2012年4月18日水曜日

猫にたかったカンボジア人たち

 1990年代初めのカンボジアは、長い内戦の末期だった。 政府はまともに機能していなかった。 極貧の国は物価レベルが恐ろしく低くて、1週間の飲み食いに1万円もかからなかった。 しかも食事は、平均的カンボジア人からすれば とんでもないご馳走だった。 しかも、スコッチ・ウイスキーや輸入ビールのがぶ飲みで。

  国民を支える経済基盤は破壊されたままで、人々はそれぞれの才覚で生きるための収入を獲得しなければならなかった。 最も手っ取り早い方法は、外国人にたかることだった。 「たかる」と表現したが、カンボジア人たちに罪の意識はほとんどなかったと思う。

  例えば、訪問した外国人ジャーナリストには外務省の下っ端役人を通訳・案内として付けることが義務付けられ、1日数十ドルの「個人的謝礼」が慣例になっていた。

 また、当時、外国からカンボジアへの空路は、ハノイ-プノンペン間のベトナム航空しかなかったが、プノンペン市内の予約事務所に行くと、なぜか、いつも満席だった。

 20席ほどの小さな飛行機で、事務所のカンボジア人スタッフは、汚れたノートに鉛筆やボールペンで書き込んだ予約乗客名簿をみせてくれる。 確かに席は埋まっている。 だが、スタッフは5ドル出せば乗れるという。 払うと、名簿の一人の名前を、ボールペンで線を引いて削除し、その横に、こちらの名前を書き、航空券にコンファームのOKスティッカーを貼ってくれる。

 初めは、袖の下を使ったような後ろめたさを感じたが、いつでも同じ手順なので、名簿がインチキで事務所スタッフのお手軽な外貨稼ぎだと気付いた。

 ジャングルの中の反政府ゲリラだって、戦闘ばかりでは食っていけない。 タイ国境近くには武器市場があって、ゲリラは自分たちの自動小銃やロケット砲を売っていた。 買いに来るのはタイの武器商人で、彼らはビルマの反政府組織に10倍の値段で売っていた。

 そういう時代だったのだ。 生きるために何でもしなければならなかった。 カンボジア政府軍兵士たちは元リゾートホテルのプールでワニを飼っていた。 育てて鰐皮用に売るためだ。 虐殺時代を耐え抜き、懸命に生きようとしていた彼らの行為を非難することはできない。

 あのころから20年。 カンボジアは様変わりした。 かつてポル・ポト派ゲリラの襲撃を警戒し神経を尖らせながら辿り着いたアンコール・ワットが、普通の観光客であふれている。

 日本のお笑い芸人・猫ひろしの騒ぎ・スキャンダルを週刊新潮で読んだ。 煎じ詰めれば、カンボジア国籍とロンドン五輪マラソンのカンボジア代表の座をカネで買ったということのようだ。 週刊文春も後追いし、当事者たちが報じられた内容を否定していないところからすると、すべては本当のことなのであろう。

  カンボジアへの支援活動を続けている女子マラソンのメダリスト有森裕子は、「日本人に代表を譲るカンボジア選手を思うと…」と、出演したテレビでコメントしているうちに涙ぐんでいた。 きっと、純な女性なのだろう。

 だが、20年前のカンボジアを見ていると、彼女ほどナイーブにはなれない。 猫の五輪出場を仕掛けた安っぽい日本人たちより、むしろ、カネを受け取ったか、せびったカンボジア人のメンタリティに目が行く。 極貧状況では生きる手段だった「たかり」が、豊かな未来が見えるようになった今も、カンボジア人のクセになってしまっているのではないかと、もどかしくも悲しくなるのだ。     

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