2009年6月17日水曜日

留置所から見たイラン


 イランが熱くなっている。

 保守派の現職大統領アハマディネジャドと改革派の元首相ムサビが大接戦を演じるとみられていたイラン大統領選挙が、予想に反してアハマディネジャドの圧勝になったためだ。ムサビ支持者たちは不正があったと叫び、街頭で激しい抗議行動を展開している。

 イランでの権力に対する公然たる大規模抗議行動は、1979年のイスラム革命以来であるのは間違いない。日本のメディアも大きなニュースとして報じている。もっとも、この騒ぎが新たな歴史を作る一歩となるかどうか、まだ見極めはつかないが。

 ニュースによれば、かなりの人数が身柄を拘束され、テヘランにある内務省の留置所に放り込まれているという。

 無論、この事態は憂慮すべきなのだが、内務省の留置所と聞いて、つい懐かしくなってしまった。

 イランの革命防衛隊というのは、イスラム革命の精神とそこから生まれた支配構造を頑なに守ろうとする組織で、現在ではアハマディネジャドを支える手足と言える存在だ。ここに属する若者たちの中にも、冗談を理解できる面白いのがいないとは言わないが、概して、頭が固く融通が利かない。

 イラン・イラク戦争が終わる前のことだ。革命防衛隊のメンバーとのつまらない誤解と口論で、身柄を拘束されてしまった。名目は、なんとスパイ容疑。

 スパイとなれば、泣く子も黙るエビン政治犯刑務所に収容され、拷問、そして、もしかしたら死刑。

 冗談じゃない、俺は頭の悪い防衛隊のガキと口喧嘩をしただけだぜ!

 とは言え、内務省留置所の独房に放り込まれてしまった。

 広さは、日本式に言うと四畳半くらい。気になったのは、壁に記された刻みだった。日本人は「正」の字を書いて、ものを数える。イラン人は、「1111」と「1」を4本書き、これに焼き鳥のように串を刺して5とする。

 壁のあちこちに、この刻みがある。ひとつの串刺しがまさか5時間ではあるまい。きっと5日に違いない。その串刺しがいくつも連なっているのだ。

 だが、これは考えても仕方ない、無視することにした。

 やがて、独房の扉が開き、食事が出された。バルバリとアブグシュト。バルバリとは、イラン風のパンであるナンの中では最も分厚く、腹をふくらませるにはいい。肉体労働者が好むとされる。アブグシュトはイランの家庭で最も一般的なトマト味のスープで、肉や豆が入りどろっとしている。

 この食事は、留置所での最初の少なからぬ驚きだった。アブグシュトが想像を超えてうまかったのだ。それまでイランで食べた中で一番だと思った。すぐに平らげ、お代わりをもらえないかと、ダメ元と思って、独房の鉄扉を拳でゴンゴン叩き、看守を呼んでみた。すると、直ぐにやってきた。

 第2の驚きは、看守が実に親切で、まるで客を接待するように微笑んでくれたことだ。そして、アブグシュトを深皿になみなみと足してくれた。

 食事を終えるとトイレに行きたくなり、再びゴンゴンと叩くと、またもや親切に場所を指し示してくれた。トイレには看守が同行するわけでなく、勝手に行って用を済ませた。

 独房に戻るとき、看守部屋にいた2人の看守と目が合った。「こっちに来い」と目配せするので、彼らの部屋に入り、勧められるままに座った。こうして、3人のペルシャ語と英語のたどたどしい会話が始まった。

 2人の看守によると、心配する必要はなく数時間で釈放されるという。たいした理由もないのに留置所に連れてこられる者は珍しくなく、そういう場合は、すぐに放免されるというのだ。

 釈放される前に、担当官が来て手続きをするから、それまで一緒にお茶でも飲んでいよう、独房には戻らなくていい―なんという嬉しい申し出。条件は、担当官が来たら独房に戻って、ずっと入っていたふりをすること。

 つまり、看守たちは内務省という政治的犯罪を取り締まる部署にいながら、その支配体制をまったく信用していなかったのだ。

 われわれ3人は、ついには、面白おかしく日本語会話教室まで始めていた。

 数時間後に釈放されたとき、親しくなった2人の看守とは目配せの挨拶しかできなかった。そばに担当官がいたからだ。なんだか、留置所を去りがたい気持ちになってしまった。

 ときに茶番劇じみたイスラム支配体制。

 あの留置所は、きっと今もそのままだと思う。

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