2011年12月16日金曜日

幸福の国ブータンを見に行こう



 ”秘境ブータン王国”の若くてハンサムな国王と愛らしい王妃が11月に日本にやって来て、ちょっとしたブータン・ブームが起きた。 先代の国王が国民総生産(GNP)に替わる基準として提唱した「国民総幸福量(GNH)」という言葉
、国民の97%が「幸福」と回答した国勢調査の結果もすっかり知れ渡った。

 ぎすぎすした日本社会では感じられない、ほんのりとした幸せの国ブータン。 そんなイメージに現代日本人は魅かれたのだと思う。 調和のとれた伝統社会の維持、日本人に似た容貌のブータン人、日本の丹前にそっくりな伝統衣装…。 そういったことも日本人に親近感を抱かせたのだろう。

 よし、ブータンに行ってみよう。 

 早速、情報収集に乗り出してみた。 はじめは、ブータンに関する情報量の少なさに、さすが”秘境の国”と思った。 しかし、断片的な情報をかき集めていくうちに、微妙な疑問が湧いてきた。 ブータンは本当に幸福の国なのだろうかと。

 最初に調べたのは、東京から首都ティンプーまでの航空券だった。 東京からの直行便がないのはわかっていた。 

 あらためて秘境と思ったのは、ティンプーに飛ぶフライトはブータン国営Drukairだけと知ったときだ。 しかも、この小さな航空会社の飛行機は、タイのバンコク、バングラデシュのダッカ、ネパールのカトマンズ、インドのコルコタ、デリーの5都市からのルートしか持っていない。 このことは、旅行者に大きな経済的負担を強いることを意味する。

 1つの航空会社が独占するルートでは、ディスカウント料金はなく、正規料金を払うしかない。 とりあえずバンコクまで格安チケットで行っても、その先、ティンプー往復には760ドルがかかる。

 さらに驚かされたのは、ブータンには公定料金によるパッケージツアーしかないということだ。 この料金が1日200ドル。 ホテル、食事、クルマ、ガイド代などが含まれるが高額であるのは間違いない。 専門の旅行会社に申し込んで、アレンジをしてもらう。 南アジアで一般的なバックパッカーの貧乏旅行は締め出されているのも同然で、実質的に金持ち観光客だけを受け入れているといえる。

 ただ、フライトの制限、高い公定料金は、外国人観光客の急激な増加を抑制し、伝統文化への悪影響を極力少なくするという効果はあるだろう。 その意味では、近代化=西欧化のマイナス面を抑え、伝統を守って幸福社会を作っていくという国是には悪くない。

 だが、本当に、こんな国是の維持は可能なのだろうか。 ブータンはとうの昔に鎖国状態から脱し、今、われわれと同じグローバル化した世界の中にいるではないか。 首都ティンプーには、インターネット・カフェもあり、世界の情報はテレビからも入ってくる。 携帯電話も今や珍しくない。 街では、コカコーラも、タイのシンハ・ビールも、日清のカップヌードルも売っているそうだし、ゴルフ場だってあるそうだ。

 ここに掲載してある2枚の画像はウェブ上でみつけたものだ。 日本で見慣れている若者たちの姿と変わりはしない。 男の子たちは街頭でヒップホップ・ダンスに興じている。 伝統衣装のブータン人というイメージとは、あまりにかけ離れているではないか。 そう、「秘境」を期待してブータンに行くと失望するかもしれないのだ。

 もちろん、ヒマラヤの山懐に位置し、交通不便な僻地なのだから、古い伝統が他の国より保たれているのは確かだろう。 だがブータンに行くなら、「幸福の国」というユートピア幻想にとらわれず、ちょっと変わった発展途上国に行く、といった程度の期待感におさえておいた方がいいかもしれない。

 ブータンという国は民族的に複雑で、先住ブータン人、チベット系、ネパール系、その他の少数民族が混在し、言語も異なる。 先代国王は1989年に、「民族衣装着用、チベット系のゾンカ語の習得、伝統的儀礼・作法の遵守」を国民に義務付ける布告を出した。 ブータン人のアイデンティティ確立を目指した施策だが、ネパール系住民が強く反発し、90年代には激しい反政府運動へと発展した。 当時、多くの住民が難民としてネパールへ流出した。

 隣接するインドのアッサム州で独立闘争を続けるアッサム統一解放戦線やアッサムの先住民ボド族過激派・ボド防衛軍の存在もブータンの治安を悩ませているらしい。 ブータン国内を聖域にして対インドの活動を続けているからだ。

 首都ティンプーの人口は急増しているという。 このことは、農業主体のブータン社会の変貌が進行しつつあることを意味するだろう。 そして、都市人口の増大とは、経済発展をしてきた国が必ず経験する現象であり、貧富の格差、社会的不満を生み、やがては政治的変革を必要とする。

 いずれの事象も、アジアの途上国では、ごく当たり前のことだった。 それを乗り越えて、国の体裁を作ってきた。

 西欧化に対抗し、新しい価値を生み出そうとする運動にはロマンがある。 だが、アジアでは、西欧化ではない理想社会の建設は好ましい結果を生み出してはいない。

 カンボジアのポルポト一派は西欧の臭いを消し去ろうと自国民に対する未曾有の大虐殺へ突き進み、結局地上から消えた。 独裁者パーレビの極端な近代化=西欧化への反逆で生まれたイランのイスラム国家は世界から孤立し、いまだに行く末が定まらない。

 ブータンの試みは、もっと穏やかな道を模索しているのだろう。 ブータン旅行とは、そのプロセスの観察といったところか。 それにしても、もっと安くならないのか。

2011年12月14日水曜日

Merry Christmas!?!?



 3か月前、9月9日付けで、島根県・津和野で知った明治のキリスト教徒弾圧「浦上四番崩し」を取り上げた。 だが、これは、決して誰もが知らない歴史事実ではない。 ウェブで検索すると、かなりの情報を得ることができる。 おそらく、浦上をはじめ多くの隠れキリシタンが住んでいた長崎県や、弾圧の現場となった山口県では、よく知られていることなのだろう。 観光で訪れた人、キリスト教徒なども耳にしていたに違いない。

 だが、たいていの人は、明治になってからもキリシタン禁制が続き、残酷な拷問が継続していたことを知れば驚かされる。 徳川幕府の鎖国政策と軌を一にしてキリスト教が禁止されたことは誰でも知っている常識だ。 その同じ常識で、明治の開国とともに、キリシタン禁制は解除されたという思い込みにつながっていた。

 そもそも学校教育の場では、キリシタン禁制がどのように終結したか教えているのだろうか。 3か月前から気になってしかたなかったので、近くの都立高校に行って、日本史の教科書をみせてもらった。 すると、驚いたことに、短いが、かなり正確に記述されていたのだ。

 <以下、改訂版 詳説 日本史B(山川出版社)からの抜粋>

 「キリスト教に対しては、(明治)新政府は旧幕府同様の禁教政策を継続し、長崎の浦上や五島列島の隠れキリシタンが迫害を受けた。しかし、列国の強い抗議を受け、1873(明治6)年ようやくキリスト教禁止の高札が廃止された」

 「浦上のキリシタンは、1865(慶応1)年、大浦天主堂の落成を機に、ここを訪れたフランス人宣教師に信仰を告白して明るみに出た。しかし、明治政府は神道国教化の政策を取り、浦上の信徒を捕らえ、各藩に配流した(浦上教徒弾圧事件)」

 だが、これだけでは、キリシタン禁制がいつ、どのようにして終ったのか、という問いに答えてはいない。 この教科書では、明治6年にキリスト教禁止の高札が廃止されたと記述しているが、あくまでも道端に立っている高札がなくなったというだけで、キリスト教禁止が解除されたとは言っていない。 まさに、それが事実だからだ。

 それでは、禁止がなくなったのはいつなのか。 先達の歴史研究によれば、明治政府はキリスト教解禁を公式にはまったく表明していない。 高札廃止で、なし崩しにキリスト教を認めて、列強の抗議に応える一方、明治政府は自分たちのメンツを保ったのだ。 日本の政治家や役人の姑息な手口は今に始まったのではないことがよくわかる。

 明治以来、日本政府はいまだにキリスト教解禁を表明していない。 つまり、キリシタン禁制は公式には今も続いているということになるのか。 そうはいかないらしい。 研究者たちは、明治22年、「信教の自由」を謳った大日本帝国憲法の発布を以って、キリシタン禁制が正式に終結したと解釈する。

 そして、今年も、もうすぐクリスマス。 今では、この時季だけ日本人は総キリシタンになる。

 <この記事に関心を持った人へのクリスマス・プレゼント・リスト>

 「浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧」  片岡弥吉 著 ちくま文庫、 「浦上四番崩れ―詩集」               上村 馨 著 山口書店、 「津和野の殉教物語―乙女峠 」 永井 隆 著 中央出版社、 「最後の殉教者」                    遠藤周作 著 講談社、 「女の一生 一部・キクの場合」 遠藤周作 著 朝日新聞社、 「岩倉使節団における宗教問題」 山崎 某 著 思文閣出版 

 






2011年10月30日日曜日

川端康成 vs RKナラヤン

 10月29日、心地よい秋の土曜日の午後、鎌倉で、米国の著名な日本文学研究者ドナルド・キーンの講演会が開かれ、顔を出してみた。 キーンの著作など読んだこともなし、関心はなかったが、先輩ジャーナリストの高木規矩郎がコーディネーターをやるというので行ってみる気になった。 話の内容は、場所が鎌倉ということで、鎌倉にまつわる話題が中心になった。

 その中で、ひとつ興味を引くエピソードがあった。

 いつのことかわからないが、川端康成が存命中のことだから、1972年より以前のことだ。 日本を訪問したインド人の作家が、キーンに日本の作家を紹介して会わせてほしいと頼んだ。 そこでキーンは日本の作家何人かに接触したが、「インドは嫌いだ」とか「インド人と共通の話題はない」といった理由で断られた。

 そして、やっと会えることになったのが、川端だった。 キーンは、さらに、そのインド人作家の名前は、ナラヤンだと言った。 ナラヤンといえば、世界的に有名でノーベル文学賞の呼び声もあったRKナラヤン(1906~2001)だ。
 
 人知れず、川端の自宅で、キーンの通訳によるノーベル賞作家vsノーベル賞候補作家という超豪華対談が行われたのだ。
 
 このエピソードに惹かれたのは、豪華な顔ぶれというだけではない。 川端以外の日本の作家たちが、ナラヤンに会おうとしなかったことが、当時の小説家ばかりでなく、日本人の精神的方向性を如実に示していると思ったからだ。

 作家たちは欧米からの訪問者だったら会ったに違いない。 彼らは”遅れた”アジアなどに、まったく関心がなかったのだと思う。 おそらく、大作家ナラヤンの存在すら知らなかったであろう。

 キーンは、このときの会合について、岡倉天心の名言「アジアはひとつ」は信じないが、二人は言葉が異なっても大いにわかりあうことができたと語った。

 「アジアはひとつ」は、大東亜共栄圏という妄想と野望の背後にあるアジア主義を象徴する言葉だ。 大東亜戦争の破滅的敗北でアジア主義は光を失ったが、それとともに、日本人はアジアへの関心そのものも無くしていった。(現在の韓流ブームやインド人ITエンジニアの急増からすれば大昔のことにも思える)

 キーンの言葉は、取りようによっては、当時の日本人作家の知的関心の偏りに対する大いなる皮肉だ。 いつもニコニコして日本人に口当たりのいい彼の言葉を、こんな風に解釈した聴衆が他にいたかどうかは知らない。
 
 ついでに加えれば、キーンがインド人だったら、日本人が彼を尊敬し、その言葉をありがたがったかどうか、確信は持てない。
 (写真はRKナラヤン)

2011年10月28日金曜日

深刻なのは本当だが、洪水報道は?

 この画像を見てもらおう。 ThaiTravelBlogos.com というサイトの画像。 タイの洪水は首都バンコクを包囲し、10月28日からは、市中心部をも水浸しにしようとしている。 その状況をタイ王国で最も神聖な場所、王宮近くで報じているタイのテレビ局クルーの姿を撮ったものだ。
 このブログによれば、テレビ・クルーたちは、道路が乾いている部分がいくらでもあるのに、その周辺で、最も水の多い場所で現場リポートをやっていた。 確かに、この画像の後ろの方には、乾いた路面の部分がみえる。 このブログが言いたいことは、メディア報道をまともに信じるなよ、ということだ。
 ニュースメディアというものは、状況をわかりやすく伝えるために、多少の誇張をすることを常とする。 それは必ずしも全面否定すべきものではない。 なぜなら、視聴者や読者がその報道を通じて、現状を理解できるなら許されていい(ヤラセ報道は別だ)と思うからだ。 無論、こうした誇張には限度があるべきだ。
 それにしても、このブログの問題提起には考えさせられる。 日本でも、タイの洪水は連日大きく報道され、大変な事態になっていると信じられている。 現地も見て、日本のテレビを見ると、そこにウソがあるわけではないと思う。 ただ、それでも多少の誇張があることは否定できない。
 まあ、情報というものは、昔から同じだったのかもしれない。 現代の問題は、日常生活では絶対に肉眼で見ることがない地球の裏側の出来事まで知っている必要があることだ。

2011年10月25日火曜日

真水の津波がひたひたと忍び寄る

               (多くの住民はまだ逃げていない=ドンムアン地区で)

               (土嚢を積んで洪水に備える=ドンムアン地区で)              
 タイの洪水は徐々に首都バンコクの包囲網を縮めている。 既に水に浸かったバンコク北方の古都アユタヤとパトゥムタニの工業団地では、数千の工場がダメージを受け、日系企業では少なくとも400工場が浸水の被害を受けたとされる。 


 水はゆっくりとだが確実にバンコクへ接近している。 「まるで真水の津波だ」と、あるタイ企業の経営者は言った。 チャオプラヤ川から溢れる水は、津波のような劇的な凶暴性はみせない。 だが、静かに、そっと忍び寄り、シロアリのように国家のインフラを食い尽くす。 結果的には、今年日本を襲った大津波並みの被害を残すのではないかと、タイのメディアや政治家、企業家、専門家は憂慮する。

 今、バンコク中心部でも、洪水の到来に備え、建物の入り口に土嚢が積まれている。 あと1か月もすれば乾季に入る。 果たして洪水はバンコク中心部にたどり着くのか、あるいは、乾季入りで水が引くのか。 まったく予断を許せない。 スーパーやコンビニの棚からは、日本の3・11直後と同じように、ペットボトルの飲料水やトイレットペーパーが消えた。

 とは言え、人々はごく普通に生活しているようにみえる。 中心部から北へ約20km。 旧国際空港のあるドンムアン地区には既に洪水が広がっている。 主要道路でも、深いところでは人の膝まで水に入る。 街にめぐらされた用水路の水位も、もちろん上がったが、多くの魚も入り込んできた。そのせいで、釣り糸を垂らしたり投網を構える人の姿があちこちで見られる。 あっけらかんと洪水を楽しんでいる。

 ゴム長が飛ぶように売れ、小商人はここぞとばかり金儲けをしている。 タイでは当局が土嚢を用意してくれるわけではないから、土嚢売りも今がチャンスだ。 タイの食文化の大きな部分を占める屋台は足が水で濡れるくらいでは、決してめげない。 いつも通りにトリや魚を焼き、バナナを揚げている。

 生活が多少不便になっても、彼らの「マイペンライ」つまり「どうにかなるさ」精神は、こういうときこそ、したたかさを発揮するのかもしれない。

 だが、本当に大丈夫なのだろうか。

 50年ぶりの大洪水というが、50年前のタイでは今回のような経済的打撃はありえなかった。 当時のタイには現在のような近代的工業生産はほとんど存在しなかったし、被害は農業にほぼ限られていたからだ。 タイの経済専門家は、今回の洪水がバンコクに達すれば、被害は少なくとも3000億バーツ(約7500億円)に達し、GNPを3%ほど引き下げると試算している。 

 急速な経済発展で産業構造が一変したタイは国家のかたちが50年前とまったく異なってしまった。 かつて降雨を吸収していた湿地は農耕地になり、森林は切り開かれ町になった。 インフラ整備なしの発展とは、まさに砂上の楼閣だった。 それを”真水の津波”が突き崩そうとしている。 タイが、過去に経験したことのない歴史的出来事に遭遇しているのは間違いない。

 だが、それも、とりあえずは天気次第だ。 タイの専門家たちは、タイの国際的信用を回復するには、長期的視野に立って、洪水に太刀打ちできるインフラ整備に着手すべきだと主張する。 まったく、その通りであろう。 ただ、短期的には、国王と国民が一丸となって乾季が早く到来するよう仏陀に祈るしかないようにもみえる。

 (The Yesterday's Paper タイ洪水取材チーム=バンコク)

2011年10月16日日曜日

笑えるミャンマー



 頑迷に民主化を拒否し、世界から孤立している軍政国家ミャンマー(ビルマ)が、突然、急激な変化の兆しをみせている。 民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーとの会話を深め、民意に反して建設していた中国向け電力供給のためのダム建設を中断し、さらに、10月12日には政治犯を含む6359人の釈放を開始した。 果たして、本気で民主化に着手したのか。 あまりに唐突な動きゆえに、世界は戸惑っている。 

 12日に釈放された政治犯の中で象徴的人物は、ビルマで絶大な人気のあるコメディアン、ザガナーだった。 ザガナーは2008年、ビルマを襲ったサイクロンの甚大な被害への支援活動をしていたときに逮捕され、獄中生活を送っていた。

 ザガナーの釈放は日本でも大きく報道された。 だが、釈放の事実以上のことは伝えられていない。 実は、彼は釈放されるや否や、コメディアンの本領を発揮し、自分の体験をしゃべりまくっているのだ。 その発言を通じて、われわれ外部世界の人間は、ビルマ軍政のなんたるか、呆れるほどの時代錯誤ぶりを、多少なりとも理解することができる。 以下は、ザガナー発言の一部である。

 「ビルマを襲ったサイクロンのビデオを検閲に出さなかったことを罪に問われた。 サイクロンの被害が拡大している真っ最中だ。 『ヘイ、嵐よ、ちょっと待ってくれ。 ビデオを検閲に出してくるから』なんて、言えるわけないだろ」

 「罪状には、インターネットの使用もある。 今や誰でもインターネットを使っている。 しかし、私に判決を下した裁判官はインターネットのことなんか、まるでわかっていなかった。 彼が、反政府側の人物とどこで会話(チャット)をしたのか訊いたので、Meebo(ビルマ語で台所、ウエブサイト名でもある)と答えた。 すると、彼は私がふざけていると思って怒りだした。 私は、Meeboのなんたるかを説明しなければならなかった。 コンピューターの使い方を知らない裁判官が、エレクトロニクス条例インターネット不正使用の罪で私に懲役刑を下した」

 「裁判では、検事がe-mailアドレスを質問したんで、私が、thura61@gmail.comと答えたら、なんと、その検事は、『質問したのはe-mailで、gmailではない !』と怒鳴りだした」

 (ニューデリーを拠点とするビルマ反軍政ウエブサイト<MIZZIMA>より)

2011年10月7日金曜日

”AKC” の提案



 「AKBって、ションベン臭い女の子が群れて、歌ったり踊ったりしているのがあるだろ」

 「オレだって、そのくらい知ってるさ」

 「じゃあ、AKBが何の頭文字がわかるか」

 「バカにすんなよ、アカンベーに決まってるだろ」

 「さすが! オマエは意外と物知りだな」

 「それじゃあ、AKCは知ってるか?」

 「初めて聞いた、赤ちゃん、A・Ka・Chan てのはどうだ?」

 「惜しいけど、違う! AKCってのは、A・ka・Chouchin、赤提灯の頭文字だが、それだけじゃない」

 「なんだよ?」

 「近ごろ、夜の巷ではAKCが新しい通貨単位になりつつあるんだぜ」

 「なんだそりゃ!」

 「1AKCは円換算で、だいたい4000円、つまりノンベエのオヤジが赤提灯で酔っ払ったときの平均的飲み代ってわけだ」

 「なるほど…」

 「例えば、この店はお手ごろでAKC以下だ、寿司屋で飲んで2AKCならまあまあ、っていう使い方だ。 最終電車を逃すとタクシー代は、あっという間に1AKCを超えてしまう」 

 「そうかあ、オレの月収は80万だから200AKC、つまり赤提灯200回分ということだ」

 「ノンベエにはわかりやすい単位だろ」

 「まあな、しかし、AKCなんてのがホントにはやっているのかね?」

 <東京のある赤提灯で耳にしたオヤジたちの会話>