2012年4月29日日曜日

アジア料理の名店「Gili」が消える


  東京・吉祥寺のヨドバシカメラ横の裏通りを入ったあたりにある小さなレストラン「Gili」を知っている人は、いわゆるエスニック料理のかなりの通だ。


 オーナー・シェフの飯塚俊太郎は、東南アジア諸国からインド、エジプト、チュニジア、トルコまで足を伸ばし、自らの五感で様々な食を体験してきた。


 体得した味を昇華させ、土着の素朴さを保ちつつ優美に創りあげた品々がテーブルに並ぶ。


 自分で美味いと納得した料理しか出さない。 それは、インドネシアやタイ、ベトナム、インドであり、そうではない。 その味は、飯塚俊太郎そのものなのだ。


 この店の凄さは、そこにある。



  その「Gili」が、まもなく店を閉じる。 ゴールデンウィーク最後の5月6日。 吉祥寺に誕生してから、わずか6年半。


 ここで、その事情は語らない。 だが、飯塚俊太郎が新たな旅立ちをしようとしているのは確かだ。   
 舞い戻ってくるときは、新たな蓄積をしているに違いない。 そういう男なのだと思う。 

2012年4月21日土曜日

とっても不思議な大時計



 初めて見る人は、それが大時計だと気付くのに、しばらく時間がかかるだろう。 いや、「大時計ではないかと気付く」と言い換えるべきかもしれない。 それにしても、長針も短針もない。 
 丸い文字盤(?)に等間隔で12の四角い穴があいていて、よく見ると、赤く光っている。 さらに、じっと見ると、緑色と黄色がひとつずつ光っているのがわかる。 自分の腕時計と見比べ、どうやら、緑色が短針、黄色が長針と推測できる。
 普通の視力の人でも、この大時計を見て、現在時間をすぐに言うことはできないだろう。 色弱の人はまったく識別できないに違いない。
 この意味不明の大時計は、多摩川の東京側、ガス橋と多摩川大橋の中間あたり、巨大な清掃工場の外壁にある。 住所でいうと、大田区下丸子2丁目。 
 工場の正式名称は「東京23区清掃一部事務組合 多摩川清掃工場」という。 「一部事務組合」というのは、地方自治法で定められた複数の自治体が共同して行う事業の主体になる組織だそうだ。 つまり、東京23区が共同してゴミ処理をしている工場ということなのだ。
 それはいいが、なぜ、こんな時計を設置したのだろうか。 工場の責任者ですら、この時計を見て、すぐに時間がわかるわけがない、と自覚している。
 どうして、そんなことがわかるかというと、工場の正面入り口横に、ご丁寧にも「壁面大時計の読み方」という説明の看板があるからだ。 とはいえ、この通りに歩行者はほとんどいない。 そこは旧多摩堤通りで、走り抜けるクルマばかりだ。
 だが、大時計だとわかるにしても、こんな場所に設置した理由がわからない。
 工場は、旧多摩堤通りと、さらに通りと平行に走る多摩川のサイクリングコースがある土手に面し、その先は河川敷の野球グラウンドと川の流れ。 
 サイクリングやジョギング、ウォーキングの人たち、野球に夢中の子どもたちが、ここで時間を知ろうとするとは思えないし、昼間は明るすぎて時計の発する光がよく見えない。 しかも河川敷からでは近過ぎて、ななめ横から見上げても時間を読み取れない。
 最もよく見えるのは、東京側ではなく、対岸の川崎側、日没から夜明けの間であろう。 ただ、こんな時間の河川敷は、東京側でも川崎側でも人通りはほとんどいない。 誰がこの時計を必要としているのか。
 多分、大時計を日々、いつも眺めているのは、川崎側のブルーハウスに棲むホームレスたちであろう。 「東京23区清掃一部事務組合」は、川崎のホームレスのために大時計を設けたのか。 東京都民の税金を使って。
 万が一そうだとしたら、大間違いの現状認識だ。 近ごろは、ホームレスでも携帯電話を持っているし、CASIOの腕時計くらいは、はめている。
 不思議な、不思議な大時計。 どなたか、この謎を解いてください。 

2012年4月18日水曜日

猫にたかったカンボジア人たち

 1990年代初めのカンボジアは、長い内戦の末期だった。 政府はまともに機能していなかった。 極貧の国は物価レベルが恐ろしく低くて、1週間の飲み食いに1万円もかからなかった。 しかも食事は、平均的カンボジア人からすれば とんでもないご馳走だった。 しかも、スコッチ・ウイスキーや輸入ビールのがぶ飲みで。

  国民を支える経済基盤は破壊されたままで、人々はそれぞれの才覚で生きるための収入を獲得しなければならなかった。 最も手っ取り早い方法は、外国人にたかることだった。 「たかる」と表現したが、カンボジア人たちに罪の意識はほとんどなかったと思う。

  例えば、訪問した外国人ジャーナリストには外務省の下っ端役人を通訳・案内として付けることが義務付けられ、1日数十ドルの「個人的謝礼」が慣例になっていた。

 また、当時、外国からカンボジアへの空路は、ハノイ-プノンペン間のベトナム航空しかなかったが、プノンペン市内の予約事務所に行くと、なぜか、いつも満席だった。

 20席ほどの小さな飛行機で、事務所のカンボジア人スタッフは、汚れたノートに鉛筆やボールペンで書き込んだ予約乗客名簿をみせてくれる。 確かに席は埋まっている。 だが、スタッフは5ドル出せば乗れるという。 払うと、名簿の一人の名前を、ボールペンで線を引いて削除し、その横に、こちらの名前を書き、航空券にコンファームのOKスティッカーを貼ってくれる。

 初めは、袖の下を使ったような後ろめたさを感じたが、いつでも同じ手順なので、名簿がインチキで事務所スタッフのお手軽な外貨稼ぎだと気付いた。

 ジャングルの中の反政府ゲリラだって、戦闘ばかりでは食っていけない。 タイ国境近くには武器市場があって、ゲリラは自分たちの自動小銃やロケット砲を売っていた。 買いに来るのはタイの武器商人で、彼らはビルマの反政府組織に10倍の値段で売っていた。

 そういう時代だったのだ。 生きるために何でもしなければならなかった。 カンボジア政府軍兵士たちは元リゾートホテルのプールでワニを飼っていた。 育てて鰐皮用に売るためだ。 虐殺時代を耐え抜き、懸命に生きようとしていた彼らの行為を非難することはできない。

 あのころから20年。 カンボジアは様変わりした。 かつてポル・ポト派ゲリラの襲撃を警戒し神経を尖らせながら辿り着いたアンコール・ワットが、普通の観光客であふれている。

 日本のお笑い芸人・猫ひろしの騒ぎ・スキャンダルを週刊新潮で読んだ。 煎じ詰めれば、カンボジア国籍とロンドン五輪マラソンのカンボジア代表の座をカネで買ったということのようだ。 週刊文春も後追いし、当事者たちが報じられた内容を否定していないところからすると、すべては本当のことなのであろう。

  カンボジアへの支援活動を続けている女子マラソンのメダリスト有森裕子は、「日本人に代表を譲るカンボジア選手を思うと…」と、出演したテレビでコメントしているうちに涙ぐんでいた。 きっと、純な女性なのだろう。

 だが、20年前のカンボジアを見ていると、彼女ほどナイーブにはなれない。 猫の五輪出場を仕掛けた安っぽい日本人たちより、むしろ、カネを受け取ったか、せびったカンボジア人のメンタリティに目が行く。 極貧状況では生きる手段だった「たかり」が、豊かな未来が見えるようになった今も、カンボジア人のクセになってしまっているのではないかと、もどかしくも悲しくなるのだ。     

2012年4月15日日曜日

古いカメラ

 インドネシアの暴動に巻き込まれ群衆とともに警察に追われたとき、密入国したビルマのジャングルで反政府ゲリラ基地に潜入したとき、アフガニスタンのソ連軍基地に恐る恐る忍び寄ったとき、カンボジアの地雷原に誤って踏み込もうとしたとき、塹壕の中でイラン兵の死体を抱いてイラク軍の砲撃が収まるのを待っていたとき、トルコのクルド人地域で警察に捕まったとき…。
 ずっと生死を伴にしてきたNIKON F2やPENTAX。 全部で5台、いずれも頑丈なボディ。 あちこちに擦り傷や凹みがあるが、今でもフィルムを装填すれば被写体をしっかり捕らえる。 とは言え、ディジタル時代に出番はなく、棺桶のような引き出しの中でずっと眠っていた。 邪魔だが愛着があり、別れる決心がつかなかったからだ。

 久しぶりに、開かずの引き出しを開け、傷だらけで値が付かないのはわかっていたが、思い切って全部売り払った。 案の定、ただ同然の査定だったが、それでも店に引き取ってもらった。

 「ただ同然」。

 なんだか、カメラではなく、自分自身が歩んできた人生を査定されたような気がして落ち込んだ。

 故買商は客にもっとやさしくあるべきだと思ったが、彼らとて、癌宣告をする医者に似た内面の苦悩につきまとわれているに違いない。

  無論、良き故買商と良き医者の場合だが。


 (画像は、Nikon倶楽部 プロフェッショナルカメラ図鑑 講談社MOOK 2001年発行より)

2012年4月4日水曜日

ビルマ民主化をめぐる悲観論の展開

 4月1日に行われたビルマ国会(連邦議会)の補欠選挙で、長年にわたり軍事政権と対立してきたアウン・サン・スー・チー率いる国民民主連合(NLD)が圧勝した。 そうなると、これで、この国の民主化に弾みがつくのだろうか、と誰でも考える。 ところが、この問いに対し、世界中の政府、専門家、メディア、それにビルマ人自身ですら、自信を持った答えを示してくれない。 それほど、ビルマ(ミャンマーと呼ぶべきか)というのは不可解な国なのだ。
 ただ、この1年余り続いている”政治改革”と受け取れる動向を、米国も、米国に追随する日本ももちろん、欧州連合(EU)も歓迎し、「さらなる民主化」を求めている。 それでは、この”民主化”の行く末は何なのか。 これがわからない。 これまで力で国民を支配してきた軍事独裁が、すんなりと民主国家に変身するイメージが誰の頭の中にも湧いてこないからだ。

 今注目されているプロセスを遡ると、2003年8月30日に、当時の軍政首相キン・ニュンが発表した「民主化へのロードマップ」にたどりつく。 つまり、軍政の描いたシナリオ通りの”民主化”に、スー・チーも彼女を支援する米国務長官ヒラリー・クリントンも踊らされていることになる。

 このロードマップは、民主化実現まで7つの段階を踏む。 以下が、その段階と経過だ。

 第1段階 国民会議を招集する。                              (2004年)

 第2段階 国民会議で、民主的システム構築のための検討をする。

 第3段階 新憲法草案を作る。                               (2008年 4月 9日)

 第4段階 新憲法承認のための国民投票を行う。                   (2008年 5月10日)

 第5段階 国会召集のために自由で公正な選挙を実施する。            (2010年11月17日)

 第6段階 新国会召集。                                    (2011年 1月31日)

 第7段階 国会に選ばれた指導者、政府機関が民主国家建設を進める。    (2011年3月30日)

 現在は、最後の第7段階に達し、軍籍を離れたテイン・セインが大統領に就任して軍政が終わり、民政が行われていることになる。 その下で、この1年間、多数の政治犯が釈放され、アウン・サン・スー・チーの地方での政治活動が認められ、少数民族の反政府武装組織との停戦が実現した。 また、労働組合結成を認める新労働法が導入され、平和的デモも認められるようになった。

  こうした状況をにらんで、米国、EUはビルマへの経済制裁を緩和する検討を開始し、日本企業は新たな激安賃金労働市場への活発な進出合戦に突入した。

 そして、今回の補欠選挙でのスー・チーの勝利。 補欠選挙は、連邦議会(664議席)のうちの43議席と地方議会の2議席だけで、スー・チーのNLDが全議席を獲得しても勢力地図への影響は皆無に近い。 だが、次回2015年総選挙でのNLD大躍進を十分に予感させる結果となった。

 だが、おそらく、1年前に政治の表舞台から公式に引き下がった軍も、2015年NLD大躍進までは想定内としていることだろう。 それは、2008年公布の現憲法から十分読み取ることができる。

 この憲法によれば、第1章<連邦の基本原則>として、「国軍は国家の国民政治の指導的役割に参画する」(第6条)、「国軍は憲法を擁護する主たる責任を負う」(第20条)etcとうたっており、連邦政府の閣僚も、国防、内務、国境管理は国軍最高司令官が指名すると規定している。 また、第4章<立法機関>では、連邦議会全議員の25%は国軍最高司令官の指名としている。

 こうした憲法規定によって、国家における軍の中心的役割は明確に示されている。 NLDなどの反軍政・民主化勢力が議会で大躍進したとしても、「軍の中心的役割」を覆し、真の文民支配による民主主義を実現するのは容易いことではない。

 さらに、軍が憲法上の”保険”としたのが、第12章<憲法改正>だ。 ここでは、連邦議会全議員の20%以上の賛成で憲法改正の法案を提出、75%以上の賛成で改正を可決した上で、国民投票にかけ有権者の過半数の賛成で改正が成立するとしている。

 民主化勢力の主張の中心にあるのは、政治からの軍の全面撤退だが、軍人が25%を占める議会で、75%以上の賛成を獲得して憲法改正を実現することは、ほぼ不可能だろう。

 そればかりではない。 軍は、自らの「中心的役割」を保障するための最終手段も憲法に盛り込んでいる。 第11章<非常事態に関する規定>だ。

 第418条 「反乱、暴力および不正で強制的な手段による連邦の主権を奪取する行動または企てにより、連邦の分裂、国民の結束の崩壊、もしくは主権の喪失が起きる」。 これを「非常事態」とし、「非常事態が発生した場合、または発生するに十分な理由がある場合」、大統領は「非常事態宣言」をする。 そして、大統領は連邦内を元の状態に速やかに回復させるため、「国軍最高司令官に、連邦の立法権、行政権、司法権を委任することを宣言する」としている。

 軍は引っ込んではいない、いつでも出てくるぞ-という恫喝とも思える規定だ。

 2008年憲法を読むかぎり、軍主導の”民主化プロセス”は、もう終ってしまったのだ。 スー・チーのメディア露出度がいくら高まっても、民主化幻想にとらわれるべきではないのかもしれない。

 とは言え、民主化への希望が膨らむ楽観論も描けないわけではない。 それは次の機会にまわそう。