2011年6月11日土曜日

飛行機事故って




 さる6月4日、北海道の奥尻島で、空港へ着陸しようとした小型旅客機が、地上200mのところで視界不良のため着陸を中止し、再び高度を上げたが、なぜか再び高度が下がり、地上までわずか30mのところで機長があわてて急上昇させ、滑走路への激突を回避したという。 乗客乗員13人の生死は紙一重の差だった。

 日本の新聞は、このトラブルを社会面で大きなスペースを使って伝えていた。 だが、おそらく、世界では、この程度のトラブルは毎日のように起こっているに違いない。 犠牲者が出ないから報道されていないだけだ。

 1981年のことだったと思う。 パプアニューギニアの首都ポートモレスビーから中央高地のマウントハーゲンへ20人乗り程度の小さなプロペラ機で向かった。 マウントハーゲンの飛行場は山に囲まれ、掘っ立て小屋程度のターミナルがある側を除く三方は谷底で、着陸のときは乗客もかなり緊張する。 われわれの飛行機は次第に高度を下げ、車輪が滑走路に触れたが、再び急上昇した。 そのまま着陸すれば谷底に転落することは乗客にもわかった。

 パイロットの2度目の試みで、やっと着陸し、われわれは命を拾った。 数人の外国人乗客はほっとしてターミナルに向かったが、地元の乗客たちは、もしかしたら、こんなことに慣れていたからかもしれない。 数人がかりでパイロットを操縦席から引きずりおろし、腹の虫がおさまるまで頭を小突いていた。 死んだら恨みを晴らせないのだから、このくらいやってもいいんだと、そのとき思った。

 飛行機事故の発生率は地上の交通事故よりはるかに低いというが、これまでの人生で3人の知り合いを飛行機事故で失った。 この数字は多いのか少ないのか。

 1986年、日本の外交官Oはインドネシア・スマトラ島メダンの空港を離陸した直後に落雷で墜落したインドネシア航空機に乗っていた。 Oは誰もが認めるインドネシア語のスペシャリストで、自身もイスラム教徒だった。

 1988年7月3日、イラン南部バンダルアッバスを離陸しアラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャに向かったイラン航空機が、ペルシャ湾を航行していた米海軍ミサイル巡洋艦ヴィンセントのミサイル誤射で墜落、乗員乗客290人全員が死亡した。 その死亡者名簿の中に、テヘラン駐在のパキスタン大使館武官Mの名前があった。 気のいいMは、禁酒国イランで外国人ジャーナリストたちが密かに開く飲み会に気軽に顔を出し、情勢分析を披露してくれたものだ。

 1994年11月、カイロ駐在の日本のテレビ局特派員Iは、ルワンダ内戦の取材に向かった。 当時のルワンダはフツ族とツチ族の衝突で総人口730万のうち80万以上が虐殺され、世界が注目していた。 Iは、いったんケニアの首都ナイロビに飛び、そこでセスナ機をチャーターしてルワンダへ向かおうとした。 だが、離陸まもなくセスナ機は高圧線にひっかかって墜落した。 Iは狙ったトクダネは絶対ものにしてやるという事件記者根性の持ち主だった。

 1988年8月17日には、知り合いではないが、記者会見で何度か顔を合わせていたパキスタン大統領ジア・ウル・ハクが、乗っていた軍用機の墜落で死んだ。 敵が多かったハクだけに、当時、暗殺説が根強く流れたものだ。

 これから死ぬまで飛行機に何回乗るのだろうか。 計算上、乗れば乗るほど、事故に遭遇する確率は高くなっていく。 自分だけは事故に遭わないという確固たる自信はいったい、どこから来るのだろうか。

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