2013年1月11日金曜日

インドが牛肉輸出で世界一だって!!



 2013年1月6日付け読売新聞朝刊に、インドが2012年牛肉輸出で世界一になる見通しという記事が掲載されていた。 インドの人口の80%はヒンズー教徒で、牛を神聖な動物とみなし、殺生を忌避している。 インドを訪れた人にはお馴染みの光景だが、人や車が混雑した通りを牛が悠々と歩いている。 だから、たいていの外国人、おそらくインド人の多くも、インドが牛肉輸出世界一というニュースには、驚きと戸惑いを感じたに違いない。

 だが、「インド人が牛を殺さない」というのは、「イスラム教徒は酒を飲まない」「スイス人は誰でもスキーができる」「ロシア女は若いとき美人でも、年をとると必ずデブになる」「日本人はみんな空手が強い」「スウェーデンではフリーセックスが当たり前だ」「イタリアに行って男に声をかけられない女はいない」といった神話や思い込みの類いと同じらしい。

 ウェブで、長いインド経験のある日本人のブログをみつけた。 約6年前に掲載されたものだが、今回のニュースで感じた疑問にしっかり答えてくれる内容なので、長くなるが全文を引用してみよう。
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 「さまよえる団塊世代・・・インド在年9年・・・ 夢翔る世界紀行 <インドの牛肉消費量は世界4位>」(2007/03/08)より

 インド人は牛を神と崇めている。街中には牛が闊歩し、インド人は牛を大事にする。人口の82%を占めるヒンズー教徒は牛肉を食べない。皆それを知っており、拡大解釈して「インド人は牛肉を食べない」と思いこんでいる人が多い。
 
インドの重要な輸出品の一つに皮革製品がある。牛の皮が主である。皮を使って肉は棄てている筈がない。インドには、2億8千万頭の牛がいる。牛が1億9千万頭、水牛が9千万頭。世界の60%の水牛がインドにいる。

 そして牛を食べるイスラム教徒が1億5千万人いる。インド国内の牛肉消費量は約400万トン、アメリカ、中国、ブラジルに次いで世界4位の牛肉消費国である。更に、輸出量は年間30万トン強(約450億円)であり、輸出先はマレーシア、フィリピン、サウジアラビア、ヨルダン、アンゴラ、などで、昔はカルカッタビーフが有名であった。今はバンガロールビーフも有名になってきている。

 レストランでビーフステーキを食べられるが、殆どがインド国産である。水牛の肉は硬く筋が多く、余り美味くない。インド政府は、「輸出の牛肉の殆どは水牛である」としているが、宗教的背景でそう言っているのであろう、実態はかなりの牛肉が輸出されている筈である。

 水牛のミルクは濃厚で栄養価は牛より高い。値段も牛のミルクより高い。インドのミルク生産量は9千万トンを超え、世界1位である。ヒンズー教徒、ベジタリアンもミルクは飲める。

 ヒンズー教徒とイスラム教徒と牛が共存するインド、イスラム教徒のお陰で牛肉が国内で消費され、結果的に牛の数が保たれ、ヒンズー教徒は日々新鮮なミルクが飲める。イスラム教徒がいないと、インドは牛だらけになってしまう。かなりの雄牛は去勢されているそうだが…。

 「インドは」とか、「インド人は」とか一言で言うと、間違えたり誤解を与えたりする事が多くある。インド、インド人は、多面性のある国家・国民である。
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 過去の記憶をたどってみると、インド人が牛肉を食べないのは本当かな? と疑問を持ったことがないわけではない。

 マニラ中心部の繁華街マビニ通りのマクドナルドに、民族衣装サリーを着たインド人女性数人が入るのを目撃し驚いたことがある。

 1990年代に、ニューデリーでインド人の誰かから、「インドでは牛を殺せないけれど、生きた牛を船で大量に輸出している」ときいて、眉唾っぽい話だなと思ったこともある。

 南太平洋フィジーは英国植民地時代に、サトウキビのプランテーションで働かせるために多数のインド人が送り込まれた。 今ではその子孫が人口の半数近くに達している。 インド人経営の食堂はごく一般的で、入ってみた何軒かの店のメニューには「ビーフカレー」があった。 南太平洋でヒンズー文化が変形したのだろうと勝手に解釈した。

 読売新聞によれば、2012年の牛肉輸出は、1位インド160万トン、2位ブラジル139万トン、3位オーストラリア138万トンとなっている。 だが、米国農務省の最新の推計によれば、2013年にインドはさらに輸出を増やし、216万トンとなり、微増のブラジル、オーストラリアを大きく引き離し、断トツの1位になる。

 インドの牛肉輸出で、あらためて常識にとらわれることの愚かさを学ばせてもらったが、これが、世界が注目する躍進インドの社会変貌の兆候だとすれば、未来を見通すときの不確定要素として心に留め置かねばならないかもしれない。