2012年12月31日月曜日

2013 新しい年の旅立ち



 2012年大晦日、記憶にないくらい遠い昔以来、久方ぶりにNHKの紅白歌合戦を見た。 と言っても、同じNHKでもBSプレミアムで放映していた日本映画「駅 STATION」で、劇中画面に出てきた1979年の紅白歌合戦だ。

 雪に覆われた北海道の小さな駅。 その近くの赤提灯、「桐子」。 大晦日前日の12月30日、ふらっと立ち寄った高倉健。 うらびれた飲み屋を一人で切り盛りする倍賞千恵子。 2人は意気投合して、カウンター越しに飲み始める。 

 翌大晦日、2人は逢瀬のあと、再び「桐子」へ。 カウンターで並んで飲んでいると、紅白歌合戦で八代亜紀が「舟歌」を歌い始める。

 お酒はぬるめの燗がいい
 肴はあぶったイカがいい
 女は無口なひとがいい

 倍賞千恵子が、「私、この歌が大好き」と言って、高倉健にしなだれかかる。 外は、雪がしんしんと降る。

 一人旅の男と寂しげな女の出会い。 この2人の役者は、こういう演技をやらせれば天下一品だ。

 旅する男がいつも期待する夢を実現してくれる。

 新しい年2013年。 また旅に出よう。

君は塩分摂取を控えているか



 塩分を摂りすぎると血圧が上がる。 だから高血圧予防のためには塩分摂取を控え目にしなければいけない。 中高年世代の人々は、うんざりするほど忠告される。 刷り込み効果のせいか、気が付けばラーメンのスープは半分残すようになっている。

 ところで、専門家たちが、塩分摂取量と高血圧について語るとき、金科玉条のごとく引き合いに出すのが、南米の未開部族ヤノマモ(ヤノマミ)族だ。 食塩をほとんど摂らないので高血圧がない部族だという。

 そこで、出典が明らかにされていないのでウエブで探索してみると、どうやら原典はINTERSALTという国際研究団体の現地調査のようだ。

 以下が、その内容。
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 [1989年文献] ナトリウム摂取量が極端に低いヤノマミ族では,高血圧が見られなかった
Mancilha-Carvalho JJ, et al. Blood pressure and electrolyte excretion in the Yanomamo Indians, an isolated population. J Hum Hypertens. 1989; 3: 309-14.

 ブラジルとベネズエラの国境近くに住むヤノマミ族は,世界中でもっとも文化変容の波を受けていない先住民族である。 狩猟と焼畑農業中心の生活をしており,栽培した穀物や,採取した果物・昆虫などを食べる。 主食はバナナ,キャッサバ。食塩や精製した砂糖はほとんど使っておらず,アルコールや牛乳,その他の乳製品も摂取しない。

 26万 km2の範囲に200の集落が存在し,それぞれ40~250人が暮らしている。 このうち1986年のINTERSALT研究に参加したのは,政府保健機関から30 kmほどの位置にある3つの集落。 20~59歳の206例のうち,妊娠中の6例,24時間蓄尿量が明らかに不足していた5例を除いた195例について検討を行った。

 今回の調査を行うため,まず政府保健機関の近くの町まで調査機器が空輸された。 調査隊はそこから調査機器や生活用品などをすべて持ち,ジャングルの中を8時間歩いて集落に向かった。

 各集落には5日ずつ滞在し,血圧測定,24時間蓄尿および質問票の記入を行った。 質問には通訳を介した。 また,ヤノマミ族は自分の年齢を知らない。そのため,年齢については体格や外見,子供の数や年齢,通訳の個人的な認識をもとに推定した。

結 果
 男性は女性より身長・体重ともにやや大きく,収縮期血圧(SBP),拡張期血圧(DBP)も女性より高い傾向が見られた。

 平均血圧,および観察された最低値および最高値は以下のとおり。
   SBP   96.0 mmHg (78.0~128.0 mmHg)
   DBP   60.6 mmHg (37.0~86.0 mmHg)

 平均尿中ナトリウム排泄は0.9 mmol(24時間)で,これはINTERSALT参加国のなかでも圧倒的に低い値。 最低値は0.04 mmol,最高値は26.7 mmolだった。  84.1%(164例)が1 mmol以下の値を示し,5 mmol以上だったのは9例のみ(これは調査隊の食料を口にしたためではないかとされている)。  このように値が極端に低いため,塩分と血圧の相関については正確な解析を行うことができなかった。

 平均尿中カリウム排泄は63.3 mmol(24時間)。 尿中カリウム排泄と女性のDBPは,有意な逆相関を示した。

 年齢と血圧に正の相関は見られなかった。 女性のSBPは年齢と有意な逆相関を示した。男性のBMIは,血圧と有意な相関を示した。 年齢と血圧に正の相関が見られない理由として,これまでに慢性病や栄養不良の可能性が挙げられてきたが,ヤノマミ族は非常に重い荷物を背負って何時間もジャングルを歩くなど強靭な体力を持っており,今回の調査でも栄養不良の身体所見はまったく見られなかった。

 このほかにも,ヤノマミ族の生活には高血圧を抑制する多くの要素(BMIが低い,肥満がほとんどない,アルコールを摂取しない,脂質をほとんど摂取しない,繊維質を多く摂取する,運動量が多いなど)が見られた。

 以上のように,塩分の摂取量が非常に少ないヤノマミ族では高血圧がまったくなく,加齢にともなう血圧の上昇も見られなかった。
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 <INTERSALT>というのは、どういう団体かというと、世界初の食塩と血圧に関する国際研究組織で、1985年に研究を開始した。 現在、32か国の52集団の住民を調査対象にしている。 

 INTERSALT(INTERnational study of SALT and blood pressure) Studyは,世界32か国の52集団について,24時間蓄尿により尿中ナトリウム・カリウム排泄と血圧との関連について検討した国際共同研究。WHOや米国国立心肺血液研究所(NHLBI)のサポートを受けて行われた。食塩をまったくとらないことで知られるブラジルのヤノマミ族も,調査の対象に含まれている。

 食塩と血圧の関係についてはこれまでにも多くの調査研究が行われてきたが,調査手法にばらつきがあり,集団間で結果を比較したり,国際的な傾向をつかんだりすることが難しかった。

 そこでINTERSALT研究では,質の高いデータを収集するために,高度に標準化された調査手法が用いられた。例えば調査マニュアルや質問票は統一され,翻訳の正確性もチェックされた。検査機器は,血圧計や蓄尿器から聴診器にいたるまで,世界中で同一のものが使用された。さらには,収集した24時間蓄尿のサンプルは世界各地からベルギーのルーベンにあるセント・ラファエル大学に運ばれ,生化学的な分析はすべてそこで行われた。

 その結果,食塩摂取量の多い集団では年齢とともに血圧が上昇する度合いが大きいこと,また,個人間の検討で,ナトリウム摂取量は血圧と正の関連,カリウムは負の関連,アルコールは正の関連があることが明らかになった。               
(Intersalt web page より)
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 それにしても、 ヤノマミ族というのは、実に興味深い。 秘境ルポの候補に加えておこう。 以下が、ヤノマイ族の概要だ。

 ブラジルとベネズエラの国境付近、ネグロ川の左岸支流とオリノコ川上流部に住んでいる。 人口は1990年時点でブラジルに1万人、ベネズエラに1万5000人の計2万5000人ほど、現在合わせて約2万8000人といわれる。 言語の違いと居住地に基づいて4つの下位集団に分けられ、南西部を占めるグループはヤノマメYanomam、南東部はヤノマムYanomam、北西部はサネマSanma、北東部はヤナムYanamとよばれる。 南アメリカに残った文化変容の度合いが少ない最後の大きな先住民集団である。 言語帰属について、チブチャ語族であるとか、カリブ語族に関係があるとかさまざまな説があるが、はっきりしない。

 彼らの住居は、シャボノと呼ばれる巨大な木と藁葺きの家である。 シャボノは円形で、中央の広場をぐるっと囲む形になっており、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられていっしょに暮らしている。

 衣服はほとんど着ていない(初潮を経た女性は陰部を露わにすることを禁じられ、ロインクロスを付けて陰部を隠す)。

 主な食物は、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバなど。その特徴として、調味料としての塩が存在せず、極端に塩分が少ないことがあげられる。 彼らはもっとも低血圧な部族として有名(最高血圧100mmHg前後、最低血圧60mmHg)だが、それはこのことと密接な関係があるものと思われる。 狩猟採集や漁撈だけでなく、料理用バナナやキャッサバなどの焼畑農耕もおこなっている。

 ヤノマミ族は現在のところ、民族内部での戦争状態が断続的に続いている。 彼らの社会は100以上の部族、氏族に村ごとに別れて暮らしているが、他の村との間の同盟は安定することはまれで、同盟が破棄され戦争が勃発することが絶えない。 このような状況におかれた人間社会の常として、ヤノマミ族では男性優位がより強調される傾向がある。 肉体的な喧嘩を頻繁に行い、いったん始まると周囲の人間は止めたりせず、どちらかが戦意を喪失するまで戦わせるといったマッチョな気風にもそれが現れている。

 また、近年、ヤノマミ族の居住地域で金が発見され、鉱夫の流入は疾病、アルコール中毒、暴力をもたらした。 ヤノマミ族の文化は厳しく危険にさらされ、第一世界からの寄付金によるブラジルとベネズエラの国立公園サービスによって保護されており、ナイフや服などが時折支給される。

 都市住民と比べて種々の病気に対する抵抗力が弱い。 2009年11月、ベネズエラ領内で新型インフルエンザのため8人のヤノマミ族の死者が出たことが伝えられている[6]。

 女子は平均14歳で妊娠・出産する。出産は森の中で行われ、へその緒がついた状態(=精霊)のまま返すか、人間の子供として育てるかの選択を迫られる。 精霊のまま返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、白アリのアリ塚に放り込む。 その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて精霊になったことを神に報告する。  また、寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われる。

 いわゆる価値相対主義をとらずに、先進国(近代社会)の観点から記述すれば、ヤノマミ族は技術的に人工妊娠中絶ができないため、資源的・社会的に親にとってその存在が「不必要」である子供は、森の中で白蟻に食べさせる形での嬰児殺しによって殺害される。 嬰児殺しの権利は形式上は母親にあるが、男尊女卑である以上、実際は子供の遺伝的父親や、母親の父親・男性庇護者の意思、村の意思が反映する。 ヤノマミの間では、これを「子供を精霊にする」と表現する。 これは近代社会における「中絶」と、不必要な子供を始末する点では一致するが、超自然的な位置づけがされている点が異なる。

 ヤノマミ族を三十年にわたって調査を続けたアメリカの人類学者ナポレオン・シャグノン(共同研究者はジェームズ・ニール )によるヤノマミ族の血液研究に関して倫理的な論争が発生した。

 1993年、ブラジル・ロライマ州のヤノマミ集落で16人が金採掘業者に虐殺された。

 (以上、Wikipedia より)

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 血圧を下げるということは、どうやら現代文明以前の時代の生活に近付けるということらしい。 だが、殺虫剤に対する耐性を身につけて死ななくなった蚊や虱が存在するように、人間も、いかなる美食を続けても健康を維持できる新種を生むことはないのだろうか。

2012年12月30日日曜日

強引すぎる支持率アップのキャンペーン



 今、東京で電車に乗ると、わずらわしいほど大量にぶら下げられた吊り広告が目に入る。 有名アスリートや有名タレントがにっこりした笑顔で、2020年東京五輪開催を面白おかしく訴えている。

 見え透いたキャンペーン。 最終候補に残ったマドリード、イスタンブール、東京の3都市の中で、東京の弱みは、開催に対する住民の支持が他の候補地と比べ低いことだとされている。 そこで、莫大なカネを使って、支持率アップの大作戦が開始された。

 右傾化する日本の国家主義者たちが推進するペット・プロジェクトに都民を引きずり込むため、強引な世論操作が展開されている。 

 なぜ東京でオリンピックを開催しなければいけないのか。 なにも見えないまま、東京都民は、このまま五輪支持へと追い込まれていくのだろうか。

2012年12月22日土曜日

夕張炭鉱のあった街



 午後6時40分。 まだ宵の口だというのに、雪に覆われた夕張の街には人の気配がなかった。 暗くて狭い通りで、やっと1軒の居酒屋をみつけたときは、ほっとした。 カウンターの上には、野菜や魚の手作り料理が並ぶ。 

 われわれは、せっかく夕張くんだりまでスキーに来たのだから、寂れてしまった炭鉱町の雰囲気だけでも感じてみようと街に出てみた。 確かに、雪の通り一面に、人が消えていった侘しさが漂っていた。 

 だが、腰を据えて飲みだした居酒屋「俺家」には、なんとも言えない温もりがあった。 酒も食いものも旨い。 やや悲しげな面影のあるおかみさんに訊いてみると、この店は父親の代から、既に60年がたっている。

 そうか、そうすると、この店には、まだ活気の残っていたころの元気で逞しい炭鉱夫も、顔を出して酒をあおっていたのだ。 今、その姿はない。 代わりに、亡霊たちの席で、ノウテンキの赤ら顔で酔っているのは、東京から遊びにきたスキーヤー。

 せっかくだから、この街の歩んできた過去を覗いてみよう。

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 夕張市の基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で、1981年10月16日午前0時、海面下810メートル、坑口より約3,000メートルの北部区域北第五盤下坑道のメタンガスセンサーに異常値が出ていることを地上の制御室が確認。ガスの突出事故の発生を確認し、直ちに会社側が組織した救護隊が救出作業を開始した。

 77人は自力で脱出することができたが、救護隊により34名は遺体で収容、ほか10名を坑内で死亡確認している。しかし、同日午後10時30分頃にガス爆発による坑内火災が発生、救護隊の10名も巻き込まれる二次災害となった。作業服の持つ静電気が原因で充満したガスに引火したと推測されている。

 爆発後は坑内に大量の黒煙と熱が充満し、火災も収まる兆しが見えなかったことから密閉作業が行われた。密閉作業は坑口を塞ぐもので、坑内の避難器具(通称ビニールハウス)への空気供給を止めるものではなかったが、それでも火災が収まらなかったことから、会社側は注水による鎮火の検討に入った。 この時点で坑内には59名の安否不明者が取り残されており、注水は坑内にいるこれらの不明者を見殺しにする措置の為、安否不明者の家族の猛反発を受けた。中には林千明社長(当時)に「お前が入れ」と迫る人もいた。

 注水の是非を巡る議論が白熱する中、生存者の有無を確認する為に捜索隊が坑内に入る。だが、爆発の衝撃で坑道の至る所で落盤が発生しており、救出活動を続行する事は危険と判断された(捜索中、立ったまま死亡していた労働者の遺体も確認された)。

 林千明社長は「お命を頂戴したい」と家族達に注水への同意を求め(林千明社長はその後自殺未遂事件を起こしている)、結局、10月22日に全員の家族の同意書を取り付け、翌10月23日、サイレンと共に59名の安否不明者がいる坑内に夕張川の水が注水された。

  約4か月の注水作業、その後の排水作業により遺体の収容作業が再開されたものの、遺体収容・確認作業は難航を極め、最後に残っていた遺体が収容されたのは事故から163日後の1982年3月28日のことであった。

 最終的な死者は93人で、炭鉱事故としては、1963年の三井三池三川炭鉱炭じん爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町(現在の嘉麻市))ガス爆発事故の237人に次ぐ、戦後3番目の大惨事である。

 この事故は新炭鉱に命運を懸けていた北炭に壊滅的な打撃を与えた。新炭鉱の運営を委託されていた子会社北炭夕張炭鉱(株)は2か月後に倒産、新炭鉱も事故から1年後の1982年10月に閉山に追い込まれた。北炭はその後も夕張以外の炭鉱で採炭を続けていたが、1995年空知炭鉱(歌志内市)の閉山をもって石炭から撤退、同年に会社更生法の適用を受け事実上の倒産に追い込まれた。

 行方不明者を見殺しにする注水作業は、事故当時でもショッキングな出来事であり、注水の行為の是非や実施のタイミングが世間で多くの議論を呼んだほか、炭鉱のイメージそのものを失墜させた。

 日本の石炭業界は、当時のオイルショックによる石炭見直しの風潮の中復活の機運もあったが、この事故によって、希望は吹き飛ぶ結果となった。それに拍車をかけるように、三井三池炭鉱有明鉱坑内火災(1984年、死者83人)、三菱南大夕張炭鉱ガス爆発(1985年、死者62人)と同じような最新鋭鉱で事故が立て続けに発生し、日本の石炭産業の崩壊は決定的なものとなったのである。

 この事故により石炭産業の衰退は決定的となり、夕張市は「炭鉱から観光へ」の流れを加速させ、過大な観光開発へ突き進むこととなる。そのことが、後に財政再建団体へと転落する大きな要因となった。

 現在も、清水沢には夕張新炭鉱の文字が残る坑口と慰霊碑が残る。坑口は事故で死亡した作業員達の遺族による「空気が通るように」という要望からコンクリート等による密閉はせず鉄格子で閉鎖されている。
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 夕張市。北海道・空知地方南東部の山あいに位置する。人口は市域の西側、紅葉山地区から夕張地区まで、谷間を縫うように走る石勝線夕張支線に沿って集中している。市役所は過去に夕張炭鉱があった谷合いの集落の最北部に設置されている。
 
 地名の由来はアイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る所)」。

 明治初期から炭鉱の町として栄え、空知地方でも特に多くの石炭を産出した。1874年(明治7年)にお雇い外国人で北海道開拓使(当時)のベンジャミン・スミス・ライマン地質学士がこの地を踏査し、夕張川流域に石炭鉱脈の存在が考えられると発表。1888年(明治21年)に北海道庁の技師で元ライマン調査隊隊員の坂市太郎(ばん いちたろう)が再調査により大露頭(鉱脈)を発見、入植者の募集と試掘に始まり多数の炭鉱が拓かれ、国内有数の産炭地として盛況を誇った。

 1960年(昭和35年)には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の三大鉱業所を中心に北炭機械工業(鉱山・産業機械製造)、北炭化成工業所(コークス・化成品製造)などの関連産業も発達し、116,908人の人口を抱える都市となった。

 しかし、昭和30年代後半以降エネルギー革命が進行、海外炭との競争、相次ぐ事故、国の石炭政策の後退に直面。鉱業者側も手をこまねいていたわけではなく、鉄鋼コークス用などの原料炭(高品位炭)など価格の高い炭種の供給に活路を見出すべく、大きな期待と成算を持って三菱南大夕張炭鉱、北炭夕張新炭鉱が開発された。

 だが、その後の鉄鋼不況により需要は伸びず、1973年(昭和48年)に大夕張鉱業所が閉鎖して以来閉山が相次ぎ、1981年(昭和56年)には市内屈指の規模を持ち基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生し、後に夕張新炭鉱を運営してきた北炭夕張炭鉱株式会社は倒産、石炭産業の衰退に拍車がかかった。

 石油ショックの克服を大義名分とした官・民の多岐にわたる国内資源振興策も決定打とはならず、その後の安価・良質の海外資源へのなだれ現象、そして政府の合理化政策の前に各炭鉱の経営はジリ貧となっていき、企業は国内の炭鉱から次々撤退。国内第一の規模・炭質を誇った夕張もその例外ではなかった。1990年(平成2年)に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山した。

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 夕張は元々炭鉱により開かれた町で、大規模な農業にも向かない地域だった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく働き手の若者が都市へ流出し、人口が激減。街には高齢者が残る結果となり、少子高齢化が進んだ。

 最盛期からの夕張市の人口減少率は、全国の自治体でもトップクラスとなり、現在では、歌志内市、三笠市に次いで、全国で3番目に人口が少ない市で、人口密度は全国の市で最も低い。

 これに加え1991年(平成3年)より北海道開発局によって夕張川に夕張シューパロダムの建設が計画され、これに伴い大夕張地区の住民188戸が移転した。2006年(平成18年)よりダムは本体工事を開始し2013年に完成する予定である。

 ダム完成による莫大な固定資産税収入や水源地域対策特別措置法による周辺地域整備のための国庫補助などで新たな観光拠点育成としての期待がある一方、世界的に稀有な橋梁形式である三弦橋の水没や公共事業依存への懸念が出ている。

 現在は気温の寒暖差を生かしたメロン栽培(夕張メロン)、花畑牧場、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭など観光の町として町おこしを進めているが、厳しい状況にある。

 かつて夕張は炭鉱の街として栄えたが、「石炭から石油へ」のエネルギー政策転換により、次々と炭鉱が閉山されていった。1990年(平成2年)には最後の三菱南大夕張炭鉱が閉山し夕張から炭鉱がなくなった。これにより、炭鉱会社が設置した鉱員向けのインフラを市が買収する。

 1982年(昭和57年)、北炭が所有していた夕張炭鉱病院を市立病院移管に対して夕張市は40億円を負担している。さらに北炭は、夕張新炭鉱での事故を理由に、鉱産税61億円を未払いのまま撤退(倒産で払えなくなったとも)。また、北炭・三菱は炭鉱住宅5000戸(市営住宅に転換)や上下水道設備などを夕張市に買収してもらい、額は151億円に達した。結果「炭鉱閉山処理対策費」は総額583億円に達した。

 また、こうした施設の建設に際して地元業者優先の随意契約が多く行われ、建設費も適正な価格に比べて相当高くついたケースも見られたほか、事業が観光客誘致よりも雇用確保に傾いたため、各施設が余剰人員を多く抱えていたことも観光関連施設の収支を悪化させる要因となった。

 市は、中田鉄治元市長時代に石炭産業の撤退と市勢の悪化に対し、「炭鉱から観光へ」とテーマパーク、スキー場の開設、映画祭などのイベントの開催、企業誘致により地域経済の再生、若年層を中心とする人口流出の抑止、雇用創生などを図ったものの、ことごとく振るわず、観光・レクリエーション投資における放漫経営が累積赤字として重くのしかかった結果、市の財政を圧迫していった。旧夕張ロボット大科学館は、観光開発に一貫性がなかったこともあり、すぐに陳腐化、閉館に追いやられた。閉館後、転用先が無かったロボット大科学館は2008年に取り壊された。

 2002年3月、市はマウントレースイスキー場を26億円で買収することを決め、市債を発行し資金調達しようとしたが、北海道庁は負担が重すぎるとして許可しなかった。そこで市は土地開発公社に買収させ、市が肩代わり返済する「ヤミ起債的行為」に手を染めた。

 産炭地域振興臨時措置法(以下、産炭法)が2001年(平成13年)に失効したことなどで、財政状況がさらに悪化、その後ほぼ破綻状態にあったことが表面化し、2006年(平成18年)6月20日に後藤健二前市長が定例市議会の冒頭で、財政再建団体の申請を総務省にする考えを表明した。

 一時借入金などの活用により表面上は財政黒字となる手法をとったため、負債がふくれあがっていった。一時借入金残高は12金融機関から292億円、企業会計を含む地方債残高が187億円、公営企業と第三セクターへの債務・損失補償が120億円とされ、夕張市の標準財政規模(44億円)を大きく上回っており、一般的に10年とされる再建期間での再建はほぼ不可能な状態であった。

 また、市長の表明後、「空知産炭地域総合発展基金」から14億円の借り入れをしていることが明らかになるなど、違法起債等の粉飾まがいの決算がここ何年も行われていた疑い表明した。北海道庁は同年8月1日に夕張市の財政状況の調査に関する「経過報告」を公表した。

 北海道庁は、再建期間短縮等の観点から、赤字額の360億円を年0.5%の低利で融資(市場金利との差額は道が負担)、国も地方交付税交付金などによる支援を打ち出した。これらの動きにより、再建期間は18年間の見込みとなった。

 財政再建団体指定は、1992年(平成4年)の福岡県赤池町(現福智町)以来、北海道では1972年(昭和47年)の福島町以来、市では1977年(昭和52年)の三重県上野市(現伊賀市)以来となる。
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<財政再建計画>

 市の第三セクターである株式会社石炭の歴史村観光(負債額74億8800万円)、夕張観光開発株式会社(負債額54億6000万円)、夕張木炭製造株式会社(負債額16億円)の3社は破産処理された。 「映画祭」は中止。

 職員給与削減は2006年(平成18年)9月から実施することとなり、市長は50%(月収862,000円→431,000円)、助役は40%、教育長は25%、一般職員も15%カットとなり、4億200万円の削減となる。2007年(平成19年)4月からは、さらに削減し、市長75%(月収259,000円、年収374万円)、助役70%(月収249,000円)、教育長66%(月収239,000円)、常勤監査委員も229,000円など、徹底した削減がなされ、市長の給与は全国最低となる。市議会議員の人数も18人から9人に半減、議員報酬も311,000円から180,000円に削減される。

 更には新規職員採用凍結や早期退職勧告により職員数も削減を予定している。早期退職希望者が130人を超え、定年と自己都合を合わせ、全職員の約半数の152人が2006年度末で退職した。これは当初の削減計画の人数にほぼ合致している一方、急な退職で市政の滞り等が心配されているが、市は、この早期退職により、人員削減計画の前倒しとするとしている。なお、早期退職者は、役職者が約7割を占め、部長・次長職は全員辞める。2007年度末の退職者の内訳は部長職12人全員、次長職11人全員、課長職は32人中29人、主幹職は12人中9人、係長・主査職は76人中45人、一般職が166人中46人となっている。

 また、市が保有する観光施設31施設の内29施設を運営委託、売却、廃止する方針も明らかになったが、道内観光大手の加森観光を中心に委託・売却先がほぼ決定した。

 市民負担も大きくなり、市民税が個人均等割3,000円から3,500円に、固定資産税が1.4%から1.45%に、軽自動車税が現行税率の1.5倍に増額、入湯税150円も新設される。また、ごみ処理は一律有料化、施設使用料も5割増、下水道使用料が10 m3あたり1,470円から2,440円に値上げ、保育料は3年間据え置くが、その後7年間で段階的に国の基準にまで引き上げる。敬老パスは廃止予定だったが、個人負担額を200円から300円に引き上げて存続されることとなった。この影響もあって転出者が相次ぎ、2006年・2007年の二年間で人口が1割近く減少した。

 公共施設に関しては、多くの施設が廃止されることになっていたが、世論の反発などもあり見直され、全廃予定だった7ヶ所の公衆トイレのうち清水沢と沼ノ沢を存続、南部コミュニティセンターは、使用料引き上げ、町内会などによる管理運営を条件に存続、スイミングセンターは夏季限定で営業する予定であったが、2008年(平成20年)3月に雪の重みにより屋根の一部が崩落し使用不能となり、修復も検討されたが取り壊された。図書館は、蔵書を保健福祉センターに移設し(貸し出しは継続)、廃止となる。

 財政再建計画はその時の状況に合わせて改定されているが、平成22年に議決された財政再建計画によれば、平成20年度までの3年間で約31億円分の赤字を解消済み。さらに再生振替特例債の借り入れなどを駆使して平成38年度までに322億円の償還を行う予定となっている。

 市長:鈴木直道(2011年4月24日就任 1期目) - 全国の市長で最年少(30歳)

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 かつては石炭の採掘が主要産業だった。現在はメロン栽培(夕張メロン)を中心とした農業と、精密機械や食品加工業、石炭の歴史や映画などをテーマにした観光産業からなるが、観光産業は市に巨額の負担を強いており、その上市財政の悪化が表面化。

 人口減少や著しい高齢化(2010年の時点で、65歳以上比率が市としては全国最高の44%)も相まって企業の進出が進まず、先行きは極めて厳しい。

 夕張ドキュメンタリーツアー : 破綻後の負の遺産をビジネスに生かし、破綻の原因となった箱物などを巡る異色のツアーで、民間会社の夕張リゾートが主催。反面教師として全国の同じ問題を抱える地方自治体などに人気がある。

 メロン熊という怪キャラクターグッズが販売されている(北海道物産センター夕張店)。

 石狩炭田は、現在も稼動中の露天掘りの炭鉱で、他(隣り)の町・村と一緒に稼動している。

(Wikipedia より)

2012年12月16日日曜日

Salmon Fishing in the Yemen って?



 イギリス映画「砂漠でサーモン・フィッシング」。 この馬鹿げた題名に引かれて、つい見にいってしまった。

 ストーリーも題名そのもの。 中東の砂漠で鮭を釣りたいというイエメンの首長ムハメッドのとんでもない夢を実現しようとするイギリス人学者と、このプロジェクトを持ち込んだ美人コンサルタントの恋、このプロジェクトを利用して、イギリス・アラブ関係改善で点数を稼ごうとする首相府の女広報官。 一見馬鹿げた計画をめぐってストーリーは展開する。

 基本線は恋物語。 だが、イギリス人好みの、こってりと政治風刺を効かせた映画でもある。 どちらも楽しめる。 かなり質の高い映画だ。

 だが、中東世界を多少覗いた者として、もっと期待したかったのは「砂漠」そのものの描写だった。 

 まずは、「砂漠」という言葉は、「沙漠」にしたかった。 文字通り、砂だけの”砂漠”もあるが、英語で「desert」と呼ばれる土地の多くは、”土漠”でもある。 「水の少ない広大な土地」。 だから「沙漠」のほうがしっくりする。 

 そこは、短い春には、水の少ない土地でも育つ、けなげな植物でうっすらと緑色に染まる。 様々な生き物もいる。 駱駝で旅する人々には、駱駝の尻尾の毛で作った蝿追いが欠かせない。 沙漠には蝿がうるさいほどいる。 そして、人間たちは、そこで飲み、踊り、生活する。 彼らには心が最も落ち着く故郷なのだ。 だから、アラブの石油成金たちも、酒瓶を持って沙漠へピクニックに行く。 禁酒国とされるサウジアラビアの沙漠でも、スコッチ・ウイスキーの空き瓶がごろごろ転がっている。

 そして、この映画の原題「Salmon Fishing in the Yemen」。 「イエメン」を「砂漠」と意訳したのは悪くはない。 が、中東アラブ世界で最も美しいイエメンの沙漠と山々が連なる風景を知っていれば、「砂漠」と意訳するには、かなり躊躇しただろう。 イエメンのままにしてほしかった。 実際、本物のイエメンの風景は、モロッコで撮影したという”贋物”のイエメンより、はるかに美しい。

 イエメンという国を知っている外国人は少ない。 だが、数少ないイエメンを知っている外国人の多くがイエメンにぞっこん惚れ込んでいる。 あの美しい景色、そして、乾燥した土地に棲む人々のしっとりとした湿っぽい人情。 準主人公のムハメッドに、その片鱗が見えた。 それを、映画の中で、もっと見たかった。 

 だが、そんなことを思うマイノリティのために、営利目的の映画は作れない。 この映画がすごいとしたら、”砂漠のサーモン・フィッシング”というテーマで、その不可能性を描き、しかも営利を得てしまったことだ。

2012年12月14日金曜日

ソバ屋にご用心



 運が悪い、ついていない、そんなことを駅の立ち食いソバ屋で味わうとは思ってもみなかった。

 JR品川駅を降りたとき、正午まで20分ほどあった。 まだ昼飯には早く、腹もさほど減ってはいなかった。 だが、電車のドアから出たホームの目の前に立ち食いソバ屋があり、とたんに、B級グルメとして愛してやまない掻き揚げソバを食いたくなって、入ってしまった。 これが第1の失敗。

 食券売り場の横の壁に「店内での写真撮影はご遠慮ください」と妙な張り紙があるのに気付いた。 近ごろは、注文した食事を携帯電話のカメラでバチバチ撮るのが普通なのに、うるさい店だと思った。そこで出て行かなかったのが第2の失敗。

 食券を買うとき、掻き揚げソバが520円とは高いなと思ったが、カネを入れてボタンを押した。 これが第3の失敗。 すぐに気付いたが、520円は「掻き揚げ温玉ソバ」で「掻き揚げソバ」は420円だった。面倒なので、店員に頼んで訂正はしなかった。 これが第4の失敗。

 出てきたドンブリのソバの上には、掻き揚げと半熟のゆで卵がのっていた。 これが「温玉」つまり温かい卵と思って口にしたら、冷蔵庫から出したばかりの冷たさだった。 これでは冷玉ではないか。
 
 そして、掻き揚げ。これを汁に溶かしてタヌキ蕎麦風にして食うのがオレ流。 だが、この店の掻き揚げは、箸でいくらつついても硬くてくずれない。 うどん粉を練ったかたまりに、野菜らしき切れ端がほんの少し混ぜてあるだけで、どっしりと重い。

 近ごろはレベルが上がっているとはいえ、駅ソバなど美味いわけがない。 だが、それを承知の上で、安い価格で許容範囲の不味さを楽しむのが駅ソバの醍醐味だ。 JR品川駅は、久しぶりに、おそらく前世紀以来の許し難い不味さを体験させてくれた。

 今、冷静になって振り返ってみると、ヘンだと感じたときに店を出るか、注文をやめるべきだった。 不運を自分で何度も呼び込んでいたことを実によく理解できる。 これから気を付けよう。

 まあ、今後の人生訓を学ぶ機会を得たと考えれば幸運だったのか。 それにしても、腹立たしいほど不味かった。 

2012年12月12日水曜日

日本人が知らない殺人台風



 今年2012年は台風の当たり年というが、日本にやって来なかった台風24号を知っている人は少ないだろう。 日本でほとんど報道されなかったからだ。 だが、とてつもない記録的キラー台風だった。

 12月4日、フィリピンのミンダナオ島を襲い、11日付けAFP通信によると、同日時点で、死者714人、行方不明890人。 昨年2011年フィリピン最悪1200人の犠牲者を出した21号の被害を超えるかもしれない。 全壊した家屋は11万5000戸、避難所には今も11万6,000人が滞在している。 不明者890人の中には、ミンダナオから出港したマグロ遠洋漁業船の313人も含まれている。 フィリピン大統領府は恒例のクリスマス・パーティを今年は中止すると発表した。

 台風には、国際的にはアジア太平洋諸国の言語による名前が付けられる。 台風24号は「ボーファ」、カンボジア語で「花」という意味だ。

 日本のマスコミに染み付いた悪弊は、アジアなど途上国の人間の命を軽んじることだ。 バングラデシュでモンスーンのために何千人が死のうが、日本では何も報じられない。 その一方、米国のハリケーン被害は克明に伝えられる。 

 機敏に反応するNGOを除けば、フィリピンへ日本から不明者捜索や物資の支援が向かったという話も聞かない。

 日本人は、日本を直撃したり、接近する台風には注目するが、日本から遠ざかっていくと、とたんに忘れてしまう。 だが、そういった危険な台風はどこへ行くのだ。 消えてしまうわけではない。 周辺の朝鮮半島や中国大陸へ向かい、深刻な被害をもたらす。 だが、自分たちが安全なら、もうどうでもいいのだ。 天気予報も、台風が日本から去れば予報を停止する。

 英語がわからなくても、天気予報くらいはCNNでも見よう。 地球規模の天気図を表示してくれるからだ。 日本を去った台風の行き先をちゃんと示してくれる。 

2012年12月7日金曜日

漂着したマネキン人形



 第一印象、海岸に流れ着いた女のマネキン人形。 だが、それは現役時代の山口百恵の水着姿だ。 この写真家は、いったい何を表現したかったのか。

 「篠山紀信展 写真力」がマスコミで宣伝されているので覘いてみた。

 山口百恵の写真は、タテ横数メートルの巨大なパネル。 だが、その画像の中の百恵は死んでいる。 だから、漂着したマネキンだった。 ただのゴミ。 物体。 人間が見えない。 生きている姿、その内面が無視されている。

 この写真が発表された当時評判になったとしたら、超人気歌手・山口百恵がセミヌード姿になったという下世話な話題以上のものではなかったはずだ。 なぜなら、この写真から、人間・山口百恵を表現しようとした気配が感じられないからだ。

 人気歌手を裸にした、この写真家はそれだけで得意満面だったに違いない。

 巨大なパネルに引き伸ばしたことが、この展示の売り物だが、明らかに、こけおどしだ。 人の生き様を描いていない退屈な写真をもっともらしく見せるための仕掛けにすぎない。

 こんな写真家を大物ぶらせていられるのは、日本のフォトアーティスト界の貧困さが成せるわざなのか。 哀しい実像なのだろうか。

2012年12月2日日曜日

映画「アルゴ」が実話とは笑止千万

   (CIAのアントニオ・J・メンデス(左)とメンデスを演じたベン・アフレック)

 1979年、世界を震撼させたイランのイスラム革命で出国した独裁者パーレビの身柄を引き受けた米国に対し、イラン国内では激しい反米運動が巻き起こった。 そして、その年11月4日、テヘランの米国大使館がホメイニ支持者らの群集に襲われ占拠された。 館内の大使館員ら52人は以来、81年1月20日に解放されるまで444日間にわたり、パーレビ引き渡し要求の人質となった。

 米国大使館が占拠されたとき、実は6人の大使館員が建物から逃げ出していた。 彼らは、カナダ大使公邸などに匿われ、翌年1980年1月28日、カナダ政府の全面的協力によるCIAの作戦でイランからの脱出に成功した。 その作戦とは、「Argo(アルゴ)」と題するSF映画を製作するためのカナダ撮影チームのメンバーに6人を仕立て上げ、身分を偽って出国するというものだった。

 52人の人質事件と比べれば、6人の脱出はサイドストーリーにすぎないと言えるかもしれないが、このエピソードが、手に汗握るスリリングな映画に仕立て上げられ、今年(2012年)10月公開された。 ハリウッド映画「アルゴ」だ。 米国でも日本でも、なかなかの評判だった。  

 「アルゴ」の公式サイトを見てみよう。

 「信じられなくて当然だ。だが、全てが実話なのだ。
アメリカが18年間封印した、最高機密情報!!
CIAが仕掛けた人質救出作戦は、〈映画製作〉だった──!?」

 「全世界を震撼させた、イランアメリカ大使館人質事件が起きたのは、1979年11月4日。だが、この事件にまつわる真相は、謎に包まれたままだった。事件発生から実に18年後、当時の大統領クリントンが機密扱いを解除し、前代未聞の人質救出作戦が、初めて世に明かされた。その全容を映画化したのが、『ザ・タウン』に続く監督・主演作となるベン・アフレックと、プロデューサーを務めるジョージ・クルーニー。それは、CIAが企画を持ち込んだ、ハリウッド史上最も危険な〈映画製作〉だった──!」
(以上、作品情報より)

 「全て事実です。ものすごく良く出来ている。
池上彰ジャーナリスト」

 「事実は「映画」より奇なり。重圧と恐怖に押しつぶされるような120分間。
浅賀佐和子Pen編集部」

 「実話なのによくできたフィクションのようで、感動もユーモアもサスペンスもある。
米崎明宏映画雑誌スクリーン・編集長」
(以上、著名人コメントより)

 この映画を見た日本の友人たちは、「凄い」「面白かった」と、一様に賞賛し、そして、「それにしても、本当に実話なんだろうか?」と、面白すぎるゆえの疑問を呈する。

 結論から言うと、「アルゴ」は娯楽映画としては実によくできているが、残念ながら、公式サイトは、誇張、誇大宣伝と呼ぶべきだろう。 

 そう判断せざるをえない点をいくつか指摘しよう。

 ①「前代未聞の『人質救出作戦』の全容を映画化」としているが、6人は人質ではない。 人質というのは大使館に捕らわれた52人を指す。 この52人の救出作戦といえば、通常は米特殊部隊による失敗した作戦のことだ。
 (これは、このサイトを作った人間だか、映画配給会社だか、宣伝会社だかの無知、不勉強、無神経さのせいかもしれない。 意図的に「人質救出作戦」としたとしたら、悪質だ)

 (以下は、CIA公式サイトに載っている主人公トニー・メンデスのモデルになったアントニオ・J・メンデス自身による作戦の一部始終と映画との比較である=https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/winter99-00/art1.html)

 ②映画では、CIA要員のトニー・メンデスが単身でテヘランに潜入するが、実際には2人で入った。

 ③映画で、メンデスはトルコ・イスタンブールのイラン領事館でビザを取得するが、実際にはドイツ・ボンのイラン大使館でビザを取得した。

 ④6人は全員、カナダ大使公邸に匿われていたことになっていたが、大使公邸と別の大使館員の家に分散して潜んでいた。

 ⑤6人は映画制作スタッフとして、テヘラン市内のバザールにロケハンに行く。そこで騒動に巻き込まれるが、からくも現場から立ち去ることができる。 だが、バザールへ行くような危険は冒していなかった。

 ⑥6人がテヘランから国外へ脱出する前夜、ホワイトハウスから急遽、作戦中止命令が出る。 予定していた大使館の人質52人の救出作戦への支障が出る恐れがあると判断されたためだ。 主人公メンデスはこの命令を無視して脱出作戦を実行する。 映画の大きな山場のひとつだ。 だが、ホワイトハウスから、こんな命令は出ていなかった。 ホワイトハウスからの中止命令があったのは事実だが、映画のようなドラマティックなタイミングではなく、メンデスがテヘランへ出発する前、しかも、その30分後には大統領カーターからOKが出た。

 ⑦ホワイトハウスからの中止命令で、主人公メンデスが作戦決行を決断すべきか迷ったために、6人が脱出するメヘラバード空港への出発が遅れ、映画の観客をハラハラさせる。 実際に多少の遅れが生じたのは事実だが、ホテルに泊まっていたメンデスが時計の目覚ましアラームを午前2時15分にセットしたが鳴らず、3時まで寝過ごしてしまったためだった。 本物のスパイは007と異なり間抜けでもある。

 ⑧映画のクライマックスは、空港に着いた6人とメンデスがイミグレーション、革命防衛隊の検問を通過し、スイス航空の機内に入り離陸するまでの息詰まるような時間との競争だ。 まず革命防衛隊が映画制作スタッフという身分に疑念を持つ。これはなんとかパスする。だが、彼らは最後の瞬間に偽装に気付く。 そして、滑走路を離陸しつつあるスイス航空機をクルマで追う。 だが、旅客機は追撃を逃れ、からくも離陸に成功、6人の脱出は見事に成功する。 
 これは全部フィクションだ。 6人はほとんど何も問題なく、空港を通過しイランを脱出するのに成功した。 不安を感じたのは、スイス航空機の出発が「メカニカル・プロブレム」で多少遅延するとアナウンスされたときだった。 フライトを変更することも検討したが、かえって目立つのではないかと当初予定を続行し、脱出成功につながった。 

 SF映画を制作するという奇抜なペテン作戦というCIAの独創性は、確かに傑作だ。 だが、実際の脱出作戦は淡々と進行し、映画のようなドラマはなかった。 現実とはそんなものだ。 
 
 「アルゴ」公式サイトの著名人コメントには、がっかりさせられる。 自分で検証もせず、映画の内容をすべて事実と信じてコメントする浅はかさ。 テレビにジャーナリストとして頻繁に登場する池上某などは、見事に馬脚を露わしてしまった。

 この映画に関する米国メディアの指摘を紹介しておこう。

 ひとつは、CIA中心のストーリーになり、CIA以上に重要な役割を演じたカナダ政府の存在を軽視しすぎているという指摘。 もうひとつは、モデルとなったアントニオ・J・メンデスは中南米系だが、映画では白人のベン・アフレックがメンデスを演じた。 これは米国社会の抜きがたい人種差別意識を反映しているという指摘。

 さらに、この映画が公開されたタイミングも言及されている。 現在、イランと米国の関係は、イランの核開発で最悪の状態にあり、米国によるイランへの軍事攻撃の可能性も否定されてはいない。 映画はイランを悪人に仕立てている。 実際のイランには現体制の批判者も多く、誰もがファナティックなわけではない。 だが、こうした映画によって、米国内の反イラン感情を煽り立てることはできる。 そこに政治的意図も見えなくはない。 

 難しいことは考えず、冒険物語と思って単純に楽しむことが、最も健全な「アルゴ」の鑑賞法かもしれない。

2012年11月29日木曜日

昼下がりのババア・イン・ラプソディ



 たまに、昼下がり、近所のドトール・コーヒーで、ボーッとしているのは悪くない。 ただ、その時間、婆さんたちが集団で来て、耳が遠いせいか大声で世間話をしているのに、かち合うことがよくある。そうなると最悪だ。 

 若い女たちのさんざめく声なら、バカ話でもBGMのように聞き流せるのだが、婆さんたちの周囲を圧倒するダミ声はたまらない。 女は中高年のある年齢に達すると声変わりするに違いない。

 最近、ブラック・コーヒーを飲みながら「マルコーニ大通りにおけるイスラム式離婚狂想曲」をのんびりと読んでいたとき、運悪く、数人の婆さんグループが入ってきた。 そして案の定、ダミ声会話が始まったので、帰ろうかと思ったが、話の内容にちょっと興味を引かれて、盗み聞きしてしまった。 いや、盗み聞きというのはおかしい。 店中に響き渡るような声なのだから。

 婆さんの一人の知り合いだが、知り合いの知り合いのことらしい。 道路を歩いているとき、すれ違った自転車に乗っていた人が葉書を落とした。 それを拾って渡してあげようとしたが、自転車は瞬く間に遠ざかって声をかけることができなかった。 

 葉書は、古い年賀葉書を使って懸賞に応募したものだった。 重要なものではないと思って、あとでポストに入れてやろうと持ち帰った。 翌日でかけるときに、自分のうちにも古い年賀葉書があるのを思い出し、その1枚に拾った葉書と同じ宛先を書いて、なんの懸賞かも知らず、拾ったのと一緒にポストに投函した。

 本人、そんなことはすっかり忘れていたが、あるとき乗用車が当たったという連絡があったという。 びっくりしたが、とにかく、ありがたく受け取った。

 ただ、 なんとなく後ろめたい気がしているという。 自分が葉書を出さなければ、自転車の人が当選したのではないかという気がしてならないのだそうだ。 この優しい人物に同感しているところをみると、ダミ声の婆さんたちも、声は悪くとも人物は悪くなさそうだ。

 しかし、これ、本当の話かなあ?

2012年11月21日水曜日

パイナップル・プリンセス

 リゾート地ハワイの代名詞になっているワイキキ・ビーチを歩いているときに、なぜか、中学生時代の同級生YNの顔が思い浮かんだ。 ちょっとませたヤツ、今ではすっかり好々爺づらになっているが。

 なんで、あんなヤツの顔が突然思い浮かぶんだ!!!  すぐに、簡単な連想ゲームだったことに気が付いた。 ワイキキの地名が、中学生のころ流行った田代みどりのポピュラーソング「パイナップル・プリンセス」を思い出させた。 この歌を教えてくれたのが、田代みどりの熱烈なファンだったYNだった。 もっとも、当時の記憶では、YNは浮気なガキで、まもなく伊東ゆかりに鞍替えした。

 1960年代、アメリカン・ポップスを日本語歌詞で歌う「ポピュラーソング」全盛の時代だった。 YNは成績はたいしたことなかったが、こういう分野の情報に関しては教室の中で一番だった。

 あらためて、「パイナップル・プリンセス」の歌詞をウエブで調べてみると、すぐにみつかった。

 ’パイナップル・プリンセス
  かわいいパイナップル・プリンセス
  小さなウクレレ片手にお散歩よ
  ・・・・・・・・・・
  私はワイキキ生まれ 緑の島のお姫さま
  背高ノッポの彼といつでも一緒なの
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・
  彼氏のポッケにゃチョコレート
  私のポッケにゃココナツ
  ・・・・・・・・・・
  (作詞・漣健児)

 当時の日本人がほとんど行ったことのない「あこがれのハワイ」をイメージした歌詞なのだろう。
だが、なんともヘンな歌詞だ。

 彼氏がチョコレートをポケットに入れたら、とろけてドロドロになってしまうではないか。 もっと凄いのは、このお姫さま、ココナツをポケットに入れてしまうのだ。 ココナツは1個2キロくらいの重さはあるし、直径は20センチ近い。 そんな巨大なものをポケットに入れてお散歩する女の姿を想像すると、身長は5メートルくらいあるかもしれない。 その彼女が背高ノッポと言うのだから、彼氏は6メートルといったところか。 でたらめな歌詞ではないか。

 ついでに、ワイキキ。 ハワイ王朝が独立国だった19世紀末までは湿地帯で、王族の保養地だった。 当時のビーチには砂浜がなく、オアフ島北部や遠くカリフォルニアから白砂を運んで作った人工砂浜が現在のワイキキビーチだ。

 1910年代からアメリカ本土から観光客が訪れるようになり、今もあるハレクラニ・ホテルなどが建設された。 だが、観光客が急増したのは第2次大戦後で、60年代から80年代にかけて多くの高級ホテルやコンドミニアムが建てられた。

 パイナップル・プリンセスが日本で流行ったのは1961年。 彼女がそのころ15歳から20歳とすると、だいたい太平洋戦争中に生まれたことになる。 そのころのワイキキは高級ホテルばかりだったから、彼女はホテルで生まれたのか。 ちょっと不自然だ。 おそらく、「ワイキキ生まれのお姫さま」というのも幻想だ。

 あの歌がはやってから3年後の1964年、日本人の海外旅行が自由化され、のちの海外旅行ブームにつながる。 YNもハワイに行って、ワイキキ・ビーチを歩いたことがあるのだろうか。 



2012年11月20日火曜日

3・11 ハワイの痕跡


(津波のあと放置されたままの土地)

(ここにレストランありき)
ハワイ諸島最大のハワイ島。 その中心の町コナを2011年3月11日午前4時(現地時間)、津波が襲った。 あの東日本大地震が引き起こした津波が到来したのだ。 あれから1年8か月がたったが、その爪跡はまだ残っていた。

 コナから南へ約10キロ、高級リゾートホテルSheraton Kona Resort & Spa が面しているケアウホウ湾。 小さな入り江だが、ヨットやカヌーが停泊し、ダイビングや鯨・イルカウォッチング船の拠点にもなっている。 ちょっとスノッブな金持ちアメリカ人たちが寛ぎ、静けさとともに華やぎを感じさせる雰囲気がある。

 貧相な日本人がうろうろするのは場違いかもしれないが、とりあえず、うろうろしてみた。 すると、すぐに目に留まったのは、<Tsunami Repair Zone>と記した看板が掲げられ、囲いで立ち入り禁止になっている土地だった。 

 ダイブ・ショップの若者にきいてみた。 ジョーと名乗った若者が教えてくれた。 「まだ暗い朝4時ごろ、突然津波がやって来た。 波の高さは11フィート(3メートル)もあった。 うちの店、それに隣のレンタル・ボート事務所、レストランも1軒押し流された。 うちは再建したけれど、ほら、レストランの土地は、いまだに更地のままだよ。 津波の直後、この湾は、ビーチの椅子やテーブル、その他いろんなものが浮かんで、まるでゴミに覆いつくされたみたいだった」

 幸い、死傷者はなく、日本の未曾有の悲劇と比べれば、被害は軽微なものだった。 だが太平洋の地図を広げてみると、楽園ハワイは実に恐ろしいところに位置していることがわかる。 地震が多発する環太平洋のど真ん中、日本からもフィリピンからもカリフォルニアからもチリからも、四方八方から津波が押し寄せてくる。 ここに住むのは、日本とはちょっと違った恐さがあるかもしれない。

2012年11月19日月曜日

当たり前だが、ハワイはアメリカ



  2004年、ホノルル・マラソンの自転車版「Century Ride」(100マイル=160キロを自転車で走る)に出場して以来だから、8年ぶりのハワイ。 これまでハワイには何度か行っていたが、いつも短い滞在で街をゆっくりと探索する機会はなかった。 だが、、今回は、レンタカーに乗って8日間ののんびり旅行。 とはいえ、ハワイの人たちの素顔が見えるようになるには至らない。 まあ、その程度の旅ではあったが、この社会の一端を感じることはできた。

 その一端とは、本土から海を隔てて遠く離れたハワイ諸島であっても、ここは、本土と同じ成熟したクルマ社会であったということだ。 アメリカ映画がお得意のカーチェイスを見慣れたせいではないだろうが、とにかく、彼ら、運転がうまい。 さすが、世界で初めてクルマが世の中に浸透した国だ。

 真っ直ぐで見通しの良い道路では、制限速度の時速55マイル(88キロ)か、せいぜい60マイル(96キロ)で運転する。 おとなしい運転ぶりだ。 だが、くねくねとカーブが続くワインディング・ロードで、わざとスピードを上げても、ほとんどの後続車はぴたりとついて離れない。 これまで、色々な国で多少乱暴な運転をしてきた。 その経験で比較してみると、どこの国の運転者より、明らかに、平均的アメリカ人の運転技術は高い。 つまり、普段はスピード違反を回避するために、おとなしく走っているが、実力を隠して猫をかぶっているのだ。

 だが、クルマ社会としての成熟度をこんな尺度だけで測ってはいけない。 

 ハワイでは、横断歩道があろうがなかろうが、歩行者が道路を渡る気配を見せれば、通りかかるクルマは直ちに停車して道を譲る。 歩行者を蹴散らして走るような態度は決してとらない。 彼らには、道路での歩行者最優先が、まるで生まれついての条件反射のように染み付いている。 成熟とは、このことを言いたいのだ。 日本と距離的に近く、日系人も多く住んでいる。 ワイキキ・ビーチは日本人観光客だらけで、ここは日本の一部ではないかと錯覚する。 だが、クルマ社会というフィルターを通して見ると、ハワイは絶対に日本ではなく、絶対にアメリカなのだ。

 東京でも、いつのころまでだったろうか、横断歩道に足をかけた人がいるとクルマが停車した時代があった。 1980年代? もっと前? 遠い昔。 今、信号機のない歩道を歩いて渡るのは命がけだ。 クルマはブレーキをかけず、ハンドルを切りながら歩行者をよけて走り抜けていく。 横柄な運転者はクラクションを鳴らして歩行者を追い散らす。 日常茶飯事の殺人未遂。

 今の日本では、強い者が弱い者をいたわる心配りが欠如している。 それにひきかえアメリカ人は、と考えたとき、いや、ちょっと待てよ、と躊躇した。
 
 確かに、アメリカ人の弱い者をいたわるマッチョ精神は、ある意味、賞賛に値する。 歩行者へのいたわりも、そこから来ているのかもしれない。 それは素晴らしい一面だ。

 だが、それじゃあ、なぜ、アメリカ人は世界中で嫌われるのだ。 中東や東南アジアやヨーロッパでは、正義の味方づらをしてチョッカイを出し、自分たちのルールを押し付けようとするアメリカ人に対し、善意は感じられても、好意は持たれない。 むしろ、押し付けがましい横柄な態度と受け取られ、鬱陶しい存在になってしまう。

 そうなのだ、歩行者へのいたわり精神でアメリカ人は世界を支配してきたのだ。 クルマからすれば、歩行者に対しては圧倒的に強い。 負けるわけがない。 マッチョなアメリカ人は余裕綽々で対応し、実は、そうやって強さを誇示しているのだ。 アフガニスタンでもイラクでも、そして沖縄でも。 非アメリカ人を見下していると言ってもいい。

 とはいえ、話を元に戻すと、歩行者最優先の精神が、粗野なジャンクフードを生んだアメリカ文化の産物というのは、やはり不思議だ。 謙譲の美徳を切り捨てては成り立ち得ない日本文化こそが尊重すべき精神ではないか。 そう思うと、日本文化といいうのは、どことなくウソ臭くもみえてくる。 よくわからなくなってきた。 

2012年11月6日火曜日

インドの本屋



 インドの大手書籍取次会社幹部の友人がいる。 たまに日本に出張すると、大好きな焼き鳥とビールを楽しみに”red lantern”、つまり、赤提灯に行く。 ちなみに、”red lantern”は、冗談で教えたインチキ英語だが、彼はすっかり気に入って、われわれの会話ではすっかり定着してしまった。 彼は、完璧な発音で「ビール1本ください」と注文する。 だが、彼の他の日本語ボキャブラリは「ありがとう」くらいしかない。 店のオヤジは、ビールの注文以外は身振り手振りのガイジンに首をかしげる。

 ニューデリーに行ったとき、その友人が「たまにはインドで飲もう」と誘ってくれた。 ところが、連れて行ってくれたのは、街の小さな本屋だった。 訊けば、いつも、そこに仲間が集まって飲み会をやっているのだという。 夕刻、仲間たちがそろうと、店主はさっさと閉店し、店のすきまに椅子を並べ、瞬く間に宴会場ができあがった。

 集まったのは、作家、ジャーナリスト、出版社社員など、本の出版に関わる連中ばかり5人ほど。 インド製のラム酒で口が滑らかになるにつれ、政治、経済、社会、国際問題など、話題と議論がどんどん広がっていく。 仕事は異なるが、本という1点でつながる様々な人種が、親しい仲間になっている。 

 2012年11月6日の読売新聞くらしページで特集していた日本における書店の苦境ぶりを読んで、すぐに、ニューデリーの本屋の店先宴会での面白おかしかった光景が目に浮かんだ。

 当時は、ただ楽しかったと思っただけだったが、今、多少まじめに考えてみると、あれが本屋の原点じゃないかという気がしてくる。 原稿を書く人間から、それが本になって、最後に読者となる人々に直接売る人間まで、全員が揃う場が、本屋なのだ。 そんな集まりを日本で見ることはできないだろう。

 Amazonを通して本を購入したり、電子書籍を使うようになると、本屋のオヤジの顔は消える。 それ以前だって、出版産業という巨大機構の細分化された分業体制のもとで、人間の顔はとっくに消えていた。 本屋のオヤジが最後の顔みたいなものだった。

 だが、ニューデリーの本屋店先宴会は、本の作り手、売り手が一堂に会し、人間の顔が、多過ぎるほどの人間の顔が見えた。 

 インドみたいに、あまりにうじゃうじゃと人が溢れていると、うんざりするかもしれないが、あんな本屋が日本にもあったら行ってみたいものだ。 見果てぬ夢だろうが。 

 いや、どうせ客が来ないのだから、店を閉めてやけ酒でも飲もうというのはありうるか。 ちょっと哀しいが。

2012年10月17日水曜日

IMF世界銀行総会を横目に



 イスタンブールに住むトルコ人の友人夫婦が東京にやって来た。 久しぶりの再会。 東京の街を歩き回り、焼き鳥屋、回転寿司屋、居酒屋…、酒飲みの2人のための特別観光で予定の3日間は瞬く間に過ぎた。

 2人は普通の観光にも関心があったが、それほど執着はしていなかった。 とはいえ、隅田川遊覧船に乗って、浅草には行った。

 夫が訊いた。「あの高い塔は何だ」。 「ただの電波塔で、世界一高いというだけ」。 「世界一とは知らなかった。 登ってみる価値はあるか」と夫。 「高いところが好きなら。 しかし飛行機に乗れば同じ。 つまらんことにカネを使うことはない」。 「じゃあ、ビールでも飲みに行こう」と夫。 スカイツリー観光は、これでおしまい。

 彼らが一番興奮したのは、渋谷駅前のハチ公像を見たときだった。 「日本で一番有名な待ち合わせ場所。 今度会うときは、ここで待っている」と冗談半分で連れて行った。

 ところが、2人はハチ公を見るや否や、顔を輝かせ「ウワオー」と大きな声を出した。 まったく知らなかったが、ハチ公はイスタンブールでも有名だったのだ。

 日本映画「ハチ公物語」は、米国でリメイクされ、リチャード・ギア主演の「HACHI 約束の犬」となって世界に配給された。 2人は、この映画でハチ公に感銘していたのだ。 まさか、像ではあるが”本物”のハチ公に会えるとは思っていなかったから感動はひとしおだった。

 グローバル化の広がりで、今、世界の人々は世界の色々なことを簡単に知るようになった。 だが、面白いものだ。 トルコの友人たちは、日本が官民をあげて宣伝している世界一、高さ634メートルの「東京スカイツリー」は知らなかったのに、ずっと昔から渋谷駅前のはじっこに鎮座している高さ、わずか91センチの銅像には愛着を感じるまでの知識を持っていた。 グローバル化した世界とはいえ、情報の伝播とはなんともいびつなものだ。

 トルコからの友人は、東京に遊びに来ていたわけではなかった。 夫はエコノミストとして、10月14日まで3日間開かれたIMF・世界銀行年次総会に出席するための出張だった。 そう、グローバル化を主導してきたIMF・世界銀行。 だが、今回の東京総会は過去10年余りの各国で開かれた総会と比べると、なんとなく奇妙だった。

 奇妙に感じたのは、これまで総会のたびに巻き起こった反グローバル化の激しい街頭抗議行動が皆無だったからだ。 小規模なデモ行進はあったが、新聞のニュースにもならない程度のものでしかなかった。

 抗議が盛り上がらなかったのは、IMF・世界銀行が金科玉条としていたグローバル化が明らかに行き詰まり状況にあるからだ。

 国境のない世界経済は、遠いギリシャの経済破綻が、そんな国には観光でしか行かない日本人の日常生活にまで悪影響を及ぼすようにした。 EU経済危機にしても、中国経済成長鈍化にしても、その世界的影響は、グローバル化のマイナス要因ばかりだ。

 グローバル化の流れは今後も確実に続くにしても、輝きを失っている。 こんな状況下で、グローバル化への抗議など人々を興奮させない。 なにかが、いびつになっている。

 トルコの友人と酔っ払いながら、今ここにいる世界の形が、歪んで見えにくくなっていることに気付かされる3日間が過ぎた。

2012年10月15日月曜日

シアヌーク劇場の終演



 カンボジアの前国王ノロドム・シアヌークが、10月15日、北京病院で、長い療養生活の末、89歳で死んだ。 浮き沈みの激しい人生を、自ら創作した劇の登場人物を演じたように生きた男だった。 

 言うことがころころ変わる。 彼の言葉は、どこまでが本心なのか判断しかねる。 とはいえ、ジャーナリストからすれば、つい報じてしまいたくなるツボを心得た発言をする。 国際政治を生き抜いた天才的詐欺師だったのかもしれない。 国際支援のカネを使って、大好きなパリで贅沢三昧の生活をしていたことは秘密でもなんでもない。 

 あるいは、プロの亡命政治家と呼ぶべきかもしれない。 世界の注目を常に引きつけ、カンボジアという小さな国の存在を忘れさせないためなら、なんでもやってきた。 そして、1993年、カンボジア和平の実現によって、名実ともに国王に復帰した。

 とにかくマスコミが大好きだった。 1989年、東京でカンボジア和平に関する会議があったときの光景は忘れられない。 会議場から出てきたシアヌークは警備の警察官にはさまれ、まわりを多くの新聞記者に囲まれながら歩いていた。

 とても近寄れないので、数メートル離れたところから大声で、「ミスター・シアヌーク!」と呼びかけた。 すると立ち止まったので、再び大声で会議の見通しを質問した。 すると、彼は大真面目に返答してくれた。 だが、警察官に背中を押されて前に無理やり進めさせられた。 仕方ないと思ったが、彼の背中に向かって、もうひとつ質問してみた。 なんと、彼は首をねじって、必死に顔だけこちらに向けて、またもや答えてくれたのだ。

 駐在していたバンコクでカンボジア問題を追っていたころのことだ。 シアヌークは、慣れない東京で知らない記者たちに囲まれ戸惑っていたに違いない。東南アジア諸国で頻繁に開かれる記者会見で見たような顔に会って、ほっとして、いつもの調子でしゃべってくれたのだと思う。 首を不自然にねじ曲げて懸命に声を出していたときの彼の表情を思い出すと、今でも吹き出したくなる。

 シアヌークの親族には、マスコミ大好きの役者が実に多かった。 バンコクの高級ホテルのロビーで、タイ人記者とともに、シアヌークの娘をみつけ、一緒にコーヒーを飲んだことがある。 ついでに夜はディスコに行こうと誘ったら大喜びした。 残念ながら、その夜はこちらの方が忙しくなってデートは実現しなかったが。

 シアヌークは若いころ、自ら映画を作ったことがある。 どうにもならない駄作だったらしい。 だが、ノロドム・シアヌークは、「国王ノロドム・シアヌーク」という役を十分に演じきり、その衣装を着たまま満足して死んでいったのだと思う。

2012年9月17日月曜日

オリンピック東京開催を阻止しよう


 今、ニッポンにオリンピックが必要なわけがない。力をあわせ、 莫大な馬鹿げた浪費を止めようではないか。東日本大震災からの復興、経済格差の是正、社会保障の充実・・・。 日本には、成すべき重要な課題が山積しているではないか。

 国家主義復活の夢に執着する石原慎太郎が私物化しようとするオリンピックを実現させるほど、日本人、東京都民は愚かではないはずだ。

 1年後に2020年オリンピック開催地が決定する。 われわれは残された1年を有効に使い、東京でのオリンピック開催をなんとか阻止しようではないか。

 ロンドン・オリンピックに人々がどれだけ感動しようが、そのことと東京開催には、なんら関連性はない。  ちかごろ目にするキャンペーン・ポスターは、なんとも幼稚な感情的悪乗りだ。 

 東京開催の推進者たちがスローガンに掲げるように、どうしても東日本大震災からの復興と関連付けたいなら、東京ではなく、福島と仙台での開催を主張しよう。 もっとも、東北の人たちは、そんなカネがあるなら、オレたちを直接支援してくれと言うだろうが。

2012年9月14日金曜日

橋下徹という男



 「大阪維新の会」の橋下徹という男には、なぜか胡散臭さを感じる。 

 既成の政治家、政党、彼らが牛耳る政治に対する不信感が世間に拡散する中で、単純明快な物言いで扇動するスタイルが大衆受けしている。 だが、あの男には、祭りの神社の境内でインチキの安物を口車で売りつけるテキヤの怪しさが漂う。

 そもそも、あんな風に、自信過剰でべらべらとしゃべりまくる男がそばにいたら鬱陶しい。 いっしょに酒を飲みたい相手ではない。

 2012年9月13日付けの読売新聞朝刊は、橋下が中心になって旗揚げした新政党「日本維新の会」を特集していた。 その中で、国家主義右翼の元外務官僚評論家・岡崎久彦が、橋下をおおいに持ち上げていた。 この論評自体が論評の体をなしておらず、岡崎は橋下の掲げる政治スローガンが自分の右翼的思考と同じという理由で、橋下を買っている。 

 例えば、外交について。 岡崎は言う。 「日米同盟を基軸とし、『豪、韓国との関係強化』を目指すとした基本方針は明快だ。 民主党や自民党の政策よりも、米国や自由主義国との連携を重視する姿勢を鮮明にしている。 言葉を換えれば、『中国包囲網の形成』ということだ」

 従軍慰安婦問題について。 「橋下氏は、『証拠はない』『もしあるなら、韓国の皆さんに出してもらいたい』と当然のことを指摘した。 歴史認識がしっかりしているということだろう」

 さらに、教育については、「かなりわかっており、玄人といえるのではないか。・・・・・・・・大阪府知事時代には、教職員に国歌斉唱時の起立を義務づけた」

 右翼・岡崎の礼賛ぶりからよくわかるのは、橋下も国家主義的右翼思考の持ち主だということだ。

 政治不信が蔓延する中で、日本の国力が下降線をたどり、その一方、近隣の中国や韓国が国力を高めている。 こういう状況があるからこそ、橋下のような人物が国民のナショナリズム的感情・欲求不満に訴え、人気を高めることができるのは明らかだ。

 読売の同じ特集記事の中で、京大教授・佐伯啓思は、この点をしっかりと押さえている。

 「橋下は、常に簡単に実現できない目標を設定し、敵を作りながら敵を倒す、という手法をとってきた。 デマゴーグ型の要素が非常に強いポピュリズムともいえる。・・・大衆の中にある鬱積感情のようなものをうまく引き出し、自分のエネルギーに変えてしまえるまれな政治家で、小泉元首相に近い。・・・・・しかし、既成政党がダメだからといって経験不足の素人に政治を任せるのはあまりにリスクが高い」

 現在の日本は、第1次世界大戦での敗北を契機にドイツ帝国が崩壊したあと生まれたワイマール共和国の時代となんらかの共通点があるのだろうか。

 当時、民主的なワイマール憲法が導入されたが、政党が乱立し、政治の不安定化を招いた。そういう中で、ゲルマン民族至上主義を叫び、大衆の国民感情に訴えるナチスが台頭し、ヒトラーという化け物が誕生した。

 橋下がヒトラーほどの大物とは到底思えない。 が、人は道に迷ったとき、とんでもない方角へ向かってしまう。 怖いことだ。

2012年8月22日水曜日

山本美香の死と日本のメディア



 日本人ジャーナリスト山本美香が、内戦のシリアで銃撃され、死んだ。 戦争取材の現場で、死はロシアン・ルーレットみたいなものだ。 いつか誰かが確実に当たる。 ジャーナリストたちはそれをわかっていながら前線へ向かう。 彼女は血を流し、死につつあるとき、自分の命運を受け入れたはずだ。 

 彼女の死を伝える朝日新聞2012年8月22日付け朝刊の1面コラム「天声人語」は、こう書いている。

 「戦争ジャーナリストは割に合わない仕事である。 殺し合いの愚かしさを伝えるために我が身まで狂気にさらすのだから。 しかし、男でも女でも誰かがやらないと、情報戦のウソで塗られた戦場の真実は見えてこない」

 2面の記事では、中東アフリカ総局長・石合力も書いている。 「危険を冒して取材するのはなぜか。 虐殺や人道被害では、現場で記者が取材することが真実にたどりつく限られた方法だからだ」と。

 だが、朝日新聞は、山本が殺されたアレッポのようなシリアの危険な現場に記者を派遣していない。 上記のふたつの記事は奇麗事を並べていても、「わが朝日新聞は真実を取材しておりません」と告白していると受け取れなくもない。 これについて、同紙はなにも説明していない。

 一方、同じ日付の毎日新聞朝刊は3面で、同紙のシリア取材について、興味深い説明をしている。

 「毎日新聞はこれまで、シリア政府発給のビザを取得した上で入国し、取材にあたっている。 記者や助手、協力者の安全に配慮しつつ、できる限り現場で起きている事象を詳細に把握、より多くの当事者の声を聞き、正確な報道に努めている」

 これを翻訳すると、以下のようになる。

 「毎日新聞は、虐殺や反人道的行為を続け、国際的に非難されているシリア独裁政権から正式の許しを得て入国し、取材している。 山本美香のように、反政府勢力の手引きで非合法に入国する危険な取材は行っていない。 現場に直接行って、命をかけるようなことをせずとも、安全に情報を収集し、正確な報道ができると信じている」

 日本の大手メディアは、朝日、毎日に限らず、NHKに代表されるテレビも含め、自社の記者を、今回のシリアだけでなく、戦争などの危険地帯に派遣していない。 その理由は、経営側の意向が働き、行き過ぎた取材競争の末、社員を出張で死なせて莫大な補償金を払ったり、その他もろもろのゴタゴタに巻き込まれるのを避けたいためだ。 1991年のイラク戦争のときに、大手各社が手を組んで、戦争取材に記者を派遣しないという横並びの協定を結んだ。

 それ以来、日本の大手メディアは去勢されている。 日本人記者から命がけの冒険談を聞けるとしたら、それ以前の時期に最前線にいた連中で、現在はほとんどが現役を引いている。

 真実を追い求めることを使命としている新聞やテレビは、今回のような事件が起きると実に悩ましい。 朝日新聞のように、自己矛盾を露呈したり、毎日新聞のように訳のわかったような、わからないような奇妙な言い訳をする。 山本美香からの映像、情報を買っていた日本テレビにいたっては、自分のところの記者に代わって彼女を死なせたと揶揄されかねない立場だ。

 もちろん、取材にあたる記者たちは、こういう現状を苦々しく思っている。 灯りに飛び込む夏の虫のように、どんなに危険であろうと現場に飛び込もうとするのが記者の本能だからだ。

 日本の報道はつまらなくなったと言われて久しい。 それは仕方のないことだ。 現場に記者がいないのだから。 今、彼らは何が楽しくて仕事をしているのだろう。 

2012年8月21日火曜日

理解できなくていいんだ



 一般的な日本人だったら、見に行く前に身構えてしまいたくなるような美術展が、東京・六本木の森美術館で開かれている。 「アラブ美術の今を知る」と謳った「アラブ・エクスプレス展」だ(2012年6月16日~10月28日)。

 そもそも平均的日本人は「アラブ」などという世界や人にまったく関心がない。 しかし、この美術展は宣伝文句からして、「知らなければならない」「知らなきゃ教えてやる」という高飛車な姿勢を感じさせる。 なんとも鬱陶しい。 それでも行ったのは、主催の読売新聞関係者からタダ券をもらったからだ。 それに、かつて、中東にのべ8年も住み、馴染みになったアラブの人々が今、地理的にも精神文化的にも遠く離れた東京で、何を見せようとするのか確かめたかったからだ。

 展示場に足を踏み入れて見て、いやー、ホントに驚いた。 嬉しかったのだ。 旧友に会って、「おまえ、なにも変わっていないなあ」というのと同じ感覚だった。

 展示された作品は、画像や動画を多用し、内容は非常に政治的訴えの色彩が濃い。 日本人のイメージからすると、新聞や雑誌に載っている風刺画という分野に近いかもしれない。

 レバノン人ゼーナ・エル・ハリールの「平和が惑星を導き 雪が星の舵をとる」(画像上)は、3人のヘビ使いが笛を吹き、コブラになぞらえた人物が踊らされている。 ヘビ使いは、左から、シリア大統領バシャール・アサド、パレスチナのイスラム政党ハマス指導者ハリード・マシャル、イラン大統領マフムード・アハマディネジャド。 踊っているヘビは、レバノンのイスラム政党ヒズボラの指導者ハサン・ナスララー。

 周辺諸国の利害が複雑にからみあい、あの手この手でレバノンに介入している政治状況をかなり露骨に描いた作品だ。 

 イラク人ハリーム・アル・カリームの「無題1(「都会の目撃者」シリーズより)」(画像下)は、口を封じられながら目だけは光っている女を描いている。 サダム・フセイン時代の過酷な言論弾圧を表現したものだ。

 そもそも、平均的日本人が複雑なレバノン情勢やサダムの残酷きわまる抑圧の実情を理解しているとは思えないが、もしかしたら、こんなものがアートか、と訝る日本人もいるかもしれない。 だが、アラブ人たちが「政治」をアートの題材に選ぶのは、ごく当たり前のことだと思う。 「政治」が彼らの日々の生活に直接関わっているからだ。

 それは、アラブ世界の悲劇的現状の反映とも言えるが、イスラム教の世界観とも関わっていると思う。 イスラムの世界では、宗教も政治も経済も社会も個人の家庭生活も不可分のものとして一体化している。 だから、人々は家族の問題を愚痴るように政治を批判する。 ただし権力者の耳に入らないところで。

 森羅万象は、神(アラー)という絶対的存在と神を信じるイスラム教徒の関係で決まる。 世の中がうまくいかないということは、神とイスラム教徒の関係に何か問題があるからで、政治は最大の批判対象になる。 その批判とは、彼らには神との関係を正常化するための「生きること」そのものなのだ。

 この世界に慣れ親しんだ者には、懐かしい香りのする展示会場だった。 信仰心の薄いアラブの友人は、イスラム教で禁じられている酒を飲みながら、この会場に溢れているような政治風刺を吹聴していたものだ。 

 おそらく、美術展としては失敗だった。 外部世界の人々の理解を促す抽象化、普遍化が不十分で、ある種の土地勘がないとわからない作品がほとんどだったからだ。 世界がインターネットでつながっても、異なる人間の相互理解など簡単にできることではない。 生身の人間のふれあいなしで、相互理解などありえない。 この美術展は、実は、こんなすばらしいことを教えてくれたのだ。

2012年8月19日日曜日

山へ行こう



 大病で入院生活をして体力は著しく落ちたし、この夏は暑くてたまらない。 しばらく山歩きは休まざるをえないが、全休はしゃくだ。

 で、ウエブをサーフィンしているうちに、今年3月に休刊となった「THE NIKKEI MAGAZINE」という月刊誌が、2008年5月に「東京10名山」という記事を掲載しているのを発見した。 東京23区内の山、かつて山だった土地を紹介したものだ。 定年退職後の退屈オヤジたちに手ごろなお散歩コースらしく、この記事を読んで、「10名山」を丁寧にたどった”山行記”ブログもいくつかあった。 以下は、そのひとつから丸写ししたものだ。

<愛宕山>  地下鉄日比谷線神谷町駅下車
標高25.7m(三等三角点)
講談 曲垣平九郎でお馴染みの男坂(86段)別名「出世の石段」が有名
また、1925年の日本初のラジオ放送の送信地。

<おとめ山> JR目白駅
おとめは乙女ではなくお留め(立ち入り禁止の将軍家狩猟場)
都民のヒーリングスポットになっている公園。

<飛鳥山> JR王子駅
北区は国土地理院に飛鳥山を山として表記するように要望している。
標高 25.3m 東京で一番低い山としてイベントを企画。

<<道潅山> JR西日暮里駅
京浜東北線からの切通し以外は山の面影はないらしいが・・・

<箱根山> JR高田馬場駅
山手線内最高峰 標高44.6m (戸山公園内)

<西郷山> 東横線代官山駅
西郷隆盛の弟の別宅として知られ、東京ラブストーリーで脚光

<志村城山> 都営三田線志村3丁目駅
江戸の交通の要所

<島津山> 
清泉女子大学近くに石段として残る

<池田山>
正田邸跡地は区立公園「ねむの木の庭」となっている。

<御殿山>
高級住宅地、名前のみを留める

 確かに、手軽な東京散歩にはいいだろう。 だが、他人の二番煎じというのが面白くない。 それに舗装道路の照り返しで熱中症になりそうだ。

 それで、昼の熱気が薄らいでくる午後遅く、気持ち良い思いのできるユニークな東京山歩きを計画した。 「~山」という23区内の地名にある食堂や飲み屋を1か所でも訪れたら登頂成功とする。登山開始は午後5時以降。 とりあえず、候補の「山」を駅名と町名からピックアップした。 見逃しがあるかもしれないが、リストを作ってみた。 

①大山(板橋区・東武東上線駅名、町名)
②飛鳥山(北区・都電荒川線駅名)
③御嶽山(大田区・池上線駅名)
④大岡山(大田区・東急目黒線&大井町線駅名、目黒区町名)
⑤西小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑥武蔵小山(品川区・東急目黒線駅名)
⑦小山(品川区町名)
⑧代官山(渋谷区・東急東横線駅名、町名)
⑨円山(渋谷区町名)
⑩鉢山(渋谷区町名)
⑪東山(目黒区町名)
⑫烏山(世田谷区町名)
⑬千歳烏山(世田谷区・京王線駅名)
⑭八幡山(杉並区・京王線駅名、世田谷区町名)
⑮久我山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)
⑯浜田山(杉並区・京王井の頭線駅名、町名)

 きっと、東京ローカルと呼べそうな雰囲気をみつけられると思う。 さて、どこから挑戦しようか。 ヒマラヤへの道もここから始まるのだ。 壮大な夢を抱いて、いざ、赤提灯へ。

2012年8月11日土曜日

「おんな」のロンドン・オリンピック





  ロンドン・オリンピックで日本の女子選手たちが活躍しているのをテレビで見て、”にわか愛国者”たちは大興奮している。 彼らの興味の対象からは大きく外れているだろうが、このオリンピックは、実は、女性の視点からは、とてつもない「歴史的出来事」なのだ。

 8月3日、女子柔道78kg超級1回戦で、プエルトリコのメリッサ・モヒカは試合開始1分22秒で簡単に1本勝ちした。 相手はサウジアラビアのワジュダン・シャヘルカニ、16歳。

 5日後の8月8日、陸上競技女子800m予選では、同じサウジアラビア代表のサラ・アッタル、19歳が、他選手から30秒以上も離され、ダントツのビリでゴールした。

 メダルには程遠い実力。 ワジュダンは黒帯すら取っていなかった。 サラの記録は、日本の中学生にもかなわない2分44秒95だった。 だが、歴史を作ったのは彼女たちだった。 この2人とともに、ブルネイとカタールの女性選手たちも、この栄誉を共有する。 栄誉というのは、オリンピック全参加国による女性選手派遣を史上初めて実現させたことだ。

 いずれも保守的なイスラム国。 他人の男の前で、髪の毛を見せ、あられもない姿でスポーツをすることなど宗教的戒律に則って許されない。 したがって、オリンピックに女性を派遣することなど決してなかった。 他のイスラム諸国にも同様の伝統があったが、時代は徐々に変わってきた。 前回2008年北京大会では、女性選手を派遣しなかったのは、サウジアラビア、ブルネイ、カタールの3か国だけになっていた。

 オリンピック憲章は、性差別を明確に禁じている。 憲章に反する国を除名することもできる。 国際オリンピック委員会は人権団体などからの突き上げもあり、3か国に対し女性を参加させるよう強い圧力をかけた。 確かに、オリンピックからのの除名は、国として拭いがたい汚点になる。 こうして、ロンドン大会開始直前の7月12日、3か国の女性派遣がなんとか実現にこぎつけた。 
 
 1896年第1回アテネ大会以来の近代オリンピックの歴史で、全参加国が女性を派遣したことはなかった。 そればかりではない。 ロンドン大会から女子ボクシングが始まり、これによってオリンピック全26競技のすべてで女子種目が実施されることになった。 ロンドンは、女性参加の記念碑的大会になったのだ。

 近代オリンピックの父クーベルタンですら、女性の参加に関しては「非現実的」「面白くもない」「美的でない」「間違っている」などと、けんもほろろの態度を取っていたとされる。 以来、1900年にテニスとゴルフの女性参加が実現し、1912年水泳、1928年陸上で女性が登場した。 それにしても、全競技、全加盟国による女性派遣までは、120年を要した。

 ワジュダンは試合後、BBCのインタビューにアラビア語で答えた。 「残念ながらメダルは取れなかったけれど、オリンピックに参加できて幸せです」  言葉だけなら負けた日本人選手と同じかもしれない。 だが、その重みはまったく違う。 彼女たちにとっては、まさに「参加することに意義がある」だったのだ。 

2012年7月31日火曜日

デモ見学の勧め



 ”トモヨー ヨアケマーエノー ヤーミーノナカデー”
とか
 ”ウイ シャル オーヴァーカーアム”
なんて、咽を嗄らして、怒鳴るように歌っていた1968,69年ごろの日米安保条約、ベトナム戦争反対の街頭デモ参加者たち。 当時若さを漲らせていた主役の団塊世代、70年安保世代は、何を求めていたのだろうか。 まさか、安保体制と自民党支配を倒して革命が成就されるなんて、誰も本気で思っちゃいなかったろう。

 1979年2月のイラン独裁者パーレビ支配を終らせたイラン革命。 のちにホメイニ信奉者たちが革命の果実を奪ってしまうが、当時、イラン人たちは思想も宗教も越えて、パーレビ打倒を目指し一致団結した。

 この世代のイラン人が言っていた。 「当時は、見ず知らず同士でも助け合う雰囲気が自然に生まれたんだ」と。 例えば、首都テヘランの街を歩いていて、にわか雨にあって濡れていると、通りかかった車が停まって「乗っていけ」と声をかけられるのが普通だった。 誰もが優しい心を持つようになったという。

 1986年2月フィリピンの独裁者マルコスが人民の100万人デモで権力の座から追いやられたころ、首都マニラにいた。 元来人懐っこいフィリピン人がさらに親しげな態度で寄ってくる。 バーで飲んでいるとき「おめでとう」と声を掛ければ、San Miguel ビールの一杯くらいは必ずおごってくれたものだ。 レストランでは、なにかをきっかけに、たちまちフィリピン国歌の大合唱が始まった。

 イランで、フィリピンで、人々のあいだに生まれたものは「連帯感」だと思う。 権力者たちではなく、無名の市民が何かを成し遂げた充実感の共有。

 70年安保世代は当時、何も成就することはできなかった。 そんなことは十分承知の上で街頭デモに繰り出していった。 そこにも、ある種の「連帯感」が生まれた。 みんなで馬鹿げたことをやっているんだぞ、という自虐的な連帯感。 それでも機動隊の催涙ガスに追われたあと、赤提灯で肉体労働者たちと飲む合成酒はうまかった。

 3・11の大災害。 日本人は呆然とした。 莫大な数の死者・行方不明者、東電の無責任体質、政府の間抜けぶり、政治家たちの国民を無視した政治議論と称するトンチンカンな口喧嘩。 すべてに呆然としたのだ。 このままでは、我々が乗っている日本という船は沈没してしまうのではないか。 どうにかしなければ。 

 毎週金曜日に、東京の総理官邸前に集まって反原発を叫んでデモをする人々を見に行った。 老若男女、様々な普通の人々の姿があった。 沈没前に、いても立ってもいられなくなって駆けつけてきたという印象だった。 多くの参加者がこういう催しに不慣れな人々だということは見て取れた。 緊張が表情にあらわれているからだ。

 そう、彼らが求めているのは、「未来への不安」を共有しようという「連帯感」なのだ。 もしかしたら、原発事故というのは、単なる象徴としての「不安」であって、実は、もっと漠とした巨大な不安がわれわれにのしかかっているのかもしれない。

 生レバーを食えない、鰻が高い、クソ暑いのに何が節電だ、上がる消費税、少ない年金、円高、欧州経済危機、シリア内戦、薄気味悪い北朝鮮…。 脈絡なく広がる不安の連鎖。

 うさ晴らしにデモにいくのもいいかもしれない。 警察官は相変わらず知性がなく、デモの規制や参加者数のカウント、写真撮影に忙しい。 だが、重装備の機動隊の姿はなく、当面は強制排除のような強硬策に出る様子はない。 楽しむなら、いまのうちだ。

 それに、日本人が、動員されたのではなく、自発的に、こんな大規模抗議行動をとるのを見る機会は決して多くない。 2003年3月の米国ブッシュ政権が始めた理不尽なイラク戦争に反対するデモは世界中に広がったが、東京での抗議は線香花火みたいなものだった。 とにかく、今回のデモは、歴史的とは言える。 見逃す手はない。

2012年7月23日月曜日

エジプト革命をどう見ようか



 エリザベス・テーラーが妖艶なクレオパトラを演じている古いハリウッド映画を最近、NHK/BS放送で見た。 2000年以上前、そのころの日本はまだ弥生時代だったが、映画で描かれているクレオパトラの宮殿のインテリアは、現在のエジプトの首都カイロにある高級ホテルより、はるかに豪華だった。

 映画のセットは無論大げさに誇張しているだろうが、それでも、あまりに非現実的ではウソ臭くなってしまうから、ある程度は史実を反映しているだろう。 古代エジプト文明は凄かったのだ。
 
 エジプト古代王朝は、日本が縄文時代だった紀元前3000年ごろ形成され、紀元前30年王女クレオパトラの自殺で終る。 最後の王朝は、紀元前332年アレキサンダー大王がエジプトを征服したあと樹立されたギリシャ系のプトレマイオス朝で、ヘレニズム文明の色彩が色濃く、エジプト王朝とは呼びがたい。

 それでは、ネイティブのエジプト王朝はいつまで続いたのか。

 紀元前1000年までにエジプトは、アッシリアなど他民族の侵攻を受けるようになり、紀元前525年にはペルシャに征服された。 その後もエジプト王朝は続くが、最後のエジプト人ファラオは、紀元前360年から342年まで在位したネクタネボ2世とされる。 最後は、ペルシャに追われて上エジプトへ脱出し、ヌビアへの亡命が許された。
 
 つまり、”エジプト人のエジプト人によるエジプト古代王朝”は紀元前342年に終った。 古代から様々な民族が集積してきたナイル川流域がエジプトの核を成すが、民族的に何をもってエジプト人と呼ぶかは難しい。 煎じ詰めれば、自分がエジプト人と思う人間がエジプト人であろう。
 
 その自分がエジプト人と思う人間たちは、最後のファラオ以来、第2次世界大戦後の西暦1952年ナセルを指導者とする自由将校団が150年続いたアルバニア人のムハンマド・アリ王朝をクーデターで倒すまで、実に2,293年間、外国人の支配を受けていた。
 
 以来60年余り。 古代王朝誕生から最後のファラオまでが2700年、それからナセルのクーデターまでが2300年ほど。 60年という期間は、戦争や大統領暗殺や人民革命など色々なことが起きたにせよ、気の遠くなるような歴史的時間の流れからすると、ほんの瞬間でしかない。

 2012年、エジプト初の民主的選挙による大統領が誕生したが、民主政治の定着には予断を許せない不安がある。 だが、ほんの60年という瞬間の中の出来事だ。 2000年単位で生きてきたエジプト人の歴史感覚を、時間尺度がまったく異なる我々が本当に理解できるとは思わない。
 
 おそらく、日干し煉瓦を積んだ粗末な家々が並ぶ農村の埃っぽい光景は、2000年前とそれほど違わない。 アッシリア人もペルシャ人もギリシャ人もローマ人もトルコ人もフランス人もイギリス人もなしで、エジプト人たちが自らの手で国家を作っていく様を、じっくりと見ていこうではないか。

2012年6月19日火曜日

「死病・大動脈瘤破裂からの生還」顛末


<突然の激痛>
  2012年5月13日・日曜日、二日酔い気味の午前中は、一人で、東京・大田区下丸子の自宅で過ごしていた。 

  前日午後、内幸町のプレスセンターで、元毎日新聞記者のジャーナリスト故草野靖夫の「偲ぶ会」が開かれた。 参加したのは、われわれと同じ団塊世代かそれ以上。 ジジイの集まりだったが、久しぶりに旧友と会い、午後明るいうちから有楽町のガード下で本格的に飲み始めた。 夜10時すぎまで話がはずんで、かなり酔った。 帰りの電車では居眠りをして駅を4つも乗り越し、いつ自宅にたどり着いたのか記憶にない。

  朝は二日酔いではあったが、気分が悪くなるほどではなかった。 朝食も普通に摂れた。 つまり、のんびりとした、初夏の日曜日だった。

 午後0時50分ころ、テレビ東京の「なんでも鑑定団」をみようとしたときだった。 便意を感じたのでトイレに行った。 だが便は出ない。それでいて下腹部に便秘時のような重苦しさがある。 数回トイレに行ったが同じだ。 そして、突然の痛みがやってきた。

 これまで経験したことのない痛み。 便意と思った感覚が次第に深い痛みに変わっていく。 からだをエビのように曲げて耐えるが、もうだめだと思った。 病院に行くしかない。

<病院探し>
 だが、救急車は呼びたくなかった。 以前の経験で、救急車は到着しても、車内で問診や血圧、体温測定などで30分近くは出発しようとしない。 しかも、患者を搬送すべき病院を電話で探すが、ベッドが足りない、医師がいないなど様々な理由で、簡単には決まらない。 自分の痛みに、それほど長い時間耐えきる自信はなかった。

 そこで、自分でタクシーを使って病院に行くことにした。 痛みを懸命にこらえながら、大田区の休日診療所の電話番号を探し出し、近隣の大病院、荏原病院に電話した。 だが、交換手は出てくれたが、救急担当が内線の呼び出しに応答しない。 交換手は、ここに直接来てもらっても困る、他を当たってくれという。

 次に電話したのは、田園調布医師会診療所だった。 そして、すぐに来ていいと言った。 無線タクシーを呼んで15分。 やっと来たタクシーの車内に、からだを「く」の字に曲げたまま倒れこむ。運転手の顔が引きつっていた。

<意識を懸命に保ちながら>
 診療所にたどり着いたときには、痛みで気が遠くなり気絶寸前だった。 待合室にいるとき、だれかが「結石?」「盲腸?」などと言っているのが聞こえる。 「こっちの痛みも知らず、勝手なことを言ってやがる」。 診療室に入る。 黒い網目のストッキングをはいた長い足、豹柄のミニスカート。 からだを曲げたままなので顔は見えないが若い女の医師のようだった。 なぜか、気を失いそうなくせに、こんな観察と判断だけはできた。

 その女医は言った。 「ここでは手に負えない」。 そして、自分で電話したときは断られた荏原病院を紹介し、すぐに行くようにと言われた。 どうやら、医療機関同士のあいだには、一般人とは異なる連絡ルートがあるらしい。
 
 ただ、診療所の態度は実に非人間的だった。 激痛で身動きがほとんどできないのに、2000円余りの請求書を突きつけた。 ズボンの尻ポケットから財布を引っ張り出し、やっとの思いでテーブルの上に放り投げる。 「勝手に取ってくれ」という意思表示だ。 相手は「そんなことはできない」と言って、ザルみたいなものの上に見えるように財布を置き、カネを引き出し、釣りと領収書を置いた。 きちんとカネの授受があったことを示すためだ。

 だが、それが終ると、歩くこともできないのに、外に行ってタクシーを捕まえて病院に行けという。 冗談じゃない。 激痛をこらえ歯を食いしばって、救急車を呼んでくれと頼んだ。

 これから先の記憶は曖昧だ。 荏原病院で検査を受けたのは間違いない。 「大動脈瘤破裂、血液外科の専門医がいる昭和大学病院に移って手術をする」と言われたところで、意識は消えた。 「大動脈瘤って何だ?」 消える意識が考えた。

<意識が戻る>
 気付いたのは、翌日5月14日・月曜日だった。 自分でそれがわかったわけではない。 そばにいた誰かが教えてくれた。 もう痛みはなかった。

 あとでわかったことだが、この瞬間が大動脈瘤破裂 という恐ろしい死の病から生還した瞬間だった。自分のからだがどうなっているのか、まったくわからない。 すぐにまた眠りに落ちたのだと思う。  次に目覚めたとき、自分のからだに様々な管がつながれていたのに気付いた。 鼻、口、腕、胸、腹…。 この病院に来てから、何日がたっているのか、まったくわからない。

<大動脈瘤破裂>
 のちに、自分がどういうことになっていたのか知らされて、生きていることが奇跡に近いことがわかった。 平均的数字では、大動脈瘤が破裂し苦痛でのた打ち回っているうちに6割が死ぬ。 そして病院に搬送される途中で2割、手術中に1割、つまり9割が死亡する。 石原裕次郎の死因にもなった。
 
 大動脈瘤ができる原因は、コレステロールによる動脈硬化と高血圧だという。 だが、体質にもよる。 私の場合、コレステロール値、血圧とも悪くはなかった。

 破裂したのは腸骨大動脈瘤だった。 心臓から、からだの下へ腹部大動脈が伸びる。 途中、腎臓への血管が枝分かれし、その先が下腸間膜大動脈、それが両脚の付け根方向へ左右二股になる。 この2本を腸間大動脈という。

 大動脈瘤は左右にひとつずつあり、破裂したのは右側だった。 通常、この破裂で血液約2リットルが体内に流出し、多くの人がこの多量の出血でショック死する。 私の場合、医師によれば、理由は不明だが、この出血が少なめだった。 だが、もうひとつの腸間動脈瘤は、8㌢×11㌢×5㌢という巨大なもので、医学の常識では破裂しないで成長したのが不思議な大きさだったという。 さらに、下腸間膜大動脈にも、,ある程度の大きさの大動脈瘤ができていた。 

<手術>
 手術は、病院に運び込まれた13日の午後6時から始まり、14日午前1時45分まで7時間45分に及んだ。 大動脈瘤を処理し、下腸間膜大動脈から二股に分かれた腸管大動脈までの部分を切除し、長さ約40㌢、逆Y字形の人工血管で繋いだ。 家族は最悪事態(死亡)に備え、手術終了まで、ずっと待機していた。

 手術では、臍の上10㌢あたりから恥骨の上まで開腹した。 術後すぐに縫合すると内臓が壊死する恐れがあるため、3日間開いたままにしていた。

 意識がちゃんと戻ったのは、おそらく、病院に運び込まれてから4日後の5月16日、腹部の縫合が終ったあとだったのだと思う。

<ICU(集中治療室)>
 術後入ったICUのベッドで、5月16日に家族と筆談したノートが残っている。 ほとんど判読不能だ。 文字を書こうとしても、ペンを持った指とノートとの距離感がわからず、しかも指があらぬ方向へ動いてしまう。 なにかを書いても文字にならないのだ。 ただ、かろうじて読める部分にはこう書いてあった。

「死にそこなった?」

 どうやら、このときには事態を呑み込めていたようだ。

 ICUには、5月26日まで2週間近く入っていた。 尿道にはカテーテルが入れられ小便は垂れ流し、大便はオムツに排出する。 初めての経験で、若い男女の看護師たちに後始末をしてもらうのは、当初かなりの抵抗感があった。 だが、身動きできず自分で何もできないとわかってみると抵抗感はすぐに消えた。

 顔なじみになった若い女の看護師は後始末をナース・コールのスウィッチを押して頼むと、気軽な ダジャレで返事をした。 「シリコンバレーね、すぐ行きま~す」。 (参考までに、病院語では、ションベンを「お小水」、ウンコを「お通じ」という)

 それにしてもICUでの2週間は辛かった。 鼻と口から栄養補給と呼吸のための管が差し込まれ、からだを思うように動かせず、節々が痛くなる。 ときどき息苦しくなったり、腹痛がする。 脂汗をじっとりとかいたかと思うと寒気に襲われる。

 もっとも辛かったのは、喉にたまった痰の吸引だった。 看護師が喉に管を差し込み、痰を吸い出す。 5秒間か10秒間、苦しくて全身が硬直する。 

<ICUシンドローム>
 長くICUに入っていると、日にちや時間の感覚がなくなり、様々な幻想、幻覚にとらわれるようになる。 これをICUシンドロームという。

 確かに、それはやってきた。 まず、今いる病院が、かつて住んでいたトルコのイスタンブールにあると思い始めた。 場所は市中心部から郊外の国際空港へ向かう道路沿いのどこか。
目を閉じて、なにかを見るとデジタル・カメラのズームのように、視線を向けたものが拡大されて見える。 目を離すと小さくなる。

 ベッドから首をあげて足元の方を見ると、水平なはずのベッドも床も垂直になっていて、恐ろしく高いところから下を見下ろしている。 足がすくむ。 何度かまばたきをすると元に戻る。
こうした現象は、目覚めている時間が次第に長くなり、日にちの感覚が戻ってくるにつれ消えていった。

<ICUから一般病棟へ>
 ICUにいた最後の数日、からだを起こしベッドのへりに座れるようになった。 さらに、看護師たちの手助けで立ち上がってみる。 かろうじてバランスをとることができる。 ためしに、その場足踏みをやってみるが、膝が上がらない。 それでも、足を動かせたのは、嬉しい瞬間だった。

 5月25日、口と鼻に差し込んであった管がとっぱらわれた。 これだけで、ずいぶん元気を取り戻せた気になった。
 
 翌26日、ついにICUから一般病棟に移された。 瀕死の病人が晴れて、普通の病人に格上げされたのだ。 ただ、チンボコのやつは、かなり戸惑ったようだ。 尿道のカテーテルが外され、それまで2週間も続いていた垂れ流しが急に終った。 だが直ちには適応でjきない。 尿意を感じるや否や、我慢することができず排出してしまうのだ。 適応するまでには1日以上かかった。

 点滴も終わり、おかゆ中心の食事になった。 だが、縮んでしまった胃は簡単には食べ物を受け付けない。 当初は、ほんの一口、二口を飲み込むのが精いっぱいだった。 腸も働かない。 このときから、消化器官のリハビリが始まった。

 手術後の点滴で水ぶくれになり異常に増えた体重とウエストが減少し始めたのは、このころからだった。 入院前、体重は66㌔、ウエストは79㌢程度だったが、ICUにいたときには、体重が74㌔、ウエストが94㌢にも達した。 (2週間後に退院したときに体重は60㌔にまで落ちていた)

<体力の回復>
 歩く練習も始めたが、車輪の付いた支え車につかまって10㍍も歩くと、へとへとに疲れた。
しかし、このあとの体力回復はめざましかった。 病棟の廊下は約50㍍。 支え車なしで動けるようになってからは、ここを毎日歩き、少しずつ距離を伸ばした。 初めのうちは50㍍歩くと息が切れた。 だが、まもなく廊下往復100㍍に距離が伸びた。 だが、たったこれだけの距離を歩くだけで、股関節周辺の筋肉に疲労感がどっとやってきた。
 
 ところが、10日後の6月4日には、この廊下を1日のべ30往復、3㌔も歩けるようになった。 こうなってくると、病院の中はいかにも狭い。 病院からの無断外出の回数が次第に増えていったのは、当然の成り行きだった。 おかげで、病院から近い旗の台駅周辺の商店街については、かなり詳しくなった。

 ベテラン看護師が言った。 「ひょっとして、勝手に外出していない?」 どうやら、無断外出はバレバレだった。

<退院>
 着実に体力回復している姿を見て、医師が「いつ退院してもいい」と言ってから1週間、6月16日に退院した。 当分は、食事を食べ過ぎないようにきちんと摂り、与えられた薬を忘れずに飲む。 病院内とそれほど変わらない生活が続く。 急ぎすぎないように体力を回復しなければならない。 今年の秋にはテニス、冬にはスキーが目標だ。

<支えてくれた友情・愛情>
 5月13日に入院したあと、妻が何人かの友人・知人に連絡した。 「あいつが死にそうだ」というニュースは瞬く間に広まったようだ。 意識が戻ってから、友人たちからの応援メールを見た。 こんなに多くの人々が心配してくれたんだ、と驚きながら感激した。 

 Mは、「あなたを必要としている人たちのために頑張って」と意識不明の私にメールしていた。 敬虔なクリスチャンのSは神に祈ってくれていた。 
5月30日、メールを打てるまで体力が回復し、友人たちに「ありがとう」のメールを送った。

 「やっとメールを書けるようになりました。ただ、皆さま一人一人に書く体力がないので、とりあえずは、このご挨拶で許してください。
どうやら、地獄の一丁目までさ迷い込み、三途の川を振り返ってみたら、戻った方が絶対楽しいと気付いたんでしょうね。
 生き返って、皆さまから頂いたメールを読ませてもらって、それを実感しました。不覚にも、うれしくてベッドでぼろぼろと泣いてしまいました。
 ボクは、ダイハードで悪運が強いと自覚(自負?)してましたが、それはカンボジアとかアフガニスタンとかイランとかイエメン、アルジェリアといった戦場の修羅場で、今度みたいに、自分のからだを戦いの場にしたのは初めてのことでした。
 色々な意味で勉強になりました。
 元気に退院したら、話をたくさんきいてください。
 皆さま、本当にありがとう。会える日を楽しみにしています。」

 退院した今、私が死なないで済んだのは、実は、偶然でも悪運でもなく、家族や友人、多くの人たちの心の支援があったからだと思えてきた。

2012年6月3日日曜日

南相馬を歩く


 1980年に、イラクのサダム・フセインの野望で始まったイラン・イラク戦争。 緒戦でイラク軍は南部国境の町ホラムシャハルに総攻撃を加えて占拠した。 イランは80年代半ばに奪還したが、町は完全に破壊され、残骸の山に埋もれていた。 なぜ、そこまで破壊しつくさねばならなかったのかわからない。 1988年に、この地を訪れたとき、そこに人間が住んでいた臭いは皆無だった。

 2012年5月9日、時空瞬間移動をして、ホラムシャハルに戻っていた。 広大な土地に散らばる壊れた車両、かつて建物だったコンクリートや鉄骨の膨大な量の残骸。 物陰にさっと姿を隠すスナイパー。 いや、それは錯覚か。

 もちろん、ここはイランではない。 日本国福島県南相馬市原町区小沢。 2011年3月11日の大津波と原発汚染から1年以上。 初めて津波の破壊力を目の当たりにした。 残忍無比のサダムの狂気であろうと、その破壊力は津波の比ではなかった。 サダムは大量の重火器と航空機、戦車を投入したのに、津波は瞬間の破壊で、何も残さず忽然とすべてを消した。

 津波襲撃から、かろうじて逃れることができた高台の農家に、一人の老人がいた。 「がんばっぺ東北」と白地の刺繍がある紺色のベースボール・キャップをかぶっていた。

 なんと話しかけていいかわからないので、「その帽子似合うね」と言ったら、「こんなものやるよ、うちにまだ沢山ある、ボランティアが置いていったんだ」。 投げやりな気持ちをぶつけられた。

 そりゃそうだ、こんな帽子を被っただけで元気が出て、海水がたっぷりとしみ込んだ田んぼが元通りになるわけがない。 

 訊けば、今75歳、田んぼ一筋で生きてきた。 行政が水田の塩分除去を支援してくれても使えるようになるまで10年はかかるとみる。 そのとき85歳。 年齢を考えれば、新たな希望に自分を託すには時間が短すぎる。 老人は現実主義者だった。 広大な荒地をじっとみつめ、余生の過ごし方を模索していたのだ。

 イラン人は「美しい町」という意味の「ホラムシャハル」の名前を「フニンシャハル」に変えた。 「血の町」という意味だ。 それが多くの市民が殺された現実だった。 日本のどこかのメディアがどこかの被災地を「ゴーストタウン」と表現したら袋叩きにあった。 津波報道に死体は決して登場しなかった。日本社会の徹底した「反現実主義」。 広島や長崎が名前を「原爆」と変えなかったように、まだ「津波」を冠した市町村はない。 イラン人と日本人のあまりに異なる美学。

 被災地で老人と語るのは辛い。 南相馬市の隣り、飯館村の深谷地区は広々とした畑一面が黄色いタンポポに覆われていた。 放射能汚染で畑を耕作できなくなったためだが、その美しさに引かれて車を停め、近くの部落に足を向けた。

 すぐに、入り口でオレンジ色のジャケットを着た「防犯パトロール」2人に阻止された。 部落内に入るには役所の許可証が必要だという。 いきなり、ぶらりと許可もなく入り込もうとした我々は、胡散臭く見られた。

 防犯パトロールと言っても、20代の男性と70代の女性。 ごく普通の人たち。 プロの犯罪者が本気になれば片付けるのは簡単だ。 20kmほど離れた仮設住宅に住んでいて、当番制でパトロールに来ているそうだ。

 やっと警戒が解けて、世間話をしているうちに、老女が突然口走った。 「これから、どうしたらいいんでしょう」。 たった5分しか会話していないよそ者にぶつけた絶望の発露。

 おそらく、この年代の農民が田畑に戻ることはほぼ不可能であろう。 ガン宣告にも似た告知を彼らは受けていないに違いない。 田畑は永遠の存在で百姓一人の生涯のうちに消え去るものではなかった。

 「うちの父さんは人生のすべてが田んぼだった。 コメを作る田んぼが消えて、津波から1年以上たってもぼんやりしている」

 南相馬市鹿島区八沢浦の干拓地で会った老婆が言った。 夫は田んぼがもう返ってこないことを理解できないのだという。

 その干拓地で何台かのブルドーザーが動いているのを見た。 老婆によれば、あぜ道を取っぱらって広大な1枚の水田にする作業が始まった。 塩分の中和にはまだ年月がかかるが、若い世代が農業法人を作って将来の大規模農業を目指そうとしている。 新たな再生の動きだが、老人たちが魂を込めたコメ作りの伝統、古き良き村落共同体は形を変えざるをえないだろう。

 今、南相馬の飲食店街は活況を示している。 そして、旅館はどこも満杯だ。 何もない南相馬に落ちるほとんど唯一の現金は、復興現場で働く外部からの土木作業員たちのふところからのものだ。 住民たちは再生の気配をまだ感じていない。 だが、奇妙な復興景気は始まっている。

 感傷的なボランティアたちの善人意識とはまったく異なる論理で、この町の生まれ変わりが始まっているのかもしれない。 

2012年4月29日日曜日

アジア料理の名店「Gili」が消える


  東京・吉祥寺のヨドバシカメラ横の裏通りを入ったあたりにある小さなレストラン「Gili」を知っている人は、いわゆるエスニック料理のかなりの通だ。


 オーナー・シェフの飯塚俊太郎は、東南アジア諸国からインド、エジプト、チュニジア、トルコまで足を伸ばし、自らの五感で様々な食を体験してきた。


 体得した味を昇華させ、土着の素朴さを保ちつつ優美に創りあげた品々がテーブルに並ぶ。


 自分で美味いと納得した料理しか出さない。 それは、インドネシアやタイ、ベトナム、インドであり、そうではない。 その味は、飯塚俊太郎そのものなのだ。


 この店の凄さは、そこにある。



  その「Gili」が、まもなく店を閉じる。 ゴールデンウィーク最後の5月6日。 吉祥寺に誕生してから、わずか6年半。


 ここで、その事情は語らない。 だが、飯塚俊太郎が新たな旅立ちをしようとしているのは確かだ。   
 舞い戻ってくるときは、新たな蓄積をしているに違いない。 そういう男なのだと思う。 

2012年4月21日土曜日

とっても不思議な大時計



 初めて見る人は、それが大時計だと気付くのに、しばらく時間がかかるだろう。 いや、「大時計ではないかと気付く」と言い換えるべきかもしれない。 それにしても、長針も短針もない。 
 丸い文字盤(?)に等間隔で12の四角い穴があいていて、よく見ると、赤く光っている。 さらに、じっと見ると、緑色と黄色がひとつずつ光っているのがわかる。 自分の腕時計と見比べ、どうやら、緑色が短針、黄色が長針と推測できる。
 普通の視力の人でも、この大時計を見て、現在時間をすぐに言うことはできないだろう。 色弱の人はまったく識別できないに違いない。
 この意味不明の大時計は、多摩川の東京側、ガス橋と多摩川大橋の中間あたり、巨大な清掃工場の外壁にある。 住所でいうと、大田区下丸子2丁目。 
 工場の正式名称は「東京23区清掃一部事務組合 多摩川清掃工場」という。 「一部事務組合」というのは、地方自治法で定められた複数の自治体が共同して行う事業の主体になる組織だそうだ。 つまり、東京23区が共同してゴミ処理をしている工場ということなのだ。
 それはいいが、なぜ、こんな時計を設置したのだろうか。 工場の責任者ですら、この時計を見て、すぐに時間がわかるわけがない、と自覚している。
 どうして、そんなことがわかるかというと、工場の正面入り口横に、ご丁寧にも「壁面大時計の読み方」という説明の看板があるからだ。 とはいえ、この通りに歩行者はほとんどいない。 そこは旧多摩堤通りで、走り抜けるクルマばかりだ。
 だが、大時計だとわかるにしても、こんな場所に設置した理由がわからない。
 工場は、旧多摩堤通りと、さらに通りと平行に走る多摩川のサイクリングコースがある土手に面し、その先は河川敷の野球グラウンドと川の流れ。 
 サイクリングやジョギング、ウォーキングの人たち、野球に夢中の子どもたちが、ここで時間を知ろうとするとは思えないし、昼間は明るすぎて時計の発する光がよく見えない。 しかも河川敷からでは近過ぎて、ななめ横から見上げても時間を読み取れない。
 最もよく見えるのは、東京側ではなく、対岸の川崎側、日没から夜明けの間であろう。 ただ、こんな時間の河川敷は、東京側でも川崎側でも人通りはほとんどいない。 誰がこの時計を必要としているのか。
 多分、大時計を日々、いつも眺めているのは、川崎側のブルーハウスに棲むホームレスたちであろう。 「東京23区清掃一部事務組合」は、川崎のホームレスのために大時計を設けたのか。 東京都民の税金を使って。
 万が一そうだとしたら、大間違いの現状認識だ。 近ごろは、ホームレスでも携帯電話を持っているし、CASIOの腕時計くらいは、はめている。
 不思議な、不思議な大時計。 どなたか、この謎を解いてください。 

2012年4月18日水曜日

猫にたかったカンボジア人たち

 1990年代初めのカンボジアは、長い内戦の末期だった。 政府はまともに機能していなかった。 極貧の国は物価レベルが恐ろしく低くて、1週間の飲み食いに1万円もかからなかった。 しかも食事は、平均的カンボジア人からすれば とんでもないご馳走だった。 しかも、スコッチ・ウイスキーや輸入ビールのがぶ飲みで。

  国民を支える経済基盤は破壊されたままで、人々はそれぞれの才覚で生きるための収入を獲得しなければならなかった。 最も手っ取り早い方法は、外国人にたかることだった。 「たかる」と表現したが、カンボジア人たちに罪の意識はほとんどなかったと思う。

  例えば、訪問した外国人ジャーナリストには外務省の下っ端役人を通訳・案内として付けることが義務付けられ、1日数十ドルの「個人的謝礼」が慣例になっていた。

 また、当時、外国からカンボジアへの空路は、ハノイ-プノンペン間のベトナム航空しかなかったが、プノンペン市内の予約事務所に行くと、なぜか、いつも満席だった。

 20席ほどの小さな飛行機で、事務所のカンボジア人スタッフは、汚れたノートに鉛筆やボールペンで書き込んだ予約乗客名簿をみせてくれる。 確かに席は埋まっている。 だが、スタッフは5ドル出せば乗れるという。 払うと、名簿の一人の名前を、ボールペンで線を引いて削除し、その横に、こちらの名前を書き、航空券にコンファームのOKスティッカーを貼ってくれる。

 初めは、袖の下を使ったような後ろめたさを感じたが、いつでも同じ手順なので、名簿がインチキで事務所スタッフのお手軽な外貨稼ぎだと気付いた。

 ジャングルの中の反政府ゲリラだって、戦闘ばかりでは食っていけない。 タイ国境近くには武器市場があって、ゲリラは自分たちの自動小銃やロケット砲を売っていた。 買いに来るのはタイの武器商人で、彼らはビルマの反政府組織に10倍の値段で売っていた。

 そういう時代だったのだ。 生きるために何でもしなければならなかった。 カンボジア政府軍兵士たちは元リゾートホテルのプールでワニを飼っていた。 育てて鰐皮用に売るためだ。 虐殺時代を耐え抜き、懸命に生きようとしていた彼らの行為を非難することはできない。

 あのころから20年。 カンボジアは様変わりした。 かつてポル・ポト派ゲリラの襲撃を警戒し神経を尖らせながら辿り着いたアンコール・ワットが、普通の観光客であふれている。

 日本のお笑い芸人・猫ひろしの騒ぎ・スキャンダルを週刊新潮で読んだ。 煎じ詰めれば、カンボジア国籍とロンドン五輪マラソンのカンボジア代表の座をカネで買ったということのようだ。 週刊文春も後追いし、当事者たちが報じられた内容を否定していないところからすると、すべては本当のことなのであろう。

  カンボジアへの支援活動を続けている女子マラソンのメダリスト有森裕子は、「日本人に代表を譲るカンボジア選手を思うと…」と、出演したテレビでコメントしているうちに涙ぐんでいた。 きっと、純な女性なのだろう。

 だが、20年前のカンボジアを見ていると、彼女ほどナイーブにはなれない。 猫の五輪出場を仕掛けた安っぽい日本人たちより、むしろ、カネを受け取ったか、せびったカンボジア人のメンタリティに目が行く。 極貧状況では生きる手段だった「たかり」が、豊かな未来が見えるようになった今も、カンボジア人のクセになってしまっているのではないかと、もどかしくも悲しくなるのだ。     

2012年4月15日日曜日

古いカメラ

 インドネシアの暴動に巻き込まれ群衆とともに警察に追われたとき、密入国したビルマのジャングルで反政府ゲリラ基地に潜入したとき、アフガニスタンのソ連軍基地に恐る恐る忍び寄ったとき、カンボジアの地雷原に誤って踏み込もうとしたとき、塹壕の中でイラン兵の死体を抱いてイラク軍の砲撃が収まるのを待っていたとき、トルコのクルド人地域で警察に捕まったとき…。
 ずっと生死を伴にしてきたNIKON F2やPENTAX。 全部で5台、いずれも頑丈なボディ。 あちこちに擦り傷や凹みがあるが、今でもフィルムを装填すれば被写体をしっかり捕らえる。 とは言え、ディジタル時代に出番はなく、棺桶のような引き出しの中でずっと眠っていた。 邪魔だが愛着があり、別れる決心がつかなかったからだ。

 久しぶりに、開かずの引き出しを開け、傷だらけで値が付かないのはわかっていたが、思い切って全部売り払った。 案の定、ただ同然の査定だったが、それでも店に引き取ってもらった。

 「ただ同然」。

 なんだか、カメラではなく、自分自身が歩んできた人生を査定されたような気がして落ち込んだ。

 故買商は客にもっとやさしくあるべきだと思ったが、彼らとて、癌宣告をする医者に似た内面の苦悩につきまとわれているに違いない。

  無論、良き故買商と良き医者の場合だが。


 (画像は、Nikon倶楽部 プロフェッショナルカメラ図鑑 講談社MOOK 2001年発行より)

2012年4月4日水曜日

ビルマ民主化をめぐる悲観論の展開

 4月1日に行われたビルマ国会(連邦議会)の補欠選挙で、長年にわたり軍事政権と対立してきたアウン・サン・スー・チー率いる国民民主連合(NLD)が圧勝した。 そうなると、これで、この国の民主化に弾みがつくのだろうか、と誰でも考える。 ところが、この問いに対し、世界中の政府、専門家、メディア、それにビルマ人自身ですら、自信を持った答えを示してくれない。 それほど、ビルマ(ミャンマーと呼ぶべきか)というのは不可解な国なのだ。
 ただ、この1年余り続いている”政治改革”と受け取れる動向を、米国も、米国に追随する日本ももちろん、欧州連合(EU)も歓迎し、「さらなる民主化」を求めている。 それでは、この”民主化”の行く末は何なのか。 これがわからない。 これまで力で国民を支配してきた軍事独裁が、すんなりと民主国家に変身するイメージが誰の頭の中にも湧いてこないからだ。

 今注目されているプロセスを遡ると、2003年8月30日に、当時の軍政首相キン・ニュンが発表した「民主化へのロードマップ」にたどりつく。 つまり、軍政の描いたシナリオ通りの”民主化”に、スー・チーも彼女を支援する米国務長官ヒラリー・クリントンも踊らされていることになる。

 このロードマップは、民主化実現まで7つの段階を踏む。 以下が、その段階と経過だ。

 第1段階 国民会議を招集する。                              (2004年)

 第2段階 国民会議で、民主的システム構築のための検討をする。

 第3段階 新憲法草案を作る。                               (2008年 4月 9日)

 第4段階 新憲法承認のための国民投票を行う。                   (2008年 5月10日)

 第5段階 国会召集のために自由で公正な選挙を実施する。            (2010年11月17日)

 第6段階 新国会召集。                                    (2011年 1月31日)

 第7段階 国会に選ばれた指導者、政府機関が民主国家建設を進める。    (2011年3月30日)

 現在は、最後の第7段階に達し、軍籍を離れたテイン・セインが大統領に就任して軍政が終わり、民政が行われていることになる。 その下で、この1年間、多数の政治犯が釈放され、アウン・サン・スー・チーの地方での政治活動が認められ、少数民族の反政府武装組織との停戦が実現した。 また、労働組合結成を認める新労働法が導入され、平和的デモも認められるようになった。

  こうした状況をにらんで、米国、EUはビルマへの経済制裁を緩和する検討を開始し、日本企業は新たな激安賃金労働市場への活発な進出合戦に突入した。

 そして、今回の補欠選挙でのスー・チーの勝利。 補欠選挙は、連邦議会(664議席)のうちの43議席と地方議会の2議席だけで、スー・チーのNLDが全議席を獲得しても勢力地図への影響は皆無に近い。 だが、次回2015年総選挙でのNLD大躍進を十分に予感させる結果となった。

 だが、おそらく、1年前に政治の表舞台から公式に引き下がった軍も、2015年NLD大躍進までは想定内としていることだろう。 それは、2008年公布の現憲法から十分読み取ることができる。

 この憲法によれば、第1章<連邦の基本原則>として、「国軍は国家の国民政治の指導的役割に参画する」(第6条)、「国軍は憲法を擁護する主たる責任を負う」(第20条)etcとうたっており、連邦政府の閣僚も、国防、内務、国境管理は国軍最高司令官が指名すると規定している。 また、第4章<立法機関>では、連邦議会全議員の25%は国軍最高司令官の指名としている。

 こうした憲法規定によって、国家における軍の中心的役割は明確に示されている。 NLDなどの反軍政・民主化勢力が議会で大躍進したとしても、「軍の中心的役割」を覆し、真の文民支配による民主主義を実現するのは容易いことではない。

 さらに、軍が憲法上の”保険”としたのが、第12章<憲法改正>だ。 ここでは、連邦議会全議員の20%以上の賛成で憲法改正の法案を提出、75%以上の賛成で改正を可決した上で、国民投票にかけ有権者の過半数の賛成で改正が成立するとしている。

 民主化勢力の主張の中心にあるのは、政治からの軍の全面撤退だが、軍人が25%を占める議会で、75%以上の賛成を獲得して憲法改正を実現することは、ほぼ不可能だろう。

 そればかりではない。 軍は、自らの「中心的役割」を保障するための最終手段も憲法に盛り込んでいる。 第11章<非常事態に関する規定>だ。

 第418条 「反乱、暴力および不正で強制的な手段による連邦の主権を奪取する行動または企てにより、連邦の分裂、国民の結束の崩壊、もしくは主権の喪失が起きる」。 これを「非常事態」とし、「非常事態が発生した場合、または発生するに十分な理由がある場合」、大統領は「非常事態宣言」をする。 そして、大統領は連邦内を元の状態に速やかに回復させるため、「国軍最高司令官に、連邦の立法権、行政権、司法権を委任することを宣言する」としている。

 軍は引っ込んではいない、いつでも出てくるぞ-という恫喝とも思える規定だ。

 2008年憲法を読むかぎり、軍主導の”民主化プロセス”は、もう終ってしまったのだ。 スー・チーのメディア露出度がいくら高まっても、民主化幻想にとらわれるべきではないのかもしれない。

 とは言え、民主化への希望が膨らむ楽観論も描けないわけではない。 それは次の機会にまわそう。 

2012年3月28日水曜日

ドイツのテレビがえぐった「原子力むら」

 あれから1年。 ドイツのテレビ局ZDFが制作したドキュメンタリー「フクシマのうそ」が、日本で関心を呼んでいる。 日本の原発政策を牛耳ってきた「原子力むら」に鋭く切り込んでいるからだ。 それを教えてくれたのは、日本の大新聞で記者をやっている友人だった。 無論、ドイツのテレビが放映したような「原子力むら」の実態については、日本のメディアも伝えている。 だが、このドキュメンタリーが目を引くのは、具体的証言でファクトを構築しているところだ。 友人が勤める大新聞は原発推進を社論としていたせいか、3・11で露呈した「原子力むら」の「悪」に、ほとんど言及していなかったように思える。 つまり、あの新聞の多数の読者は、この問題を目にしていないのかもしれない。 それなら、このドキュメンタリーを紹介しておく意味があるだろう。

 以下は、「フクシマのうそ」のスクリプト(http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-546.htmlより)。映像は、http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-546.html

 *   *   *   *   *   *

 (我々は放射能から身を守り、警察から外人と見破られないよう防護服を着こんだ。汚染され、破壊した原発が立っているのは立ち入り禁止区域だ。そこに連れて行ってくれることになっている男性と落ち合った。なにが本当にそこで起きているか、彼に見せてもらうためだ。)

 (ナカ・ユキテル氏は原子力分野のエンジニア会社の社長で、もう何十年間も原発サイトに出向いて働いてきた。フクシマでも、だ。)

 (私たちは見破られず、無事チェックポイントを通過した。作業員たちが作業を終え、原発から戻ってきたところだった。)

 (3月11日に起こったことは、これから日本が遭遇するかもしれぬことの前兆に過ぎないのかもしれないことが次第にわかってきた。そしてその危険を理解するには、過去を理解することが必要だ。)

 (私たちは立ち入り禁止区域の中、事故の起きた原発から約7キロ離れたところにいる。ナカ氏はここで生活をし、福島第一と福島第二の間を股にかけて仕事をしてきた。ナカ氏と彼の部下は、何年も前から原発の安全性における重大な欠陥について注意を喚起してきた。しかし、誰も耳を貸そうとしなかった。)

 <ナカ氏> 私の話を聞いてくれた人はほんのわずかな有識者だけでその人たちの言うことなど誰も本気にしません。日本ではその影響力の強いグループを呼ぶ名前があります。原子力むら、というのです。彼らの哲学は、経済性優先です。この原子力むらは東電、政府、そして大学の学者たちでできています。彼らが重要な決定をすべて下すのです。

 (私たちは東京で菅直人と独占インタビューした。彼は事故当時首相で、第二次世界大戦以来初の危機に遭遇した日本をリードしなければならなかった。彼は唖然とするような内容を次々に語った、たとえば首相の彼にさえ事実を知らせなかったネットワークが存在することを。)

 (マスメディアでは彼に対する嘘がばらまかれ彼は辞任に追い込まれた。彼が原子力むらに対抗しようとしたからである。)

 <菅前首相> 最大の問題点は、3月11日が起こるずっと前にしておかなければいけないものがあったのに、何もしなかったことです。原発事故を起こした引き金は津波だったかもしれないが当然しておくべき対策をしなかったことが問題なのです。この過失は責任者にあります。つまり、必要であったことをしなかった、という責任です。

 (では原発事故の原因は地震と津波ではなかったのか?原子力むらの足跡を辿っていくと、嘘、仲間意識と犯罪的エネルギーの網の目に遭遇する。調査は2つの大陸にまたがった。まずカリフォルニアに飛んだ。目的地はサン・フランシスコである。)

 (私たちはある男性と話を聞く約束をしていた。彼は長年原子炉のメンテナンスの仕事でフクシマにも何度も来ておりかなり深刻なミスや事故を東電が隠蔽するのに遭遇した。フクシマの第1号原子炉は70年代初めにアメリカのジェネラルエレクトリック社が建設しそれ以来アメリカのエンジニアが点検を行ってきた。そしてフクシマでは何度も問題があった。)

 <ハーノ記者> 東電は、点検後、何をあなたに求めたのですか?

 <スガオカ氏> 亀裂を発見した後、彼らが私に言いたかったことは簡単です。つまり、黙れ、ですよ。何も話すな、黙ってろ、というわけです。

 (問題があるなど許されない日本の原発に問題など想定されていない。アメリカのエンジニア、ケイ・スガオカ氏もそれを変えようとすることは許されなかった。)

 <スガオカ氏> 1989年のことです、蒸気乾燥機でビデオ点検をしていて、そこで今まで見たこともないほど大きい亀裂を発見しました。

 (スガオカ氏と同僚が発見したのは、それだけではない。)

 <スガオカ氏> 原子炉を点検している同僚の目がみるみる大きくなったと思うと彼がこう言いました。蒸気乾燥機の向きが反対に取り付けられているぞ、と。

 (もともとこの原発の中心部材には重大な欠陥があったのだ。スガオカ氏は点検の主任だったので正しく点検を行い処理をする責任があったのだが、彼の報告は、東電の気に入らなかった。)

 <スガオカ氏> 私たちは点検で亀裂を発見しましたが、東電は私たちにビデオでその部分を消すよう注文しました。報告書も書くな、と言うのです。私はサインしかさせてもらえませんでした。私が報告書を書けば、180度反対に付けられている蒸気乾燥機のことも報告するに決まっていると知っていたからです。

 <ハーノ記者> では、嘘の文書を書くよう求めたわけですか?

 <スガオカ氏> そうです、彼らは我々に文書の改ざんを要求しました。

 (スガオカ氏は仕事を失うのを怖れて、10年間黙秘した。GE社に解雇されて初めて彼は沈黙を破り日本の担当官庁に告発した。ところが不思議なことに、告発後何年間もなにも起こらなかった。日本の原発監督官庁は、それをもみ消そうとしたのだ。)

 (2001年になってやっと、スガオカ氏は「同士」を見つけた。それも日本のフクシマで、である。18年間福島県知事を務めた佐藤栄佐久氏は、当時の日本の与党、保守的な自民党所属だ。佐藤氏は古典的政治家で皇太子夫妻の旅に随行したこともある。はじめは彼も、原発は住民になんの危険ももたらさないと確信していた。それから、その信頼をどんどん失っていった。)

 <佐藤前知事> 福島県の原発で働く情報提供者から約20通ファックスが届きその中にはスガオカ氏の告発も入っていました。経産省は、その内部告発の内容を確かめずに、これら密告者の名を東電に明かしました。それからわかったことは、私もはじめは信じられませんでした。東電は、報告書を改ざんしていたというのです。それで私は新聞に記事を書きました。そんなことをしていると、この先必ず大事故が起きる、と。

 (それでやっと官僚たちも、何もしないわけにはいかなくなり、17基の原発が一時停止に追い込まれた。調査委員会は、東電が何十年も前から重大な事故を隠蔽し、安全点検報告でデータを改ざんしてきたことを明らかにした。)

 (それどころか、フクシマでは30年も臨界事故を隠してきたという。社長・幹部は辞任に追い込まれ、社員は懲戒を受けたが、皆新しいポストをもらい、誰も起訴されなかった。一番の責任者であった勝俣恒久氏は代表取締役に任命された。)

 (彼らは、佐藤氏に報告書の改ざんを謝罪したが、佐藤氏は安心できず、原発がどんどん建設されることを懸念した。そこで佐藤氏は日本の原発政策という「暗黙のルール」に違反してしまった。2004年に復讐が始まった。)

 <佐藤前知事> 12月に不正な土地取引の疑いがあるという記事が新聞に載りました。この記事を書いたのは本来は原発政策担当の記者でした。この疑惑は、完全にでっち上げでした。弟が逮捕され首相官邸担当の検察官が一時的に福島に送られて検事を務めていた。彼の名はノリモトという名で遅かれ早かれ、お前の兄の知事を抹殺してやる、と弟に言ったそうです。

 事態は更に進み、県庁で働く200人の職員に圧力がかかり始めました。少し私の悪口を言うだけでいいから、と。中には2、3人、圧力に耐え切れずに自殺をする者さえ出ました。私の下で働いていたある部長は、いまだ意識不明のままです。

 (それで、同僚や友人を守るため、佐藤氏は辞任した。裁判で彼の無罪は確定されるが、しかし沈黙を破ろうとした「邪魔者」はこうして消された。これが、日本の社会を牛耳る大きなグループの復讐だった。そして、これこそ、日本で原子力むらと呼ばれるグループである。)

 <菅前首相> ここ10~20年の間、ことに原子力の危険を訴える人間に対するあらゆる形での圧力が非常に増えています。大学の研究者が、原発には危険が伴うなどとでも言おうものなら、出世のチャンスは絶対に回ってきません。政治家は、あらゆる援助を電力会社などから受けています。しかし、彼らが原発の危険性などを問題にすれば、そうした援助はすぐに受けられなくなります。反対に、原発を推進すれば、多額の献金が入り込みます。それは文化に関しても同じでスポーツやマスコミも含みます。

 このように網の目が細かく張りめぐらされて、原発に対する批判がまったくなされない環境が作り上げられてしまいました。ですから原子力むらというのは決して小さい領域ではなくて国全体にはびこる問題なのです。誰もが、この原子力むらに閉じ込められているのです。

 (東電から献金を受け取っている100人以上の議員に菅首相は立ち向かった。その中には前の首相もいる。やはり彼と同じ政党所属だ。ネットワークは思う以上に大きい。多くの官僚は定年退職すると、電事業関連の会社に再就職する。)

 (1962年以来、東電の副社長のポストは、原発の監査を行うエネルギー庁のトップ官僚の指定席だ。これを日本では天下り、と呼んでいる。しかし反対の例もある。東電副社長だった加納時男氏は、当時与党だった自民党に入党し、12年間、日本のエネルギー政策を担当し、それからまた東電に戻った。)

 (このネットワークについて、衆議院議員の河野太郎氏と話した。河野氏の家族は代々政治家で、彼の父も外相を務めた。彼は、第二次世界大戦後、日本を約60年間にわたり支配した自民党に所属している。原発をあれだけ政策として推進してきたのは自民党である。)

 <河野議員> 誰も、日本で原発事故など起こるはずがない、と言い続けてきました。だから、万が一のことがあったらどうすべきか、という準備も一切してこなかったのです。それだけでなく、原発を立地する地方の行政にも、危険に対する情報をなにひとつ与えてこなかった。いつでも、お前たちはなにも心配しなくていい、万が一のことなど起こるはずがないのだから、と。彼らはずっとこの幻想をばらまき、事実を歪曲してきた。そして今やっと、すべて嘘だったことを認めざるを得なくなったのです。

 (この雰囲気が2011年3月11日に壊れた。日本がこれまでに遭遇したことのない大事故が起きてからだ。14時46分に日本をこれまで最大規模の地震が襲った。マグニチュード9だった。しかし、地震は太平洋沖で始まったその後のホラーの引き金に過ぎなかった。時速数百キロという激しい波が津波となって日本の東部沿岸を襲った。津波は場所によっては30メートルの高さがあり、町や村をのみこみ消滅させてしまった。約2万人がこの津波で命を失った。)

 (そして福島第一にも津波が押し寄せた。ここの防波堤は6メートルしかなかった。津波の警告を本気にせず、処置を取らなかった東電や、原発を監査する当局は警告を無視しただけでなく、立地場所すら変更していたのだ。)

 <菅前首相> もともとは、原発は35mの高さに建てられる予定でした。しかし標高10mの位置で掘削整地し、そこに原発を建設したのです、低いところの方が冷却に必要な海水をくみ上げやすいという理由で。東電がはっきり、この方が経済的に効率が高いと書いています。

 (巨大な津波が、地震で損傷を受けた福島第一を完全ノックアウトした。まず電源が切れ、それから非常用発電機が津波で流されてしまった。あまりに低い場所に置いてあったからである。電気がなければ原子炉冷却はできない。)

 <菅前首相> 法律では、どの原発もオフサイトサンターを用意することが義務付けられています。福島第一ではその電源センターが原発から5キロ離れたところにあります。これは津波の後、1分と機能しなかった。それは職員が地震があったために、そこにすぐたどりつけなかったからです。それで電源は失われたままでした。こうして送電に必要な器具はすべて作動しませんでした。つまりオフサイトサンターは、本当の非常時に、なんの機能も果たさなかったということです。法律では原発事故と地震が同時に起こるということすら想定していなかったのです。

 (菅直人はこの時、原発で起こりつつある非常事態について、ほとんど情報を得ていなかった。首相である彼は、テレビの報道で初めて、福島第一で爆発があったことを知ることになる。)

 <菅前首相> 東電からは、その事故の報道があって1時間以上経っても、なにが原因でどういう爆発があったのかという説明が一切なかった。あの状況では確かに詳しく究明することは難しかったのかもしれないが、それでも東電は状況を判断し、それを説明しなければいけなかったはずです。しかし、それを彼らは充分に努力しませんでした。

 (2011年3月15日、災害から4日経ってもまだ東電と保安院は事故の危険を過小評価し続けていた。しかし東電は菅首相に内密で会い、職員を福島第一から撤退させてもいいか打診した。今撤退させなければ、全員死ぬことになる、というのだ。)

 <菅前首相> それで私はまず東電の社長に来てもらい、撤退は絶対認められない、と伝えた。誰もいなくなれば、メルトダウンが起きれば莫大な量の放射能が大気に出ることになってしまう。そうなってしまえば、広大な土地が住めない状態になってしまいます。

 (菅は、はじめから東電を信用できず、自分の目で確かめるためヘリコプターで視察した。しかし首相である彼にも当時伝えられていなかったことは、フクシマの3つの原子炉ですでにメルトダウンが起きていたということだ。それも災害の起きた3月11日の夜にすでに。

 <菅前首相> 東電の報告にも、東電を監査していた保安院の報告にも燃料棒が損傷しているとかメルトダウンに至ったなどということは一言も書かれていなかった。3月15日には、そのような状況にはまだ至っていないという報告が私に上がっていました。

 (事故からほぼ1年が経った東京。世界中であらゆる専門家が予想していたメルトダウンの事実を東電が認めるまで、なぜ2ヶ月も要したのか、私たちは聞こうと思った。自然災害が起きてからすぐにこの原発の大事故は起きていたのである。)

 <ハーノ記者> 原子炉1号機、2号機そして3号機でメルトダウンになったことを、東電はいつ知ったのですか。

 <東電・松本氏> 私どもは目で見るわけにはいきませんが、上がってきましたデータをもとに事態を推定し、燃料棒が溶け、おそらく圧力容器の底に溜まっているだろうという認識に達したのは、5月の初めでした。

 (膨大なデータに身を隠そうとする態度は今日も変わらない。東電は、毎日行う記者会見でこれらのデータを見せながら、事態はコントロール下にあると言い続けている。しかしこれらのデータの中には、本当に責任者たちはなにをしているのかわかっているか、疑いたくなるような情報がある。)

 (例えば、スポークスマンは、ついでのことのように放射能で汚染された冷却水が「消えてしまった」と説明した。 理由は、原発施設ではびこる雑草でホースが穴だらけになっているという。)

 <ハーノ記者> 放射能で汚染された水を運ぶホースが、雑草で穴が開くような材料でできているというのですか?

 <東電・松本氏> 草地に配管するのは私たちも初めてのことですが穴があくなどのことについては知見が不十分だったと思っています。

 (しかし原発の廃墟をさらに危険にしているのは雑草だけではない。私たちは富岡町に向かった。ゴーストタウンだ。原発廃墟の福島第一から7キロのところにある。私たちはナカ氏に便乗した。彼のような住民は、個人的なものを取りに行くために短時間だけ帰ることが許されている。彼は、地震に見舞われた状態のまま放り出された会社を見せてくれた。今では放射能のため、ここに暮らすことはできない。)

 <ナカ氏> この木造の建物はとても快適でした。とても静かで、夏は涼しく、冬は暖かかった。私たちは皆ここで幸せに暮らしていました。

 (80人の原発専門のエンジニアが、彼のもとで働いており、原発事故後も、事故をできるだけ早く収束しようと努力している。ナカ氏と彼の社員は、原発廃墟で今本当になにが起きているのか知っている。)

 <ナカ氏> 私たちの最大の不安は、近い将来、廃墟の原発で働いてくれる専門家がいなくなってしまうことです。あそこで働く者は誰でも、大量の放射能を浴びています。どこから充分な数の専門家を集めればいいか、わかりません。

 (しかし、まだ被爆していない原発の専門家を集めなければ事故を収束するのは不可能だ。例え、これから40年間、充分な専門家を集められたとしても日本も世界も変えてしまうことになるかもしれない一つの問題が残る)

 <ハーノ記者> 今原発は安全なのですか?

 <ナカ氏> そう東電と政府は言っていますが、働いている職員はそんなことは思っていません。とても危険な状態です。私が一番心配しているのは4号機です。この建物は地震でかなり損傷しているだけでなく、この4階にある使用済み燃料プールには、約1300の使用済み燃料が冷却されています。その上の階には新しい燃料棒が保管されていて、非常に重い機械類が置いてあります。なにもかもとても重いのです。もう一度大地震が来れば建物は崩壊してしまうはずです。そういうことになれば、また新たな臨界が起こるでしょう。

 (このような臨界が青空の下で起これば、日本にとって致命的なものとなるだろう。放射能はすぐに致死量に達し、原発サイトで働くことは不可能となる。そうすれば高い確率で第1、2、3、 5、 6号機もすべてが抑制できなくなり、まさにこの世の終わりとなってしまうだろう。)

 (東京で著名な地震学者の島村英紀氏に会った。2月に東大地震研が地震予知を発表したが、それによれば75%の確率で4年以内に首都を直下型地震が襲うと予測されている。)

 <ハーノ記者> このような地震があった場合に原発が壊滅して確率はどのくらいだとお考えですか?

 <島村教授> はい、とても確率は高いです。

 <ハーノ記者> どうしてですか?

 <島村教授> 計測している地震揺れ速度が、これまでの予測よりずっと速まってきています。私たちはここ数年、千以上の特別測定器を配置して調査してきましたが、それで想像以上に地震波が強まり、速度も増していることがわかったのです。

 (これは、日本の建築物にとって大変な意味を持つだけでなく、原発にとっても重大な問題となることを島村氏は説明する。)

 <島村教授> これが原発の設計計算です。将来、加速度300~450ガルの地震が来ることを想定しています。そして、高確率で発生しないだろう地震として、600ガルまでを想定していますが、この大きさに耐えられる設計は原子炉の格納容器だけで、原発のほかの構造はそれだけの耐震設計がされていないのです。しかし、私たちの調査では、最近の地震の加速度が、なんと4000ガルまで達したことがわかっています。想定されている値よりずっと高いのです。

 <ハーノ記者> 電力会社は、それを知って増強をしなかったのですか?

 <島村教授> 今のところ何もしていません、不十分であることは確かです。これだけの地震に耐えられるだけの設計をしようなどというのは、ほとんど不可能でしょう。

 (ここは原発廃墟から60キロ離れた場所だ。フクシマ災害対策本部では東電、保安院、福島県庁が共同で原発の地獄の炎を鎮火するための闘いの調整をはかっている。私たちは東電の災害対策部責任者にインタビューした。ことに彼に訊きたいのは、どうやって今後これだけ損傷している原発を大地震から守るつもりなのか、ということだ。ことに、危ぶまれている4号機について訊いた。)

 <東電・白井氏> 4号機の使用済み燃料プールには、夥しい量の使用済み燃料が入っています。これをすべて安全に保つためには、燃料プールの増強が必要です。燃料プールのある階の真下に、新しい梁をつけました。

 <ハーノ記者> 原発はほとんど破壊されたといってもいいわけですが、原発が健在だった1年前ですら、大地震に耐えられなかった構造で、どうやって次の地震に備えるつもりなのでしょうか?

 <東電・白井氏> 我々は耐震調査を4号機に限らず全体で行いました。その結果、問題ないという判断が出ています。

 <ハーノ記者> でも、地震学者たちは4000ガルまでの地震加速度が測定されていて、これだけの地震に耐えられるだけの原発構造はないと言っています。半壊状態のフクシマの原発の真下で、そのような地震が来ても全壊することはないと、なぜ確信がもてるのですか?

 <東電・白井氏> その4000ガルという計算は別の調査ではないでしょうか。それに関しては、私は何とも言いかねます。

 <ハーノ記者> 原発を日本で稼動させるだけの心構えが、東電にできているとお考えですか?

 <東電・白井氏> それは答えるのが難しいですね。

 <ナカ氏> これがやってきたことの結果です。この結果を人類はちゃんと知るべきだと思います。

2012年3月20日火曜日

シリア宗派対立の重苦しい不安

 シリアという国は、一体どうなってしまうのだろうか。 独裁政権を倒して、民主的手続きによる新政権を樹立すれば、シリアに平和が訪れるのだろうか。

 アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、あるいは「アラブの春」にしても、政権を倒したあとに真の平和が実現しただろうか。

 シリアに関しては、その歴史を垣間見るだけで絶望的になってしまう。 歴史を足場にして、シリアの現状を眺めると、アサド独裁政権 vs シリア民衆という図式に加え、イスラム教の異端とみなされる少数派のアラウィ派 vs 多数派のスンニ派という宗派対立にも目が行かざるをえないからだ。 実際、このところBBC、CNN、アルジャジーラの報道には、宗派対立拡大への懸念が少しづつ目につくようになってきた。

  2011年に始まった「アラブの春」で、リビアのカダフィ独裁が潰れたとき、シリアの隣国レバノンがらみで、ちょっと注目されるニュースがあった。

 1978年、当時レバノンのイスラム教シーア派最高権威でカリスマ的指導者だったムーサ・サドルがリビアを訪問し、カダフィと会ったあと行方不明になった。 以来、その消息はミステリーになっていたが、サドルの家族が独裁崩壊を機に調査を求め、歴史の過去に埋もれていた名前が久方ぶりに登場した。

 この行方不明自体、カダフィに殺されたという見方もあり、興味津々だが、シリアに関しては、ムーサ・サドルは、多数派のスンニ派から怪しげな異端と目されていたアラウィ派を、イスラム教二大宗派のひとつ、シーア派の一派として公式に認定した人物として歴史に残る。

 1970年、現大統領バシャール・アサドの父、ハフェズ・アサドがクーデターで権力を掌握し、翌71年には大統領に就任した。 人口の10%という少数派アラウィ派出身の初の最高指導者誕生である。 この政権が克服すべき最大の課題は、人口の75%を占める圧倒的多数のスンニ派国民の懐柔であった。

 だが、1973年には、正統イスラム教徒の義務である1日5回の祈り、断食などの義務を持たないアラウィは不信心者だとして、反アサドの暴動が各地に広がった。 アサドは彼らに対し、アラウィもイスラムであり、自らが良きイスラム教徒であることを示さねばならなくなった。

  一方、当時、隣国レバノンでは、ムーサ・サドルがシーア派の基盤強化・拡大を目指し、アラウィ派をも取り込もうとしていた。 こうして、ムーサ・サドルとハフェズ・アサドの利害が一致し、1973年7月、サドルはアラウィをシーア派と認めるファトワ(宗教上の布告)を発した。 宗教上は十分に説得力のあるファトワではなかったはずだが、アサドは正統性を獲得したのだ。

 父子二代にわたるアサド独裁は、アラウィ派が手中にした権力をあらゆる手段で維持していこうする支配メカニズムとも言えるだろう。 それが顕著に示されたのは、1982年、首都ダマスカス北方200km、ハマで反乱を起こしたスンニ派原理主義組織「ムスリム同胞団」を軍を動員して総攻撃し、数万人を虐殺した事件だ。 以来、スンニ派は沈黙させられていた。

 伝統的には、スンニ派が多数の社会で、アラウィ派住民は貧しく、最下層で虐げられていた。 だが、第1次世界大戦後のフランスによるシリア委任統治時代、さらには第2次大戦後の独立を通じ、次第に旧来の社会的枠組みが変化してきた。 そして、ついに、自分たちを見下していたスンニ派の上に立つアラウィ派政権が誕生した。

 権力をいったん手放せば、再びスンニ派支配のもとで抑圧されるアラウィ派に舞い戻ってしまう。 凄惨な報復もあるだろう。 この恐怖感が独裁政権に頑固に固執させる。 おそらく、これは、あまりに単純すぎる見方だ。 アラウィ派の中でもアサド・ファミリーだけに権力が集中し、アラウィ派住民といえども多くが独裁支配に不満を持っているだろう。

 それでも、最近シリア内部から流れてくる情報によれば、治安部隊の住民攻撃は、すべてが無差別ではなく、アラウィ派とスンニ派を選別しているケースもあるとされる。 これが本当であれば、権力維持のための、ある種の ethnic cleansing が始まっているのかもしれない。 つまり、現在の民主化運動とは、30年前のハマと同じスンニ派の反乱で、アラウィ派がそれを武力で殲滅しようとしているという図式だ。

 この図式に基づくシナリオを描けば、対立は今後さらに宗教色が強まっていくだろう。 そうなれば、アラウィ派を邪教とみなすスンニ派の過激なイスラム主義集団が確実に影響力を拡大する。 この種の混乱状態が、アルカーイダ勢力伸張の温床になることは、隣国イラクで既に証明されている。

 2011年12月から、情報機関をはじめとするシリア政府建物が、かなり洗練された爆弾テロの標的になっている。 ところが、反政府勢力を代表するシリア国民評議会、自由シリア軍は自分たちの攻撃ではなくアサド政権の自作自演だとテロを非難している。 このため、一連の爆弾テロの背景はミステリーでもある。 こうした状況を米国政府情報機関は分析し、テロ攻撃のプロ集団アルカーイダがシリアに既に浸透している可能性を指摘している。

 だが、これも確証がない。 しかも、アルカーイダの登場や、一般住民を巻き込む恐れのある爆弾テロの頻発は、アサド政権にとっては、反政府勢力を一般国民から引き離す絶好の宣伝になる。 さらに、アルカーイダ゙の関与が現実になれば、反アサドの運動を支援しようとしている欧米諸国は、さらなる援助を躊躇するかもしれない。 とくに武器援助は、アルカーイダに流出する可能性を否定できなくなり慎重にならざるをえない。

 アサド政権側からすれば、自らはアラウィ派権力維持のために節操のない宗派的行動をどれだけ取ろうが、アルカーイダの行動と爆弾テロが拡大すれば、国内外で、「アサド独裁は必要悪」とみなされ、消極的ではあるが受け入れられる余地が生まれる。 これは、政権側には悪くない状況だ。

 「反独裁」「民主化」「民衆革命」といった奇麗事の言葉で、シリアの現状を語ることはできない。 チュニジアで始まった「アラブの春」から、あの明るい色彩は既に褪めてしまい、どす黒さと血生臭さが漂い始めている。

2012年3月12日月曜日

あれから1年

 「1年」「復興」「がれき」「教訓」「被災地」「震災」「原発」「仮設住宅」「生活再建」「追悼」「希望」「明日」「放射線」「決意」「防波堤」「避難者」「きずな」「祈り」「涙」「再出発」「命」「津波」「トモダチ」「奇跡」「生還」「巨大地震」「遺体」「身元不明」「犠牲者」「黙祷」「警戒区域」「除染」「放射能」「汚染」「鎮魂」「中間貯蔵施設」「遺族」「追悼」「祈り」「いのち」「水没」「濁流」「被災者」「被災地」「広域処理」「埋め立て」「最終処分」「放射性物質」「死者」「不明」「国民」「水素爆発」「メルトダウン」「想定外」「放射性セシウム」「がんばろう」「忘れない」「支援」「電力」「東電」「賠償」「忘れ形見」「悲しみ」「尊い命」「笑顔」「恩返し」・・・・・。

 2012年3月11日。 新聞から拾った「あれから1年」単語集。

 この1年で、なんとなく記憶に残った言葉は、東北のどこかの津波被災地で消防署だか消防団のオジサンがテレビで口にした「自己責任」だった。

 大津波が差し迫ってきたきたとき、避難の指示を待つよりも、自分のとっさの判断と気転で行動する方がいい場合がある、というような脈絡で話しているときに出てきた言葉だ。

 被災地の女性が話していた。 鉄道の踏切遮断機が地震の影響で自動的に降りてしまった。 このため避難しようとする人たちの車が踏切を渡れず行列になった。 背後から津波が来るというのに、彼らは交通規則を守っている。 それを見ていた彼女は「遮断機に突っ込め、津波が来てるぞ!」と運転者に叫んだ。 助かった人のエピソードである。

 「自己責任」とは、こういうことだ。 状況判断を自分でやって、取るべき行動を自分で決める。 だが、津波に飲み込まれようとしているのに交通法規を遵守しようとする日本人には苦手なことかもしれない。 日本人は、個人よりも集団の規範に従い、皆と同じことをするのが最も安全な生き方だと教え込まれて(飼い馴らされて?)きたからだ。

 放牧中のヒツジの群れのリーダーは、ヒツジより少し頭の良いヤギだという。 頭の悪いヒツジたちは常にヤギの後を追う。 だから、ヤギが誤まって川に落ちてもヒツジたちはヤギに従って川に飛び込む。 そして、皆溺れ死んでしまう。 中央アジア・キルギスの遊牧民が教えてくれた。

 消防のオジサンが口にした「自己責任」は、実は、日本人にはとてつもなく重い命題なのだ。 3月11日の新聞を隅から隅まで読んでみたけれど、「自己責任」という単語をみつけることはできなかった。

2012年3月2日金曜日

セピア色の東京オリンピック

 TSUTAYAのキャンペーンで1ヶ月間に無料でDVDを8枚も借りられるというので申し込んだ。 8枚も見たいDVDがなかったので、苦し紛れに市川崑・監督のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」を最後の1枚に加えた。 

 ところが、これがなかなか興味深い映画だった。 1964年という時代風景の一端を見ることができたからだ。

 近ごろは、街のヨタヨタしたジョガーですら、色とりどりのファッショナブルなウエアで身を固めている。 それと比べると、当時の国立競技場でウォーミングアップしている世界の一流アスリートたちの姿は、実にみすぼらしく見える。 彼らが着ているのは、スーパーの安売りコーナーで山積みになっているジャージー上下2枚組990円、寝巻き用のあれではないか!

 どこかの国の女子選手の短パンの腿の部分にはゴムが入っていた。 そう言えば、パンツからゴムが消えたのはいつのことだろう。 ゴム紐の押し売りなんてもいたっけ。

 体操女子のあのベラ・チャスラフスカは本当に美しかった。 東京での活躍で「オリンピックの花」と呼ばれたが、それは正しい。 最近の女子体操は、子どもの曲芸、中国の雑技団みたいだが、チャスラフスカは、あくまでも優美におとなの女を正統的に演じていた。 滲み出る知性は、4年後、1968年チェコスロバキア民主化運動「プラハの春」への参加につながる。

 棒高跳びで、米国のハンセンとドイツのラインハルトが繰り広げた9時間7分に及ぶ死闘は、いまだに伝説になっている。 このとき破れたラインハルトは、引き揚げるとき、気取って櫛を取り出し、乱れた髪を丁寧に整えていた。 こんな身だしなみは、すでに地球上から消滅してしまった。 今なら、ゲイじみた仕草にみえるかもしれない。

 マラソンは、現在の高速レースを見慣れていると、ひどくゆっくり走っているようにみえる。 レース展開もかなり違う。 今では、テレビで見る限り、有力選手たちのほとんどはスタート直後から先頭グループで固まり、 駆け引きを開始する。 だが、東京でオリンピック2連覇を果たしたアベベ・ビキラは、スタート直後からしばらくは、先頭から100m近く離れた最後尾あたりに位置していた。 それでも20kmあたりでトップになり、あとは後続を引き離しダントツの強さをみせつけた。

 レース風景ものんびりしている。 給水所には大きなプラスティックのバケツがあり、立ち止まって柄杓で水をすくい、うまそうに飲んでいる選手の姿もあった。 途中棄権選手をピックアップするバスには「落伍収容」と大書きされていた。 こんな表現は、現代では「なんとかハラスメント」ではないか。

 コースの甲州街道沿いに、大きなビルはまだ建っておらず、田園風景が広がっている。 遠い、遠い昔の出来事。 あれから半世紀。

 どこかのキチガイたちが、わけのわからない怪しげな目論見で、もう一度、東京オリンピックをやろうとしているらしい。  そんなグロテスクなオリンピックだけは目にしたくない。 

2012年2月27日月曜日

シリアのクルド人たち



              (クルド人地域=ピンク色の部分)

 国家を持たずに、人口で世界最大の少数民族クルド人。 正確な数字は不明だが、総数は3000万人ともいわれる。 トルコに1500万、イラクとイランに500万ずつ、シリアに200万が、4か国の国境をまたいで居住し、それぞれの国で、複雑な民族問題になっている。 人口が多いだけに、彼らの独立心が高まれば、国家基盤を揺るがしかねないからだ。

 「アラブの春」の反乱がシリアで勢いを増し、予断を許せない状況になっている。 この政治的、社会的に不安定な状況の下で、シリア人口の10%を占めるクルド人たちは、どう対応しているのだろうか。

 彼らの動向について、メディアはほとんど伝えていない。 だが、近い将来、独裁政権が倒れ、民主化が実現するなら、これまで抑圧されてきたクルド人たちは無視できない存在になるだろう。 サダム後のイラクでクルド人の発言力が高まったように、シリアでも政治を動かす新たな要因になるのは間違いない。 言葉を変えれば、クルド人を無視する民主化は、真の民主化とは言えない。

 実は、1年近く前に始まったシリアの反政府運動に前哨戦があったとすれば、それを演じたのは、人口の76%を占めるアラブ人ではなく、少数民族のクルド人だった。

 シリア北東部、トルコ国境に接する町カミシリ。 クルド人居住地域の中心地だ。 2004年3月12日、この町で、地元カミシリと近隣の町デリゾールのサッカー試合が行われた。 このとき、カミシリのクルド人サポーターとデリゾールのアラブ人サポーターが衝突し、血生臭い乱闘となった。 この結果13人が死亡した。

 騒ぎは、カミシリのあるハサカ県、さらにはシリア第2の都市アレッポ、首都ダマスカス近郊にも拡大し、大量の逮捕者が出た。 騒動は数日間におよび、アムネスティ・インターナショナルによれば、クルド人2000人が拘留され、この中には、女性、子どもも含まれていた。 また、多くのクルド人学生が大学から追放された。

 サッカー試合を契機に燃え広がった騒動だが、根底にあったのは、長年にわたる差別と抑圧で鬱積したクルド人の不満だった。 シリアのクルド人たちは、「クルドのインティファーダ(一斉蜂起)」として、この2004年の出来事を歴史に刻んでいる。

 少数民族として虐げられているクルド人だが、なかにはダマスカスなどの都会で成功している者もいる。 現大統領の父親ハフェズ・アサドの大統領時代にはクルド人の首相もいたし、国会議員や著名な芸術家もいる。 だが、大多数のクルド人はシリア北東部のトルコとイラクの国境に近い地域で、昔ながらの牧畜や農業で貧しい生活をおくっている。

 シリアのクルド人が政府から組織的差別・抑圧を受けるようになったのは、1963年のクーデターによるバース党独裁政権の誕生以降だ。 強いアラブ民族主義を党是とするバース党は、民族、言語などが異なるクルド人をアラブ民族主義の埒外に置いた。

 具体的には、1962年の国勢調査に基づき、1945年以前にシリア国民だったと証明できる者には市民権を付与し、それ以外は身分証明のない外国人ないしは無国籍者の範疇に入れられた。 市民権がなければ、土地、財産を所有できず、公務員にもなれない。大学の医学部、工学部への入学が禁止され、シリア人との結婚が許されない。 パスポートが取得できないので外国にも行けない。 現在、無国籍のクルド人は30万人とされる。

 1970年代には、トルコ、イラクとの国境付近にアラブ人の入植地が設けられた。 実際には、国境の向こう側のクルド人との団結を警戒する政治的意図に基づく”緩衝地帯”だった。 これによって、国境貿易で生計を立てていたクルド人の多くが地元を離れた。

 1991年には、第1次湾岸戦争の結果、サダム・フセイン政権が国際的に孤立し、イラク北部にクルド人自治が確立した。 当然、シリア指導部は自国内のクルド人が刺激を受け分離主義傾向を強めることを警戒した。 クルド人たちによれば、当局は国民の分割統治策を取った。 つまり、「クルド人はシリアからの分離・独立を画策する危険な連中だ」と宣伝し、アラブ系住民の危機感を煽ったという。 2004年のサッカー騒乱は、こうした虐げられた歴史の延長線上で起きた。

 シリア国内のクルド人は、トルコ、イラク、イランのクルド人のように、激しい反政府活動でニュースになることはなかった。 それだけに、当時、この出来事は驚きをもって受け取られた。 この騒乱は数日間で鎮圧されたが、反抗の火は消えたわけではなかった。 以降、反政府騒動は散発的ではあるが、ずっと継続していく(以下、Human Rights Watch 作成の年表より)。

 2005年6月5日/暗殺された聖職者の1周忌の行進がカミシリで行われ、治安当局は数十人を逮捕。

 2006年3月20日/アレッポでクルドの新年ノールーズの祭りに参加した数十人を治安当局が拘束。

 2006年12月10日/カミシリでクルド人の人権を訴えたデモ参加者を治安当局が襲う。

 2007年11月2日/トルコ軍によるイラク北部のクルド人攻撃に抗議するカミシリでの集会に治安部隊が発砲、1人が死亡、24人が重傷。 多数が逮捕される。

 2008年2月15日/トルコのクルド労働者党(PKK)指導者アブドゥラ・オジャラン逮捕9周年集会参加者多数逮捕。

 2008年3月20日/カミシリのノールーズ祭典で治安当局が発砲、3人が死亡。

 2008年11月2日/ダマスカスでクルド人の土地所有制限に抗議する国会前のデモ参加者200人が逮捕される。

 2009年3月12日/アレッポ大学で2004年事件記念集会、学生13人逮捕される。

 昨年2011年春、シリアで反政府運動が高まり始めたとき、クルド人たちは民主化運動のウォーミングアップを十分に終えていたと言えるかもしれない。

 注目すべきは、政府批判が高まって間もない4月17日に、唐突とも思える大統領令が発令されたことだ。 その内容は、クルド人10万人に市民権を付与するというものだ。 明らかな懐柔策だった。

 レバノンの新聞アルアクバルによると、それから5日後の4月22日、地中海に近いバニアスで行われた反政府デモに参加したクルド人のスローガンは、一般のシリア人には想定外のものだった。

 「クルド人の大義は市民権取得ではない、自由だ」

 彼らは長年渇望していた市民権取得の要求ではなく、シリア人としての民主国家実現を選んだのだ。 クルド人たちは、アサド独裁政権の終焉を嗅ぎとったのだろう。

 だが、クルド人とアラブ人の間に掘られた溝は深く、お互いの不信感がたやすく払拭されるとは思えない。 反独裁統一行動が民族を超えて結成されると甘い期待を持つことはできないだろう。

 イラク北部のドフク郊外には、シリアからのクルド難民のために、1000家族を収容できるキャンプができあがった。 ここに住んでいる難民の1人は、外国人記者に対し、独裁政権への恐怖よりも、アラブ人への不信感を強調していた。

 クルド人の目を通してシリアを見ると、この国の未来像の焦点はぼけ、何もかもが混沌としてくる。