で、本塁打を打ったり、好返球をしたりするプレーが認められた。更にスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」と、またも勘違いされ、これも指名される要因になった。

 本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝、会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことって、お前、指名されとるがな」と返され、初めて知った。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から、肉料理をご馳走され、「プロなったら、こんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに、何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

 入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ、職場を退職した。だが、福本の妻は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らず、福本も妻に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため妻は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知った。

 プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだった。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

 1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年にMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)を破るシーズン106盗塁の世界記録で日本プロ野球史上唯一の3桁を達成した。チームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」と固辞した。ただし、地元大阪の感動大阪大賞は受け取っている。

 1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。

2013年3月28日木曜日

地下に潜った東横線渋谷駅



  2013年3月16日、東横線渋谷駅が地上から消え、地下5階へ引っ越した。 幼いときから渋谷に馴染んでいた団塊世代のオヤジが言った。 「今さら寂しいなんてことがあるわけがない。 オレの知っている渋谷なんて、とうの昔に消えてしまったよ」

 ダンス教室とボクシングジムは、どうして昔から駅の近くの電車の轟音が響くような線路際にあるんだろうね。 オレの記憶にあるのは、東横線の学芸大学駅そばにある笹崎ジムだよ。 「槍の笹崎」と呼ばれた名ボクサーが開いたジムで、のちのファイティング原田はここで育った。 東横線がまだ地上を走っていたころで、ちょうどジムの前あたりで線路の柵によじ登って電車が通るのを飽きることなく眺めていたものだ。

 小さいころの特別の楽しみは、なんと言っても、母親に連れられて渋谷に行って、東横百貨店最上階の食堂で食事をすることだったなあ。 何を食ったかは記憶にないが、たまの贅沢であったのは間違いない。 食事のあとは屋上に行って、下を通る長い貨物列車の台数を数えるのが楽しみだった。 冬の列車はどこか遠くから雪をたっぷりと屋根に積んできていた。 東京では雪はたまにしか降らない。 あんなに雪が降るのは、一体どこだろうかと想像をたくましくしたもんだよ。

 今の道玄坂横にある「109」のあたりは、戦後闇市の名残りが漂う、ちっぽけな店がひしめいていた。 中学に入るとき、母親は渋谷で学生服を買ってくれたが、東横百貨店ではなかった。 道玄坂の狭い路地を入ったあたりの店に行って、息子の前で懸命の値切り交渉をしていたのを憶えている。

 ヤクザの安藤組の名を耳にしたのは、いつのころだろうか。 インテリ・ヤクザで映画俳優にまでなった安藤昇が渋谷を根城に仕切っていた暴力団だ。 小学生のころは、友だちが、渋谷駅の構内で刃物を振り回して血まみれになって喧嘩する光景を見たという話をよく訊いた。 きっと、尾ひれを付けて面白がらせていたんだろうけど。

 そのころは、玉電沿線に住んでいたが、あれはひどい路面電車だった。いつも混んでいてノロノロ走る。 当時、「東急電鉄」の英語略称は「TKK」だった。 沿線のおとなたちは「とても」「込んで」「困る」の頭文字だと揶揄していたし、そのころのワンマン経営者・五島慶太は「ごとう」ではなく「強盗」と呼ばれていた。

 百軒店通りの淫靡な雰囲気も忘れがたい記憶だなあ。 子どもには入りづらかった。 テアトルSSなんていうストリップ劇場みたいのがあったし、あの通りの奥の方には怪しげなホテルもあって、子どもには何が悪いのかわからなかったけれど、とにかく行ってはいけないところという不文律みたいなものがあったと思う。

 インフルエンザというのは、昔、「流感」と言っていたのと同じかなあ。 中学時代は流感で臨時休校になると、渋谷へ映画を見に行った。 補導教師風のおとなに注意して、スリルを楽しみながら映画館にたどり着いたときの達成感はたまらなかった。

 大学のころは、新宿とか日比谷あたりの反日米安保、反ベトナム戦争のデモに行って、機動隊に追われたあと、渋谷まで逃げて、山手線沿いののんべえ横丁とか井の頭線下の安酒場で酒盛りをしたもんだ。 今になってみると、あの不味い合成酒の味と臭いが懐かしいねえ。

 無論、渋谷で恋も失恋もした。 渋谷周辺で生まれ育った団塊世代は、課外授業の多くを渋谷で受けて成長してきたんだと思う。 あの街で世の中の仕組みみたいなものを自然に学んできたんだろうね。 だが、今の渋谷は、あのころの渋谷とは別ものだ。 いつの間にか、われわれが親しんだ渋谷は消えてしまった。

 いったい、いつごろからだろう。 気が付いたら子ども向けの幼稚な人工的テーマパークみたいになっていた。  だから、オレたちは、とっくの昔に渋谷にサヨナラを言っていた。 東横線の駅が地下に潜って変わったという渋谷は、オレたちの言う渋谷でもなんでもない。 知らない国の知らない街の出来事なんだよ。

2013年3月19日火曜日

あれから2年

(2012年5月12日・福島県南相馬市鹿島区北海老で)


<2011年3月下旬 ニューヨーク・タイムズ東京支局長マーティン・ファクラー>

  南相馬市役所へは、事前のアポイントを取らずに向かった。 役所に着くなり、職員から「ジャーナリストが来たぞ! どうぞどうぞ中へ」と大歓迎され、 桜井市長自らが「よく来てくれました」と迎え入れてくれた。 なぜ、こんなに喜んでくれるのか、最初はよくわからなかったのだが、市役所内の記者クラブを見せてもらってすべてが氷解した。 南相馬市の窮状を世のなかに伝えるべき日本人の記者はすでに全員避難して、誰ひとりいなかったのだ。

 南相馬市から逃げ出した日本の記者に対して、桜井市長は激しく憤っていた。

 「日本のジャーナリズムは全然駄目ですよ! 彼らはみんな逃げてしまった!」

 市役所は海岸からだいぶ離れた場所にあり、津波の被害はまったく受けていなかった。 だが、日本人記者たちは、福島第一原発が爆発したことに恐れおののいて全員揃って逃げていまったという。 もしかしたら会社の命令により、被曝の危険がある地域から退避を命じられたのかもしれない。

 メディアを使って情報を発信する手段を失った桜井市長は、ユーチューブという新しいメディアを利用することにした。 記者やカメラマンの手を借りることなく、自らがニュースの発信者としてチャンネルを開いたのだ。

 ユーチューブの映像は世界を駆けめぐり、ニューヨーク・タイムズの記者である私が突然アポイントなしで取材に訪れた。 新メディアであるユーチューブの映像を追いかける形で、紙の新聞であるニューヨーク・タイムズが桜井市長の声を報じた。 

 その後、日本の新聞やテレビ局はユーチューブを引用する形で桜井市長の声を報道しだした。 記者クラブ詰めの記者がわれ先に逃げ出してしまったことには蓋をして、南相馬市のニュースを伝える報道機関の姿は、私には悪い冗談にしか思えなかった。

(「本当のこと」を伝えない日本の新聞<双葉社>より)

2013年3月2日土曜日

自由が丘のタイ料理屋で

(台北の屋台で)
  何年か前、日本外務省が、正統の日本料理を世界に普及させるために、調理基準を作って各国で指導しようという計画を作った。 日本料理が国際的になるにつれ、日本人の伝統的感覚からすれば奇妙きてれつな料理も登場してきたからだ。 当時、日本メディアはさしたる関心を示さず、事実だけを淡々と報じた。 だが、ヨーロッパや米国の東京特派員たちは、たっぷりと皮肉のスパイスで味付けした記事を書いた。

 彼らが外務省計画にカチンときたのは、「他人が食っているものに口出しするな、余計なお世話だ」というところにつきる。

 アメリカ人記者は、自分たちの味覚音痴は棚に上げて、外務省の上から目線の”規制”を”food police”と揶揄し、 サンドウィッチが誕生したイギリスの記者は、「外務省が決めた味付け以外は日本料理じゃないと言うなら、われわれはサンドウィッチにポテトサラダを挟むのを許さない」とコラムでからかった。 どうやら、日本では当たり前のポテトサラダ入りサンドウィッチがイギリス人には非常に奇異にみえるらしい。 こういった反発があったせいか、外務省計画はいつのまにか立ち消えになった。

 世界中に広まっている中国料理は、国によって味に大きな違いがある。 それぞれの国の伝統の味や食材と混じりあい、独自の中国料理へと「進化」していくためだ。 だから、美食の街パリであろうと、日本人が「chinese restaurant」の看板を見て入った店で、「これが中華かよ!」と顔をしかめてしまうことがあるのも当然なのだ。

 1991年2月、中東ヨルダンの首都アンマンのインターコンティネンタル・ホテル近くにある小さな中国レストランで奇妙なことが起きた。 日本人からすれば食えた代物ではなかった料理の味が、日々どんどん変化し、日本のラーメン屋で出てくる一品料理、野菜炒めとか麻婆豆腐などに非常に近い味になった。 

 「進化の突然変異」を実現したのは、煎じ詰めれば、ヨルダンの隣国イラクのあの独裁者サダム・フセインだった。 サダムのクウェート侵攻で米国を中心とする多国籍軍とイラクとの戦争が始まった。 外国人記者たちの報道拠点となったインターコンには多数の日本人記者も集結した。 日本人たちはホテル近くの中国料理屋で昼飯を食べるようになったが、味が物足りない。 そこで、誰もが料理人に一言注文をつけるようになった。 一人が一回一言でも、数十人いたから注文の蓄積は膨大だ。 中には調理場まで、ずかずかと入り込んで指導する猛者まで現れた。 「突然変異」は、こうして起きた。

 ただ、これも心優しいヨルダン人ゆえに可能になったのだと思う。 同じ中東でもパレスチナ人の土地を強引に奪い取ってイスラエル国家を作ってしまったユダヤ人では、こうはいかない。

 日本料理の世界的ブームはイスラエルにも到達し、エルサレムやテルアビブにも日本レストランが開店した。 だが、案の定、ひどい味だった。 友達の日本人は「ホンモノの日本料理とはちょっと違うなあ」とイスラエル人店主にコメントした。 これに対する反応は、周囲に敵を作ってでも生きていこうとするイスラエル人そのものだった。

 「われわれは、あんたたち日本人を相手に商売しているわけではない。 イスラエル人の客が喜ぶ味を出している。 日本人に合わなくてもイスラエル人が旨いと言えばいいんだ」

 正論ではあろう。 日本の街の食堂でカレーライスを注文したインド人が「これはインド料理ではない」と文句をつけても、日本人が味を変えないのと同じ理屈だ。 

 きのうの夜(2013年2月28日)、 東京・自由が丘で人気のタイ料理レストランへ数年ぶりに行った。 かつてタイに住んでいた経験からして、この店の味は限りなく本場の味に近いと思った。 ここで食事をしていると、バンコクにいるような気分になれた。 だが、いつも混んでいるのでテーブルをなかなか取ることができない。 それで何年も行きそこなってしまった。 昨晩は、わざわざ予約をして行ったのだ。

 この店は、若い女の客が90%以上を占め、みんな幸せそうに食事を楽しんでいる。 まずは、大好きなタイ風さつま揚げ「トートマン」を前菜替わりに注文した。 トートマンは、魚かエビのすり身に辛い味付けをし油で揚げたものだ。 この店ではエビを使っていた。 タイでは庶民的な食べ物で道端の屋台でも売っている。 

 われわれはワインを飲みながらトートマンが出てくるのを待っていた。 だが、ウエイトレスが持ってきた皿を見て驚かされた。 タイで誰もが知っているトートマンとは似ても似つかない食べ物が出てきたからだ。 それは、パン粉をつけて揚げたメンチカツみたいなものだった。 トートマンは素揚げが普通だ。 恐る恐る味見してみると、不味くはないが、辛みも独特の匂いもなく、本来のトートマンとは異なる別の食べ物だった。 日本に初めて来たインド人が日本のカレーライスをインド料理だと言われて食べた印象が、きっとこんなものだったに違いない。

 この店の以前の味を知っているだけに、あまりに見事な味の日本化に唖然とさせられた。 がっかりして、すぐに出ることにした。 ただ、若いウエイトレスは、とても率直だった。 シェフは前と同じようにタイ人だが、料理の味は客の好みに合わせて変えたそうだ。 「前の味の方が良かったですか? 上の人に言っておきますよ」。

 それにしても、タイ人料理人の環境への器用な適応ぶりは、なんとも凄い。 タイ料理ではないタイ料理を言われるままに、それなりの味にして作ってしまうのだから。

 いったい、旨い料理とは何だろう。 アメリカ人が発明したカリフォルニア巻きなどという寿司を日本人は小ばかにしていたが、いつのまにか日本の寿司屋の定番メニューになってしまった。 そのうち、バンコクでも、日本生まれのメンチカツみたいなトートマンをタイ人が喜んで食べるようになるかもしれない。

 きっと、どんなに不味い料理でも、にこにこして食べるのが、これからの真の国際人の正しいマナーなのだ。 そうやって、じっと我慢していると、味がまた変わってくる。 

 その例がアメリカにある。 メキシコ料理のタコスはアメリカに広まって典型的ジャンクフードになった。 しかも、ひどい不味さ。 メキシコ文化に対する侮辱以外のなにものでもない。 味覚音痴のアメリカ人は、料理の量は認識できても味はわからない。 ところが、近ごろ、アメリカのタコスが大きな変化を遂げ、食える代物になっている。 それどころか、本場にも負けない味の店も増えている。 その理由は、メキシコからの移民が急増したことだ。 彼らの味覚に対応するために、タコスは「メキシコ回帰」したのだ。

 が、それにしても、とりあえず、旨いトートマンを食える店を探さなければ。

2013年2月21日木曜日

警官がマージャンやって何が悪い!!



 最近、愛知県の交番で、警察官が勤務中に賭けマージャンをしていたというニュースが新聞やテレビで報じられた。 以下は、その内容(サンスポより)。

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 愛知県警関係者によると、同県警の巡査部長ら複数人が1月に豊田市美里にある豊田署御立(みたち)交番の一室で、現金を賭けてマージャン賭博をした疑いが持たれている。巡査部長らは「現金は賭けていない」と否認しているという。

 巡査部長らは全員が交代制の交番勤務員で、3日に1度、8時間の休憩を含めて24時間の勤務に就いていた。御立交番には通常2、3人しか常勤者はいないが、マージャンをする際には近隣の交番から、別の署員らが合流していたとみられている。いずれも勤務中で、制服を着たままだったという。1日当たりの賭け金は、数千円だったようだ。

 県警では、署員らが常習的に賭けマージャンを繰り返していた可能性もあるとみて、関わった人数や賭けた金額などについて調べるとともに、関係した署員らの処分を検討している。

 別の署に勤務する警察官が交番に立ち寄った際、署員らがマージャンをしているのを見つけて発覚した。

 御立交番は豊田署管内に18ある交番の中では中規模で、豊田市中心部にあるものの、豊田市駅前交番などに比べると取り扱う事件などの件数が少ないという。
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 ニュース・メディアの報道ぶりは、「警察官が賭けマージャンをやるとはけしからん、しかも勤務時間中に」というところに集約される。 愛知県警は、関係した警察官の処分を検討しているという。

 なんとも違和感のあるニュースだ。 警察官のどこがいけないのか、さっぱりわからないからだ。

 第1に、このニュースを報じた記者たちは、勤務中に賭けマージャンなどやらない清廉潔白な社会の木鐸でもなんでもない。 

 さすがに近ごろは見られない光景になったが、事件記者と呼ばれる連中は、警察署の記者クラブで、事件、事故の発生に備えて待機している間、朝から晩までジャラジャラと大きな音をたてて賭けマージャンをやっていたものだ。

 古き良き時代だった。 警察署を訪れる一般市民もロビーで、その音を耳にしていたが、なにも問題は起きなかった。 記者とはヤクザな連中で、いつも斜に構えて権力の悪を暴こうと窺っているのが本来の姿だった。 若い交番オマワリの賭けマージャンなど歯牙にもかけなかった。 事件記者がこんなニュースを報じるようになったのは、時代がどんどん退屈になっていることを象徴しているのだろう。

 だが、第2に、なぜ警察官が勤務中に賭けマージャンをやっては、いけないのか。 日本社会の常識では、普通のおとながカネを賭けないマージャンをやる姿など想像できない。 警察官が記者たちと同じように、ひまつぶしにマージャンをやっていけないわけがない。 そして、彼らもおとなだ。マージャンをやれば、給料が安くても多少のカネは賭ける。

 しかも、彼らは健気ではないか。 マージャンをやっているときも制服を着ていたのだから。 110番通報があれば、直ちに飛び出せる態勢を整えていたのだ。 報道の中には、「制服を着ていたのがけしからん」というのがあったが、交番の中で勤務中に私服に着替えていたら、もっとおかしいし、いざというとき直ちに出動することなどできるわけがない。

 市民生活を命懸けで守る警察官が多少の息抜きをするくらい許そうではないか。 そんな寛容さが失われていく社会の方が、はるかに恐くはないか。

2013年2月19日火曜日

なんのための防衛駐在官増員



 1994年、当時のアルジェリアは内戦真っ盛りだった。 自由選挙でイスラム政党が第1党に躍進したが、軍はこの選挙結果を拒否し、軍事クーデターによる政権を樹立した。 これに反発したイスラム勢力が軍政打倒を目指し武装闘争を開始した。 

 イスラム勢力は、軍政の国際的信用を失墜させるために、アルジェリア国内で外国人を標的にしたテロを活発化させ、外国人ジャーナリストも標的となった。 武器は銃かナイフ。 首都アルジェの街で頻繁に襲われた。 それでもジャーナリストたちは、歴史の目撃者となるために、危険な通りを命懸けで歩いた。

  おそらく、ひどくかっこ悪い取材ぶりだった。 なにしろ、どこからゲリラが襲ってくるかわからないので、常に目をキョロキョロさせ、道路の建物側にからだをくっつけるように身を寄せ、なかば横這いで歩いていた。 日本の通信社のF記者は、この姿を「アルジェのカニ歩き」と言って、自分自身をからかっていた。 「フクチャン」の愛称でみんなに好かれていた彼は、アルジェでは無事だったが、のちに赴任した平和なニューヨークでストレスが溜まって死んでしまった。

 このアルジェリア内戦のころ、駐アルジェ日本大使館はどんな活動をしていたのか。 見事に何もしていなかった。 危険を理由に外出せず、大使館内にこもっていた。 致し方なく外出するときは、米国製の防弾車に乗り、武装警備員を同行させた。 

 ”ここは地の果てアルジェリア~~”  そのころ、かの古典的歌謡曲「カスバの女」は、大使館内のカラオケでは、誰もが歌いあき、聴きあきてしまったそうだ。

 もちろん、大使館の最重要任務である情報収集などできるわけがない。 したがって駐在する意味はまたくなかった。 唯一の情報収集活動と言えるものは、他国の大使館と横並びで出国するために、こそこそと様子をうかがうことだった。 日本を遠く離れても、日本の役人は日本の役人なのだ。

 2013年1月16日アルジェリアの天然ガス精製プラントをイスラム武装勢力が襲い、アルジェリア軍が逆襲した。 この事件で、人質にされた日本人10人が死亡した。

 この事件以降、日本では、とくに、国会や首相官邸周辺で、軍事情報の収集を充実させるために、大使館の防衛駐在官を増強すべきだという主張が強まっている。

 この主張の論理はよくわからないが、どうやら、大使館に軍事情報の収集・分析を専門とする防衛省出身の防衛駐在官を増やせば、今回のような事件が起きた場合、より正確な情報をより速やかに入手できるという考え方のようだ。

 もし、そうだとしたら、単純すぎる素人考えか、何を目的にしたかわからないが、嘘八百だと思う。

 なぜなら、第1に、防衛駐在官といえども、大使館勤務中は外務省支配下にあり、1人の外交官という身分になる。 つまり、危険な事態になっても大使の命令に従って、大使館内に籠もり、情報収集のために勝手に外出などしてはいけない。 

 第2に、防衛駐在官の普段の情報収集活動というのは、他の外交官と同じで、新聞やテレビなどのマスメディアが流すニュースを丹念に拾うことで、スパイ映画のように独自の情報源から秘密情報が流れてくるようなドラマティックな場面はほとんどない。 したがって、情報収集量を増やしたいなら、防衛省よりも海外勤務に慣れた外務省の職員を増やした方がいいかもしれない。

 第3に、防衛駐在官の最も重要な仕事は、他国の駐在武官たちと親密に付き合うことで、駐在官が独自情報と称している情報のほとんどは、武官コミュニティの中を伝言ゲームのように、ぐるぐる回っているものがほとんど全てと言っていい。 彼ら、military attache たちは、なぜか、どこの国に行っても親密なコミュニティを形成し、胸に勲章をぶらさげたパーティを頻繁に開く。 おそらく、そうやって、自分たちのレゾン・デートルを確認しあっているのだと思う。 

 ただ、防衛駐在官を含め、武官と呼ばれる人たちは、なぜか皆、人が良くて、心根が真っ直ぐで、概して酒も好きなので、つきあっていて楽しい。 だから、ここで武官の悪口を言う気など毛頭ない。

 問題は、何か、わけのわからない彼らに対する買いかぶりが、意図的に進行しているように思えることだ。 

 いったい、それは何なのだ。 政治的なたくらみが臭わないか。

2013年2月12日火曜日

2020オリンピックはイスタンブールで



 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著作「歴史」は、当時のギリシャ世界を記述したものだが、地理的には、黒海とエーゲ海を結ぶボスポラス海峡一帯に、かなりの重点を置いて描いている。 古代ギリシャ世界とは、実は現代のトルコのほとんどを含んでいることがわかる。

 古代ギリシャ時代、海峡の西がヨーロッパ、東がアジアと呼ばれるようになり、以来、この細長い海峡がヨーロッパとアジアの境界線となった。 この美しい水の景観を見下ろす都市はコンスタンティノープルと名付けられた。 じっくりと醸成された歴史をそのままに、やがてイスラムの風味が加えられ、現在の蠱惑的な街イスタンブールへと豊潤に熟していった。

 ボスポラスに面したオープン・レストランは夏がいい。 水を加えると透明な液体が白く濁るアニス酒「ラクー」のグラスにアイスキューブをひとかけら入れる。 爽やかなラクーの香り、それに、海峡で獲れた小さなカタクチイワシのフライ「ハムシ・タヴァ」。 レモンを絞る。 地中海からの海風がスパイスになって、ボスポラスの味を醸し出す。 そこには、数千年の歴史が詰まっている。

 海峡には、自動車専用の2本の吊り橋が架かっている。 毎年、秋の1日、クルマの通行が止められ、市民参加の「ユーラシア・マラソン大会」が開かれる。 名称のスケールの大きさがいい。 アジア側をスタートし、ボスポラス海峡を渡って、ヨーロッパ側にゴールする。 アジアからヨーロッパへ、ボスポラス海峡を見下ろし、自らの足で渡る感動がたまらない。

 この土地は、日本などというクニが誕生するずっと前から、世界をつなぐ十字路だった。 そして、おそらく今もそうだ。 発展するイスラム世界を代表するからだ。 9・11以降、異なる宗教・文化・人間が、互いにぎこちなさを感じるようになった。 イスタンブールは、長い年月にわたり、そういう差異を受け入れないにしても、認めあい、折り合いをつける歴史をつむいできた。

 今年、2020年オリンピックの開催都市が決まる。 東京もイスタンブールも立候補している(もうひとつの都市はマドリッド)。 この時代の世界、東京でオリンピックを開催しなければならない理由は意味不明だが、初のイスラム都市での開催となるイスタンブールには大いなる意味がある。 日本外務省によれば、トルコは非常に親日的な国だそうだ。 日本人もトルコを大好きだという。 そうであれば、日本人は東京など見捨て、イスタンブールでのオリンピック開催を、そろって応援しようではないか。

2013年2月8日金曜日

女子柔道へエールを送ろう



 日本人のどれだけの人々が本当に驚いているのだろうか。 実は、誰もが身近で見聞きし、知りすぎるほど知っていた醜悪な光景だ。 われわれ日本人には当たり前すぎたことが、なぜ突然、大きなニュースになったのだろうか。

 全日本女子柔道や大阪・桜宮高校バスケットボール部で明らかになった選手に対する指導者による暴力のことだ。 従来見て見ぬふりをされていたことが問題視されるようになったのは、明らかに、時代が変わったからだろう。

 かつては、「かつて」というのはどこまで遡るのか、よくわからないが、学校生活の中で、体育会系部活の暴力は、日本で生まれ育った日本人なら、誰でも日常茶飯事のこととして知っていた。 よほど度が過ぎなければ、黙認されていた。

 体育会系が幅を利かせた国士舘大学の学生は、東京・世田谷の三軒茶屋を支配する暴力団みたいなものだった。 警察だって黙認していた。 普通の女子学生が入学して普通の大学に見えるようになったのは、20世紀も終ろうとするころだった。

 日本のスポーツ選手が、無論、例外はあるが、おおむねバカにみえるのは、長いあいだ温存されていた異常で特殊な暴力支配世界に生き、自由な思考をする訓練をしてこなかったからであろう。 種目によって、バカさ加減、暴力度はかなり異なるが、ここではそこまで言及しない(それに、知性と教養のあるアスリートだって、もちろん存在する)。

 女子柔道選手たちが、指導者の暴力、ハラスメントを告発したのは、日本のスポーツ史上、革命的な出来事と言っていいだろう。 おそらく、告発された側は、まだ罪の意識を十分感じていない。 内心、告発を憎々しく思っているはずだ。

 柔道以外のスポーツ種目の団体・組織も反応はにぶい。 これをきっかけに、積極的に自ら内部浄化に乗り出すべきなのに、彼らは知らんぷりを決め込んでいるようにみえる。

 スポーツ団体幹部というのは、おおむね政治的には単細胞の保守派だ。 保守系政治家からすれば、こんなに操りやすい連中はいない。 大いに利用して、オリンピックを招致すれば、大喜びで言うことをきいてくれる。 国会議員にでもしてやれば有頂天になる。

 東京オリンピックというのは、こういうシステムの中で推進されている。 バカものたちにカネを使わせ、スターに祭り上げる茶番劇。 それによってナショナリズムを煽り、反動的保守支配を固めようとする政治的陰謀。

 女子柔道選手たちは、単に暴力を嫌悪しただけだったのかもしれない。 だが、彼女たちの意図にかかわらず、日本の支配体制の暗部を暴くという禁じ手を仕掛けることになったのだ。 この技は、一端仕掛けてしまうと禁じ手ではなくなってしまう可能性がある。 しかも大津波に育つ危険性を秘めている。

 スポーツ新聞や週刊誌のスキャンダラスな報道に引きづられてはいけない。 本質的問題から目をそらそうとする姑息な手口なのだ。

 注意深くみつめ、目をそらせないでいよう。

2013年1月11日金曜日

インドが牛肉輸出で世界一だって!!



 2013年1月6日付け読売新聞朝刊に、インドが2012年牛肉輸出で世界一になる見通しという記事が掲載されていた。 インドの人口の80%はヒンズー教徒で、牛を神聖な動物とみなし、殺生を忌避している。 インドを訪れた人にはお馴染みの光景だが、人や車が混雑した通りを牛が悠々と歩いている。 だから、たいていの外国人、おそらくインド人の多くも、インドが牛肉輸出世界一というニュースには、驚きと戸惑いを感じたに違いない。

 だが、「インド人が牛を殺さない」というのは、「イスラム教徒は酒を飲まない」「スイス人は誰でもスキーができる」「ロシア女は若いとき美人でも、年をとると必ずデブになる」「日本人はみんな空手が強い」「スウェーデンではフリーセックスが当たり前だ」「イタリアに行って男に声をかけられない女はいない」といった神話や思い込みの類いと同じらしい。

 ウェブで、長いインド経験のある日本人のブログをみつけた。 約6年前に掲載されたものだが、今回のニュースで感じた疑問にしっかり答えてくれる内容なので、長くなるが全文を引用してみよう。
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 「さまよえる団塊世代・・・インド在年9年・・・ 夢翔る世界紀行 <インドの牛肉消費量は世界4位>」(2007/03/08)より

 インド人は牛を神と崇めている。街中には牛が闊歩し、インド人は牛を大事にする。人口の82%を占めるヒンズー教徒は牛肉を食べない。皆それを知っており、拡大解釈して「インド人は牛肉を食べない」と思いこんでいる人が多い。
 
インドの重要な輸出品の一つに皮革製品がある。牛の皮が主である。皮を使って肉は棄てている筈がない。インドには、2億8千万頭の牛がいる。牛が1億9千万頭、水牛が9千万頭。世界の60%の水牛がインドにいる。

 そして牛を食べるイスラム教徒が1億5千万人いる。インド国内の牛肉消費量は約400万トン、アメリカ、中国、ブラジルに次いで世界4位の牛肉消費国である。更に、輸出量は年間30万トン強(約450億円)であり、輸出先はマレーシア、フィリピン、サウジアラビア、ヨルダン、アンゴラ、などで、昔はカルカッタビーフが有名であった。今はバンガロールビーフも有名になってきている。

 レストランでビーフステーキを食べられるが、殆どがインド国産である。水牛の肉は硬く筋が多く、余り美味くない。インド政府は、「輸出の牛肉の殆どは水牛である」としているが、宗教的背景でそう言っているのであろう、実態はかなりの牛肉が輸出されている筈である。

 水牛のミルクは濃厚で栄養価は牛より高い。値段も牛のミルクより高い。インドのミルク生産量は9千万トンを超え、世界1位である。ヒンズー教徒、ベジタリアンもミルクは飲める。

 ヒンズー教徒とイスラム教徒と牛が共存するインド、イスラム教徒のお陰で牛肉が国内で消費され、結果的に牛の数が保たれ、ヒンズー教徒は日々新鮮なミルクが飲める。イスラム教徒がいないと、インドは牛だらけになってしまう。かなりの雄牛は去勢されているそうだが…。

 「インドは」とか、「インド人は」とか一言で言うと、間違えたり誤解を与えたりする事が多くある。インド、インド人は、多面性のある国家・国民である。
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 過去の記憶をたどってみると、インド人が牛肉を食べないのは本当かな? と疑問を持ったことがないわけではない。

 マニラ中心部の繁華街マビニ通りのマクドナルドに、民族衣装サリーを着たインド人女性数人が入るのを目撃し驚いたことがある。

 1990年代に、ニューデリーでインド人の誰かから、「インドでは牛を殺せないけれど、生きた牛を船で大量に輸出している」ときいて、眉唾っぽい話だなと思ったこともある。

 南太平洋フィジーは英国植民地時代に、サトウキビのプランテーションで働かせるために多数のインド人が送り込まれた。 今ではその子孫が人口の半数近くに達している。 インド人経営の食堂はごく一般的で、入ってみた何軒かの店のメニューには「ビーフカレー」があった。 南太平洋でヒンズー文化が変形したのだろうと勝手に解釈した。

 読売新聞によれば、2012年の牛肉輸出は、1位インド160万トン、2位ブラジル139万トン、3位オーストラリア138万トンとなっている。 だが、米国農務省の最新の推計によれば、2013年にインドはさらに輸出を増やし、216万トンとなり、微増のブラジル、オーストラリアを大きく引き離し、断トツの1位になる。

 インドの牛肉輸出で、あらためて常識にとらわれることの愚かさを学ばせてもらったが、これが、世界が注目する躍進インドの社会変貌の兆候だとすれば、未来を見通すときの不確定要素として心に留め置かねばならないかもしれない。