2016年12月7日水曜日

ドゥテルテは鬼平か


 ひまなとき、池波正太郎の時代小説を読むのが大好きだ。 江戸情緒たっぷり、本筋とは関係ないが、ところどころに挟まれる酒肴の詳細な描写もたまらない。 読むのを中断し、同じものを作って酒を飲み始めてもしまう。

 最近、文庫本の「鬼平犯科帳」全24巻を友人からもらった。 自宅で読み終わった大量の「池波正太郎」が邪魔になったのでくれたのだろうが、もらった方は夢中だ。 毎日、朝も夜も読んでしまう。 だが、24巻もあるので、いくら読んでも終わらない。 しかも、 読むと飲みたくなる小説だから酒量も増える。

 火付け盗賊改方・長谷川平蔵は、江戸に跋扈する盗賊どもを次々ととっつかまえ、必要とあらばバッサリと悪人を切り殺してしまう決断力の持主だ。 その爽快さに引きずられて、つい読みふけってしまう。 

 日本の時代劇映画や小説のヒーローは、多かれ少なかれ、鬼平みたいなものだ。 われわれ日本人の祖先は90%以上が不労所得者の武士に支配され搾取されていたのに、武士をヒーローにし憧れる。 

 鬼平に至っては、頻繁に、「憎きやつ」と自分の判断で江戸の公道で人を斬殺処刑してしまう。 いったい、全24巻で鬼平が直接手をかけて殺すのは何人になるのだろうか。 どこかの鬼平・池波マニアは正確に数えているかもしれないが、1巻につき2人なら48人、3人なら72人。 印象としてはもっと多いような気がするが、大量破壊兵器なし刀1本の殺害数としては驚異的だ。 

 だが、この小説では、鬼平による殺害は「超法規的処刑」ということになる。 鬼平の小説に夢中になるということは、現代人も、鬼平のような人物にヒーロー像を求めているのだろうか。 民主主義の基本である法の支配を絶対的価値とする社会の一員でありながら、個人の判断で平気で人を殺す鬼平を楽しむ自分とは何か。

 もしかしたら、超法規的措置で多数の犯罪者を抹殺して治安回復を実現し、フィリピンの大統領にまでなったロドリゴ・ドゥテルテは、現代の鬼平なのかもしれない。 その非人道的やり方は、現在の国際社会では嫌悪されている(日本の首相・安倍晋三は友情を温めているが)。

 なぜ鬼平を面白く思うのか。 とりあえず、24巻を堪能してから考えてみよう。 心に悪魔が巣くっているのか。

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