2016年1月16日土曜日

小さな記事


 2016年1月16日付け読売新聞朝刊の社会面に出た小さな記事に感慨を覚えた老記者や元記者は多かったのではないか。

 NHKさいたま放送局の記者数人が業務用のタクシーチケットを不適切利用したというのが記事の内容だ。 おそらく、記者たちは、浦和あたりの繁華街にタクシーで飲みに行って、チケットを使ったのだろう。 視聴料がこんな風に使われるのは確かに悪いことだが、日本の会社員が正直に白状すれば、たいていの人が多かれ少なかれ経験している”ワル”であろう。

 つまり、どうでもいい話が、なぜニュースになったのかわからないのだ。 どこの大手新聞の記者たちだって、この程度の”不正”には手を染めているはずだ。 と思ったところで、いや、もしかしたら最近は新聞の発行部数も落ち、社内の締め付けが厳しくなって、状況が変わったのかもしれないという気がしてきた。 だからこそ、記事にしたのではないか。 自分たちも同じことをやっていたら記事にはできない。

 かつては、政治部や社会部の記者たちが、夜な夜な会社のクルマやタクシーを使って深夜の東京を飲み歩いていた。 新聞記者は、なぜかライバル新聞の記者たちとも仲良く酒を飲む。 某新聞の記者と飲んだとき、最終電車を逃した。 そのときは彼の会社の業務用タクシー・チケットをもらって自宅に帰った。 
 
 古き良き時代、記者たちはよく飲んだ。 仲間とも取材相手とも。 そういう時間の中で、ものを考え、情報を集めた。 ぐだぐだに酔っ払って、人間の生きざまを学んだ。 仕事と私生活の境い目があいまい、というより、境い目などないのだ。 タクシーの個人利用もこんな生活の一部だった。 だから、「私用に使ったのか」と訊かれれば、その通りだし、「仕事か」と訊かれても同じだ。 良く言えば、記者たちは仕事に全人格を投入していた。 まあ、会社のクルマを使い過ぎたのは明らかだが。 この点を突かれると弱い。

 では、今、記者たちの生活はどうなっているのだろう。 「仕事」と「私用」をどうやって区分しているのだろう。 一個の人格を分解したり組み立てたりできるなら、ロボットのようだ。 いや、もしかしたら、彼らはロボットなのかもしれない。 だとすると、誰がロボットを操っているのか。
 

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