2016年10月30日日曜日

”オモテナシ”は余計なお世話ではないか


 初めての外国体験はインドネシアだった。 1979年。 ずいぶん古い話だ。 到着した翌日、首都ジャカルタの中心部にある独立記念広場を散歩していたとき、インドネシア人の男が話しかけてきた。 追憶の中では、最初の見知らぬ外国人との会話らしい会話だ。

 優しい表情に悪意は感じられなかったので応じたが、到着したばかりでチンプンカンプンのインドネシア語だったので、まったく理解できない。 彼はそうとわかると、上手ではないが英語に切り替えた。 

 そのとき、いろいろなことを取りとめもなく話したと思うが、鮮明に記憶に残っている彼の言葉がある。  「インドネシアにいるのに、どうしてインドネシア語を話さないのか」と彼は言ったのだ。

 これは、ちょっとした驚きだった。 日本人が東京の街で初対面の外国人と会話しようとするとき、たいていは、日本語ができないだろうと思って、下手な英語を使おうとするのではないか。 だが、インドネシア人の彼は、インドネシア語で話しかけ、初対面の外国人にインドネシア語を勉強することを勧めたのだ。 

 以来、いろいろな国に行ったが、たいていの国の人たちは、外国人であろうと自分たちの言語で話しかける。 こちらが理解できないとわかると、「困ったヤツだな、こいつ」という顔をする。 こっちは「申し訳ない」という気分になる。 そのあと、運が良ければ、世界の共通語、英語に切り替わる。 だが、そんな幸運にはなかなか巡りあわず、トンチンカンな会話が進行する。

 だが、それでも、なぜか簡単なコミュニケーションは成立する。 「食事をしたい」、「トイレに行きたい」、「バス停はどこ?」、「ホテルを探している」・・・。 訪れた国の人たちとの、ほんのささやかな交流。 その積み重ねが旅の味わいになる。  

 今でも、毎年、何回かアジアの国々を中心に、行き当たりばったりのバックパッカー旅行をする。 言葉も通じない見知らぬ人々との様々な接触が面白い。

 今まで経験したことはないが、どこかの国で通りを歩いているときに、「外国人ですか? なにか困っていたら助けてあげますよ」と、英語や日本語で話しかけられたら、どう感じるだろうか。

 おそらく、まず警戒して、何が狙いか疑うだろう。  どこの国でも外国人観光客に話しかけてくるのは物売り、客引と相場が決まっている。 善意とわかっても、きっと「余計なお世話」と思うだろう。 オレの旅に口出しするな、と。

 旅の醍醐味は、言葉が通じなかったり、道に迷う不便さだ。 それがスリルに満ちた冒険なのだ。

  2020年の東京五輪が決まって以来、テレビを見ていると、日本では”オモテナシ”のキャンペーンが大展開されていることがわかる。 道路標識などに英語などの外国語を加えて、外国人に”優しい”街にするとか、商店街のオバチャンたちが外国人観光客のために英会話の勉強に励むなどというのが、はやりの話題として報じられている。

 ボランティアたちは通りかかった外国人に、緊張した表情で Can I help you? と話しかけて2020年へ向けての練習を開始している。

  もし自分が外国人で日本を観光で訪れたとしたら、この”オモテナシ”は鬱陶しくて堪らないと思うだろう。 相手に悪意がないから、うるさいと感じても追い払うのが難しい。 実に困った存在になるだろう。

 外国に行ったら、言葉が通じないのは当然で、わからないことだらけに決まっている。 だからこそ新しい発見ができる。 そして、それが旅なのだ。 

日本で、外国人と偶然に会話する機会が生まれたとき、例えば、東京のバーのカウンターや北海道のスキー場のリフトで隣りあわせになったとき、初めて会ったインドネシア人が教えてくれた接し方をすることにしている。 最初は日本語で話してみるのだ。 多くの外国人が片言の日本語で懸命に応じようとする。 日本語で頑張った末に、もうこれが限界だとばかりに「ごめんなさい」と謝って、英語に切り替える人もいる。 

 多くの外国人が、日本にいるなら日本語を話したいと思っている印象がある。 東京・麻布の金持ちや外交官向けのスーパー National で日々の買い物をし、日本の生活を知ろうとも馴染もうともしない外国人は、日本語にも関心がないだろう。 だが、そんなスノビッシュな外国人は、ほんの一握りの数であろう。

 外国人は日本語を理解できないと決め込むのは、ある種のracismかもしれない。


 下手な英語で近寄ってくる”オモテナシ”が、外国人にとってわずらわしい日本人の過剰サービスという意味にならなければいいが。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

鈴木さんの言う通りです!!!!