2015年1月19日月曜日

推理小説に学ぶジャーナリズム

(主人公キンジーの住むサンタ・テレサのモデルとなったサンタバーバラの街並み)

 カリフォルニアの女探偵キンジー・ミルホーンを主人公にしたスー・グラフトンの推理小説シリーズ。 1982年出版の「 "A" Is for Alibi」(日本語版「アリバイのA」ハヤカワ・ミステリ文庫)に始まり、アルファベット順に続き、最新は2013年出版の「"W" Is for Wasted」。  著者のグラフトンは現在74歳。 あと10年かそこらで、なんとか最後の”Z”まで辿り着いてほしい。 日本語版は2004年出版の「"R" Is for Ricochet」(日本語題名「ロマンスのR」)まで出版されている。

 主人公キンジーはロサンゼルス北方の町”サンタ・テレサ”に小さな探偵事務所を構える30代前半の離婚経験者で独身。 大きくはない町が舞台なので、FBIとかCIAが登場するような派手なストーリー展開はない。 むしろ、話はだらだらと続く。 とにかく、本筋とは関係なく不要と思われる情景描写がやたらと多い小説なのだ。 そういう部分を削れば、ページ数は20%くらいは縮小できるだろう。

 だが、このシリーズは、独身女キンジーの日常生活を織り交ぜながら、どうでもいいディテールがだらだらと続くところに、じんわりと病み付きになる妙な魅力があるのだ。

 例えば、こんな具合だ。 「死体のC」(ハヤカワ・ミステリ文庫1982年)で、キンジーが主要登場人物の一人とたまたま入ったモーテルのバー。

 「店内は細長くてうす暗く、バー・ミラーやずらり並んだ酒瓶、ビールのネオンサインのあるはずのところに、バナナ農園の立体ジオラマが作られ、照明をあてた舞台に見立てて、そのうえに模型のバナナのなったヤシの木々が等間隔に飾られ、ちいさな機械仕掛けの人形たちが、いっせいにバナナの収穫作業にとりかかろうとしていた。 人形たちはみなメキシコ人で、零時の合図とともに、水樽とひしゃくをもった女が現われ、木によじのぼった男が手をふり、ちっぽけな木の犬が尻尾をふりふり吠えだした。」

 キンジーが聞き込み調査のため飛び込みで訪れた男の家では―。

 「キッチンは三十年前のリノリウムの床で、キャビネットはショッキングピンクに塗られている。 旧式の台所器具がならんでいる様子は<レディース・ホーム・ジャーナル>の古いグラビアを見ているようだ。 すみには朝食用の小さな作りつけのコーナーがあり、ベンチには新聞が山と積まれ、細長いテーブルのうえには砂糖壷、ペーパー・ナプキン・ディスペンサー、アヒルの形をした塩と胡椒の容器、カラシ入れ、ケチャップ瓶、A-Ⅰソースの瓶がところせましと出しっぱなしになっている。 彼が言っていたとおり、作りかけのサンドウィッチもおいてある―プロセスチーズのスライスに、オリーブとなんの動物の肉だかわからない塊をまぜたランチミートが中身らしい。」

 モーテルのバーは、本筋に関わる現場でも何でもない。 あくまでも、たまたま入った店だ。 男の家のキッチンもしかり。 そもそも、この男に会って、ストーリーを前進させるような情報が得られたわけでもなく、キンジーにとって無駄足の訪問だった。

 「悪意のM」(早川書房1997年)には、自宅の居間に寝ている恋人ディーツを早朝起こさないように、キンジーがジョギングにでかけるところがある。

 「音をたてないようにドアを閉めて朝の沐浴をした。 靴を手に持ち、ソックスをはいた足で階段を下り、忍び足で外に出た。 靴をはき、簡単なストレッチ体操をし、ウォーミング・アップに早足でスタートした。 夜空は真っ暗から濃い灰色に変わっていて、カバナに着くころには空が白みはじめていた。 夜明けは大きなカンヴァスを淡い水彩のような色合いに染めた。 海はシルヴァー・ブルーで、空はスモーキー・モーヴとソフト・ピーチが混じり合っていた。 油井が虹色のスパンコールの塊のように水平線上に点在している。 私はこの時刻の波音が好きだった。」

 「悪意のM」でも、本筋からすれば、恋人ディーツもジョギングも、外に忍び足で出ることも、まあ、どうでもいいことだ。

 このシリーズは、主人公キンジーの生活ぶり、日常の不平不満や人間関係、食べ物の好み、人格のすべてをさらけ出し、そこに事件を、というより「事件も」織り交ぜていく。

 例えていえば、近ごろ人気のウエアラブルのカメラを主人公キンジーのおでこに装着して撮り続けた動画を、編集カットなしで見るような小説。

 だが、この「無駄だらけ」が、キンジーを身近にいる友人のように思わせる現実感へと読者を引き込む。 つまり、ストーリーが無駄なく、きちんと整理された小説の登場人物と異なり、わき見をし、横道にそれてしまう生身の人間が描かれていると感じさせるのだ。

 だが、著者のスー・グラフトンは「無駄」を描くために、物凄いエネルギーを費やしたはずだ。 ジャーナリストとして、具体的で詳細な描写を読むと、取材にかかった時間を考えてしまい、気が遠くなる。

 例えば、キンジーが入ったバーに設えてあったメキシコ人形の仕掛け。 普通のジャーナリストが同じ場所を描けば、薄暗いバーというだけで人形の仕掛けなどは無視したかもしれない。 もし描写するとなれば、じっくりと観察してメモをするかカメラに収めるという手間がかかるからだ。

 だが、詳細で客観的な観察こそが事実を伝える。 そういう事実の積み重ねが真実を語る。 グラフトンの「無駄」の描写に太刀打ちできるだけの細かな情報を取材できる観察力を持つ。 それは、ジャーナリストのひとつの目標になりうるだろう。

 とはいえ、毎日締め切り時間に追われる新聞記者には、そんな手間隙はかけられない。 真実からどんどん遠ざかろうとも。

0 件のコメント: