2013年9月2日月曜日

消えゆく足尾の宿で


 東京の暑さから逃れようと、急に思いたってクルマで栃木県の足尾に行った。 

 足尾銅山のあった町、日本資本主義経済の決して褒められない出発点、公害の原点。 かつての足尾町は「平成の大合併」で日光市に組み込まれていたが、30年ぶりに訪れた足尾の変化は行政区分だけではなかった。 銅生産最盛期の煙害で木々が死に絶え、不気味に禿げ上がった山々に緑が復活していたのだ。

 過去を知らずに、町を見下ろす国道122号線バイパスから眺めれば、普通の田舎町にしか見えないだろう。 ちょっとした浦島太郎体験。

 宿は町の北、銀山平の国民宿舎「かじか荘」。 チェックイン・カウンターの老人。 この宿のマネージャーか経営者か。 靴は部屋番号の記してある靴箱に入れて、スリッパもそこから取ること、ふとんは自分で敷くこと、浴衣はロビーにあるのを持っていくこと、風呂は夜10時まで、部屋に冷蔵庫はない、酒の持ち込みはダメ・・・。 「なにしろ国民宿舎ですから」。 サービスの悪さを自覚しているらしく、その責任というか原因は、すべて「国民宿舎」ということにしてしまった。 

 そんなことを言うなら、1泊2食7800円はちと高いぞ。 今どき、これだけ払えばサービスと愛想のいい民宿だって、飲み放題・カニ食べ放題付き格安温泉旅館だって泊まれる。 などとは言わず、リュックサックにワインと日本酒とウイスキーのボトルを隠して部屋に入った。 あとで、宿のおねえさんにワインボトルを冷蔵庫で冷やしてくれないかと、そっと頼んだら、ダメだけどいいですと言って冷やしてくれた。

 平日のせいか客は数人、広々とした露天風呂で、山並みと青空と秋の気配の赤トンボの群れを眺めながら思い切りからだを伸ばす。 気持ちいい湯だ。

 60がらみの男が一人入ってきた。 地元の住人だという。 近ごろは鹿が増えすぎて困っている、これまでクルマを運転していて鹿と5回も衝突した、と話し始めた。 「あの向かいの山まで7,8百メートルだと思うが、あそこに鹿がいればライフルで撃てる」

 今、鹿猟の制限はなく、1年中解禁されている。 それほど増えすぎているということだ。 最大の被害は森林で、樹木の幹を食い荒らす。 日光市は鹿1頭1万円の助成金まで出しているという。 獲った鹿の写真とその鹿の尻尾を持っていけばいいそうだ。 

 だが、鹿狩りは思惑通りには促進できなかった。 第1に、猟師の数が激減している。 若者たちは地元を離れ、残る猟師たちは老齢化が進む。 第2は、福島第2原発事故による放射能の拡散だ。 この一帯の山々も放射線量は基準を超え、山菜やキノコは今も食べられない。 獲った鹿の肉も口にできないから肉の需要がない。 かつて、日光一帯の鹿肉刺身、もみじおろしを浸けた味は絶品だった。 実は鹿刺しには期待を持って足尾に来たのだが、それが食えなくなっていた。

 気が付いたら、湯の中で30分も話をきいていた。 おかげで頭がぼーっとしてきた。 だが、宿に頼んだワインの冷え加減はちょうど良くなっていた。 澄んだ山の空気と冷えたワイン。 文句なし。 

 田舎の人は純朴だ、などという幻想は持たない。 「裏山で採れた山菜」などと言って中国製のパックを都会からの観光客に売りつける”素朴な田舎者”に驚きはしない。 だが、足尾の人たちは、純朴かどうかはわからないが、人懐こく話しかけてくる。 

 宿の部屋にはトイレがないので用をたすには廊下を30メートルくらい歩かなければならない。 トイレの入り口で鉢合わせした老人が前触れもなく「寂しいんだ」と言った。

  髪は白いが骨格はがっしりしている。 話し方もしっかりしていて、ボケが始まった徘徊老人なんかではない。 「銅山で23のときから働いていた。 今80だが健康だ。 銅山で長く働いて肺をやられず元気なのは珍しい。 医者も驚く。 仲間はみんな60になる前に肺をやられて死んでしまった。 最後は胸が痛くて仰向けに寝られなくて、上半身を起こして苦しみながら死んでいった。 残ったのは俺だけ。 昔をわかってくれる仲間がいないのは、本当に寂しい」

 礼儀作法をわきまえた人だった。 「話をきいてくれて、ありがとう」と丁寧に挨拶をして去っていった。

 足尾町の最盛期に人口は4万人近くに達し、町の通りには料理屋や芸妓屋が軒を連ねていたそうだ。 多くの集落や歓楽街は生い茂る樹林の中に消えた。 太平洋戦争中は、日本人ばかりでなく、多くの中国人、朝鮮人、欧米人戦争捕虜が過酷な労働を強いられ死んでいった。 

 今、足尾の人口は、わずか2000人。 

 人が消え、記憶が消えていく寂しさが、安普請の国民宿舎に染み込んでいた。

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