2011年9月9日金曜日

格安ツアーの発見




 新聞に出ていた旅行社の広告で、山口県の萩温泉3泊4日3万円という格安ツアーをみつけた。 東京からの飛行機代も含まれるから、すごい安さだ。 山陰地方には行ったことがなかったので、躊躇なく申し込んだ。 

 羽田から島根県の萩・石見空港に飛び、空港からレンタカーで旅を始めた。 津和野、萩、秋芳洞といったところを4日間でまわった。 東京近辺にはない静かに落ち着いた地域の雰囲気を3万円で味わえたのは儲けものだった。

 ただ、この小旅行で最も印象的だったのは、日本のキリスト教弾圧史の一端を教えてもらったことだった。 こんなことも知らなかったのか、と惨めな気持ちにもさせられたといったところか。

 以下は、津和野の「津和野カトリック教会」に展示されていた資料を書き写したものだ。

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  1 キリスト教が禁止される

 フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリストの福音を伝えてから65年後、キリスト教徒の数は30万人に達していました。 ところが、1614年に徳川幕府初代将軍家康はキリスト教を禁止し、すべての宣教師を国外に追放しました。

 「おまえたちは間違った宗教を教えている。天照大神と天皇が神ではないと言っている。キリスト教は日本の宗教ではない。直ちに日本を去れ。日本人は皆、この邪教を捨てなければならない」

 しかし、神父の中には日本にとどまり、密かに宣教活動を続けた者もいたので、キリスト教はなおも広がり続けました。 「天と地の造り主とその御子イエス・キリストだけが神なのです。決して異国の神ではありません。世界中の人々の神なのです」

  2 恐ろしい迫害

 3代将軍徳川家光(1623~1651)は、キリスト教を日本から消し去ってしまおうと決心しました。 将軍は、ありとあらゆる残酷な拷問によって、何千人ものキリスト教徒を苦しめ、迫害しました。 拷問に耐え切れず、大勢のキリスト教徒が信仰を捨てました。 また、山奥や人里離れたところに身を隠した者もたくさんいました。

 日本はついに1639年に国を閉ざしてしまい、宣教師が入国できなくなりました。日本に入ることも日本から出ることもできなくなったのです。 こうして鎖国時代が始まり、250年間続きました。 日本中の村という村では、キリスト教禁止と、隠れキリシタンをみつけたものには褒美が与えられると書かれた高札が掲げられました。

  3 浦上の隠れキリシタン

 鎖国時代、現在の長崎県の浦上のような小さな村々では、隠れキリシタンたちが、キリストへの信仰を守りとおすために力のかぎりを尽くしました。 聖書も、教会も、ミサもなく、司祭もいないので、それは困難を極める歩みでした。 みつかれば、投獄、拷問、そして死さえ覚悟しなければなりません。

 「神父様がいてくれたら…。ミサにあずかりたい。キリスト様が今、ここに来てくださらないものか」 「神父様はきっとまた来てくださるとも」 「そうだ。最後に来てくださった神父様が約束なさったではないか。いつかまた神父様の来られる日が必ず来ると…」

  4 信仰を育む

 十字架や聖人の絵や像を家に持つことは禁じられました。 キリシタンたちは表向きは阿弥陀観音像を祭りましたが、それをマリア観音と称し、その像の裏に十字架を刻んだりしました。 また密かに集まって、一緒にロザリオの祈りを唱えたりしていました。

 それぞれの村では、信仰を伝えていくための組織ができあがりました。 張方(指導者)は教会暦を伝え、教え方(先生)は祈りや大切な教えを伝え、聞き方(伝令)は各家に教会の祝日や断食の日を伝え、水方は赤子に洗礼をさずけたり、また若い後継者に水方の仕事を伝えていきました。

  5 黒船の到来

 ロシアやアメリカの捕鯨船は、水や食料、燃料を補給するために北海道への寄港を望みましたが、許されていませんでした。 そこでアメリカのペリーは、1854年に海軍を率いて日本に開国を迫りました。 1858年7月にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが通商条約を結ぶためにやってきました。

 「ハリス領事様、幕府はアメリカ船が江戸、大阪、兵庫、新潟、神奈川の港に寄港することを認めます」 「それに加えて、わが国の外交官が江戸に滞在することも認めていただかねばなりません」 「承知しました」 「また外交官とその家族のために、神父が滞在することも認めていただきたい」 「よろしい。しかし日本人にキリスト教を宣教することはなりません」

  6 カトリック教会の建設

 まもなく、英国、ロシア、オランダ、フランスも日本と通商条約を結びました。 このようにして、鎖国時代は終わりを告げました。

 鎖国時代が解かれ、外国人が入国を許されるようになっても、キリスト教は相変わらず禁止され、みつかれば死罪になりました。 江戸時代末にフランスは幕府に、フランス人のために教会を建てることを願い出ました。 許可が下り、1862年横浜に初めてキリスト教の教会が建てられました。 物見高い民衆は、「フランス寺」が建つのを一目見ようと集まってきました。 だが一人として教会に近付こうとしませんでした。

  7 キリシタンの発見

 長崎には1865年、大浦に天主堂が完成し、献堂から1か月たった3月17日、浦上の隠れキリシタンの一団が天主堂を訪れました。 人目をしのぶようにそっとやって来ると、お祈りをしていたプチジャン神父に近付き、たずねました。 「サンタ・マリア様の像はどこ?」 プチジャン神父は、祭壇わきに安置されている聖母マリア像を指さしました。 彼らは互いに顔を見合わせ、あふれるほどの喜びを表しました。

 「本当にサンタ・マリア様じゃ、ほら幼子のイエス様を抱いておられる。 神父様、わたしどもはあなた様と同じ心でございます」 「わたしどもの村に住む者のほとんどもキリシタンでございます」

 これを聞いたプチジャン神父の心は感謝と喜びでいっぱいでした。 250年以上の間、みつかれば死罪になる危険を冒して、信仰を守りとおしたのです。 聖書も神父もミサもない状況の中で、イエス・キリストへの信仰が受け継がれていたのでした。

  8 待ち受ける迫害

 長い鎖国時代を通して、浦上のキリシタンは3度にわたり捜査、迫害を受けました。 1790年、1840年、1856年の3回です。 そのため、宣教師たちはきわめて慎重に行動しました。 しかし、あるキリシタンの女性が亡くなったとき、遺族は仏教による葬儀を拒否し、僧侶を呼びませんでした。 「わたしどもはこれからもお上に忠実に従いますが、今後お寺さんのお世話にはなりません」

 「今後、お寺と関わりたくない者をとりまとめ、名簿を差し出せ」 そこで700名の名簿を差し出したところ、役人の頭は大いに腹を立てましたが、そのときは何の処罰もありませんでした。

  9 浦上に手入れ

 1867年7月14日深夜、突然、300人ほどの警吏が浦上の谷一帯を手入れし、68人のキリシタンが逮捕されました。 結局、83人が投獄され、信仰を捨てさせる目的で厳しい拷問にかけられました。 その1人というのは、年老いた百姓の高木仙右衛門でした。

  「みんな転んだぞ。なぜおまえは意地を張るのだ」 「信心を捨てることは、神様からいただいた魂にとっても、神様に対しても、この上ない不幸を働くことですから、申し訳ありませんが改宗はできません。100人の仲間がいるから強いとか、1人になったから弱くなるということはありません。私1人になっても、本来の心は消えません」 「ならばもう改心せよとは言わぬ。おまえは、たとえ最後の1人となろうとも主人に仕えるという真の武士の魂を持っておる。帰ってもよろしい」

 仙右衛門が帰ると、他の者たちがたずねました。 「よくもあんな厳しい拷問に耐えられたものだな」 仙衛右門は答えました。 「私は自分がそれほど強くないことを知っています。だから聖霊に祈って助けを求めました」

 そこで他の者たちも祈ってから役人のところへ行きました。 「私どもは教えを捨てたことを取り消します。 私どもは今でもキリシタンです」

 「江戸の決定を待て」と言われました。

  10 東京における決定

 264年続いた徳川幕府は力を失い、とうとう1867年11月に最後の将軍が退位しました。 天皇が復権し、1868年1月1日、明治時代が正式に始まりました。 しかし、キリスト教は相変わらず死罪に当たる邪教として禁じられ、さらに多くのキリシタンがみつかりました。 その後は浦上だけでも3000人を超えました。

 「この邪教の信者をどのように扱えばよいのだろうか」 「法律に従って処分すべきだ。死刑にしてしまえ」 「たかが3000人だ。目をつぶってもよいではないか」

 そして、津和野の亀井藩は1つの妥協案を出しました。 「その3000人を少人数に分け、それぞれを各地に分散させてはどうだろうか」 「それは良い考えだ。少人数に分けられ、故郷から遠くへ流されたら、きっと異国の宗教を捨てるにちがいない」

 このようにして浦上の信者3000人は20組に分けられ、各地に送られたのでした。

  11 津和野へ

 高木仙右衛門と守山甚三郎を含む28人のキリシタンは、中国山地の奥深くにある津和野に流されました。 彼らは、使われなくなった寺に閉じ込められ、しつこく説得されました。 亀井藩士盛岡は甚三郎に言いました。

 「われわれは目に見える太陽を拝む。太陽は道を照らし世を明るくする。おまえたちは、なぜ目に見えない神を拝むのだ。そのようなばかげたことをやめ、神道を信じなさい」

 「お役人様、おわかりいただけるかどうかわかりませんが、たとえばあなた様が御用のため遠い田舎につかわされたとしましょう。用を終え帰路につきましたが、日はどっぷりと暮れ、あたりも暗くなってきました。田舎道で3歩先も見えません。1人の百姓があなたの困り果てている様子を見て、明かりをともして言いました。『どうぞこの明かりで道を照らしなさいませ』 明かりのおかげであなたは無事家にたどり着くことができました。さてあなたは明かりを台座に置き、明かりに感謝し、明かりを拝むでしょうか。むしろ明かりを貸してくれた百姓に感謝するのではないでしょうか。あなたは私に道を照らしてくれる太陽を拝めとおっしゃる。しかしわれわれキリスト教徒は太陽を造り、これを大空にすえて世を照らしてくださる神に感謝し、神を拝むのです」

 「牢屋に戻れ。この愚かな百姓め」

  12 水と火の試練

 牢屋がわりのお寺の裏には、深さが1mはある池がありました。 その年の冬は、1か月以上もの間雪が降り続いたので、池には氷が張り、雪が積もっていました。 そんな日に役人の盛岡は、信者の主要人物2人を丸裸にして、氷の張った池に投げ込みました。 寒さにふるえ、息もできずにあえぎながら、仙右衛門と甚三郎は主の祈りを唱え、「主よ、おささげします…」と祈り始めました。 役人たちは冷たい水を彼らに頭から浴びせました。 年長の仙右衛門がいよいよ力を失い、池に沈みそうになると、役人たちは竹の先につけたかぎで髪の毛を引っかけて、2人を池から引き上げました。 そして「おまえたち、さぞ寒かろう」とからかいながら、彼らを火であぶりました。 半死半生の状態で彼らは牢屋に戻されました。

 後に、甚三郎は「あの時の水と火で責められたことほど苦しかったことはない」と書いています。

   13 最初の殉教者、和三郎

  役人たちはキリシタンをいくら説得しても、信仰を捨てさせることができませんでした。 それで彼らはますます強硬な態度で信者たちを責めました。 食料を減らされ、秋が来て、冬が近付いても、夏用の薄手の着物のままでした。 そのため体がどんどん衰弱し、16人が信仰を捨てましたが、他の者は踏み止まりました。 役人たちはさらに残酷な三尺牢という拷問を考えつきました。

 この悪名高い牢屋は、たて横約1mで、正面に格子がはまっている頑丈な作りの箱です。 キリシタンはこの箱に1人ずつ閉じ込められ、雨ざらしのまま寒さと飢えと孤独に耐えなければなりません。 その中に閉じ込められているかぎり、横になることも立ち上がることもできません。 食事は1日におにぎりたった2つです。

 この三尺牢に最初に閉じ込められた1人が27歳の和三郎でした。 彼は20日間閉じ込められ、衰弱して1868年10月9日に亡くなりました。 最初の殉教者になったのです。

  14 安太郎と聖母

 キリシタンの中に30歳になる安太郎という青年がいました。 彼は物静かでしたが、明るく、心の広い人でした。 わずかな食物をほかの人と分かち合い、人のいちばん嫌がる仕事をひきうけたものでした。

 その年の冬、安太郎は三尺牢に入れられました。 2,3日たった日の夜に、仙右衛門と甚三郎はお寺の床を破り、こっそりと抜け出して安太郎の様子をうかがいにやってきました。 「寂しくないか」

 「いいやちっとも寂しくなんかありません。毎晩、真夜中になると美しい婦人が来て、すばらしい話をしてくださいます。青い服を身にまとい、まるで長崎の教会にあるサンタ・マリア様の像のようなおかたです。しかし、このことは私が生きている間は誰にも言わないでください」

 「もしおまえのお母様にお会いすることができれば、何と言えばよいだろうか」

 「この三尺牢は十字架だと思います。母に伝えてください。ここでイエス様のために、またイエス様とともに死ねるのは私にとってこの上ない幸せですと」

 2人は密かに寺に帰り、マリア様が安太郎に現れたことをすぐ皆に伝えました。 皆は、このことを聞いて勇気づけられました。 数日後、雪に埋もれた三尺牢の中で安太郎は死んでいました。

  15 流刑の仲間たち

 1870年、女性と子どもを含む浦上キリシタン最後の一行が各地に送られました。 津和野にはそのうちの125人が送られましたが、その中には甚三郎の父と姉のマツと2人の弟がいました。 後から来た者たちを収容するために仙右衛門と仲間たちは他の場所に移されました。 甚三郎は考えました。 「役人たちは新しく来た者たちに、われわれがキリストへの信仰を捨てたと言うに違いない。彼らが騙されないようにしておかないといけない」 そこで彼は炭を砕いて粉にし、さらに唾でこねて墨を作って書きました。 「われわれはキリストへの信仰を捨ててはいません。皆さんも踏み止まってください」 彼はそれを便所に隠しておきました。

 本当にその通りでした。役人たちは新たに連れてこられた者に言いました。「前に来た者は皆改心したぞ、おまえたちもそうする方が利口だぞ」 それを聞いて彼らは皆動揺しましたが、マツが弟甚三郎の残した書き付けをみつけて皆に告げると、動揺はいっぺんに喜びに変わりました。

  16 新しい作戦

 その年の冬の寒さはことのほか厳しく、飢えのために多くの人が亡くなりました。 3歳の清次郎が明くる1871年1月23日に亡くなり、この年の最初の犠牲者となりました。 11月24日までにはさらに多くの犠牲者が出ました。

 亀井藩士盛岡は、指導者の甚三郎さえ信仰を捨てさせることができれば、あとの者も彼に続くだろうと考えました。 水や火で責め立てても信仰を捨てさせられないとわかると、盛岡は新たな方法を思いつきました。 「彼には14歳の弟祐次郎がいる。弟思いの甚三郎が信仰を捨てるまで祐次郎を苦しめてやろう」

 そこで11月の初めに盛岡は祐次郎を裸にし、道端に立てた十字架にくくりつけました。 村人たちがやって来てからかい、竹の棒でつつきました。 「キリストを捨てろ。このキリシタンのばか者め」 しかし、祐次郎はいつもただ一言答えるだけでした。 「いやです」

  17 祐次郎の試練

 それから盛岡は祐次郎を十字架から降ろさせ、お寺の縁側に座らせました。 服をはぎ、柱に縛りつけ、容赦なく鞭で打ちました。 うめき声と泣き声が祐次郎の口からもれましたが、「キリストを捨てろ」と迫る役人たちに対しては、いつも「いや、捨てません」と答えました。

 まる2週間、祐次郎は飢えと寒さと容赦ない鞭打ちに耐えました。 体はあざだらけになり、死の近いことがわかりました。 盛岡は少年が死んでしまうのではないかと心配になり、後悔の念におそわれました。

 「自分は、はたしてこれで人間だろうか。武士だろうか。幼い子どもをこれほどまでの拷問にかけるとは」

 そこで彼は少年を解放し、姉マツのもとへ返しました。

  18 祐次郎の死

 姉の腕の中で目覚めた祐次郎は、わびて言いました。 「私は臆病者でした。 泣き声をあげるつもりはなかったのだけれど」 「いいんだよ。とてもつらかったんだね」

 「最初はとてもつらかった。でも、8日目に一心に祈っていると、小さなすずめが屋根の上にいるのが見えました。その小さなすずめも泣いていました。そのとき母鳥がやって来てえさを与えました。それを見て思いました。すずめでもわが子の世話をするのであれば、天の父が私の世話をしてくださらないわけがない。マリアさまはきっと私を天国に連れて行ってくださいます。そうとわかってからは、私は泣きませんでした」

 11月26日に祐次郎は亡くなりました。 幼い殉教者でした。

  19 モリちゃん

 子どもたちは外で遊ぶことが許されていました。 ある日のこと、モリちゃんという小さな女の子のお母さんが牢屋の窓からながめていると、体の大きな番人がモリちゃんに近付いて行きました。 番人は手においしそうなお菓子を持っています。

 「こんにちは、名前はなんて言うのかね。年はいくつ」「モリというの。5歳」「お腹がすいているだろう。モリちゃん。おいしいお菓子があるよ。イエス様なんて大嫌いと言えばこれをあげるよ」

 お母さんは、モリちゃんが何と答えるか、はらはらしながら様子をうかがっていました。

 「そんな悪いことは言えないわ。私はイエス様が大好きよ。私は天国へ行きたいの。天国のお菓子はずっとおいしいんだから」 モリちゃんはお菓子の誘惑にまけませんでした。 2,3週間後、飢えのために体が弱って熱を出し、モリちゃんは死んでしまいました。

  20 転んだ人々

 飢えと寒さは次第にキリシタンたちの力を奪っていきました。 まもなく54人が音を上げ、改宗すると申し出ました。 彼らは山から町に降りることを許され、暖かい服と十分な食べ物を与えられました。 しかし、決して心からキリスト教を捨てたわけではありませんでした。 自分の弱さを悔やみ、なんとか償いをしようと思って、たびたび仲間のいるお寺に夜こっそりとご飯を差し入れに行きました。

 迫害が終わるまでに36人が殉教し、54人が少なくとも形の上では教えを捨て、63人が信仰を守り抜きました。

  21 迫害の終わり

 諸外国に日本のキリシタン迫害の様子が広く知られるようになると、外国政府は日本政府に、文明の名において迫害をやめるように圧力をかけました。

 また、日本は鎖国によって250年も欧米に遅れをとっていたので、日本政府は伊藤博文、岩倉具視ら有力政治家をヨーロッパとアメリカに派遣しました。 彼らは行く先々で、キリシタン迫害のゆえに野蛮人とののしられました。 そこで彼らは、「日本の国際的評判は地に落ちています」と書き送り、日本政府に迫害を直ちにやめるように働きかけました。ついに政府は「迫害を中止し、キリシタンを故郷に帰すように」という指令を出しました。

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 東京に戻って、早速、図書館に行って、<日本史小百科「キリシタン」H・チースリク監修、太田淑子編(東京堂出版)>をみつけて読んだ。 浦上のキリシタンについても詳しかった。

2011年8月25日木曜日

カダフィがくれたテレビ


 中東の暴れん坊と呼ばれたリビアの独裁者カダフィの命運も尽きたようだ。 ”アラブの春”の嵐で、堅固と思われていた独裁者たちの政権が、面白いほどあっけなく次々と倒壊している。

 リビアが、まだ国連経済制裁下にあった1990年代前半、カダフィに招待されて30人ほどのエジプト人記者たちとトリポリに行ったことがある(2011年3月6日付け「カダフィは禿げている」参照)。 当時、制裁でリビアは航空機の運行を禁止されていたため、カイロから隣国チュニジアのジェルバ島に飛び、そこから陸路、バスでトリポリに向かった。

 帰路、チュニジアに向かう我々のバスの後ろを大型トラックがずっと追尾していた。 バスの車内では、「あれは一体なんだ」と、記者たちは薄気味悪がった。 トラックはチュニジア国境を越え、空港までついてきた。

 トラックは、我々が乗るチャーター機の横の滑走路に停まり、荷物を降ろし始め、大きなダンボール箱が山積みにされた。 なんと、驚いたことに、これらの荷物は、訪問した記者一人一人へのカダフィからのお土産だという。 そして、その中身に、我々全員があきれてしまった。 メイド・イン・リビアの大型テレビだったのだ(無論、当時のテレビはブラウン管)。

 エジプト人記者の自宅にだって、テレビくらいはある。こんなもの持って帰ったって、どうすりゃいいんだ、と文句を言いたくても、もう遅い。 荷物の機内積み込みは始まっていた。 そもそも、独裁者カダフィに「要らん」と突っ返すなんてことをできたわけもない。

 案の定、カイロ空港の税関では、突然持ち込まれた数十台のテレビでひと悶着になり、通関するのに数時間かかった。

 とはいえ、迷惑ではあったが、この土産には、遠路はるばる来てくれた客への田舎のオジサン風の精一杯の歓待の気持ちを感じた。 独裁者の素朴すぎる側面だ。 西欧的概念である国民国家の最高指導者になっても、それは名目だけで、自分の心意気は伝統的部族社会の長であり、我々にそう振る舞った好意の結果がテレビだったのだと思う。

 語弊を恐れず言えば、「古き良き独裁時代」だった。

 おそらく、これまで君臨してきた中東のたいていの独裁者たちは、自分が悪人などと想像したこともないだろう。 彼らは、慈悲深く国民を庇護する父として、確固たる自信を持って政権を運営し、逆らう人間を躊躇なく殺して秩序を保ってきた。 

 今、中東の民主化運動を支持する姿勢をとっている米国も西欧諸国も、つい最近、「アラブの春」が始まる前までは、こういった訳のわからない独裁者たちの形成する中東秩序を肯定していた。 そこから恩恵を受けていたからだ。

 恩恵の内容は、石油を筆頭とする経済的権益とともに、政治戦略的には、米欧が支えるイスラエルの存在を維持することだ。 中東の独裁者たちは、アラブの土地を略奪して作られたイスラエルという国家を敵とみなしながら、米国に宥めたり脅されたりされているうちに、手も足も出なくなっていた。 だから、秩序が維持されるかぎりは、西欧型民主主義のなんたるかを理解できない独裁者のおつむの中がどうなっていようと、どうでもよかった。

 それでは、民主化運動で独裁政権が倒されると、これまでの中東秩序はどうなるのか。 多分、ほっとけば無秩序になる。

 中東イスラム世界の民衆は、根深い反イスラエル感情を持っている。 そのイスラエルに何も出来ない、あるいは何もしようとしない独裁者への不信感が、民主化運動のひとつのエネルギー源にもなっている。 イラクのかつての独裁者サダム・フセインがアラブ民衆から一定の支持を受けたのは、イスラエルとイスラエルを支える米国と真っ向からぶつかったからだ。

 独裁の重しを取り除けば、剥き出しの反イスラエル感情が噴き出す恐れが現実のものになる。民主化で続々と誕生する新政権が反イスラエル姿勢を強めるのは当然のことだ。 そうなれば、イスラエルの生存そのものが危険に晒されるかもしれない。 

 民主化を支援する米国と西欧諸国が決して見たくない「民主化の悪夢」だ。
 それを目の当たりにすれば、米国も英国もフランスも、そしてムバラクもカダフィも、みんな揃って「古き良き独裁時代」を懐かしむだろう。

2011年7月29日金曜日

美しすぎるパキスタン外相



 今月、パキスタン初の女性外相が誕生した。 その外相が7月27日、関係がぎくしゃくしている隣国インドを訪問し、インド外相S.M.クリシュナと会談した(画像)。 1年ぶりの両国外相会談だけに関係改善のきっかけになるのではないかと注目されたが、もっと注目されたのは、パキスタン女性外相ヒナ・ラッバーニ・カルの存在そのものだった。

 とにかく、若くて人目を引く美人だったのだ。 かつて、スリムなジーンズをはいた姿が新聞に掲載されたときは、伝統的イスラム社会のパキスタンで物議をかもしだしたそうだ。 インドの新聞は大はしゃぎで報じた。

 「モデル並みの大臣」

 「デリーの空もうっとり」

 「パキスタンの爆弾がインドに落ちた!」

 身につけたファッションのブランド、価格まで事細かく伝えた。 腕に下げている大きめのバッグは、エルメスのBirkin bag だそうだ。

 確かに、インド人ならずともビックリする美女である。 ということは、女に弱くて、国際問題にも弱い一部の日本の友人のために、多少の冷静な解説をしておく必要があるということだ。

 ヒナは、1977年1月19日生まれの34歳。 ビジネスマンの夫との間に2人の娘がいる。 父親はパンジャブ州のベテラン政治家グラム・ラッバーニ・カル。 1999年ラホール経営学大学で経済学の学位を取ったあと米国に渡り、2001年マサチューセッツ大学でホテル経営学のMBAを取得した。

 2003年父親の勧めで総選挙にパキスタン・ムスリム連盟カーイデアザム派から立候補し、国会議員に初当選。 2008年の選挙ではパキスタン人民党に鞍替えして当選。これまで経済関係担当の国務相などを歴任してきた。

 ラホールのポロ競技場では、上流階級向けの高級レストランPolo Loungeを経営している。 トレッキングが好きで、実際に登ったとは思えないが、カラコルム山脈の8000m級高峰K2、ナンガパルバットに行ったことがあるという。

 外相には、今月19日に就任したばかり。 この人事について、大統領アシフ・アリ・ザルダリは「国家運営の中心に女性を参画させようとする政府の姿勢を示すものだ」と語った。

 パキスタンといえば、国際的テロ組織アル・カーイダのメンバーを匿っていると疑われ、隣りのアフガニスタンの政治不安を引き起こしているタリバンとの関係も指摘され、国際的イメージは危険で怪しげな国家になっている。 そこに出現した若くて美しい外相は、パキスタンのイメージ改善に大いに貢献するかもしれない。 実際、長年の仇敵インドの報道ぶりがそれを示した。

 だが、美人外相の誕生は、決してきれい事ではない。 あくまでも魑魅魍魎のパキスタン政治のメカニズムが働いた結果であるはずだ。

 パキスタンの真の最高権力者として政治を動かしているのは軍だ。 軍の意向に逆らったり、波風を立てるような人物は政府から排除されなければならない。 ヒナの前任シャー・メフムード・クレシは野心家で、それゆえに交代させられたとされる。

 パキスタンの政治問題専門家ハサン・アスカリは言う。

 「軍に代表される権力者たちは、彼らの言うことをなんでも受け入れるヒナに満足している。 彼女なら問題を起こさない」

 つまり、真の権力者たちは手ごろな飾り物としてヒナを選んだのだ。

 また、大統領ザルダリが言うような「女性の参画」が現状のパキスタンで進むとも思えない。

 パキスタン社会には、封建制と呼べるような古い伝統がしっかりと維持されている。 大土地所有者の農園で、農民たちは農奴同然の身分に置かれている。 パキスタン国会とは大土地所有者たちの利害調整の場でしかない。

 ヒナの家も典型的な地主で、広大なサトウキビ・プランテーションやマンゴー農園を持っている。 彼女が米国でMBAを取得しようが、政治的立場は現在の社会構造を維持しようとする保守派である。 ヒナの外相就任と女性の本格的な社会進出には、なんの関連性もないのだ。

 一見、パキスタンの変化を示すような美人外相の誕生だが、実際のところ、権力者たちが現状維持を固めるために権謀術数をめぐらせた結果としか言いようがない。

 そう思って、ヒナの写真をあらためて見ると、客に媚びる水商売の女のようでもある、と言っては言い過ぎか。 そりゃ、いくらなんでも言い過ぎだ。

2011年7月12日火曜日

パラオで歩く

 東京の街、信号のない横断歩道で、歩行者のために停止しようとするクルマはほとんどない。 渡りかけた人がいてもブレーキをかけずにハンドルを切って避けるだけという人殺し予備軍の運転者だって珍しくない。

 電車の中で、老人や身体障害者を無視して座席に座り続ける他者への無関心さ、非社会性と同根の、優しさが欠落した人間たちの姿だ。 こんな冷淡な人間たちの棲むところを文明社会とは呼びたくない。

 東京から南へ3000km。 太平洋のミクロネシアと呼ばれる一帯に浮かぶ小さな島国パラオ。 1年ぶりに、そこに住む知人と酒をくみかわしに行ってきた。

 パラオは、19世紀以来、スペイン、ドイツ、日本の植民地となり、太平洋戦争のあとは米国の信託統治領となった。 独立したのは1994年。 本当に小さな国だ。 現在の人口21,000人は世界232か国中219番目。

 植民者たちはパラオ人を原住民とか土人と呼び、まともな文明人として扱ったことはなかった。 民主主義の米国にしても信託統治時代は、zoo theoryと揶揄された政策 、つまり、住民を動物園の動物たちのように飼い殺しにする政策を取った。 冷戦期、太平洋の軍事戦略上、重要な地理的位置にあったパラオを軍事拠点として確保するため、米国は莫大な経済、財政支援で政治的、経済的安定を維持した。 独立後も経済的自立は難しく、米国からの援助は続いている。

 今、パラオは世界的なダイビング・スポットとして注目を浴び、美しい珊瑚の海を目指して、多くの日本人が訪れている。 だが、彼らにしても、海中に舞う小魚に対する以上の関心をパラオの人間たちに示しているとは思えない。

 ウェブでも本でも、パラオの観光ガイドを見れば歴然としている。 ”美しい珊瑚礁”や”巨大なジンベイザメとの遭遇”はあっても、人に関する情報は無に等しい。 あったとしても、日本統治時代にパラオ語になった日本語の紹介、例えば、ブラジャーがチチバンド、といった程度でしかない。

 つまり、パラオ人は、日本人から今でも南洋の土人扱いされているのだ。

 だが、社会的弱者を無視し、歩行者をひき殺しかねない運転をする日本人がパラオ人を見下すのは、天地がさかさまの論理だ。

 パラオの最大都市コロール、と言っても日本の村程度の規模だが、街の中央を通る道路はクルマが多い。 この国に交通信号はひとつもないが、横断歩道はいくつもある。

 東京と逆なのは、人が横断歩道の手前に立つだけでクルマが止まってくれることだ。 横断歩道のないところを渡っても、クルマは徐行してくれる。 クルマが人に、とても優しいのだ。 道路を歩いて渡るのが、とても気持ちいい。

 パラオの社会には、人間関係のハーモニーがあるのだ。 これこそが文明であって、他者を無視する世界を支配するのはジャングルの掟であって、文明社会ではない。

 パラオ人は怠け者で働かないと、外国人は卑下する。 だが、これも当たらない。 彼らは働く必要がないから働かない。 米国の莫大なzoo theory 援助のおかげで、彼らは働かなくても十分生活が成り立つのだ。 日本からの援助もばかにならない額になっている。

 冷戦は終わったが、中国が太平洋へ軍事的に進出する動きをみせている。 米国は中国を牽制するために、パラオの戦略的重要性に再び目を向けているはずだ。 つまり、これからも米国のパラオ経済支援が続くということだ。 だから、パラオ人はまだまだずっと働かないで生きていけるだろう。

 だが、彼らは根っからの怠け者ではない。 パラオ人は米国市民権を持っており、米国本土へビザなしで行くことができる。 多くの若者たちは米国の大学に入り、卒業後も本土に留まる。

 米国では働かなければ生きていけない。 パラオでは働かないパラオ人も、米国では働くのだ。 パラオ人を怠け者と見くびってはいけない。

 われわれ日本人も、パラオ人からクルマの運転を習って、文明人に少しでも近付こうではないか。   

2011年7月7日木曜日

ありがとう、キム・ヨナ!!

 キム・ヨナ、氷上で美しすぎる君は、国際オリンピック委員会総会という外交の場でも、十分魅力的だった。 南アフリカのダーバンで開かれた総会で、2018年冬季オリンピックを韓国の平昌に招致しようと、広報大使として訴える君の誠実な姿は、一アスリートを超え、人間としての大きさをもみせてくれた。

 そして、7月6日。 「2018年は平昌に決定」の朗報が飛び込んできた。

 キム・ヨナ、ありがとう。 おかげで、2020年夏季オリンピック招致に偏執狂的にこだわる東京都知事・石原慎太郎の野望に対し、かなりの打撃を加えることができた。

 冬季と夏季は異なるオリンピックだが、それでも国際オリンピック委員会の多くの委員の心情は、平昌→東京と2回連続のアジア開催に強い反発があるとみられている。 2018年平昌招致が決まれば2020年東京招致が遠のくのは間違いない。

 キム・ヨナよ、非力な東京住民は石原の野望打破のための武器をまだ蓄えていない。 この現状では、君の魅力で2018年冬季を平昌に引き寄せるのを静かに応援するという他人頼みの消極的、心情的手段しか持ち合わせていなかった。

 キム・ヨナに続いて、われわれ東京住民も、東京招致の野望にとどめを刺すために動きださねばならない。

 われわれにオリンピックなんか必要ない。 東日本大震災復興のシンボルなんかいらない。 カネがあるなら、せいぜい東京―青森間の自転車道路でも建設しようではないか。 シンボルだったら、それで十分すぎる。

 さあ、立ち上がろう!! キム・ヨナに恩返しをしようではないか。

2011年6月21日火曜日

被災者を食いものにする東京五輪



 東京で最後に蛍を見たのは、いつだったろうか? 天の川は? 国道246号をクルマの合い間を縫って歩いて渡ったのは? 小川でメダカやヤゴを取ったのは? 畑からトマトやキュウリをかっぱらったのは? 大都会に残っていた長閑な余裕空間が消え始めたのは、1964年開催の東京オリンピックの準備が始まったころだった。

 今でこそ、あの祭典は、戦後日本の復興を象徴する歴史的イベントなどと後知恵の評価がなされているが、当時、東京の街はどこも工事だらけで埃っぽく、騒々しく、多くの人々が”国家事業”に辟易としていた。

 無論、世界最高峰のアスリートたちの肉体的美しさを目の前で見る体験は素晴らしかった。 だが、この時代は、東京が醜悪さを加速度的に深めていくのと同時進行だった。

 あの東京オリンピックがなかったら、今の日本は違う姿になっていただろうか。 おそらく、さして異ならない。 やはり、蛍も天の川も見えない東京になっていた。 それが「戦後復興」「経済発展」だった。

 なぜ、1964年東京オリンピックは開かれたのだろうか。 その開催を最も欲していたのは、太平洋戦争の惨憺たる結末で国家というものから離反していった日本人を、もう一度呼び戻し、国家の求心力を強めようと画策していた国家主義者たちだ。

 東京都知事・石原慎太郎が2016年のオリンピック招致失敗に懲りず、6月17日、その次の2020年招致に乗り出す意向を表明した。 報道によれば、石原は「大震災から立ち直り、9年後の姿を披瀝するならば、世界中から寄せられた友情や励ましへの返礼になる」と語って、「復興五輪」の理念を掲げることを示した。

 石原の表明に追随して、19日には、読売新聞と産経新聞が東京五輪開催を支持する社説を掲載した。 「復興の証しに聖火を灯したい」(読売)、「今度こそ国一丸で実現を」(産経)。 石原のこれまでの主張に近い国家主義的色彩の論調を掲げてきた、この二つの新聞が支持表明をしたことは当然であろう。

 東京は、2016年の選考では「南米初」をアピールしたリオデジャネイロに惨敗した。 そして、読売の社説は、 「東京は、なぜ五輪を開くのか、という明確なメッセージを欠いていたことが、前回の招致失敗の教訓といえよう。 ……大震災からの復興の証しとしての五輪を、という今回の主張は、各国の共感を得られるのではないだろうか」と、やや自信なさげに書いている。

 それはそうだろう。 こんな書き方では、初めに五輪ありきで、「復興の証しとしての五輪」は招致実現のための口実にすぎないことが見えすいている。 ウソをつくのが下手くそなナイーブすぎる論説委員が書いたのだろう。

 石原の招致表明にしてもそうだ。 2016年招致のとき、声を大にして主張した「地球環境の大切さを訴える五輪」には一言も触れなかった。 地球環境では十分アピールしないから、今度は「大震災からの復興」というわけだ。 「地球環境」はもうどうでもいいのだろう。

 恐ろしいことだ。 2020年の選考で東京が落選すると、東日本大震災の被害者たちも、地球環境と同様、使い捨てされるかもしれないのだ。

2011年6月17日金曜日

ドイツのもやし




 ドイツで、強い毒性を持つ腸管出血性大腸菌(EHEC)に汚染された食べ物で多くの死者が出たというニュースが伝えられた。 しばらくして、その食べ物とは「もやし」と特定されたと日本のメディアは報じた。

 「もやし」と聞いて意外と思った日本人は多いだろう。 「ソーセージとジャガイモしか食わないドイツ人」というイメージが一般的だろうし、そう言ってドイツ人をからかっても、真っ向から否定するドイツ人は少ないからだ。

 ドイツ人がもやしを食べるとすると、一体どうやって食べるのだろうか。 素朴な疑問ではないか。 取材の甘い日本のメディアは教えてくれない。

 で、東京に住むドイツ人の女友達にきいてみた。 だが、あまり要領を得ない。 ドイツ人はもともと食べないが、最近の中国料理ブームで食べるようになったのではないか、と推測するが、中国料理なら、もやしに熱を通して調理するだろう。 今問題になっているもやしは、生で食べた人が犠牲になっている。 もやしを生で食べるのはアジアでも、あまり一般的ではなく、ベトナム料理の生春巻きやフォー(うどん)など限られている。 味覚音痴のドイツ人なら生で食べかねない、などとは言わない。

 結局、東京のドイツ大使館に電話できいて、疑問は解けた。

 彼らが食べているのは、もやしであって、もやしではなかった。 アルファルファなどのスプラウト類、もやしと同じ豆の新芽だが、かいわれ大根みたいに細くて歯ごたえは、日本人の食べるもやしより、はるかに柔らかい。 サラダ用スプラウト Salatsprossen だったのだ。 これなら日本のスーパーにも売っているし、日本人もサラダで食べる。

 英語だったらsprout、和訳すれば「もやし」だが、「スプラウト」と「もやし」は似て非なるものだ。

 だが、その危険性となると、「もやし」も「スプラウト」もへったくれもなく同じらしい。

 昨年(2010年)8月、イングランドとスコットランドで生もやしとの関連が疑われるサルモネラ感染症が多数発生し、英国食品基準庁(FSA)は9月に、もやしの「調理法に関する助言」を公表した。

 ①完全な加熱調理。大きなもやしを炒め物に加えるときは数分間煮立てる②生もやしは徹底的にすすぐ③茶色に変色、あるいは異臭を発するものは食べない④使用期限を厳守⑤冷蔵庫に保管etc

 Wikipedia日本語版の「もやし」の項目にも、「豆もやしは大腸菌をはじめとする細菌が増殖しやすい食品であり、消費者が購入する時点で平均して1g当たり100万~1000万の細菌があるといわれている。そのほとんどは人間に害のない細菌だが、食中毒菌についても増殖しやすい食品であるといえる」と記されている。

 米国では、スーパーに売られているスプラウトの袋に「生で食べないように」と米国食品医療局(FDA)の忠告が書かれている(冒頭の画像)。

 それでは、日本ではどうなのか。

 近所のスーパーに行って袋を詳細に見てみると、確かに、裏に小さく、誰も気付かないように記してあった。 「必ず熱を通してからお召し上がりください」と。 いかにも、姑息な日本的手口。 東電と同じで不都合なことは目立たないようにさせる。

 1袋38円、罪のなさそうな真っ白いもやしが実は、とんでもない危険性を秘めていたのだ。

 つまり、ドイツで起きた大腸菌騒ぎが日本でも起こりうるということだ。 これまで日本で、もやしの安全性などが注目されたことがあったのだろうか。 ユッケ同様、信じて食べると殺されるかもしれない。

 もやしを沸騰した湯に軽く通すだけで、胡麻油と塩を振りかける。 しゃきっとした歯ざわりが大好きだ。 ビールにも、ワインにも、日本酒にも、焼酎にも合う 得意のアペタイザーだが、とりあえずメニューから外すことにしよう。