2013年4月4日木曜日

福本豊という生き方



 きのうの夜、久しぶりに読売新聞の記者たちとヤキトリ屋で飲んだとき話題にのぼったのは、長嶋茂雄と松井秀喜への国民栄誉賞授賞ニュースだった。

 ウエブ上では、「戦後プロ野球の大発展に貢献した長嶋の受賞はわかるが、松井には重みが足りない」といったコメントが飛び交っている。 さらには、「それにしても、なぜ、この時機に?」という疑問、「間近にせまった参院選での票稼ぎ」といった批判も目に付く。 ところが、新聞は、巨人軍の親会社・読売だけでなく朝日も毎日も、批判をまともに取り上げず、2人の受賞を喜んでご祝儀紙面を作っている。 大新聞は、安部・自民党政権と一心同体になっているかのようにすらみえる。 少しは距離を置き、今回の国民栄誉賞の意味を冷静に分析すべきではないか。

 国民栄誉賞授賞には、つねに、時の政権の政治的目論見がちらつく胡散臭さが漂う。 だから、こんな賞は受け取らないのが一番だ。 そう考えると、すぐに思い浮かぶのが、この男。 プロ野球・元阪急ブレーブスの盗塁王・福本豊。 飄々とした生き様を振り返ってみよう(以下、Wikipediaより)。

 福本は、地元大阪の大鉄高等学校時代、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて、球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き、内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回、福本が守るライトの前に落ちたポテンヒットによりサヨナラ負けを喫した。

 卒業後は社会人野球の松下電器に進む。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し、優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスに7位指名を受けた。南海ホークスも早くから福本の俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

 プロ入りのきっかけは、松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。スカウトが来ている試合で、本塁打を打ったり、好返球をしたりするプレーが認められた。更にスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」と、またも勘違いされ、これも指名される要因になった。

 本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝、会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことって、お前、指名されとるがな」と返され、初めて知った。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から、肉料理をご馳走され、「プロなったら、こんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに、何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

 入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ、職場を退職した。だが、福本の妻は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らず、福本も妻に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため妻は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知った。

 プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだった。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

 1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年にMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)を破るシーズン106盗塁の世界記録で日本プロ野球史上唯一の3桁を達成した。チームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

 1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

 盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」と固辞した。ただし、地元大阪の感動大阪大賞は受け取っている。

 1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。

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