2014年9月4日木曜日

老人よ


 日課にしている多摩川河川敷のwalk & jog を暑い夏のあいだは、涼しい早朝にやっていた。 5時半か6時ごろ。 ジョギングや自転車の若者たちも少なくはない。 だが、やはり、そこは早起きの老人たちの世界だ。

 6時半になるとラジオ体操が始まる。 誰かが持ってきた大きなラジカセのスイッチを入れ、あの聞き慣れたリズムとメロディが流れると、三々五々集まってきた老人たちが、固くなったからだをよたよたと動かす。

 肩を中心に腕を大きく回す運動をやっているつもりでも、動いているのは肘から先の腕だけ。 あや取りをやっているようにしか見えない。 腰と背中を伸ばして後ろに反るべきところでは、ほとんど直立状態で顔だけが空を見上げている。

 率直に言って無様な動きだが、毎朝眺めているうちに、当たり前のことに気がついた。 自分のそう遠くない将来の姿だと。 それ以来、老人たちのラジオ体操を意識して観察するようになった。

 年齢を重ねると固くなるからだの部分がよくわかるのだ。 今のうちから、そういう部分を意識してストレッチしておこう、という気になった。 老人たちの悪い手本はとても役に立ちそう。 ありがとう。

 夏の初めごろ、樹木の下のベンチに、いつも老夫婦が座って、仲睦まじげに会話していた。 大柄な夫と痩せて小さな妻。 だが、夏の盛りのころから、ベンチにいるのは夫だけになった。 一人になったが、毎朝座っている。 いったい、どうしたのだろう。

 そういえば、何年か前、腰が90度近く曲がった老人が、毎日かなりの速度で懸命に歩いていた。 そのうち、曲がった腰がだんだん伸びてきた。 きっと歩いた効果が出たのだろう。 すれ違うときに目が合うと軽く会釈をしてくれた。 あの人の姿も見なくなった。 腰はもっと伸びたのだろうか。

 土手の上で自転車のサドルに跨ったまま、いつまでもじっと高校生の野球練習を見ていた老人も消えた。

 老人というのは消えるものなのだ、きっと。

 知らない人なのに、ドラマを感じさせる年寄りたち。 その背後に、若者たちにはない生と死のなまなましい近さがあるのは確かだ。 でも、それは言わなくていい。

 9月には「老人の日」の休日があるなあと思ってカレンダーを見たら、「敬老の日」となっていた。 ずっと「老人の日」だと思い込んでいた。 「老い」の証拠だろう。 

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