2009年8月25日火曜日

マナーを守ろう


  うちのワンちゃん、食べられちゃったのかしら? 50万円もしたのに。リードを付けとけばよかった。

2009年8月24日月曜日

まいったなあ


社会勉強になると思って、ホームレスのコンペに来たけど、ここでクラブ振るのはやべえよお!

2009年8月18日火曜日

怪物が生まれたジャマイカ



 日本で高級コーヒーの代名詞になっているブルーマウンテンは値段が高過ぎて、普通の人々が買い物をするスーパーにはほとんど置いていない。「ブルーマウンテン・ブレンド」というのはあるが、これは30%ほど混ぜたもので、これでもかなりの値段だ。

 今や、1キロ数万円もするブルーマウンテンを飲むのは世界で日本人だけだという。このコーヒーを栽培しているのは、ジャマイカの首都キングストン近郊に位置するブルーマウンテン山脈の標高800-1200メートル一帯に限られている。ここで収穫される超高級コーヒーの90%が日本に輸出されている。

 ベルリンの世界陸上男子100メートルで9・58秒という驚異の世界記録を出した怪物Usain Boltは、この山々を眺めるトラックでトレーニングを重ねていた。

 日本では「ウサイン」と発音表記されているが、正しくは「ユーセイン」だ。日本のメディアは、そろそろ訂正した方がいいと思う。

 ボルツの母国ジャマイカは、ある意味、とてもドラマティックな国だ。その民族的精神土壌があったからこそ怪物が誕生したのかもしれない。

 ジャマイカの高級リゾートホテルには、all inclusive というシステムがある。日本語にすれば「すべて込み」ということになるが、1泊2食税込みなどというものではない。食事ばかりか、バーの飲み物、テニス、ゴルフ、水上スキー、スキューバダイビング、ウインドサーフィンなど、あらゆるサービスが込みになっている。ホテルの敷地から1歩も外に出る必要がない。

 「至れり尽くせり」ではあるが、実は有料隔離収容施設でもある。この国は外を出歩くには危険すぎると思う人々をゲストにしているだ。

 実際、ジャマイカの10万人当たり殺人発生率(国連統計)34人というのは、南アフリカ、コロンビアに次ぐ世界第3位だ。治安の危険度をやや誇張する癖のある日本大使館の公表する情報を信じれば、観光に来ても町に出てはいけない。

 ギャングの抗争、麻薬密貿易の中継、マネー洗浄、日常茶飯事の強盗…。生き馬の目を抜くような無法社会を泳いでいくには、度胸とすばしこさが求められるだろう。ボルツのふてぶてしさからアウトローの臭いがするのは、社会の反映と言っては言い過ぎだろうか。

 カリブ海の小さな島国の男で世界の注目を集めたのは、ボルツだけではない。ジャマイカと言えばレゲエ、レゲエと言えば、そう、ボブ・マーリーだ。

 100メートルを41歩で疾走するボルツのBGMには、Exodusの歯切れ良いメロディとリズムがぴったりではないか。そもそも、あの走り方は、レゲエの早回しなのだ。

 ジャマイカ出身者には、他にも、とんでもない大物がいる。米国で黒人として初の国務長官になったコリン・パウエルだ。パウエルはニューヨークのハーレムで、ジャマイカ移民の子として生まれた。

 彼こそは、コロンブスが「発見」して以来のジャマイカの歴史を象徴している。西アフリカの黒人たちは、この島のサトウキビ農園で働かせる奴隷として連れてこられた。奴隷解放後は新天地を求め、宗主国・英国を経由して、世界に広がる大英帝国へ散っていった。そして、過去数10年は、主たる渡航先は米国となった。

 ジャマイカの人口は270万あまりだが、世界には祖国を離れた100万人以上のジャマイカ人が住んでいる。かつてのユダヤ人の離散=Diasporaにならって、Jamaican Diasporaと呼ばれる。

 ボルツの「9・58秒」は、こうしたディアスポラの人々をも歓喜させた。

 1988年ソウル五輪100メートルでカール・ルイスに勝ちながら薬物使用で金メダルを剥奪されたベン・ジョンソンも、カナダに移住したジャマイカ人だった。

 今、ジャマイカ人たちは、あの屈辱だけは2度と味わいたくないと思っている。
 
Jamaican in New York
http://www.youtube.com/watch?v=K05pCpxmEX4&feature=related

2009年8月16日日曜日

8月15日の桃太郎


 日本の侵略戦争が無残に終わったと天皇が発表した1945年8月15日水曜日から64年たった蒸し暑い土曜日。テレビをつけると、政府主催の全国戦没者追悼式で、政治生命が尽きようとしている不人気の総理大臣が挨拶原稿を棒読みしていた。

 午後、寝転がって、退屈きわまりない内容で放っておいた新書をなにげなく手にとった。「桃太郎と邪馬台国」(前田晴人著・講談社現代新書)。偶然開いたページを読んでみたくなったのは、8月15日のせいだろう。

 「桃太郎は無上の宝物の獲得を目的として鬼退治にでかけるわけであり、大方の読者は昔から桃太郎が鬼退治をすることは当然とみなしてこの話に接してきたであろう。いわば鬼はわれわれにとって悪辣な存在だという固定観念が根底にあり、桃太郎が鬼から宝物をせしめることには何の疑いも後ろめたさも持たなかったのだ」

 「しかし話の筋を鬼の立場からみた場合、鬼にとって桃太郎は鬼が島という彼ら独自の秩序世界の外部からの唐突なる侵略者にほかならず、桃太郎こそは彼らにとってはそれこそ鬼のような存在なのではないだろうか」

 「桃太郎の鬼退治には善と悪の両極のファクターが常につきまとっており、桃太郎は悪を懲らしめる勇敢な英雄であると同時に、悪の懲らしめという行為そのものが常に略奪と暴力の性格を帯びているという、両義性を同時に内在させた存在なのである」

 あの戦争の思想に見事に適合するおとぎ話「桃太郎」は、軍国主義日本のプロパガンダにおおいに利用された。その点を集約した文章である(芥川龍之介の小編「桃太郎」は、もっと辛辣だ)。今や物珍しくもない指摘だが、8月15日に読んだせいか、インドネシア人の友人の話をふと思い出した。

 それは、彼の母親が語ったという体験談だ。スマトラ島の田舎にインドネシアを占領した日本の兵隊が初めて姿をみせたとき、結婚前の乙女だった母親は、残酷な日本人に凌辱され殺されると思った。戸口に兵隊がやって来たときには、便壺の中に身を潜め、去るのをひたすら待ったという。

 母親にとって、まさしく日本人は「鬼のような存在」だったのだ。友人は、「お前は、それほど悪くはないなあ」と、やさしく言ってくれた。

 日本は、オランダの植民地支配からインドネシアを解放し、独立の達成に貢献したと強調する人々がいるが、それは都合の良い一面にすぎない。「桃太郎=日本の鬼退治には善と悪の両極のファクターが常につきまとっていたのだ」。

 2006年に81歳で逝ったインドネシアの大作家プラムディア・アナンタトゥールに生前会ったとき、日本政府に是非伝えてほしいことがあると語った。

 彼は1979年まで10年以上、政治犯として流刑の島ブル島に収容されていた。送り込まれた当時、この島は現代文明が届かない土地で、住民はジャングルで原始的生活を営む未開人ばかりだった。

 プラムディアはここで、偶然、ジャワの名家出身の女性に会った。未開人同様、木の皮でからだを覆っているだけの姿が不憫だった。

 聞けば、ジャカルタで、無理やり日本兵の相手をさせられているうち、日本の敗戦が確実になった。急遽インドネシアを脱出する日本兵を収容した船に強制的に乗せられたが、足手まといにされ、ブル島で何人かの女性とともに置き去りにされた。そのうちのたった一人の生き残りが彼女だった。

 日本軍はインドネシアで玩んだ女性たちを、生き残れるかどうかもわからない孤島に捨て去ってしまったのだ。まさに鬼の仕業。

 今、夏の高校野球真っ盛り。

 スポーツという擬似戦争に没頭する子どもたちよ、祖父に問うてみよ。

 本物の戦争のとき、あなたは鬼ではなかったのかと。

2009年8月11日火曜日

親日トルコで夏休みを


 夏休み。海外旅行のシーズン。自分たちが行こうとしている国はどんなところ? そんな興味と関心のひとつに「親日かどうか」というのがある。
 実にナンセンスな問いかけだと思う。親日だと何か得することがあるのだろうか。どこの国に行っても、観光客は騙され、ぼられる宿命にあるのだ。親日国でタクシーに乗れば料金をまけてくれるわけでもない。
 日本に住んでいてもわかると思う。いい奴もいれば悪い奴もいる。それが人間社会というもので、世界中同じなのだ。観光客は国賓ではない。親日もへったくれもない。
 それでも日本人は親日かどうかが、とても気になるようだ。「親日」について、代表的「親日国」とされるトルコを素材にして考えてみようか。

 *   *   *   *   *   *
 

 トルコ政府は、イスラム教の国で民主主義が最も根付いているのはトルコであると自負する。そう主張するトルコ政府が最も嫌がるのは、自国の少数民族クルド人への人権抑圧を外国人に指摘されることだ。だが、欧州の政治指導者たちは、トルコの神経を逆撫でしようが意に介さず、クルド問題をずけずけと批判する。

 トルコ駐在の日本のある特命全権大使は、欧州人とはまったく異なる思考経路の持ち主だった。日本の外務大臣がトルコを訪問し、政府首脳と会談する際、クルド問題を絶対に持ち出さないよう画策したのだ。

 「親日国」トルコの気分を害したくないというのが理由だった。人間として生きる基本的権利を否定されているクルドの悲劇への考慮など、この大使にはかけらもなかったと言っていいと思う。

 「親日国」というと、トルコの名前が必ず挙がる。このイメージを傷付けない、それだけが、この日本大使が在任中気にかけたことだった。過去のイメージを守る、つまり、何もしないことで勤務を全うしたのだ。

 だが、今や広く行き渡っているイメージ「親日トルコ」は、作られた幻想と言って、ほぼ間違いないだろう。

 作ったのは、この幻想を懸命に守っている日本外務省とその周辺の専門家たち。

 彼らが「親日トルコ」の最大の論拠にしているのは、「エルトゥールル号事件」である。

 1890年(明治23年)、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本を訪問した帰途、和歌山県沖で遭難して沈没し587人が死亡した。だが、地元・串本町住民の献身的救援活動で69人が救助された。

 「親日トルコ」論者たちは、この事件が日本ートルコ友好の礎となり、今もたいていのトルコ人が「エルトゥールル号事件」を知っているというのだ。

 この説の正否は世論調査でもすれば結果がたちどころに出るだろう。そこまで綿密に調べなくとも、経験的には非常に疑わしい。イスタンブールで身近なトルコ人たち、学歴は大学卒以上に、この事件のことを訊いて、知っているという答えに出会ったことがないからだ。

 もうひとつの論拠は、1905年(明治38年)日露戦争での日本の勝利だ。当時、オスマン帝国はロシアからの強い政治的・軍事的圧迫を受けていた。そのロシアを遠く離れた極東の国が破ってくれた。イスタンブール市民は歓喜で湧き上がったという。

 だが、トルコが日露戦争で親日になったと言うなら、当時、欧州列強の植民地だったアジア、アフリカの国のほとんどを「親日国」と呼ばねばならないだろう。

 有色人種の小さな国が白人の大国に初めて勝利した歴史的事件は、帝国主義支配の下で搾取されていた世界中の人々を驚かせ、将来への希望をもたらしたからだ。

 途上国を訪れる日本人観光客に取り入ろうとするヤカラは、「ホンダ」「トヨタ」「ソニー」など、日本を代表する有名な会社や商品名を挙げて「親日」ぶりをアピールする。日露戦争は、そういう彼らの数少ない日本知識のひとつにもなっている。

 この程度の「親日」で喜んでしまうのは、よほどウブな観光客か、単細胞の似非愛国者だろう。だが、「親日トルコ」論では「日露戦争」は欠くことのできない要素になっている。
 
 さらには、オスマン帝国崩壊のあと生まれたトルコ共和国の「建国の父」、ケマル・アタチュルクは、明治維新を手本にしたとする説を、戦前の駐トルコ日本大使が文芸春秋に書いている。これには出典も証拠も証言もなく、想像の産物としか言いようがない。

 それでも、トルコは親日ではないとは言えない。一般のトルコ人は、日本人に親近感を持って接してくれるように思える。非欧州の文化的、歴史的共通性がどこかにあるからかもしれない。

 別の視点からすると、トルコという国を考えるときの重要な要素として、国境で接するすべての隣国、歴史的に長く接している国との関係が常にぎくしゃくしていることを無視できない。

 具体的には、国境を接する7つの国ーブルガリア、ギリシャ、シリア、イラク、イラン、アルメニア、グルジアとの仲は決して良くない。なんらかの問題を抱えている。そして、オスマン帝国以来、敵として友として、複雑な感情を持たざるをえない欧州。

 トルコ人には、イスラム世界で共通する、ある種の中華思想がある。世界は陰謀が渦巻き、強いトルコの出現を拒もうとする動きに満ち溢れている、欧州がクルド人問題を突き付けるのも陰謀の一環だ、というものだ。

 この猜疑心が近隣諸国との友好関係発展を阻害しているように思える。

 その一方、遠く離れ、”陰謀”に関わっていない国に悪感情は湧かない。それが、まさに日本だ。しかも、東洋の礼節をもってトルコに接し、人権問題を露骨に突き付けることなどしない。観光客はおとなしく、しかもカネをたくさん落していってくれる。嫌う理由などあるわけがない。

 かくて、イスタンブールの観光名所ブルーモスク周辺の客引きたちは、日本の女の子たちに精一杯やさしく接し、巻き上げられるものは何でも、カネでもからだでも巻き上げてしまう。そこには、小さいながらも”民間外交”による確固たる「親日コミュニティ」ができあがっていると言えなくもない。
 

2009年8月7日金曜日

とりあえずビール


 「『とりあえずビール』という言葉は、弊社から発信したものではございませんので、残念ながら私どもではわかりかねます」


 「『とりあえずビール』に関しまして、弊社では、残念ながら知見を持ち合わせておりません。折角お問い合わせをいただきましたのに、お役に立てず申し訳ございません」


 「一般的にビールの泡のもとになります炭酸ガスは、消化促進作用があり、胃腸の働きを活発にし、胃酸の分泌を促すものではございますので、はじめにお召しあがりいただく飲み物としてお選びいただくお客様が多くいらっしゃることも考えられますが、弊社で意図的に作った言葉ではございません。したがいまして、誠に恐れ入りますが弊社ではわかりかねます」


 「お調べを致しましたが、あいにく資料が無く分かりませんでした。おそらく、戦後、ビールが贅沢品から一般的なお酒として親しまれるにつれて発生した習慣と考えられます。ご期待にそうお答が出来ずに申し訳ございません」

      *   *   *   *
 
 酔っ払ったときの愚にもつかない会話で、「とりあえずビール」という習慣が話題にのぼった。飲み会の顔ぶれが揃うと、誰かが「とりあえずビールでいいかな?」と全員に声をかける。このことだ。

 飲み屋によっては、「お得な『とりあえずビールセット』」なんてメニューがあって、中ナマと枝豆と何かがセットになっている。

 で、話題とは、この習慣の起源はなんだ、いつから始まったのだ、俺は最初から焼酎だから関係ねえ、だいたい押し付けがましいのが気に入らねえ、云々。

 おそらく日本だけの習慣だろうが、日本全国、津々浦々、あらゆる酒場で連日連夜、男たちや女たちが「とりあえずビール」から始まる悲喜こもごものドラマを展開している。

 われわれ4人は、最初からチューハイ、冷酒、芋焼酎のロック、芋焼酎のお湯割りとばらばらで、そもそも、みんな一緒はいやだというひねくれ者揃いだから、「とりあえずビール」など他人事でしかない。とはいえ、この習慣の事始めがわからないのは、落ち着かない。

 そういうわけで、そんなことは俺が調べてやると、日本の主要ビール会社にメールで問い合わせてみた。冒頭に紹介したのが、その答えである。どの社も、問い合わせの答えをもらう条件に、一部または全部の引用をしないこととしている。したがって、ここでは回答の会社名は挙げていない。

 だが、ご覧のように、どの社の回答にも引用すべき中身はかけらもない。「そんなこと考えたこともないし、調べたこともないし、関心もない」というのを勿体ぶって遠回しに説明しただけだ。

 「弊社から発信したものではございませんので」、「弊社で意図的に作った言葉ではございません」という「わからない理由」説明には、なにか責任逃れの臭いまで感じさせるが、なぜだろう。担当者は消費者の方を向かず、上司の顔色を窺うのに汲々としているのかもしれない。

 ただ、おかげで、文化への関心が欠如した日本のビール会社の知性は透けて見えた。このレベルからすると、「Guinness」というビール会社は本当にすごい。まあ、日本のビールの味も悪くはないんだが…。

2009年8月4日火曜日

清潔信仰

 アジア、中東、アフリカなどの第3世界に、のべ14年も生活したMが病気に罹ったという話をきいたことがない。

 インドネシア・スラウェシ島の山奥で、住民の80%がマラリア患者という集落に一晩泊まったときは、蚊がブンブン飛んでいて、さすがに観念したという。だが、Mは無事だった。

 パキスタンのイスラマバードで、日本人2人とともに小さな食堂に入り、チキン・マサラを食べたあと、2人は下痢をしパラチフスに罹ったが、Mだけはなんともなかった。

 バンコクでは、名物だが外国人が口にするのを怖がる生ガキが好物だ。どこの国でも必ず生水を口にし、病気を覚悟で、その国の味を試すとうそぶく。

 単なる無謀な蛮行を続けているだけで、Mはやがて大病で野垂れ死にするかもしれない。それはそれでいい。まさに自己責任なのだから。

 彼の生活ぶりは、潔癖症の日本人の対極にある。それゆえに、なにか示唆的である。

 外国人の感覚では汚れに対する病的とも言える日本人の恐怖感は、日本文化の一部であろう。とくに日本的清潔さと縁のない異文化の世界に日本人が置かれると身の回りのすべてが汚れているという強迫観念にとらわれることがある。

 誰もというわけではないが、皮肉なことに、そういう人にかぎってストレスで下痢を引き起こし病気になる。いつもは、ミネラルウォーターで、レタスを洗い、歯磨きのあとのうがいをし、氷を作っている。それなのに、なぜ? その疑問は、たいてい、自分が住んでいる国への嫌悪感へと転化する。

 こうして、第3世界の国々に駐在する企業の奥様方の多くが、その国を嫌いになり帰国するときは逃げるように出国する。

 8月3日の読売新聞に奇妙な社説が掲載されていた。「海外の感染症にかからぬよう十分に注意しよう」と呼びかける社説とも言えない社説だ。

 おそらく、夏休みの海外旅行シーズンに合わせた注意喚起なのだろう。食べ物・飲み水に気を付け、虫に刺されないようにしようと注意事項を挙げている。読者を、遠足に行く前の小学生程度に見下している態度が見え隠れしていると言えなくもない。

 それはいいとして、この注意喚起が想定もしていないのは、「病気になりたくないなら汚いものを恐れるな」という重要な点だ。

 Mのような乱暴をすることはない。普段の生活でも、床に落としたお菓子くらいは拾って食べる習慣が汚れにたいする精神的強靭さを養う。肉体的にも多少の汚れに負けない免疫力を向上させることができると言う医師もいる。

 日本の神道とは、「清潔信仰」だと思う。穢れを清める行為が重要な要素になっている。古代から日本人は清潔さを尊んでいたという。戦国時代に日本にやって来た西欧人は、女性の性的奔放さとともに、実に清潔に維持管理された家屋に驚いたという。(性的奔放さと清潔信仰の関連性は知らない)

 だから、「汚いものを恐れるな」と日本人に言えば、日本文化への挑戦、悪意に取られれば、日本文化の破壊者とみられるかもしれない。

 だが、汚れに満ちた地球村で、日本人だけ無菌状態の隔離を維持することは不可能だ。新型インフルエンザのパンデミックがせまっている。ウィルスから逃げ回っているだけでは、西暦3000年までには人口減少で消え失せるとされる絶滅危惧種「日本人」は、その前にストレスでへとへとになってしまうだろう。

2009年8月3日月曜日

コラソン・アキノの23年間


 8月1日、コラソン・アキノが死んだ。
 そう、あれから23年もたったのだ。新聞の死亡記事に添えられた写真の彼女は、すっかり老けてしまっていた。76歳というのだから、年相応ではあるのだが。

 フィリピンという国に馴染んでいる人にはよく理解できると思うが、あの国に住んでいる人たちは、貧乏人も金持ちもみんなエンタテイナーだ。誰もが自分に求められる役を演じて、人を喜ばせる。悪人は悪人らしく、善人は善人らしく。

 1986年2月のクライマックスに達するまで続いたフィリピン人全員参加の「ピープル革命」というドラマは、やや安っぽい大衆演劇の範疇に入るのかもしれない。だが、わかりやすい筋書き故に、誰もが楽しむことができた。

 主な登場人物は、極悪人の独裁大統領フェルディナンド・マルコスとその妻で彼に負けず劣らずの悪女イメルダ・マルコス、大統領の幼馴染で独裁体制を支えてきた国軍参謀総長ファビアン・ベール。

 そして、悲劇の女主人公が、マルコスとベールの陰謀で夫を暗殺されたコラソン・アキノという役回りだった。

 この他に、反マルコス側に寝返った国軍参謀次長フィデル・ラモス、国防相ファン・ポンセ・エンリレも、ドラマの最後を盛り上げた100万人デモ動員には大きな役割を演じた。

 それにしても、あのドラマを成り立たせるには、極悪人たちが最後まで極悪人である必要があり、その意味で、マルコス夫婦とベールは見事に、憎々しげな役をこなした。

 さらに印象的だったのは、世間知らずの普通の清楚な主婦の繊細さと戸惑いぶりで人々の心に訴えたコラソンの名演技だ。

 聴衆を前にしたコラソンの演説は、あまりに下手で、それが人々の「助けてやらなければ」という同情心をかきたてた。とにかく、緊張で声は震え、原稿を棒読みしながら、つっかえてしまう。

 極悪人の独裁者に挑戦する普通の主婦。これが、このとき行われたフィリピン大統領選挙である。役者はそろった。こんな面白い見ものはそうはない。こうして、世界中のメディアがフィリピンに押し寄せた。

 結末は、ご存知のように、極悪人たちが大慌てで国外に逃亡し、主婦が大統領になるという夢物語の実現。あとで思い返してみれば、絵に描いたように見え透いたハッピーエンド。とても、本当に起きたこととは思えない。絶対に、フィリピンだから起きたのだと思う。

 こういうフィリピン的特殊性、話が面白すぎたことなどを抜きにして語ることはできないと思うが、この出来事はメディアにとっても、画期的だった。

 独裁体制が崩壊するプロセスが余すことなく、リアルタイムで世界中のテレビに流され、何憶もの人々が同時に歴史的事件を目撃したのだ。こんなことは史上初めてのことだった。

 実は、当時、フィリピンで、あの騒ぎのど真ん中にいて、そんなことは知る由もなかった。興奮も収まって2か月ぶりに東京に戻って知り、驚いた。

 久しぶりに、赤ちょうちんの飲み屋に入ったら、サラリーマン風の酔っ払いがフィリピンの将来について興奮して大議論をしていたのだ。

 聞けば、連日のテレビ報道で日本でもフィリピン通が、やたら増えたという。まさに、新しい歴史だ。それ以前に、縁もゆかりもない国の問題、つまり国際問題でニッポンの酔っ払いが言い合いをするようなことがあっただろうか。

 こののち、ベルリンの壁崩壊、天安門事件、湾岸戦争、ソ連解体、そして9・11事件など、世界中の普通の人々が歴史の目撃者になることが当たり前になっていく。

 コラソン・アキノの国際舞台への登場から死までの23年、世界は様変わりした。無論、その後に目撃された殺伐としたドラマに、フィリピンのあの底抜けの明るさは望むべくもなかった。